コメディ・ライト小説(新)

Re: 透明な愛を吐く【短編集】 ( No.16 )
日時: 2018/07/30 19:01
名前: あんず

#9 『星の底』
 
 
 笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。また、夏が来る。たったそれだけのことで、心臓が早鐘を打つ。笹の葉よりももっと上、そこに黒よりも深い夜色の空が広がっている。
 
「何か書く?」
 
 後ろから聞こえた声に首を振った。紙をつまむ指を放して、弾く。その瞬間、誰かの願い事を載せた紙切れが勢い良く宙を舞う。ぷつり。あ、と声を上げる間もなく、そのまま風が攫っていく。幸せになりたい、そう刻まれていた誰かの文字が遠く遠くへ飛んでいってしまう。瞬きの間に。
 
「あーあ。何してんの、嫉妬?」
「違うよ」
 
 柔らかそうな長い薄茶の髪が、ひょいと視界の端に現れる。細い指先がじっと短冊の消えた先を指差した。それから笑う。誰かの願い事、もう空まで届かないよ。そう言って、あまりにも嬉しそうに笑う。耳に響く優しい声。誰かの願い事が息を止めた。きっと、そのことが嬉しくて仕方がないのだ。
 輝くように笑いながら、その真白な手が短冊を吊るした。薄いピンク、彼女が好きな色。そこに書かれているだろう、可愛らしい丸文字を覗き込む。やめてよ、と頬を膨らますような声がした。それと同時に、黒インキで書かれた文字が目に入る。そこに書いてある言葉に、思わず笑った。口元が緩んで息が漏れた。それから、そばにあった短冊とペンを手に取る。
 
「やっぱり書く」

 何それ、とからかうような声を無視して、細いペン軸を握りしめる。願い事は本当は、いくつもいくつもあった。けれどここに書く言葉は一つ、もう決まった。
 目を閉じて、軽く深呼吸をした。開く。紙を走っていく黒インキ。少しだけ鼻につく、油性ペンの匂い。真後ろの海岸から聞こえてくる、磯の匂い。誰かが捨て去った、数本の酒瓶から漂うアルコールの匂い。
 きゅっと掠れた音を立てて、ペン先を離した。きれいに真ん中に並ぶ文字に満足して、短冊を夜空へと掲げてみる。薄いピンクの向こう側に、遥かな濃藍が透けていく。私の手の中の紙切れを覗き込んで、彼女はなんとも言えない、苦笑にも似た表情をした。その顔を見て私は笑う。得意げに。手元の短冊が、風にさらわれそうに震えている。
 
「それでいいの、願いごと?」
「うん。これがいいの」
 
 何か言いたげな顔をして、はくはくと口を動かしてまた閉じる。どこか滑稽な彼女を尻目に、私は背を伸ばして笹の葉へ触れた。私が届く、一番高いところへ短冊をくくりつける。風になびく、二人分の短冊。こうすれば夜空からもよく見えるでしょう。そう言うと、ようやく彼女は口元を緩めた。
 
「よくばりめ」
 
 それにつられて笑いながら、額を小突く。別にいいのだ。よくばりでも、傲慢でも。日頃の行いからしても、天の河が私の願い事を聞いてくれるとは思えない。だからせめて、一等よく見える場所へ飾っておこう。思いがけず、天上の彼らに届いてしまうくらいに。ずっと遠くに。
 
「行こうか」

 呟きとともに、そっと重ねられた手を握り返す。うん、一言返事をして、風に吹かれる緑に背を向けた。人気のない海の家のような廃屋。遠い昔には人がいただろう寂しさが、その場に澱んでいる。角に立てかけられた、とっくに古びたこの笹は、幾人の短冊を吊り下げただろう。どれほどの人が、この緑に願ったろう。
 さくさくと軽い砂を踏む。繋いだ手を揺らしながら、呼吸の音ばかりが小さく響く。目の前に広がる海は、真っ暗に私達を待っていた。
 
 ✱
 
 一緒に死のうと、誓いあったことがある。もう昔々、私達が、あの鬱屈とした青い場所にいた夏。大人になった気でいたのに、制服を身にまとった窮屈な時間。陰湿になっていく青春。きっとあの頃、みんな苦しかった。進路に悩み、友人に悩み、何もかもに悩み、空気は澱んでいた。

