ダーク・ファンタジー小説

Re: 2006年8月16日 ( No.3 )

日時: 2015/05/17 04:21
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 学校からの帰り道、ふと目に入ったのは、河川敷で小学生ぐらいの子供達がサッカーをしている光景だった。

 その傍らには野球のグローブが二つずつ、合計四つ放置されている。
 恐らくゴール代わりなのだろう。少年の一人がグローブとグローブの間に向かってシュートを放った。惜しくもゴールキーパーに止められてしまったが、その少年の表情はシュートを止められてもなお晴れやかだった。

 笑い声や叫び声が、何度もこちらまで聞こえてくる。その純粋なまでの活力に、しだいに目も当てられなくなり、すぐに視線を落とした。

 そこには一際大きい水たまりがあった。
 昨日の夜降っていた雨でできたそれは、他でもない空の青さを映し出していた。

 2013年12月23日、僕の通っている中学校では二学期の終業式が行われた。
 厳しい寒波はこれからやってくる。空は青く澄み渡っていた。

 そんな中、受験生に対する周囲の期待や関心はピークに達していた。
 誰もが皆、僕が中三だと分かった途端、志望校や勉強の進捗状況を事細かに聞いてくる。
 正直、それがこの上なく不快だ。

 僕は、重い足取りで帰路につく。
 ……相変わらず、こういうことにイライラしている自分に、いい加減嫌気がさす。今まで怠けて過ごしてきたのは、ここにいる僕自身だろう。

 さっきは前方から聞こえたサッカー少年達の歓声も、今では後方から聞こえ、僕が前に進むにつれ少しずつ小さくなっていく。
 でき得ることなら、僕もあの輪の中に入ってもう一度遊びたいとさえ思ったが、無理だとすぐに分かった。
 ……現実では、僕は彼らとは背丈も声色もまるで違う、中学三年生だった。


 今僕が歩いている河川敷沿いの道をまっすぐ行くと、右手に商店街が見える。
 その商店街をまっすぐ進んで抜けると、住宅街があり、そこに僕の家がある。
 雄輔や早紀の家も近くにあり、僕らはよく商店街で遊んでいた。

 ……前まで三人で通っていたこの通学路を、当たり前のように、今日も僕一人で歩いている。

 あれは確か、中学に入って半年ほど経った頃だったので、もう二年は前になる。
 二人が突然塾に通いだした、とだけ聞いても、別にそこまで深刻なようには思えないが、僕との間に距離ができるのに、そう時間はかからなかった。
 二人が塾に行くようになってからは、僕と遊ぶ回数がしだいに減っていき、クラスも別だったので、話すことすら無くなっていった。

 右手に商店街が見えてきたので、道路を横切ろうとした。
 その時、後ろから声をかけられた。


「久しぶり」


 言葉が出なかった。

 その声は、過去の雄輔の声とは似ても似つかなかった。

 だが、それは確かに雄輔だった。こちらを見てにやにや笑う仕草に、何故か強い違和感を感じた。
「あ、あぁ……。久しぶり」

「っていうかさ」

 突然、彼は話を切り出してきた。

「香征、お前勉強とかはちゃんとやってんの?」

 一瞬、背筋が凍った。
「ん……、どうだろーなー」
 その動揺をなるべく彼に悟られないように、できるだけ普段通りに声に出すよう心がける。
 だが、そんな慣れない甲冑はすぐに剥がされてしまった。

「そういえば、俺、早紀と同じ塾に入ってんだ。俺らは勉強で忙しいけど、香征はヒマなんだろうなー」

 明らかに悪意を感じる言い方だった。……もう、反抗する力さえ残っていなかった。
 このまま雄輔と殴りあっても、どうせ僕は負けるに決まっているだろう。

 今まで、いや、二年前まで繋がっていた何かが、今、完全に切れた気がした。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.4 )

日時: 2017/04/07 15:26
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 しばらく、何も言う気になれなかった。

「ま、塾入らないなら入らないでいーやー。そういう人生だってことだし。まぁ、精々頑張れよ」

 彼は笑って去っていった。

 大丈夫だと、自分を励ました。
 雄輔がいなくても、今まで通り生きていけばいいだけだ。
 彼が僕を必要としないように、僕も彼を必要とせずこの二年間を過ごしてきたじゃないか。

 別に、悲しいなどという感情は沸き起こらなかった。
 これは、悲しみや、強がりでもなく、変わり果ててしまった彼に向けた、諦めだった。

 彼が歩いていったのは、僕がさっきまで歩いていた方角だ。
 あのサッカーをしている少年達を見ても、彼なら多分、すぐ目を逸らす。


 雄輔と別れてから、僕は歩くスピードを一切落とさないまま商店街へ向かった。
 商店街に向かう際に横切るこの道路は、信号機が付いていないぐらいに、車がほとんど通らない。

「あら、コウちゃんじゃない」

 その声は、商店街に入って少し進んだ頃、後ろから聞こえた。
 僕はすぐに振り返った。

「ほらほら、みんなで食べてね。お母さんによろしく」
 彼女はそう言って紙袋を渡してくる。中にはフルーツが沢山入っていた。
 僕はそれを受け取り、ありがとうございます、といつも通りの礼をする。

「そういえば、コウちゃんってあと少しで受験だよね」
 紙袋を持つ僕の手が震えるのに時間はかからなかった。

「そうですね……」
「高校は、どこ受けるの?」
 彼女は依然としてニコニコして訊いてくる。

「えっと……、私立が京成高校で、公立が紅葉学園です」
 我ながら、このレベルしか狙えない自分の偏差値の低さが、恥ずかしい。

 おばさんの返事を待たずして、逃げるように僕はその場を去った。

 商店街を抜け、住宅街が見えてくる。そこを通り、家が見えてくる。
 その間、一歩、一歩と踏み出す度に、寂しさ、雄輔との埋められない差を噛み締めた。

 一歩、一歩と踏み出す度に、二年前の僕が、今の僕を問い詰める。
 一歩一歩が、とてつもなく長く感じられた。

 少しすると、横に雄輔と早紀の家が見えた。
 僕はそれを直視できなかった。



「あ、お帰りー」

 僕はさっきおばさんからもらった紙袋をそこのテーブルに置いた。
「これ、おばさんから」
 僕はすぐさま上に上がった。早く僕の部屋に行ってゆっくりしたい。そう思った。

 階段を上るのも面倒だった。急ぎすぎて、走って危うくつまずきそうになる。

 自分の部屋に入ると、窓を閉めきっていたせいで、換気されていない嫌な空気が漂っていた。この臭いが、僕をいつも憂鬱にさせる。

 はぁ、と大きくため息をつき、僕は机の上にあるPCの電源を付けた。

 PCが起動すると、初めて見るサイトを適当に回っていった。……なんとなく、こうしていたい気分だった。
 誰とも会話を交わさず、そもそも誰とも会うことなく、こんなにも楽しむことができるというのは、本当にすごいことだといつもながらに感心する。
 そのほとんど悪魔的と言っても過言ではない装置をカタカタと動かしていると、とあるサイトに行き着いた。


 "雑談掲示板"

 その掲示板は、最終更新が2006年8月16日だった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.5 )

日時: 2016/01/27 21:11
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 なんだか、背中がゾクゾクした。
 通常、掲示板を作ってみても、いつかは風化していく場合がほとんどだ。
 いくら利用者が多い掲示板でも、いずれは少しずつ利用者が減っていき、やがては書き込みが途絶えてしまうこともよくある。僕はこれを、今まで何度も見てきた。

 僕はひどくいたたまれない気持ちで、色んなスレに入ったり、画面をスクロールしたりしていくと、この掲示板は2006年の8月16日以前、最低でも一日に一回はどこかのスレで更新があった、ということに気がついた。
 これが示すのは、以前は毎日誰かが必ず書き込んでいたのに、ある日突然それが止まったということだ。

「普通じゃないな」
 普通なら、書き込みが完全に途絶えるにしても、徐々に減っていき、やがてゼロになる、というのが当たり前だ。それが、この掲示板は突然途絶えた。
 横隔膜が震える。これは、普通じゃないな、だけで済ますべき問題なのだろうか。

 さらに調べていくと、メンバー表、というものを見つけた。



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     Member


 えん

  この掲示板の管理人。ノベルゲーム製作企画人で、総監督でもある。CG色彩も担当。


 樹雨

  音楽担当。特技は、どこででも寝れること。


 ゆーた

  原画・背景担当。大阪生まれ。やっぱお好み焼きっしょ!


 莉乃

  脚本担当。アニメや漫画が大好き。


 水音

  スクリプト担当。ゆーたと同じ大阪生まれで、中学生の頃からの友達。やっぱたこ焼きっしょ!


 高校の同級生五人でノベルゲームを制作していきます(・∀・)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 どうやら、この掲示板は、どこかで打ち出されたノベルゲーム製作企画の情報交換も兼ねた掲示板らしい。
 僕はここで画面を戻し、もう一度、色んなスレに入ったり、画面をスクロールしていった。

 スレッド一覧の上には、「ノベルゲーム"Sign"、現在製作中!」と書かれた青色の文字が、右から左へと永続的にスクロールしていく。
 文字が左へと完全に飲み込まれていったはずなのに、また右から同じ文が出てくる。その文字はまるで、自らが立たされている状況を理解できていないようだった。

 2006年というと、もう7,8年も前の話だ。その頃高校生だとすると、もう今は全員大人になっている。
 今はもう、皆それぞれの人生を生きているはずだ。高校生活、そしてこのノベルゲーム製作企画で楽しんでいた頃は二度と戻ってこない。
 8月16日といえば夏休みのはずだが、この企画全員では会わなかったのだろうか。会えない事情があったのだろうか。

 この掲示板は、僕を惹きつけさせる何かがあった。
 何年も前のここでの出来事を、もう五人は忘れてしまっているのだろうか。

 この掲示板は、当時の五人の息づかいを、鮮明に映し出している。
 その姿は、まるで真空パックされているようだった。

 ページの下のほうに、メールアドレスが表示されているのに気がつく。
 これは……、まだ生きているアドレスなのだろうか。
 迷ったが、とりあえずメールを送ることにした。何より、この五人のメンバーの誰かと連絡を取れなければ、話にならない。

 僕は、彼らのことをもっと知りたいと思った。2006年の夏の日に、何があったのかを知りたかった。
 何にしろ、最終更新を2006年8月16日のままにしておくのは、僕には耐えきれないほど悲しい。


「香征、リンゴ切ったけど食べるー?」

 下から、母さんの声がした。一旦、僕は下に降りることにした。
 あのサイトのことが忘れられないでいた。

 彼らのようなゲーム製作企画は頻繁にネットに浮上するが、その中の半分以上はたった一つすらゲームを作れず空中分解していく。
 僕はそれを今まで何度も見てきたし、経験している。

 リビングのドアを開けると、母さんは椅子に座って、テレビを見ていた。リンゴは大きく切り分けられて、皿に並べられていた。
 僕は無言のまま歩いていき、目の前のテーブルにあるリンゴを手にとり、椅子に腰掛けた。母さんはテーブルをはさんだ僕の向かい側にいる。

「それにしても……、最近いいニュースが少ないわねぇ」
 母さんは、コーヒーを飲み干してつぶやいた。つられてテレビを見ると、とある殺人事件が報道されていた。

 確かに、と思った。最近、目を覆いたくなるニュースが昔よりずっと多い気がする。
 連日のように、凄惨な事件が当たり前のように起き、当たり前のようにそれが報道される。僕達は当たり前のようにその事件を聞き流し、当たり前のように毎日が過ぎていく。

 聞き流す、と言ったが、それも仕方がないのかもしれない。
 この世のどこかで起こる様々な事象に一喜一憂していても、余計に悲しむだけだと、僕達はひょっとしたら心のどこかで悟っているのかもしれない。

 ……僕達は、良いことも悪いことも、すぐに忘れてしまう。このどうしようもない時の流れは、全てを洗い流していく。
 今ここでこうやってリンゴを食べていることも、二年前に僕と雄輔と早紀の三人で遊んでいたことも、2006年8月16日に彼らがあの雑談掲示板に集っていたことも、全て記憶の墓場へと向かっていく。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.6 )

日時: 2016/01/27 21:13
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 カーテンの向こうでは、いつの間にか雨が降っていた。

「雨降ってるね」
「ふーん」
 いかにも無関心そうに答え、母さんは携帯を開いた。一度スマホに変えたことがあったのだが、どうもしっくりこなかったらしい。

 ……ほんと、どうでもいい。
 いつの間にかたいらげてしまっていたリンゴの皿の横を素通り、僕はリビングから出た。

 頭が痛くなってきた。
 部屋に着いてすぐにベッドに倒れこむ。
 あぁ、そういえば明日から冬休みなんだ、と一瞬嬉しい気持ちになったが、あと一ヶ月半で受験が始まってしまうという事実がすぐに押し寄せてきて、結果、後味が悪くなるだけだった。
 けれども押し寄せてくる睡魔にどうしても立ち上がることができず、僕の意識は深い闇に沈んでいった。



「香征」


 僕は、母さんのその言葉で起こされた。

「…………んあ?」
「お父さんが駅で待ってる。外土砂降りの雨だから、傘渡してきてあげて」
 ザー、ザー、と、窓の外で雨の音が聞こえる。いつの間にか雨がかなり強くなっていた。

「母さんはご飯作ってるから、香征しかいないの。じゃ、行ってきてねー」
 母はそう言ってそそくさと部屋から出ていった。あまりに一方的で、面倒だなぁ、と言える余地すらなかったので、代わりに母が部屋から出ていった後につぶやいた。

 リビングは、美味しそうな匂いで充満していた。そういえばお腹が空いていたので何か食べたかったが、父さんが駅で待っているとなるとそんなことをしている場合ではなかった。

「んじゃ、行ってくる」
 リビングを出た後そう言って、傘を二つ持って玄関のドアを開けた。今までは若干まだ眠かったが、外の冷たい空気を吸った瞬間眠気が覚めた。
 そして、片方の傘をすぐに開いた。横殴りの雨は、このちっぽけな屋根ではとても防ぎきれない。

 外は路灯が少ないのであまり明るくない。見えるか見えないかギリギリの水たまりを何度もかわす。
 家を出て少し歩くと、道が二手に分かれていた。一瞬右に曲がろうとしたが、左に曲がった。
 商店街や学校に行く時は右でいいのだが、駅に行くには、左に曲がらないといけない。

 進んでいくにつれ、少しずつ明るくなってくる。大型スーパー、信号機、自動車のライト。目の悪い僕には、いつも光はまとまってではなく、花火みたいに広がって、きらめいて見える。

 通気口の近くに美味しそうな匂いを漂わせる焼肉チェーン店の横を抜け、信号を待つ。雨なので、いつもより車の数が多い気がした。
 駅は横断歩道を挟んだ向こう側に見える。雨は一向に強く降り続いている。救急車のサイレン音が向こうから聞こえてくると、曲がろうとしていた車が止まった。

 サイレンの鳴る救急車が僕の前を通り過ぎた瞬間、サイレンの音が変わった。それと同時に、止まっていた車が動き、曲がりだした。
 ――その瞬間、2006年8月16日という日付を、僕は思い出した。
 そして感じた。きっと、僕があの掲示板に惹きつけられたのは、そういう些細な、日常の取るに足らない出来事に隠された切なさを感じたからであるし、あの五人の生々しい息づかいを感じたからであると、ふと諒解した。

 青信号になり、僕は歩きだす。傘をさす自転車が僕の横を抜ける。
 駅に近くなり、人が多く見えてきた。噴水をよけると、すぐそこに雨宿りをしている大群が見えた。
 皆、スマホや携帯を手に持っていた。誰もが、人間より小さくずっと賢いその機械に依存して暮らしている。
 誰もが下を向いていて、上を見ていない。皆同じ姿勢で機械をいじるその姿には、個性というものがまるで感じられなかった。

「香征」
 声のした方を向くと、父さんが立っていた。仕事の時の正装だった。僕が彼を探していたのに、逆にあちらに先に気づかれてしまった。

「はい、これ傘」
 歩み寄ってくる父さんに渡すと、ありがとう、と言われた。

「帰るついでに、スーパー寄ってくか」立て続けに彼はそう言い、傘を開いた。
 平凡な土地に生まれ、平凡な生活をしているのにも関わらず、この人ごみの中で、何故か僕と父さんだけが際立って見えた。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.7 )

