コメディ・ライト小説(新)

Re: Banka ( No.6 )
日時: 2018/09/21 06:38
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「せんぱーい」
 六時限目の授業が終わり、早速部室に向かおうとしていたとき、その声は飛んできた。
「は?」まだ授業が終わって五分ぐらいしか経っていないので、教室にはまだほとんどの生徒が残っている。それらの視線は間違いなく僕と彼女――茅野都美に集中していることだろう。
「早く部室、行きましょうよ」
 初めは教室の外で喋っているだけだったが、いつの間にか中まで入ってきていた。やはり、彼女の独特な雰囲気は、こういう多くの生徒がいる中だと露骨に分かりやすく見える。
「ま、待ってくれ。職員室に部室の鍵取ってこなくちゃ……」
「もう取ってきてますよー」遮るように言う。待ってましたと言わんばかりに、得意げに部室の鍵を指で回していた。

「……じゃあ、行くか」
 先を進む彼女を追うように、教室から出る。その間、誰も何も言ってこなかった。普通クラスで目立つような生徒なら、こういうときクラスメイトに何か言われたりするのだろうな、と考えてみる。
 まあ、自己嫌悪している訳ではない。自分はクラスではそういう役割なのだと割りきっているから、悲しくもなんともない。

 将棋部の部室は、第二多目的室、という文字通りこの学校の最果てにある。特別教室棟三階の端っこにあり、生物準備室の横だ。
 授業中などは生物室に生徒が集まるのでまだマシだが、放課後になると誰も寄りつかなくなるので、少し雰囲気が怖くなる。あと、隣が生物室というのがなんか嫌、という三重苦に悩まされた全く損な部室だといつも思う。
「開けますよ、先輩」
 そう、茅野が扉を開ける。教室の中は締め切っていて不快な匂いで充満していた。
「昨日のままじゃないですか。この教室って使わないんですか?」
「使わない。第一多目的室ですら、今建設中のあの新校舎ができたら使わなくなっていくしね」
 言うと、彼女は窓の外のあの校舎を見つめた。窓を開けると、グラウンドを挟んだ向こう側なのに工事の音がここまで響いてくる。来年の十一月に完成予定とのことなので、実質僕があそこで過ごす期間は数ヶ月ということになる。
「ふーん、なんか、悲しいですね」
 そう、彼女は窓から目を離す。なんだか少し儚げだなと思っていると、彼女は机の所まで移動していた。確かに、情緒がないといえばないのかもしれない。

「そういえば、なんでここって部員が二人なのに部として認められてるんですか? 私がここに来る前は一人でしたし」
「将棋部はこの学校の創立当初からある伝統だからそう簡単に廃部させたくないんだとよ」
 説明していて全くいい加減な理由だと辟易するが、それはそれで筋が通っているのかもしれない。地味に将棋部が学校から消えたらちょっと切ないという気持ちは分からなくもない。実際に彼女もそこそこ納得したみたいで机の将棋盤の駒を並べ始めている。
 自分も窓側の椅子に座り、バッグから取り出したノートパソコンを机に置く。
「今日も対戦する?」
 再戦を望んでそうだったので、ふと聞いてみる。この部は今年度に入ってからずっと一人で活動していたので特にやることなど決まっていない。
「いや、今日はいいです。先輩はいつも何してたんですか?」
「僕はそうだなー、この将棋倶楽部42っていうサイトでいつもネット将棋指してるくらいかな、寂しいことに」
 すると、教室の扉側に座っていた彼女は立ち上がってこちら側に進んでくる。
「へー、それでそのパソコンなんですね。てっきりエロ画像でも見てるのかと思ってました」
「見ねえよ……」

Re: Banka ( No.7 )
日時: 2018/09/26 00:29
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 画面をのぞき込む彼女は、ちょっといいですか、と横にある無線マウスをいじる。そして、デスクトップにある将棋倶楽部42のショートカットをクリックする。
「やるの? でもおれのアカウントだよ」
「いえ、ちょっと先輩の名前と棋力を……。私もこれやってるので知っとこうと思いまして」
 そう言って、マイページを開く。僕の名前と段位が出てくる。別段隠したい訳ではないが、こういうのを人に見せたのは初めてだった。
「四段ですか、やっぱり強いんですね」
「三段と四段を行ったり来たりしてる感じかな。今が四段なだけ」
「ふーん」そう興味なさそうに呟いた後、彼女はおもむろにスマホを取り出した。「じゃあこのIDの人が部屋立ててたら別の人の部屋行くようにします」
 なんだそれ、と思っていると、彼女から思わぬ言葉が飛んでくる。「先輩と対局するのはもうちょっと後にしたいです。強くなった私を見てほしいですから」
 言いながら向こうの椅子に戻っていく彼女の後ろ姿はとても可憐で、美しかった。もしかしたら、茅野都美という人間は、僕が最初思っていたよりずっと純粋な子なのかもしれない。
「じゃあ六月の大会がちょうどいいかな。それまでお互い頑張ろう」
「はい! そうと決まったら練習ですね」
 彼女は、無駄に広い部室の端のほうにある畳に寝転び、スマホをいじる。畳は十枚以上あるが、別になくてもいいということでほとんど外していた。
 この角度からでは本当に将棋をやっているのか見えないが、いずれにしろここまで緊張感のない練習風景はかなり稀だろう。
「パンツ見ないで下さいよ?」
 悪戯めいて笑う彼女はうつむせに寝転びながら、短いスカートから伸びるすらっとした足をばたばたさせた。僕は、見ねえよ、とやはり返す。



「これが角換わりで、こっちが横歩取り」

 放課後、僕らはまた部室に集まっていた。僕も茅野も、あのときと違いもう夏服を着ている。
「ふーん、なんか難しそうですね……、角交換いつでもできそうで」
「難しい。だから初心者にはお勧めしないかな。やっぱり振り飛車のほうが」
 彼女とはあの日以来指していない。だから直接的に彼女の実力を計れてはいないのだが、毎日詰め将棋をしているらしいのできっと強くなっているのだとなんとなく察する。何より、彼女の取り組み方や姿勢に熱意を感じた。
 将棋はまず、居飛車と振り飛車という二つの戦型に大別され、そこから枝葉に別れていくつもの戦法が存在している。簡単に言うと飛車を動かすのが振り飛車で、初期位置のまま動かさず飛車先の歩を突いたりして攻めていくのが居飛車である。僕は居飛車を主に指しているが、覚えたての頃は振り飛車の四間飛車という戦法しか指していなかった。
 将棋の二大戦型。どちらがいいかは一概には言えないが、共通することは、とりあえず強くなるまでは指す戦法をできるだけ絞ったほうがいいということだった。これは将棋に限った話ではない。単純に指す形を絞ったほうが、得られる経験値が増えて強くなりやすいというのは多くのプロが言うことでもある。

