複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.245 )
日時: 2019/11/26 00:06
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

11/26 0:06 加筆修正

 厭な緊張感がそこには漂っていた。鉄面と獅子が睨み合い、その輩達もまた同じく。その場には龍蛇の化生と手負いの虎の姿もあり、彼等は得物に手を掛けたまま主たる獅子の背後に控えていた。何故か、虎の得物は普段の刀ではなく、大振りなアゥルトゥラの剣であるが。相対すは人斬りとナヴァロの若獅子、そして双頭の鷹である。少し離れた所にはシューミットの親子の姿もあったが、彼等は小銃を携えているだけで、何かを語ろうという訳ではないのだろう。
「書状を読んで貰えた様で何より。昨晩の通り、我々はクルツェスカより兵を退く」
「……勝ち目のない戦を避ける。そんな頭があったとはな。しかし、お前達は後先考えず、我々に攻勢を仕掛けてきたな」
 それの落とし前はどう付ける、とフェベスは問う。彼等より差し向けられた獣達は暴力の限りを尽くした。皆が皆、傷を負い、血を流した。命こそ失っていないがハイルヴィヒは未だに昏睡したまま、その意識を覚醒させていない。
「近頃の戦は兵を差し向ける前、砲撃を行い塵払いをする。そこで人を殺め、陣を崩す。砲兵は戦場の神だ。……しかし、人々の往来がある中、砲弾を見舞う訳にもいかない。戦場に在るというのに。であれば、人を砲弾とし、差し向ける。謂わば事を運ぶための準備砲撃に過ぎん。戦は既に始まっていたのだ。……我々は何も悪事を働いてはいない」
 戦は既に始まっている、故に攻勢は悪ではないと彼女は語り、煙草を咥えて見せた。燐寸を擦り合わせると独特な匂いが漂う。
「……お前達、そうだなぁ。ナヴァロとて我々に"準備砲撃"をして来たではないか」
「あぁ、そうだなぁ。……もう少しで焼き殺せたんだがな、随分と生き意地が汚い限りで」
「でなければ、生きられぬ砂漠の生まれだからなぁ。今こうして向かい合うのも当然の事」
 やられたからこそ、やり返したまでであると、彼女は暗に語る。十ヶ月も前、屋敷に火を放たれた上、包囲され離脱すら手惑う羽目となった。頬から下瞼に掛けて負った火傷は未だひりひりと痛み、神経は逆立ち、痛みを伴う。だからこそ敵対する者達への反撃も妥当である、と主張するのだ。
 それもそうか、とレーナルツは肩を震わせ、くつくつと笑っている。戦は殺し合い、互いに被害を被るのは当然の事と。血が流れ、汚れるのは当然の事だと。しかし、その主張が受け入れられず、得物の得に手を掛けたままカルヴィンが詰め寄る。酒は抜けきっているのだろうか、何時もの様相がそこには戻って来ていた。密かに怒りこそ宿しているのだが。
「貴様等、ジャッバールの手勢はアゥルトゥラの民へと暴力を働いた。……バッヒアナミル、特にお前はな」
「そんな事覚えてる訳がないじゃないか。アゥルトゥラは人に非ず、蟻を一匹、二匹踏んだからってあんた達は神に奴等の冥福を……彼等をその御許に受け入れてくれって祈るかい? 残念ながら人ではない奴等を殺したって、ただの戯れ。何人斬ったかなんて覚えている訳がないじゃないか」
「なら、セノールとて人に非ず。矢張りお前達は絶やすべきだ。絶滅させるべきだ。兵を退く必要はない。殺し合いだ、それしかない。今すぐだ」
 虎と人斬りは今すぐにでも得物を抜き、斬り合いを始めかねない。火蓋は落ちる寸前である。戒める様にじっと主達が見据えると、人斬りは堪え、目を逸らした。虎に至っては納得出来ないと言った様子で奥歯を噛み締めていた。鞘から僅かに刀身が顔を覗かせるも、それは巨大な手で制される。
「……何故、ボリーシェゴルノスクから兵を退かないのです」
「そこまで説明する必要があるというのかね? 東のベケトフ」
 ボリーシェゴルノスクに於ける、ベケトフの主権は最早失われてしまった。運河の優先権はジャッバールに在り、商いを邪魔されてはならないと兵を敷く。そんな事は分かりきっている。バシラアサドの口から、何をしようとしているのかを引き出す必要があると思えたのだ。
「必要ありませんとも。……貴女方の主張は正しい。外国で商いをするなら、私兵を持つ貴女達なら、そうするでしょう」
「物分りが良いじゃないか」
「だからこそです。ボリーシェゴルノスクとコールヴェンやセルペツェスカとの交易を阻害しないで貰いたい。……領民の惨状を知っているでしょう?」
 運河という大動脈を押さえられたからこそ、彼の地は干し殺しの憂い目に遭っている。民は離散し、彼方此方へと旅立っては極寒に死す。春まで暁を覚える事すら許されず、ただただ死すばかり。事の元凶は優先権を与えたユスチンにあるが、ジャッバールが此処まで抑圧するとは思ってもいなかったのだ。
「……さぁなぁ。私が何故、異民族の生活まで見てやらねば成らないのだ。返して欲しくばユスチンを連れて来い。張本人ではないお前が言うのは筋が違う」
 ユスチンをクルツェスカに招集したとしても、実が成る事はないだろう。寧ろベケトフの家人が不在となる事で、ルフェンスとジャッバールが交戦を始める可能性すらある。
「矢張り貴女達は……セノールはアゥルトゥラの不倶戴天の敵だ」
 ダーリヤに怒りが宿る。それを蛇の目は見過ごす事もなく、彼はにやにやと笑いながら口を開く。
「お前が西のベケトフを殺し、乗っ取ってしまえば良いじゃないか」
 言い放つ言葉は稚拙にも思えたが、実に邪悪な物である。西のベケトフを絶やし、ダーリヤがその座に収まる事で、主張の正当性を持たせろと言うのだ。じっと青の瞳が彼を睨めど、何処かへらへらとした様相で見下ろされ、ただただ不快感が募る。
「……ユスチンも、スヴェトラーナも殺すに容易いだろうな」
「その様な不義を働く等、人の道から逸れたにも等しいでしょう。……それは最早、人間の所業ではありません」
 実父、実兄を殺めた者を前にして語るその言葉、蛇の瞳は椅子に座り込んだバシラアサドを見下ろし、嘲る様に笑っている。何故、笑っているのか。何が面白いのか、とダーリヤは彼に一抹の不気味さを覚え、口を噤んだまま視線を外せなかった。
「……さて、戯言は此処までにしよう。廓の掃討を終え次第、私達は兵を退く。お前達アゥルトゥラも、我々が兵を退く事で問題が出て来るのは分かっているだろう?」
「……職にあぶれた傭兵をどうにかする必要があるだろうな」
 私兵を持ち、錬度の高いシューミットやナヴァロ、東のベケトフ以外は全てが傭兵である。彼等は一様にしてジャッバールと争う為に集められ、雇い入れられた存在である。そして、その争う対象が消えたならば働き口を失うだろう。その次に何が起きるかは、半世紀前の西伐後、このクルツェスカは嫌と言うほど味わっているのだ。ノヴェスク傭兵や、彼等を斡旋した者達による略奪、抗争、小競り合い。九年前、ジャッバールを呼び寄せた事で、漸く鎮圧出来たというのにその火種はまた燻り始める。
「前途多難だなぁ、メイ・リエリス。我等が争わずとも、このクルツェスカに火種は絶えん」
 そう肩を震わせ、嗤っている彼女は宛ら悪鬼の如く。生まれながらにしての悪、人を嘲笑い、他をただただ見下ろしては踏みつけて行く。腹の中に飼い続けた悪魔が主に成り代わった末の様だ。悪魔憑きとでも言うべきだろうか。
「……狙いはそれか? 兵を退くのもそれを見越してか?」
「さぁなぁ。ただ、私は勝てぬ戦をする気がないだけの事」
 あくまでジャッバールの撤収の先に待ち構えるだろう、傭兵の狼藉は偶然の産物であると主張し、彼等は与り知らぬ事と言ってのける。勿論、彼女の言葉は真意ではないだろう。分かり易すぎる程に口角を吊り上げ、さぞ嬉しげに笑っているのだ。何もせずとも、勝手に衰え、傷付いていく。血の汗を流し、何れは自壊していく。それを見られるのが楽しくて、楽しくて仕方がないのだろう。そうアゥルトゥラの者達には思え、とてもではないがバシラアサドの真意など掴み切れなかった。
「我々が行う"東伐"は我々が退いたとしても、決して終わらない。そして、お前達が考えるよりもずっと、ずっと早く始まっていた。遅かったなぁ、アゥルトゥラ」
「口を慎むべきだな、バシラアサド。……此処には我々以外にもベケトフの兵も、ナヴァロの兵も居る。殺そうと思えば容易い。此処の一人、二人……なんなら俺を殺したとしても、お前も死ぬ事になる」
 調子付くなと、射掛けられた矢は獅子を穿つ事もなく、相変わらず彼女はにぃっと笑みを湛えたままだった。だからどうした、と暗に言い放っているかの様だ。
「私の血が流れたならば、ガリプもラシードも我々の戦に参加するだろう。……知っての通り、ジャリルファハドは都に入り込み、先日マティーンまで此方に来ている。やるならやっ──」
