ダーク・ファンタジー小説

死にたがり少年と壊したがり少女
日時: 2018/04/20 16:06
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM

hiGaです。狒牙でもあります。
今回は、昔書いていたはずのお話の、続きを書きたいと思いました。

とても不幸な男の子が、泥水啜るようにもがくお話が。
救いようのない道を進むだけの少年が、純真さを認められるようなお話が。
どん底から這い上がろうとする、折れそうなくせに逞しい子のお話を、思い出してしまったので。

初めの4レス程度は、昔書いていた文章をほんの少し手直ししただけのものとなります。
それ以降はこれから書き進めます。


Prologue
>>1
掃き溜めに伏す天使
>>2 >>3
Prelude
>>4
身の内に潜む吸血鬼
>>5 >>6 >>7
Prelude

仮面被る暴虐の君子

Prelude

純真に笑う無垢な悪魔

Prelude

堕天

Prelude

天使の制裁

Prelude

死にたがり少年と壊したがり少女

Epilogue

Page:1 2



Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.3 )
日時: 2018/04/17 08:46
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM


 今日も篠宮は帰りたくもない家に向かって歩く。そこに戻ることが義務づけられているため、篠宮は逆らうことができないのだ。家に帰らないという選択肢は彼には無い。帰宅せず、その行動は彼の父や姉に対する抵抗なのだと無意識のうちに彼に刷り込まれているからだ。そして自分が理解しているかとは無関係に、その抵抗行為を彼は意図せずして避けている。
 彼は成長の過程で、生き延びるために抵抗を犠牲とした。自らに課せられた不条理を手で払おうとする行為は、それ即ち火に油を注ぐだけの結果しか引き起こさなかったからだ。だからこそ彼は、たとえどれほどの理不尽でも、不幸であろうと全てを受け入れる。なぜならそれが彼なりの生存戦略だからだ。
 退屈でためにならない授業と神田林からの暴力を受けるためだけの学校生活。それもきっと反旗を翻すべき不条理であるはずなのに彼は決して反抗しない。学校へ行かずとも、理由の無い暴力は彼を襲う。だから彼は毎日登校し、そしてまた下校する。
 ただし、今日だけは彼の下校風景はいつもと違っていた。いつもならばまだ陽の沈まぬ明るいうちから、俯きながら顔を隠し、ひっそりと孤独に帰っている。しかし今日はそれとは異なっており、隣に同級生の女生徒を携えていた。整った目鼻立ちの、非の打ち所のない美しい少女。ただしその目は虚空を睨んでいるかのように焦点がぼやけていた。
 言わずもがな、天上ヶ原 魅修羅である。

「篠宮くんの家はどのあたりにあるの?」
「見たいの? 変な人だね」
「そんな事言わないでよ。一戸建て? 借家?」
「借家だよ」

 それは貧相な生活を送っているのね。悪びれなく彼女は淡々と告げた。ただし淡々としているのは表面上だけだと篠宮はすぐに見破る。この女は瞳の奥では、自分がどのような反応を取るのか楽しみに観察しているのだとはすぐに分かった。
 ただ、彼女の遊び心とは無関係に自分の家が貧乏扱いされることは彼にとってはどうでもいい事だった。三度の食事や家賃にすら手が回らないほど我が家の経済事情は困窮を極めると彼は理解している。何せ彼は時折一日一食にまで切り詰めさせられることがあるのだから。

「止めないけど、僕の家には来ない方がいいかもしれない」

 彼女が篠宮家までやって来るとしたら確実に起こるであろう暴力が懸念される。自分がどうこうされることは構わないし慣れているが、場合によっては天上ヶ原にまでも危害は及ぶ。それを防ぐためにも彼は彼女に引き返した方が良いと忠告した。

「何々? もしかして彼女さんに怒られるとか?」
「半分くらいは正解だね」
「もしかしたら殺されちゃうかも?」
「どうかな。あの人は僕に群がる蝿よりも僕にあたってくるタイプだからね」

 ただ、天上ヶ原の目的が達成できなくなる。そう彼は言った。下手に天上ヶ原という綺麗な少女と彼が交遊関係を築いたことを知ったとすると、天上ヶ原が手を出すよりも早くに篠宮はきっと壊されてしまう。それはきっと天上ヶ原の本意ではない。

「へえ、じゃああなたを壊すのは学校での方が良いかしら?」
「うん、そうだね」

 あの人が誰であるのか、彼は語ろうとしない。しかしかといって天上ヶ原にとってはそんな些末な事はどうでもいい。大事な事は、下手な刺激を加えると大切な玩具を壊されてしまうという事。その詳細の如何に関わらず避けたい事態だ。
 だからこそ彼女は明日へと思いをよせて踵を返した。くるりと回った彼女の動きに、脛の辺りまでのスカートが翻る。他の女生徒が膝の上まで短くしているのと比べると長めにしてある。短くすると人目を憚る、彼女としてはひっそりと趣味をこなしたいため、服装だけは正していた。

