複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2017/07/09 20:20
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメントは要りません。邪魔です。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.109 )
日時: 2017/09/10 21:21
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 家主とその護衛、キールの傭兵もいなくなったハイドナー邸に誰かがが住み着くのは半ば当然のことである。男はスラム街の人間であった。20代前半で痩せ型、身長は百七十後半。同じくスラム街で育った母親の元で生まれ、父も兄弟も無し。妹もいない。姉はいたが、彼が十五歳の時に気が狂った恋人に殺された。その後は母親と二人暮らしになったが、まもなくして、性病に罹り美しかった肌をボロボロにして死んだ。姉と母を埋葬したあとは定職にも就かずブラブラとしていたが、やがて家族と過ごした穴だらけのレンガ小屋で今度は友人と二人暮らしを始めることになった。日雇いの仕事で何とか生計を立てていたが、男は特に不満もなくそれなりに充実した日々を送っていたと言えよう。相方もこれと言った不満はなかったようで、 少ないお金を貯め、近くの市場で酒とつまみを買い、朝まで飲み明かすのが細やかな愉しみとなっていた。
 それすらも出来なくなったのは唯一無二の友人が死んだからだ。どうやら彼は男に黙って、ある連中からお金を貰い、暴動に参加したらしい。(道理で前日はやけに高い酒を買ったりと羽振りが良かったのだ)憲兵に撃ち殺されたのか、はたまた毒殺されたとも言われたが、真相は藪の中。恐らく表に出てくることは無いだろう。男もこれ以上追及するつもりはなかった。心の底から慕った友が暴動を起こしたその他大勢の一人として処理されること誰からも惜しまれず、死体として火葬されたことは猛虎の如き忿怒と海よりも深い悲悼に暮れたが、深追いすればこちらにも危害が及ぶ。自らが死体になるつもりは一切ないのだ。それよりも彼の目を惹いたのは暴動の影響でスラム街排斥の動きが強まったことだ。排斥派の発言力が強まりどうやら、スラム街の三分の一が取り壊されることが決定したらしい。そこには男の家も含まれていた。抗議をしようにも、多くは殺され、生き残った者も戦う気力すら失われていた。一夜にして家を追い出され、憲兵から逃れた男の手元に残ったのは一口分の酒と僅かな金品。ジメジメとした蒸し暑さの中、途方に暮れた彼の目に映ったのはもぬけの殻となったハイドナー邸であった。半ばやけくそであったのは否定しないだろう。声を餓えた獣のような咆哮をあげながら、男は屋敷内へと飛び込んだ。或る者はここを地獄と例えたが、彼にとっては天国にも近しい場所であった。多くが血で汚れているとはいえ、屋根も壁も床もある。窓ガラスは割れているが、家具も一式そろっていれば、暖かい布団で寝ることも出来る。ようやく運がこちらを向いた。男は久し振りに笑った。何も無ければここで住んでいこうと、そう決心した矢先、彼らは帰ってきてしまった。
 
 罪悪感も躊躇いも無く、ジャリルファハドは浮浪者を斬った。エントランスホールで鉢合わせしたその浮浪者はまだ年若い男で、二人の姿を見るや否や顔をサァと青くして屋敷の奥へと走り出した。だが、相手が悪い。体軀的にも圧倒的に勝っている彼らは怪我を負っていても負ける気など一切しなかった。特にジャリルファハドは鍛え上げられたバネのように韌かな筋肉を生かし、彪の名に恥じぬスピードで、間合いを詰めた。そして奥へと逃げられる前に剣を振るう。アッと云わせる鮮やかな剣戟! 稲妻が走るような一閃は男の肩から腰に赤い亀裂を走らせ、一瞬で男の生命を摘み取った。口から血を洩らし、一歩二歩、名残惜しそうに前へ前へと歩む。だが、伸ばした手はドアの取っ手を掴むことはなく、哀れな男は糸の切れたマリオネットのように前のめりに倒れたのだった。体から溢れる液体が深紅の絨毯を更に赤く染め、ガウェスの脳内には屋敷での惨劇がフラッシュバックし、歩みが止まる。目をカッと見開き薄黄色の天井を凝望している男は最期に何を思い死んでいったのか。胸を啄む感情に蓋をして精気の抜けた瞳を閉じさせる。ゆっくりと立ちあがったガウェスは目線のみで指示を仰ぐ。だが、どこか達観したような目をしているのは次にやるべき事を理解しているからだろう。飛び散った鮮血がジャリルファハドの黒い肌を更に黒く汚し、洋服にも赤い斑点が飛んでいる。彼は考える。頭部を持ち去ってしまうのも手だが、どこにジャッバールの手の者がいるかも分からぬ。形を残しておくよりも徹底的に潰してしまうのがいいだろう。刀の鞘で頭を殴れと指示を出す彪を見て、太陽の騎士は何かを言いかけたが、口を噤む。片方の手で鞘をしっかりと握り、もう片方の手は本体が飛び出ないように抑えつける。馬乗りになり、渾身の力を込めて一発、眉間に向かって振り下ろした。ガンッと嫌な音と共に男の額が僅かに凹んだのが鞘を通じて体全体に伝わってきた。物怖じすることも止まることは赦されぬ。執拗に頭を殴る。ガツンガツンと何度も何度も。やがて息が切れてくると、今度はジャリルファハドがその刀を持った。ガウェスは顔についた血を拭う。ツンとした鉄臭さと血を含んだシャツがベタベタしていて気持ちが悪い。屋敷に変わりの服はないものかと思ったものの、タンスもクローゼットも蜂の巣になっていたことを思い出し断念する。
「終わったぞ」と声をかけられる頃には男の顔は原型を留めていなかった。骨がひしゃげ顔の肉がその中に沈み、割れた頭から骨と脳髄が剥き出しになっていた。漆で塗られたはずの黒い鞘は赤黒く変色し、テラテラと明かりを浴びると光を放っている。
「私はアゥルトゥラから出るべきなのでしょうね」 
 顔のない男を見下ろしながらガウェスは問うた。眉間には皺が寄っており、憐憫と同時に僅かながら嫌悪も見受けられる。妹同様、感情を隠すのが下手なのだ。彼とて、アゥルトゥラに知己がいないわけではない。だが、ハイドナーを匿うかと問われたら首を横に振らざるをえまい。彼らはハイドナーと同じく欲深く利己的なのだから。むしろ、ジャッバールに取り入ろうと密告する可能性すらある。
「そうだろうな。俺もお前も目立ちすぎた」
「貴方もここを離れるので?」
「アゥルトゥラの空気は俺には合わんのでな。ここでは治るものも治らん」
 血がべったりとついた肩口を見る彼の横顔に痛がっている様子は見受けられない。隠しているだけかもしれないが、二度目の邂逅の際、投げ飛ばしたガウェスの足が耳に当たり、出血をしても彼は平然と地面に叩きつけられた騎士を見下していた。
『あの黒い瞳で睨まれるだけで、今自分が立っているこの場所は死の淵であることを予感させた。何よりも我々が恐れたのは、彼等は痛みを知らぬことだ。腕を飛ばされても、足をもがれても、胴を弾が貫通しようともはあいつらは意にも留めない。むしろ、吹き消える寸前にある命の蝋燭を燃やし尽くす勢いで前へと進み続けるのだ。眼前の敵目掛け己が牙を喉笛に向かって突き立てることのみを目的として。その様は人を死に至らしめる悪鬼の所業、血を求める餓狼の如く。そして役目を終えると先程のまでの恐ろしい形相とは打って変わり満足そうに口元だけ笑い死んでいく。私は思う。これが本当に人間か。痛みを知覚せず、敵の首を狩ることのみに執着する彼らこそ、獣と呼ぶに相応しいのだろう』
 ガウェスが昔読んだ本の一節。内容は一貫してアゥルトゥラから見た西伐時のセノールである。独断と偏見に塗れたソレを良書には程遠い代物ではあるが、昔のアゥルトゥラ人がどのようにセノールのことを捉えていたか理解するには丁度いい代物であった。読み切った当初は「セノールへの偏見が詰まった悪書だ」と憤慨していたが、ガウェスも先の一件で思い知らされた。先代達が彼らを獣だと揶揄した通り、彼ある一定のことに対してでは人の仮面を脱ぎ捨て獣になる。しかもただの獣ではない。苛烈さを心の奥底に潜ませることのできる知性をもった獣に変貌するのだ。兵役を務めた筆者も西伐でいやというほど体験したことだろう。そのようにセノールを書く気持ちが分かる。
「お前にアテはあるのか?」
「私の親戚の知り合いですが、多少は。受け入れてもらえるかは分かりませんが」
