複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2017/07/09 20:20
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメントは要りません。邪魔です。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.145 )
日時: 2018/04/09 08:40
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 闇は自らの存在を隠し、篝火の朱に道を譲っていた。下層へ、更に下層へと向かう一団に言葉など無く、ただ足音ばかりが響く。時折、蹴られ転がった瓦礫がからからと音を立てている。
「しっかし……こうも人探しが続けば廓に弄ばれている気分だ」
「廓の意思とでも?」
「あぁ、そうだ。此処は生きている」
 先程、この男は "またか"と苦言を呈していたが、度重なる捜索、救助に辟易としているようだった。故の戯れ言とジャリルファハドは鼻で笑っていた。
「いや……生きてるっつーか、人を謀り、食い殺そうとしてんだよ。人の子一人居やしないに声が聞こえたり、居やしない人間が姿を現す。そうやって人を惑わすんだ」
「果てには化物の餌とな、馬鹿馬鹿しい。此処は過去の遺構でしかない。その様な事があってたまるか」
「在るから言ってんだよ」
 足音に紛れ、ぽつぽつと会話を交わす。このカンクェノは単なる過去の遺構、解明出来ていない物こそ多々在れど、そんな超自然的な事柄は在ってはならない。そうジャリルファハドは否定の意を唱えようと、喉元まで言葉を引っ張り出すも、それを飲み込んだ。砂漠で見た物──アゥルトゥラ兵の亡霊をすっかり忘れていたのだ。身体の彼方此方を失い、人にしては歪。闇の中、苦悶の表情を浮かべ、呻き、蠢いていたそれをだ。
「お前は見たか?」
「……いいや、捜索、救助した奴等が口揃えて俺達に訴えてきたってだけの話さ」
 そうやってジャッバールの兵は苦笑するばかりであった。実際に自分の目で見た訳ではない。あくまで第三者の証言でしかない。彼は「忘れてくれ」と呟き、大きく欠伸をしていた。道は篝火の朱を受け、明るく照らされており、暗闇が緊張、不安を煽るような事もない。戒めるようにジャリルファハドは彼を見据えるも、それを改める気配もなくただただ歩み続けていた。
 十層ばかり下り終えると曲がり角から声が聞こえていた。その声はミュラのようだ、何処か語気が強く感じられた。共に下層へと降りてきたジャッバールの兵も怪訝な表情を浮かべながら、小銃を携える。それぞれが各々の得物に手を掛け、まるでこれから討入りに行くかのような状況であった。彼等の前へと立ちはだかり、背で制しながら角から顔を覗かせた。どうにもソーニアと言い争いになっているようだ。救われていたか、と安堵を抱きつつもまた面倒ごとかと不快感を覚える。
「何をしている、助けていたなら早く上に出れば良いだろうが」
「あぁ、いや。ソーニアがまたあの穴に潜るって聞かなくてさ、調べたい物があるとかって……」
「ソーニア。探索、調査は日を改めてからでも遅くはないだろう、何も急がずと────」
 松明に照らされた彼女の額からは流血しており、右腕にも擦過傷が見られた。左肩はだらりとぶら下っているだけで、力が篭っていないように見える。何よりも彼女の目であった、静脈が切れたかのように赤黒く染まっているのだ。まるでレゥノーラの目のよう。闇の中、ただただ獲物を探し、輝く死神のそれである。
「……目はどうした」
「え?」
「目だ、何故赤い?」
 ミュラと同じ事を問われるも鏡などない、自分の目が赤くなっている等と知る由もない。ジャッバールの兵達に至っては「レゥノーラの物と同じ」だという声すら挙がる。自分の瞳は父母と同じくして濃い緑、レゥノーラのように赤黒くなどない。
「……見間違いとかじゃないの?」
「見間違いなどではない、確かに赤い。早く上がって医者に見せるぞ」
「いえ、何ともないのよ。明かりにも目が慣れてきたし──」
 だが、普段よりも明かりが眩しく感じられる。そう語り、言葉を続けそうになるも言葉を呑み、ソーニアは相変わらず自分の無事を主張していた。明らかにその瞳はジャリルファハドから逸らされ、何処となく居心地の悪さを感じていた事だろう。
「傷を負っているだろう、それ以外にも怪我はないのか」
「そうね、肩はちょっと。……でも見せておきたい物があるのよ、お願い」
「ダメだ、今日は上がれ。その傷では足手まといだ、ただでさえお前はレゥノーラ相手に"全く役に立たない"」
 そうジャリルファハドに一蹴され、ソーニアは不愉快そうに彼を見据えていた。銃を扱えない怪我人がレゥノーラを相手に歯が立つはずがない。ただでさえ経験がないのだ、幾らジャッバール兵が居るといえども一人戦えない者を守るのは難しい。
「リエリスの。コイツの言う通りだ。俺等はアンタを助けに来ただけだ、アンタを守りに来た訳じゃない。降りてきたらアンタはもう助けられていた。これ以上は俺達の仕事じゃあない」
「……我々は上から降りてくるまでを待っていただけに過ぎない。もうこれ以上は関わる気がない、余り好き勝手を言ってくれるなよ。此処はもうお前達アゥルトゥラの物ではないのだ、目に付くならば……分かるな?」
 各々の兵がブレーキを掛けるように護衛をする気はない、と意思を示す。勝手が過ぎるならば命を奪うとまで語る。彼等とて余計な物に触れたくはないのだ。此度はハヤの命令という形でソーニア救助に兵が動いた、ハヤの名と同胞たるジャリルファハドの働きかけが無ければ、恐らくソーニアは死んでいた事だろう。心なしか彼女の表情には翳りが宿る。額から流れ出る血を手の甲で拭うと、傷に触れ刺すような痛みに苛まれる。