日時: 2016/01/28 00:45
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「あのスーパーに行くか」
 彼はすでに歩き始めていたらしく、スーツ姿の背中だけが見えた。

 あのスーパーにはもう何年も行っていない。
 家から近く品揃えも豊富なあのスーパーへは、僕が小学生の頃家族でよく買い出しに来ていた。
 が、新しいスーパーが一駅先にできてからは、自然と来なくなっていた。
 元々車での移動だったので、距離はさほど重要ではなかったこともあり、価格が安い新しいスーパーに行くようになった。

「それにしても、すごい雨だな」
 僕の1メートル先を歩く父さんが、前を向いたまま呟いた。その声は雨音にかき消されそうだった。
 彼は思ったことをすぐ態度に表さないタイプだが、その口調はこの雨にうんざりしているようにも見える。
 ただ、駅からスーパーまでは近かった。

 店内に入ると、すぐに傘をビニール袋に入れた。
 僕は歩き、父さんについていった。
 当然といえば当然だ。雰囲気や物の配置は、やはり変わってしまっている。
 悲しいのは当たり前だ。今まで誰もが感じてきたことであろう。

「なんか要る物あるか」
 言われたので、適当にその場にあったポテチをカゴに入れておいた。先に、カゴには二種類のカレーの素と、ニンジンとジャガイモが入っていた。
 父さんは、僕の入れたポテチを見て微妙な顔をしながらレジに向かった。当然、僕もついていこうとした。
 その時、陳列棚の隙間からとある女の子が見えた。そして僕とほぼ同じ瞬間にあちらも僕の存在に気づいた。
 目が合ってしまったと思ったとき、僕はすぐに目を逸らした。ただそれだけのことが何故かものすごく恥ずかしくなって、すぐに僕はその場を去った。

 会計を済ませ、買ったものをレジ袋の中に詰め込んだ。
 寒いのは分かっている。僕は逃げるように店内から出て、まだ雨が降っていることを確認すると、すぐに傘を開いた。
 父さんが片手で傘をさそうと四苦八苦しているのを見て、僕は彼の手からレジ袋を奪い取った。すぐに僕の腕に重みが伝わり、礼を言う父さんの声が聞こえた。

 僕たちは凍える寒さに耐え、半ば勢いだけで夜道を歩いていった。


 焼肉屋の横を過ぎたとき、腹が鳴った。

 足が疲れてきた。歩くのが面倒だなとは思いつつも、口に出すのはもっと面倒だ。
 寒さに耐えながらさまざまな知略を巡らせた結果、何も言わないほうがいいという結論に行き着いた。
 その一連の思考回路に、我ながら、馬鹿だなぁとため息がでる。

 この通りに入った途端、いきなり人気がなくなり、道は真っ暗になる。
 この雨なので当然だが、服がびしょびしょに濡れていた。気持ち悪かったが、我慢するしかなかった。

 どうせ、まだ雄輔は塾にいるのだろう。進むべき道を正しく進んでいるんだろう。
 この暗く寒い中、雨に濡れ歩く今の僕が惨めにしか見えなかった。

「なぁ、父さん」
「ん?」

 暗闇の中、少し遅れて返事が返ってくる。
 僕が感じているこの不安感。僕より何年も早く生まれ、何年も先に中学を卒業して、何年も前にさまざまなことを経験している父さんなら解ってくれるのだろうか。

「父さんって、俺の歳ぐらいのとき、どんな感じだった?」
 さまざまな疑問が僕の頭上に飛び交う中、訊くしかないという気持ちで飛び込んだ。

「懐かしいなぁ」
「……えっ?」

 それは予想外の返答だった。

「いや、将来のこと、不安で仕方ないだろ。懐かしいなぁ、僕が香征ぐらいの歳のときもそうだった。」
 僕は何も言えず、彼の方を向くだけだった。
 その後ろ姿はどことなく力強く見えた。

 右に曲がると、住宅街が見えてくる。ここまで来れば、家はあと少しだ。
 結局、それから僕は父さんに何も言えなかった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.8 )

日時: 2016/02/07 19:30
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 風呂上がりに寄ったリビングは、カレーの匂いで充満していた。

 母さんはつくったご飯を皿に盛っていて、父さんはお笑い番組を見ることに熱中していた。
 思えば、父さんのこんな姿を以前どこかで見たことがある。と思い出してみると、何週間か前にあった、野球の日本シリーズ第七戦のときだと解った。
 つられて僕も椅子に腰かけ、テレビをぼんやりと眺めた。番組の右上にある「年末」という文字を見て、月日が流れることの早さを感じた。

「ちょっと、あなた、ご飯よ」
 母さんはカレーをテーブルの上に置いて言った。あ、ちょっと待ってくれ、と予想通りの返事が返ってくる。
 やっぱりといった顔で、母さんはさらに台所からサラダを持ってきた。

「お父さん!」
 今度は僕が父さんを宥めた。「わかったわかった」と、彼はついに観念したようにテレビから目を離した。

「あ」
 いよいよご飯に手をつけようと思ったとき、思い出した。
 僕はすぐに台所に向かい、冷蔵庫から卵を取り出す。そしてすぐに食卓に戻り、それをカレーの上に落とした。

 すると、どこからともなく、相変わらず味覚が子供ねえ、と母さんの自慢げな声が聞こえてくる。
 昔から、そう言われる度に不思議に思っていた。
 大人でも辛いのが苦手な人は大勢いると思うし、まず僕はまだ中学生なはずだ。
 そもそも、辛いものを食べられるのが大人なんて誰が決めたのだろうか。あまりにも信憑性のない意見だろう。
 ……と、だんだんヒートアップしていく考えを打ち止め、カレーと一緒に飲み込んだ。
 極力荒波を立てずに過ごしたほうがいいだろう。どうせ今反論しても、辛口なコメントを浴びて終わりだと思った。

「今年ももう終わりだな」
 父さんが言った言葉が、なぜか満足げな声色だった。見ると、僕や母さんはまだ食べているのに、父さんだけカレーを食べきっていた。
 彼が言うその言葉は、毎年、年の瀬になるたびに誰もが言う言葉だが、今ばかりは、去年や一昨年とは違って聞こえた。
 当たり前だ。来年にはいよいよ受験があり、そしてその先には高校生活が待っている。


「勉強、うまく進んでるか」
 見ると、父さんと母さんは黙って僕を見ていた。

 正直、やめてほしいと思った。それも突然、夜ご飯を食べている最中に。
「……大丈夫だから、ほっといてよ」

 やさしめに言ったつもりだが、もう一度その言葉を咀嚼してみると、少しだけ厳しい口調のように感じた。
 見ると、二人の頬は強ばっていた。その、僕と目の前の両親とのニュアンスの齟齬にますます腹が立った。
 僕は食べきったカレーの皿を流し台に置き、さっさとリビングから出ていった。ここに置き忘れたものなど一つもない。

 僕はリビングから出ていって初めて、外の寒さに気がついた。
 冷たいフローリングの床を素足で歩いていく。階段を何段か上がったとき、鳥肌が立った。

 自分の部屋に戻り、ベッドに倒れこむ。
 気がつけば、僕はいつも失敗ばかりしている。なんで、あの部屋からすぐに出ていってしまったのだろう。
 すぐに謝ればよかったものを、僕はあの場から無様にも逃げた。
 僕は嫌なことからいつまで逃げ続けるつもりなんだ。
 あの時僕が言った言葉。そしてそれを聞いた、あの両親の顔。その表情を見たとき、泣きそうなくらい悔しかった。

 暖房の暖かい風が僕の頬をさわる。自然と涙が出て、ゆっくりと頬を伝っていった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.9 )

日時: 2016/03/12 09:50
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「ジリリリリリ!!」


 はっと目が覚める。
 驚いた。いつの間にか、電気をつけたまま寝てしまっていたようだ。

 色々と慌てたが、落ちついてとりあえずこの騒々しい目覚ましを止めた。

 目覚ましを止めたが、ベッドからはすぐに降りなかった。今日は学校ではない。――昨日、目覚まし機能を止めておくのを忘れてたのか。
 僕はゆっくりとベッドから降り、机のほうに歩み寄った。そういえば、せっかくの冬休みなのに、やりたいことが何一つとして見つからない。

 雨はもうやんでしまっているようだった。
 僕は椅子に腰かけ、パソコンの電源をつけた。カーテンから洩れた光は、ため息の色をしていた。

 パソコンが起動し、ブラウザを開くと、今日の日付が表示された。12月24日。どこからどう見ても、そう書いてあった。
 気づくと、その字をずっと見ている内に、いつの間にかゲシュタルト崩壊していた。
 それでも、今日がクリスマスイブだという事実はなぜか具体性をもって僕に突きつけられた。

 ブックマークから、毎日見ている掲示板を開くと、スレではとあるフリーゲームの話で盛り上がっていた。
 そのゲームは今年発表された話題作で、どこに行っても皆その話を耳にする。
 別にやりたいとは思わなかったが、とりあえずやっておかないと皆の話についていけなくなるし、どうせ冬休みで暇なのでダウンロードすることにした。

 さまざまなフリーゲームの詳細が載っているホームページを開くと、懐かしいにおいがした。
 このサイトも久しぶりに開いた気がする。デザインは全く変わっていなかった。

 ずっとスクロールしていくと、一つのゲームが目についた。
そのゲームの詳細情報を見てみる。「とある夏の日に、日本の田舎町で起きた物語」とだけ書かれていた。
 時計の秒針がやけに近く聴こえた。自分でも、こんなものに興味を示す意味が分からなかった。
 そして、さっき聞いた話題作など、もうどうでもよくなってしまっている自分がいた。

 つい一分前まで不思議に思っていたことの意味が、やっと分かった。
 何よりも、この寒い冬という季節に、蝉の鳴き声や、気温が三十度を越えていたり、皆薄着で外を歩いているという姿が想像できなかった。
 夏になってもそんなことが起こるようには思えなくて、同時に、この冬を越してずっと待っていても夏が訪れるようには到底思えなかった。
 このサイトはフリーゲームを人気順にランキングする内容のもので、近頃話題になっているゲームは全て上位に並んでいる。例えば、さっき掲示板で話題になっていたゲームも同様で、ここではランキング一位になっている。
 ただ、やけに僕の目にとまったこのゲームは、どう考えても話題作と呼べるものではなかった。ランキングを見てみると、圏外と表示されていた。

 ダウンロードページに移動したが、このゲームに対するコメントは何一つとして付けられていなかった。
 とはいえランキング圏外ならそのぐらい普通で、僕はすぐにダウンロードを開始させる。
 スペックの低い僕のパソコンでは、ダウンロードに時間がかかる。パソコンに負荷がかかって、CPU使用率がどんどん上がっていく。
 ダウンロードが終わるまでずっとここで待っているのも嫌なので、ふと、この部屋から外へ出てみたくなった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.10 )

日時: 2016/07/01 20:06
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 部屋から出たとき、頬に冷たい風を感じた。
 頬を触ってみる。カサ、と微かに聞こえ、少し痛い。
 手を離した後に残っていたのは、乾燥している、切り傷そのものだった。

 階段を一段、一段と降りていく。眠いな、と思い、目を擦ってみると、あろうことか昨日流した涙がまだ残っていた。そして、ちょっと温かかった。
 この廊下で温もりをもったモノが、この涙以外存在しないように思え、ちょっとだけ切なくなった。

 リビングには、誰もいなかった。
 ホッとしたのは、昨日のことを考えると、今親に会うのはちょっとキツいからだろう。

 すぐそこにあった雑誌を手に取ると、クリスマス特集などと浮かれた記事を掲載していた。
 僕は小さくため息をついて、この部屋から出ていく。自分でも何をやっているのか分からなかった。
 結局、下に降りても、不快な気持ちになっただけだ。



 正直、読むのがもう辛かった。

 よく見ると、このゲームはところどころ絵や文章がおかしい。
 今までランキング圏外なら当たり前だと思って割りきってきたが、もうそれも辛くなってきた。

 ――なぜ、このゲームに惹き付けられたのだろう?

 そんな単純な疑問が、頭に浮かぶ。

 最初のほうに出てきた伏線はそのまま忘れ去られているし、稚拙な文章と、バランスがおかしい絵とのコンボは見ていて辛い。
 全体的に、この物語には惹き付けられない。
 時計を見るともう昼をまわっている。いい暇潰しにはなったと思うが、今一つ腑に落ちない点があった。

「昼ごはんよー!」
 下から聞こえてくるのは、他でもない、母さんの呼び声だった。
 きっと、父さんに言った言葉なのだろう。

 そのとき、ドアが開いた。「香征、寝てるの?」
「ん?」
 声のほうを向くまでもなく、それは母さんの声だった。
 昨日のことを思い出す必要もないほどに、体が覚えていた。手が震えていた。

 僕は母さんのほうを見ることができなかった。すぐ行くよ、とだけ言うと、ドアは閉まった。
 まさかと思った。昨日あんなことがあったのに、普通に絡んでくるとは思えなかったのだ。

 実は、断ろうとも少しは考えた。昼ごはんぐらい抜いたって別に構わない。
 だけど、その誘いを断る理由が見つからなかった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.11 )

日時: 2016/03/28 16:44
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 下に行くと、今まで緊張で張り裂けそうだった僕の心を優しく踏みにじるかのように、二人は僕を迎えてくれた。

「おはよう、ご飯、できてるわよ」
「もう昼だよ」

 僕が椅子に座ると、母さんが僕の向かい側の椅子に座り、右側に座っていた父さんは持っていた新聞をテーブルに置いた。目の前にはうどんが三つ置かれていた。
 目の前に置いてあったうどんを二人はすすっていく。テレビでは、いつものごとくニュースを放映する。この空間に、当たり前のように僕が存在していた。
 静かな朝だ。今まで僕の心を蝕んでいたものを、それはあまりにも簡単に溶かしていった。

 うどんを一回すすった後、頬をさわってみると、さっき感じた乾燥はとっくに消えていた。


 その時、インターホンが鳴った。
 僕がちょうどうどんを食べ終わった時だった。先に食べ終わっていた母さんが、すぐにインターホンの近くに向かう。

 母さんはモニターを見て驚いた顔を一瞬浮かべた。何だろうと思って見ていると、とある女の人の声が聞こえてきた。

「突然すいません、お久しぶりです。」

 早紀だった。
 名乗らなかったが、確かにそう感じた。
 半年ぶりに聴くその声は、前と全く変わっていなかった。

「香征、早紀ちゃんよ。久しぶりに見たら前より可愛くなってるわねー。……香征?」
「あぁ……、ごめん。行くよ」

 僕は重い体を引きずるように、リビングから去っていった。
 いつもより長く感じた廊下を過ぎると、すぐに玄関だ。このドアの向こうには、早紀が立っている。
 彼女は一体、何しにきたのだろう。


「久しぶりだね、香征」

 綺麗に、なっていた。
 二年ぶりに話す早紀は、息をするのを忘れるほど変わっていた。

「……あぁ、久しぶり」
 言葉が出なかったが、なんとか声がでた。

「ところで、今日お越しの向きは?」
「なんでそんなに堅苦しいの」彼女は笑いながら、こう話を続けた。「特になにもないよ。久しぶりに会ってみよっかなーって思っただけ」

 その笑い声がどこか嫌みに感じられたとき、同時に、幻滅してしまっている自分がいることに気がついた。
 なんだ。ただ早紀も、雄輔と同じか、と。
 大方僕を笑い飛ばしにきただけだろう。そう思うとなぜかだんだん早紀が憎く思えてき、目の前でほのかに笑っていることがさらに苛立ちを増幅させた。

「……勉強忙しいでしょ? 僕なんかに構ってて大丈夫?」
 雄輔含め、もう二度と会いたくない。早紀にはさっさと帰ってもらいたい。
 この場を収めるには、このぐらいの言葉で充分だろう。そう思った。