 苦々しく笑うがジャリルファハドは黙ったままである。彼は決して口数が多い男ではない。沈黙は金だというが、この沈黙は少々居心地が悪い。どのように口火を切ろうかと考えていると、彼の方から「ガウェス」と声がかかる。
「お前は行け。共に居るところを見られては面倒になるだろう」
 裏口の鍵を投げ渡された。屋敷の裏口からでられる道は家と家が密集し細い道が蜘蛛の巣のように張り巡らされた通路で、地元の人間でも殆ど通らない複雑な造りになっている。ジャリルファハドの言葉にグッと鍵を握りしめて頷く。遺体は跨がず、その横を通って裏口へと向かう。斬られた脇腹を軽く抑えながら歩き出したガウェスはハタと足を止めてジャリルファハドの方を向く。そして深々と頭を下げると踵を返し、今度は振り返らずに歩き出した。律儀な奴だと苦笑いを浮かべ、たどたどしく歩く騎士の姿見送った。存在が完全に消えると、今度は事切れた男に向き直る。骨は細いが、背丈はガウェスに近い。焼いたら肘から先の骨を持っていけば良いだろう。誰もいなくなったハイドナー邸。砂漠の彪は一人、思案するのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.110 )
日時: 2017/09/10 21:22
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 焼け落ちたハイドナーの屋敷、その中から見つけられたのは散々に打ち砕かれ、原型を留めていない一つの死体。それはガウェス・ハイドナーの物だと判断され、ジャッバールによるハイドナーに対する攻撃は完全に収束していた。それでも勝利宣言などする事はせず、死んだ者に対しても未だに警戒を解こうとしないあたり、自分達が敵地の最中に居るという事はきちんと理解しているのだろう。故にジャッバールは討ち取られず、戦っても、言論に訴えかけても滅びないのだろう。それどころか、ハイドナーが滅びたことにより勢力の趨勢は大きくジャッバールへと傾いた。ハイドナーの分家筋は既に死に体であり、ジャッバールに対し敵対意識を見せているのはナヴァロ、そして中立を保っているはメイ・リエリスのみとなっている。現在の勢力図を顧みるにクルツェスカは既に陥落したも同義であった。
 此度のジャッバールの勝利で趨勢が大きく変わってしまった。故に事後処理は何の滞りもなく淡々と進み、ハイドナーの全ては失われてしまった。資産はジャッバールに対する賠償として取り上げられ、正統な後継者が存在しない故に残りは国庫へと入ってしまった。屋敷は焼け落ち、残すは塵芥のみとなり、影すら残されていない。四日、五日の間で一貴族を無へと葬り去った旧友をうそ恐ろしく思いながらジャリルファハドは煙草に火を付けた。馬を駆り、巻き上がる砂埃と己の煙草の煙が交じり合い、激しく強い風に流されていく。残り香などは全くない。何処へ流され、何処へ消えていったのだろうか。クルツェスカの運命はあの煙草の煙と同じだ。どこに向かい、流されていくか全く分からない。ややもすると消え去ってしまうかも知れない。
 灼熱の砂漠を駆け、揺られる度に痛む傷を擦りながらクルツェスカに残してきたミュラを思う。あの馬鹿がソーニアに迷惑を掛けなければ良いが、とだ。自分が手綱を掛けておけば大人しくしているのだが、ソーニアの手綱はその気になればいとも容易く切れてしまい兼ねない。つまりは彼女の裁量次第でもある。どうしても言う事を聞かないなら金を取り上げて、クルツェスカの外に放り出せとは言ったが彼女にそれが出来るだろうかと頭を抱えざるを得なかった。如何せん彼女は優しすぎるのだ。
「……痛むな」
 右肩の傷を強く押さえつけながら一人ごちる。上着にうっすらと血が滲んでいるのがはっきりと分かり、僅か血に濡れた左手を馬の首に擦りつけ、血を拭う。すぐに血が滲み、たらたらと腕を伝うがもう気にするのは止めだと己に言い聞かせた。手綱がすっかり血で汚れてしまっている。
 傷さえ負わなければ一旦帰る理由も無かったが、肩の銃創が一箇所、切創が四箇所、五箇所と増える内にクルツェスカの高温多湿な環境が身体に堪え始めたのだ。現も肩に負った銃創が疼き、僅かな痛みと出血に苛まれている。手足が残り、指一つ欠けなかったのは幸いであったと自身に言い聞かせながら馬の手綱を握りつつ、もっと速く走ってくれと首を軽く叩く。
 既に四日ばかり砂漠を走っており、もうじきにカシールヴェナが見えるだろう。これ程までに近い距離であるというのに異なる民族が住まい、異なる文化が発達している。敵は近くにありながら今もなお両者滅びずに在り続けている現実に言い得がたい妙な思いを抱くのであった。五十年も昔、この砂漠を越えるためにアゥルトゥラは一年弱の月日を費やし、夥しい量の血を流しに流した。謂わばこの砂漠は血と命を好んでいる。その砂漠の思いがこの土地に生きる者にまで伝播し、セノールという人種を作り上げたのだろう。血を流し、命を奪う砂漠の代行者として。



 砂塵の向こう側、巨大な防壁が存在を主張している。壁の上からは双眼鏡が反射しており、三人の見張りが見て取れた。その傍らには野砲や大型弩砲が据え付けられている。物々しいそれらを見ても表情一つ変えず、ジャリルファハドは腰に差した刀を引き抜き、天へと翳し、二度ばかり振るう。敵ではないという合図であった。陽の光が反射し、防壁の上の彼等に見えたのだろう。三人のうち一人が防壁の下へと降りていく、開門の準備をしに行ったようだ。もし刀を抜かずに合図をしなければ、カシールヴェナへの接近は危険なものとなる。撃たれかねないのだ。
 手綱を緩め、馬の首を軽く三度ばかり叩いてもう走らなくて良いと伝えると少しずつ馬は減速していき、終いにはゆっくりとした足取りで歩き出す。馬から降り自分の足で歩き始めると、熱された砂の熱さとざりざりとした感触が感じられた。開いた門にはガリプの兵が待ち構えており、彼等は確かにジャリルファハドを見据えていた。
 門まで辿り着くなり一人の兵が近寄ってくる。年の程はジャリルファハドと同じくらいだろうか。彼よりも幾分表情は柔らかくはあるが、立ち振る舞いや体躯はセノールの戦士そのものである。
「ファハド。随分と早い帰還だ……、それに随分と手酷くやられたようだ」
「腹を裂かれた時より幾分マシだ、だが傷を癒さねばとな。故に帰ってきた」
 袖から流れた血と衣服に滲んだ血を見て、その兵は一瞬顔を顰めたがすぐに感情を仕舞い込んでしまったようで、鉄面皮が姿を現す。
「……そうか、無理はしない事だ。刀を寄越せ、帰るんだろう」
 引っ手繰るように刀を奪うなり、その兵はそそくさと踵を返して立ち去ってしまう。彼なりに気を使ってくれているのだろう。相変わらず言葉は少ないが気心を許せる兵である故、彼の意図を汲み取るのは容易い。
 暫く幾人もの兵が引っ切り無しにジャリルファハドへと話しかけ、二言三言言葉を交わすなり帰っていってしまう。相変わらずよく分からない者達だったが態々出迎えられたのはとても有り難く、カシールヴェナに帰ってきたという実感が湧き出てくるのだ。
 カシールヴェナの石畳の上、僅か積もった砂を蹴り上げながら歩む事の五分ばかり。簡素な佇まいをした家へと辿り着く。ガリプの屋敷である。門を開けば外観同様に簡素な作りをしていた。豪奢とは程遠く、焼け落ちたハイドナーの屋敷などとは正反対であった。
「ファハド、お帰り」
「……あぁ、ただいま」
 物陰から声を掛けてきたのはハサンの長女、アースラであった。アル=ハカンとシャーヒンがジャッバールへ付いた際、家門を二つへ分けた。故に彼女はガリプへ身柄を移されたのだ。彼女については昔から知っている上に親しい間柄であったが彼女の悲運には哀れみを覚えざるを得なかった。
「血の匂いがしてる」
「少し怪我をしたのでな」
 そうやって左腕に負った切創を見せ付けると、アースラは目をぐっと見開いて表情を強張らせていた。次第に怒りとも悲しみとも取れない表情に変わりつつアースラがそこに居る。普段のぼんやりとした顔立ちから掛け離れつつあるそれを見て、やはりハサンの女なのだと改めて思い知る事となった。
「彼方此方斬られたが……殺したさ、そいつは」
 その一言に怒り、悲しみの色は少しずつであるが薄れ、何時もののアースラがそこにあった。夜歩く者を意味する名の通り、静かで存在すらおぼろげな彼女が戻ってきたのだ。ハサンの者に有るまじき感情の発露であったが、人間らしさの片鱗が少しでも残っているのならば、それは良い事だ。彼女の父や兄のように完全に歪み切ってしまっていない。
「そっか……良かった」