 抜かれた切っ先は、バシラアサドの首を裂くべく中空を走る。しかし、その白刃が彼女の首を裂く事はなかったが、それでも血は流れ、彼女の肩を、腹を伝い、遂には腿へと至る。僅かに身じろげば、衣がずれ、生々しいぬるりとした血の感触を感じた。
 刀を振るったのはカルヴィンであり、その刃を受け止めたのはルーイットである。両陣営、主たる者の懐刀はただただ互いを見合うばかり。流れ出る血の事など忘れ、呆けているかの様にも見えたが、今にもこの場で殺し合いが始まってしまうのではないかと錯覚する様な、凍て付き、重苦しい空気が流れる。
「もう少し、もう少しだなぁ。もう少しその剣が重かったら、俺の手を裂けただろうに」
「女の細首なら簡単に裂けた筈なんだがなぁ……」
 刃が食い込んだまま、その大きな手は握られ、何事も無かったかの様に刀身を掴む。痛みもあるだろう、骨を擦る言い得がたい異物感も。何故、この男はへらへらとして居られるのかが、カルヴィンには理解出来なかった。人間である以上、少し身を切り裂けば、激痛に苦しむのが常。おかしいと思いながらも、更に害を加えようと僅かに押し込み、勢いよく引き抜いた。血の飛沫が椅子を、その男の主を汚すも、誰一人として動じる様子がなかった。
 赤黒く染まった刀身は、陽の光を受けてらてらと輝く。まだ血が呑み足りないと、声なくして叫んでいるかの様で、その主に闘争の火が燃える。
「……お前達が兵を退いたとて、俺はお前達と戦いたい。戦って殺してやりたい」
「その心は?」
 矢継ぎ早な問い。彼がその答えを吐き出すのは、あと吐く間すらない。
「ある女の仇討ちの為。お前達を殺す必要がある」
 そう言い放ったカルヴィンを横目でフェベスが睨む。それは今、此処で言うべき事ではない。自身の浅い底を晒す様な事はすべきではない、と語らず制止するも、彼はその意図を汲み取る事はなく、またバラシラアサドも興味を示したかの様に、再び口角を吊り上げて嗤っていた。
「……さて、さてなぁ。女、女か。ハイドナーの女中か? それとも色街の娼婦共か? 貧民街の塵芥という事もあるまい」
「知らんとは言わせん。キラ・メイ・リエリスの事だ、お前達が殺した様な物ではないか」
「あぁ、そんな奴も居たなぁ。……身一つで入ったからこそ、廓で死した。しかし、私達の瑕疵となるのは不本意な事だ。本来ならばアゥルトゥラの者共が廓に出入りする者達を守るべき話。彼女が死したのは"貴族"の責任ではないか?」
 廓の守護者を自称したのはハイドナーであるが、一切の結果は出ていない。彼等は徒に死者を増やしただけである。そして、この場に居るベケトフも同様である。
 バシラアサドが言葉一つで離間を図ったのは明白であったが、少し離れた所で聞き耳を立てていたエストールは正直、彼女の言葉に頷かざる得なかった。戦で名を上げた新興貴族以外の者達は平穏に座し、呆け生き続けて来た。その結果がジャッバールの流入であり、その果てにキラの死という物がある。彼等は味方でありながら、敵であり、この屋敷に集ったのも利害が一致しただけの事。昨晩のカルヴィンではないが、自らが無事で居られないと分かって初めて動き始めた、命を惜しんだ者達に過ぎない。ジャッバールの手が及ばなかったら、この場に居る事もなく、長い物に巻かれる様に彼等と平気な顔をして、商いをしていた裏切り者なのだ。
「……バシラアサド、貴女の言う通りですね。確かに貴女達は都の内部浄化の為、東の戦に引っ張られて此方まで手を出せなかった、我々の様な新興貴族の代わりに呼び込まれた者達だ。貴女の言い分、分かりますよ」
「シューミットは物分りが良い様で何よりだ。アゥルトゥラで居る事が惜しい」
 抜き身の刀を携えたまま、エストールへとカルヴィンが向き直り、明らかに殺意の篭った視線を向けてくる。他人の目が無ければ、斬り付けられ兼ねないだろう。
「……我々は西、ずっと西の出自ですが、何処までもアゥルトゥラですとも。貴女達が何処までもセノールや、レヴェリで在る様にね」
 何処か穏やかなエストールの語り口に毒気を抜かれたのか、バシラアサドは首を傾げながら、じっと眼前の四人を見回した。兵を退くというのに、まるで誰から殺そうかと算段しているかの様にも見え、最後にダーリヤを見据え、ゆっくりとした動きで立ち上がった。
「何れにせよ、我々は廓の掃討を終え次第、逐次兵を退く。……今はお前達と戦を交える気はない。しかし、我々の背を刺せば、全面的な戦となる。それだけは覚えておけ。……帰るぞ」
 血で汚れた衣服を気に留める事もなく、彼女は無防備にも踵を返した。すぐにその背を庇う様にラシェッドが立ちはだかり、相変わらず抜き身のカルヴィンに注視しながら、後ずさって行く。
 今、アゥルトゥラの者達がどの様な顔をしているか、バシラアサドに知る由はない。そもそも興味がない。近い内に殺し合い、死ぬだけの話。所詮、アゥルトゥラは復讐の出しに使われるだけの、惨めな民族でしかないのだ。


 ナヴァロの屋敷の外に待たせた兵達は、己等の首魁たるバシラアサドの無傷に安堵した様な表情を浮かべていた。ルーイットの流血など気にした様子もなければ、誰一人として気に掛けて言葉を投げ掛ける訳でもない。
「無事で何より」
 兵の一人がそう声掛けると、バシラアサドはその言葉を噛み締める様に緩慢な動作で頷き、屋敷へと振り向く。風雪に晒され、凍りついた窓の中からじっと誰かが見下ろしている。背中を撃たれては敵わないと、ルーイットを盾にする様に彼の前へと立ちはだかる。
「これから無事ではなくなるやも知れんのでな。……ハヤは北に行ったか?」
「あぁ、つい半刻ほど前」
 彼女にはクルツェスカからの撤収を知らせて居らず、今この場に居られるとこの上なく厄介であった。技術的特異点と言っても過言ではない程の功労者であるが、彼女がジャッバール撤収の真意を計り切れなかった場合、実に厄介で面倒な存在と成り得るのだ。戦場の拡大も、クルツェスカの守兵を平原に誘い出すのも困難となる。何より彼女による"砲撃"が東伐の緒戦にとって重要となる。だからこそ、彼女はクルツェスカではなくボリーシェゴルノスクに居るべきなのだ。
「ボリーシェゴルノスクにはルフェンスが居る。……迂闊に衝突しないようにハカン公に手綱を握ってもらわねば」
「あぁ、大丈夫だろう。夫婦揃って北に行ったからな」
「ルトもか? ……ナミル、これ以上怪我するんじゃないぞ」
「分かってますよ。次はないでしょうから」
 医者であるルトの不在は痛手である。しかし、役割上、傷を負いやすいであろうバッヒアナミルはへらへらと笑っており緊張感すら見えない。彼はつい先程まで得物を抜き放とうとしていた様には見えない。しかし、相反するようにルーイットの表情は硬く、いつになく真剣に見えた。
「どうしたんだ。腹でも痛むのか?」
「いいや。そうだなぁ。酷い話だ、ってな。一部の兵にはやり口を知らせているが、それ以外は蚊帳の外。ハヤも外ってな」
「おい、下らない事を言うな」
 誰一人として笑いも、嗤いもせず、ただただ寒風が吹き荒ぶ。バッヒアナミルに至っては舌打ちをしながら、苦言を呈し刀に手を掛ける始末。カルヴィンの一件もあり、気が立っている中にこの軽口である。先程までの穏和な雰囲気は偽りであり、今の一言で一瞬にして頭に血が上ったのだろう。
「そうかっかしなさんな。……所でだ、カルヴィン・カランツェンの言葉。キラ・メイ・リエリスについてだが、お前何か仕掛けたのか?」
「いいや、まさか。彼女は廓の碑文を読み解き、我々と学者達の橋渡しをした。ソーニア程ではないが、我々に利益を齎したのも事実。その様な者を徒に殺す訳などなかろう。……廓に立ち入る者共を守り、彼等の手助けをするのは本来であればアゥルトゥラ貴族の役割だ。これだけは本心だ」
 カランツェンが恨むべくはハイドナー、恨むべくはベケトフ。廓の守護者と名乗り、廓の所有権を主張する者達がすべき事なのだ。確かに己等の先人が建造に携わっていたとしても、アゥルトゥラ領内にあるのだから、そもそもは彼等の持ち物である。キラの死はそれを異民族に侵され、主権を奪い取られる始末に至った彼等の瑕疵でしかない。そもそもの責任は全てアゥルトゥラにある。
「……カランツェンに恨まれるのはお門違いだ」
 歩み進めながら、ぽつりと吐き出した言葉にルーイットは肩を震わせて嗤っていた。キラの死こそなければ、カランツェンはこの戦に加わらなかった可能性すらあり、何より彼がメイ・リエリスの懐刀である以上、キラの死は彼に大義名分を与えると同時に、恨みという最も厄介な感情を与えてしまった。あの様な兵は手足を削ぎ、鉛弾を撃ち込んでも止まる事を知らない。
「男が世界を動かすが、女が男を動かす。……上手く言った物ですよ」
「大体、尻に敷かれるからな」
 ルーイットの斬られていない手が、バシラアサドの尻に向かおうとしたが、それはバッヒアナミルの刀の鞘に遮られ、じっと虎は彼を睨む。冗談だ、と手を引っ込めるが視線が外れる事はなく、護衛の兵と共に彼女は小さく笑っていた。