 だけど。

 早紀の表情が先ほどと一変した。
 目映いばかりの陽の光を背景に早紀の目から溢れた涙は、キラキラ輝いていた。僕は何も言えず、彼女を見ていた。

「香征、ごめんね。今まで会ってあげられなくて……」

 涙は頬を伝っていき、地に落ちた。
 言葉を失った。何を言おうとしても、それが声にならなかった。

 僕は今まで、綺麗な人は、笑顔が一番素敵だと思っていた。
 でも、彼女の涙に心を奪われた。これほどまでに綺麗な涙を見たことがなかった。
 彼女は目を隠すようにしているが、内から途方もなく溢れてくる涙は、そんなことお構いなしとばかりに指と指の間をすり抜けていく。

 僕は自然と、彼女の頬に手を当てていた。
 彼女が驚いて僕を見る。その綺麗な瞳に晒され、自分の行動に初めて気づいた。
 突然恥ずかしさが襲ってきて、頬からすぐに手を離した。後には、彼女のやわらかな感触だけが残っていた。

 彼女の驚いた表情は、やがて、微笑みへと変わった。

「はは、なんで今ほっぺ触ったの」

 早紀の後ろから、あたたかな陽射しが注ぎ込む。それが彼女を優しく照らした。
 さっきまで僕を包んでいた怒りという名の感情なんて、もうとっくに忘れていた。何より、彼女の涙にすべてを奪われた。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.12 )

日時: 2016/04/05 22:56
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「ごめん……」

 早紀を家に誘導するときにつぶやいたその言葉が、この空間で反響した。
 それに彼女は返答してこなかった。大方返す言葉に詰まったのだろう。

「っていうか、懐かしいなぁ、香征の家。」
 玄関のドアが閉まって、外の風景が一切消えた。辺りでは早紀が靴を脱ぐだけで、他は全て止まっていた。
 考えてみると、彼女が一人で僕の家にくるのは初めてだ。父さんや母さんはなんて思うのだろう。

 多少ドキドキしながら、リビングのドアを開けてみる。
 やはり二人は驚いた顔でこちらを見ていた。その凍りついたような表情に、逆にこちらが驚き返す。なんだろう、強盗でも入ってきたのだろうか。
 早紀が僕の後ろからやってくる。恐らく全員の注目を浴びているであろう彼女は、いたって平然としていた。

 ただそんな彼女も、幼なじみの男の子の両親二人に凝視されていることに気がつくと、怪訝そうな表情に変わった。
「あ……お久しぶりです。早紀です」
 母さん達は、まんざらでもない表情で、お互いの顔を見合わせる。

「早紀ちゃん、美人になったねえ」
 またそれかよ、と僕は思ったが、そんなこと初耳の彼女は顔を赤らめて言葉を詰まらせる。
 反応としては百点満点だ。あまりにも綺麗なその姿に、純粋に家族全員で見とれていた。

「香征のお母さんとお父さん、昔と全く変わってないね……」
 階段を上っているとき、後ろで早紀の声がした。

 その通りだと僕は思った。
 あの頃から時間が止まったままの僕から見ると、二年前と違っていたのは、早紀以外の何者でもなかった。

 本当に、その通りだ。
 二年前なら、たとえ早紀が一人で家に来たとしても、普通に他の人が来たのと同じように接することができたはずで、母さんもあんな表情はしなかった。
 知らず知らずの内に、僕達が会っていなかったこの二年間で、取り返しのつかないほど深い溝が生まれていたことに、二人の顔を見て改めて思った。

「そういえば、昨日駅の近くのスーパー行った?」
 すぐ後ろで彼女が聞く。行ってなかった、とは絶対言えない雰囲気だった。
「……行ってたよ。親と」
 そう言うと、彼女は、やっぱり! と即答した。「私もいたんだけど気づかなかった?」
「えっ?」
「目が合ったから、気づいてたと思うんだけど……」

 前を向くと、彼女の目がまっすぐと僕を見ていた。
 もちろん早紀には気づいていたし、目が合ったことも鮮明に覚えている。無視したのも事実だ。
 だが、二年ぶりに会った早紀が綺麗すぎて話せなかったと言える度胸が僕にはなかった。
「気づいてたけど、親が急げって言ってきたから。……ゴメン」
「いいよいいよ! こちらこそなんか問い詰めてるみたいになってごめんね」
 僕は自分の無力さを呪った。

「……あと一ついい?」
 あまりの暗い声のトーンに、思わず足が止まる。階段はあと一段だけだ。「ん?」
「なんでそんなに辛そうに笑ってるの?」

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.13 )

日時: 2016/07/01 19:46
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 階段を上がると、右手に僕の部屋がある。
「うわー、懐かしーい!」
 早紀は、ゆっくり歩く僕なんてとっくに追い抜いて僕の部屋に駆け込む。そういえば彼女はこんな活発な子だったなと、今更ながらに思い出した。
 僕もついていくと、ちょうど彼女が僕の勉強机の引き出しに手をかけていた。
 そして、おそらくそれを開けようとしていた手が止まった。

「ごめん。……開けていい?」
 いいよ、と答えた。引き出しの中に、やましいものは何もない。
 そもそもこの部屋自体にそういうものはないのだが。

「うわっ、懐かし!」
 早紀は突然大声を上げた。
 びっくりしてそちらを向くと、彼女の目は引き出しの中のある一点を見ていた。
 僕もつられてその先を見たが、中は小物でゴチャゴチャしていて、彼女がどれを見て驚いているのか分からなかった。
 早紀の手が、とある単語カードを拾い上げるまでは。

「……懐かしいな」
 ふと口からこぼれた。このカードは、僕と雄輔が喧嘩をするずっと前に、三人でつくったものだった。
「familyとか、bookって書いてある」
 どうやら、中一の時のものらしい。いかにも手作り感満載の、そのゴチャゴチャした絵と、読みにくい汚い字が何よりそれを裏付けていた。
 雄輔とああいうことがあった今では、絶対に同じものはつくれないだろう。


「ごめんね。雄輔と色々あったみたいで」
「……えっ?」彼女の溌剌とした笑顔が急に見えなくなった。

「塾で一緒に勉強してる最中にね、彼、香征と喧嘩したって話してたんだ。キツいこと言ってると思ったから私責めたんだけど、あの人全く反省する気がなくて」

 声を低くして言った彼女に、別にいいよ、と僕は返した。
「だって、雄輔の言うことは全部正しいじゃん。二人は勉強忙しいけど俺は全然だし、そういうこと言われたって構わないよ」
 こう話を続けると、早紀は手に持っていたそのカードを引き出しにしまった。
「……それでも、あんなのずっと仲よかった人間に言う言葉じゃないよ」
 引き出しを閉じたときの、ドン、という音が、静かな部屋に響いた。

 彼女は、どこか悲しそうだった。
 そんなの、言うまでもないことだった。

 早紀は床に腰を下ろし、肩にかけていたバッグを横に置いた。
 僕も、無意識に彼女が座っている向かい側に座る。ちょうどこたつをはさんで向き合う態勢になる。
 その間も何も言えない僕に、彼女はさらに続けた。
「彼、実は塾ではトップの成績で、遠野高校志望なの。雄輔のお母さんが特に遠野への受験を勧めているらしくて、それでこんなに勉強してるんだよ」

 遠野高校といえば、偏差値七十を超える県内トップクラスの公立高校だ。
「……あいつも頑張ってるんだね」
 そう思ったのは、本心だった気がした。

「うん。だから一応、雄輔も勉強ばっかで疲れてるってこと忘れないであげてね。……まぁ別に、それが香征に悪口を言っていい理由にはならないけどね!」
 あわてたように早紀は付け足した。
 それは言うまでもないことだったが、彼女も一応僕に気を遣ったのだろう。

「あ、そういえば!」
「ん?」

 早紀は突然驚いた表情でこちらを向いた。
 何事かと思って、僕もそちらを見返す。すると彼女はそこに置いてあるバッグの中から小さな直方体の物体を取り出した。
 ……見た感じ、アレだな。あの、スマホとかいう機械。

「香征って、スマホ持ってる?」
 彼女は、手に持っているスマホを左右に振って、僕に示した。
 スマホカバーには、もれなく国際的ネズミが腹を抱えて大笑いしている様が描かれていた。

 スマホといえば、確か何ヶ月か前に親に買ってもらった気がする。
 疎いのでどこの機種かは忘れたが、解約さえされてなければまだ何かできるだろう。

「持ってるよ。ちょっと待って」
 僕はそう言って、引き出しの中やベッドの下など色んな所を捜索した。
「どこに投げたっけな」つぶやきながら探していると、後ろから笑い声が聞こえた。思わず声のほうを向くと、早紀が口を手で押さえる、というか、隠していた。

「目が笑ってるよ」
 そう指摘すると、彼女は口から手を離してさらに笑った。白い歯が見えている。

「じゃあ、携帯鳴らしてみたらどう?」
 早紀が何に笑ったのか具体的に問いただそうとしたが、その考えは、彼女の提案の前に無に帰した。
「いや、ダメだ。何ヶ月も放置してるから多分もう充電切れてる」
 こう返すと、彼女は一瞬驚いた表情を見せた後に、また笑った。

「……探すしかないか」
「いや、本当に見つからなかったらもういいよ! 大した用じゃないし」
「そういえば、どんな用なの?」
「LINE交換したくて」

 ……スマホを絶対に見つけ出してみせる。僕はそう心に誓った。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.14 )

日時: 2018/09/07 04:57
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「なあ、二人とも俺のスマホ知ってる?」

 スマホ捜索は難航を極め、ついに僕の部屋以外へと捜索の範囲を拡大した。
 そして、こうして今母さんと父さんに在処を訊いてみた次第だ。

「どこだったっけなぁ……、結構前のことだし忘れたよ。それより早紀ちゃん何の用だったの?」
 代表して、母さんが答えた。が、結局情報が何一つ得られなかったのですぐにリビングから出ていった。早紀のことが気になるのも分かるが、ここはスルーしておいた。

 仕方なく、僕の部屋まで戻ることにした。
 スマホの場所なんて本気で覚えていない。使ってすらないのだから今までそれで不自由なく過ごしてきたが、まさか今日使う理由ができるとは思いもしなかった。

「あ、スマホあったよ」
 部屋に着くなりあっさり彼女に言われ、唖然とした。
 どこにあったのか訊くと、クローゼットの中に眠っていたと返された。……早紀、そんなところまで見てたのか。

「香征ってLINEのアプリ持ってないんだね。ダウンロードしといたよ」
 どうやら、スマホは元から電源が切れた状態だったらしく、充電はギリギリ残っていたという。

 持っている僕のスマホを渡そうとしてきたので、受け取ると、ほのかに暖かかった。見ると、画面にはLINEのユーザー登録の表示がされていた。
 座るのも面倒なので、立ったまますることにした。
 僕がそれを登録している間、彼女がずっと微笑んでいたのを肌で感じていた。
 登録し終わった後に、ずっと気になっていたそちらを向くと、目が合った。なぜか目を逸らすことができなくて、ドキドキしながら、何秒間、何分間でも見つめ合っていたい気分になった。

「と、登録、終わったよ」
 振り絞ってなんとか出た声は、震えていた。
 登録完了のメッセージが映し出されたスマホを、彼女に手渡しする。一度、汗でベタベタなスマホを服で拭いてから、彼女に渡そうとした。
 目を逸らすことができたのはその瞬間だけで、すぐに、また早紀の瞳を求めた。彼女も僕のスマホを受け取ろうとして、こちらに手をやる。

 早紀と見つめ合ったまま、スマホを彼女のほうへ更に近づけると、彼女の手とぶつかり、驚いてその部分の力がふっと抜ける。
 正気に戻った頃には、痛みが全身を包んでいた。

「痛!!」
 僕の足に落ちたスマホは、早紀と手がぶつかって落下したもの以外の何物でもない。
 早紀は、これ以上ないくらいに大笑いした。

 僕の足から全身に痛みが伝わるのは、一瞬だった。時速400キロの速さで伝わるそれは、簡単に僕の視界から彼女の瞳をシャットアウトさせた。
 あまりの痛さに、その場にしゃがみ込む。……残念ながら、僕のスマホは角が丸いiPhone製ではなかった。そして、狙ったように角の部分が足に落ちた。

 早紀は痛みに悶える僕の横から、スマホを拾い上げる。
「じゃあ、私と連絡先交換しとくね!」
 その言葉で痛みが完全に吹き飛んだのは、言わないことにした。


「ねえ、香征」

 スマホをいじっていると、正面から早紀の声がした。思わず目線を彼女のほうに移す。

「商店街抜けたところにさ、河あるじゃん? あれ見に行かない?」
「ん……行けるけど」
 そう言うと、彼女は準備を済ませ、足早に僕の部屋から去っていった。
 突然、どうしたのだろうか。

 疑問に思ってもしょうがないので、僕もすぐに準備を済ませ、彼女に続いて部屋を出た。
 早紀はもう階段を降りていってしまっているようで、気配を感じなかった。階段を急ぎ足で降りると、リビングのドアが開けっ放しだった。
 リビングに入ると、早紀が二人と話していた。あちらも僕の存在に気づいたようで、全員こちらを向いた。三人全員、なぜかニコニコしていて、気味が悪かった。

 ちょっと外出てくるよ、とだけ僕は言い、両親とできるだけ目を合わせないように早紀の方まで歩み寄った。
 はい、とワンテンポ遅れて母さんの声がする。その声を遮るようにリビングのドアを閉め、早紀と共に玄関へ向かった。

「そういえば、香征って、高校どこ受けるの?」
 そう彼女に訊かれたのは、ちょうど家から出た辺りだった。玄関のドアがガタンと音をたてて、内と外の空気を二分する。
 僕はもちろん、公立が紅葉で、私立が京成だよ、といつも通りの返事をする。

「あ、私も京成受けるよ!」
 そう言った早紀以上に驚いたのは、紛れもない僕だった。
 おそらく塾にも行って勉強漬けの毎日を過ごしているであろう彼女には、京成なんて滑り止めにせよ少し偏差値が低いと思うが、そんなことはないのだろうか。

「公立は?」
「遠野U類だよ」
 彼女は恐ろしいまでにサラッと言ったが、遠野高校は難関大学への進学者が岡山で一番多いような学校で、U類というとその中でも一際レベルが高いコースだ。
 なおさら京成とは偏差値が違うと思うのだが、なぜその両校を受けるのか、いまいち意図がはっきりしない。

「……私立と公立で、すごい差あるって思ったでしょ?」
 言われて、びくっとした。一瞬心の中を読まれたのかと思った。

「実はね、私、京成高校に入りたいんだ。」

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.15 )

日時: 2016/09/25 00:08
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 河の水が流れている。

 僕は不意に河川敷まで降りていき、そこの草むらに腰を下ろした。少し肌寒かった。
 彼女が、少し遅れて僕の隣に座る。
 向こう岸はだいたい百メートルほど離れていて、その先にもこちら側と同じように住宅が立ち並んでいる。

 あの先には何があるのだろうと思った。
 ここからでは住宅街ばかりが見えるだけだが、果たしてその先をずっと突き進むとどんな景色が見えるのだろう。
 この川の向こう岸に行くには、向こうにあるあの大きな橋を渡る他ないが、どうしてか今の僕にはその橋を渡る気になれなかった。

 この河は名を旭川といい、岡山県最大級の大きさを誇る一級河川だ。
 長さは真庭市蒜山から岡山市の中心部まで続くほどで、端から端を車で移動してもかなりの時間がかかる。

 学校の登下校でいつもこの河を見ているので、ただいつもと同じ風景というだけの存在で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 だが、今日だけ河川敷から見ているせいか、それとも僕の隣に再会した幼なじみの女子が座っているせいか、いつもとどこか違っていた。

「さっき私、京成に入りたいって言ったじゃん。」
 彼女は、この川の向こう岸よりも遠く、ずっと遠くの空を向いたままだった。僕は頷く。
 風がなびいてきた。

「お父さんは好きにしろって言ってくれてるんだけど、お母さんや雄輔は許してくれないの、絶対遠野行けって。そりゃ遠野行ったほうが将来楽なのかもしれないけど、もう勉強ばっかり耐えられないの、私。」
 どうしよう、最近ね、生きるのが楽しくないんだ。ちっとも。
 朝から晩までずっとずーっと勉強だし。それが毎日続くんだよ?