「だから言っているのだ、今回は上がるぞ、と。廓の修繕など誰もしていないのだ、此処を塞がれる事もない、日を改めろ」
 右肩から滴る血を石壁に拭い付けながら、ジャリルファハドはソーニアを戒める。乾いた壁に伸びる血の筋を見て、ミュラ以外は負傷者だという事に気が付いたのか、彼女は漸く首を縦に振るのだった。それに呼応するようにソーニアが肩に提げた小銃をミュラが受け取った、木製の銃床にはセイフ・ラーディンの名が刻まれていた。
「なぁ、さっさと上に上がろうぜ、帰ろう」
 下層のレゥノーラよりも恐ろしく感じられる存在を思い出し、一刻も早く廓の外に出て行きたい。そんな一念からの言葉であった。ソーニアが頷くと「行きがけの駄賃」だと上層のジャッバール兵も歩き始めた。下層の者達は「またな」とだけ、言葉を放ち一斉に踵を返し始めるのだった。
「俺達が居るのは五十階までだからな、そこから上はどうにかして上手く帰れよ」
「分かっているともさ、ミュラ。刀を」
「あぁ」
 刀を受け取る手は血に塗れていた。赤黒く変色し、固まったそれの上に血の筋が走っている。握り込められた刀の柄が血で汚れてしまった。そんな事は気にもならないのだろう、腰に刀を差し直すとジャリルファハドも彼等の背を追うようにして歩き始めるのだった。



 上層へ、上層へと歩みを続けるにつれ、左肩の痛みが強くなりはじめ、一挙手一投足が苦痛になり始める。その痛みが頂点に達した頃、地上の明かりがぽっかりと空いた廓の入り口から飛び込んできている。ジャリルファハドの流血も止まっているようで、右手を伝う血の筋はすっかりと乾ききっていた。無事ではないが、帰路に何事もなかったとミュラは安堵の溜息を吐いて、ソーニアの右腕を自分の肩へと回して、彼女を支えるようにして歩き始めた。
「ごめん」
「別に良いぜ、無事帰って来れたしさー」
 何処か間延びした彼女の返答に思わずソーニアは笑みを湛えたが、その笑みからミュラは目を離そうとしない。矢張り赤い目が気になって仕方が無いのだ。
「何よ?」
「いいや、別にー。さっさと医者行こうぜ」
 少しだけ前を歩いているジャリルファハドも、傷の具合も診てもらう必要があるだろう。どちらにせよ、医者へは行かなければならない。ソーニアの赤くなってしまった目も、原因を突き止め処置しなければならないだろう。
「眩し……」
 そう一人ごちるソーニアを気にも留めず、ミュラは彼女と共に石段を上がっていく。外の空気は廓の中よりも幾分冷たく、吹く風に思わず一つ身震いをするのであった。漸く外へと至り、大きく深呼吸をしながら目を閉じた。ソーニアは廓の前に広がるであろう、大路を見据えるべく身を翻す。先まで地下へと潜っていたものの、本来自分が居るべく地上は心地が良く感じられた。そして目を開く。
「……あれ?」
 視界は白け、傍らに居るであろうミュラの姿すら見えない。大路の人垣は勿論、ジャリルファハドの姿すら。空は青いのか、それとも白く曇っているのかも分からない。何も、何も見えないのだ。困惑したように辺りを見回すソーニアの瞳は日の光を受け、厭に赤く、まるで賢者の石のように輝いているのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.146 )
日時: 2018/04/07 19:30
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

選択は任せると言われても道は一つしか残されてはいなかった。スヴェトラーナの言葉を何の根拠も証拠も無い小娘の戯言だと一蹴してしまうのは容易いことである。が、奈落の底に落ちた侍従がどこへ消えたのか手掛かりがない以上、道標を示してくれるのはありがたいことであった。皆、同じことを思っているらしく「行きましょう」と言ったガウェスの言に抗弁する者はおらずスヴェトラーナが進めた道へ爪先を向ける。篝火の淡いオレンジは五人が進む道を大まかに照らしてくれるのみで、どのような構造をしているのか目視する事は難しい。だが、目で確認できたところで、落ちている者はここで無念の死を遂げた者達の置き土産、若しくは、埋葬されることのない遺体のみだろう。見えない方がいい。時折聞こえる猿叫のような金切り声は上の階から聞こえてくる。誰かの怒鳴り声と空を裂くような発砲音は瞬きの間に静かになり、廓に一瞬の静寂をもたらす。しかしすぐに女性の断末魔が聞こえ、直後に男性の断末魔が響く。何が起こったかなど見る必要もない。「死んだか」と不謹慎なことを呟く傭兵も諫めることはせず、青い顔した少女に話しかけた。
「大丈夫ですか。疲れたならここを抜けた先で休憩をとりますが?」
 べっこう飴のように淡い優しさに包まれた言葉に、「おにいさま」と出掛かった言葉を堪え、代わりにスカートの裾をギュッと握りしめた。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですから、それよりも、早く、ハイルヴィヒを」
 それだけを伝え、憂いを帯びた瞳を閉じる少女は宗教画から抜け出してきたかのような清らかさがあった。見る者を惚けさせる儚げな美しさにガウェスも見惚れたものの、「あの」と、声をかけられて我に返る。口元に優しげな微笑を浮かべ「畏まりました」と返事をする。止めていた足を動かせば、小石を蹴り上げてジャリッと音を立てて闇へと吸い込まれていった。五人が辿る未来を見せられているかのようで、顔を顰めたが、すぐに気を取り直し、口を真一文字に閉めた。例え何があろうと後には退けぬ。道は前にしか続いていないのだから……。