 彼等の戯れを五歩ばかり後ろで、ラシェッドはぼんやりと見据える。バシラアサドが兵を退く。これだけでクルツェスカの守兵達の一翼を担うであろう、傭兵達はただの木偶と化す。何なら利敵行為を働く、暴徒と化す者達すら居るだろう。次の一手が廓にあるのは確実であったが、彼女が何を企むのか分からず、その結果が全く読み取れない。
「バシラアサド、次は何をする心算だ」
 名を呼び止められ、一瞬だけ彼女は立ち止まったが何事も無かった様に歩き始めた。胸の前に腕を組み、暫く考える様な素振りを見せた後、ぽつぽつと語り出した。
「彼等は。クルツェスカの守兵共は人ならざる者との闘争を望んでいる。異形の者達との闘争をだ。足元、ずっとずっと深いところに蠢く、化物の群れとの戦をだ」
「……レゥノーラか?」
「あぁ、我々が九年も戦い続けてきたのだ。そろそろ交代しても構わないだろう? その手引きをしてやるだけさ。……だからお前や、ファハドを呼び寄せた」
「よく分からないな、何を引き金に。何をしようってんだ」
 その問いが口を飛び出すと同時、彼の一団は小路へと至る。ジャッバールの屋敷までの早道であったが、半年ほど前の貧民街で起きた暴動の影響か、全く住人の姿はない。雲が太陽を覆い隠しているからか、辺りは薄暗く何処か不気味にも思えた。ゆっくりと振り向いたのはバシラアサドが、ラシェッドをじっと見据える。
「廓には聖櫃が眠っているだろう。レゥノーラ共はそれを守っている。……奴等の巣を小突き、聖櫃を奪い取ったら……どうなると思う?」
「……地上まで追ってくるだろうな」
「そうだな。そして、奴等は人間を見ると無差別に危害を加える様に出来ている。つまりそういう事だ」
 にいっと笑って見せるバシラアサドの面持ちは、未だ嘗て見た事がない程に悪という一文字が似合う代物だった。そして、聞かなければ良かったとラシェッドは後悔の一念を覚えるのだ。"今"は東伐をする心算がないバシラアサドや、シャーヒン、アースラに悪事の片棒を担がせてしまっているのが、ただただ心苦しく表情は曇る。
「その後は何だ、アゥルトゥラに侵攻するってのか?」
「レゥノーラがクルツェスカの守兵と互いに殺しあうまでな。……私が欲しいのは終わらない戦争だ、ずっと終わらない戦争。アゥルトゥラの絶滅を祈った"聖戦"をしたいのだ」
 獅子が望むのは邪まな聖戦である。生存圏を脅かされまいと戦い続けた、先人達のそれは民を守るべく、己等が生きる為に望んだ戦である。嘗てのウズマアサドも、先の戦に臨んだディエフィスとてそうだ。しかし、バシラアサドの戦は違う。異なるただの邪まな思いから来る、唾棄すべき戦を彼女は望むのだ。許すまじと、かっと頭に血が上り、得物に手が掛かり、僅かに鞘から刀身が顔を覗かせた。その刹那であった。
「ナミル」
 獅子が口ずさむは実弟の名。だが、眼前に居たのは人間に非ず、人の形をしているだけの獣だった。抜き放たれた得物はセノールの物に非ず、分厚く重い刀身を持ったアゥルトゥラの剣。身を守ろうと鞘を翳すも、鞘を砕き、その刀身を砕いては刃が身へと食い込んでいく。腹を正中線上に裂き、それは胸骨へと至り、骨を僅かに叩き切っては引き抜かれた。焼かれる様な灼熱感から、矢継ぎ早に襲い来るのは激痛。噴出す血の飛沫はすぐに勢いを失い、裂かれた腹から飛び出る傷付いた内臓と共に氷雪へと落ち、ラシェッドは膝を付いた。腹を押さえ付ける余力すらない、身体が全く動かないのだ。
「……ナミル、お前──」
 肋骨を穿つ。そして断つ。剣は彼の心臓へと突き立てられたのだ。抜き去られる事もなく、バッヒアナミルはただただ離れていくが、彼に表情はなく、己が殺めた実兄の姿をただただ、呆然と眺めていた。もうじき、絶命するであろうラシェッドは何か言おうとして口を動かしているが、声は出ず、空気の漏れ出る様な音ばかりを発していた。その様がまるで餌を求める魚の様で、その様子を見てルーイットは小さく嗤っていた。その無様さに愉悦を覚えたのだろう。
「ラシェッド、お前は"アゥルトゥラ"に殺された。我々は殺していない。我々を恨むなよ」
 仇討ちの為、その大義名分を得る為。同族を殺め、討つ。仕方がない犠牲であり、その死を悼む真似はしない。遂に斃れ込んだ彼の死体をじっと見下ろし、バシラアサドは溜息を吐くと踵を返した。何事もなかった様にして、屋敷へ戻り、日を改めてラシェッド・ナッサル・サチの死を広めるだけの事。冷徹な背中をルーイットは見据え、矢張り嗤うばかり。酷く歪めてしまったなぁ、と九年前の己を褒めているのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.246 )
日時: 2019/12/07 01:11
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 ジャッバールの者達が去り、彼等の代わりに呼び出されたランバートは、そこに流れる重苦しい空気に僅かに身じろいだ。血の付いた刀を拭いながら、じっとカルヴィンが睨む。何か一悶着があったのは確実だが、そこには誰かの死体が転がっている訳でもなく、その流血が何故に起きたのは全く分からなかった。
「……呼び出されたと思ったら、この様だ。荒事でもやったのか?」
 その問い掛けに応じる様に、カルヴィンは床板へと刀を突き立てた。相変わらずその視線はランバートを貫いており、少し遅れて入ってきたガウェスの表情が一瞬だけ凍り付いた。
「仕損じた。……ジャッバールの兵は化物ばかりだ」
 二度にも渡り殺し合いを演じたバッヒアナミルは勿論ながら、巨大なレヴェリ、ルーイットの存在は脅威になるだろう。彼等が普通の人間ではなく、その祖先に今は存在しない"魔物"を持つのは周知の事実。しかし、まさか斬撃を手で受け止められるとは思っていなかったのだ。
「何だ、バシラアサドを斬ろうってか?」
「……女の細首は裂くに容易い。だが、もっと容易いはずの掌すら裂けなかった」
 ぽつりぽつりと言葉を吐きながら、床板に突き刺した刀の柄を弄ぶ。その様は癲狂院の狂人の如く。殺し損ねた己を不甲斐なしと怒り、死ぬべきであったバシラアサドの生についても怒る。それが行き場を無くし、妙な事になっているのだろうか。
「あの……何の件で呼び出したんでしょうか?」
 少し奥まった所、座り込み煙草を咥えているレーナルツがじっとガウェスを見据えた。そして、間髪入れずに溜息を吐き、立ち上った煙が少しずつその色を、形を失っていく。
「ジャッバールが兵を退くそうだ。……分かるな?」
 兵を退く、という言葉にランバートは僅か目を見開き、参ったと言いたげに椅子へと腰を掛けた。ジャッバールとの交戦状態にならず、折角揃えた傭兵達に無駄金を払うだけではなく、彼等は職にあぶれたままクルツェスカに居残る事となるだろう。脳裏に過ぎるのは幼い頃から存在し続けた、西伐の残滓。狼藉を働くノヴェスク傭兵や、彼等の取り巻きの商人の姿だ。ジャッバールが去る事で、薄氷の様に保ち続けてきた均衡が再び崩れてしまう。彼等が来る以前の時代に逆戻りしてしまう。
「あいつ等、それが狙いだったのか?」
「違う。あいつ等の戦運びなんてどうでも良い。お前達の雇った傭兵をどうにかする必要がある」
「そんなもん、契約の打ち止めだって言えば退くだろ。時代が──」
「時代が違うってか? いいか、よく聞いとけ。傭兵ってのはどうしようもない木偶の集りだ。どんなに時間が経ったって、そこに戦場がなくなり、職を失ったならどんな狼藉だって働くってもんだ。傭兵から成り上がった俺達が言うんだ、間違いない」
 ただただ目を瞑り、思考する。彼等が根付くに相応しきは住人を失った貧民街。大多数を保ったまま戦場を失ったならば彼等が次に行うのは略奪や、同胞、既得権益との抗争しかない。青い目の獅子と争い、それを退けたなら彼等も手負いであり、クルツェスカの憲兵や、貴族等の私兵でもどうにかなっただろうが、現状ではそう簡単な話ではないだろう。
「……兵の雇用主はお前達だ。現状についての説明も、対処も全てお前達がやるべきだろう。俺等が動くのは奴等がクルツェスカに楯突いたその時だけだ」
「随分と冷たい話だな。此処を守る為に兵を集めろと言ったのはお前達じゃないか」
「だが、お前達はそう言われなければ立場があるというのに、この都を守ろうともしなかっただろう。ベケトフとは話が違う。今この場にお前達が居なければ、この都にただ住み着いているだけの"鼠"と同じだ。今から"鼠"になるってんなら、それはそれで構わないぞ。檻に放り込んで運河に沈めてやる」
 手伝おうか、と床板に突き立てていた剣を手に取り、カルヴィンは静かな足取りで扉の前に立ちはだかり退路を断つ。まさかナヴァロの屋敷の中で得物を向けられるとは思っていなかったのか、ランバートは勿論、ガウェスの手にも得物はない。
「……ボリーシェゴルノスクへと行かせませんか? ベケトフがジャッバールに対して蜂起したという体を作り……彼等をアゥルトゥラから叩き出しましょう」
