コメディ・ライト小説(新)

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.15 )
日時: 2018/07/31 22:47
名前: あんず

#8 『水飴空』
 
 
 雨上がりの空をのぞき込んだ。地面に溜まった青。水たまりに映る空は鏡のように私を写していた。見飽きた顔がこちらを見つめ返している。お気に入りの長靴の底を見せ合うように、彼女と足を重ねていく。水面の私を踏まないように、鏡合わせに歩けるように、顔は真っ直ぐ前を向く。真っ青。夏だ。夏の色と、滝のような雨の名残が、今この空間を日常から切り離している。歩く先に少しずつ波紋を描きながら水を踏む、踏む。雲の眩しい鮮やかな空を進んでいる。上も下も空。私が踏みしめる、曖昧に硬いコンクリート。

 並行世界みたいだねえ。もごもごと呟きながら目を閉じる。道はまっすぐ。何度も通った驚きのない場所だ。少しくらい見えなくても大丈夫だろう。ね、わたし。足底を合わせた向こう側に問いかける。そうだね、と声が返る。そうだよ。私達にとって通い慣れた暑い暑い舗装道路だ。ゆっくり行こう。踏みしめながら、車には気を付けて。そっちは晴れてるかい。いや、そっちも雨上がりかな。だから私も、わたしも、鏡合わせに歩けるんだ。買ったばかりの長靴の底で踏みしめる。向こう側の空。
 
 例えば、それはパラレルワールド。例えばそれは、もう一人の私。違うわたしが息をして、別の雨に打たれて、おんなじ水たまりを覗き込む。そんな妄想、かもしれない。誰かに話しても笑われるだろうな。それもいいな。変な子だと思いながら、皆も少しだけ雨上がりを気にするかもしれない。鏡の向こう、きっと私を思い出して。それでも水に映ったあなたのことは、私とわたしの秘密のまま。ね、次の夏、皆はそのことを忘れているんだ。
 
 そっちは暑いかい。こっちは驚くほど暑いよ。まだ七月も終わってない。蝉も鳴くのをやめてしまう。蚊も飛ぶ羽を休めてしまう。今度の夏は、ひどく音がしない。熱と、光と、体から抜けていく水分だけが夏の証だ。蝉が鳴いたってうるさいだけだし、蚊が飛んだって煩わしい。それなのに消えると何故だか寂しい。そう、思っているくらいが丁度いいのかもしれない。恋しく思ったまま夏が過ぎていく。また一年が終わってく。私もぼんやり、暑さを滲ませている。
 
 雨は急に降った。湿度ばかりが高かった梅雨の代わりのように、バケツをひっくり返したように降り注いだ。花火大会も無くなった。今年一番のはずだった浴衣は、少し切なく部屋の隅に蹲っている。ごめんね、着てあげられなくて。神様も疲れてしまったかな。それでも見捨てないでほしいのだけれど。暑すぎる夏は、鳴かない蝉は、花火の上がらない夏は、夏では無いみたいだ。もう少し、過ごしにくくてもいいかな。蝉の声に耳を塞いで、蚊取り線香に火をつけながら、花火を見よう。ね、それも素敵でしょう。足先に声を落とす。
 
 そうだね、声が鳴る。そうだよ。息を吸う。
 
 水たまりが途切れる。目を開く。振り返ったそこに、まだ向こう側は映っている。地面に落とし込んだ様な空の色。お気に入りの長靴。少しだけ揺れる私の歩いたあとに、小さな波紋が見える。それじゃあばいばい。また。雨が降ったら出会おうね。次は、もっと夏らしい夏に文句を言おう。蚊取り線香を焚いても蚊に刺されただとか。蝉の声はうるさいだとか。花火と浴衣の帯の色だとか。そんな妄想、想像、現実、どれでもいい。だからきみに、話に来よう。楽しいことがあった次の日に雨が降るといい。ね、そうでしょわたし。
 
 いつのまにか虹が出ている。歩いてきた道の奥、最初の水たまりはすでに乾き始めている。ラムネでも買って帰ろうかな。暑すぎる夏の、せめてもの思い出づくりだ。瓶のやつがいい。少し吹きこぼしながら開けて、ビー玉越しに夏を見よう。ね、なんだか風流でしょう。 
 そうだよと呟きながら、長靴の水を高く高く弾いた。暑い。まだ、きっとこのまま、夏だ。終わりは遠い。だから憂鬱なのに胸が高鳴る。雨が降ればわたしに会える。鏡越しよりそれは素敵だ、多分。そうだといい。
 
 風鈴が、鳴る。麦茶を入れたグラスのような音。風が出てきたらしい。こればかりは夏らしいなと、暑すぎる太陽に思わず笑いかけた。
 

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猛暑に魘されて書きました。暑いと蝉も蚊も活動量が低下するそうです。