 彼女の顔に安堵の色が差すも、彼女の安堵の理由は己に傷を負わせた者の死である。偽りであったとしても、それに安堵という感情を示すのはどうかと思ったがセノールである以上、腹の中にはアゥルトゥラに対する怨嗟、怨恨の念を飼っているだろう故に仕方なしとジャリルファハドは己に言い聞かせた。
「傷が癒えたならばまたあちらへ赴く。心配はせずとも帰ってくるさ、あぁ」
 アースラの肩を叩きながらジャリルファハドは笑って見せた、厭に硬く不自然な笑みであったが何時もの見慣れたそれにアースラは小さく笑いながら、自分の肩を叩く手を取り、自分の頬に寄せた。彼女の指先が傷に触れ、一瞬だけジャリルファハドは表情を歪めるも無理に振り払うような事はせず、アースラを見据えていた。
「血で汚れるぞ……、いやもう遅いか」
 血で薄汚れた彼女の頬、それを血がついていない方の袖で拭うも血は伸びるだけで取りきれない。ただただ汚れてしまった。少し申し訳なさを感じているとアースラは別に気にしないと、赤い血の滴る方の手を握り締めていた。
「そのだな、心配を掛けるが許してくれないか」
 そう語り掛けると彼女は声もなく、小さく頷いて静かに笑って見せるのだった。笑っている顔は珍しいなと、ジャリルファハドは思いながらも言葉なく彼女が許してくれた事に安堵を覚えた。彼女は幼い頃から余り笑わない女だった。それが笑ってくれたのだ、安堵を覚えないはずがない。
 カシールヴェナの斜陽は厭に赤く、僅か滲んだ血の赤など無かったかのようにしてくれる。普段は眩しく腹立たしいばかりの陽であったが、今回ばかりは血の赤を拭い去り、紛らわせてくれる事だろう。そんな陽に感謝の一念を覚えるのだった。



 燃え盛る炎の中、赤子を咥えた化物が石畳の上を駆けずり回り、血とも炎の赤とも付かぬそれを浴び、垂れ下がった皮膚が赤を照り返す。口元から垂れ下がる細いなにかは赤子の腸だろうか、力なくだらりと垂れ下がった小さな腕は今にも千切れてしまいそうな程に傷ついている、片足は磨り潰されたように醜く潰え、思わず目を覆いたくなってしまうのだ。自分の腕が絡みついた小銃が少しずつ頼りない物に感じられ、手にじっとりとした汗が感じられた。言いようの無い不快感はどこから来る物だろうか。震える手で小銃を構え、目の前の化物を見遣るも照準は定まらず、それは赤子を咥えたまま近寄ってくるのだ。醜悪な死を晒した赤子が力なく、化物の口からだらりとぶら下って近寄ってくる様は宛ら悪夢であった。
 このままではならないと、はと息を飲み、引き金を引くと赤子の肉を抜け、化物の口蓋を傷つけたのだろう。弾けた死体を伝い、赤い液体が石畳に滴り凝固していく。所謂賢者の石である。血とそれが交じり合った液体がぽたぽたと垂れていく。一発の銃弾を見舞っても化物は立ち止まらない、逃げるしかないと踵を返す。その時であった、足元を何かが掴むのだ。ぎょっとした様子で足元を見下ろすと、そこには赤い結晶で形を成した赤子がブーツの紐を掴み、大きく口を開けてソーニアを見上げていた。生に執着する故の声無き絶叫か、それともお前だけ生きるのかという声なき恨み言か。どちらにせよ、背後に迫る化物の生臭い息が感じられるのであった。



 すっかり静まり返った家の中、絹を裂くような悲鳴が響く。宛ら瘋癲院の患者の如く。額に浮かんだ悪い汗を袖口で拭いながらソーニアは大きく溜息を吐いた。嫌な夢だ。なんて夢だ、なんて恐ろしい夢だと壁を二度、三度軽く叩き悪態を吐く。それからミュラを起こしていないかとベッドを見るが彼女は静かに寝息を立てたままだった。思わず台所の方を見るもそこにジャリルファハドの姿はなく、彼が帰ってしまったという事実を改めて思い出すのであった。
 ジャリルファハドの傷は思いの外、酷い状態だったとソーニアは記憶している。クルツェスカの高温多湿に少しずつではあるが体力を蝕まれていたのだろう。雨から雑菌を貰った故に傷は膿み、熱を帯びていた。だからこそのカシールヴェナへの帰還だったのだろう。こればかりは仕方ないとソーニアは思いながらまだ眠っているミュラを再び一瞥する。彼女は相変わらずでまだ暫くは起きないだろう。
 鎧戸の隙間から朝日が差し込んできていて、もうこんな時間かとソーニアは窓と鎧戸を開く。朝日に顔を顰めながらミュラの顔に日が差さないようにと気を使う、外は往来が出始めており、窓を開けたソーニアに気付いた者が手を上げて「おはよう」と声を掛けてきた。
 軽く挨拶を返し、そのまま台所に向かい竈を開くと昨晩の残り火が僅かに火が灯っており、それを消してしまわないよう、そっと薪を何本か放り込む。それ程時間を置かず、木の脂が燃え始め、鼻につく匂いが漂いつつあった。これから火は大きくなる事だろうと、汲み置いた水をやかんに入れ、竈の上に置くとソーニアはソファに腰掛け、大きく欠伸をしていた。
 一つの貴族の滅亡、それによりカンクェノの自称管理者は存在しなくなる。恐らくこれからは学者の組合か、ジャッバールが幅を利かせてくる事だろう。後者は兎に角、前者は好き勝手出来るようになった現状を喜んでいるに違いない。唾棄すべき自警主義に燃える愚者は既に消え失せたのだ。学者達の雇う傭兵や、レゥノーラ駆除をしてくれるジャッバールも今より大勢入ってくるだろう。ともすればジャリルファハド不在の今でも自分の身を守るのは容易いと考えられる。これは明日、明後日、兎に角準備を整え次第カンクェノに入るべきだろう。先人の残した謎は必ず明かさなければならないのだ。
 やかんのお湯が沸いたのか、口から蒸気を吐き出し、宛ら白い蛇が真っ直ぐ天に昇るかのよう。ポットやカップは湯通しするべきなのだろうが、億劫なため、ただ茶葉を二摘まみポットに放り込むと間髪入れずに湯を注いだ。大体三、四分も待てば良いだろうと、本棚に入れられた歴史書を手に取った。それは第一次西伐、東伐、第二次西伐、東伐と血塗られた歴史を語る。その中には祖先の名もある。恐らくカンクェノはこのクルツェスカが出来上がってから、歴史に記されてきた事柄のほぼ全てを見てきたのだろう。故にあの廓の謎を解き明かせば、歴史に埋もれた時すらは愚か、全てが明らかになるのではないかと思えるのだ。 廓に巣食うあの化物の謎も、死した姉の居場所もだ。
「キラ、か……」
 左腕だけが帰ってきた己の姉。彼女は何処に行ってしまったのだろうか。せめて身の骨だけでも良い、拾い上げて眩い陽の光を浴びさせてやりたい。そんな思いであった。彼女の魂に癒しを与えてやりたいのだ。
 感傷に浸りながらポットの紅茶をカップに注ぐ、色はやや薄くまだまだ飲むには早かったようだ。仕方ないと苦笑しながら紅茶に口を付け、少しだけ飲む。味気なく香りもない、二杯目からは丁度良いだろうと、己に言い聞かせて色のついた湯を飲むのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.111 )
日時: 2017/09/10 21:23
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 墓参りに行きたいと頼むミュラの顔が普段よりも強張っていたのは見間違えではない。昼食の片づけが終わり、本の続きを読もうとソファーに腰かけたソーニアの隣、普段は暑苦しいからと言い訳をして距離を開けるミュラが座わった。珍しいこともあるものだと文字を追うフリをして様子を窺うとこちらをジッと睨んでいたミュラにギョッとした。……否、彼女は睨んでいるつもりは毛頭ない。ただ、普段の彼女よりも鯱張った表情をしているが故、そのように映っただけである。当然、そんなことなど露知らずソーニアは向けられた視線にドギマギすることになる。何かしてしまったかと憂悶の情が沸き上がり、近いうちにミュラを怒らせるようなことをしたか考え、思い当たる節はたった一つ。三日連続で豆のスープを出したことのみだ。手を抜いたことは謝るが、そこまで怖い顔しなくてもいいじゃないか。それに安く大量に手に入ったのだからと内心ごちる。今日のお昼で豆は底をついたため、しばらくスープに豆は出てこない! さて、文句を言われた時の切り替しは決まった。出来るだけ優しい声で「どうしたの?」と問いかければ、どこか居心地悪そうに目線をずらし、ソーニアはおや?と思う。そして蚊の鳴く様な声で「墓参りに行きたい」とだけ答えた。少しだけホッとした。彼女は(豆のスープで)怒っていなかった。今度は「誰の?」と聞くと少し間が空いた後に「ハイドナー」と答えた。言い辛そうにしていたのは恐らくロトスやガウェスの、ひいてはリエリスとハイドナーの仲があまり思わしくないと考えているからだろう。過去にハイドナー邸で容赦ない舌論を繰り広げたことを覚えており、彼女の中に鮮明に記憶として残り続け、尾を引いているのだ。