 さて、通路を抜けた先にあるの石造りの部屋。壁には赤黒く光る液体が付着している。何て事はない。廓ではよくある光景である。早足で抜けてしまおうとした部屋片隅、光の届かない影が蠢いた。こちらが口を開く前に「誰だ」と問うた声は若い女性の声である。研がれたナイフのように鋭く短い言葉は威嚇する獣の唸り声の如く、他者を威圧するのには十分すぎた。暗闇に姿は隠されているが、シルエットだけは僅かな火の光が教えてくれる。訓練を詰んだ人間なのだろう。銃を構える姿は熟練の狩人を連想させた。だが、腕を痛めたのか、銃口が僅かに震え、下を向いている。片足を負傷しているらしく、無事な方な足に体重をかけて支えていた。もしもあと一発でも銃弾を放てばバランスを崩し倒れてしまうだろう。暗闇に目が慣れてくるとようやくその姿を捉えることが出来た。
「あなたは」
 驚愕と歓喜が入り混じったガウェスの声。彼が歩み寄るより早くスヴェトラーナは暗闇に紛れる女性に対して駆け出していた。一瞬虚をつかれた顔をしたが、走り寄ってきた人物が愛しい白百合であると知ったとき、彼女の手から銃が零れ乾いた音を立てた。

 二人の間に言葉はなく、頬を伝う涙を拭うことも忘れ飛びついてきた少女を従者は受け止めた。普段ならなんてことはない衝撃が足の負傷のせいでバランスを崩して尻餅をつく。張り詰めていた緊張が、呑み込まれてしまいそうなほど大きな悲壮感が、灰風に飛ばされるように消え、廓に似付かわしくない安堵があった。そして一等その安堵を享受しているのはスヴェトラーナであろう。迷惑がかかってしまうと分かっていながらも涙を止めることは出来ず、声を殺し、吐息と僅かな嗚咽を洩らす少女の背を従者は静かに撫でている。冷たい印象をうける吊り目が、今は穏やかに垂れ、彼女も彼女で安心という名の海に溺れているのだ。そんな二人の様子を遠巻きに見ているのはガウェスだった。彼の顔からも嶮しさが消え、本来の穏やかな気持ちが戻りつつあった。
「女の子二人で来たのか」
 ガウェスの隣に立った男が目を丸くし驚いているのは瞠目しているからではなく驚きと呆れであった。いつ落ちたかは知らないが、廓に一人、しかも負傷した状態で生き永らえていたなど奇跡以外の何物でもない。それに案内もつけずに二人でこのような下層にくるなど無謀にも程がある。
「女二人でここに来るなんて。何が目的なんだ」
 男は煙を吐き出す。真っ白な灰はパラパラと床に落ち、その姿は床と同化するように消えていった。
「俺は心配だよ。ここは女子供だけで来るところじゃねぇ、そうだろ? 男がいなくちゃ。男が」
 無造作に伸びた髭を撫でている男が何の意図をもってそのような発言をしたのか、聡明な騎士はすぐに理解できた。しかし、とりあうつもりはないのだ。自分の置かれている状況が分からないほど愚かでもない。
「自分で頼んでみたら如何です?」
「やーよ。見たところ、お前さんとあの嬢ちゃんは知り合いなんだろ? 俺みたいな赤の他人が頼むよりもお前さんの方が確率が高い」
 軽口のつもりだったのだろうが、ガウェスにとっては心臓を鷲掴みにされるほどの衝撃であった。ジッと二人を見つめ平静を装うが鼓動は火事が起きた際の鐘よりも早く脈打っていた。
「シャボーの砂漠に落とした針を見付け出せるくらいの可能性ですよ?」
「それでもゼロよりはマシさ」
 短くなった煙草を足で踏みつけると横からではなく、今度は真っ直ぐとガウェスを見据えた。この時、初めて男の瞳が黒ではなく焦げ茶色をしているのに気が付いた。
「さぁてそろそろ行こうじゃないの?」
 傭兵がガウェスにこそりと耳打ちをした。このような場所に長居はしたくないだろう。後ろで武器を弄っていた男も同じ気持ちなのだろう。背中に視線を感じる。お二人共と一声かけて視線で合図を送れば、ガウェスの意図をくみ取ったであろう。黒衣の少女はこくりと首を立てに振った。
 その時だ。この場にいる全員に纏わり付いていた空気が変わった。巨大な蛇に巻き付かれているような雰囲気から、神聖な儀式を執り行う、重く冷え冷えとした雰囲気へ。再びりぃんと張り詰められた緊張感が一帯を覆いガウェスの顔を冷や汗が頬を伝う。忘れもしないだろう。鼻をつまみたくなるような死臭を撒き散らしながら近付いてくる醜悪なる化生の存在を。ごくりと生唾を飲んだのは期待ではなく緊張。十の瞳がガウェス達が通ってきた通路に集中する。未だ正体が現さないソレに対し、ついにガウェスと傭兵二人が持っていた銃のセーフティが外された。目を離さずしゃんと立ちあがったハイルヴィヒにスヴェトラーナは思わず口を開きかけたが、ハイルヴィヒの人差し指がそれを阻止する。そしてすぐに離された指の感触に浸る様に細く白い、透き通った指が唇を往復するが、女性の断末魔のような奇声に中断される。トリガーに指がかかる。銃口は迷いなく通路の出口に向けられ、松明に照らされた先端は黒く光る。ぬちゃ……ぬちゃ……と人ならざる者の足音が大きくなる。一歩、また一歩と近付く度に咀嚼音のような音が反響し、一層不快感が募らせる。松明の炎が揺らめき陽炎を映した時、ついに姿を現した。傭兵二人からは「なんだ」と困惑が洩れ、スヴェトラーナはその醜悪な姿に目を伏せた。ハイルヴィヒは眉をひそめ、ガウェスは苦しそうに顔を歪める。彼の青い瞳に映ったソレは真っ赤な鮮血に濡れた対峙した女型のレゥノーラに他ならなかった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.147 )
日時: 2018/04/22 04:53