「やっぱり振り飛車で正解なんですね。私は中飛車指してますけど、ネット将棋とかでも割と勝てるから多分戦型がいいのかなって思ってました」
 そう彼女が嬉しそうに見せてくるスマホの画面には「2級」と書かれていた。
「マジ? 強くなったなあ」
「ふふふ」笑いながら、彼女は自慢するように続ける。「ほら見て下さいよ。ここ、初段の人に勝ったんですよ!」
 そう言いながら、棋譜を見せてくれる。盤が表示され、手を進めたり戻したりできるらしい。彼女は先手中飛車を上手く指しこなし、後手の居飛車を粉砕していた。
 彼女も言うとおり、先手中飛車は覚えればかなり勝ちやすい戦法である。中飛車自体を咎める作戦は今現在ないので、単純に強制的に自分の土俵に引きずり込めるという大きなメリットがある。初段レベルだと対策できてない人もかなり多いだろうし、実際四段の僕もあまり自信がない。
「いや、でもマジで一ヶ月半ぐらいで二級はかなり早い部類かもね」
 僕なんて将棋を覚えてから初段になるのに二年ぐらいかかったので尚更である。まあ彼女とは動機も当時の年齢も違うのだが。
「ありがとうございます。でも、私にはもっと目指す場所があるのでこんなことで喜んでちゃダメなんですよね」
「目標とかあるの?」
 ふと、気になったので訊いてみる。前に訊いた将棋部への入部動機と近いところがあるかもしれないと、口に出してから気がついた。
 彼女はやはり言葉に詰まったようで、スマホをいじる手も止まる。
「……いずれ分かると思います。まだ先輩には言えません。すいません」
 そういう彼女は相変わらず真剣な面持ちだった。彼女が言うと、なんだか想像を絶するほどの深い意味を持った言葉に聞こえてしょうがない。
 いずれ分かる、というのは、一体いつ、どこでだろう。

Re: Banka ( No.8 )
日時: 2018/09/26 22:55
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩は居飛車なんですっけ?」
「そうだね。三、四段ぐらいまでは振り飛車党もまあまあ多いけど、そこから上に行けば行くほど居飛車党のほうが多くなってくる。突き詰めれば居飛車のほうが勝ちやすいっていうのはあるかな」
「そうなんですね……、なんかちょっと損した気分」
 彼女の目線はいじっているスマホに終始向けられている。
 そういえば、最近の彼女はスマホをいじる姿が目立つ気がする。大方LINEやTwitterで誰かと話しているのだろう。友達か彼氏か知らないが。

「あ、先輩ってLINEやってますか? 交換しません?」
 突然言われて、少し驚く。もちろん僕の人生でそんなことを女子に訊かれたことはない。
「……まあ女の子と縁がない先輩だからこんなこと言われたことないでしょうけど」
 それは本当のことだったので、何か文句を言おうとしても声にならない。LINE自体一週間に一度ぐらいしか開かない上にほとんど家族としか話さない僕は結構ヤバい部類なのかもしれない。
「じゃあ、読み取って下さい」
 はい、と渡されたスマホにはQRコードが表示されていた。この方法はかろうじて知っていて、確かアプリ内のカメラでこれを読み取るというものだったはずだ。
「あれ」
 友達登録は完了して「みやび」というアカウントは確かに追加された。そこまではいいとして、左手に持つ、彼女のスマホのLINE画面がふと目に入る。
「都美、LINEの友達少ないね」
「えっ!? あ、それは……」
 彼女のLINEの友達は異常なほど少なかった。五人というと、僕より十近く下だった。僕ですらかなり少ない部類だと思っていたが、下には下がいるとは。
「いや……、違います違います。クラスに友達はそれなりにいるんですが、わざわざLINEで話すまでもないというか……。ほら、私とLINE交換できるのって選ばれた人だけですから少なくて当然なんですよ!」
 彼女は僕が持つスマホを奪い取り、まるで宝物を持つように抱きかかえる。分かりやすく慌てていて少し可愛らしい。……いやいや、可愛いというのは人として可愛いという意味で、女としてではない。確かに顔は美人かもしれないが、誰がこんな口の悪い何考えてるか分からない茶髪で遊んでそうな女に……。

「というか、先輩、今“みやび”って……」
「あ! ごめん、LINEの名前がみやびだったからそう呼んじゃった」
「あ、はい……、大丈夫です」
 彼女の様子はどこかおかしかった。見ると下を向いたままモジモジしているようで、当然ながらそんな彼女を見るのは初めてだった。
 僕含めてLINEの友達が五人というと、他は家族と、友達が一人か二人で埋まってしまうところだ。僕もほとんど友達はいないが、彼女の友達が少ないのはなんとなく意外だった。容姿がいいというだけでそういうのには苦労しないイメージがどこかしらある。
「あ、今の、言わないで下さいね。皆に……」
 彼女はひどくか細い声のまま、俯いたまま言う。ここまで弱り切ったような彼女はかなり稀なのではないか、と一瞬思った。
 友達五人、か……。実践できなくはないな。

「ほら」
「ん?」
 僕はスマホの画面を見せた。五人しか友達のいないLINEの画面を。
 僕も本来はそのぐらいまで削れるし、家族とあと何人かの友達だけで充分だ。友達が少ないなら少ないで別に困るようなこともないので、これでいい。
 実際、十人ほどの僕が消した連絡先とは、今はほとんど会話していないので不必要だった。
「……先輩も友達五人にしてくれたんですか」
 彼女の顔に生彩が戻っていくのが分かった。
「うん。僕だって友達いないからこのぐらいまで削れるよ。これで一緒だ」
 自分がとった行動に我ながら驚いてしまう。どうせまた後で悪口でも言われるのだろうが、それでも元気のない彼女を見続けるよりマシな気がしたのだろう。
 彼女の友達が少ないことなんて、僕にはどうでもよかった。僕だって少ないし、そんなこと、この将棋部に於いて何の意味もなさないことは明白だった。
 元気になったと思ったら、一転して彼女は泣きそうな顔をしていた。「おいおい」と茶化すように言うと、彼女はすぐに謝る。
「すいません……、先輩がそんなことをしてくれると思わなくて。嬉しいんです」
「それはよかった」
「キモオタの先輩でもそういうことできるんですね。ちょっと格好よかったですよ、悔しいことに」
 と思ったら、また一転して彼女は笑顔に戻っていた。ただキモオタは中学のときにやめたはずなのでそれはきっと誤りだろう。
 格好いい。それは女子に言われるのは初めての言葉だった。彼女は良くも悪くも表裏がなさそうなので、それが本心である可能性は高い。
「じゃあ、LINEでもよろしくお願いします」
 言われて、手に持つスマホを確かめてみる。そういえばLINEの交換もしていたのだった。彼女のプロフィール画像が猫なのが意外すぎて笑える。そういうものを愛でてそうな印象は全くないのだが。
 そういえば、交換したはいいものの、これからLINEで何を話すのだろうと思った。真っ先に思いついたのが将棋部の活動日の通達だが、逆に言えばそれぐらいしかない。

