ダーク・ファンタジー小説

その翳、離れがたく繋ぎとめるもの
日時: 2018/11/28 14:52
名前: 樋口銀

2月14日、バレンタイン。
とある広場の時計台の窓辺に、一人の老人が力なく座っている。彼は皺だらけの手に弱く握ったチョコレートをただひたすらに転がしている。包み紙の音が暗い時計台の中にかすかに響く。
老人がこのチョコレートを貰ったのは今日の昼過ぎであった。 昼食を食べに来たであろう会社員たちが溢れかえる商店街で二十二、三の女性が配ってきたのだ。 訳を尋ねるとその女性は先日婚約したらしく、彼にプレゼントを買うため秘密で今日限りのバイトをしているという。老人は彼女の純粋さに感動した。いや、それだけではない。 彼女のその冬の精霊のような外見にも感動し、心を奪われた。同時に、心の中で失っていた“何か”を感じた。
冷え込んだ冬空を窓から眺める老人の目には降り始めた雪が映っている。
老人は、愛をなくした人間だった。老人がまだ若かった頃、彼の妻は自害した。しかし、彼は涙はおろか悲しむことすらしなかった。 なぜなら、彼は見てしまったから。自分の妻がバレンタインに他の男へチョコレートを渡しているところを。妻は必死に訳を話した。しかし怒りと辛さでいっぱいだった彼は聞く耳持たず妻を責めた。その日が彼が妻と会話をした最後の日だった。
老人は昼間の女性を思い出す。
ー先日婚約したと言っていたな。それなのに私のような他の男にチョコレートを渡したのか?あぁ、違う。仕事、バイトか。彼にプレゼントを買うのだったな。
ふと、妻の姿が脳裏をよぎる。
ーもしかしたら私の妻も、秘密で働いていたのではないだろうか。だとしたら、私はなんて酷いことをしてしまったんだ!!
もし今日の場面を女性の彼が見ていたら、、、老人の頭はそのことでいっぱいになった。 若く美しいあの女性が自害する光景が目に浮かぶ。
そして、彼は自分に言い聞かせるよう呟いた。
「まだ、間に合う。私が妻を愛せば、許せば、許してもらえれば…」
男は時計台の窓を開けた。雪が風に乗って吹き込んでくる。 外を見つめる彼に『力なく座っている老人』の姿はない。彼は今、一人の男になったのだ。
その瞬間、彼は宙を舞った。飛び降りたのだ。
「さよなら、そしてありがとう。」
2月14日、バレンタイン。とある広場の時計台の下に、一人の男が死んでいる。
彼の手には一粒のチョコレートと写真が握られている。若かりし日の彼の横で美しい女性が笑っている。
その女性は例えるならば冬の精霊。彼が人生で二度、心を奪われた女性だ。
…いや、二度目が彼女とは断言できないのだが。
以上のことは全て、たった五分間の出来事である。 果たして彼は妻と出会い、許し合えたのだろうか。
そして、妻がチョコレートを渡していたのは本当にバイトだったのだろうか。
私たちには知る術もない。

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