 ガウェスの発言は中々に悪辣な物だった。クルツェスカの為、ボリーシェゴルノスクを生け贄の羊とすると言うのだ。この場にダーリヤが居たなら彼女は怒る事だろう。ジャッバールの残兵を徒に刺激し、彼の地を戦場とすると言っているのと同義だからだ。
「クルツェスカの火消しをするだけして、他所は焼いてしまおうってか?」
「……いいか、ランバート。西の防備の要はこのクルツェスカだ。此処が生きている限り、西部は権益を失う事はない」
 静かに語りだしたのはレーナルツである。彼の言葉はその通りであり、この都の戦略的な価値の高さ重々承知の上である。セノールとの最前線であり、北部国境での有事があった際も主たる反攻拠点として見過ごせない土地である。セルペツェスカも、コールヴェンもこのクルツェスカを支える為の衛星都市にしか過ぎない。国境に面していないボリーシェゴルノスクに戦略的な価値は一切ない。強いて言うなら運河を押さえ込まれるだけである。
「お前等、死んだら地獄に墜ちるぜ?」
「そんなものあってたまるか。いいか、地獄ってのは今生きてる此処の事を言うんだぜ」
 確かに彼の言う通りだろう。言い返す言葉もなく、目を瞑るとそこに凄惨な死に様を晒す者達が姿を現す。ある者は首を断たれ、身を剣で穿たれる。またある者は銃弾に身を裂かれ。そして、またある者は左腕だけで帰ってきた。はっと目を見開くと、その腕の主に並々ならぬ思いを持つ男が溜息を吐いていた。
「……廓にでも行けば良いだろうに」
 意味の分からないカルヴィンの発言に、拍子抜けした様にランバートは目を丸くするばかり。今この時分でそんな事をする意味が全く見えず、何よりも廓の主権は既にジャッバールの手中にある。
「お前は馬鹿だ。未来を見ていない」
 横目で見遣ると、ランバートをそう誹る。目先は愚か、今すら手探りで事を進め、宛ら闇の中を目を瞑って歩いている様な状況だというのに、未来を見る余裕などある訳がない。
「廓の兵と地上を分断する。それで奴等は北にも、西にも出られん。最低限の護衛しか手元に置けない程に兵力を分散しているからこそ、奴等は廓の掃討を終えなければ撤収出来んのさ」
「……しかし、あそこにはガリプが」
「セノールは敵だ、絶滅させねばならん蛮族に過ぎん。ガリプがなんだ」
 今になって恐れるのか、とガウェスを睨む。その目には妄執の類が宿り、彼の祖先であるセノールの血が垣間見える。しかし、恐らくカルヴィンの読みは間違いではないだろう。でなければジャリルファハドの律儀さに漬け込み、指揮官として彼を使う事もない。兵は勿論ながら、指揮を任せられる人材が足りないのだろう。
「あの、冷静に聞いてもらえますか」
「事と次第によるな」
 椅子に腰掛け、カルヴィンは再び床板へと剣を突き立てた。下手な事を言うと冷静を欠きかねている彼に斬り付けられそうだと思いながらも、重い口を開く。
「……我々ハイドナーとガリプは協力関係です。アースラがあの屋敷に来た直後、ジャリルファハドに会っています。彼は邪魔をしなければ、アゥルトゥラへ仇はなさないと言っているんです。……もし邪魔をしたら、彼等もジャッバールと行動を共にす──」
「だからなんだ、セノールは絶滅させねば──」
「あいつ等を絶滅させたって、世の中まともにならねぇよ。お前みたいに女恋しさに狂う様な馬鹿野郎が居る限りな」
 煽る様な発言にガウェスは固唾を呑む。口から飛び出した言葉が引っ込まないのは、レーナルツとて知っているだろう。よりによってカルヴィンの逆鱗に触れかねない事を口走った為、重苦しかった空気は更にその重さを増し、険悪な物となる。
「……とにかく、ボリーシェゴルノスクを奪還出来れば御の字。戦後処理はルフェンスと共に行えば良いでしょうし、我々はクルツェスカからジャッバールを叩き出すのを優先すべきでしょう? その為に我々の兵を差し向けます、それだけの話じゃないですか」
「俺は賛成です。あそこは民草も離散している。残ったベケトフに危害が加わる可能性こそありましょうが、スヴェトラーナが生きていればそれで良い。……あそこを主戦場とし、国境を押さえたならジャッバール……いえ、セノールが戻って来ても防ぐ事も可能でしょう」
 此処はクルツェスカですよ、と少し離れた所からエストールが語る。中の敵さえ叩き出してしまえば、爆破でもされない限りこの都が陥落する事はない。アースラの様に凍り付いた水路に潜り込み、侵入してくる者も居るが、戦時に於いては侵入口を塞ぐのは定石であり、そこに抜かりはないだろう。
「……いや、あの土地は捨て置け。俺達はジャッバールの戦力を地上と地下で分断し、セノールを掃討すべきだ。ボリーシェゴルノスクからクルツェスカまでは一日掛る。分断させしてしまえば、十分に奴等を討つ事も出来る」
 カルヴィンの主張はエストールと対照的で、その主張はやはり妄執を宿した物に思えた。しかし、戦後ボリーシェゴルノスクとの軋轢を避けるのなら、彼の発言もまた一理あり、何より今この場に居るダーリヤとの衝突が起こり得る。兵站の面からしても楽だろう。
「お前等、俺達の兵を好き勝手動かそうとするんじゃないぞ」
「戦争の"せ"の字も知らない坊ちゃんが何言ってんだ、まだガウェスの方がマシってもんだ」
 改めて軽んじられていると実感し、またそれが事実である事に溜息を吐いた、その時であった。静かに扉が開く。扉を開けたのはダーリヤだろうが、その傍らには脇腹を押さえたままのハイルヴィヒの姿がある。
「漸くお目覚めってか?」
 軽口が飛ぶも、誰もハイルヴィヒを労わる様な言葉を吐かなかった。労わった所で彼女の痛みを共有出来る訳でもない。傷が癒える訳でもない。傷を舐め合ったとしても仕方がない。
 ダーリヤの介助を振り払い、彼女はふらふらと歩む。宛ら墓場から蘇った死者の如く。やや気後れしたガウェスが差し出した椅子に腰掛けると、彼女はぽつりと口を開く。
「……どっちも出来ないのか」
 恐らくは扉の向こう側にも、彼等の声は聞こえていたのだろう。隣に居たダーリヤが何も言わず、黙って聞いている辺りボリーシェゴルノスクに兵を寄越し、そこを戦乱に晒すのも仕方がないと思っているのが明らかであった。つまり、呼び寄せたルフェンスは戦を構える気でいるのだろう。
「出来ない事はない、寧ろボリーシェゴルノスクにも派兵し、クルツェスカにも兵を残すのが最良とも言える。……体裁、大義って奴だな」
 兵站、兵数の面に於いても、レーナルツの語る"体裁、大義""という物も最良と言えるのが、両方への派兵だろう。エストールも、カルヴィンも小さく頷きながら、ランバートを見据える。兵を動かすのは彼の意思一つだ。しかし、拒否権はないだろう。カルヴィンは剣の柄に手を掛け、エストールは懐に手を突っ込んでいる。取り付く島も無さそうだと、ダーリヤを横目で見遣れば、彼女もまた剣の柄に手を掛けている。
「断ったらどうなるんだよ?」
「あぁ、そうだなぁ。どうなるんだろうなぁ」
 何処か他人事の様に言い放ち、レーナルツは笑っていた。答えなくても分かるだろう、と暗に語っている様で、得物に手を掛けている三人よりも何処か恐ろしげに見えた。あぁ、良いぜと二つ返事で応じると三人は得物から手を離し、ほぼ同時にハイルヴィヒが溜息を吐く。
「……で、お嬢様は何処に」
「さぁなぁ。死んでは居ないだろうさ。運河に浮いてるって話は聞かないからな」
 レーナルツの軽口に彼女は舌打ちをしながら、立ち上がり身に鞭を打つ。よたよたとしながらも立ち上がり、部屋を後にした。廊下の方からばたばたと物音がしている。
「……探しに行くのか?」
「その様ですね。……私には止められません」
「あぁ、分かった。ハイドナー、付いて来い。あの半死人だけで歩かせる訳にはいかん。得物を取れ」
 珍しく世話を焼こうとしているカルヴィンに疑問を持ちながらも、ガウェスは頷いた。ずかずかと歩み、外套を手に取っては彼は廊下へと出て行く。何処か気後れした様子ながらも、その背を追うガウェスがどうも彼の子分の様に見えて仕方がなかった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.247 )
日時: 2019/12/15 23:30
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 クルツェスカは相変わらず寒風が吹き荒び、ハイルヴィヒは目を細めた。
 街を歩き始めて既に四時間は経っただろうか、太陽は落ちかけ既に闇を醸す。七つ目の小路を抜け、大路へと至ったが矢張り足元の状態は余りよくなく、何度か滑り転びそうになると着いて来た二人に身体を支えられた。その都度、傷が疼き激痛が身を襲う。呻きを上げると着いて来た二人の反応は相対的だった。一人は無視をし、一人は気遣ってくる。
 この街は相変わらず騒々しく、闇が多い。だというのに何処かぎらぎらとした、妙な魅力──色気を放つ。空気は凍て付いているが、その色は咽返る様な熱量を放ち、ぼんやりと漂う。人を構成するのは三つの欲ではなく、そこに闘争を加えた四つの欲であるからに、恐らくそれ等は同じ色、同じ匂いをしているのだろう。甘美というには苦々しい、甘苦い腐りかけの果実だ。