「じゃあまた明日ね、時雨くん」
「ちょっと馴れ馴れしいよ。別にそれでも良いけどね」

 お互い目線を会わせるどころか、背を向けて別れを告げる。仲睦まじくなど決してない関係は、歪としか言い様がない。そのはずなのに、彼らはこれを歪んでいるだなんて考えない。それは、彼や彼女がもっと歪んだ環境に住み着き、また、歪んだ環境を産み出しているからかもしれない。
 天上ヶ原と別れた篠宮はコンビニのある角を曲がった。木造建築、築数十年の古いアパートが目に入った。今にも潰れそうな、傾きかけの粗末な建物。幽霊が出そう、というのは少しあり得ない表現だろうか。
 歩いていくと、何だか妙な予感がした。何かが普段と違う。あの人が帰っていそうだと、咄嗟に彼は判断した。
 よく見てみると、バイクが止まっている。あれはきっと、例の人物が職場に行くのに使っているものだ。それならばやはり、彼女は今家にいるのだろう。
 鍵はかかっていないようで、直接篠宮はドアノブを捻る。扉を開けると、居間の方から聞こえてきたのは圧し殺すような淫声。そしてさらには、肉の打ち付けあう音。
 近寄らないように、彼は寝室へと向かう。邪魔をすると父親が怒鳴り散らすからだ。彼を傷つけないためにも、息子である篠宮はまるでその場にいないかのように振る舞う。
 陽の差し込まない薄暗い部屋の中でぽつりと彼は呟いた。

「やっぱり帰ってたんだね、凛姉さん」  

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.4 )
日時: 2018/04/18 07:22
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM


Prelude



「ただいまー、かるら」

 死にたがりの少年篠宮と別れた彼女は真っ直ぐに家へと向かっていた。既に妹は帰っていたようでドアの鍵は開け放されていた。奥の方から、突然椅子が跳ねたゴトゴトとした音がする。何を慌てているんだろうと、リビングの様子を彼女は覗きこんだ。
 魅修羅がリビングを覗きこむと同時に、かるらも魅修羅の側に視線を向けていた。ただし両者の瞳の奥の光は、その性質を全く異にしていた。魅修羅の瞳は愛らしく妹を見つめているのに対して、かるらの方はと言うと、鈍い視線が怯えて揺れている。
 食卓の上には三つのケーキ、見慣れない箱に入っているので頂き物ではないかと魅修羅は推察した。ごみ袋には天上ヶ原様へと記された紙が投げ捨てられており、その予想は確信に変わった。
 両親と魅修羅、かるらのいるこの家では、一つ足りない。姉が帰る前に隠れて食べておいて構わないという、母からの手紙をかるらは握り潰した。平静を装い、姉へと声をかける。

「お帰り、お姉ちゃん」
「ただいま。美味しそうね」
「榊原さんから頂いたの、美味しかったよ。お姉ちゃんも食べるよね?」

 魅修羅も女の子らしく甘いものは好物だ。そのため、彼女にだけ取り分が無いとなると機嫌が悪くなるのは間違いない。榊原というのは両親と縁の深い方なのだから、両親はちゃんとこれらを口にして、礼を述べる必要がある。そのため、折れるとすれば自分だと、かるらは熟知している。
 そうでなければ、魅修羅は何をしでかすのか、妹であるかるらにも分からない。

「何言ってるの? お皿は綺麗なままよ、まだ食べてないんでしょ? 私は要らないからお姉ちゃんに遠慮せずに食べなさい」

 その返答は、かるらにとって不意を突かれるとても奇妙なものだった。理由が分からない彼女は、不穏な疑念と共に、視線を魅修羅にぶつけた。

「何で?」
「今日、とっても面白そうな玩具(もの)を見つけたの。だから今はそっちに集中したいから、それはあげるわ」

 魅修羅は笑う、かるらも見慣れたあの不敵な、焦点の合わない歪な微笑み。いつもながら、奇妙でいて、おぞましくて、そして美しい。自分もそれなりに器量が良いとは思ってはいるが、この姉には敵わない。皆から綺麗だと誉められても、この姉がいる以上、彼女は謙遜ではなく本心として自分はさほど綺麗でないとばかり思えてしまう。
 彼女の言う面白いものが何かは分からないが、かなり機嫌が良いということはよく分かった。機嫌の良い姉は、家族には何の害も成さない優等生だ。しばらくは平和な日々を過ごせそうだとかるらはほっと一息ついた。

「あ、そうだ。ごめんねかるら、ラブレター渡しそびれちゃった」
「えっ、あ、明日でも大丈夫だよ」
「そう、じゃあ明日渡しておくね」

 それだけ言い残して、リビングの扉をそっと閉じた魅修羅は鼻歌混じりに階段を登り、自室へと向かった。そんな姉の様子を眺めて、かるらは彼のことを思い出した。
 今にも壊れてしまいそうな、儚げな空気の男。