「いいよ、行こう。そろそろ買い物もしたかったし」
 死者は弔うべきことだと彼女が仰いでいた師から教えて貰ったことなのか。疑問が口からでることはなかった。ただ、ソーニアが例え、不仲の相手であったとしても鎮魂を願う気持ちを否定などするはずがない。機嫌を損ねることなく快諾した彼女にホッと胸を撫でおろし、ミュラはソファーを立った。殆ど手ぶらである彼女が何を用意する必要があるか気になるところではあるが、彼女を追うことはせず、自分は開いていた本をパタリと閉じる。テーブルには読みかけの新聞があり、窓から入る風に煽られて踊る。そう言えば、今朝はミュラが熱心に読んでいたことを思い出す。珍しいこともあるものだと特に考えずに新聞を手に取る。斜め読みをしていた中、ある一つの記事で目がとまる。一週間ほど前は一面使って報道されていたハイドナー当主の死も、今まで隠蔽されていた悪行についての記事も現在では新聞の片隅へと追いやられている。明日には一切報道しなくなるだろう。栄光を誇っていた彼等は現在、どのような顔をしているのか。今までの行いを省みれば自業自得であるが、関係の無い親類やハイドナーを指示していた貴族連中には多少の憐愍と同情を禁じ得ない。溜息を一つ吐いて、折り畳んだ新聞をテーブルの隅へ。お待たせと笑うミュラの腰には師匠の形見である拳銃が静かに揺れていた。

 人々が噂を止めるにはまだ些か早過ぎるがようやく元の生活に戻りつつあった。外に出て真っ先に聞こえてくるのは小鳥の囀りではなく人々の往来と姦しい雑踏である。それを避けるように二人は町はずれの墓地へと向かう。閑散とした土地には数匹の烏が屯していて、こちらを監視するかのように真黒な瞳をこちらに向けてくる。居心地が悪いと早足で墓地と墓地の間を歩く。宗教色の薄いアゥルトゥラには墓地に教会はない。今は火葬場と墓守の一族が住む掘っ立て小屋のような見窄らしい家が一軒建っているのみだ。昔は教会として使われていた建物はあるが、現在では死体安置所のように扱われており、祈りがささげられることはない。ハイドナー邸で惨劇があった次の日も当然役割を果たしたが、朝から人がひっきり無しに訪れ、夜になっても無残になった我が子を嘆く親の声が墓場に響き続けた場所でもあった。
 そんな話を墓守は嬉々として話すためミュラもソーニアも気分を害してしまった。ガウェスの死体も運ばれてきていないというのでミュラがソーニアの脇腹を肘で小突く。墓が無いのであれば現場に直接花を手向ける他あるまい。ミュラの意図を察して、お礼もそこそこにその場を後にする。「またいらしてください」としゃがれ声で言われたような気がしたが聞こえないフリをして、その場を後にした。
 屋敷が近づくにつれて、更に人通りが少なくなり煤けた臭いが強くなってくる。自然と歩みが遅くなっていく中、ついにソーニアの足が止まった。当然だ。燃えて殆どが塵灰に帰したとはいえ、人が大勢死んだ屋敷なんぞ見ても気持ちが良いものではないのだから。ミュラもそれを理解していた。だから無理強いをさせるつもりはない。すぐに戻ると伝えるといつもよりも早い歩調で屋敷の近くへ。グルリと一周回り、正門前に到着したとき、そこには過去のハイドナーの栄光など見る影もない荒涼たる景色が広がっていた。ハイドナーの栄光と名誉を讃えるような傷一つなかった外壁は今は黒く煤焦げ無残な姿を晒し、一つの貴族の終わりを意味している。骨組みだけを残し殆どが焼失した屋敷は古臭った時代の終わりを告げる暁鐘を聞かされている気分になった。無常感が胸の内を押し上げ息が詰まるが、グッと堪えて一歩前へと踏み出す。門に近づくと一層強まる腐臭に思わず鼻の頭を抱いていた花束に擦り付ける。火薬の臭いに雑じり漂ってくる血の臭い、少し前までアゥルトゥラ全体に漂っていた悪臭が此処には未だ色濃く残っているのだ。そのせいだろうか、気を取られていたミュラは背後からやってくる男の存在に気が付けなかった。
「ここは立ち入り禁止だぜ」
 背後からかかった声に肩が揺れた。さっと振り返った先にいたのは冷たい光を宿した眸子を持つ大柄な男である。ゴクリと息を呑む。ガウェスもミュラからすれば大男であったが、彼はそのよりも幾分か高い。背筋がシャンと伸びているからか六尺を超える背丈が更に大きく伸び、その気はなくとも威圧されている気分になる。さらに爬虫類のような縦に長い瞳孔がそれを後押ししてくるのだ。琥珀色の眸は、太陽の光をあびて更に輝きを増しトパーズを彷彿とさせる美しさを醸し出しているが、何故だろう、禍々しい呪いの品のように思えてならない。足早に立ち去るべきかと思ったが、そそくさと逃げ帰る方が逆に不自然に映るやもしれぬ。
  男がジャッバールの手勢であることはミュラは知っていた。ジャリルファハドが渋い顔をしながら教えてくれたことを思い出す。他にも何か言われたような気がしたが、すっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「み、見てただけだし」
 堂々と胸を張り真正面から見据え平静を装うが如何せん声が上擦る。花束を抱く手に力が入り、無意識に右足が半歩後ろへ。警戒している証拠だった。もしも花束を持っていなかったら腰にある銃を握っていたことだろう。
「おっと、それは悪かったな。最近ここに入ろうとする輩が多くてつい、な。まったく、金なんてねえよ。全部ハイドナーが地獄に持っていったっての」
 男の反応は意外にも好意的なものであった。にへらと笑った男には悪意の一片も感じられない柔らかな笑顔である。二十代後半かた三十代前半だろうか、笑う度に目尻に薄く皺ができるのが印象に残った。嫌味の一つでも飛ばされると思っていたので思わず拍子抜けしてしまう。だが、緩んだのは緊張だけではなく百合の花束もミュラの腕から落ちた。「あっ」と声をあげたのは彼女。だが拾い上げたのはミュラではなく男の方だった。
「何故花束を?」
 馨しく香る真っ白な百合。花言葉は「純潔」と「威厳」。過去のハイドナーを表しているような言葉だ。しかし、だから百合を選んだのではない。ただ、死者の鎮魂に使われるのだとソーニアが教えてくれたので手に取ったのだ。
「ここで人が死んだんだろ。その、ガウェスはあたしの知り合いだったからさ」
「なるほど、鎮魂のためにわざわざやってきたってわけか。だが、それなら普通は墓に行かねえの?」
 花束がミュラに返される。既にこの男を警戒するということを考えてすらいない。はにかみ「ありがとう」と礼を言って受け取る。
「行ったぜ。でも、死体が運ばれてないんだって。しょうがないからこっちに来たってわけ。それに焼ける前にも大勢の人が殺されたんだろ? その人達の分も入ってる」
 もっと早くに花を手向けに行きたかったが、連鎖的に殺人が起き造られた息苦しい空気と町全体が濃霧に飲まれたような不安感において斯様な我が儘をいえる雰囲気ではなかった。またジャリルファハドの負傷等、予想外のアクシデントが続きこちらの余裕もなかったのだ。町全体が落ち着きを取り戻してようやく出来た我が儘だった。
「そりゃあご苦労なこって。ここは砂漠とは違う暑さだからな、歩くのにも苦労しただろ」
「最初はね、今はちょっとだけ慣れたぜ」
「俺もさ。ここに来て大分経つがね、最初は夜も寝苦しくてな、なかなか寝付けなかった」
「だろ。あーぁ、砂漠が恋しいなぁ」
 どうやら目の前の男も生まれは違えど砂漠に住んでいた時期があるらしい。砂漠で起きたことを嬉々として話すミュラにニコニコと笑いかけたまま相打ちを打つ。ジャリルファハドも砂漠をよく知る男であったが、彼とは違い愛想があるので余計に口が動くのだろう。砂漠の風土、景色、生物、人種、あれこれと思い出す内に胸にじんわりと寂しさがこみ上げてくる。向こうにいたときは疎ましく思っていた土地が故郷の母のように懐かしい。望郷の思いに焦がれ、一瞬口が止まりかけるがすぐに次の話題へと切り替えて誤魔化す。
「あんたはどうしてここに来たんだよ?あたしみたいに花を手向けにきたとかじゃねえだろ」
「別に屋敷に来たんじゃないさ。今日はたまたま通りかかっただけだ」
 大通りへの近道として多くの人に使われていたこの道も、ハイドナーで惨劇が起こってからは殆ど人通りがぱったりと途絶えてしまった。加えて、屋敷が燃える前夜に中から呻き声を聞こえたと噂が流れ、人通りの抑制に拍車をかけていた。だが、こうして立ち話をする場には最適な場所ではある。