 だからこそ、今この場に居ないスヴェトラーナの身を案じざる得なかった。誘惑は多く、乗ってしまっては最後。無垢を汚すなど容易い。謂わばこの都は悪魔の巣食う都なのだ。事と次第によってはその悪魔と相対するしかないというのに、瞼の裏に立ち尽くすあの"人虎"が歪んだ笑みを浮かべ、抱いた事のない恐怖という一念を呼び覚ます。あの砂漠の化身と相対しては、落命の一途を辿るしかないのが見えている。今此処になって命を惜しむ自分が愚かしく、浅はかにも思えた。
「あいつ等、刀見てみろ」
 後ろでカルヴィンがガウェスに耳打ちをしていた。大きく湾曲した刀。逃げ惑う兵を馬の上から斬り付け、離脱していく。サチの氏族、ラシードの武門に所属する者達の刀だ。先の戦争では脅威に成り得なかったが、先の先の戦争では大勢の民衆を切り裂き、徒に死者を増やした刀である。そんな者達まで入って来ているとなると、このクルツェスカも末期だとハイルヴィヒは思え、溜息を吐いた。
「……ガリプもこの辺りに居るかも知れませんね。ハイルヴィヒ、此方へ」
 外套の後ろ襟を掴まれ、小路へと促された。この小路は秋初め頃、大勢の貧民が死亡した場所である。住民を失った事から恐らくはセノールが勝手に占拠し、根城にしているのだろう。同じ空の色、同じ気温をしているというのに、此処だけ空気が重苦しく、砂漠の化身がそこに居る様な錯覚に陥った。
「お出迎え、か」
 小路へ一歩踏み入れただけだというのに、そこに漂うのは全くの異国。クルツェスカであるというのに、此処は砂漠の様にも思えた。宛らカシールヴェナか。だからなのか、小路の両側から何事かと、視線を投げ掛ける者達はセノールしか居らず、背を追った者がゆっくりと振り向き、腰の得物に手を掛けた。
「何の用だ。……我々ラシードに仇を成すというのなら丁重に持成そう」
 眼前の男が刀を抜き放つ。抑揚がなく、音節の小さなセノール訛りが不気味にも思えた。大きく湾曲した刀は太陽の光を浴びていないというのに、ぎらぎらと艶かしさすら感じる程に輝く。先の戦争にて、多くの血を吸った刀はその殆どが打ち直されたと聞く。血は注がれたというのに、吸った魂の輝きを放っているかの如く。砂漠の化身、その狂気がそこにはあった。
「……此方にガリプやハサンの兵は来てませんか?」
「何故それをお前達に語る必要がある」
「人を探しています。……金髪、青い目。女のアゥルトゥラなんですが」
 金髪、青い目という二つの言葉を聞いた途端、彼は建物の影へと目配せをした。そこからは小銃を携えた兵が潜んでおり、彼はそそくさと向かい側への建物へと走り込んだ。ほぼ、同時に彼は刀を収める。
「スヴェトラーナ・ユスチノヴナ・ベケトヴァ。確かに身柄は我々と共にあり、我々と共に行動をしている。……今になって迎えに来たのか?」
「……何故、お前達セノールと」
 口を衝いて出た疑問に、彼は表情を変える事もなく、小さく溜息を吐いた。言わなければ。問うて答えを得られなければ分からないのか、と笑みなくして嘲笑されたかの様な気分に害され、ハイルヴィヒは彼を睨む。
「セノールに組し、あの娘が我々アゥルトゥラを害すというのならその首を貰い受ける他ない。……どうなんだ?」
 切っ先を向けながら問うカルヴィンに、彼は怪訝な表情を浮かべ、また再び刀の柄に手を伸ばした。そして、じっと頭上を見遣るなりすぐに視線を下ろし、溜息を吐いた。噤まれていた口がゆっくりと開く。
「……ただ一つ。ある男を殺したい、その為に我々と共に動いている。……見上げたもんさ、しっかり人を恨んで、しっかりそれを晴らそうとしている。彼女はアゥルトゥラと敵対したい訳ではない」
「それはお前達が誑かしたんじゃないのか」
「酷い訛りだな、クィーフスか?」
「……答えろ」
 そうハイルヴィヒは眼前のセノールへと迫っていく。丸腰の女に何をされる訳でもない、また何かをする気もない。彼女を止めようと歩もうとした、ガウェスはカルヴィンに捕まり、阻まれる。振り向けば彼は首を横に振り、鼻で笑っていた。放っておけと。
「まさか。それは彼女の意思だ。我々の思惑などある訳ないだろう?」
 思惑、という言葉にハイルヴィヒはじっとその男を睨む。果たして彼の言葉は真実なのか、という疑念が過ぎり、猜疑を抱いた。
「……本当か、それは」
「あぁ。なんでも従者の仇討ちだそうだ。仕え甲斐のある娘だろうと思うがな。まぁ、だからこそ、我々と同じ道を歩む」
 彼女は目を見開き、小さく、ただただ小さく頷くばかりだった。死んだと思われてしまったのか。それとも怒りに汚されてしまったのか。セノールと同じ道、それは即ち復讐である。甘美で、酷く暴力的なドス黒い感情を彼女が覚えてしまったと思えば、脇腹の傷と同じ様に胸の辺りが痛みを覚えた。
「待て。一つ、お前達に問う必要がある!!」
 再び切っ先をセノールの男へと向け、カルヴィンが吼えた。曇天の下、晒された刀を見遣るなり、セノールの男も刀の柄に手を掛け、物陰に隠れていた同胞へと合図をする。切っ先と相対する様にして、銃口が二人へと向き直った。
「お前達は何の為に此処に居る! 何故このクルツェスカに入ってきた!!」
「そんな事も知らないのか。我々はジャッバールを叩く為、アゥルトゥラとの戦争を避ける為に此処に居る。アースラが遣いとして行っただろうに。馬鹿か?」
「口先ならどうとでも言えるだろう! 俺はお前達を信用は出来ん。人を斬るに、撃つに躊躇いなどなく、殺を嗜む!」
「事実だな。だが、信用しないってならどうするんだ。一方的に俺達に斬りかかるか? そいつは頂けない。戦争だ」
 両者の語気は荒く、抑揚のないセノール訛りが消え失せる。饒舌にカルヴィンを煽り、やってみろと両手を掲げながら歩み寄ってくる。自ら切っ先へと近付き、遂にはそれへと五分の間すらなく迫る。
「信用ならないってんなら斬れよ。なぁ。"ご同胞"」
 煽りに煽り、カルヴィンの怒りが頂点へと達した瞬間であった。両者の間に三人が飛び込んでくる。その一人はガウェスであり、彼の形相は必死であった。激昂したカルヴィンに斬られたとて、今此処で軋轢を生み、ガリプとの協力関係を反故にすべきではないと身を挺したのだ。そして、残る二人はセノールの男を羽交い絞めにしていた。
「ハイドナー、何をしに此処に来た」
 聞き慣れた低く唸る様な声、その主たるは"偉大なる彪"である。一週間ほどぶりだが、随分と久しく見た気がし、ガウェスは静かに笑いながら溜息を吐いた。
「今はアゥルトゥラと戦うな。煽るな。全く。馬鹿はお前だ」
 セノールの男を羽交い絞めにしていたのは、ジャリルファハドより幾分背の高いセノール。彼もまた大きく湾曲した刀を腰に差す。羽交い絞めにされた途端、彼は大人しくなり、彼もまた引き攣った笑みを浮かべている。
「……マティーン、俺等は戦う気がないってのに信用されてないんだ。酷い話だと思わないか?」
「仕方ない話だ。さぁ、お前は戻れ」
 解放され、背を押されるとそのセノールの男は、何処か都合悪そうにして建物の中へと入っていった。その折、彼はハイルヴィヒの背を叩き、中に入れと促す。先程までの緊張した面持ちは何処へやら。すっかりそれは消え失せていた。
「で、我々が信用ならないとは随分な言い草だ」
「……知っているぞ。お前達が戦しか知らず、殺を嗜み、人を謀る。そんな民族だって事をな」
「その血を引いている癖によくもまぁ、そんな事を言えたものだ。ハイドナー、とか言ったか? アゥルトゥラは皆そうなのか?」
 マティーンの問いに少しだけ吃りながらも、否定の意を伝えると彼は静かに頷いて見せ、離してやれと呟く様に言い放った。それとほぼ同時にジャリルファハドが刀を抜き、何かあっても良い様にと備える。
「余り感情的になるな。我々は我々の戦運びを阻害されない限り、お前達と敵対する心算はない」
 じっとカルヴィンを睨む様にして見据え、マティーンは含みのある笑みを浮かべた。そこに悪意の類はなく、セノールらしからぬ物でガウェスは息を呑む。久しく人間らしい笑みを見た、と何故か安心を覚えた。
「……得物を収めろ、これでは話合いも出来た物ではない」
「いいや、そっちからだ。俺が納めた所、斬りかかられたら堪ったもんじゃない。なぁ、ガリプ」
 はぁ、と溜息を吐きながらジャリルファハドは刀を鞘へと収める。随分と信用されていない、と肩を竦めながら踵を返した。マティーンの肩を拳で軽く小突き、彼は建物の中へと入っていった。何故か、彼が入っていくとがやがやと一気に喧騒が沸き起こる。何が起きているのか、とガウェスは困惑しながら、その背を視線で追った。
「さぁ、収めろ。そしたら入って来い。丁度良い、少し話がある」
 無防備にも踵を返し、マティーンも建物の中へと入っていった。完全にアゥルトゥラに対する敵意はない。恐らくは害意の欠片すら持ち合わせていない。諦め、観念したかの様にカルヴィンは刀を鞘へと収めると、ガウェスの背を叩いた。