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 切り裂かれた右肩を曝しながら、ジャリルファハドはぼんやりと囲いの向こう側を見据えていた。傍らのミュラは腕に彫られた刺青をまじまじと見つめているのだが、そんな彼女の様子など全く気にも掛からず、ただただソーニアの状態だけが気がかりだった。彼女の負傷は勿論ながら、その身に起きた異変はあまりにも異常であるからだ。あの深く鮮やかな深緑の瞳が何故、血のように赤黒く染まり、光りに過敏な反応を示すようになってしまったのだろうか、と気掛かりで仕方がないのだ。
「……傷、痛いのか?」
「そういう訳ではない。……少しソーニアが気掛かりでな」
 彼女を診ているのは己が同胞である人物である。彼の腕は確かだが、理解に及ばない物を見た時、どんな反応をするか分からず、匙を投げてしまう可能性もあった。それがジャリルファハドの不安だった。このままソーニアの目が治らず、原因も分からず終いとなった場合、その先の彼女の人生は光を忌諱し、薄闇の中でしか過ごせない物になるだろう。そんな可能性があると思えば、サチの武門の兵である己が居ながら彼女に傷を負わせてしまったという事実に居た堪れず、拳を握り締めた。
「おい、ファハド。良いか」
 仕切りの向こう側から顔を覗かせた男が呼ぶ。立ち上がった時、右肩から血が伝い床に滴るもそれを気にする様子もなく、呼ばれるがままジャリルファハドは歩んでいく。何故か彼の足取りは重く見え、ミュラは小首を傾げていた。
「俺にはさっぱり分からん。強い光が入ると全く見えんそうだ。少しでも暗ければ問題はないようだが……理屈も分からんよ、そもそも俺が診れるのは外傷だけだ、傷がない物をどうやって調べろってんだ」
「……傷の手当てはきちんとしてくれたんだろう?」
「えぇ、それはしっかりしてもらったわ」
 口を挟んできたソーニアを一瞥すると、彼女は光を忌憚するように目を閉じていた。額に当てられた綿紗は傷をすっかり覆い隠しており、その生々しいであろう傷跡を曝そうとしない。
「肩も動くわ。入れてもらったから」
「見よう見真似の整復だったが、案外上手くいったみたいでな」
「ルトよ、随分といい加減な事をしてくれたな」
 そう彼を戒めるも、ジャリルファハドは内心感謝の意を唱えていた。感謝の言葉は誰の耳に届く事もない。だが、しかし。ルトと呼ばれた男は苦言を受け止めながらも、その感謝を汲み取ったようで満足気に笑っていた。
「まぁ、座れ」
ジャリルファハドに座るようにと促し、彼を無理矢理に座らせると笑みが突然、意地の悪い物に変わっていく。昔からこういう男だった、と何処となくジャリルファハドは遠い目で彼を見ながら苦笑いを浮かべている。
「おい、ミュラとかって奴。ちょっと来い! ソーニアを連れて行け!」
 大声で呼ばれミュラは少しだけ慌てた様子の足音が聞こえた後、仕切りの際から顔を覗かせた。連れて行け、とルトが顎で指図するとそれに応じ、小さく頷きながらソーニアの手を引く。彼女はミュラへと侘びながらであったが、何時も通りの笑みを湛えていた。あくまでも目以外は問題ないと言葉なくして主張しているようだ。
「おい。ハヤが悪さを働いたなら詫びておこう、悪気はないんだ。許してくれ」
 "ハヤ"という名を聞いた時、一瞬だけミュラの顔付きが強張り、身動ぎをして彼をじっと見つめていたが、はと我に帰ったようにそそくさと仕切りの中から出て行ってしまった。その背を見送りながら、ジャリルファハドは薄っすらと笑っていた。
「図星のようだな。ハヤには会わせたくなかったが、仕方あるまいよ。上にはレゥノーラが居たのだから、アイツを一人で行かせる訳にはいかなかった」
「死ぬよりマシってもんさ。ミュラもハヤに引っ張られなくて良かったじゃないか。近頃は第二のアサドになりつつある。いや、アサドより悪い。だが、俺には諌められないのさ。ハヤの言う事はセノールの悲願だ、否定出来る身じゃないんだ。俺とてアゥルトゥラを殺してやりたい。……縫うぞ」
 雑談を交えながら、縫合の準備を終えたのかルトは傷を縫い出すのだった。尋常ざる痛みが走る物の僅かに表情を歪めるだけに留め、深呼吸をしてから再び口を開く。
「お前はハイドナーの兵の死に顔を整え、手当てしてやっていたと聞く。それは本心かね」
「あぁ、本心さ。アゥルトゥラを殺してやりたい、そして救える限りの人間は救う。どっちもな」
 二律背反するような言葉を吐く、ルトの真意を推し量る事は出来ず、ジャリルファハドは口を閉ざすも、何針か縫い進めていくとやはり痛みを耐え切れないようで再び口を開いていた。
「……アサドはどうした」
「あぁ、あいつ? ちょっと用事だってボリーシェゴルノスクに行ってるぜ」
「それは何処だ?」
「此処から少し北の街だ。そうか、お前が知る訳ないよな。要衝でもない、強いて言うなら運河に接してる程度の話だぜ。まぁ、クルツェスカの衛星都市ってところだな」
 何をしに行ったのだろうか、と思案するもそれは痛みに阻害され、ジャリルファハドは溜息を吐きながら目を閉じ、左の拳を握り締めるのだった。




 運河に運び込まれているであろう資材を眺めながら、バシラアサドは煙草の煙を吐いた。紫煙は運河を走る風に吹かれ、その形をあと吐く間もなく失ってしまう。それはまるでこの街の行く末を示しているかのようだった。傍らには護衛としてバッヒアナミルの姿があり、彼は未だに僅か痛む右胸の傷跡を擦りながら、堪える冬の寒さに顔を顰めていた。
「アサド、寒いです。入りましょう」
「……そうするか」
 彼女の視線の先には資材運搬用の引揚船台が築かれており、そこに乗せられた三隻の船があった。錆び、朽ち掛けている船であるが未だにしっかりと走る事が出来る。機関の音が少しだけ喧しい程度の話だ。あの船にも来る時には働いてもらわねば成らない、と小さく笑みを浮かべて煙草を投げ捨てるのであった。