「へぇ……。ここに来ていろいろあってさ。イザベラって娼婦と知り合いになったんだけどさ、惨い殺され方をしてたんだぜ。あたしは直接見てないけど、肺が引きずり出されて骨が刺さってたらしい。酷いことすると思わね?」
 冷静な口調で語ろうとしているが、言葉の節々には隠しきれない棘があった。男は目敏くもそれを察していたのかもしれない。
「憎んでるのか、犯人を」
「当たり前だろ。許せねぇよ、絶対に」
「殺したいほど?」
「そこまでじゃ、ねぇけどさ。聞きたいんだ。どうしてそんな酷いことをしたのか。理由が知りたい」
 あちこちと彷徨った目線が手元にある百合の花に向けられる。今はみずみずしく美しく咲き誇っているが明日には彼女が持っている清らかさは消え、徐々に枯れ果てていくのだろう。
「弱い奴が死ぬのは当然って分かってるんだ。でも割り切れねぇんだよ。上手く言えないけどさ」
「人と人の出会いってのは突然だ。出会いで人は変わり進んでいく。別れも然り。だが、その突然に戸惑ってはいけない。疲れてしまうだろう?」
 まるで幼子を諭すような優し気な口ぶりであった。もしもミュラが大切な人との別れを経験していなかったら、優しい彼の言葉は彼女の心を癒やすオアシスとなりえたであろう。しかし、ミュラは直接ではなくとも、体験してしまった。愛しい者が死ぬ痛みを。
「無理だろ、そんなんさ」
 はっきりとした否定であった。真っ直ぐな黒い双眸が黄金を射抜く。
「お前は、それできんの?」
「やるぜ。やれと言われたら」
 男もまたはっきりとした口調で答えた。
「へぇ、すごいのな、あんた」
 そうならなければ生きていけない状況があったのだろう。だが、深くは訊けなかった。訊いてはならない気がした。然らば、この空間がガラス板を叩き割るかの如く粉々に壊れてしまう様な気がしたのだ。沈黙が痛い。視線を下に落とすと男の右腕が移る。思考や歩んできた人生だけではない、男女の差、人種の差、あらゆる面で己とは違うことを実感させられる。鍛え上げられた腕は太く、何百年と生きた大樹の枝のようである。加えて一層ミュラの目を惹いたのはそんな太い腕を覆う濃い灰色をした鱗であった。「あっ」とようやく思い出した。過去にジャリルファハドにジャッバールやその私兵には関わるなときつく言いつけられていたことを。凝視しているのを興味があると勘違いしたのだろう、男が腕を差し出してくる。 光沢のあるダークグレイの鱗が日の光を浴びて光っている。
「触ってみるかい?」
 なここで断り足早に立ち去るのが最良なのだろうが、かくの如き意は好奇心の前では無意味。ジャリルファハドの言いつけは頭の隅に追いやられ、ミュラの右腕は躊躇いがちに男の腕へと伸ばされた。
「思ったよりも硬いんだなぁ」
 悪意無くただ純粋な好奇心のもと、彼女は男の腕を指先で柔らかく愛撫する。くすぐったいはずなのに男の顔は表情を変えず、ただ目尻を下げた穏やかな男を演じた。だから安心してミュラも男の鱗を触ることが出来た。手首から這わせていた指先が徐々に上へと上がり、背伸びしたときにミュラの腰にぶら下げている拳銃が男の目に入った。視線が銃に向いていると分かるとジトリとした目で牽制する。
「やんねーぞ」
「そういう意味じゃねえって。ただ、これと全く同じのを持っている奴を思い出しただけさ」
 今まで撫でていた手がピタリと止まる。と同時に黒い指先は離れていった。代わりに真珠玉の様な瞳が二つ、龍蛇の武人に向けられるのだった。
「師匠の知り合いなのか」
「師匠……? ああ、そう言えば砂漠に弟子がいるとか言ってたな」
 呆然とするミュラの前で龍蛇の武人は更に続ける。
「その銃、エルネッタのだろう? ここらでそんな古臭いもん使ってるのあいつくらいだったからなぁ。確か持ち手の部分に傷があったよな、一本線の」
しかし、今のミュラにはそんな至極どうでも良かった。「エルネッタ」と小さい声で師匠の名前を呼ぶ。師匠の名を聞いたのはこれが初めてである。もう一度、今度は声には出さずに唇の形だけで彼女の名前を紡ぐ。その名前を己が魂に刻み付けるように、噛みしめるように。
「一つ、訊いていいか」
 カラカラに渇いた喉、渇いた唇で言葉を紡ぐ。
「師匠は……、エルネッタは本当にレゥノーラから逃げようとして食い殺されたって、本当なのか」
 彼にぶつけてもどうしようもない質問であることは承知の上であった。初めて真実を聞かされた時の感情が甦ってくる。鈍器で殴られたような感覚と絶望が波のように押し寄せてくる。鼻の奥がツンとして瞼の裏に塩辛い水が溜まっていく。
「……、後悔するかもしれないぜ」
「構わねぇよ。それでも知っておきたい」
 どうしても腑に落ちなかった。あの人が敵に背を向けて逃げるなど。だから躊躇いなどなかった。彼女が追及するのは真実のみ。例えそれが汚泥に塗れ醜く汚れていたとしても彼女はエルネッタに関することならばどんなに些細な情報にでも手を伸ばすであろう。品定めするのかのミュラを見下していた男は彼女の意思が変わらないと確信したのか、彼女の目を見据え「いいか……」と彼女の注意を惹きつける。
「あいつは廓に放置されてたよ。腹と腕に穴から血が出た状態でな。重症だったがね、生きていたよ。多少だが会話もした。今は生きてるかしったこっちゃねぇけどな。そうだ、あいつは名札をしていたはずだ。銀色のな」
「あんたは何で」
 助けなかったのか。喉まで出かかった問いをすんでの所で止める。あの廓に一度でも入ったことがあるならば、あそこがどれほどおぞましく奇異な空間であることか理解しているはずだ。全貌判らぬ石室を異形の者が闊歩している。怪我人を手当てする余裕などあるはずがない。だから別の質問をする。
「あんな噂が流れたんだよ。だって隠す理由がないじゃん」
「自分が持っているたーいせつな物に傷が付いたら嫌だろう?」 
 大切な物とは名誉か経歴か。誰が流したかなど聞かなくても大凡見当はついていた。
「そういうもんなのかよ、貴族って」
「あぁ、そういうもんだ」
「……そっか」
 感情に身を任せ怒らなかったのは憤怒よりも安堵が先にきたからだ。やはり、師匠は師匠であったのだ。
 もしも、外部の者にやられたらソレを隠す必要は無いのだ。内部の者に何らかの理由でやられたことは明確。彼女を撃ったのはロトスか傭兵仲間か、若しくはガウェスか。ともかく、真相を知っている既にこの世にはいない。三途の川を渡り彼らに問いただすまで、真実は闇に葬られてしまった。半ば復讐は完了しているようなものだ。
 花束を持ったミュラは門の前でしゃがみ壊れ物を扱うかような丁寧な手つきで花束を地面へと置いた。大雑把で粗暴な面ばかりを見てきたソーニアやジャリルファハドが見たら驚くことだろう。
「また、話できるよな」
 とうと振り返ったミュラ。大切な物を短期間で失った故、彼女の瞳は不安で濡れている。今度もまた、お別れすら言わずにいなくなるのではないかと。ルーイットは彼女の頭に優しく手を乗せる。そして憂う少女を安心させるかのようにニコリと笑うと「もちろんだ」とゆっくり頷いた。心に巣くっていた虞れが一つ、また一つと心から消えていく。パァと向日葵のように顔を輝かせ「約束だからな!」と未だ蒸し暑いアウルトゥラに声を響かせた。本当に誰もいなくて良かった。帰り際、大きく手を振りると、ルーイットは片手をあげて軽く手を振った。アゥルトゥラでまた知り合いが出来たと伝えるためソーニアの元へ急ぐ。なんて言い分けをしようか、ジャッバールというのは伏せた方がいいのか。なんてことを弾む心で考えながら。彼女は振り返らなかった。鼻歌でも歌いだしそうなほどの上機嫌で帰路を往くミュラの後姿を蛇は見据えている。ただ静かに、笑みを浮かべて……。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.112 )
日時: 2017/09/24 03:43
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 余所者からしたらクルツェスカの平穏という物が、仮初の物に見えて仕方がない事だろう。