「悪いな」
「いえ、もう慣れました」
「そうか、そいつは結構だ」
 共に歩む同胞はセノールへの猜疑心、敵意、そして復讐に囚われているのだろう。メイ・リエリスの娘達は知西派と呼ばれる者達であるからに、彼もまたセノールをよく知っているはずなのだ。だというのに、その知識を噛み殺し荒れ狂う。それ程までにキラという存在が大きかったのだろう、と思えば何処か気の毒でもあった。
 静かに二人は歩む。吹き荒ぶ寒風に怯み、ガウェスは目を瞑るとそこにイザベラの姿が過ぎるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.248 )
日時: 2020/01/06 00:04
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 扉を押し開けば、そこは砂漠の化身が群れを成していた。彼等は一様にじっと視線を投げ掛け、ある者は得物に手を掛ける。呼応する様にしてカルヴィンが得物に手を掛けるが、抜く様な事はなく目を瞑りながら溜息を吐いていた。
 彼等は恐らく得物の手入れをしていたのだろう。丁子油の容器とそれを拭き取る為の大麻の繊維で作られた布が散在している。嗅ぎ慣れない丁子油の匂いは鼻をつんと突き刺す。刀から長槍。小銃の金属部、一部の騎兵が使うであろう胸甲は磨き上げられていた。
「珍しいか?」
「いえ……我々も似た様な物ですから」
 ガウェスの隣で歩む、ジャリルファハドは相変わらずの仏頂面で問い掛ける。ただの雑談なのだろうが、その表情からどうにも"他意"を感じてしまい、相変わらずガウェスは言い淀む。その様子がおかしかったのか鼻で笑いながら、ガウェスの得物へと手を掛け、それを引き抜いた。
「自分達ではしなかっただろう?」
 じっと刀身を見つめ、僅かな刃毀れ、錆びの類を目敏く見つけては指先でなぞる。得物は使っている内に草臥れ、何れは壊れてしまう。長く使えば手に馴染み、宛ら自分の手足と同じ様に使える。だからこそ、彼等は得物を自分達で手入れするのだ。勿論、人的資源をそこまで裂けないという、セノールの事情があるのだろうが、確かにジャリルファハドの問い通り、あまり自分で自分の得物を手入れした事はない。少し痛み、本来の性能が発揮出来なくなってしまえば、打ち捨て次の物へと鞍替えしていた。
「そうですね、あまりした経験はないです。……痛めば変えていましたから」
「……傷を負ったとて手入れをしてやれば幾らでも使える。何時か使える様になる」
「……何を言いたいんですか?」
「人も同じだと」
 セノールは嘗てのアゥルトゥラを人馬一体の徒として恐れた。それは人馬問わず、寝食を共にし、彼等の面倒をよく見ては常に全力を発揮出来たからである。そこに馬と得物の差はない。従って人と得物の差もない。
「……あの男は何処か仄暗い。人として"手入れ"を怠っている。気を付けろ」
 数歩後ろを歩む、カルヴィンの事を言っているのだろう。その通りだと、苦笑していると椅子に腰掛けているハイルヴィヒの姿が見えた。恐らくはスヴェトラーナを待っているのだろう、現に彼女を呼びに行ったマティーンの姿は全く見えない。何処か彼女の居心地が悪そうに見える。
「……スヴェトラーナはどう過ごしていましたか?」
「さぁ。俺が此処に呼び出されたのは初めてだ。そんな奴の事は知らん」
「そうでしたか。……今、そちらはどんな感じで?」
「明後日から廓に入る。そして、化物共を討つ」
 戦支度は整え終えたのだろう。寡兵ながら体制を整え終えたのだから、その兵の一団は強兵であると察するに容易い。そして、今この場に居るラシードや、ガリプの兵。彼等に手を出せば、事はただではすまないと改めて実感するとガウェスは眩暈を覚えざる得なかった。事次第によっては彼等は全てが敵と成り得る。敵となったならばただただ恐ろしい存在と成るだろう。つまり、先のカルヴィンの行動は分水嶺を越え掛けた、危険な行いだったのだ。
「化物を討ってどうするんだ、その後は俺達か?」
「さぁな。俺はある者を救ってもらった恩を返すだけの事。そこから先に何をしょうとも知った事ではない。俺達はただアサドを止めるだけだ」
 ガウェスから聞き及んだ内容と同じ答えに、カルヴィンは鼻で笑いながら胸の前に腕を組む。それはジャリルファハドの発言を受け入れ難いという、拒絶の思いの現われであったが、バッヒアナミルを始めとするジャッバールの将兵達の発言に対する反応よりも幾分、穏やかにも思えた。
「……お前がソーニアを守ってきたのは知っている。しかし、お前は所詮セノールだ。信用ならん」
「構わんさ、行動で示すだけだ」
 仕方のない話だと、ジャリルファハドは何処か諦観している様だった。過去を遡れば、その時間、時代の奔流は必ずや流血が存在している。互いが互いを否定し合い、殺し合い、只管に命の遣り取りをしてきたのだ。今この時分、セノールを信用出来るというアゥルトゥラの方が珍しいだろう。
 階上へと至り、押し開かれた扉の向こうには誰も居ない。恐らくはマティーンが居室として使っている部屋だろう。壁には数々の得物が立て掛けられ、武門の第二勢力であるラシードの長らしい物だった。しかし、机の上には口の開いた酒瓶。酒を好まないはずのセノールらしからない物がそこにある。
「……マティーンは世俗的なだけだ。あまり気にするな、まぁ座れ」
 ガウェスやカルヴィンの視線は明らかにその酒瓶に注がれていた。彼を庇い立てる様な発言をしては、酒瓶を掠め取り、ジャリルファハドはそれを窓から外へと投げ出す。
「それにしても随分と鼻が利くな?」
「スヴェトラーナを探してまして。虱潰しに彼方此方歩き回ったんですよ」
「下手な鉄砲を数撃った結果か。……まぁ良い」
 他愛も無い話をしながら、ガウェスは椅子へと腰掛ける。カルヴィンは出入り口に立ち、じっとジャリルファハドを睨んでいたが、別に気にした様子もなく彼はガウェス同様に椅子へと腰掛け、懐から煙草を取り出した。
「先も言ったが明後日から廓へと入り、化物共の掃討を行うのだが、時間を引っ張りに引っ張るつもりだ。その間、お前達は体勢を万全に整えてくれ」
 そう言いながら、彼は煙草を咥えた。吸い、吐くという一連の動作を終えるなり大きく溜息を吐く。灰色の瞳がじっとガウェスを見据え、何処か居心地の悪さを感じながらも、視線の先の彼は苦笑いを浮かべた。
「それが……ジャッバールが兵を退くと」
「当たり前だが偽装退却だろう。"偽り逃ぐるに従う勿れ"だ。……乗ったフリをするか、乗らずに体制を整えるのはお前次第だがな」
「……実は兵を二分する算段をしています。ボリーシェゴルノスク解放とクルツェスカ防備を同時並行で行おうと──」
「止めておけ。それよりも防備と妨害に専念すべきだ。野戦は我々に分がある。市街ならば五分とも言えるだろう」
 判断を誤るな、とジャリルファハドは語る。確かに彼の言う通りだろう。野戦に持ち込まれる様な事があれば、気付かぬ内に背後を奪われ、包囲される事だろう。例え包囲が薄くとも、兵站を切られた状況が続けば蜘蛛の子を散らした様に傭兵達が離散、落伍するのは目に見えている。何より日中、攻撃を行うとは考え難い。何よりボリーシェゴルノスクに至る直前、必ず通行しなければならない峠で襲撃を受けたならば、二度とクルツェスカの土を踏む事は愚か、ボリーシェゴルノスクに辿り着く事もないだろう。納得した様にガウェスは小さく頷いて見せると、ジャリルファハドも何故か相槌を打って見せた。
「随分と親身に話に乗るな? セノール。お前達は同胞まで売るのか?」
「同胞を売る、か。それはないな。斬らざる得なければ斬るだろうが、俺にその度胸はない。そこまで外道でもない」
「なら、何故俺達に組する。コイツを生かした時みたいに気紛れで遊んでるんだろう?」
「まさか。同胞を売る為ではない。ましてや遊びですらない。……同胞を救うべく今、我々は血を流そうとしている。理解出来ないか」
 鼻で嗤い、カルヴィンはその言葉を唾棄すべきだと内心毒吐く。同胞を救う為、不倶戴天の敵であろうアゥルトゥラと手を組む。ただの悪手でしかなく、妄を患い、狂ってしまったとしか考えられないのだ。その上、ガウェスから聞き及ぶにアゥルトゥラ側の旗色が悪くなったら、ジャッバールへと合流するというのだから尚更、信頼に至らない。この場で斬ってしまおうか、という考えが脳裏を過ぎる。しかし、その前に問うべき事があるのをふと思い出し、口を開く。
「……ソーニアに傷を負わせたりしていないだろうな」
「まさか。廓で勝手に落ちて怪我こそしたが、命に関わる事はない。……彼女には世話になった。利害の一致で動いているだけだが、今や最も信用出来るアゥルトゥラというべきだろう」
「そうか。……アイツに傷を負わせたらタダでは済まさんぞ。素首叩き落して、殺してやる」