Re: Banka ( No.9 )
日時: 2018/10/03 01:04
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「とりあえず、大会までお互いに色々頑張りましょう」
 大会、と言われて思い出す。それはものの一週間後に控えていて、今から緊張してくる。
 全国高校将棋選手権大会。六月に各地で行われる県予選での男女優勝者が、八月に行われる全国大会への切符を手にすることになる。一応団体戦もあるのだが、僕達の部は部員が二人しかいないためそちらには出られない。
 県予選の日は、茅野が入部したときからちょうど二ヶ月と重なる。将棋を覚えて二ヶ月で大会に出るのは恐らくかなり早い部類だと思われるが、彼女なら全国大会とはいかないまでも、県予選でそれなりにいい成績をとってくれそうな感じはしていた。
「で、それが過ぎたらどこかで何かしましょう。親睦を深める的な意味で」
「何だそのハッキリしない約束。夏祭りとか?」
「それは却下します」
 早えな、とすぐに突っ込む。まあ予想はしていたが、実際に言われてみると地味に落ち込む。そしてなんか僕がフラれたみたいな感じになっていて意味不明だ。
 まあ当然だろう。彼女は、夏祭りなんて、彼氏かその少ない友達の内の誰かと行くのだろう。例え僕と行ったとしても楽しくないだろうし、共通の話題というか、そういうものが全くもって謎だから、まず何を話せばいいのか分からない。
 お互い、今のようにこうして学校の辺境で話しているのがちょうどいいに決まっている。この部室とか、そういう将棋関係以外の所で会うというのは、少し気まずい気がした。



「将棋道場行きませんか?」というのが、彼女からの初めてのメッセージだった。
 沈黙したままのトークルームの均衡を破ったのが彼女だという事実に、未だに驚いてしまう。そしてそこから今に至るまで何回かやり取りをした内、県予選の前日である今日に、駅前の将棋道場に行こうと約束したのだった。
 そして今、駅前の噴水で彼女を待っているという訳なのだが、いかんせん彼女が来ない。約束の時間を十分以上過ぎている。……なんかドラマとかでこんなシーン見たことある気がするが、まあスルーする。
 周りを見てみると、やはり土曜の昼ということでやはりカップルが多くいる。僕のように待ち合わせをしていそうな人も皆、キラキラ溢れ出る謎のオーラに包まれていて、自分がとても場違いなような気がしてならなかった。

「あ、先輩」
「え」
 駅のほうから小走りで近づいてきた彼女が僕を呼ぶ。強い風が吹き、ざわざわと音を立てる街路樹によって周りの喧噪をかき消す。一方僕のほうはというと、彼女の姿を見て絶句していた。
「先輩? 遅れちゃってすみません」
「あ、……ああ、いいよ別に」
 彼女の私服姿は尋常じゃなかった。真っ白なカットソーと青いショートパンツという割とシンプルな装いなのだが、その中に彼女の華奢さがいくらでも詰まっているような気がした。ここら一帯にいる誰よりも輝いていると確信を持って言えるし、学校で見る制服姿とは別の良さがあった。
 このままずっと見ていると意識が飛んでいきそうなので、立ち上がった僕はさっさと先を進もうと思った。
「ええ!? 可愛い後輩がせっかく私服着てきたっていうのに何もないんですか?」
 彼女はむくれるような表情で信号待ちの僕を追う。なんかキャラが変わっている気がするのだが……。
「いくら彼女いない歴イコール年齢の先輩でもそういうことはちゃんと言うべきですよ」
 あ、やっぱり茅野だ、と少し安心する。意味不明だが、今の彼女はどこか別人のような違和感で包まれていた。
「ごめん……、こういうときなんて言えばいいのか分かんなくて。ただ可愛すぎて直視できない」

Re: Banka ( No.10 )
日時: 2018/10/04 01:47
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩……」
「ん?」声がどこか変だったので、すぐに振り返る。同時に信号が青に変わり周りの人々が歩き出す。
「そういう発言までは求めてないです……」
 茅野の顔は真っ赤になっていて、僕は不思議な気持ちのまま、自分が今何を言ったのか思い出してみる。
「あ! ごめん違う、何か心の声が言葉に出ちゃってた!」
 可愛すぎて直視できない、は流石にクサい。たとえ付き合っていたとしても言うのに躊躇するだろう。
 彼女はずっとその場で悶絶していて、言った僕の何倍も恥ずかしがっているようだった。しだいに信号が赤に変わると、道路で車が走り、駅のほうからやって来た人達がさっきと入れ替わるように信号に並ぶ。
「“心の声が言葉に出ちゃってた”って、フォローになってないですよ先輩……」
 確かに。正論すぎて言い返せないので黙っていた。

 信号を渡って少し歩くと、将棋道場はすぐに見えてくる。
「このビルの三階かな」
 普通のビルだ。全階にそれぞれテナントが入っていて、喫茶店とか書店とか色々興味をそそられる所は多いが、今は行かない。
 彼女はエレベーターのボタンを押す。エレベーターは今六階にあるから階段を使ったほうが早いと思ったが、彼女に従う。
「もうー、真面目に将棋やりに来たのに調子狂っちゃいますねー」
 彼女はうんざりするように吐き捨てた。まだ引きずってるのか、と笑う。
「ごめんて……」
「まあいいですけど。先輩のほうも何となくいい感じですね。上がボーダーのTシャツとネイビーのシャツの重ね着で、下が黒スキニーって意外とお洒落なの着るんですね」
 ああ、服を褒めればいいのか、と今更気づかされる。