 学者の呼び寄せた傭兵の流入、ジャッバールによるカンクェノへの銃火器の輸送は止まる事を知らない。ジャッバールが今まで以上に目立つ事により、憲兵は出ずっぱりとなり裏と表の力が働き、街の治安は一定を保っているのであるが、問題は治安を維持している側の一つにあった。その者達は外国人であるという事だ。アゥルトゥラではなく、セノールや傭兵として流入してきた諸外国の者。元々クルツェスカに居た勢力ではない者達がクルツェスカにおける最大勢力となっているのだ。気のせいではないだろう、セノールを始めとした外国人が厭に増えてきている。そんな現状であったが、ソーニアに危機意識は全くない。彼等は自警主義を振り翳さないからである。ジャッバールの敵はハイドナーからカンクェノのレゥノーラに移行し、傭兵も護衛対象は学者である故にレゥノーラを敵とする。憲兵は変わらずに地上の治安維持に従事し、場合によってはジャッバールや既存の貴族との協力関係を持っている。ジャリルファハドが去ってからの二ヶ月余りでクルツェスカにおける内外の防備と治安維持は正常化したのであった。ザヴィアを刎頸してからの五百年の間、一貴族が振り翳す自警主義が成されてきたと考えると、とんでもない話だとソーニアは思い至る。
「どうしたんだよ、難しい顔してさ」
 向かい合って座っているミュラがパンを片手に問う。彼女は返答を待たずしてパンを頬張って居たのだが、視線を外す事もなく黙ってパンを咀嚼しながらソーニアを見据えていた。黒い瞳にじっと見られ、少しばかりの気恥ずかしさを覚える。
「少し考え事をね」
 ミュラは「ふーん」とあまり興味無さ気に生返事をしていた。彼女としては何の気なしに問うただけであったのだろう。ソーニアも大して気にする事なく紅茶に口をつけた。先日のように色のついた湯などではなく、安物ながらそれらしい物となっている。ミュラにも奨めたのだが彼女は余り熱いものを好まないようで、首を横に振られてしまった。猫舌なのだろうか。
 暫く物思いに耽るようにソーニアは口を閉ざしているとミュラはテーブルに伏せたまま眠ってしまい、静かに寝息を立てていた。初めて見た時と比べて彼女は少しだけ髪が伸びたようで、その黒髪に日が当たって少しだけ輝いて見える。恐らく自分の髪は燃えるように赤く染まっているのだろうが、自分にはない黒がとても羨ましく思え手を伸ばした。指先に触れるのは柔らかな黒髪、湿気を吸うと大変だろうな、と小さく笑いながらソーニアは髪から手を離すのだった。
 さて、と伸びを一つした後、髪を手櫛で整えた彼女は足の長い文机へと向かう。乱雑に置かれた辞書や自身で蒐集したり、ジャッバールから託されたカンクェノに刻まれた碑文の写しへと向かい合う。この文字は魔法が途絶える前まで存在していた魔物――レヴェリの祖先が築き上げた文明の物に類似しているのだ。五百年も昔であれば、これを然も当然の様に読み書きする者達も居たのだろうが、今となっては誰もその術は持っておらず、僅かに分かっている読み方、レヴェリやカルウェノの古語に基づいた推論で訳して行くしかないのだ。今まで訳を進めて来たそれらは「レゥノーラ」や「賢者の石」等に関連する物ばかりで妙な言い回しや、おかしな文法、解読不可な略字などで意味が伝わり難い。下手な詩でも読んでいるかのような気分になってくるのだ。建造当時のメイ・リエリス当主である「ソーヤー・メイ・リエリス」や彼と親しく「パラケルスス」と名乗ったカルウェノの錬金術師である「ヨスト・フォン・ベルゲン」等の名前が出てきたのは驚いたが、彼等がどうカンクェノと関与しているかは全く不明であり、それがソーニアの頭を更に悩ませる事となっているのだ。
 捗らない翻訳作業に頭を悩ませる。机の前で声もなく唸る事の三十分、居ても立っても居られなくなる。気分転換の一つでもしなければ、気がすっかり滅入ってしまう。まだ眠っているミュラを一瞥すると、出掛けてくるという書置きだけを残して何時ものの上着を着ずにソーニアは家を後にするのであった。




 近道だと色街を抜け、市場に出るも大路は人で埋め尽くされており、相変わらずの人垣に少しだけ引き攣った笑いが浮かんでしまう。そんな中でソーニアの赤い髪は厭に目立ち、すぐにメイ・リエリスの娘だと露天商が安い品物を見せてくる。今は買い物をしに来た訳ではないと、静かに笑いながら断れば彼等も笑いながら引き下がってくれるのだが、商人というのは随分と目敏いと思えて仕方がないのだった。
 大路を歩めば諸外国の調度品なども並んでおり、改めてこのクルツェスカは西の玄関だと思い知らされる。嘗て此処が防衛の要所であり、血を血で洗うような戦場になったとは信じられない。厭に高い防壁の向こう側に広がる礫砂漠が存在しなければ、恐らくこのクルツェスカはそういった血腥い土地ではなかっただろう。
 太陽が赤ら顔で地上を見つめている故、ソーニアは蒸暑さと強い日差しに苛まれるも大路を歩み、市場を抜けた。三叉路を左に行けばカンクェノへと至り、真ん中の道は実家の方角、右に行けば墓地へと至る。心無しか墓地へ進む者達が多かったが、それもそうだろう。つい最近まで夥しい量の血が流されたのだから。真ん中の道、実家のある方角であったがそこへ向かう人々は疎らである。カンクェノに至る道はといえば傭兵や学者、ジャッバール配下が人垣を成し、それに伴い商人達が移動し、新たな市場のような景観が出来つつあった。人の流れとは時の流れよりも無常なものだ、とソーニアは薄っすらと嗤っていた。
 気の向くままに墓地の方へとソーニアは歩みを進め、暫く歩くと墓守の住まう簡素でみすぼらしい家が見えてきた。嘗て神を祀り、祈りを捧げていた残り滓も眼中に収まる。つい最近ではミュラと共に来たのだが、墓守の言う通り「また来て」しまった。墓守の家を尋ねる事はせず、少し離れた所にあるメイ・リエリスの墓に辿り着くとそれをぼんやりと見下ろした。左腕だけで帰ってきた姉がそこには眠っている。彼女が死ななければ、彼女が居なければ、ソーニアはまだ教鞭を握っていた事だろう。彼女の死がソーニアという一人の人間を突き動かしたのだ。帰ってきた左手、その爪は石畳を強く引っ掻いたのだろう、指先と爪は拉げ血が滲み、擦り切れた皮膚からは肉が顔を覗かせていた。それから言葉のない無念の思いを知る事は容易かったのだ。それを感じてしまっても駆け出さずに居られる者など、この世に存在しないはずなのだ。
「あの、すみません。メイ・リエリスの方ですか……?」
 何処となくぎこちない声色で不安が見え隠れするような表情を浮かべながら、ソーニアに声を掛けてきたのはカルウェノの青年だった。何処かで見たような記憶があり、彼の顔を黙って見つめていると、心無しか表情に差す不安の色は一層強くなったように見えた。
「……ニコルソン?」
 右手の甲に彫られた向かい合う菱形のタトゥーから、大凡の身元は分かる。元々数少ないカルウェノ、タトゥーの種類を覚えるのは容易い事である。何の関係もない家の者であったが、邪険にするような事もせずソーニアは愛想よく笑みを湛えながら、彼を見据えていた。
「そうです。……あのこれを」
 彼がソーニアに押し付けてきたのは生前キラが好んで飲んでいた酒であった。赤い陽に曝され色付いて見えるが無色透明な酒である。なんでも北からやってきた蒸留酒であるらしい、割って飲むのが定石である。
「キラの知り合い? ありがとうね。……よく飲んでたから多分喜ぶわ、あの人も」
 酒を受け取り、礼を述べながらソーニアは少し笑って見せた。何らかの意図が働いたかのように、墓参りに来た人間と鉢合わせてしまった。キラが呼び寄せたのだろうか。そう思うと自然に笑みが浮かんでしまうのだ。
「あ、いや……、あー。……それじゃ!」
 ニコルソンと呼ばれた青年は黒い外套を翻し、踵を返すと慌て、逃げ帰るように走り去ってしまった。きょとんとした様子でソーニアはその背中を見送った。何か思い出したのだろうか。呼び戻す必要はないだろうと、視線を外すと左手に持った酒瓶の口は空けないまま、墓前に突き出した。お前は死んだからこれが飲めないんだぞ、と言い聞かせるような緑の瞳は少し意地悪げに笑っている。それを戒めるように吹いた強い風はソーニアの赤い髪を乱す。キラとソーニアは言葉なくして姉妹喧嘩をしているのだ。
 暫く墓前に立ち尽くし、ソーニアがそろそろ帰ろうかと思った時、再び強い風が吹き、髪を乱されてしまった。それを整える事もなく、彼女は踵を返して歩き出した。喧嘩はもう終いだ、行けとキラが背中を押したように感じらた。そろそろカンクェノに入らなければ成らない、キラの言葉なき無念を晴らさなければならない、と己に言い聞かせるのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.113 )
日時: 2017/09/23 17:02