「時雨先輩……」




「それにしてもかるら、あんなののどこが好きなんだろ?」

 自室の魅修羅はふと呟いた。妹が思いを寄せる男は、自分が見ている限り、それほど良い人だとは思えない。それなのに、かるらは心底篠宮に惚れている。
 恋愛、それは自分ではなく相手のことを想ってそう在りたいと思うこと。自己犠牲からなる、他人を尊重する行動。
 下らない感情だ。そう、魅修羅は吐き捨てた。  

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.5 )
日時: 2018/04/18 16:48
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM

 ふと、家の中が静まり返った様子を篠宮は感じ取った。さきほどまで響いていた激しい絡み合いは、どうやらもう終わったらしい。静かになったから目が覚めるだなんて、我ながら変わっているなと篠宮は自分の事を嘲笑した。
 その時、彼の唇に、頬に、腫れた目蓋に鋭い痛みが走った。ぴりぴりと肌を刺す痛み、そう言えば今日も神田林に殴られたのだったと彼は思い返す。顎の下で凝固した血液はどす黒くなってぱらぱらと崩れ落ちた。
 時計の方に目をやる。時刻は六時、日も暮れて、街灯が点き始めている。すっかり昼寝をしてしまったようだと、篠宮は体が痛まないようゆっくりと立ち上がった。
 その時だ、彼の目の前で扉が開いたのは。どちらが入ってくるのか、気にはなったがだからといって彼は身構えない。誰であっても、自分にはただ受け入れることしかできないからだ。
 逆光でシルエットしか分からなかったが、細身の体ゆえにこれは凛だろうなとすぐに察せられた。案の定、彼女は一糸まとわぬ姿のまま、篠宮に駆け寄り抱きついた。神田林になぶられた体が悲鳴を上げる。幸い、抱きついている間は顔を見られないので、苦悶に耐えかねた彼はその顔をしかめた。

「お帰りなさい。ご飯、これから作るからね」

 その前に服を着るべきだ、などと篠宮は口にしない。わざわざ彼女のする事に指摘しようとも、無駄だとは分かっている。この人はいつもそうだと、割りきってしまっているのだ。
 この女、篠宮 凛は弟である時雨を溺愛している。しているがゆえに、ネジが外れてしまっている。彼女は篠宮の事を、篠宮に愛される事だけを生き甲斐にしている。だから自分の存在を、嗜好を、行動を、篠宮から注意され、怒られ、嫌われることを何よりも恐れている。そしてその恐怖は怒りとなり、暴力となり篠宮に襲いかかる。だからこそ、この女が何をしようとも彼は抵抗しない。それこそが、最も平穏な道だと彼は思っているからだ。

「父さんは?」
「アルコール飲んだ上でしちゃったんだからぐっすり寝てるわ。多分朝まで起きないし……今日は私もお店休みだし……ね?」

 ああ、その日なのかと篠宮は無感情に納得した。定期的に貰える休みだからこんな時間に彼女が家にいる訳だ。もしかしたら今日はシフトが深夜に入っているから今いるのかとも思ったが、そんな訳ではなかった。
 とすると、今晩はおそらく眠ることはできないだろう。夜通し、姉と対話をしなければならない。体の痛みのおかげで、眠気を堪えるのは幾分か楽そうだ。そんな篠宮の思考が曲がったものであることに、彼自身は気づく気配もない。

「晩御飯は時間がないから簡単なものでいい?」
「うん」

 彼女からこのように尋ねてきた場合は、ノーと答えても怒られない。手の込んだものが食べたいと言えば彼女は間違いなく作るだろう。だが、彼には『こうして欲しい』という欲求はない。そのため、彼女が簡単なものを作ると言えばそれで納得する。
 まずはあの人を寝室に運ぼう。そう言ったのは凛の方だった。寝室とは、今まで篠宮が一人で籠っていたこの一室である。三枚の布団が無造作に広がっている。
 廊下に飛び出した凛の裸体が篠宮の目に鮮やかに映った。見慣れた光景ゆえに、彼にとっては額縁に飾られた裸婦の絵を見たくらいの感慨しか湧かない。無関心にほど近い、見てしまったと思ってしまうだけの心の動き。
 彼女の太股の内側に垂れた、濁った粘液が糸を引いている。それを目にすると、いつも彼の背筋を悪寒が走る。これは一体どうしてだろうか、母のトラウマが遺伝していると言うのだろうか。抵抗を知らない篠宮に制御できない、唯一の嫌悪感。
 食品に触る前に、軽くシャワーを浴びると言い残して、凛は浴室へと消えた。取り残された篠宮は、父の姿を目にした。考え事をしている間に、父の運搬は終わってしまっていた。
 脂肪に包まれた慢性アルコール中毒の男、この男も被害者である事に相違ないだろうなと思いふける。ある一つの事件をきっかけに、幸せな家庭を、自らの人生を全て失い、奪われた男。その末路がこれだ。
 そしてその不幸は波紋を呼び、篠宮に、凛に輪を広げる。そしてきっと、篠宮もその波紋を誰かに広げてしまうだろう。そんな事があっても良いのだろうか。
 その答えはとっくに出ている。だからこそ、彼は死にたがりなのだ。
 どしゃ降りみたいなシャワーの音だけが聴覚を支配する。いっそこのまま溺れてしまいたい。ふと彼は、そう考えた。