「この街は良い、血の匂いも、戦の匂いもしない」
「振りまいているのはアサドじゃないですか。此処も何れはそうなる。……俺だって手伝いますよ」
「傷を癒してからの話だ。余り不調を悟られぬようにな。お前が張子の虎では困る」
 半年以上前に負わされた右胸の傷は未だに癒えず、膿み僅かに熱を帯びていた。身を翻せば身体は強張り、容易く傷が開いてしまう。だとしても、ジャッバールにはナッサルの虎が居るという事を主張して置かなければならない。多くはルーイットとシャーヒンを恐れる事だろう、それでは足らず彼等に匹敵し得る兵は多ければ多いほど良い。例え傷を負い、病んでいたとしてもだ。今は戦うでなく、戦わずして相手を黙らせるという云わば抑止力が必要な時である。
「寒い……傷に障ります」
「私を守れない程にか」
 そうやって煽ると彼は侮るなと言わんばかりに、目を見開きバシラアサドを一瞥する。
「……全く、失礼ですね。ベケトフの犬くらい、ちょーっと噛んで殺しますとも。その位は……簡単です」
「そうか、気を抜くなよ」
「えぇ、勿論です」
 バッヒアナミルの言う通りだとしても慢心は出来ない。既に放たれたハサンの兵は彼等の屋敷を取り囲み、動向を探っているのだ。令嬢とその護衛の不在、残るは当主と一人の青年のみ。歯牙にも掛けるまでもない。何故、こうして護衛を付け、多くの密偵を放っているかといえば、これからそのベケトフの屋敷へと赴くからである。埋め込まれた櫟の種は恐るべき早さで芽を出し、何時の間にか毒を撒き散らすようになってしまった。種を砕き、枝をばら撒くべく獅子は歩みを進めているのだ。
「尤も番犬も留守だがな」
 そうバッヒアナミルを揶揄すると彼はどこかほっとしたような表情を見せ、また右胸の傷を気にするようにして擦っていた。余程この寒さが堪えるのだろうか、どこか気の毒な思いを持ちながら彼を見つめていると「大丈夫です」とにこやかに笑みを浮かべながら、気丈に振舞っているのだった。仕方あるまい、ベケトフが事を構えるというのならば自分で当主を討たざる得ないだろう。懐に収めた固定式の回転式拳銃に触れながら、大路の奥に佇むベケトフの屋敷を見据えるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.148 )
日時: 2018/04/22 00:26
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

「私を囮に、貴様らが逃げるのが一番いいだろう」
 後ろへ、後ろへと静かに後ずさる中、娘は至極淡々とした語り口で、しかしはっきりとそう口にする。其の言葉に一番に反論するのはスヴェトラーナにほかならない。しかし其の唇が動く前に、ハイルヴィヒの指は再びスヴェトラーナの唇へと触れた。静かに、と言わずとも少女は理解しているだろう。現に、少女は其れを理解している。されど口を開かずにはいられない、といわんばかりの視線でハイルヴィヒを射抜く。否、射抜くなど。見つめるだけだ、焦がれるように。或いは懇願するように。
 焼け付くような劣情が、ハイルヴィヒの胸に残っていた。渇いていく様な感覚すらあった。求める色は赤なれど、其の真髄は此処には在らず。鼻孔を掠める白百合の香にすん、と鼻を鳴らす。愛おしいと思う、慈しみたいとも思う。永遠に、少女が少女である事を望む気持ちが今ならば理解できる。うつくしいものを、うつくしいままで。其の理想の何と美しいこと。されど其れは本来、望んではいけないものだ。少女は何時か成長し、羽化し、羽根を伸ばして飛び去っていく。それが道理、摂理――されど。
「私が、此の中で一番今役に立たん。なら……足を引っ張るよりも此処で切り捨てろ。それでいい。……貴様のことは、信頼している」
 少女を見ず、深青の瞳は真っ直ぐに少女が連れた三人――の、内の一人。かつて太陽が如き輝きを背負っていた其の人へと向いていた。彼のみを見つめている、とはきっと彼以外にはバレまい、等という奇妙な確信を胸に。碧に紅が混ざりゆく。焼け付くような痛みを、けれども少女は歓迎する。或いは、その瞳に血を混ぜた様にじわりと、紅の色は広がり行く。毒の雫を垂らす様に、じわり、じわりと、その碧を侵食していく。なにかに背を押される心地だった、手を伸ばしてしまいたかった。飲み干してしまいたい衝動を、今はただ抑え込む。無意識に、中指を強く噛んでいた。滲む鉄の味は決して良いものではない、そのはずなのに。慌ててポケットに手を突っ込む、破片はある程度捨てたもののまだ多少混ざっているだろう、が、仕方あるまい。錠剤をいくつか口へと放り込みガリ、と噛み潰した。呼吸が上がるその前に、静かに、告げるべきを少女へ。
「……お嬢様、宜しいですか。……此の儘、此の奥へと進んでください。出口ではありませんが……道はあります」
 仮令紺碧の底に或れど、どうか彼女に白百合の夢を。柔い願いを胸に、ハイルヴィヒ・シュルツはさながら懇願する様な声色を以てスヴェトラーナへと告げた。行き止まり、との表記を見ているスヴェトラーナとしては、ハイルヴィヒの言葉に衝撃を受けるが、其の言葉を信じぬという選択肢を持ち合わせては居ない。ただ信じる人の言葉を、悲痛にすら思えるその瞳の奥に在る色を、信じる他なかった。薄氷の色は刹那伏せられる。固く、固く閉じられた瞼。少女は静かに息を呑む。震えを隠すなど出来やしない。けれど。
「……わかりました。貴女の言葉を、無駄にはしません」
 スヴェトラーナの言葉に、ハイルヴィヒは安堵の息を零す。そっと、其の髪を撫でる。後ろ髪を引かれる様な心地だが彼女だけでも逃がすならば、此の方法が最善であろう。何か言いたげな三人を無視して、ハイルヴィヒはスヴェトラーナに囁いた。