 彼女は僕の数メートル先にいて、河のほうを向いている。だから、ここからでは彼女の表情は見えない。
 その声はとても小さかったが、本当は大きな、激しい心の叫びのように聞こえた。

「そんなに遠野行きたくないの?」
 彼女は答える。「うん、今の生活をあと何年も続けるなんてきっとできない。」
「……じゃあ、遠野の受験受けてわざと落ちれば?」
 彼女は面食らったように驚く。彼女でも流石に即答できないみたいだ。
 僕は、落ち着いて自分が言った言葉の意味をもう一度考えてみる。

「あ……ハハ、それもいいかもね。私も香征と京成行きたいな」
 早紀はそうはにかむ。
 それは僕に紅葉学園落ちてほしいということなのかと、僕はワンテンポ遅れて気がつく。

 早紀は僕の横でふっと立ち上がり、河に向かって歩いた。数メートル進んで、大きく伸びをする。
 向こう岸ではたまに車が通るくらいで、それ以外はまるで写真のように止まって見える。

「早紀って、河とか見るの好きだったっけ」
 ずっと疑問に思っていたことをぶつけてみる。すると彼女はすぐに何か言おうとしてためらった。
 僕はそれに多少の違和感を感じながら、流れる冬の河をぼんやりと見ていた。

 パシャ。

 その音はすぐ近くで聞こえた。
 見ると、彼女が河にカメラを向けていた。「カメラ?」
「この風景、綺麗だなーって思って」そう笑いながら、彼女はもう一枚を写真に収める。パシャ、という気持ちのよい音がもう一度聞こえた。

 ……その趣味は、最近できたものだと思った。
 二年前にはカメラの趣味などなかったはずだ、きっと。

「早紀って、色々と変わったよね」
 彼女は、確かにそうかも、と笑った。「香征は変わらないね」
 その言葉を悪い意味でしか捉えられなかった僕に、彼女が慌てて付け足す。
「あっもちろんいい意味だよ。確かに背は高くなったし声も低くなったけど、二年前と同じ、優しくて面白い香征のまま。」彼女はカメラを目から離して、撮った写真を確かめる。それは、僕が今まで生きてきて初めて言われた言葉だった。

 不意に彼女から目をそらす。僕は今も、今でさえ、別人と話しているような気分でいる。
 だが、彼女のほうは二年前と同じ僕と話している気でいたのだ。さも当然のように。
 それがどれだけ幸せなことか、きっと彼女は分かっていない。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.16 )

日時: 2017/05/26 05:10
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 さてと、と彼女が言った。「そろそろ戻る? 寒くなってきたし」
 僕は頷く。十二月の河沿いは寒かった。

「さっき撮った写真。どっちがいい?」
 河川敷の石階段を上りながら、彼女は手に持っていたカメラを僕に渡す。
 以外と大きい液晶画面には、写真の横に「2013年12月24日 13時32分」と、日付と時間が書かれている。そうだ、今日はクリスマスイブだった。
 僕は写真をまじまじと見つめる。
 右だと思った。本当に、何の根拠もなく、ただ直感的にそう感じた。

「やっぱり右?」そう彼女は体をこちらに寄せてくる。
 頷くと、彼女はいかにも予想通りといった表情でこう続けた。「四分割法っていうの、この構図。」
 四分割法。初めて聞いた言葉だったが、素敵な言葉だと思った。
 写真を横に四等分すると、下半分に水面、そして上半分を向こう岸の建物と空が覆っている。澄んだ冬の空には、平べったい雲が幾つも浮かんでいる。

「今日寒いよねーほんと」
 彼女は持っていたカメラをバッグにしまい、肩に掛けた。
 あのバッグには他に何が入っているのだろうか。二十一世紀からやってきたネコ型ロボットの四次元ポケットみたいに、探ればいくらでも出てきそうだ。

 石階段を上り終えると、すぐ目の前に商店街が見える。

「小学生の頃とか、よくここで遊んでたよね」
 そうだね、と彼女は笑う。「また三人で遊べたらいいね」
 そう言った後、彼女はすぐに自分の言動の過ちに気づいたらしく、慌てて付け足す。「ごめん……、もうダメか」
 僕は何も言えなかった。

 歩いている間、彼女はちょくちょくスマホで誰かと連絡をとっているらしかった。
 LINEの着信音らしき音が鳴るたび、彼女はスマホをいじっている。どうやらかなり集中しているらしく、下しか向いていないので危なくも見えた。

 ……自然と、歩く速度が落ちる。
 それでも彼女は同じ速度で歩き続ける。
 僕の歩みはゆっくりと減速していき、やがて完全に止まった。
 今僕がいくら歩みを止めても、彼女はどんどん先を歩いていく。

 今日はクリスマスイブだ。彼女は今、誰と連絡をとっているんだろう。

 やっと家の前まで着いたと思ったら、早紀は迷いなく僕の家に入ろうとする。
「あ、もうちょっといい?」
 てっきりもう別れると思っていただけに、驚きを隠せなかった。
 あちらがいいなら別に拒む理由はないが、こんな日に僕といていいのか、とは思う。

 玄関に入って靴を脱いだとき、足を痛みが襲った。
 痛っ、と思わず声に出してしまう。すぐに、大丈夫? と後ろから聞こえる。
 そして思わず笑ってしまう。たったこれだけ歩いただけなのに。自分が恥ずかしい。

 リビングのドアを開けると、二人は椅子に座ってテレビを見ていた。

「あ、おかえりー」
 両親の声が一つとなって聞こえた。驚きを隠せない表情が見て取れる。
 対して僕達の声は、ただいま、と、お邪魔します、の二つだった。
 僕が先を歩き、彼女は後ろについてきている。そのまま、何も言えぬまま、僕達は廊下を歩いた。

 先に部屋に入ったのは僕だった。
 僕は、いつもの癖でパソコンの電源ボタンを押してしまう。
 電源ボタンを押すとすぐにデスクトップ画面が出てくる。そういえばシャットダウンしていなかったので、スリープ状態になっていただけだった。
 それを後ろで眺めていた彼女が、あー香征の部屋ってパソコンあるんだね、と口にした。
 だが口にしただけで、何もやってこなかった。流石にパソコンは遠慮するらしい。

「……今日は、ありがとね」
 そう言われたとき、僕のパソコンをシャットダウンしようとした手が止まった。
「いやいや! こっちこそ楽しかったよ」や「またいつでもおいでよ!」などという気の利いた返しが僕には思いつかなかった。
 やっと出てきたのは「……こっちこそ」という小さな声だった。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.17 )

日時: 2016/05/23 23:34
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「それにしても、今年も終わりかー」
 彼女は大きく伸びをしている。
 来年はいよいよ受験だ。嫌なことを思い出した。

「新年、お参り行かないとね」
 行く意味がないと思った。いくら受験の神様でも、僕を志望校に合格させてくれる望みは叶えられないだろう。

「んー、僕は行かないかな」
「え、なんでなんで? 一緒に行こうよ」
 早紀と二人なら大歓迎だが、もし雄輔と一緒だったら地獄すぎる。
「もしかして、正月の裸祭りのほうに行く予定?」
「そんな予定ないです!」思わず叫んでしまう。それにしても早紀がこんなにくだけたことを言うのは久しぶりだ。

 彼女は一瞬僕のベッドに座ろうとして、慌てて床に座った。
 僕だってそこまで馬鹿じゃない。彼女はきっと、ここに今日何かをしにやってきたのだ。
 何しろ、今まで二年間会っていなかったのだ。昼、僕の前に姿を現したときから、彼女は何らかの使命をもった目をしていた。
 それは、きっと僕をあの河に連れて行くことでも、LINEを交換することでもないはずだ。

「香征って、最近勉強してる?」
している訳がない。僕は正直に答える。

「だったらさ、一緒にここで勉強しない? 私と」
「えっ?」ここで? 今から?
「そう。今から」

 何も言えずにいると、早紀はバッグの中から参考書と筆箱を取り出し、こたつの上に置いた。
 僕は、今までバッグのあの膨らみをつくっていた原因をまじまじと見つめる。「いいけど……」今日はクリスマスイブだよ、と言いかけた言葉は声にならない。

「じゃあ、やろっか」
 家で勉強をするのは何年ぶりだろう……。
 そう頭を抱える僕の横で、私ね、と彼女が言った。「香征には頑張ってほしいなって思う。じゃないと高校落ちちゃうよ」
 そう言って笑った彼女から目が離せなかった。
 それと同時に、どうしてだろうと思った。雄輔は、どうしてこういう優しい伝え方ができなかったのだろうと。

「じゃあ、まず数学」
 絶句している僕を尻目に、早紀はノートに数式を書いていく。
 まず連立方程式ね、と出された問題を見ても、懐かしいなーとか、こんな問題あったなーなどと思うだけで解き方など一つも覚えていなかった。
 彼女は、決してそれを馬鹿にすることなく、解き方を一から教えてくれた。
 それからしばらくは、ずっと二人で勉強をしていた。僕が彼女の出す問題を解いている間は、彼女は自分の参考書に手を付けていた。
 それから、数学を一時間ほどやって、理科や英語と次々に教科を変えていった。
 五科目で一科目一時間という、あり得ないような時間をかけて、僕達は勉強していった。


 あれから何時間が過ぎただろう。
 時計の短いほうの針は7を指している。

 体を伸ばすと同時に彼女に目をやる。あの茶色く長い、艶やかな髪に、均整のとれた顔。鼻はそれほど高くないが、目ははっきりと大きい。
 彼女は今まさに参考書の問題を解くのに集中しているようだった。やはり勉強するのに慣れているらしい。

 彼女の目的。正しくそれは最初からこれだったのだろうか。
 少しして、彼女も勉強が一区切りついたらしく、こちらを向いた。その瞬間、あちらも僕の視線に気づいたらしく、微笑みながらノートを覗く。
「解けた?」そう言って体を寄せてくる。最初は何も書かれていなかったノートは、今や僕の汚い字で数十ページ埋まっている。

「解けたけど……」
「けど?」彼女の、ノートを見ていた目がこちらに向いた。
 もう引き返せないことは肌で感じていた。僕は覚悟を決めて、声を振り絞った。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.18 )

日時: 2016/09/25 00:20
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「あぁ、今日……。クリスマスイブだよね」
 そう、彼女は口にした。
 彼女はさらに何か言いそうだったので、僕は何も言わずにいた。
 僕の、早くその続きを聞きたい意思に反して、彼女はやけに間をおいて話した。

「私ね、雄輔と別れたんだ」
「……いつ?」

 その言葉が、口をついて出てしまっていた。
 自分で自分に驚く。彼女の衝撃の告白に対して、何も動じることのない自分がいたことに。
 彼女も、すぐに返答した僕に驚きを隠せない様子で、言葉に詰まった。
 もちろん、雄輔と別れた、ということは、以前は雄輔と付き合っていた、ということに他ならない。

 彼女は、いつって……、と弱々しく前置きして「昨日だったかな」と小さく呟いた。

 昨日。
 昨日といえば、終業式からの帰り道、雄輔と商店街の前で会った日だ。
 僕と話したあと、雄輔は僕の元来た道を通ってどこかに向かっていた。
 あのとき、久しぶりに会った雄輔の、あのにやにやした表情に違和感を感じていた。

「だって……、幼なじみの悪口をさんざん言うような彼氏、誰だって嫌じゃん?」
 彼女のその同意を求めるような瞳は、今日はもちろん何年前にも記憶がない。
 もちろんそうだ。早紀を、彼氏と別れたから僕のほうに近寄ってきたようなクソ女だと思いたくなかった。

「だから……、今日香征の家に来たのには、決してそういう理由があったからじゃなくて……」
 彼女は下を向いていた。弱々しい声ではあるが、必死に理解を求めようとしていた。

「早紀」
「……ん?」
 自分で自分の声に驚く。かなり力強い声だった。

 目の前のノートには彼女の端正な字で書かれた数学の問題があり、その少し下にはその答えが汚い字で記されていた。あれは僕の字だ。
 そして改めて気づく。先ほどまで僕たちは、何の汚れもなく勉強をしていた。
 同時に、夢の中にいるような気分だったことも思い出す。現実味がなかった。脳はほとんど忘れてしまっていたが、心が覚えていた。
 もう一度ノートを見返す。あれは間違いなく現実での出来事だった。

「……僕を励ますために来てくれたことくらい、知ってるよ」
 そのとき彼女は下を向いていた。すぐに僕の方を見る。

 本当は、知っていたのかもしれない。
 早紀が雄輔と付き合っていたことも、別れていたことも、それが最近の話であったことも全て解っていたのかもしれない。
 それを、彼女の細かい仕草や表情を見て察していたのかもしれない。

 彼女は当然のことながら言葉に詰まり、重い沈黙が僕等の間を流れた。
 その静寂を破ったのは、突如パソコンから鳴った通知音だった。
 僕は立ち上がり、パソコンの横にあるマウスに手をかける。そのとき、先ほどこれをシャットダウンしようとしていたことを思い出した。
 どうやらシャットダウンし忘れていたようだった。

 通知は、Twitterからだった。
「ユウジさんからダイレクトメッセージが来ています」と画面に出ていた。
 Twitterを開いて、そのメッセージを確認してみる。
「おーい、この前話してた二次エロ画像の新作が更新されたから見てみろよ! URL貼っとくから」

 そのとき、後ろで物音がした。
 僕は立って、勉強机に置かれたパソコンを弄っている。もちろん背中はガラ空きだ。

「自分のパソコン持ってるなんて羨ましいなー、私も欲しい!」
 後ろで聞こえた。その声が思ったより近くで聞こえたと思ったとき、僕はすぐにTwitterを閉じた。
 後ろを向くと、彼女がこちらを見ていた。
 だが、彼女はあたかも何もなかったかのように喋り続ける。「私実はタイピング結構早いんだよー、小学校のときパソコンの授業あったじゃん? あれで極めたから」
 彼女はそう言って上品に笑っている。本当に、さっきのメッセージは見られていなかったのだろうか。

 さて、そろそろ帰ろっか、と彼女が言ったのは、それから間もなくのことだった。

「そろそろ帰らないとみんな心配するよね」
 彼女は何か役割を終えたようにそう呟き、そして立った。窓の側まで歩いていき、カーテンを開けた。「もう、外真っ暗だね」
 当たり前だと思った。もう七時を回っている。

 彼女は振り返り、送りはいらないから、と笑った。
 長く綺麗な、茶色い髪の毛がふわりと宙に舞う。「わかった」
「またLINEするよ」
 勉強頑張るんだよ、と付け加え、彼女は部屋を出た。が、すぐに戻ってきた。

「そういえば」彼女はそう前置きして、得意げに笑う。
「二次エロ画像の新作が更新されたの、嬉しい?」そう言い残して彼女は部屋を出た。今度こそ、本当に。
 さきほどのTwitterはやはり見られていたらしい。

 ドアが閉まると同時に、この部屋から彼女の気配が一切消える。
 でも、まだ匂いはしていた。目を閉じると、あなたがまだここにいるような気さえする。

 "特になにもないよ。久しぶりに会ってみよっかなーって思っただけ"

 僕は、彼女が言った言葉を思い出す。
 初めてその言葉を聞いたとき、僕は嫌みに感じられ、雄輔のように、彼女も僕を笑い飛ばしにきただけだと誤解した。
 ただ、実際は全く異なっていた。
 多少ぐだぐだではあるが、僕を励まそうと彼女なりに色々と考えてくれたに違いない。
 何にしろ、今まで僕にとって勉強を進んでやるようになるのには、大きな壁というか躊躇いがあった。今日その一歩を踏み出させてくれた彼女には、感謝してもしきれない。

 突然、スマホが鳴った。
 一瞬、どこから鳴ったのか分からなかったが、ベッドの上に投げられているのを見つけた。
 すぐにスマホを手に取る。充電は残り二パーセントらしい。
 通知はLINEからだった。早紀からメッセージが来ているみたいだ。
 立ったまま、僕はすぐにLINEを開く。LINEの友達は早紀しかいない。僕の手は迷いなく彼女からのメッセージを探し当てる。


   今日はありがとう!
   正月になったら、初詣行こうねー

   リビング通るときに、カレーの匂いがしたよ!
   私も食べたかったー(笑)


 その背景には雪が降っていた。

 初詣行こうね、と、匂いがしたよ! の後ろには可愛らしい絵文字がついている。
 なんとか充電が切れるまでに間に合わせないといけない。僕は慣れない指で文字を打った。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.19 )

日時: 2016/12/11 13:45
名前: をうさま ◆qEUaErayeY


       ◆




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 <From: kosei51@yahee.co.jp>
 <To: Enzn_wez@mail.gaa.ne.jp>
 <件名: お願いがあります>

 こんにちは、初めまして。
 雑談掲示板(http……)の管理人さんで宜しいでしょうか。
 このサイトの存在を、多分管理人さんは今まで忘れてたと思います。でも僕は、適当にサイトを漁ってたらあの掲示板に行き着いてしまいまして(笑)
 そこのメールフォームからアクセスしました、岡山在住の中学生です。

 最終更新が2006年ということもあり、このアドレスも生きてるのかどうか分かりませんが(笑)、あなたに一つお願いがあります。
 もう一度ゲームを作ってみませんか? 五人でです。

 僕も、無理なお願いだとは分かっています。
 もう皆さん大人で、忙しいってことぐらい僕にも分かります。
 だけど、それでも僕には我慢できないんです。
 何にも関係ない僕が言うのも変ですが、企画があのまま終了なんて、誰のためにもならないと思います。

 突然すいません。もし見ていたら、返事をくれませんか?