「二人で、かえろうね」
 
 彼女の細い指が、私の手を握りしめていた。その白さと、食い込んだ爪の丸みばかりを覚えている。かえろう。帰る、返る、孵る、還る。彼女の声はゆっくりと滲みて、私の脳みそに絡みついた。死にたい、よりも、もっとずっと穏やかな約束。この息の詰まる夏から、逃れるための言葉。遠くへ、優しい場所へ。見つめる目に一つ頷いて小指を絡めた。懐かしい旋律とともに、約束が紡がれていく。見えない糸が私達を繋いでくれる。
 その約束は、危うい年齢の誰もがするかもしれないありふれたものだった。死にたい。そればかり呟いて、手を繋いでいたかった。そして私達の場合、少しだけ、他の人よりも本気だった。それだけだった。だから約束はまだ息をしている。何故だか、そう確信していた。いつの日か、いつか、かえるのだ。
 
 その「いつか」は、唐突に来た。中身のない、空っぽの自分の腕を抱きしめた瞬間。自分を満たすものが潰えた感覚。ああやっと。縋るものはもう、あの言葉しかなかった。古びた約束が脳内を埋め尽くす。
 痛む体を引きずって、震える手で握りしめた金で切符を買った。手のひらに移った金属の匂いが鼻を刺す。訝しげにこちらを見る警備員から目を逸らしながら、人気のない改札を通る。機械から戻ってきた少し温かい紙切れを、ぶかぶかのスウェットに大切にしまった。この小さな切符が、私をずっと先まで連れて行ってくれる。そう思えばポケットが少しだけ、温まる気がした。
 薄暗いホームのベンチに座ってから、ようやく携帯の電源をつけた。ぼうっとした人工的な光で腫れた腕が闇に浮かぶ。あんまり良い眺めじゃない。長袖でも持ってくるんだった。半袖を無意味に伸ばしながら、なんとなく携帯を持て余す。小さく震え続ける指で、ボタンを一つずつ押していく。時代遅れのカチカチという音が心地よかった。
 
──かえりたい。
 
 たった一言送った。果たしてまだ使えるのか、それすらも分からないメールアドレス。SNSのアプリばかりのこのご時世、お飾りの電話帳の片隅でくすんでいた文字列。もう何遍も見返して、いつしか覚えてしまった。
 返信は、きっかり五分後に来た。心のどこかで期待をしていて、それでも来ないかもしれないと怯えていた。それなのにあっさりと、私を待っていたようにメールは届いた。体が大きく震える。届いた返信を覗くのにまた、長い長い時間をかける。息を吸って、吐いて、それでも決意が固まらないから目を閉じる。そのまま、ボタンに指を滑らせた。カチリ、と伝わる小さな音に薄く目を開ける。
 
──かえろう。

 彼女の文字が、そこに静かに並んでいた。戻ってきた言葉に視界がぼやける。安堵にも似た、どうしようもない寂しさで気持ちが悪い。それでもほっとした。画面の向こう、どこかにいる彼女の時間もまた止まっていたことに。私達は同じ時間、ぐずぐずと這いつくばって生きていたのだ。確かにあの約束は息をしている。
 何かに祈りたかった。ひたすらに許しを戀いたかった。もしも返事が来なかったらどうしていただろう。一人きりではきっとかえれない。夏の日からは逃げられない。分かっている。だからこそ今、だれかに祈りたかった。
 示し合わせたように来た終電を踏み締めながら乗り込んだ。ぼんやり光る画面を、滲む視界で何度も読む。並ぶ文字が消えないように、何度も何度も。ふと、窓の外へ視線を投げる。誰もいない車内が規則的に揺れる。生温いエアコンの風が足元を撫でた。彼女へ近づいていく。現実が遠く褪せていく。
 夏が来る。もうすぐそこまで、迫っている。
 
 ✱

 足元に揺らめく水が肌を包んだ。風は生温い吐息のように吹いている。生きているみたいだ。想像よりもずっと温かい海を、手を繋いで歩いていく。転ばないように一歩ずつ。水面は闇の中でもお喋りに煌めいている。月明かりがこんなにも夜を照らすことを、初めて知った。
 
「宇宙に願って叶うならさ、海だって、叶えてくれそうだよね」
 
 鼻歌まじりに聞こえてくる機嫌の良い呟き。波の音がざあざあと響くなか、その声はよく通った。目線は海に。なんとなく追ったその先の水面に、思わず口をつぐむ。宇宙だ。鏡面のように光を跳ね返す濃藍に、天の河がそのまま映り込んでいた。急に足元がなくなったような不安と、星に向かって沈んでいくような錯覚。上と下、手を伸ばした先でさえ、どこまでも宇宙が透けている。二人、星の中を泳いでいる。
 