 エレベーターには僕ら以外乗ってこなかった。
「先輩はよく来るんですか?」
「まあまあかな。週に一回は来てるよ。結構強い人いるんだよ、ここ」
 それを聞いた茅野はどこか緊張したように見えた。僕も最初に来た頃はかなり緊張した気がする。すぐ慣れたけど。
 あのときはまだ僕も級位者だったので、今の彼女と大体同じぐらいの棋力だ。この三級から初段ぐらいの棋力の人達が道場には一番多いので、戦う相手には苦労しないだろう。
 エレベーターが三階に到着するのは思いの外早かった。多分彼女にとっては心の準備が整うより先だったのかもしれない。
「お、夕一ゆういちくんデートかい?」
 エレベーターが開いた瞬間、向こうから声をかけられる。相変わらず早い。カウンターの向こうに座っている小太りのおじさんが声の主だった。
「将棋道場デートなんて聞いたことねえよ。高校で同じ将棋部の茅野さんね」

「よろしくお願いします」
「で、こっちが席主の鈴木さん。茅野はこういう所に来るの初めてらしいから、将棋アプリと同じ二級で登録してほしい」
 そう言うと鈴木さんは何やら紙をどこかから取り出し、ペンと一緒に彼女の前に差し出す。
「よろしく! じゃ早速だけどこの手合カードっていうのに記入してもらえるかな」
 はい、と彼女は書き始める。が、すぐに手が止まる。確かに、ここでしか見ないような紙だ。意味不明なレイアウトに、年齢や段位などを書く場所がいくつも散りばめられている。どうでもいいことだが、どうやらこの紙は全国共通らしいと最近知った。
「で、夕一くんの相手なんだけど、どうやら今の時間は同レベルの人がいないっぽいんだよねー。もうちょっとしたら来ると思うんだけど」
 そう、彼は僕にも手合カードを渡してくる。僕はすぐに書き切り、対局場のほうに歩いていく。こんなに三十人ほどいる中、僕と同棋力の人がいないというのはどこか変な感じもするが、まあ級位者の人との対局でも別にいいか、と諒解してみる。

Re: Banka ( No.11 )
日時: 2018/10/09 00:47
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「先輩? 私ももう対局していいみたいです」
「ん? ああ」
 既にカードを書き終えていた彼女は、後ろから僕の横を抜け、座って対局している人達を見つめる。
 彼女が今思っていることは大体分かる。この独特の雰囲気に圧倒されているか、将棋道場が騒がしい場所だということが予想外だったのか、対局している人の平均年齢が異様に高いことに驚いているか、自分と同性の人が一人もいないことに絶望しているかのどれかだろう。基本的に将棋道場はオッサンか子供しかいない。高校生は滅多にいないし、ましてや女子なんて、本当にいなさすぎて女人禁制だと勘違いしている人がたまに出てくるレベルである。
「というか先輩、話聞いてたんですけど、そんなに強いんですか」
「まあ、この道場では四段ってことになってるけど、あんまり自分と同じ段位の人いないね」
「先輩ってそんなに強かったんですか……」

 早速指してきます、と彼女が向かったのは、とあるご老人の所だった。
 僕はそれを「頑張れ」と送り出した後、彼女の対局が少し気になったので、遅れて少し遠巻きに彼女達が囲む盤を眺めた。そういえば彼女が他の人と対局するところを見たことがないし、単純にあの日からどれだけ強くなったのかこの目で確かめようとも思った。
 当の対局は彼女が初手を指したところだった。7六歩という、将棋の歴史上で最も指されてきた初手だが、駒を持つ彼女の手が思いの外拙いので対局相手の方も驚いたようだった。ネット将棋しかしない人は駒を持つことに慣れていない。実際の盤を前にすると違和感を感じて上手く集中できないなんて人もたまにいるようだ。
 それを見た老人は、少し怪しげというか、何かを企んでいるような表情で駒を持つ。何となく感じた不快感の謎は、二手目を指した瞬間に明らかになった。
 二手目4四歩。彼女も流石に動揺を隠せないようだった。久しぶりに見た手だ。僕は級位者の頃にこれを指されて負けた記憶があるが、今の彼女は対処法を知っているのか。
 手自体を説明すると、初手で角道を開けた手に対し、わざとその間合いに歩を伸ばしたというだけに過ぎない。つまり、角で取れるのだ。しかし次に飛車を4二に回る手が出てきて、この手で先手ははっとするだろう。角を逃げると飛車が成れるという寸法だ。
 結論から言えばこの展開は先手有利である。しかしそのためには定跡を知る必要があり、気づきにくい手も多いため、その場その場で自分が考えて対処しても絶対に勝つことはできない。有利ではあるが“知っていないと勝てない”戦法の代表であり、故にハメ手と言われる。
 こういうのは、棋力云々というより、知識をつけたり経験を積むしか指し方を覚えられないものなので、将棋を始めて一ヶ月ちょっとの彼女には酷だった。実際にも、彼女はかなり一方的に攻められて負けていた。

「……大丈夫?」
 道場の隅で、憔悴しきったような彼女は一人でお茶を飲んでいた。
「どうもこうもないですよ。五連敗ですよ? 五連敗。……絶対最初のあの人のせいで流れ悪くなりましたね」
 ここで彼女は大きな一口を飲み、ペットボトルのお茶をすぐ飲み干した。その五戦は全て見ていたが、確かに、思いの外今日の彼女は勝てていない。流れが悪い、とは科学的に何の根拠もないが、人と人との勝負である以上、やはり波はどうしても出てくる。そもそものメンタルがやられている可能性も低くない。
 まあ、それはそれでいいとして、こんな感じで終わってしまうと、明日の大会に重大な影響をもたらしそうだと危惧せざるを得ない。流れというのはよく分からず、本人が大丈夫だと思っていても実際は全く大丈夫ではないということがよくある。だから、彼女がこのまま帰って一晩ゆっくり寝たとしてもまだ引きずっている可能性は高く、逆に言えばそんな短時間で解消されるような悪い流れは大したものではない。そして、もはやそれはメンタルが弱いとかそういう次元の話ではなく、その人自身は何も悪くないので責めるのはお門違いである。
「どうする?」
「まだ指すに決まってますよ、自分のダメなところはうっすら見えてきましたし。それにこのまま明日の大会に出ても、なんだかすぐ負けちゃうような気がします。よく分かんないですけど」
 そう、彼女は空いた席に移動していった。すぐに対局相手が来て、お互いに礼をする。僕はそれをどういう気持ちで見ていればいいのか分からなかった。
 凄いなこの子は、と純粋に思った。こういう状況だと、萎えて帰ってしまったり、指し続けたとしても多かれ少なかれ自暴自棄になってしまっている人がほとんどだろう。それを、彼女は勝つまで続けるという選択肢をとった。僕が気づくのに何年もかかったことを、彼女は何となく、イメージだけであっさりと捉えていたのだ。冷静さといい、既に普通の高校生のレベルではない。