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.6 )
日時: 2018/04/19 00:29
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM


 彼女がシャワーを浴び始め、十数分。ザアザア雨が降るような、水の打ち付ける音がようやく扉の向こうで止んだ。ぴちゃぴちゃと、体から垂れる水の声が、不定期に。二枚も隔てているというにそんなものすら聞こえるほど、彼らの住むその借り家は壁一枚が薄かった。残響すら鳴り止み、今度は静かな摩擦音。更衣室とを隔てる壁、その向こうで体を拭いているのだろう。
 時計を見れば、十八時半といったところだった。時間の流れが酷く遅い。きっと姉がいるからであろうと彼は推測した。彼女が夕食だけ置いて、夜の街へと勤めに消える、そんな日はあっという間に夜が過ぎ去る。もし父親が起きていれば、同じように時間はだらだらと過ぎていくが、多くの場合父は十九時頃から飲んだくれてすぐに寝こけてしまう。凛がいるからか、今日はそれより幾ばくか早かったようである。
 気が楽な日であれば、数品目の献立がラップをかけられて並ぶ食卓。だが、今日は皿一枚たりとも並んでいない。寝室の暗がりが心地よかったのだが、父親を其処に動かしてしまったがゆえ、寝室を後にせざるを得なかった。もし万一、目を覚ました彼が真っ先に見据えたものが自分である訳にはいかない。既に神田林から殴られているというに、これ以上怪我を負うわけにいかなかった。日に日に、生傷を言及されるのをかわすのも困難になっている。
 雨の後には暴風が唸る。髪を乾かすための熱風が、ドアの向こうで五月蝿く吠えていた。凛姉さんの髪は長いから、もうしばらくは出てこないだろう。彼自身上手く自覚できてこそいないが、たった一人食卓に座して、為すことも無いままじっとしているこの時間は、日頃張り詰めた筋肉も弛んでいた。
 ふと彼が閉じた瞼の裏側、天使のような彼女の笑顔が浮かんだ。天真爛漫にはしゃぐ声に、その態度とは不釣り合いな焦点の合わない瞳。言うなれば我が儘な、言い換えるなら素直に生きている少女。今日出会ったばかりの、彼とは対極に立つようなその生きざま。羨ましいと感じているのだろうか。彼は自問した。しかしすぐさま、首を左右へ。これはきっと得体の知れない彼女を恐れてやまないだけだ。
 しかし何故だろうか、彼の脳裏から魅修羅の顔は消えない。自分の持たざる大切なものを、彼女は代わりに手にしているという確証があった。余りにかけ離れたその人柄は、近づけばひりひりと胸が痛むというに、目が離せない。その光に網膜を焼かれそうになっても、彼は魅修羅から視線を逸らせずにいる。
 不味い兆候だと、彼は態と自分の左目、その少し上の辺りの肉をつねった。鋭くて、でも鈍い。表現が矛盾するような激痛が、顔中に走った。刺激の強さに顔をしかめる。父親を起こさぬよう、声だけは堪えた。それはまるで冷や水のように、強い信号を送りつけて、夢を見てしまいそうな脳を覚醒させた。これこそが君にとっての現実ではないかと、彼は己自身に言い聞かせる。忘れてしまいそうになった、痛みしかない棘の生え揃った道。それこそが、これから進まなくてはならぬ、歩み続けなくてはならぬ道なのだ。
 あんな女のことなど忘れてしまおうと決めた。あれは自分にとって手に余る存在なのだ、意識を向けるだけ間違っている。この日常を受け入れるためには、天上ヶ原のような無邪気さなど必要ない。むしろ邪魔だ。そんな風に言い聞かせる。あれは毒だ、それも純黒の。一滴落ちただけで波紋を呼ぶ、どんな人間に対してもだ。そうして、じわりじわりと放射状に広がっていく。ずっと黙って意志を圧し殺して、堪え忍ぶために手に入れた汚れ無き心の静謐。それが途端に薄汚れてしまいそうだった。真っ白な布地に、一滴の墨汁が滲んで台無しになるみたいに。
 木の扉が軋んで、更衣室と居間との空間が繋がった。ドアノブを握ったまま、髪を下ろした凛が現れた。布の薄いボーダーのシャツが肌に張り付き、ボディラインを際立たせる。体を温めたばかりで、全身から湯気が立ち上っている。華やいだシャンプーの香り、深紅の花びらが思い浮かんだ。椿の香りがする洗髪剤を、彼女は昔から好んで使っている。
 女性らしい曲線を描いたその体のラインが疎ましかった。立ち上る湯気からも水ではなくて花の香気が漂うが、そんなものすら醜悪に感じる。どうして、この人の中にある女の部分を受け入れられないのだろうか。それはきっと、家族だからに他ならない。近しい者の性的な部分など、見たくもないし聞きたくもない。だとすると、あの父の中の男を受け入れられないのはどうしてだろうか。彼はあの男と、血など繋がっていないというに。
 これからご飯を作るねと、彼女は彼の頭を撫でた。いい子だから待っていてねと告げるような声音だが、その裏に潜む利己的な欲求に彼が気づかない訳が無い。単に彼女は、愛する弟とふれあいたいだけだ。その手が頭に軽く乗せられ、柔らかな髪がくしゃくしゃかき混ぜられる。ろくに散髪も行けず、ボサボサに伸びた髪が、チクチクと顔に刺さる。その度に思い出す鈍痛、けれども顔色を変える訳にいかない。頭を撫でられるだけで、髪の下に隠れた瘤が鋭く叫ぶというに、嫌な顔一つできないだなんて苦行でしか無かった。
 例え傷があるせいだと言っても、彼女は聞き入れようとはしないだろう。彼女を避けて、彼が顔をしかめたと信じ、暴力に走るその姿が簡単に予測できた。だから彼は、抵抗しない。弟に愛されたい、受け入れられたいとすがる凛の意志に。そもそも、母すら遠くへ失った彼にとって、愛してくれる人など、たとえその寵愛が歪んでいようとももう、彼女しかいなかった。