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 送られた日付を見ると、二週間前だった。

 まず感じたのは、なんて熱心な子だろうという驚きと、このメールに二週間で気づけてよかったという安堵の思いだった。
 僕はメールアドレスを二つ持っている。仕事用と、プライベート用。仕事のメールはいつも職場のパソコンでチェックする。
 それに、プライベート用のメールなど最近ではほとんど確認していなかった。もし豪雪の影響で電車の運行が一時見合わせていなかったら、恐らくしていなかっただろう。

 中でも一番目を引いたのは、彼の年代だった。まさか中学生だなんて。当時見ていた訳ではないのは明らかだ。
 年齢は……、僕より十は下だろうか。もはや育った時代が違う。

 彼が貼っていた、URLのリンクを踏む。懐かしい英字の羅列だ。
 雑談掲示板。最終更新は……、2006年の夏だ。そうだ、高校生のときに友人らとここでゲームを作っていた。本当に懐かしい。思わず笑みがこぼれる。
 そうこうして、気持ちよく感傷に浸っていた僕だったが、少しして不意打ちのように嫌なことを思い出す。それは、メンバー表を眺めていたときにやって来た。
 莉乃……。

 電車がやっと動き始める。車内にいた、帰路についているであろう学生やサラリーマンのため息が聞こえてくるようだった。
 窓の外では、相も変わらず得体の知れない暗闇が蔓延っている。早く帰って、明日に備えてゆっくりしたいものだ。

 風景がほとんど一切変わらないまま、あれから二駅ほど電車は進んだ。
 僕は軽くため息をつく。確かに、知らない人からしたら突然レスが途絶えるというのは奇妙な話だろう。気になるのも分かる。
 とはいえ、こんなどこの誰かも分からないような人たちの事情に、ここまで首を突っ込める中学生が他にいるだろうか。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.20 )

日時: 2016/07/06 02:12
名前: をうさま ◆qEUaErayeY




       ◆




 僕は不意に、脳の片隅に魚の小骨のような引っかかりがあるのを感じた。

 慌てて思考を巡らせてみるが、それが何なのか、全く解らなかった。
 嫌な予感がする。僕は何か、重大な見落としをしているのかもしれない。
 僕はすぐに勉強をやめる。息抜きをしようと思った。

 毎日見ているあの掲示板を、今日もまた開く。

 皆、未だにあのフリーゲームの話題で持ちきりだった。僕もやろうかな、と思い、すぐさまダウンロードページに移動する。
 そして気づく。そういえば、前にもこういうことがあったはずだ。前にもこのゲームをやろうとしてダウンロードページに移動していた。
 そうだ。あのときは確か、これではなく他のゲームをやった。
 このサイトのランキングで圏外だったはずのあのゲーム。詳細情報に「とある夏の日に、日本の田舎町で起きた物語」とだけ書かれていたあのゲーム。

 ……夏?

 あのゲームをプレイしたのは、確か早紀と会った日の朝だったので、12月24日だ。
 その前日には、雄輔と会っている。
 あの日、雄輔と会った日に、家に帰って僕は何をした?

 僕はすぐにブラウザの表示履歴を探る。
 今日は1月20日なので、12月の23日は一ヶ月近く前だ。
 履歴が一斉に表示される。あの日、表示したページは色々あったが、その大部分にはもう興味がない。

 雑談掲示板だ。
 気がつけば、思い出していた。
 同時に、あの掲示板の最終更新が、2006年8月16日だったことも思い出す。
 履歴の中腹辺りで、何も飾らず、何も主張せず、あの日と同じ地味なままのタイトルがそこに確かに存在していた。

 ページを表示してみる。
 最終更新は相変わらずだった。
 一番上に上がっていたのは「新春雑談すれ」というタイトルのスレだった。一体、いつの新春だろう。

 そして思い出す。あの日は同時にメールも送った気がする。
 掲示板の下のほうに表示されているこのメールフォームから、管理人にメールを送ったはずだろう。
 彼から返事は来ているのだろうか?

 すぐにメールをチェックする。
 僕は普段、メールをあまり見ない。一ヶ月に一度見るかどうかのレベルだ。
 なんと、来ていた。僕はすぐに内容を確かめる。



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 <From: Enzn_wez@mail.gaa.ne.jp>
 <To: kosei51@yahee.co.jp>
 <件名: Re:お願いがあります>

 ありがとう。気づくの遅れてゴメンw
 君の気持ちはよく分かった! とりあえず昔のメンバー全員にメール送ったよ。
 地元に戻れば彼らと会えるかもしれないけど、今おれ地元出てるから、基本メールでしかやりとりできないと思う。
 君の危惧通り彼らのメアドが生きてない可能性も充分考えられるし、返信が来るのを気長に待つしかないね。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 このメールは二週間前に送られてきたらしい。

 ……んん?
 よく見てみると、もう一度彼からメールが送られてきていた。
 件名、「連絡ついたぜ」。

「メンバーの一人、ゆーたくんと連絡がつきましたー! ワーイ(o´∀`o)」
 僕は、安堵した、というより、単純に驚いた。
 涙が出そうなのを、慌ててこらえる。このメールは三日前に送られてきている。それは、五人全員でまた話せる日が来ることを予感させた。
 それにしても、管理人のえんさんって、結構可愛いところあるな……。

 それから僕は、毎日えんさんからのメールを確認しつつ、ずっと机に向かっていた。
 私立入試は2月の4日に控えている。僕は何かに取り憑かれたように、必死に勉強していた。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.21 )

日時: 2016/12/28 02:43
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 次にえんさんからメールが来たのは、私立入試の結果発表が行われてからだった。
 早紀と会う約束をしていた僕は、今まさに家で彼女を待っている間だ。

 ……もう一人、メンバーと連絡がとれたらしいのだ。
 それは、樹雨さんという、前は音楽担当だった人だ。僕の提案には大賛成だという。

 聞けば、樹雨さんの昔使っていたアドレス(えんさんが知っているアドレス)が、実家のパソコンでログインしたままになっていたという。それを実家に戻った際に気がつき、えんさんから来たメールの存在に気がついたらしい。
 僕は奇跡じゃないかと思った。
 僕がえんさんにメールを送り、えんさんがそれに気づき過去のメンバーにそれぞれメールを送った。それを樹雨さんは滅多に帰らないという実家に帰り、パソコンを付けそれを見つけたのだ。

「あっ」
「早紀……」
 久しぶり、と早紀は笑い、僕の傍まで歩み寄る。手にはケーキの箱らしきものを持っていた。
 初詣以来だね、と彼女はケーキの箱をこたつの上に置いた。今は暖房をつけているので、こたつの電源は切っている。

「合格おめでとう」
 そっちこそ、と僕は返す。
 2月の初めに受けた京成高校の入試で、僕達は共に合格した。ついさっき、合格を中学校で先生から告げられたばかりだった。

「ほっとした?」
 訊かれたので、僕は素直に認めた。
 当たり前だ。数ヶ月前、数週間前は、専願でも受かるかどうかすら危ういと言われていたはずの学校なのだから。あの頃は、まさか僕が併願で受かるなんて誰も考えなかっただろう。

 ずっと黙っていると、早紀は、突然ですがここでクイズです! と言い出した。
「……ん?」
「今日は何の日でしょう! このケーキと関係してくるんだけど……」
 突然のクイズに、慌てて考えてみる。
 クリスマスはもうとっくに過ぎたし、僕の誕生日も違うし、かといって早紀の誕生日だとしたら早紀がケーキを持ってくるのもおかしい。
 いかにも分からなさそうな僕の様子を見て察したのだろうか、彼女は僕の返答を待たなかった。「分からない? 今日……、バレンタインだよ」
 スマホの画面を付けてみると、2月14日と表示されていた。

「チョコのほうでいいの?」
 ショートケーキもあるけど、と彼女が指さしたケーキにはイチゴが乗っていた。
 あー、俺、イチゴ無理なんだ、と正直に言う。「じゃあしょうがないね」

「これ持って受けたから合格したのかも」
 ケーキを食べながら、初詣で彼女と一緒に買ったお守りを片手に言うと、彼女は首を横に振った。
「違うと思う。香征が今までしっかり頑張ってきたから受かったんだよ」
 彼女は変わることなく真剣な眼差しでこちらを向いている。この目をした彼女に何を言っても意味がないのは明らかだった。

「公立の入試が終わったら、どこか行かない? ご褒美として」
 と、僕はその話を勇気を振り絞って切りだしたのに、彼女はそれを遮るように、随分と重い口調で呟いた。
「話があるんだけどさ」
 その話をするのに、なぜ今、わざわざ改まるのだろう。僕は強い違和感を感じつつも、話を聞いてみることにした。

「……雄輔」
 その言葉が聞こえた瞬間、僕は頭をライフル銃で撃たれたような衝撃を覚えた。
「雄輔?」
「雄輔と、今度会ってみない?」

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.22 )

日時: 2016/08/17 18:38
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 窓の外では、雪がちらほら積もっていた。
 岡山では実に二十年ぶりの大雪らしい。
 だが、大雪といいながら、大した雪ではない。何しろ十センチすら積もっていないのだ。
 こんなことでいちいち大騒ぎするなんて、県外の人が見たら驚くだろうなー、と、ぼけーと思いながら窓の外の雪を眺める。その、こんなに近くで見たこともないような白い景色に、現実味というものが一つも沸いてこなかった。

 会うことになったのだ、雄輔と。
 彼が僕と会って謝りたいと言ってきたらしい。彼女のあの提案を、僕は飲んだ。
「同時に、またヨリ戻さないかって私に言ってきたんだけど、断っちゃった」と、彼女は言った。

「……早紀って、雄輔のことどう思ってんの」
 彼女は笑い顔を浮かべながら、腕を組んで考える仕草を見せる。「どうって……、もちろん」
 嫌いじゃないよ、と幸せそうに言った。
 僕は彼女のその綺麗な頬を殴りたくなった。

「もちろん香征のことを悪く言ったから別れたけど、悪く言わないようになったらまたヨリ戻してもいいと思う。だけどまだ、なんとなく早いかなぁ」
 彼女の言葉を聞き流しながら、ふと思う。
 早紀は、雄輔が僕のことを悪く言ったから二年ぶりに僕と会ったのだ。
 もし雄輔が悪く言わなかったとしたら、早紀は永遠に僕と会わなかったのだろうと、なんとなく感じた。

 今思うと、雄輔が、僕と早紀を繋げたのだ。もちろん感謝などしない。むしろ軽蔑している。
 早紀は優しい。とても優しいのだけれど、こんなに複雑な気持ちになるぐらいなら僕は彼女と会うべきではなかったのかもしれない。

 突然、スマホが鳴る。
 最近よく聞くようになった効果音で、鳴るとすぐに、メールが来た音だ、と気づく。
 数日前から、僕はメールが届くとスマホにも通知するよう設定してあった。

「今日の夜10時からメンバー全員でSkype会議するんだけど、君も来るかい?」
 こうやって企画が再興するのも君のおかげだから、僕は君に来てほしいって思ってるんだけど、と続いている。
 行きます、とすぐさま僕は返信した。
 もちろん、部外者の僕がそんなところに行くのは気が引ける。だが、行かないほうがメンバーの皆さんに失礼だと思ったのだ。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.23 )

日時: 2016/08/27 14:54
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「なんか懐かしいね、この感じ」

 そう笑う女性の声が聞こえる。
 その声の主は、メンバー表を見るからに、水音さんか莉乃さんだろう。
 年齢なんて僕より十は上だ。その女性はメンバーとの再会を喜んで興奮していたが、どこか落ち着いていて頭の良さそうな雰囲気があった。

「もしもし、水音か?」
 次に喋ったのは男の人だった。発音的に関西の人だろうか。
「そうだよ。もしかしてゆーた?」
 どうやら二人は水音さんとゆーたさんらしく、仲よさげに笑いあっている。
 七、八年ぶりの再会だというのに、意外と自然に話せるもんだと、僕は少し感心した。
 感動するに決まっていた。
 この場では僕など部外者でしかないが、こんな状況に居合わせると流石に涙が出そうになる。

「結婚するんだ。俺と水音。」
 初めて喋るその声は高らかにそう言いあげた。
「……えっ? 樹雨、久しぶりでいきなり凄いこと言い出すなー」
「えんから聞いてなかった? 今樹雨と二人で私の実家にいるんだけど……」
 水音さんはそう言った。
 通話画面では、僕含む四つのプロフィール画像が表示されていて、誰かが喋った際に、誰が喋ったのかが分かるようになっている。
 見ると、水音さんと樹雨さんのどちらが喋っても、水音さんのプロフィール画像である猫の画像が青く光っていた。つまり彼らは今同じ部屋にいて、一つのアカウントでこの会話に参加しているということになる。

「へ、へえ……」
 ため息のように出たその声は、ゆーたさんのものだった。
「えんもそうか? 俺が今まで絡みを完全に切ってた間、まさか二人がそんなことになってたとはね〜」
「そうだろ。俺も初めて聞いたとき驚いたよ」

 どうやらえんさんの声らしい。
 彼が喋った瞬間、全員が五秒間ほど黙り込んだ。
「お前声老けすぎだろ」
「俺らと同い年だったよな」
 など、もれなくえんさんの声だけに対する批判が延々と続いた。
 それを聞いてえらく憔悴しきったえんさんの声は、さらに老けたようだった。

「さて、そろそろ本題に入るか」と切り出したえんさんに、僕はついに喋ることができた。
「まだ莉乃さんが来てませんけど……」と、まるで先生に発するように。
 その瞬間、僕は後悔した。まだはっきりとは分からないが、彼らの反応だけでその発言がどんな罪を持つか何となく解ってしまった。

「あぁ……、まだ、コウセイくんには言ってなかったっけ」
 ここから抜け出してしまいたかった。今すぐ通話を切ると怒られるのかな。
「莉乃はさ、亡くなったんだ」
 あまりに静かに、振り絞るようにえんさんは語っていった。
 少しして、水音さんの嗚咽らしきものが聞こえる。どこの誰かも分からない大人の女性を、僕はたった一言で泣かした。
 そりゃそうだ。今まで毎日活動していたゲーム製作企画が、何の前触れもなくある日突然壊滅する訳がない。
 僕はなんて子供なのだろう。そんな簡単なことにすら気づかず、ここにいる人たちを無条件で傷つけてしまうなんて。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.24 )

日時: 2016/09/22 22:00
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「でも、希望はある」
 うん、そうだ、と残る二人もえんさんに続く。
 よく分からないが、まるでえんさんが助け船を出してくれたようだった。
 意味の分からない僕に、えんさんが説明する。「莉乃が脚本担当だってことは知ってるよね? でも、彼女はSignの脚本を書いた上で亡くなったんだ。だから、莉乃がいないからって別の脚本担当を連れてくる必要はまるでない!」