Re: Banka ( No.12 )
日時: 2018/10/16 02:35
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「夕一くん。やるかい?」
 後ろから声をかけられ、すぐに振り返る。やはり声の主は田辺さんだった。今来たのだろうか。
「あ……、やりましょう。今日まだ一局も指してないんですよ」
「ははは、彼女は知り合い? 筋はかなりいいね。君が熱視線なのも頷ける」
 田辺さんは笑いながら、つい今空いた席へと移動する。彼女の将棋を見逃してしまうのはどこか寂しいが、諦めるしかない。自分は自分の対局に集中しないと本末転倒だろう。
 彼の言うとおり、彼女の将棋は確かに筋がいい。たまに僕でもはっとするような手を指すが、どこかが惜しくて勝ち切れていない。序盤や中盤の指し方は比較的上手いが、終盤力がそれに比例していないイメージだった。このクラスだと序盤力より遥かに終盤力のほうが大事なのは明白である。
 指し手はまだ三十手ほどしか進んでいないが、既に彼女の作戦勝ちといったところだった。このまま優勢を保ったまま勝ち切ってもらえるといいのだが。

 僕が初手を指したとき、周りに何人か集まってくるのが分かった。この道場でのトップレベル同士の対局なので、田辺さんと指すときは毎回何人かギャラリーが集まる。
 彼もすぐに手を続ける。僕は茅野のほうを見、一呼吸し、指した。

 こちらの将棋はもう終盤戦に突入していた。もうあと十手以内にどちらが勝ちかはっきりしそうだが、今の時点ではまだどちらが有利か分からない。恐らくこちらが少し悪いような気はする。
 手番だった彼は鋭い手つきで指し、すぐ押したチェスクロックも少し動いた。これは一気に踏み込んだ手で、“詰めろ”という、分かりやすく言えば次僕が何もしなかったら玉が詰まされて負けるので、どうにかして受けるか相手の玉を詰ますしか勝ち筋がないという状態である。
 この手は正直読めていなかった。もう両者持ち時間を使い切っていて、秒読みに入っている。終盤のこんな場面で読んでいない手が飛んでくれば普通は負けるだろう。
 僕は持ち駒の角を持つ。周囲に幾人かいるギャラリーから声があがる。指す瞬間、ふと気配を感じた左後ろを振り返ると茅野が盤を眺めていた。僕の目線に気づいた彼女はすぐに盤に目線を戻すようにジェスチャーする。いや、この将棋はもう終わる。この空間で気づいているのが果たして何人いるか。
 5六角。

「負けました」
 田辺さんが言うと、周囲から拍手が起こる。将棋が始まって初めて見た彼は顔中汗まみれだった。もう四十分ほどやっているらしく、そう考えた途端一気に疲れがきた気がする。
「お疲れ様です!」
 後ろから肩を叩いたのはやはり茅野だった。そう笑う彼女に少し驚く。
「あ……お疲れ。で、茅野の対局は?」
「先輩の対局があまりにも長かったので、その間に私三戦もやっちゃいました。全部勝ちましたよ」
 そう目の前でピースする彼女を見ていると、しだいに強い感情がこみ上げてくるのを感じた。それは掴みどころのない感情だった。いいものなのか、悪いものなのか、それすらはっきりしない。分かったと思ったらやっぱり違っていたり、そういうのが何度も繰り返される様は恐怖すら覚えてしまう。
 自分が今何を感じているのか分からないまま、何かを吐き出したい欲を必死に押さえるので精一杯だった。

Re: Banka ( No.13 )
日時: 2019/01/02 06:05
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「おめでとう。流れ掴めてきたね」
「ありがとうございます。今日はこのぐらいで終わろうかなって感じです。指しすぎもよくないので」
 どうやらもうここに来て二時間も経過しているらしい。彼女はそれでいいだろうが、僕のほうは今日まだ一局しか指していないのだが。
 まあ、帰ってネット将棋を指すほうが練習になるのでいいだろうと諒解してみる。やはり街の道場とネット将棋では人口が全く違う。実際今日は田辺さんぐらいしか自分と近い実力だと思える人がいないし、ずっと同じ人と指していても上手くなれる訳ではないのであまり練習にならない。
 それに、今日ここに来たのはどちらかというと彼女の練習の付き添いという意味合いのほうが強いので、別にそれでも大丈夫だった。
「じゃあ、帰る?」
 ありがとうございました、と座ったままの田辺さんに挨拶をし、立ち上がる。
「あー、じゃあ帰りますか。明日の大会に向けて英気を養わないとですね」
 彼女は言いながら、向こうに置いたままのバッグを取りに行く。この空間にいる唯一の女性なので周囲の目はそれなりに引く。
 本番は明日だ。僕のことはいいとして、彼女の調子はそこそこといったところか。一時はどうなることかと思ったが、調子を取り戻せたみたいでよかった。

 将棋道場から出ると、外はまだ明るく、涼しい風が吹いていた。今まで窓一つない部屋に数時間籠もっていたので、開放感が凄い。
「しかし、5六角って凄い手ですねー」
 彼女は僕の少し先で伸びをしている。
「あれは詰みだね。十七……、十九手詰か」
「えっ、詰むんですか! あれが?」
 彼女はすぐに振り返る。足を止めていたので、僕が少し歩くとすぐに追いつく。
 まああれを読むのは級位者には不可能かもしれないが、僕の場合だと三十秒もあれば基本的に読める。5六角という手さえ分かれば、手数こそ長いもののそこまで難しい筋はないので詰ますこと自体は割と簡単である。

「……じゃあ、今日はありがとうございました! ここにはまた定期的に来ようと思います」
「いいじゃん。早く僕を超えて部長になってくれ」
 あ、ヤバい、と気づいたときにはもう遅く、既に口に出してしまった後だった。
「えっ、部長になってほしいんですか? 普通は逆では?」
 僕は押し黙るしかなかった。何かを察したのか、彼女の怪訝そうだった表情がしだいに戻っていく。
 さっき口に出した言葉。それはきっと本心だろう。もし彼女が僕を超えてくれたら、そのとき初めて僕は色々と諦めることができそうだと。