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 一騒動というほどのものでもなく、只静かに小鳥が羽ばたいた其の後。どこか不安げに双眸を揺らす少女を金髪の傭兵に部屋まで送らせたユスチンは書斎にて、黒髪の傭兵と向き合っていた。平素であれば此方の少女に娘を送らせたろうに、そうしなかったのは男が少女へ語るべき要件があった、という事にほかならない。娘に付けるならば彼女、ハイルヴィヒ・シュルツである、とそう決めていた。一度決意してしまえば存外、その背を見送る事もまた、父としての役目であると男が理解する、否、無理やり飲み込むのは早い。納得しきれていないけれど、此処で踏みとどまれば再び同じ轍を踏むだけだ。ならば今こそ、と男が決めただけの事。今後についてのささやかな語り合いの折、蒼穹の瞳を持つ傭兵は疑問をひとつ。
「ユスチン殿、一つ……質問が」
「うん? 何かな、ハイルヴィヒ。……私に答えられる範囲でいいなら、なんでも聞いておくれ」
「では、失礼を承知ながら……ユスチン殿、貴方は何故其処まで私を信頼してくださるのか。……私は所詮傭兵に過ぎません。貴方に仕える身とは言えど、宮仕えというわけでも或りません。金銭という対価があるからこその仮初の主従に過ぎない。……ともすれば、私が職務を放棄して逃げ出すやも知れない。其れを承知の上で、けれども私の補佐、助力を絶対条件としてお嬢様を外へ出されると言う事の意味が、知りたい」
 傭兵たる娘の言葉は、雪中に咲く薔薇の如く。強く、澄んだ、純粋なものである。突き抜ける蒼穹の瞳は弾丸が如く、真っ直ぐに当主ヘ向いたままだ。ハイルヴィヒはユスチンを信用していないわけではない。寧ろ重用してくれる事にある種の感謝の念すら抱いているが、そうであるからこそ、娘は疑問を抱かずにはいられなかった。当主たる彼にとって、娘の存在が如何に大きく、重要なものであるかは傭兵たる少女とて理解しているつもりだ。それはたとえ、彼女が巣立つ時が来ても変わりはしないだろう。――だからこそ、令嬢に付ける護衛は己ひとり、だなんて些か不思議でもあったのだ。市井を見やり、世界を知る為に一度家を出る事と相成ったのはまだ理解が行く。少なからずとも娘がそれを望んだともなれば。しかし、だ。そうであったとしても些か心配性なこの“父親”だからもっと大袈裟な世話役を付けると踏んでいた。勿論そうなった場合ヨハンやハイルヴィヒが多少諌める事となっただろうが、雇い主の出す結論はその真逆、些かハイルヴィヒを過大評価しているとしか思えなかったのは他でもない、ハイルヴィヒ・シュルツ本人であった。勿論命令であるならば一人きりでも守り抜く、それは誓いにも等しく、傭兵として、雇われたものとして当然であるとハイルヴィヒは思っているのだが――万が一、という事もある。実力云々以前に、その重用への危機感の有無を少女は知りたかった。
「んー……意味だとかそんな、大層なものはないと言うか……んん、いやぁ、ハイルヴィヒそれは……なかなかに難しい問題だ。なんというかこう……万が一そういう自体が起こってしまうのは私にとっても……僕にとっても望む所ではないし……何より困る。や、困るというか……ああ、うーん、まぁ、困るんだけども」
「困る、ばかりでもいられないのでは? ……恐れ多くも、私はユスチン殿、あなたに何らかのお考えがあるのだと、思っていたのですが」
 凛、とした声が響けば当主は弱った、とばかりに頬をかく。何ともまぁ、実にゆるりとした雰囲気の笑みを湛えて、彼はただハハァ、アハハ、と笑声を零すばかりであった。ハイルヴィヒの顔ばせには、訝しむかの様な表情が浮かぶが心よりの不信感にはあらず、何故を問う様な色合いの方が強く滲む。視線の先にある当主はやれ困った、とばかりに頬を掻く。娘に似たやや彩度の高いアイス・ブルーの瞳は悩ましげに細められた。
「……君を疑いたくない、あと恨みたくない。まあ、そうしたくないっていう“僕”個人の願望もあるのだろうけれどね。そうしたって、ここで君や、ヨハンを信用しないでいたら、スヴェータを、もう此の家から真っ当なな意味で外に出す事が出来なくなる。出来たとしても……そうだね、其の頃にはもう、色々、手遅れになっているだろうから。其れが良くないことだって、僕にだって理解できるさ。……此処までどうにも出来ず、どうにもせずにいたのは他でもない私であり、僕であるのだけれどもね。……ああ、ううん、だから、そうだね。うん、いい加減に“僕”も……ちょっとは、しっかりしないと……ハハ、ほら、ディーナにも、怒られちゃうだろう?」
 ベケトフの当主が頬を掻く左手の薬指に、今だに指輪が輝く事を知らぬ者は此の屋敷には一人としていないだろう。ディーナ、と彼が呼ぶ今は亡き妻。ディアーナ・アントニーノヴナ・ベケトヴァ、旧姓シャロノヴァ。ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフの唯一愛した女性であり、生涯一人と誓った妻なる人。アゥルトゥラ北西部にあるシャロノフ家の令嬢であったという。ハイルヴィヒが此の家に呼ばれる以前に馬車の事故で没した人と、出会う機会は永遠に訪れぬものであったが嫋やかな白百合の様な、清らかな人であるらしい、という認識ばかりは持ち合わせていた。柔らかな淡い金糸の髪に、夜空に輝く月明かりと、柔らかに輝く星の色を混ぜ込んだ様な淡い瞳の人であったらしい、という事も、聞き及んでいる。全て彼女に関わった人々からの伝聞であるから、何処まで真実であるかは些かわかりかねるものの、大凡その通りの優しき人であったのだろう事はハイルヴィヒであっても理解できる事であった。ユスチンが未だ亡霊に囚われ続けている事実は何ひとつの言を俟たないのやも知れぬ。けれどもハイルヴィヒがその事に関して言及する事もまた有りはしない。少なくとも彼にとって、それが支えとなる一端であるならば。そしてまた、彼が彼たる所以を一つ、ハイルヴィヒは理解した気がしていた。時として彼は無償の信頼を他人へと向けてくる。信じる他に根回しくらいは出来ように。なにせ此の家は些か、策謀の匂いが強い様に思うのだから。其の癖、目の前の一人の男の言動に裏が見えない、なにひとつ。ハイルヴィヒは静かに嘆息し、青い瞳の奥に僅かな当惑を織り交ぜた色で、男を見た。
「貴方のお考えは、理解できました。……叶う限り、努力致します」
 静かな宣誓にも似た言葉であった。その言葉に満足したように微笑んで、男は頷く。当主として、父として、どちらの言葉を選ぶべきか悩む様相を見せた後。ただ静かに有難う、とだけ男は紡ぐ。其の言葉を合図として、傭兵の少女は一礼の後に部屋を出た。静寂が部屋へと戻る。箱庭は閉じられ、けれども其処には何一つ残らない。ただこの瞬間だけ、永遠を紡ぐものは何も居なくなった。
「あーあ……雨でも降らないかなぁ」
 傭兵が去った後、男は独りごちる。安楽椅子に背を預け、目頭を押さえつけた。冷ややかな雨が、落ち行く雫が、そうしてすべて混ざりあってしまえばいいなんて、子供じみた事を思いながら。けれども何処かで、進展を歓迎する心さえあった。相反する感情を内々に飼いながら、ユスチンは静かに、深く息を吐く。何時か訪れるべき日が今日、この瞬間にやってくるなんて予想もしていなかった。何時か、何時かと先延ばしにしたツケということにするにしたって、些か唐突にすぎる。
「……でも、そっかぁ」
 そうであるからこそ――静かに細めた双眸には柔らかな色が宿る。何時か三人で見た、星の色にも似た、淡く柔らかな輝きが。

 トントン拍子に進む準備に、首を傾げたのは他でもない、スヴェトラーナである。ああは言ったものの、てっきり父は嫌がって非協力的なものだとばかり思っていたのだ。やる、と口にしたからには全て一人で、なんて思っていた己を恥じるのに、そう時間は掛からなかった。市井を見やるともなれば暫し此処を離れるべきだろうという我儘に何処か思う所はあったらしいがわかった、と頷いてくれた。仕事の傍らで必要なことを詰め込む様に教えてくれたのは他ならぬ父であった。今まで学んできた事とはまた違った、ささやかな約束事の様なものも同時にいくつか。一から十までを他人に任せる様な生活はしていなかったが、それにしたってこれから暫くの暮らしは、今までとは違った事ばかりが増えていくだろう。どうしたって父はついていくわけにはいかないし、ヨハンもまたユスチンに任された仕事が或るともなれば、スヴェトラーナと共に居るわけにもいかない。立地が立地だけに大きな家を用意するわけにもいかないし、そもそもそんな大きな家に少人数なんて寂しい、と口にしたのはスヴェトラーナ自身だった。添えるならば、ただなんでもない生活を送ってみたかっただけなのかもしれないが、少女自身にとっても定かではない事だった。後々入った報によって、一時は中断すべきかと小さな家族会議が開かれたがこんな時であるからこそ、と娘が口を開いた。お兄様の為にも、という傲慢な言葉こそ無かったが、静かに伏せられた薄氷色に滲む懴悔は、言葉以上の意味を持っていた。