「…………真っ直ぐ進むと、私が抜けてきた小さな穴があります。……其の向こう、壁伝いに行けば……きっと、何かが分かるはずです」
 己の辿った道を思い起こしつつ、ハイルヴィヒはそう告げる。柔い笑みは今、少女にのみ向いていた。或いは永遠に、此の笑みは、彼女のためだけに。
「……白百合の香りにどうか、ご注意を」
 口づけてしまいたかった、其の柔らかな唇に触れたいと本能が叫んでいる。噛み付くように、其の全てを欲している己が、心の何処かに確かに存在している。白い肌に、赤はよく映える――など、何故、今。
「……ええ、約束するわ、ハイルヴィヒ。だから……また、あとでね」
 凛、としてなど居ない。柔らかで、今にも崩れてしまいそうな。けれども甘く、優しい声だった。スヴェトラーナの水宝玉の瞳には今、ハイルヴィヒ以外映っていない。映さねばならぬものは多くとも、少女の瞳にはハイルヴィヒ・シュルツ以外の存在は拒まれていた。愛しい、とふと思う。許されるなら永遠に、白百合の安寧に包まれてしまいたかったというのに。其れは今叶わない。早く、と言いたげな男の視線など無粋と思えど尤もな主張だ。長いようで手短な別れ。これが永遠となるか一時となるか、奇跡に賭けねば選択は明白。

「……参りましょう、奥です」
 ハイルヴィヒのそばを離れ、“おにいさま”達のそばへと歩み寄る。足音を出来るだけ立てないように、静かに。息を殺す。囁くような声はそれでも何処か、甘さを孕んで。皆の反論を、少女は其の柔らかな視線で遮った。わかっている、そのくらい、言われずとも、彼女が――彼女がきっと、囮としてはあまり役に立たない事くらい。下手をしたら一撃すら加えられず終いかもしれない。震える銃口では平素の様な射撃は難しかろう。装填の暇もないかもしれない。一瞬で、事が終わってしまうかもしれない。
「……おい、お嬢ちゃん」
「其れ以上、其れ以上どうか……」
 何も、言わないで。男と言葉を遮るのは今にも溢れそうな水面を湛える少女の瞳だった。怯えるように伸ばす手は何処にも触れることはない。振り向かず少女は歩みゆく。或いは一人であったとしても、向かうべく場所ができたならばそれで、いい。駆け出したい衝動を飲み込んで、振り返らず少女は、歩を進める。

「……ユースチン殿、ちょ〜っとめんどくさい事になりそうですよ」
 書斎で書類と睨めっこしていたベケトフ当主の元に、鈍い金の髪をした青年が歩み寄る。びっくりしたぁ、なんてわざとらしい言葉を零す当主に、青年は肩を竦めた。
「……ま、ユスチン殿なら、大凡面倒の正体もご理解なさっているでしょうけど」
 其の言葉に、当主はシルバーグレイの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。モノクルの奥の、淡い色彩の瞳は困った、と言いたげに細められている。
「……わかってるけど、一応報告を」
「はいよっと」
 青年の口から紡がれるのはおそらく屋敷が監視下にあるという事、気の所為ではないだろう。情報は力、少なからず武力で劣るならば、其の程度はできて当然といわんばかりに。かと言って無闇矢鱈に其れ等に手を出すわけもない。或いは、静観ともとれるのだろう。――事実を前に、憶測を最後に添えた青年の言葉に、当主の顔ばせはやや、険しさを増す。
「……僕らは中立、というか僕は中立。何があっても……守るべきものを正しく守らなきゃいけない」
 決意、と言うほどでもない。ただ彼にとって、当たり前のこと。ただ唯一揺らがない、此の家に通づる、意思を。
「……我が領地、我が領民に、危害が及ばぬ様……立ち回ってみせるさ」
 紡がれる言葉は穏やかに、けれどふせられ、再び開く瞳には――穏やかならざる光が、一筋。実力行使などもってのほか、されど言いなりになどなれやしない。何処まであがけるかなど正直未知数ではあるが、それでも。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.149 )
日時: 2018/04/26 11:46
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 限りなく鈍色に近い空は重く、色彩を失っていた。シェスターンにてバッヒアナミルが散々に斬り殺したナヴァロの兵の骸のような色だ。血の気を失い、雨水を吸い無様に膨れ上がった死体が脳裏に浮かび上がる。切り裂かれた傷口は腐り、肉が海松色に変色していた。そこに湧き上がる蛆はただただ腐肉を食らうべく蠢いている。一歩間違えば自分もそうなっていたと思えば、バッヒアナミルは顔を顰めざるを得ず、今もこうして生き、歩んでいられる事に安堵を抱きながら、未だ痛む右胸の傷を擦り、自分を救ったバシラアサドの後を追う。自分達が死したならばどうなる事だろうか。アゥルトゥラの者達と比べ、明らかに浅黒い肌はどう変わっていくのだろうか、そしてバシラアサドが死んでしまったらどうなるだろうか、と疑問を抱く。セノールは指導者を失い、狂った独楽のように不規則に乱れては自壊を遂げる事だろう。今を生きるセノールにバシラアサド程、民衆を引き付け心酔させ、扇動出来るだけの者は居ない。天賦の才だったのだろう。しかし、彼女には自分で力を用い、血と暴力を以ってして、道を開くだけの力はない。だからこそバッヒアナミルも悲鳴を上げ続けている身体に鞭を打ちながら、彼女と共にあるのだ。自分が矛となり、血の道を開くべくだ。
「どうした」
 少しだけ歩調の鈍いバッヒアナミルへと振り向き、バシラアサドは問う。何処か怪訝な表情を浮かべて見える彼女だったが、すぐに何時ものの思い立ったような表情の薄く、硬い顔付きが戻ってきていた。
「あぁ、いえ。何でもないです」