「大会が終わったら、先輩の家に行ってもいいですか?」
「ええ!? なんで?」
 瞬間的に聞き返してしまう。彼女が僕の家に来たがる理由なんていくら考えても見つからないので、まあ当然の反応ではある。
「……一身上の都合です。あと、単純に興味があって」
 またそれか、と呆れる。将棋部の入部理由もまだ聞いていないし、家に来たがるぐらいなら僕のことをそれほど嫌っている訳でもないだろうに、それだけ僕に胸中を隠す理由とは一体何なのだろう。むしろそっちのほうがずっと気になって仕方ない。
「じゃあ、お互いが県大会優勝したら僕の家でお祝い会やろう」
「それは楽しそうですけど、ハードル高すぎませんか?」
「そんなことない。僕は優勝する。女子のほうは参加者少な目だから多分四回ぐらい勝てば優勝できる。そんなに難しいことじゃない」
 彼女はあまりに驚いたのか、声が漏れ、進む足が止まってしまう。少し先の信号が赤から青に変わる。
「先輩、そんなキャラでしたっけ? というか前“僕なんて下から数えたほうが早い”って言ってましたけど……」
 確かに、僕は今までこんなことを彼女の前で言ったことがなかったので仕方ないだろう。しかし僕は確実に優勝できるだけの実力を持っていて、それを客観的に判断できるだけの余裕があった。
 二人で優勝したい。……それは、僕はいつまで将棋を指し続けられるのか分からないから、今のうちに彼女と一緒に全国大会に出てみたい、という単純な理由からだった。

Re: Banka ( No.14 )
日時: 2018/11/22 04:52
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「せんぱーい!」
「あ、おはよう」
 当日、空は青く澄み渡っていた。……将棋は室内でやるから関係ないが。
 県予選は、慣例的に県内のとある新聞社にて行われる。今日、僕達三人は別れて会場まで向かってきていた。茅野が顧問の小林先生の車でここまで来て、僕は一人で電車に乗ってそこから歩いてきた、といった次第である。
 昨夜、実はほとんど眠れていない。何故か睡魔がこなかったのもあるし、ネット将棋を延々と指していて気づけば朝になっていたという訳だった。……認めたくはないが、もしかしたら緊張もあるのかもしれない。
 遅れて駐車場の所から小林先生がやってくる。先生は僕達に気づかなかったみたいでそのまま入口に入っていった。顔を見合わせた後、僕らもついていく。
「クマ凄いですよ? やっぱり深夜にエロ動画ばっかり見ちゃったせいで全然眠れなかったですか?」
 オイ。確かに少し見たけど。
 というか、そこまで目立つのなら対戦相手とかに知られたら地味に損かもしれない。まあ実力で勝てばいいのでよしとしよう。

 会場内は熱気で包まれていた。学校の体育館ぐらいの広さの会場に、延々と机と椅子が等間隔に並んでいる。一つの机につき将棋盤が二セットずつ置かれていて、かなりの量の対局をここでしていくのだろう。
 もう既に大会は始まっていて、先に団体戦をやっていた。向こうで小林先生が受付登録みたいなことをしていた。
 団体戦は佳境に入っているみたいで、ホワイトボードに書かれたトーナメント表では四強が出揃ったことが確認できる。三十校ほどが参加しているだけに、トーナメントが準決勝まで進んだ様はどこか壮観だ。
 団体戦は県大会の上位二校が全国大会に進めるので、この準決勝で決まる。
「凄い。団体戦ってこんなに盛り上がるんですね。来年は是非新入生をたくさん勧誘して出たいですね」
「新入生は何人か来るかもしれないけどどうせ僕みたいな冴えない野郎しかこないよ」
「がーん。キモオタ童貞は一人で充分なのに何人も入ってきたら嫌ですね……」
 確かに、僕が彼女の立場でも嫌かもしれないのでそれは少し同情してしまいそうだ。それよりキモオタ童貞が定着してしまったみたいで怖いのだが。

「あ、あそこ、強いらしいですね。明征高校ってとこ」
 ついに準決勝が始まったみたいで、その明征高校とどこかの高校が対局をしていた。
 団体戦のルールはかなり単純である。両校五名ずつの星取り戦で、三勝した高校の勝ちだ。その際、五人の部員が誰と対局するかは始まるまで分からない。五つある盤にそれぞれ番号が割り振られていて、両チームの顧問が誰を一から五番の椅子に座らせるかを紙に書き、そこから対戦がスタートする。
「明征。あそこは去年全国まで行ったけど初戦とかその辺で負けた所だね」
「えっ」彼女は驚いたように僕の顔を見て、今行われているその明征高校の団体戦にすぐに目線を移した。確かに県内じゃトップクラスだが、東京とか大阪などにはもっと強い高校が山のように存在する。
 それは個人戦でも同様であり、こんな県大会で優勝するだけで喜ぶなんていうのは井の中の蛙ではある。

「連覇、ですね。凄い」
 当の明征高校は二連覇をしていた。彼女は褒めるが、僕はどうだか、と思いながら彼らを見つめる。
「じゃあ、次から個人戦始まるから、すぐに移動して」
 小林先生がいつの間にか横まで来ていて、離れた位置で観戦していただけの僕らを誘導する。
「先輩は去年もこの大会に出たんですよね?」
 歩きながら、横の彼女は僕に訊く。それは前にいる先生にもきっと聞こえていただろう。先生は、あの事情を知っている。
 僕らが盤の近くまで来ると、周りが突如ざわつきだす。それに彼女も気づいたようで、助けを求めるように僕をじっと見つめる。確かに、彼女にとっては気味が悪いのも無理ない。
 前回の団体戦準優勝校が今年は部員数が足りず個人戦一本なんて恥ずかしい話、彼女にそうそうできるものではないが、気づかれるのは時間の問題だろう。
「さっき周りがざわざわしてたのは何だったんですかね……。なんか色んな人からの視線が痛かったんですけど」
「さあ? というより早速始まるみたいだね」
 言うと、彼女は一転して真面目な顔に戻っていく。それは集中しだしたというより、緊張のほうが近いだろう。何より、彼女はこの会場の真剣な空気に呑まれていた。