 物騒な事を口走るカルヴィンであったが、その言葉からガウェスは彼がメイ・リエリスの懐刀であり、盾である事を思い出す。フェベスに仕え、その娘であるキラは勿論、ソーニアとて代が替われば、そういった関係となる。本来ならば今の時点で、ソーニアの身柄を守るのはカルヴィンであるべきだ。彼女が父の庇護を嫌ったというのもあるだろうが、傍目に歪な関係性が見て取れ、言い得がたい思いが去来する。
「彼女は"西"を知っている。俺達すら知り得ない事を知識として持ち合わせている。……そんな者を傷付ける輩は居ない」
「バッヒアナミルが居るだろう。俺も、コイツも、さっきの女もアレに手酷くやられた。ソーニアとて斬りかねん」
 バッヒアナミルの名を聞いた途端、ジャリルファハドは瞳を閉じ、大きく溜息を吐いた。そして、額を抑えている。彼すらも頭を悩ませる程、バッヒアナミルという存在は厄介な代物なのだろうか、と思えばガウェスは心底気が重く、彼と再度、相対した時、生還出来る気がしなった。
「残念ながら今の武門にはアレを倒しうる者は居ない。俺が束になっても無理だ。……ともすれば首を差し出す事となるやも知れんな」
 頭を抱えたまま、そう言い放ちジャリルファハドは自嘲する。そして、声なくして口が動くき"仕方ない"と諦念を吐露した。しかし、その諦念は自身の首を諦めた訳ではなく、バッヒアナミルを殺害せざる得ないという物であり、彼は刀の柄に手を掛けて、それを突然引き抜いて見せた。
「……こんな刀を持っていたか?」
「いいや、もっと長い。もっと幅が広い」
 恐らく彼が携えている刀は先々代のナッサル当主、レヴィナの物である。死者のそれを持ち出すという事は、既に彼は死した者と共にあるという事であり、それはバシラアサドへの思慕、忠誠は極まり、命を擲つ覚悟すら決めているという事であった。どうしてこんな事になった、とジャリルファハドは頭を抱え、面持ちを歪める。その原因となった彼女の実父を憎しと思えば、あの男が元凶で歪んでしまった二人がどうにも居た堪れず、引き抜いた刀の切っ先を逃避するかの様に見据えて、再び溜息を吐いた。
「……抜かれた刀は鞘に戻る事もないだろう。圧し折ってやってくれ」
 鼻で嗤いながら、人斬りは刀の柄に手を掛ける。彼もまた深呼吸をしながら、瞳を閉じた。向き合ったならば命を賭す事となるだろう、一人でも多くのセノールを殺めなければならない筈が、彼と向き合ってしまったなら最早それすら侭成らない。しかし、あの虎を、砂漠の化身を殺められるのならそれは願ったり叶ったりだ。
「血は通ってなけりゃ、涙すらないってか? 同胞を殺せだなんてな。所詮は獣だ」
「ただの獣が情に振り回される物か。俺は自分の情よりも民族を優先する、血を優先する。ただの人間と一緒にするな」
 獣は静かに吼え、人斬りは口を噤む。情に振り回されている己を愚かだ、と揶揄され、本心を見透かされているかの様な不快感を覚えた。理解はしているのだ。キラの事など忘れるべきだ、と。死んだ人間の呪縛に苦しむな、と。それを大義名分に絡め、正当化するべきではない、と。だからこそ、今の発言がただただ不快でカルヴィンは突然立ち上がる。
「……帰る。ハイドナー、お前はあいつと帰って来い」
 気後れしながら頷くガウェスを余所に、彼は部屋を後にした。ジャリルファハドの視線に苦笑いをしながら、取り繕うと彼もまた疲れたと言いたげに目を瞑って、首を傾げた。
「奴が何かに縛り付けられているのは勝手だが、お前も振り回されて面倒な事になっているな」
「もう──」
「慣れました、か。……道を間違うなよ。俺達が言えた話ではないがな。……アレは矢張り俺達とは違う」
「えぇ。ただただ──暗い」
 一歩間違えばあの様な事になっていたのだろうか。イザベラを失った時の怒り、怨嗟は未だ晴れず、燻っているのは否定出来ない。だが、彼の様に復讐に狂う事はなかった。狂う暇すらなかったというべきなのだろうが、それでも尚、彼の執着は異質、異常であると言えよう。キラの死から既に四年は経とうとしているというのに、彼はその呪いに縛り付けられているのだ。
「あの男は帰ってしまったが、お前達に一つ言うべき事がある。……幾らか此方に兵を寄越せ」
「廓にですか?」
「あぁ、そうだ。我々が去った後も廓には学者が入るだろう? 顔を売っておけ、名も一緒にな」
 カルヴィンとは方向が違うが、どうにも同じ様な事を言うのが、少しだけおかしくガウェスは小さく笑う。人斬りは戦局の未来を見据え、彪は更に未来を見据えていた。彼等の差は性根だろうか。何れにせよ、そんな拙い話を頷く事は出来ないだろう。
「そんな先の事、分からないじゃないですか。何より表向きは死んでいる身ですよ?」
「だとしてもだ。既にナミルと斬り合っている以上、生存を察している事だろう。恐らくは俺も泳がされているだけだ、ならば徹底的に泳ぐべきだ。共犯たるお前もな。そして、お前は今この戦で死ぬ事よりも生きる事を考え、先を見据えて動くべきだ」
 ジャリルファハドという本質が垣間見えた気がした。傷を負えど、立ち止まらず。悩めど、矢張り立ち止まらず。そして、それを周囲にも強い、巻き込んでいく。傍迷惑な人間であったが、自身と異なる性根に何処か感心を覚えざる得なかった。
「……最近、色々な事がありました。本当にこの辺りは強引な人間が多い限りです」
「そうでなければ武門の"兵"を率いては居られん。そうあるのが我々の様な者達の宿命だ。時機を見定め、力を、武威を示す。……で、どうするんだ」
 今、此処で未来を見定めなくては、また同じ轍を踏む事だろう。父と同じ様な道を辿るべきではなく、これから先、再び同じ過ちを犯す事は許されない。だからこそ、未来を見定めた選択をすべきなのではないだろうか、と思えるのだ。目の前の障害を押し退ける、砂漠の化身であり復讐者。その力を借りるべきではないか、と思えるのだ。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.249 )
日時: 2020/01/13 23:45
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 怒りと不信感ばかりが胸中を去来し、怨嗟の炎が立ち上る。何故、どうしてあのセノールが信用出来ようか、と疑念ばかりが過ぎる。もしやハイドナーは内通しているのではないか、その実ベケトフはジャッバールに魂を売ったか、と。それは最早、妄想とも言えるだろう。しかし、その妄想は声を得て、頭の中を木霊する。
 この人斬りの男からしてみれば、全てのセノールは敵であり、地上より"一匹"残らず討ち破るべき者達なのだ。人の形をしただけの冷血な獣に存在意義はない。殺めに殺め、駆けに駆け、他者を歪める。存在すら許されない者達なのだ。それを何故、アゥルトゥラの血を引き、あまつさえ貴族がそれを許容するというのか。怒り、猛り狂っているのは自分だけか、という錯覚すら覚える。腹の中、燃え盛る怨嗟は留まる事を知らず、拳は握り締められ、短く切り揃えたはずの爪が掌へと食い込んでいく。拳の中に厭にぬるりとした感触を覚え、開いた掌は真っ赤に染まっていた。傷が開き、滔々と湧き出す血液の一滴が足元の雪を汚す。
 しかし、その赤は見ていると何故か、落ち着きを齎してくれる。溜息を一つ吐き、溜飲を下げるべく降り積もった新雪を手に取ると、それを自身の顔へと押し付けた。されどたかが雪でしかない。燃え上がった怒り、赤熱した怨嗟は熱を失う事はなく、面持ちが険しいままに帰路を歩む。
 陽は既に沈みかけており、クルツェスカの街は薄暗闇に染まる。ナヴァロの屋敷へ至る早道は、嘗ての色街と貧民街を抜けるのが最適解だ。そこは既に人の往来がないからこそ、道は整っておらず、街を飲み込む薄暗闇よりも深い闇を歩む必要があった。その闇は何故か心地よく、海の底を歩んでいるかのよう。ざりざりと氷雪を踏み砕き、歩み続け色街と貧民街の狭間へと至った頃、ふと廃屋から視線を感じた。得物に手を掛け、その方向を睨めど姿は見えず、遂に得物を抜き放つ。
「……何者だ」
 得物は薄闇に存在を主張する事もなく、ただそこに漫然とあり続ける。アゥルトゥラであれば迂闊に斬る事は出来ず、セノールと確信出来なければ、それもまた然り。己の神経が過敏に成り過ぎている線も払拭出来ず、厭な緊張感が辺りを漂う。もう一つの得物として、拳銃こそ持ち合わせているが、弾数も少ない。
 抜き放ったそれが月の光を受け、ぼんやりと輝いた時、彼は切っ先を向けたまま歩み出す。その刹那であった。暗闇から赤い瞳が浮き上がり、"それ"は闇より姿を現した。
 白く、垂れ下がった肌は水死体を彷彿させ、窪んだ瞳はただただ赤い。半開きの口からは牙が顔を覗かせ、細い身体には不釣合いな程に巨大な手指、その先端には鋭利な爪が見える。それを化物と言わずして何と言うべきか。明らかに人ではない、その異形はゆっくりと歩み出した。呻き声を上げながら、緩慢な動きでカルヴィンへと迫る。しかし、彼はその姿に恐怖を覚える事はなく、ただただ激しい憎悪が湧き上がる。池沼に沸き立つ、泥の泡の様に沸々と。そうか、これがキラを殺めた怪物か、と自覚こそせど、何故それが──レゥノーラが地上に居るのか、疑問を覚える暇すらなく、剣をその顔面へと叩き込んだ。赤く、棲んだ体液が滴り、すぐに凝固しては、はらはらと乱れ落ちる。まだ浅いとその切っ先を顔面へと突き立て、柄まで貫けばそれは事切れた様に立ち尽くし、赤い瞳は光を失っていった。