 僕は、脚本の完成と莉乃さんの死がとても意味深な出来事に思えて仕方なかった。
 彼女はまだ生きている。

「今考えると、Signの製作をやめるなんて、結構罪深いことしたな俺達……」
「そうだな、だけどあのときはそんなこと考えられなかった。莉乃が死んでから、本当モチベーション保てなくて」
 僕はこの通話に参加してていいのかと改めて思った。
「コウセイくん、大丈夫」
 水音さんが言う。小さな声だった。
 今、僕が付けている千円もしないようなヘッドセットからは、彼らの悲鳴が嫌というほど聞き取れる。

「なんか……すみません、僕があんなことを言ったばっかりに」
「大丈夫。莉乃が亡くなったのを言わなかった俺の責任だ。みんなゴメン」
 えんさんはすぐにフォローしてくれたが、僕は腑に落ちなかった。
 僕と彼との間に語弊が生じていると分かった。あんなこと、というのは、莉乃さんのことではなくて、このゲーム製作企画を復活させようという僕の提案のことだ。
 元を辿れば全てあれに行き着くのだ。これほど人を悲しませるのなら、えんさんにメールなんて送らず、闇の中に葬り去られたままのほうがよかっただろうと。
 初めてあの掲示板を見たとき、僕はまるで、まだ高校生だった彼らの息づかいが真空パックされているようだと感じた。そしてそれは正しかった。真空パックから解き放ったのは、他でもない僕自身だと今やっと気がついたのだ。

「そういえば、コウセイくんってLINEやってる?」
 不意打ちのように訊かれ、僕は若干言葉に詰まる。「……やってます、一応」
「じゃあさ、教えてくれない? メールよりはLINEのほうが便利じゃん、グループとかもできるし。そっちのほうが都合いい」
 別に、断る理由もなかった。

「っていうか、コウセイくんっていくつ? なんか声若くね?」
 関西弁で喋るゆーたさん。独特のイントネーションからか、どうしてもガラが悪い。「15歳です」
 その瞬間、場が静まりかえった。
「ええっと……、ってことは中学生?」
 中三です、と答える。

「俺の12コ下……」
「受験生じゃん! こんなどこの馬の骨か分からない人達と話してて大丈夫?」
「馬の骨言うな!」
 彼らは盛り上がりながら、僕のLINEを登録していく。
 今まで一人だったLINEの友達が、五人になった。

 四人で盛り上がる彼らを見て、楽しい人達だな、と思った。
 僕の勝手な想像では、大人はもっと暗いイメージだったのだが、意外と喜怒哀楽が激しい。
 それとも、普段こんなに感情を表に出すことがないからこそなのかもしれない。

「んじゃ、皆それぞれ日々の合間を縫ってちょっとずつ作っていくって感じで! 作業の進捗報告はあの掲示板でやるように!」
 えんさんが締める。あの夏からすでに八年以上が経ったが、この企画のリーダーなのは変わらない。
「あの掲示板?」樹雨さんが訊く。それにえんさんはいかにも予想通りといった感じで答える。
「もう忘れたか……、まあ仕方ないか、俺もコウセイに教えられるまで忘れてたし」
 えんさんはそう言って、Skypeのメッセージ欄にURLを貼り付けた。
 あのサイトを見て、三人は何を思うのだろう。どうしてか、逆にこちらが恥ずかしくなる。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.25 )

日時: 2016/12/11 15:07
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「うっわー、懐かしすぎだって!」
 水音さんか樹雨さんが発するたび、通話画面ではトイプードルの画像が青く光る。
「っていうかこんな掲示板に何を感じたんだろうかねー、マニアックだねコウセイは」
 えんさんがバカにしたように言う。
 確かに、僕はここに何を感じたのだろう。正当な理由は何かと訊かれても、僕は恐らく一つも答えられない。

「これはちょっと恥ずかしすぎ。こんなの見せられたら悶え死ぬわ……」
 苦しそうな声を樹雨さんがあげた。夜も深い。通話時間は三十分を超えている。
「書き込んだ! 高校生のときと同じ端末だから名前とかパスワードまだ残ってた」そう笑う水音さんの声は明るかった。
「お前……フツー白い背景なのに白い字で書くか?」
「アホだなぁ」と聞こえたのはえんさんのため息だった。

「じゃあ今日はこのぐらいで。コウセイくんの受験のこともあるし」
 どうやら、終わるらしい。
「受験頑張ってね。受験が終わったら、オフ会とかもあるかもしれない」水音さんは笑う。
「志望校に受かったら、えんがUSJ連れてってくれるよ!」
「無理! でもオフ会はあるかもね、できあがった後にちょっと会いたい」

 それから、四人はひとしきりにこれまでの話をした。きっと、それぞれがそれぞれに話したいことが山ほどあるに違いなかった。
 その間、流石に僕は黙って聞いていた。
 彼ら四人が楽しそうに騒いでいるのを、僕はいつまででも聞けそうだと思うくらい、心地がよかった。




「あ、香征……」

 帰り道に早紀とバッタリ会ったのは、河川敷でだった。
 そのとき僕は上の道を歩いていて、先に気づいた彼女が僕を呼んだ。そのときはいつもより静かだったから、小さな声でも僕に聞こえた。

 石階段を何段か降りると、早紀の「公立落ちたかもしれない」という声が、不意打ち気味に僕に届く。
「……あんまりできなかった?」
 僕は昨日行われた入試のことを思い出した。とてつもなく緊張して迎えた本番だったが、意外とアッサリ終わって少し拍子抜けしたのを覚えている。やはり私立が既に受かっているので心の余裕があったのだろう。
 そして今日、つい数時間前、面接が行われたばかりだった。
 僕のほうは、それほど悪い出来ではなかったと思っている。自己採点では入試は八割を超えるか超えないか辺りだった。

「ほんっとーにできなかった」
 そう言って彼女は笑顔を見せ、河に向かって清々しそうに伸びをする。……これは、諦めの笑みだろうか。
「受験、もう終わりだね」
 そうだね、と無意識に返事をした僕も、河の向こう岸を見つめる。昨日降った雪が白く積もっていた。

 あのクリスマスイブの日、早紀と二年ぶりに再会した日も、そういえばここで二人で並んで同じ方角を見ていた。
 そのときは、彼女が自らの第一志望だった遠野高校に行きたくないと言い出して、内心少し戸惑ったのを思い出す。
 あのときと違い、もう、微かに暖かい。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.26 )

日時: 2017/02/12 08:33
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「雄輔は?」
 訊くと、彼女は既に草むらに腰を下ろしている僕の横にくっついて座った。
 僕はあえて彼女を見なかった。

「……珍しいね、香征が雄輔のことを気にするなんて」
 その言葉だけだと僕がただの冷たいヤツにしか聞こえなかったが、文句を言う気にはなれなかった。
「早紀が遠野落ちたら雄輔と学校離ればなれになるじゃん」
 彼女はしばらく言葉に詰まる。大方、それが? と訊こうとしてためらったのだろう。
「あぁ……、そのことなら大丈夫。心配させてごめんね」
 その、とっくの昔に終わった話のような感じをだしていた彼女が少し不気味だった。

「こっちは逆に紅葉受かったかも」
 その言葉が自然と出る。少し嫌みっぽかったかもしれない。

「おめでとう。……今日、この後時間ある?」
「雄輔?」
 即答した僕に、早紀は少し笑う。「よく分かったね」
 彼女はまだ気づいていない。いや、気づいてはいるが隠しているのかもしれない。
「今日、五時ぐらいから会えないかって雄輔が」
 あまりの急さに、一瞬何のアクションもとれなくなる。五時といえばもうあと数時間後だ。

 場所はあらかじめ早紀にLINEで聞かされていた。「喫茶店だったっけ? 二駅離れた」
「そう。大丈夫、すぐ終わらせるから」

 彼女は、ひとりでに石階段をゆっくり登っていった。
 付いていこうとしたとき、彼女はわざとらしく伸びをして、こちらを向いた。「結局、三人とも別の学校か」
「まだ雄輔が遠野受かったとは決まってないじゃん?」
 それに早紀が落ちたとも……、と言おうとしたが「決まってる!」と、突然強い口調で言われ、少し身が竦んだ。
「前ここで香征に話したよね、遠野行きたくないって。だけど最近はその気持ちも少しずつ変わってきてて、前よりは勉強に集中できてるかな。でも、雄輔ほど頑張って落ちるなら、……私なんて絶対落ちてるよ」
 そう言い切った彼女にかけられる言葉など僕には思いつかなかった。

「もう春だね」
 商店街を過ぎたとき、彼女は突然言った。
「いや、まだちょっと寒い……」と即答すると「それが春なんじゃん」と彼女は楽しそうに笑う。
 そうやって二人で歩いていく内に、僕は、早紀のことをもっと知りたいと思った。
 早紀が普段何を思っていて、誰が好きで、来たるべき未来をどう見据えているのか、僕に一つ一つ教えてほしいと思った。
 何故か、彼女がこの世界の秘密を全て知っていて、まるで道しるべ……もっとバカな言い方をすると、神様のように思えたし、或いは天才理論物理学者にも見えた。
 彼女はきっと、僕が今いる平凡とか怠惰とか堕落とかが無条件に存在する場所から一番遠くにいて、それが何なのかをはっきり僕に悟られないまま、どこにでもいる一般人を気取って普通に日々を過ごしている。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.27 )

日時: 2017/01/13 17:32
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「じゃあ、五時に約束してた喫茶店で」家の前で別れを告げる彼女に、あぁ、と僕は素っ気なく返事をして、不意に彼女の後ろ姿を見つめる。あちらはもう前を向いていた。
 この角度からだと、僕と早紀、雄輔の家がいっぺんに見える。
 僕らはこれほどまでに近いのに、二駅離れた喫茶店でしか会えない。

 そのとき、家に入ろうとしていた彼女と、目が合う。僕は無理やり笑顔を作り、すぐ目を逸らした。



 岡山駅は人混みで溢れかえっていた。
 僕は少し急ぎ気味に改札を通過する。普段滅多に来ない場所なので、通る際の動きがどことなくぎこちなくなる。

 東口に出ると、制服やスーツを着た大量の人達が見えた。
 ……ふと、デジャブを感じた。これはあの日、父さんに傘を届けに行った時に、下を向いて雨宿りをしていたあの大群とよく似ていた。
 あの大群を見て、僕はかつて彼らを無個性だと蔑むように思った。
 階段の最後の一段を降りると、ふと右手に持つスマホが目に入る。スリープ状態になっているスマホは太陽で黒く反転していて自分の顔が映る。僕はイヤホンを付け、コンタクトをしている。今まで僕は眼鏡をかけていたのだが、似合わないと早紀に言われてからは外で眼鏡をかけることはなかった。イヤホンからは、早紀に教えてもらったバンドの曲が流れている。
 一体、どこをどう見れば、あの大群と僕を切り離せるのだろう。
 数ヶ月前まで僕は確かに特別だった。ただ、ある日突然、気づいてしまったのだ。僕なんて、ここに大勢いる中の一人でしかないということに。



「香征」

 二人を探していた僕に、少し大きめの声が届く。呼ばれた瞬間、雄輔の声だと分かった。
 店内は思いの外静かだった。ところどころ暖かい色の照明に照らされていて、恐らく日本製ではないであろうテーブルやチェアが儚げなニュアンスを醸し出している。
 声のした方を向くと、店内の一番奥にあるテーブルに、早紀が座っているのが見えた。二人はテーブルを挟んで向かい合う形になっているので、ここからでは雄輔の顔は見えない。
 当然のように、人はまばらだった。僕は二人がいる傍まで歩み寄る。緊張していたので、歩くときに手と足が同時に出てしまう。

「久しぶり」
 あれ。
「早紀の方に座れよ」
「ちょっと、言い方キツいよ雄輔」
 僕はいたって平然と早紀の隣に座った。すぐ、着ていたダッフルコートを脱ぐ。少し暑い。リュックは下に置いた。
「とりあえず飲み物からだね。何飲む香征?」
 二人の前には既に半分ほど減ったコーヒーが置かれている。僕に伝えた約束時間より早く来ていたことは容易に想像できた。
 二人は僕が来る前何を話していたのだろう。

 ミルクコーヒーを、綺麗な店員さんはすぐに持ってきてくれる。
「雄輔は香征に謝りたくて仕方なかったらしい。香征は話聞くの嫌かもしれないけど、どうか聞いてあげて。お願い」店員さんが去ったあと、早紀はいつになく神妙な面持ちで言った。
 コーヒーカップは異様なほどお洒落で、このまま美術館に飾っても遜色ないレベルだろうか。もちろん、美術館なんてほぼ行かないけれど。

メンテ

Re: 2006年8月16日 ( No.28 )

日時: 2017/01/03 17:28
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「去年の終業式の日に、バッタリ会ったじゃん。あのとき、ちょっとキツい口調になっちゃってゴメン」
 雄輔はゆっくりと語り出した。と同時に、僕は恐らく二年ぶりに彼の顔をはっきりと見た。
「正直に言うと、勉強してないやつなんてあのときはクズだと思ってた。だけど早紀に怒られてさ、やっとその過ちに気づいたっていうか」
 僕はコーヒーをゆっくりと口に含み、小さく深呼吸をした。やはりだった。どこか、何かがおかしい。
 その違和感は彼の口調が真に反省しているようには見えなかったことではない。むしろ、彼の言うことが本当かどうか、そんなことはもうどうだって良かった。
 なぜなら、去年あれだけ酷い態度をとられた雄輔を前にして、恐ろしいほど怒りが沸いてこなかったからだ。むしろ優しい、温かな気持ちですらいる。
 その感情は、自分でもよく分からなかった。強いて言うなら、無関心、が一番近いような気がする。
 僕はその感情を言葉にできないまま、考えたようなふりをしつつ、何も考えられなかった。

「……雄輔」
 彼の名を口にすると、いつも、心臓がバクバクしてしまう。二人が僕のほうを向く。
「こっちはもう怒ってないから、大丈夫」
 しっかり人の目を見て話すのはいつぶりだろう。少しテーブルを挟んだ1メートル先に、雄輔の鋭い目が光る。その目は多少驚きを隠せないようだった。
「許してくれるんだね」雄輔は声だけは落ち着いていた。
 隣にいる早紀はいかにも安堵の色を浮かべているという表情だった。「香征……」

「ありがとう」

 そう言ったのは間違いなく僕であったはずだ。それが、雄輔と早紀の声も同時に聞こえた。偶然、三人の声が被ったのだと分かった瞬間、ふと笑みがこぼれていた。しばらくすると声を出して笑っていて、二人もそれに続いていた。
「私立受かったんだって? おめでとう」
「ありがとう。雄輔は私立どこ受けたんだっけ?」ありがとう、がまた早紀と被る。
「あー、俺はまた別の所。一応受かったけど、あくまで遠野受かるつもりでいるから」
 サラリと言ってのけた彼に対し、当たり前ではあるが、僕とは違うな、と感じた。

「そういえば早紀はどうだったんだ?」
 言われて、早紀は少し言葉に詰まり、辛そうに喋った。「一応頑張ったけど、落ちたかもしれないな」
 そっか、と雄輔は申し訳なさそうに言った。
 場の空気が少し悪くなる。それは意外な展開だった。なぜなら、そんな話は、てっきり僕がここに来る前に話しているかと思っていたからだ。
「まあ、京成で三年間頑張るよ! 受験のための勉強は無駄になっちゃったけどね」早紀はこの場の全員、特に自分を励ますように言った。「いつまでもくよくよしてても意味ないしね」と笑う素振りさえ見せたが、やはりどこか落ち込んでいる雰囲気は隠せなかった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.29 )

日時: 2017/04/26 03:50
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 僕は、さっきから何に対して怒っているのだろう。
 早紀にとって、志望校に落ちるということは、そのまま受験、人生の敗北を表しているようなものだ。
 僕は学校での早紀も、塾での早紀も全く知らない。しかし、必死に勉強を頑張ってきても、志望校に落ちてしまっただけで、全て無駄になってしまうのだろうか。

「気にしすぎだって早紀、俺だって落ちたかもしれないし。遠野の筆記スゲーむずかったじゃん。あんなもん自信なくて当然だって」
「……雄輔が絶対受かってることぐらい知ってるから、そんな下手な励まし方しないでいいよ」
 早紀は静かに雄輔を制止する。怒っているのだろうか。