Re: Banka ( No.15 )
日時: 2018/12/17 00:49
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「よう。今年は団体戦出なかったのか」
 突然、話しかけられる。僕のほうは初戦の相手を即行で葬ったところだった。中盤からリードを奪い、そのまま完封勝ちを収めていた。
 話しかけられたはいいものの、この人が誰なのか分からないので黙っていた。恐らく……、去年にこの会場で少し話したことがあるかもしれないが、あまり記憶にない。
「忘れたか? 去年に団体決勝で戦った清水だよ。今は明征高校将棋部の部長をしてる」
「ああ、あのときの……」
 とりあえず言ってはみるが、マジで全然覚えていない。僕は記憶障害にでもなったのだろうか。
「さっき君も見てただろうけど、連覇することができて八月に全国大会に行けるようになった。まあ君も上がってこいよ。そこでまた会おうな」
 そう言って肩を叩かれる。嫌味でも言われるのかと思っていたのでほっとする。そういえばと思い盤の向こう側を見てみると、さっきまで指していた相手は既にいなくなっていた。

 二戦目、三戦目も危なげなく勝ち進む。たまに向こうで誰かと対局している茅野を見るたびに、あっちもまだ勝ち進んでるか、と少し嬉しくなり、自分も頑張ろうと励まされた。
 女子のほうは参加者が男子の半分以下なので、本当に彼女は可能性がかなりある。
 というか、センスだけで言えば彼女は僕なんかを遥かに凌いでいるので、それがこの大会で上手く開花すれば優勝は間違いないと思われる。僕の茅野に対する評価は日に日に高まっている。

「よろしくお願いします」
 お願いします、と返すと相手は静かに初手を指した。気づけば周りにギャラリーが何十人もいて、対局する僕達二人を取り囲んでいた。そうだ。いつの間にか僕は決勝まで来ていた。
 ……面倒だし、端っから手合い違いなのだから、すぐ終わらせよう。そう思ったこちらの横歩取りの提案を相手は受け入れてくれ、角道を開けてくれる。僕はすかさず歩を交換し、相手も交換した瞬間に横歩を取った。
 居飛車の花形、横歩取りである。定跡があるとはいえ複雑で手も超手数に及ぶ上、ほとんど力戦なので一度ミスしたらそのまま詰まされて負けることも多々あるので、プロの戦法と言われていることが多い。最低でもアマチュア高段者はないと指しこなせないというのが大体の人の見解である。
 しかし僕はこの戦法で将棋を覚えた。指し始めた頃はまだ級位者ぐらいで、毎回のように短手数で負けていたが、指す度に成長を感じられて単純に嬉しいし楽しかった。
 一瞬のミスが命取りになる展開がずっと続くので、将棋に必要な力を全て鍛えられるというか、この戦法の理解度がそのまま将棋というゲームの理解度に繋がっている気がして、指しているといつも不思議な感覚になる。あの頃は色んな物に手を出してみたが、こんな戦法は横歩取りだけだ。
 辺りには駒を指す音とチェスクロックの音だけが響く。この広い会場は常にざわついているが、僕達を取り囲むギャラリーは一様に無言なので、ここだけ静かだ。しだいに、手が進んでいくにつれ、僕が指す度に対局相手が声を漏らしたり頭を捻ったりすることが増えていった。
 中盤で相手の角を殺す。相手は角を成り捨て、桂馬を跳ねる。しかしそれでは攻めが遅い。僕は既に相手の玉頭を制圧していて、歩の切れた五筋に歩を打つ。相手は玉を一瞬持とうとして、すぐに駒から手を離した。
 ……もう、終わっている。相手も既に気づいているのだろう。まだ玉が詰んだ訳ではないが、ここから相手側を持って勝つのは相当至難である。
 それでもまだ相手は指し続ける。負けたくない、負けたくない、と一手一手からその気持ちばかりが伝わってくる。しかし、その様はどこか悲しい。
 将棋は気持ちで勝てるゲームではない。それは自明で、指す者達は皆それを分かった上でこのゲームを続けている。しかしどうしても悔しかったりして、そんな当たり前のことを忘れてしまうときはきっと来る。実際に僕もかつてそういう経験をしたことがあったが、そのときに厳しく思い出させてくれた人は、一体誰だっただろう。いずれにしろ、それはもう遠い昔なのだろうが。
 ……パチ、パチ、と似た二つの音が延々と響き渡る。結局、彼は一手詰みの状態まで指し続けた。

Re: Banka ( No.16 )
日時: 2019/01/11 02:54
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「負けました」
 そう相手が頭を下げた瞬間、周囲が沸いた。急に近くで何人もの人達が声をあげ出すので普通にびっくりする。彼らは僕の勝利を喜んでくれているようで、何故なのか疑問に思いつつも、とりあえず一度礼をしてみる。目の前に相手がいるのにガッツポーズはマナー違反である。
「ありがとうございました」
 言うと、彼は笑顔で応えた。……悔しくないのだろうか。ここは決勝だ。ここまで来たら優勝したいと思うだろう、普通は。
「ここまで来て負けたのは悔しいけど、実力差が物凄かったから仕方ないね。全国でも頑張って」
 彼は椅子を立ち上がり、出口付近まで歩いていった。そこには親御さんらしき人が立っていて、その人は泣いていた。そしてそのまま抱き合う。周りの会話を盗み聞きして知ったのだが、彼は高校三年生らしい。これが彼にとって最後の大会なのだろうか。
 僕は間違っていない、とその光景を前にしても尚思えた。しかし、これがネット将棋だったらどんなに心が楽か。顔が見えるか見えないかだけでどうしてここまで変わるのか。