 ようやっと気が済んだ姉は、台所の方へと爪先を向けた。安堵の溜め息一つ漏らすこと無く、彼はその背を見送る。見送ると言っても数歩先の調理場に立っているだけなのだが。乾燥用のラックからまな板を、下の戸棚から包丁を、最後に冷蔵庫から食材を取り出す。今日はご飯前に父が寝てくれたため、夕食がきちんと食べれるなと、当然の事を至極珍しい贈り物のように彼は享受した。
 リズムよく包丁がまな板を叩く音が部屋の中にこだまする。あっという間に切り終えた野菜をボウルにまとめて、スーパーで安売りしていたらしい豚肉の切り落としを食べやすくなるよう切り分ける。ちょっと微睡んでいたところ不意に、熱したフライパンに食材を投げ込んだ、低い唸り声が響き始める。炒められた食材の、表面の水分が爆ぜる音。肉の焦げる香ばしい匂いが部屋の中に充満した。
 僕の血肉も、焼いてしまえばこんな風に美味しそうに香るのかな、などと考えてみる。だが、髪の毛先を燃やされた時の事を思い出すに、悪臭がいいところだろうなと思い直した。何せ僕は腐っているのだから。それは死臭とは全く違うにも関わらず、死んだ生き物よりずっと嫌悪すべき臭いを放っていた。生きながらにして腐るだなんて、どうにも息苦しい理由が、彼にも分かったような気がした。
 鮮烈というのはきっと、彼女のことを指すのだろうな。焦点の合わぬ双眸が、瞑目すると共に、また暗い闇の中に。あれはきっと、焦点を合わせられないのではない。何に対して集中するべきなのか、分かっていないのだろうなと思い至る。彼にとっては、何より凄惨で、救済の見込みもまるでない、色彩も消えてしまいそうな血と灰色に染められた世界。それでもきっと彼女には、何処より美しく、星の数ほどの娯楽に満ちた、虹色に煌めく景色なのだろう。あっちこっちの花々に目移りして、どれを真っ直ぐ見据えていいのか決めきれない。右目であっちを見て、左目ではそっちを見て。それでは焦点など合わないはずだ。
 コトリと目の前で一音、二音。目を開けば目の前に、肉と野菜を炒めたものが現れた。今日は時間が無かったから一品で我慢してね、と肩を竦める凛。きっと、それが可愛らしく映る仕草だと知っているのだろう、理解していながらそんな態度をとる彼女が、篠宮にはおぞましくてならない。けれどもそれは顔に出ない。その本心に彼は気づこうともしていないようであった。服の下で鳥肌は立っているのに、冷静な頭脳がその情報をシャットアウトしている。知ってしまえば、もうこれまで通りに振る舞えないと本能だけが理解していた。
 時間が無い訳ではなく、勿体ないだけだというのは流石に篠宮も理解が追い付いていた。日頃仕事のある日でさえ、一つ一つが簡素とは言え三品目作り上げてからネオンひしめくコンクリートの海に出立する彼女だ。休日で、この後どこにも出掛けなくていいなら、それこそ夕食作りに割ける時間は多くなるに決まっている。例え夕刻に父親とまぐわう相手をさせられていたとしても。
 焦げ茶色の、粘度の高い液体に半分浸るようにして肉と野菜が現れた。香ってくるのは、大豆の発酵したあの独特の香り。味噌で味をつけたのかと鼻で理解した。背筋を伸ばしたみたいにシャッキリしたキャベツが、薄く切られたよく火の通った、クタッとした人参が肉と一緒に真っ白な皿の上に。それをおかずに食べろと言わんがばかりに、白米が用意される。昨日炊いて、冷蔵庫に入れておいた米を、埃が被った古い電子レンジで温め直したものだ。
 胃の中には何も入っておらず、空腹で鳩尾の辺りが痛くなり始めていた。しかし、痛みには慣れっこであるため、彼はそんな事に気がついていない。考慮すべきは、この品が姉によって調理されたこと。決して、残す訳にはいかなかった。残すような量でもないため、食べきることができるかはさしたる問題ではない。感想を述べねばならぬことが、何よりも苦行だった。
 手を合わせ、日本人らしく戴きますと口にする。目の前に座る凛が、同じように振る舞った。好きな人と同一の所作を繰り返し、相同性を確かめるような一連の流れに、辟易しそうになる。どうすれば彼女が喜ぶか理解している彼はというと、照れ臭そうな仮面をつけて、はにかんでみせた。
 箸で持ち上げた肉と野菜とを口に含んだ。味なんて、ろくに分からなかった。別に誰と共に食卓を囲むか、何を食しているのかに問題がある訳ではない。いつの頃からか、いつ何時、何処で何をどんなコンディションで口に含んでも、ほとんど味の違いが分からなかった。
 キャベツを噛み締める。しかし、繊維質の紙切れを頬張っているようにしか思えなかった。少し固い歯応えのニンジンなど、厚紙や段ボールかと一瞬間違う程である。最悪なのは肉だった。切り落としの薄切りであるため、当然中から肉汁溢れるなんて事はない。ぱっさぱさの、薄く引き伸ばした粘土を咀嚼しているようにしか思えなかった。旨味なんて、何も感じない。その舌が感知する味わいは、塩味だけに限られていた。
 なぜ塩味のみなのだろうか。防衛本能では無かろうかと、彼は推察した。食事よりもずっと、自分の血を嘗める回数の方がずっと多い。鼻血を啜る回数まで合わせれば、どれだけの回数になるのだろうか。沢山切り傷が出来た口の中、塩味で出来立ての、未だ湯気放つ熱々の肉野菜炒めが染みる。口内に針を何百本と刺されたように、頬の内側を鋭い痛みが駆け抜ける。だが、彼は顔色一つ変えやしない。血の味も分からなくなれば、自分が血を失っていることも気づかなくなる。そうなっては、死神へとまたもう一歩近づくことだろう。そうならぬように、これだけは忘れてはならないのだ。