「……叶いそうだね」
 
 そうでしょ。今度は彼女が得意げに笑う。ふやけた柔らかい指先に力が篭もる。海がひたひたと、腰の高さまでも濡らしていく。砂浜はすでに遠い。足元が今にも滑りそうになる。何もない。思わず震えて、それでも漠然とした安堵が胸に広がっていた。だから大丈夫だと、根拠もなくそう思う。
 
「ね、どうせなら海にも願い事しようよ」

 突然、彼女が顔を上げた。良いことを思いついたとでも言うように手を叩く。
 
「さっき笹に吊るしたのに?」
「星にも海にも伝えたほうが叶いそうでしょ」
 
 よくばりめ。さっきの仕返しに言い返した。弾けるような笑い声が二つ、浪の上を滑っていく。つられるように空を見上げた。滅多にお目にかかれない、教科書の写真と似た天の河。満点の星空というのは、こういう空を指すんだろう。綺麗だなんだと言うよりも、吸い込まれそうで怖くなる。宇宙は思っているより美しくなんかないよ、そう呟いて頬が緩んだ。この気持ちもまた、安堵だった。
 幸せになりたい、誰かが書いたあの願いも、海へと落ちていっただろうか。幸せになりたい。途方もなく大きな、漠然とした祈り。願った誰かが幸せだといい。自分のために思う。私の願いも彼女の願いも、同じように海に溶けて、きっと叶うといい。私だって、幸せになりたかった。
 
 いつしか自然に足が止まった。ブイからブイへ、張られたロープの少し先。もう胸元近くまで水が揺らぐ。それをじっと見つめながら、握った手を痛いほどに繋ぎ直す。ここから先は、戻るための場所ではない。かえるための入り口。一つ踏み出せば足場がないことを、私も彼女も知っていた。そのために来たのだ。
 かえろう。どちらが先ともなく、おんなじくらいの高さの肩を抱きしめる。あの古い夏から少しも変われなかった、細い肩だ。温もりはまだ残っている。互いに縋りつくものはもう、きっとそれしかない。ゆっくりと視線を合わせる。思わず微笑んだ。彼女も。
 とぷん、と拍子抜けするほど小さく柔らかな音を立てて、視界が染まった。
 
 夏が絡みつく。待ち構えていたように、それは私達を縫い止めようとする。逃さない、と言われた気がした。行かないでと、乞われた気がした。それでもその手を振り払って、宇宙へ、飛び込む。
 
 生温い水は、まるで胎内のようだった。覚えているわけがないのに。それでも私は、たった一人の胎内から生まれた。生温い羊水に浮かんで夢を見た。そうやって遠い昔、私も彼女も水に溺れて生まれたのだ。あの温かい場所へかえりたい。孵りたい。そう願ってやまないのは、何も死にたいからじゃない。あの世には行きたくない。この世にも生きたくない。だからかえる。きっと、ただそれだけのこと。
 ごぽり、泡が昇っていく。鼻から、口から、濁った酸素の代わりに透明な水が満ちていく。苦しくて涙が出た気がしたけれど、もう何もかもぼうっとして、それも気のせいだったかもしれない。全部が塩辛くて、甘くて、涙のようだった。わたしは今、涙に溺れている。かたく抱き締めあった手を一つ離して、彼女の腹に右手を乗せた。薄い腹はきっと、すぐに水に押しつぶされてしまうだろう。それでもまだ温かかった。母のようだなと、似ても似つかない、この目の前の女の腹を懐かしく思う。
 
「──、」
 
 彼女の唇がゆっくり動く。もう逃げるほどの空気の塊もなくて、その動きは薄暗い中、月明かりによく映えた。にっこりと笑みを形作る。私の唇も不器用に笑う。もう一度、願い事を呟いた。短冊は今もきっと、あの寂しい緑に揺れている。水はもう、ずっと生温い。
 ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中を水が洗い流していく。溶けてしまいそうだ。抱き締めた腕、おんなじ体温。もう一度強く手を握った。おやすみ。囁くように開けた口の中で、水がふよふよ揺れている。海月になったみたいだ。本当になれたらいい。きっとどこまでもかえれる。私達は海の月。夏だってきっと、ここまでは来れまい。そう思うと途端に瞼が重くなった。その中を、誰かをあやすように呟きながら漂う。かえろう。
 今度こそ上も下もない。ただ溶け合うように落ちている。逆さまの星の中をかえっていく。触れた肌は柔らかい。
 
 ひどく、こうふくな気分だった。
 
 
✱✱✱
 

 雑談板の小説練習スレッド「添へて、」さんにて投稿させて頂いた短編です。夏っぽく海のお話です。素敵なお題ありがとうございました。