 少なくとも僕は、学校の勉強にほとんど興味がなかったあんな状態からここまで来れたのは、勉強の面白さに気づいたことだったり、将来の夢が広がることへの単純な喜びを感じられたからこそだった。
 僕は、悲しいを通り越して憤りすら覚えている。僕にそれを教えてくれたのは他でもない早紀だろう。

 最悪な場の空気で、雄輔が切り出す。
「じゃ、じゃあ、三人とも公立高校の入試お疲れ様ってことで、早く帰って体休めとこう。また今度!」
 早紀は「急だね」と笑い、脱いでいたコートを羽織る。「お疲れ様。また今度」
 ほぼ同時に席を立った二人は、とっくにミルクコーヒーを飲み干しているはずの僕を不思議そうに見る。「どうしたの?」
 座ったままの僕は決心する。この場で雄輔に絶対に言わなければならない言葉があったのだ。

「ありがとう。バイバイ」

 それを僕は普通に口に出したつもりなのに、思いの外小さな声となって聞こえた。
 僕はまた会おうとは言わなかった。雄輔の言葉に同意していればまた会うことになってしまうと分かった僕は、彼のその言葉を言い直さなければならなかったのだ。
「あぁ」雄輔は僕らに背を向け、足早に去っていった。

 彼は右に曲がり、完全に見えなくなった。
「……香征?」
 僕は雄輔という人間を嫌ってはいない。ただ、大した話はしていないにしろここで三人で会うという行為は必要なものだった。
 僕はぐるぐるぐるぐる色んなことを考えながら出る支度をした。そのまま待ってくれている早紀についていく。

「お会計はもうお済みですよ」と言った綺麗な店員さんはニコニコしていた。
「……えっ?」僕は素で聞き返す。
 そんなバカな、と思った刹那、慌てて僕はさっきまで座っていた席まで走る。無色透明な伝票立ての中は空だった。途中まで確かにここに挟まっていたはずの伝票が、なくなっている。
 気づかぬうちに後ろにいた早紀は「雄輔……」と声を漏らし、僕を見る。これは彼なりの感謝の気持ちだろうと思った。ありがとう、さよなら。

 喫茶店を出てから、岡山駅の方角へ歩いていく僕に「電車じゃなくて、歩いて帰らない?」と提案する早紀は微笑んでいた。
 無言で承諾する僕に、早紀はまだ笑ったまま、こちらをずっと見ている。「……どうかした?」
「いや、雄輔と仲直りしたのが嬉しくて……えへへ」
 あぁ、そのことか、と僕は冷ややかに思った。「もう雄輔とは会わないと思う」
 僕はそれを、おそらく彼女にとっては衝撃的な発言だろうと思っていたのに、意外と早紀は驚いた様子を見せなかった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.30 )

日時: 2017/11/15 04:56
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「さっきのやりとりを見るからに、香征はもうそんなに雄輔を嫌っているようには見えなかったけど」
 やはり気になっていたのだろう。あれから十分ほど歩いた頃、早紀は唐突に言い出した。僕らはちょうど信号を待っていて、そこそこの大群の中に埋もれている。
 確かに、僕は雄輔をもう全然嫌っていない。さっきだって雄輔とは自然に話せたし、12月23日のことはもう全く気にしていない。
 ただ、また会いたいと思えなかった。

「そうだね。全然嫌ってないよ」
「……えっ?」流石に、彼女も意味がよく分からないようだった。
 信号が青になり、周りの人が一斉に歩き出す。しばらく立ち尽くしたままの彼女の横を抜け、僕も周りと同じペースで歩道を渡る。向こうからも同じくらいの大群がこちらに向かってきていて、ぶつかる寸前は覚悟を決めた。

 そういえば、いつだって僕は、ただ生きているだけでそういう切なさを感じてしまう。
 僕は、2006年の8月に更新が止まったあの掲示板を思い出す。
 今思う。あの掲示板を見て、かつて僕は終わらせ方の大切さを痛感したのだ。
 どんな物もいつかは終わる。永遠などない。だからこそ、きっと最後は綺麗なままがいいと。
 だから、僕はちょっとだけ大人になっていた。雄輔と仲直りしたのはいいが、また昔みたいに遊ぼうとは思えなかった。中学を卒業して、そのまま二度と会わなくたっていいとさえ思えたのは、きっとそういう理由からだったのかもしれない。
 雄輔とまた友達として会うこともきっと幸せなことなのかもしれない。しかし、僕達の関係を綺麗なまま終わらせるという、そういう幸せが一つくらいあってもいいと僕は思ったのだ。

「そういえば、前雪降ったよね」
「あー、降ったね。一ヶ月くらい前かな?」
 僕が返答すると、あの日塾あったんだけど帰り道やばかった、と彼女は笑った。「そういえば香征メガネやめたんだね」
 えらく唐突だな、と笑った。「今コンタクトしてるけど……、最初つけるとき結構怖かったなぁ」
 言うと、突然彼女は何かに気づいたように声をあげた。
「そういえば香征って普通に話せるんだね。私とも雄輔とも。さっき結構自然に話せてたからちょっとびっくりしちゃった」

 少し冷たい風が後ろから前に向かって吹く。確かに、と前を向いたまま思った。今考えてみると、今日を除けば最後に雄輔とちゃんと話したのは中学校に入って少し経ったぐらいだったから、それから二年半以上は経っている。
 早紀のほうも、去年のクリスマスイブを除けば話さなかった期間は雄輔と同じぐらいだ。なのに、再会した日は驚くほど自然に話せていた。何故今まで気にならなかったのだろう。
「あの日ね、私、結構緊張したんだ。前の日にスーパーで会ったけど、話せなかったから」
 岡山駅周辺には滅多に来ないので、この辺りは勿論初めて来る場所だった。というより、どこを向いてもカップルが多い。
 僕らは二人並んでこの大通りを歩いている。ふと右側を歩く早紀のほうを横目で見る。何というか、本当に綺麗だ。前だけを見つめる瞳はきっと希望だけを映し、艶やかなよく落ち着いた茶髪はきっとこの道を歩く数百人の中で一番美しい。
 その目は今何を映しているのだろう。

「香征、危ない!」
 ふと正気に戻った僕は、気がつけば彼女に手を引かれガードレールにぶつかっていた。何事かと僕は彼女を見た。
 彼女が怒ったように見つめるのはすでに通り過ぎた自転車だった。「ひどい自転車だなぁ……、大丈夫だった?」
 彼女は、地面にへたり込んだままの僕にすっと手を差し出してくれる。僕はその手を受け入れ、彼女が引っ張ってくれる。僕は内心かなり驚いていた。彼女のあの細い体のどこにそんな力があったのかと思わせるほど、そのときの彼女の力は異常だった。

「ありがとう、……別に俺のことなんて気にしなくていいのに」
「何言ってるの」彼女は僕の冗談ともとれないような言葉を笑って流す。
 当然のように、僕達はさっきより急ぎ足で歩いた。どうやら、今の自転車の件でそれなりの注目を集めてしまったみたいだ。

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Re: 2006年8月16日 ( No.31 )

日時: 2017/02/27 03:36
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「っていうか、さっきのこと、いい加減続きが聞きたいんだけど」
 薄笑いを浮かべた彼女に、僕は聞き返す。その際、彼女の向こうに夕焼けが見えたのを僕は忘れなかった。「……何のこと?」
 あれから数キロの距離を歩いたのだが、近頃運動不足気味の僕はただただ足の痛さに耐えるほかなかった。明日は筋肉痛で苦しむこと間違いなしだろう。

 彼女は「雄輔のこと!」と怒ったように言った後、「また三人で会いたくないの? さっきのを見た感じだと嫌っているようには思えなかったし」と小さく言った。
 僕はそれを話すにはこの場所は不適切だと直感的に思った。「ちょっと待って。公園とか近くにないかな? 公園じゃなくてもいいや……なんか、座れて人気のないところ」
 僕は、言った後に、こんな町中で公園などまずないだろうと思ったので、すぐ言い直した。自分の足のこともあるのでとりあえず座りたいという願望も含めた、極めて自分勝手な要望であるのは間違いない。

「公園……かぁ」
 彼女はポケットから取り出したスマホで突然何かをし始めた。「私もこの辺よく知らないんだ」
「えぇっと、こうえん、こうえん……と。あっ、そっちのこうえんじゃない!」
 どうやら地図アプリか何かで公園を探しているようだった。明らかな誤変換も含め、僕は黙って彼女の動向を見守るしかなかった。

「んー、公園はやっぱりちょっと近くにないみたい。どっかいい所ないかなー」
 少しして諦めたように言う彼女の言葉を聞いて、何故だか僕は一つの場所が頭に浮かんだ。

「旭川かなぁ」

 また声が被ってしまう。
「そっか……、やっぱりそうなんだね」
 彼女はただただ、ひたすらに笑っていた。声が被ったことで笑っているのではないということは容易に想像できた。
 僕は失笑する。そのとき僕は、自分の足のことなど半ばどうでもよくなっていた。今日、早紀と一緒に、どうしても旭川に行かなくてはいけない理由があったからだ。
 ……もうすぐ、日が落ちる。

 歩き疲れて、僕は振り返る。閑散とした住宅街は、人の気というのが全く感じられない。さっきあんなに人で溢れていた場所も、直進し続けるとこうもひっそりとした場所に続くのか。
「あっ、あれ、旭川だよ!」
 言われたので、僕は急いで彼女の示す方を向いた。
 すると、彼女は歩くどころか走って近づこうとするので、僕も慌ててついていった。途中、何のためについているのか分からない信号機が赤く光っていたが、無視して走った。一足先にたどり着いた彼女は石でできた欄干に手を置く。
「綺麗だなぁ」彼女は数十メートル下を俯瞰する。
 遅れてたどり着いた僕も河を見る。角度的にここまで歩かないと見られない旭川はほの暗い。それを見て、初めて日が落ちていることに気がついた。
「ってか、かなり低いな」
「降りる?」そう言う彼女の視線の先には石階段が見える。段数がやけに多い。
 僕は無言で階段を降りる。幅が狭い階段は地味に足元が不安定になる。
「あ、そのリュック、もしかして私が前好きって言ってたブランドのやつ?」
「えっ」今更気づいたのかと、思わず苦笑が漏れる。どうやら、彼女が僕の後ろに立つのは今日初めてだったらしい。「そうだよ。最近買った」
 僕はリュックを前に持ってくる。真ん中に大きく書いてある「FALA」の文字が特徴的なこの黒いリュックは、未だに新品の匂いが消えない。前会った時、安いのにデザインがいいブランドと彼女に言われて、その日のうちに通販で買った物だった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.32 )

日時: 2017/03/22 16:20
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「香征、なんか最近お洒落になったよね」
 何故だか、その言葉を素直に喜べなかった。彼女の声色が悲しげなニュアンスのようにも聞こえた。
 石階段を下り終えると、流石に水面は近くなる。僕はすぐ左に岡山城が見えるのに今気がついた。

「でね、さっきの件だけど」
「ん」早紀はその場に腰を下ろして僕の言葉の続きを待った。
「歩いたまま話さない?」確か、この河川敷はかなり向こうまで続いているはずだから、ここをひたすら歩けば商店街の前まで行けたはずだ。
「それもそうだね。もういい時間だし」


「……まぁ、香征の言うことも分かるけどね」

 河川敷の幅はだんだん狭くなっていく。景色がほとんど変わらないまま、僕達は幾ばくか歩いた。
 気づけば河の近くを歩いているというのに全然寒くないのが心地よかった。
「あのとき、香征……」言いかけたところで、彼女のバッグの中から少し音がした。ここでなければ気づかないぐらいの小さな音で、それはiPhone特有の着信音だった。彼女はバッグからすぐにスマホを取り出し、電話に出た。取り出したとき、バッグの中に入っているときより数倍は大きな音がしたので、僕は少し驚いた。この怖いほどひっそりとした空間を歩いているとどうしても音に敏感になってしまう。

「もしもし……。うん、今帰ってるとこ。……うんうん、ごめんこんなに遅くなっちゃって……。はい、すぐ帰る」
 そろそろ終わる頃合いかなと思ったが、その通話は意外と長く続いた。
「……本当に大丈夫だって! そんなに心配? うんうん、今香征といる。さっき雄輔と三人で会ってきた。……代われって? 分かった」
 全く……、自分の娘を全然信用してないんだから! と彼女は怒りながらスマホを僕に渡してくる。渡されて、そういえば前にも見たことがある国際的ネズミのスマホカバーだと分かった。
「もしもし……」言うと、真っ先に「あらー! 本当だったのね。久しぶりじゃない香征くん!」とかなり強いトーンで返された。
 我ながら力のない返事を返すと、「いやね、早紀がこんなに遅くなるの初めてだったから。雄輔くんと遊んでるのは知ってたけどこんなに遅くなるとは思えなかったし……。今何してるの?」
 少し、言葉に詰まる。川沿いを二人で歩いていたと正直に答えられたらどんなに格好いいことだろうと笑える。
「今帰ってるところです。遅くなっちゃってすみません」
「あぁ、そう……」
 僕は胸を撫で下ろした。賭けにでる気持ちでわざと言葉を濁したが、無事聞き返されずに済んだようだ。

「じゃあ切るわ。また今度家遊びにおいでよ、香征くん」

「娘がそんなに信用できないってひどい……」
 まだ言ってるのかと少し笑った。「仕方ないよ、もう8時だしね。こんな遅くまで遊んでることって珍しいんじゃない?」
 そう言いながら、彼女にスマホを返す。シリコン製のスマホカバーは手から滑りにくい。
 彼女は、いや、と咄嗟に否定する。「塾がある日は帰りが10時ぐらいになるときもあったけど、まあ確かに塾辞めてからは初めてかな」

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Re: 2006年8月16日 ( No.33 )

日時: 2017/03/27 16:03
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 会話がふと途切れてから、改めて周囲の静けさに気がつく。
 この世から僕ら二人以外が全て消え去ってしまったような気さえする。その景色があまりにも現実味がなかったからか、不思議な高揚感に包まれていた。まるで夢の中にいるようだと直感的に思った。
 そしてはっとする。この闇は、彼女と久しぶりに会ったあの夜、彼女が僕の部屋のカーテンを開けたあの時に見えた暗闇と酷似していた。

「……すごい」
 隣を歩く彼女が声をあげる。「ん?」
「星が綺麗だ。すごい。こんなに綺麗だったんだ。今気づいた」
 言われて、僕も上を見る。確かに、そういえば上を向くという動作がとても新鮮だった。
「……確かに、綺麗だ」
 僕はその時、まさしく形容の仕方を忘れていた。何も言う必要がないと思えたからかもしれない。言葉など無くても彼女には寸分の狂いもなく伝わると強く感じられ、同時に、横に幼馴染みの早紀という女の子がいて、二人でこの時間、空間を共有できているという事実だけで充分に嬉しかったのだ。

「えっ、香征、何泣いてんの」
 気づけば、涙が出ていた。「ちょっと! 本当にどうしたの?」
 彼女はひどく取り乱していた。当たり前だろう、僕ですら何故自分が涙を流しているのか不思議でしょうがないのだから。
「ごめん……、あまりにも、……星が綺麗だったから」言った後、どんな理由だと自分で突っ込みを入れる。
「……あはっ、星が綺麗だから泣くの? 初めて聞く理由だ」
 彼女が笑う中、僕は何も考えず背負っていたバッグを下ろし、中を探っていた。渡すタイミングは今しかないと思った。
 それは最初から手に取っていたが、わざと色々と探す素振りを見せた。
「これ、今日渡さなきゃって思って」
 そう言ってそれを見せた途端、彼女の表情はすぐ変わった。いや、きっと変わっていることだろう。僕は目をつぶっていた。
「これ、チョコ? あ、バレンタインのお返し? いいのにあんなの」
 僕は消えてしまいたいと思いながら恥ずかしさに耐えていた。「チョコなんて……、意外だな、ちゃんと返してくれるんだ、香征って」
「え、普通は返さないの?」ふと正気に戻る。涙はもう止まっていた。
「返さない人も多いかな。今日だって雄輔に返してもらってないし」彼女は笑う。「でも、ありがとう。嬉しいな」
 僕は、構わずその綺麗な頬にキスがしたいと思った。抱き合いたいと思った。その他にも、彼女と二人で色んなことがしたいと思った。
 ただ、それは叶わぬ願いだとすぐに分かった。彼女には雄輔がいて、僕なんかよりずっとお互いがお互いのことを好きだろうし、ずっとお互いがお互いのことを必要としているはずだと気づいていたからだ。僕がさっきあれほど感動した星空も、彼女はとっくに雄輔と先に見ているかもしれない。それに、僕は早紀に尊敬されるような何かを持っているわけでも、雄輔のように容姿に優れている訳でもない。何より、僕は雄輔のようにはなれないと自分で分かってしまっていたのが、一番悲しかった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.34 )