Re: 死にたがり少年と壊したがり少女 ( No.7 )
日時: 2018/04/20 17:06
名前: hiGa ◆nadZQ.XKhM

 黙々と二人は食べ進める。食事中、よほど気になることが無い限り、彼女は四宮に話しかけない。特に今日のような日は、これからいくらでも言葉を交わすことができるためだ。その分、今は咀嚼するその様子をじっと眺めていた方がよほどいい。彼女としては作り物の仕草と気が付いていないが、美味しそうな顔を無理に作って食べているその様子が、堪らなく愛おしいからだ。この表情が演技だといずればれたとしたら、今度はどんな目に合うのだろうか。悪い想像を働かせる四宮の藍色の心境など、全く把握していない。
 表面が乾いて、少し硬くなった米を口へと運んだ。焼き餅みたいな表面を無理やり噛み潰すと、ようやく炊き上がった白米と似た香りがした。嗅覚だけは正常に働く様子に、彼は自分のことをまるで獣のようだと思った。どうせ野を走る獣とて、味など鉄の味しか知らないだろう。自分よりもよほど、赤い血潮滴る肉を食む機会に満ちているはずだ。
 肉が粘土ならば、米はさながら糊だなと、篠宮は嘆息ごと口内の異物を飲み込んだ。噛むほどに押し固まり、粘り気ある一つの塊となっていく白い粒たち。噛んでいるうちに酵素で甘くなるんだっけ。理科で習ったような知識を掘り返せども、どうせ甘味など分かりはしないと諦めた。喉を大きく鳴らし、嚥下。何となく喉に何かがつっかえた気がしたが、それはきっと物理的なものではないだろう。
 コップに注いだ水道水を流し込む。口内を、咽頭を、そのまま洗い流してくれたみたいだった。何となく喉元の通りがよくなったような気がして、息を一つ吐き出した。弱い吐息が撫でただけなのに、頬の裏側が疼いた。何を食べても何を飲んでも、鉄臭い血の味がした。
 皿に盛られた肉と野菜の山が半分ほど消えたあたりで、不意に凛は口を開いた。