 そして、そのとき向こうで茅野が指しているのが目に映った。気づいたと同時に辺りのギャラリーが沸いていて、対局が終わったのだろうと分かる。僕は走っていた。ここまで本気で走ったのはいつぶりだろう。決勝戦と書かれたボードが机に貼られていることに気づいたのは、近くまで来てからだった。
「あ、先輩……」
 茅野は涙目だった。そして、ひどく消耗したように下を向いていた。これは、まさか。
 対戦相手の女子は真顔のままその場を後にしていった。僕は拍手するギャラリーの人達の間をかき分け、彼女の側まで歩み寄る。
「先輩、私、勝ちました」
 彼女はいかにも信じられないといった表情だった。自分が置かれている状況が理解できず、とりあえず平静を装っているように見える。
「おめでとう。あの対局相手の女子知ってる。去年二段とかだった気がする」
 僕はそう言いながら、投了図を見ていた。対局相手の駒台に乗る駒はぐちゃぐちゃに置かれていた。本来は対局終了後の感想戦が終わった後、駒を片付けるまでが所作なのだが、この大会に於いてそういうルールは特に無いようだった。
 投了図からは、両者の様々な感情が読み取れる。例えばさっきの対局でいえば、一方的に攻めきられ一手詰みの状態まで指してしまうほど「負けました」の言葉が言い出せないといった具合の分かりやすいものから、対局している二人にしか到底分からないような世界の話まで。
「この盤面、どう思います? 先輩」
 僕は口を押さえていた。茅野の玉は安全で、その上相手には綺麗に必至をかけているという、普通に見てみると茅野が勝っていそうに思える盤面である。しかし茅野の玉は詰んでいる。
 ……なんと残酷なのだろう。きっちり十七手である。飛車切りからの猛攻という、三十秒将棋の中では見つけるのが難しい順で、手数も長い。こんな詰みはこのレベルでは見える訳もないので当然といえば当然であるが、とにかくこの詰みを一目で読み切った自分が怖かった。



「かんぱーい!」
 いえーい、と茅野は僕の持つコップに自分のそれをぶつけてきて、中のオレンジジュースを飲み干す勢いでぐびぐび飲んでいく。その謎のテンションは一体何なんだ。
 ローテーブルに向かい合うように座っている僕らは、さっきその辺のコンビニで買ってきたお菓子とジュースをつまんでいる。
「僕の部屋来たはいいけど何もないでしょ」
「そうですねー。エロ本の一つぐらいあると思ったんですけど、意外となくて……」
 自分はいつからエロキャラになったんだ? と疑問に思いつつ、コップのコーラを飲む。
 まあ、それはそれとして、自分の部屋は本当に何もない。趣味といえるものは将棋くらいしかなく、ゲームも本も全く知らない。自分でもたまにこの部屋でやることがなさ過ぎて嫌になるくらいだから、他の人はもっとだろう。
「……でも、まあ私の家なんてもっと何もないですよ」
「えっ?」
 嘘だろ、と思った。流石にそのお世辞は無理があるだろう。

Re: Banka ( No.17 )
日時: 2019/01/29 23:49
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「とりあえず、お互い優勝おめでとうってことで」
 彼女が言うので、僕は吹き出してしまう。改めて口に出されてみると異常さが際立つ。同じ高校から男女一人ずつ出て、その両方が県大会で優勝するなんて、どう見ても出来すぎている。
 地味に色々と緊張して迎えた県大会だったが、思いの外あっけなく終わってしまって少し笑える。まあ、そのおかげで僕達は今、お祝い会みたいなことをここでやっている訳なのだが。
「先輩のほうの決勝はどうでした? 私のほうは割と競ってましたけど」
 うん、と唾を飲み込んでみる。最後に茅野の玉が詰んでいたことは、言うべきなのだろうか。
 言わないほうがいいに決まっている。そんなことまでして水を差す必要はないだろう。現にお互い優勝できたのだから、その事実だけで充分どころか満点だ。
「僕のほうは横歩取りで普通に勝ったな。上手く噛み合って五、六十手ぐらいで終わった」
「へー、やっぱり強いですね……。アプリとか道場以外にもどこかで指してたんですか?」
 彼女は嬉々として訊いてくるが、僕にとってその質問はタブーだった。
「一応他の所で指してたことはあるけど、あんまり答えたくない……。ごめん」
 彼女は少し驚いたような表情から、しだいに何かを察したような笑顔に変わる。「そりゃそうですよね。私だって隠し事してるんだから、先輩も隠し事の一つや二つぐらいありますよね。こちらこそなんか申し訳ないです」
 少し空気が悪くなる。やめてくれ、と思った。僕が全て悪いのに謝らないでほしい。
 僕のそれは隠し事なんていうレベルのものではない。きっと彼女とは隠す理由が違う。僕と彼女は全く別の人間だ。全てに於いて。
 言ってしまえば将棋の取り組み方からして違う。彼女はまさに完璧というか、誰も口出しできないほど真剣に将棋に打ち込んでいて、実際に結果を出している。それに比べ僕のほうはどうだ。ずるずると将棋を指しているだけだし、詰将棋なども全くやっていないから棋力は下がる一方である。

「先輩、やっぱり……」
「ん?」
 何かを溜めるように言う彼女は、言い切ることを躊躇しているようだった。
「夏祭り行きましょう。全国大会のちょっと前ですよね」
 すると、何かを決心したように彼女は言い切った。急にどうしたと聞こうとしたが、ふと嫌な予感がしてやめる。
 彼女は僕の目をまっすぐと見つめている。こんなこと、絶対何か理由があるだろうが、残念ながら普通に彼女と夏祭りに行ってみたい欲が上回ってしまっている。
 全国高等学校将棋選手権大会。由緒あるその大会は毎年開催地が異なり、今年は大阪で行われる。八月二十五、二十六日開催なので、ここから一番近い所の花火大会の一週間後である。
 女子とそういうものに行くのは、言うまでもなく初めてだった。二ヶ月も前の今から緊張している自分に、単純だな、と笑ってみる。



「こんにちはー、失礼します」
 教室に入り、頭を少し下げてみると、そこにいた人達も一様に挨拶を返してくれる。
 対局中の人達も中にはいて、彼らはすぐ集中モードに戻っていく。僕は静かに教室中央まで歩き、遅れて入ってきた茅野も同様に頭を下げる。
「よろしくー。……って女子いるんだ!」
「……え?」
 奥の椅子に座る顧問の先生から、あまりに意外な返事が来たので、つい反射的に返してしまう。
「あー、ごめんごめん。あまりにも女子部員が珍しくて。ほら、ウチなんて十人以上いるのに全員男子だからさ」
 ははは、と彼は笑いながら、椅子から立ち上がる。まあそれはそうだろう。将棋部なんて男女比率十対一でもまだマシなレベルなはずだから、僕達みたいに、男女半々というのが、いかに稀か。
「もしかして付き合ってるみたいな? いやー、流石高校生! 僕も戻りたいなー」
 テンションどうした、と笑っていると、後ろの彼女が「違います」と即答していて、地味に落ち込む。
 振り返ると彼女は僕を睨みつけていた。いや、そりゃそうなのだが、だからってそんな真顔で嫌そうに否定されて傷つかない男子はいない。