 剣を引き抜き、その胴を蹴り込めば、化物は天を仰ぎ斃れ込む。その命を、その死を弄ぶ様に頭を何度も踏み付け、形の崩れた顔に刃を突き立てる。深くまで刃が至る度、びくりと手足を震わせるも能動的に身動く様子もなく、人間と同じ様に神経に至った刃に反応しているだけに過ぎない。意図も容易く死したそれに一抹の疑問こそ抱けど、眼前の死を実感し、剣を鞘へと収めた。
 レゥノーラから流れ出た体液はすっかり結晶化していて、それはカルウェノの錬金術師達が"賢者の石"と呼び、重宝する物によく似ている。彼が殺めた化物の周囲には多く散らばっていたが、どうにもそれは闇の中へと点々と繋がっていて、それがその闇から訪れたという事が見て取れる。結晶を踏み砕き、化生の屍を跨ぎ、彼は闇へと入った。
 穴の空いた床板は一層深く、暗い闇を醸すが顔を覗かせた途端、そこには相反す様な白が差すのだった。それは脈を打ち、宛ら胎動の如く蠢くのだ。見てはならない物を見てしまったかの様で、禁忌を侵したかの様な得も知れない思いが去来しては、背筋を冷たい物が伝う。すっかりセノールに対する怨嗟も、怒りも鳴りを潜め、何故こんな物がという疑問ばかりが脳裏を過ぎるのだ。そして、その疑問はすっかり恐怖へと変わって行く。あの"人虎"や化物と対峙しても抱かず、久しく忘れていた、恐怖という根源的な感情が沸き立った。
 何かが耳元で語るのだ。"こっちに来い"と。"早く立ち去れ"と。ある時は男の声で。ある時は女の声で。恐怖のせいか。廓の深層でなければ有り得ない、幻聴すらし始め、早く立ち去るべきだと心臓が早鐘と警鐘を鳴らす。だというのに、足は主の命に反して動こうとしない。ふと、背に感じる気配に息を呑む。ぱき、ぱきと結晶を踏み砕き、確実に一歩、また一歩と近付いてくるのだ。一定のリズムを保ったまま、ゆっくりとした足取りで。
「──」
 遂に背中にまで辿り着いたのだろう。つうと指先が背をなぞり、カルヴィンは息を呑んだ。背後の存在は何がおかしいのか、声を押し殺しながらくつくつと笑い、拳で背を小突き始めた。それは少しずつ力を増していく。その過程で何故か、右の拳だけで小突いてくる事に気が付いた時、漸く身体が動き、背後の存在を視界に収めた。
 それは女だった。暗闇の中だというのに、湛えた笑みははっきりと見える。しかし、人というには彼方此方が欠け、血に塗れている。咄嗟に目を瞑ろうとするも、瞑る事すら許されず、彼女の様相が見て取れるのだった。
 赤い髪、肌は白く、瞳は深緑を醸す。意地の悪そうな笑みを浮かべ、ひん曲がった足を庇う様に立つ。そして、亡霊には左腕がなく、それが"彼女"だという事は簡単に理解出来た。その亡霊は一人の女への執着に狂った、惨めな男を笑いに来たかの様で、背伸びをしながら残った右手で額を小突くとその姿が薄れゆく。
 何処に行った、何処に居ると問えども声は出なかったが、血に塗れた笑みを湛えたまま、彼女は地面を指差す。暗い、ただただ暗い闇の中、その屍はあると声なくして語るのだ。彼女へ手を伸ばすも、それは空を切り、触れる事すら許されない。遂に彼女が消えた時、どっと冷たい汗が額を伝い、赤い結晶へと滴る。目を見開いたまま、彼女の遺した指輪に触れ、大きく深呼吸をすると彼は廃屋から飛び出す様に駆け出すのだった。



 地図を卓上に広げ、それを睨むのはフェベスとシューミットの親子だった。ジャッバールの布陣を予測し、彼等の行動を阻害すべく陣を敷く。その為の軍議を行っているのだった。その場に主力たるナヴァロや、増援として訪れたダーリヤの姿はない。彼等は各々の兵を一箇所に集結させるべく、出払っている。
「……加農砲がもう少しあれば、叩き出すのも簡単なんだがなぁ。残念ながら此処は"西"だ」
「東は"大砲屋"が多いんだろう?」
「そりゃ最前線だからな。俺の教え子だらけさ」
 砲兵の神様などと持て囃される男が居ながら、野砲が不足しているというクルツェスカの体たらくにフェベスは思わず、溜息を吐く。半世紀も戦争をしてなければ、最前線といえど此処まで零落れる。嘗ての貴族、その英霊たちが草葉の陰で泣いているに違いない。
「セルペツェスカの錬兵所みたいなもんが、此処にもあればなぁ」
「無いものは無いんです。愚痴零す暇があったら、少し考えて下さいよ」
 そうエストールが捲くし立て、彼の二倍も歳を取った大人達が困り顔で頷いた。砲さえあれば話は違う。おかしな動きを見せたジャッバールの屋敷へ飽和攻撃を仕掛けるだけで解決するが、そうも行かないからこそ市街戦をする事となる。そして、クルツェスカの兵が寄せ集めであるからこそ、配置に苦慮しているのだ。
「西には我々シューミットとカランツェンを、南にはハイドナーの手勢を。東にはベケトフです。北門の外にはナヴァロって具合なんですけど、本当に良いんですよね?」
「数が物を言うだろう?」
「……ジャッバールがハイドナーを食い破る可能性だってあるんですよ?」
 彼等をどちらの方角に置けど、錬度に劣る傭兵達は敗れかねない。南北に置けば南に抜け、西に置けば砂漠へと離脱され、東に置けば市街戦は泥沼の様相を呈する事だろう。エストールの青白い面持ちが、そうなったらどうするんだ、と声なくして問う。歳若いながらもレーナルツが居なければ、軍議の中心となる彼に余計な心労を与えるべきではないのだが、そうともいかずフェベスやアドルフェスは再び困り顔を浮かべていた。
「第一、父上。貴方も前線で指揮こそ執れるんでしょうけれど、大きな戦を見通す目がないのはどういう事なんですか!!」
「俺は下っ端からの叩き上げだぞ? しかも、砲兵だ。弾道の計算こそ幾らだってやってやるが、戦場全体を見る目なんてある訳が──」
 親子がフェベスを挟んで吼え始めた、その時であった。乱暴に扉が押し開かれ、カルヴィンが息を乱して三人を睨む。何事だろうか、と彼が三人の視線を奪うのは当然であり、またただ事ではないと察するに容易かった。
「フェベス!」
「吼えるな、何事だ?」
 軍議の行われていた机へとカルヴィンは詰め寄り、叩き付ける様に両手を付く。地図に血が滲み、赤い結晶がはらりと落ちて行く。それをエストールが拾い上げ、じぃっと見つめていると、引っ手繰る様にカルヴィンに奪われ、そのままフェベスの眼前へと突きつけられた。
「……レゥノーラ。レゥノーラだ!! 地上に奴等が居る!」
 人斬りが吼えると鉄面は、眼球が瞼の外へ飛び出そうになる程、大きく見開いては慌てた様子で立ち上がった。相対的に廓へ一切の関与もない者達である、シューミットの親子は呆然とし、事の重大さが分からずただただ、座り呆けていた。
「カルヴィン、戻って来てすぐで悪いがナヴァロを呼び戻せ。俺はハイドナーの小坊主共を叩き起こす。……アドルフェス、お前達もすぐにベケトフを呼び戻すんだ」
「待て、待て。レゥノーラって、あのレゥノーラか? 何で地上に……」
「知るか。知る訳が無いだろう!! 良いからさっさと奴等を呼びに行け!!」
 珍しく吼え、猛るフェベスに旧来の仲であったアドルフェスは言い様のない不安を覚え、小さく頷いた。目を瞑れば黒色火薬の燃え、煤けた匂いが漂う錯覚を覚え、戦場がすぐ傍にあるという実感を感じる。未だに事態を飲み込めないエストールの後ろ襟を引き、彼はすぐに踵を返した。
「街の具合は。……ハイドナーは」
「街ではまだ何も起きていない。……ガウェスは恐らくベケトフの娘共と……一緒だ」
 娘共とセノールと言い掛けたが、彼はそこに私情を挟み、言葉を濁す。それが許されない事であったとしても、再びセノールに対する恨みが沸き上がり、彼等との交戦、そして絶滅を望む思いが出てしまった。例え友軍となる彼等であったとしても、武門である事に変わりはなく、敵性民族である。
「……そうか、分かった。兎に角急いでくれ」
「あぁ。……ソーニアは?」
「知らん、あいつも大人だ。どうにでも出来るだろう」
 その言葉に人斬りは顔を顰め、そんな事だからキラを死なせてしまうのだと、苦言を吐き掛けた。何故、身内を慮り、立場を使って守ろうとしないのだ、と。辛うじてそれを飲み込み、怒りを鎮めた頃、フェベスは既に部屋を後にしようとしていた。この男が、全ての元凶なのではないか、そう思えて仕方がなく、あの場から付いてきた悪魔が"そうだ"と囁く。女の声で"違う"と言われた所でその妄想は拭い去れなかったが、それでも尚、フェベスの言う通り、ナヴァロを呼び戻しに行かなければならないと彼もまた部屋を後にするのだった。

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