「ねえ、時雨」
「どうしたの、凛姉さん」

 箸を置き、その目を真正面から見据える。食べながら聞いてくれても構わないと彼女は言うが、そんなに器用なことができるのか半信半疑であったため、彼は一度手を止めることに決めた。今の傷だらけの顔で、食べながら喋るだなんて器用なことができるか疑わしかったというのは事実である。
 彼女の視線も、真っすぐ篠宮に釘付けになるよう降り注いでいた。ピントが四六時中彼にしか合っていないような彼女。その恐るべき執着にも似た愛が、醜く汚らわしいものに見えてならない。片時も間隙の開くことなく、監視されているような息苦しさ。強力なテープで張り付けられたみたいな関心が鬱陶しいのだろうか、彼はこの目を向けられるのは好ましくなかった。興味を持っているようで、全く違う所を見ているような天上ヶ原の視線を浴びても、全く不快感は無かった。友と呼んでいいか分からないような級友達の好奇の目も、別段何をしてくれる訳でもない教員達の同情の眼差しにも何も感じないと言うに、どうして彼女の愛はこれほどまでに重たいというのだろうか。
 だが篠宮は、その重すぎる愛から逃げる術を知らない。そもそもあまりに大きすぎるその寵愛は、どれだけ遠くに行こうとも、結局彼の頭上にあるように思えてならない。裾野を大きく広げた山が、上空から圧し掛かってくるようだった。自分の足でどれだけ慌てて走っても、結局逃げきることなんてできやしない。
 それは、毎日彼を嬲る暴力も同じだった。何処へ行こうともついて回る、尊厳をそのまま撃ち砕くような暴威。家に居ても学校に居てもそれは変わらない。両者から逃げ出そうとしても補導されて結局は振出しに戻る。どこに出向こうとも開拓地と振出しとを行ったり来たりさせられるような、負け組確定の人生ゲーム。そう思った途端に、彼は生きる意味を忘れてしまった。
 生きるとは、死までに訪れる無数の艱難辛苦に抵抗する一連の過程そのものだ。死を受け入れたその瞬間、人は死んだと言っても過言ではないように思える。そして彼はと言うと、もうとっくに抵抗の二文字を失ってしまっていた。自尊心という鎧は砕けて、嫌悪感という方位磁針を失い、反逆と言う剣は折られた。もう二度と蜂起などできやしない、無様な敗残兵。生ける屍とはきっと、自分のことを言うのだろうな。他人事のように、篠宮は評した。
 僕の生はいつ閉ざされた? 僕と言う自我が芽生えた頃の記憶を彼は思い出していた。あの頃はもっと、世界が七色に輝いて見えていなかっただろうか。こんな、赤と無彩色しか見えないような無機質な視界では無かった。けれども、彼はもう思い出せない。箸で持ち上げたキャベツが、まるで漫画の絵みたいに見えた。白黒で、色合いなど欠片も存在しない。
 夜空を見上げれば、当然真っ黒だった。では昼間はどうであったか。網膜が捉え、保存していた昼間の光景を思い浮かべる。空には、雲一つ浮いていなくて。それでもなぜか、灰色の空間が地平の端まで広がっていた。空とは、青色で合っていただろうか。青色とは、どんな色だっただろうか。タイムスリップしたモノクロームの世界、乾きかけのどろどろした赤黒い体液。それよりも色鮮やかな代物を見たのは、いつが最後だろうか。
 一時の思案、その間、凛から話しかけられていたことなどすっかり忘れてしまっていた。

「今日の時雨、ちょっぴり変な臭いがしたのよね」
「臭い?」

 今日は別段、汚いものなど浴びてはいないはずだ。といっても普段から汚物を浴びせられたことなども無いが。彼が受ける暴力とはそう言った、尊厳を蝕む毒気のような陰湿な代物では無かった。単純明快に彼の意志を、勇気を、自尊心を、凸凹にするように殴りつける。痛みによる制裁、それこそが彼の受け続けている理不尽だ。
 悪臭など香るはずも無い。

「ちょっぴり、甘くて、可憐で、可愛らしい」
「それって変な臭いなの?」
「ええ。豚小屋の臭いと変わらないわ」

 醜悪で、反吐が出る。そうやって吐き捨てているように彼の目には映った。彼女の言わんとしている事がようやく納得できた。彼女の価値観においては確かに、その匂いは悪臭たり得るのだろう。

「どこの阿婆擦れとも分からない、女の子の臭いよ」

 天上ヶ原のせいだなと、無感情に篠宮は理解した。それにしてもまだ中学生だというのに、どうして香料など身に纏っているのか。自分がその匂いに気が付けなかったのはきっと、鼻腔の奥に詰まった血栓が原因だろうと推測した。
 だがそれよりも驚いたのは、脳裏に思い描いた彼女の姿が、あまりに色とりどりだったことだ。明るいブラウンに染まった、ウェーブのかかった長い髪。青い星が瞬くようなピアスに、苺みたいに鮮烈な朱を放つルージュ。そのどれもが、あまりに瑞々しい色彩に満ちていた。灰色の町の上に、カラフルな彼女が闊歩する。並んで歩く人影は自分のように彼には見える。けれどもその姿は、黒で塗りつぶされたただの人形(ひとがた)でしか無かった。
 あれこそが、自分だと言うのだろうか。

「その子、誰なの?」

 まだそれが友人だとも告げていないのに、彼女は既に目が据わっていた。娘が彼氏を連れてきた父親のようにも思える。誰なの、そう問われても彼に答えられることなど限られていた。