 そう答えるバッヒアナミルであったが、何処か歯切れが悪くバシラアサドからすると彼が余計で、全く意味のない事でも考えていたのだろう、と察しが付いた。彼女はそんな彼を鼻で笑う。
 バッヒアナミルの疑問であったが、バシラアサドは自分が死ぬとは思ってもいない、仮に死んだとしてもその先の事など微塵も感心はない。弔われたならば先人達と同じ道を辿るだけ。戦地にて死したならば、肉は腐り、野へ還り、骨を曝しては誰なのかも分からないまま捨て置かれるだけの事なのだ。死は必ず訪れるものだ。万人に等しく、足音を立てながら近寄ってくる。拒めど、拒めど寄って来るのだ。逃げ切れず、逃げられず、追って来るものなのだ。だからこそ、生を望み、死という物を恐れ、忌憚し続けなければならない。それが今を生きる者の義務である。
「死ぬって……怖い事ですね」
「あぁ、その通りだ。だから護衛を付けずに私は外を歩かないのさ」
「此処なんて何の"匂い"もしないんですけどね」
 ボリーシェゴルノスク、小規模ではあるが、風光明媚な街である。運河に接している故に港湾設備を持っている程度。ナヴァロの息が掛かった物も居なければ、既得権益が自分達を敵対視する訳ではない。だからこそ、バッヒアナミル"匂い"がしないと言ったのだろう。尤もそういった危機感を抱かない状態であるからこそ、ナヴァロは関与を断っているのだろう。彼等とてクルツェスカに根付いた真新しい貴族であり、クルツェスカ以外に感心がなく、自力で渡り合おうというだけの気概を持ち合わせていない"持つ者"でありながら"持たざる物"と同じく振舞う彼等と歩調を合わせる気はないのだろう。ジャッバールからの兵站に対する妨害を受けているのなら尚更である。
「……非武装中立というのも恐れを知らないように思えて馬鹿げて見える。中立を保つならば、誰よりも強い兵を、誰よりも多く持たねばならんというに。メイ・リエリスの様に口先だけで戦っているふりをしている訳でもあるまい」
「此処が国境に接していないというのもありますが、所詮はクルツェスカの衛星都市ですからね。いざという時の貯えは求められるはずですが……」
「お前はハイドナーを忘れたか?」
「あぁ、いえ。しっかりと覚えていますとも。是非──殺してやりたかった」
 寒風に彼の長い髪が靡き、整った顔立ちと穏やかな表情が絵になるようにも思えたが、吐き出す殺意に塗れた呪詛は何処かおぞましく、憎悪に溢れた物であった。武門の者達は大方が彼と同じような反応を示す事だろう。咎を認めたからと許したジャリルファハドが異質であるのだ。
「そも本を正せばベケトフはヴィムートの馬糞崩れだ。アウルトゥラの中ではあまり信用はない、そこはナヴァロも同じだ。アイツ等とてクィーフスからの流れ者だ」
 アゥルトゥラにはどれだけの時間が経とうとも、払拭しきれない差別感情がある。血こそ薄れ、アゥルトゥラやカルウェノと大差が無くなろうとも、その歴史は拭えず、古くからの貴族や彼等を配下とする王族達からは重用されなかった。だからこそ、運河建造にこそ関与しても戦争では重用されず、各方面からのイデオロギーに染まらなかったのだろう。尤もナヴァロはならず者であったが故に国内に置いておくには危うく、インフラなどの整備には使われず、戦争で重用されたのだが。
「真の中立が有り得んという事ももう分かっているだろうさ。ベケトフの敵は我々ではない、真なる敵は領民と商人だ」
 そう言い放ち、バッヒアナミルへと振り向いたバシラアサドの表情は悪辣で、業悪を孕んでいるように見えた。まるで全てを見透かし、想像しうる自体全てに対し布石を打ち終えているかのようだ。それがバッヒアナミルからしてみると空恐ろしく、彼女が腹の中に飼い続けている悪魔が全てに火を放ち、牙を剥きながら嗤っているようにも感じられるのだ。実父、実兄を殺め、クルツェスカへ至り、多くの既得権益を滅し続けるにつれ、子であったはずの悪魔はすっかり成長しきってしまったのだろう。自身もまたそれを飼っているという自覚こそ在れど、バシラアサドには劣る。それでも尚、自分は彼女に付き従うのが意思であると言い聞かせるのだった。


 これが貴族の屋敷か、と思わずバッヒアナミルは息を呑む。クルツェスカの貴族達は豪奢な物を好まない傾向があった。中には例外も居るが、そういった者達は最前線の城塞都市だというのに武働きをする訳でもなく、仮に私兵を持っていたとしてもハイドナーのように寄せ集めで、小規模な物だった。ベケトフについてはそこまで豪奢ではないのだが、どこか整然としていて人の息衝くような雰囲気が希薄であった。
 突然の来訪であったが、二人は応接間へと通された。時折、扉の向こう側から気だるげそうで、やや物憂げにも見える青年が様子を伺うようにちらちらと視線を投げ掛けていた。それがバッヒアナミルには不愉快なようで、彼はその視線に気付くなり顔を顰めてはその青年を睨み付けている。虎というよりは猛犬のようだとバシラアサドは苦笑いをしつつ、静かにユスチンが来るのを待ち続けていた。
「ジャッバールの方々。もう暫く待って下さい、あと三分もしないうちに来ますから」
 青年が扉から顔だけ出して、そう声を掛けていく。「幾らでも待つ」とだけ短くバシラアサドは返答しては、ぼんやりと外を眺めていた。整然とし、人気もなく、それで居ながら塀に囲まれているこの屋敷は外からの目が届きにくい。恐らくハサンの兵達は窓の外から様子を伺う訳でもなく、屋敷の中へも侵入しているだろう。であるから、屋敷の人数、令嬢と護衛の不在まではっきりと伝えてきているのだ。彼等を敵に回す事がなく、自身の配下へ組み込めて良かったと内心、胸を撫で下ろしていた。
「いやぁ、ごめんごめん。突然来るもんだからさ、身支度がね」