 最終的には父の帰宅から一週間と数日後、トランクに荷物を詰め込んで二人の少女はクルツェスカ近くのアパルトマンの一室へやってきたわけである。カンクェノまでもここからならば向かいやすかろうと父と相談する時間が存外、楽しいものであったのは小さな秘密だ。白い壁に白い窓枠、大きな窓から差し込む光が照らす部屋は、つい先日の惨劇など思わせぬ程に柔らかな色で満ちていた。市井の視察なんて名目はあれど、結局は人々の営みを知りたいだけ、というスヴェトラーナの希望は此れで叶うだろう。カンクェノの視察もまた、名目の内にあれど、実質現状把握のために向かうに過ぎない。ハイルヴィヒのみが向かうのもまた一つの選択ではあったが何時か管理の一端を担う者として、正しい目で現状を見たい、というのもまた、紛れもない少女の願いであった。――新しい服だとか、靴だとか。家具だとかが必要だったのかははたはた疑問ではあるが、門出にと父は用意してくれたから、娘は素直に受け取っていた。添えるなら、実は嬉しかったのはまだまだおとなになりきれぬ少女の心に相違ない。いってらっしゃい、を告げた父の顔ばせに浮かぶ柔い不安を拭う様にいってきますの口づけを頬へ。戻ろうと思えば戻れる距離で、ヨハンも時折様子を見に来ると言っていたのだから、其処まで心配しなくったってという言葉を、少女は飲み込んだ。

「おかえりなさい、ハイルヴィヒ」
 数日の後、新生活に徐々に慣れつつある2人は至って普通の日々を送っていた。扉の開く音に、少女は玄関へと急ぐ。其処に居た黒髪の少女の姿に双眸を細めてただ喜ばしげに出迎える言葉を。ふたりだけ、の生活に、少女はなんとも言えぬこそばゆい感覚を憶えている。パーケットの床をコツコツと鳴らす足取りは未だに浮足立ったもので、どこか子供じみた喜びが滲む。月明かりの夜に内緒話をするのも、早起きのハイルヴィヒが用意してくれたベーコンエッグとパンだけの質素な食事も、ハイルヴィヒが側に居るとは言え、比較的好きに外に出てあれこれ見て回れるのも、少女の心に差し込む確かな光であった。ハイルヴィヒもハイルヴィヒで、服薬は些か自重乃至は控えていたし、思えば此処まで穏やかな時を過ごす事が叶うのも久々であった。“あんな事”があった後であるくせに、こうして平穏を憶えるというのも、些か妙な話だとは思っているのだが。
「……はい、只今、戻りました」
 細める青い双眸には柔らかな光だけが映される。ハイルヴィヒがスヴェトラーナの前でだけ見せる、僅かに柔らかな表情だった。ハイルヴィヒが夕食前にスヴェトラーナの“探しもの”のために家を空けるのは此方へと来てから初めての事ではない。去る日に赴いた墓地にて花を手向けた後「まだ、諦めていないわ」と遠くを見ながらつぶやく少女の横顔は、茜色に染まっていた。兄と慕う人が、そう簡単に逝くものか、とその瞳は暗に語る。それを知るのは恐らく、ハイルヴィヒただ一人だろう。
「あのね、ハイルヴィヒ。今日のお夕飯、上手に作れたのよ。……ふふ、帰ったらお父様とヨハンさんにも食べて貰わなきゃ」
 努めて、少女は明るい話題を選択している様に、ハイルヴィヒには感じられた。彼女の言葉通り、部屋にはシチューかなにかだろうか、ホワイトソースらしき良い匂いが満ちている。金糸をかきあげて笑うスヴェトラーナもまた、市井を見て回る折に時間が許せば彼是と密かに情報がないかと奔走している。夕食前のこの時間の外出も、殊、この件に関しては彼女を一人だけで外に出すわけにも行かないハイルヴィヒが言い出した事だ。私も一緒に、という彼女を制したのは些か彼女を連れ行くには相応しくない場所に行く事を考慮して、ついで外食ばかりというわけにもいかぬというハイルヴィヒなりの考えあっての事。ユスチンが聞けばキッチンに娘一人を立たせる事に妙に心配ばかりしていそうだが、この件は二人だけの秘密であるから、何の問題もない、ということにしておこう。不安と、ささやかな幸せの入り交じる日々は、思えば至って普通の日常に相違ないのかもしれない。
「お兄様がハイドナーのお兄様ではなく、ただのお兄様になられたのなら。……その時は私が助けると、約束したの。叶う限り力になると。一方的な約束、だけれど。持たざる者であるならば、私は助ける義務がある。…………義務でなくとも、お兄様のお力になれるなら」
 少女がそう零したのは過日の事だ。果たして手紙が無事に届いたかはわからないけれど、少なくともスヴェトラーナはその気でいるらしかった。「これこそ私情というものね」なんて苦笑混じりであった事も、彼の訃報を聞いた折に毅然としたふりをしつつもその声が震えていた事も、数刻後に見やった少女の目元が赤らみ僅かに腫れていた事も、ハイルヴィヒは忘れやしない。輝く月が翳る様に、如何に光が射そうとも、そこに光がある限り、その薄氷色の瞳に射す影は、未だに完全に消える事はない。
「ねえ、ハイルヴィヒ。……そろそろ、カンクェノにも、行ってみるべきかしら。その、此処での生活もそろそろ落ち着いて来たし……向こうも、きっと、少しは落ち着いている、でしょうから」
 夕食の配膳を進める中でちらり、と蒼穹を見やる星色には柔い不安が宿る。如何せん、いまだにこうして自らの思考を言葉にするのには慣れないらしく、どこかおっかなびっくりといった様子で少女は語った。染付けのスープ皿に入ったシチュー、揃いの柄の平皿にはサラダとパンを。食後の紅茶の為にカップの用意も忘れては居ない。ささやかな食卓は平穏を思い起こす様相ですらあるだろう。もしも何も知らぬなら、此れは只の、歴史に埋もれた平穏の一コマで在れたろうに。二人は何も知らぬ無辜の民ではいられなかった。
「お家を出る前にも言ったけれど……私、此の目で見て、知って……カンクェノの立ち入る方々の必要とするものを、必要なだけ……叶う限りのお手伝いが出来る様に、なりたいの。共存の道があるならばそれを画策したい……カルウェノのいち一族に生まれた者として、未来を担う者として……持つものとしての責務を果たせればって、思うから。…………なんて、ふふ。それこそ傲慢というものかしらね」
 柔い色をした瞳の奥に、自嘲じみた色がひと匙。今更なのかもしれない、等という事は、スヴェトラーナとて理解しているつもりだ。それでも、進むと決めた。その心をハイルヴィヒとて知らぬ訳では無い。淡雪の様な少女だった。柔い微笑みの奥には融けて消える以外の何かがありはしなかった少女が、けれども、確かな意思を持って紡ぐ言葉は、ハイルヴィヒへ向けても仕方が無いものなのだろうとも傭兵は理解している。だからこそか、平素ただ突き抜けるような青い色だけを宿す瞳に、まろぶ光にも似た柔らかさを孕んでぱちり、と瞬く。
「いえ……お嬢様のお望みが其れであるならば、私は貴女に尽くす者として、責務を真っ当致します」
「…………有難う、ハイルヴィヒ。貴女が一緒なら……何よりも、心強いわ」
 少女は甘く微笑む。その眼窩に嵌め込まれた一対の硝子玉の様な瞳に、柔らかな光が宿る限り、ハイルヴィヒはその歩みに従い続けるだろう。絆された、と誰かが嗤った気がするが、それでも構うまい。たとえこの身が潰え様とも、その身を守れるならば、等と願ってしまうのは今に始まった事ではない。白百合の夢に祝福を。ハイルヴィヒが其れを授ける事は叶わずとも、夢を繋げる事はできると信じていた。口にしたシチューの味は、決してとびきり上等なものではないだろう。それでも何時かに食したものよりも、好ましい味に思えてならない。
「ああ、そうだ……折角ですから明日は少し早起きしましょう、良い店を見つけたのです。喫茶だそうですが、朝の食事も自慢だそうですので」
 出立は早いほうが良いだろう。ここからならば視察の名目であちらへも向かいやすい。何よりもそのためにもこの家を用意したのだから。添えて、ハイルヴィヒが他愛ない提案を零すのはただ、この清らかなる人に幸せを憶えて居てほしいと、そう思うからだ。叶うならば幸せな思い出を少しでも、多く。
「まあ、素敵ね、ハイルヴィヒ。……では明日は、ちょっと早く起こしてね。早く眠るけれど……貴女に起こして欲しいのだもの」
 夜の闇に、しく輝く月の様に。愛しい少女は融ける様に微笑んだ。何時か土にまみれようと、咲き誇る花の色は白く、輝く月が清らかであり続ける。少女が魅せられる色が斯様なものであろうとも、今はまだ、柔い光を信じて。

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