「天上ヶ原、魅修羅」

 端的に彼女の名前を答えた。しかし、常識から片足を踏み外したような聞き慣れない名前の響きに彼女は思考が一瞬置いてけぼりになる。みしゅら、その言葉をどう変換したらよいものか決めあぐねる。おそらく漢字で差し出しても今度は何と読めばいいのかと思案することだろう。
 だが今は、害虫のごとき女の名前なぞどうでもよかった。議題に挙げるべくは、その害虫が如何なる悪影響を弟に及ぼしたのかの一点のみである。まさかとは思うけれど、などという「違うと言え」という脅迫めいた文言をまず述べてから、また問う。

「彼女?」
「いや」

 即答だった。それは別に凛が脅すように問うたのが理由ではない。あのような悪魔と付き合うだなんてまっぴらごめんだと言うのが彼の本心だった。あくまで、いざ本当に告白などされようものなら、抵抗を知らぬ彼は受け入れるだろうが、自分から彼女を好く姿など想像できもしなかった。姿かたちこそ天使のようだが、その頭蓋を割ってみれば角と尻尾の生えた悪魔と対面できそうに思えた。

「何だ、ただのお友達なのね」

 それさえも否定したかった。しかし、ここで変に否定してやはり大切な人なのかと詰問されれば堪ったものではない。降りかかる火の粉を払う労力は惜しむが、わざわざ火に油を注ぐ必要は無い。何せ彼女の胸の内に巣食う真っ黒な炎は、他の者の憎悪嫌悪の業火と異なり、彼を打てど殴れど決して消えはしない。傷つけたその事実が、わざわざ傷つけさせたその原因が、憎くて憎くて我慢が効かなくなり、より多くの愛と言う名の鞭で篠宮を痛めつける。
 いっそその方が早く死ねるだろうかとも思えたが、わざわざ死に急ぐ必要性も感じなかった。このまま生きていれば近いうちにどうにかなるだろう、と。そう思えば成り行きと言う水の流れに全て任せてふらふらと漂う木の葉のように過ごしていたい。余計な力を身の内から捻りだすのは、どうしても億劫としか言い表せられなかった。

“抵抗は知らない癖に、死を受け入れるつもりは無いんだ?”

 脳裏ではしゃぐ天上ヶ原が問いかける。そうじゃないんだと、想像の産物である彼女に対し、脳内で彼は首を横に振った。この世には、楽しいことが溢れている。それが天上ヶ原の価値観による、現世への評価である。それゆえ、死とはおぞましく忌むべきものであり、生を奪われることは苦痛なのだろう。それゆえ、流されるまま抵抗しないくせに、死だけは拒むように見える篠宮の事が歪に見えるのだ。少なくとも、篠宮が作り出した幻影の天上ヶ原はそう感じているはずだ。
 しかし、篠宮の意見は違う。この世には、辛くて苦しいことが多すぎる。食事も睡眠も風呂も性交渉も、ありとあらゆる人間の求める快楽が、彼にとっては避けるべき事物でしかない。無味乾燥なただの栄養摂取に、瞑目すれば次の瞬間何が起こるか分からないような意識の放棄、全身の生傷に追い打ちをかけるような禊ぎはまるで自分の身体が邪だと咎めるように痛みを与えてくる。素肌を重ね合わせる醜悪な行為は、胃酸がせり上がってきて堪らない。
 死と言うのは僕にとって、この散々な生者の世界から逃げ出すための手段でしかない。それは一種の抵抗だった。暴君めいた神田林や、父から逃げるための逃げ道。蛭のように血肉を啜る姉と、もう二度と会わないための隠れ蓑。手を伸ばせば届きそうなこの世界の太陽と比べて、遥か彼方に位置する極楽浄土の光の方がずっと眩しくて、つい縋るように求めてしまう。
 しかし、どうしてだろうか。彼にはその景色のその先に、天上ヶ原が見えてならない。ずっと目が焼かれそうだと思いながらも恋焦がれていたその浄土の極光の前に天上ヶ原 魅修羅が座しており、自分が縋ろうとしていた光明は彼女の後光に過ぎないように思える。
 そんな訳、無いじゃないか。全ての事物が僕と異なる、そんな彼女を僕が理想だと掲げる訳が無いと、強く否定した。

“つくづく、価値観が合わないわね”

 そうさ、その通りさと彼は肯定する。君と僕との価値観が合っていて堪るものかと。
 脂汗が、背中を滴る。シャツが素肌に張り付いており、酷く気持ち悪い。こんなに水分をとった覚えも無いのになと、何故だか分からぬ体の変化が酷く恐ろしくなった。
 彼女の顔を思い浮かべ、それを消し去ってしまおうと、真っ白な米を口に含んだ。脳裏のイメージを磨り潰したいみたいに、彼は何度も何度も糊みたいな塊を噛み締める。
 しかし、どうしてだろうか。何故だか今日のご飯は、甘ったるく感じられた。
 ばらばらにしたと思った、彼女のビジョンが再び、ドットが集まるみたいにして再構築される。その顔は、だから私の言った通りじゃない、と、得意げに勝ち誇っている、そんな気がした。

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