「気にする必要はない。……我々も船台が出来上がった報告に来た次第。それともう一つ語らねばならない事があってだな」
 席に座り込みながらユスチンは怪訝そうな顔をしながらバシラアサドを見つめていた。ジャッバールが密偵を放ち、此方の動向を伺っているというのも何かの武力を伴う行動の前準備だと思っていたからだ。圧倒的な武力を持っていながら、用意周到かつ慢心の一切見られない彼女達だからこその行動ではないとしたら、その真意は推し量れそうになく、ユスチンは疑問と猜疑心を抱く。何が企みだと、表情は穏やかなまま思考が巡り、巡っていく。
「……我々に運河の使用権を承諾し、造船所の建造を了承したが故、クルツェスカ、コールヴェンの商人達からボリーシェゴルノスク、引いてはベケトフへの不信感が出ている。今の今まで中立を保っていた者達が我々へと尾を振ったとな。このまま状況が悪化すれば領民からの支持も失うだろう、何せ生活が成り立たなくなるのだからな」
「君達に組するだなんて……そんな事はないんだけどねぇ」
「実態はそうであったとしても、事情を知らぬ者達からしてみればそう見えるのだよ。我々が新しい風を吹き込んだのも事実であろうが、それは既得権益からしてみれば逆風でしかないのだ。ベケトフは今に岐路に立たされよう」
 その言葉にユスチンは首を傾げながら恍けたような素振りを見せる。昼行灯を演じるか、とバシラアサドが彼を睨み付けながら、口角を僅かに吊り上げていた。どちらに付くかを選べと選択を迫っているのだ。既得権益に座す商人達からの不信感があるのも事実、商人に尾を振ればジャッバールと敵対する。また彼女達に尾を振れば商人達と敵対する事となる。どう足掻いても損失は大きい。血が流れるか、ボリーシェゴルノスクが突然衰退するかの何れかである。
「君達は最初から分かっていたんだね」
「さて、何のことやら。私達はあくまで西方交易路の延長線上として運河を使っているだけの事。まさか、今更手を引けなどと言うまい?」
「随分と毒の実は早く育ったみたいだね、君達の手で商人を黙らせるようなことは出来ないのかい?」
「我々を良く思わずとも、彼等は私達と関係を断てば多大な損失を負う。商人というのは強欲な生物だと知っているだろう? ロトス・ハイドナーを思い出せ、あの業突く張りを」
 実際は商人達の不満、不信感を払拭する事は出来るのだろう。それも血を流さず、ただの一声でだ。だというのにバシラアサドは暗にそれをはぐらかすように言葉を返してくる。どうにも弱った、とユスチンは苦笑いを浮かべている。此処で引き下がればジャッバールはベケトフの不義を大声で叫び、糾弾する事だろう。事と次第によっては家人がおかしな死に方をする可能性もある。娘の顔が脳裏に思い浮かぶのだ、ジャッバールがクルツェスカに根差している以上、スヴェトラーナへと危害が及ぶ事も十二分に有り得る話だろう。
「……参ったなぁ」
 四面楚歌どころではない、八方をすっかり塞がれてしまったように思えるのだ。この状況で方々へ助け舟を求めても相手が悪すぎると見向きもしない事だろう。まさか此処で非武装中立という思想が悪く働くとは思っても居なかったのだ。
「はい、あの。ちょっと良いですか。事を深刻に考えすぎじゃないですか? いえ、アサドはこんな感じに言ってますけど、今のままでは危うい。どちらかを選ぶなら早い内にしておけというだけの話なんです。勿論、我々は切られたらその不義を糾弾します、ただ商人達も同じ事をするでしょう。俺は商いをしている訳でもないですけど、そうなるって事はよく分かるんです」
「……えー、護衛の君。名前は?」
「あぁ、すみません。バッヒアナミル・ナッサル・サチと申します。今回はアサドの護衛として来させてもらいました」
「なるほどね、君はそう簡単に言うけれど、僕等は此処に根差してからずっと中立を保ってきた。今更、どちらかに付けと言われてもそれは難しい話なんだよ」
「簡単じゃないですか、どちらかを選び、どちらかと戦う。俺はジャッバールをおすすめしますけど? 俺達は強いですから、アゥルトゥラなんて一噛みです」
 稚拙な言葉で意識もせず毒を盛ると、バッヒアナミルを忌々しげにユスチンは睨む。バシラアサドのように隠し切れない悪意が見えている訳ではない。確かにジャッバールは強いだろう、半世紀も昔の戦争。その中で唯一アゥルトゥラに完勝し続けたサチの武門の最大勢力だ。そこに合流した他の武門の者達も居る。彼の言う事に嘘、偽りは微塵もない。だからこそ、ユスチンは苦しめられるのだ。
「本当ですかぁ? 貴方みたいな優男が強いとは思えませんけど?」
 扉の向こう側から顔だけだして、先ほどの青年がバッヒアナミルを揶揄していた。優男と称された彼に対し、バシラアサドは肩を震わせながら「その通りだ」と笑っていたが、当の本人はコンプレックスを刺激されたのか、不愉快そうに青年を睨む。
「……試してみます? 後悔しますよ」
「ナミル、止せ。……ユスチン殿。ベケトフは選択をしなければならない。これは確かな話だ、我々と戦うというのであれば今すぐ此処でその意思を示してくれれば良い。根絶やしにするだけの事。商人と戦うというのであれば、我々は助力をしよう。それが更なる戦の呼び水となろうともだ」
 バッヒアナミルを制し、バシラアサドは厭に穏やかな表情で語る。どちらかを選ばなければ先がない。一か八かでの勝負、博打をしなければならない。その事にユスチンは顔を顰めていた。何処と無く老け込んだように見える彼の思考は回っていく。そうした末に非武装中立とて大きな流れの中で博打をしているのと変わらないと、自虐的な結論に行き着き、薄っすらとした苦笑いを浮かべているのだった。

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