日時: 2017/04/11 02:05
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「私、あの時、香征の家に行ってよかった」
 再び歩き出した僕の後ろで天を仰ぐ彼女はまだ歩き出そうとしない。「感謝すべきなのはこっちの方だよ、むしろ」
「そういえばさ、高校生になるって不安じゃない?」
 やっと歩み寄ってきた彼女は僕に質問する。不意打ちだった僕はすぐに答えられない。
 足がわなわなと震える。僕は今まですっかり忘れてしまっていた感情が、確かに蘇ってくるのを感じた。それと同時に、何故今まで忘れてしまっていたのだろうと強い疑問を抱かざるを得なかった。早紀と再会する前の僕は、明日のことすらよく分からなかったじゃないかと。

「あっ、なんか見たことある景色だ」
 早紀は河の向こう岸を見ていた。それは登下校のときに幾度となく見ていた景色だった。普段は河川敷じゃなくこの上の道を歩いているから、少しだけ雰囲気が違う。
「もうちょっとで家に着いちゃうね」
 彼女は言う。それはとても悲しいことだと思った。なんだか、一つの物語が終わってしまったような気がした。そもそも、あの道をまっすぐ行くとこんな家の近所まで来られてしまうということ自体がもう充分に悲しかった。僕は夢を見ているように、早紀と二人でこの夜道をいつまででも歩いていたいと思っていたのだから。

「なんか、ちょっと悲しいね」
 何が、と聞くより先に彼女は続ける。「いや、もう香征とお別れかって……」
「私たちってこの河と一緒に生きていくのかな」
 突然の彼女の質問に、はは、と僕は思わず声を出して笑う。「それは嫌だな」
「だよね」彼女も笑う。ある程度予想していた返答だったのかもしれない。

「そういえば、もうカメラ持ち歩いてないんだ? さっき星空とかあったから撮ればよかったのに」
 言いながら、そういえば前にもここでカメラの話をしていたと思い出した。商店街の前の石階段を上がる。もうここまで来てしまった。
「あー、今も持ってるけど」彼女は僕の後ろでバッグの中を探していた。「写真に撮る必要もないかなって」
 変わった理由だな、と笑っていると、彼女が後ろでカメラを見せてきた。「なんかカメラをバッグから出す気が起きなかった」ははは、とやはり彼女も笑っていた。
「綺麗だったのに?」
「うん。綺麗だったのに」

 階段を上り終えた時、流石にここからはゆっくり歩こうと思った。
 商店街はひっそりとしていた。ところどころ明かりが付いていて、僕らが通り過ぎると皆一様に僕らを不思議そうに見つめる。確かに、この時間にここを歩いたことはないのでそれもそのはずだった。
 僕ら二人、並んで歩く商店街は、いつもより少し短く感じた。

「今日は、ありがとね」
 横で彼女が笑っている。僕は何故礼を言われなければならないのかと思った。
 街灯が一定間隔で並んで立っている。目の前に家がある。早紀の家も少し離れて建っている。歩きたくないと思いつつ足は全く歩みを止めない。
「高校受かってたら、すぐ教えて」
 家の前まで来たとき、ついに僕は彼女の顔を直視した。それは本当に悲しそうな表情で、なんだかこれが永遠のお別れになってしまいそうだと思えた。
「分かった。どうしたのその表情」僕は軽く茶化すように言った。彼女を笑わせて励ましたいと少し思った。
「いや……、なんか、もう香征私と会ってくれないのかなってちょっと思って」
 僕は衝撃でしばらく動けなかった。図星だったのかもしれない。
「だってもう雄輔と会わないんでしょ? それなら私とも会わないはずじゃん」
 そのとき、僕は彼女を少し怖く感じた。僕は何も言い返せなかった。それは彼女の言うことが紛うことなき正論だったという以外に、今まで自分が心の奥底で考えていたことを言い当てられ、驚いてしまったという意味もあった。

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Re: 2006年8月16日 ( No.35 )

日時: 2017/11/15 05:23
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「……そうかもしれない。ごめん」
 僕はあくまで正直に言った。この、自分の正直さが嫌いだ。
「まぁ私が嫌いって訳じゃないのは分かってるから、まだマシだけどさ」
 彼女がひどく落ち込んでいるのは顔を見る前から明らかだった。僕はこの光景が何かに似ていると感じ、いつかのSkype通話を思い出していた。あのとき、画面にはそれぞれのプロフィール画像しか見えなかったが、あのときの水音さんもきっと多分こんな表情をしていた。
 僕は、自分の勝手で人を傷つけてばかりだと思った。このちっぽけな存在が何様のつもりなんだろうとも思った。ここ数ヶ月間、僕が感じ、そして勝手に行う行動で、周りの人達をどれだけ苦しめてきたのだろう。僕が最初から何も感じず、何も行動に移さなかったら、きっと不幸になる人もいないはずだった。
「香征は勝手だよ」彼女はいつになく怒った表情だった。「私は会いたい。私たちが高校生になっても、大学生になっても」
 嘘に決まっていると思った。こんなことは過ごす前から分かっている。ここからの数ヶ月・数年間は、おそらく物凄いスピードで流れることだろう。実際、高校に入って数ヶ月もすれば、彼女は今言った言葉などきっと忘れているはずだ。それは僕にとってもそうだ。今ここで僕が彼女のその言葉に賛同したとしても、これから目まぐるしく変わっていく景色の中で、彼女という存在を忘れ去らないように生きていける自信が僕にはなかった。
 そうしてそれがここ数ヶ月の僕にとって一番不安なことだった。雄輔と会った日の夜、雨が降る中、僕はスーパーの帰りに父さんに訊いた。将来の不安感、という漠然とした感情だったが、あれはまさしくこの感情だった。

「早紀が高校生になっても、大学生になっても、僕のことを覚えていてくれるのかな」
 僕は今更ながら不思議に思った。どうして早紀はこんなに僕に会いたいと言ってくれるのだろう。早紀とは、去年のクリスマスイブに会ったのがそもそも二年以上ぶりだったというのに。
「ねぇ、香征」急に肩を掴まれる。小さな手だ。「こっち向いて」
 目を逸らしたままの僕に彼女は顔を近づける。「ちょ、ちょっと……」
 彼女のほうを向いた瞬間、彼女の向こうにさっき見た星空が見えた。「大丈夫。この目が香征を忘れるような目に見える?」
 僕の両肩を掴んだ彼女は涙目だった。彼女はときどき声を漏らしながら、少しずつ目に涙が溜まっていた。確かに言われてみればその通りだった。未来は信じるしかないのだと。
 岡山県の公立高校入試は今日、全ての日程が終わった。数日後に合格発表が待っていて、三週間ほどある春休みを過ぎると、僕達はすぐに高校生になる。もう未来はすぐそばまでやってきている。さっき思い出したスーパーの帰り道で、僕は一寸先は闇だと感じた。思えば、今がその表現に一番適切な状況なのかもしれない。

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Re: 2006年8月16日 ( No.36 )

日時: 2017/08/01 01:47
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

「一寸先は闇、か」
 それは僕の声ではなかった。
「高校生になる、ってさ、普通は光だと思うよね。ただ闇にしか思えないな、今は」
 それは僕の心の声を代弁しているように感じた。なんと綺麗な光景なのかとも思った。光のイメージの彼女が、闇を語っている。そのある意味対極的な価値観の対比がとても美しく、それがあろう事か僕の目の前に在るという事実がまるで信じられなかった。
「早紀も、やっぱり不安なんだ」
「そうだね、不安だよ。まぁちょっとネガティブすぎるかな。多分実際は楽しくやれると思う」
 そう笑う彼女に、少し希望が持てた気がした。
「っていうかもう帰らないとね」彼女は笑いつつも、すぐ帰ろうとしなかった。これが最後のお別れだったらどんなに綺麗なことだろうと僕は思う。

「今日はありがとう。足結構疲れた」
「あ、ごめん。歩こうって言ったの私だよね。結局帰りがこんな時間になるとは思ってなかったから……」
 周りには僕ら以外誰もいない。「このチョコも、ありがとう。また今度」
 僕は、さっきカフェで別れた雄輔のことを思い出していた。また会おうと雄輔に言わなかったように、早紀にも言わないのか。
「じゃあ、ね。早紀」
「こ、香征……」
 僕はその場を去ろうとした。早紀の顔は見ないほうがいいと直感的に思った。家の前だったので拍子抜けするほど早く玄関に着く。勢いドアを開け、中に入る。ドアが後ろで閉まり、内と外の空気を完全に二分すると、一瞬にしてさっきまでいた空間から隔絶されてしまったように感じた。想定していた通り、拍子抜けするほど簡単に夢から醒めてしまった。

「あ、香征お帰り」
 二階から降りてきた母さんが、廊下に立ちすくんでいる僕に気づく。「何してるの? 遅かったわね」
 一応、今日のことは親には言ってから家を出ている。ただ、こんなに遅くなるとは思ってもいなかったので、それだけ言えていないのだった。
「あぁ……、ごめん。カフェから歩いて帰ってきたから遅れちゃった」
「別にいいけど……、LINE送ったんだから返事くらい返してよ〜」
 そのままリビングへと消えていく母さんに、あぁ、ごめん、と言いながら僕はスマホを見る。ズボンの左ポケットにいつまでも入っていたスマホは、もう数時間触っていない。
 付けた瞬間、画面にプッシュ通知の一覧が見える。通知は二つ来ていて、一時間前に一回、母さんの僕を心配するLINEメッセージが来ていたのと、あと一つは、早紀からだった。「また会おうね、絶対」とだけ書かれてあったそれには、「今」と右上に小さく表示されていた。振り返ると玄関のドアしか見えない。たった今、ドアを開け数メートル歩いた先で、これほど近い距離で早紀は僕にLINEを送った。
 僕はきっとこれに返信をすることができないと思った。イエスと答えても、ノーと答えても、嘘になるかもしれないと思ったからだ。

 えんさんからLINEが来たのは、自分の部屋に戻ったときだった。僕は風呂もご飯も済ませていて、寝るために部屋に戻っていた。
「暇があったら掲示板覗いてよ。今ゲーム作ってるからさ! 皆仕事の合間にちょっとずつ作ってる感じだから時間かかるけど……」
 そういえば、進捗状況を掲示板で情報交換し合うというのを、Skypeで聞いたまま忘れていた。僕はすぐにノートパソコンを付ける。とはいえ掲示板をブックマークしていたのを忘れていなかった僕は、すぐにたどり着く。
 掲示板が表示されたとき、少しだけ胸の奥が痛くなる気がした。この違和感は何だろうと思ってよく見てみると、あのとき、2006年8月16日だった最終更新が、2014年3月14日になっていた。これは今日の日付だ。そして、20時32分、えんさんの更新だった。
 僕は、これは嬉し泣きだと思った。それなりに覚悟してこのページを開いたが、まるで意味などなかったらしい。涙は頬を伝い、やがて床に落ちた。なんだかよく泣く一日だなと思った。こんな小さな掲示板がおよそ7年半ぶりに更新されたというニュースを一体が喜ぶのだろうと考えると、少し笑える。
 喜ぶ人なんて他にいるわけないと思った。こんな些細な、取るに足らないことで一喜一憂し、涙を流しているのはきっと世界で僕だけだ。僕だけで充分だ。

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Re: 2006年8月16日 ( No.37 )

日時: 2017/09/26 01:12
名前: をうさま ◆qEUaErayeY

 一番上にあった「進捗報告スレ」というタイトルのスレには、すでに100近いレスが付いていた。他に10個ほどあるスレは全て2006年夏以降の書き込みが途絶えている。全く奇妙な光景だと改めて思う。
 彼らも、久しぶりに書き込むときは場違いという気にならなくはなかっただろう。この掲示板は、あるメンバーにとってはきっと忘れたい思い出が染みついていた場所だったはずだ。
 スレを開く。誰もがテンションは高めだった。いや、元からこんなテンションだったかもしれない。ゲームを作るにあたり、最初はそれぞれがそれぞれの担当を確認していて、「そこからかよ」とえんさんに突っ込まれていた。
 真面目なゲーム製作の話題だったのがただの雑談になったり、自由で楽しそうな雰囲気がこちらにも伝わってくる。メンバー全員でSkype通話も何度かしていて、終わるのが深夜になることもしょっちゅうあったみたいだ。
 僕の話題が出ているのも発見した。「次通話するときコウセイくん(漢字分からんw)も呼ぼう」と提案したのはゆーたさんだった。あの大阪弁が強い人だ。
「おk、っていうかコウセイって本名なのかな。名前メッチャ格好良くね? 俺なんてえんだぞ、えん」
「あ、それ私も思って前聞こうとしてたんだけど結局聞けなかったんだよね。えんも知らないんだ?」
「まあ水音の彼氏には負けるかもしれんけどw 今更だけどあれキラキラネームだよな。樹雨で『きさめ』だぞ……」

 あのSkype会議から何も誘われなかったので、もしかしたら僕は彼らに嫌われているのかと実は少なからず思っていた。嫌われる理由なんていくらでもありそうだった。彼らにしてみれば、全くの部外者である僕の手によって、高校時代に経験した莉乃さんの死という辛い過去を今更無理やり思い出させられたのだ。彼らからしたらたまったものではなかったはずで、きっと僕なら、自分のことで精一杯のときにこんなことをされたら何も手に付かなくなるだろうと。
 ……だから、僕は初めて自分がやってきたことが認められたような気がした。初めは自分でもよく分からなかった、メンバーにこの掲示板を見せた意味が今やっと見つけられたような気がした。僕のした行動で少しでも人が喜んでくれるのがとても新鮮だった。

 ひととおり感傷に浸った後、不意にパソコンの画面から目を逸らす。そこには数冊のノートがあった。それぞれ色の違ったノートが何冊も積まれていて、その中で青いノートだけが何故だか無性に気になった。
 その、何冊も積まれたうち一番下にあったノートにゆっくりと手を伸ばす。最初の一行目には綺麗な字で数学の問題が書かれている。連立方程式だ、と今の僕ならすぐに分かる。
 と思ったらその下には汚い字で式が書かれていた。答えは間違っているらしく赤い綺麗な字で直されている。ページ全体を見るとそんな感じで何問も続いていた。
 気づけば僕は笑い出していた。端から見ると気味の悪い光景かもしれない。それでも僕は面白かった。これは、早紀と一緒に勉強したときに使ったノートだとすでに僕は思い出していた。
 彼女がこのノートを忘れて帰ったというのをそれはそれで諒解したが、少しして、これは本当に偶然なのだろうかという思いがふつふつと湧き上がってきた。彼女はこのノートをわざと忘れて帰ったのではと、ふと思ったのだ。
 これがある限り、いつでも僕と早紀は会えるのだ。

 さてと、と僕はすぐ勉強道具を引き出しから取り出し、さっき触った数冊のノートの内の、一番上のノートを開く。中はぎっしりと英文で埋め尽くされている。これは英語の参考書の回答だった。数学と英語以外にも、理科、国語、社会のノートもそれぞれあり、全教科をそれぞれ毎日数十分勉強する生活をここ数週間、毎日繰り返していた。
 すぐに取りかかろうと思っていたときに、えんさんからLINEメッセージが届く。「もう受験は終わったかな? 俺もそうだし他のメンバーも話したがってるから今日Skypeどう?」
 すぐにはっとなる。もう受験は終わっているのだ。僕はノートを閉じる。

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