複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2017/07/09 20:20
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメントは要りません。邪魔です。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.116 )
日時: 2017/10/17 00:40
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

「……いやぁ、弱ったな」
 ヨハンは鈍い金の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら独りごちる。握られた手紙は、行く宛を無くしてしまった。郵便受けへ入れてしまうのも一手ではあるが、叶うならば仔細を告げるためにも直接手渡したかったというのに。入れ違いになってしまうのも些か問題と言うものだろう。かと言ってこのまま帰るわけにもいかない。暫し逡巡の後、ヨハンが手にしていた白い封筒は、ポストへと滑り込んでいった。手土産に、と当主より渡されていたどこぞのパティシエ手製の菓子は、持ち帰ることとしよう。思えばこの店の菓子は、スヴェトラーナの好むものであった、等と思い返しながらヨハンは踵を返す。曇天の空に、けれども思い返すのは星の色をした柔い髪を持つ少女と、その隣に立つであろう黒髪の同僚の事だった。ベケトフの家として、此度廓へ向かわせるのは2人のみ、と決めたのは他でもない当主、ユスチンだ。そも、多くの兵力を持たぬ家である、という事もあるが、そうだとしても外部から雇い入れれば多少の人数は稼げよう。其れを是としなかったのは第一に提案者が誰一人居なかった事、ユスチンと、それからスヴェトラーナの両名の反対がはじめにあった事からである。スヴェトラーナの方は何やら自分の我儘に他人を巻き込みたくない、という感情の方が大きかったというだけらしいが、ユスチンとしては事を大きくするのは避けたかったのだろう。掃討が目的ではない以上、其処まで多くの兵力は不要である。ベケトフは武力をもって治める者に非ず。嘗て廓の建造に携わり、時代を重ね、今ではカルウェノに名を連ねる一族としての責務は負うが、其所を訪れる人々へ圧力を与える気は毛頭ない。叶うならば協力を、その裏にはどうしたとしても打算もあれど、互いに利を得られるならば上々というものだろう。そもそも大して何かをしてきた訳では無い故に、学者らのベケトフへの信用回復、等という大仰なものを語るつもりはないが、少なからず良好な関係でありたい、というのが現当主の望みである。恐らく、次期当主も同じ事を語るだろう。今代に叶わずとも次代には、と願う気持ちもあるらしかった。善良なばかりではやっていけやしないが、外敵ならざる人々と敵対し、互いに疎み合うのも馬鹿らしいというものだろう。――ヨハンは深いため息を一つ。手にしていた紙袋の中を覗き込み、少しばかり考え込んでから、つま先をまた別の方向へと向けた。ベケトフ邸ではなく、その令嬢と同僚の過ごす家へ向けて。……結局、そちらとも入れ違いになって、どうしたものかと頭を悩ませる金髪の青年の姿が見られるのは、後の事である。

 少女の持つアイス・ブルーがぱちり、と瞬いた。少女が小首を傾げれば星色の柔らかな髪が揺れる。煌めく色は、けれども廓の内では鈍く光るのみ。スヴェトラーナには何時かに、文字通り“遊びに”来た折と、この場の空気が変わった様に思えてならなかった。銃を携えた人は確かに多くあったけれど、誰も彼もが瞳に紫の色を宿してはいなかったはずだ。ぱちん、ぱちん、と薄氷色は瞬いて、少女の首は傾いたまま固定されてしまった。昇降機の中、スヴェトラーナの隣にいた男はやや怪訝な表情で、場違いな少女を一瞥したものの、特別何か語るでも無く静かに息を吐くのみであった。
「お嬢様、どうかなさいましたか」
 件の男の反対側、スヴェトラーナの左隣に経っていたハイルヴィヒは秘め事の様に言葉を囁く。瞬いていた薄氷の色はハイルヴィヒの青をまっすぐ見つめてまた一つばかりぱちり、と瞬いた。
「いえ……いいえ、ハイルヴィヒなんでも…………いえ、後で……お話するわ」
 逡巡の後、其れだけ紡げばややあってから、少女は口を閉ざした純粋な疑問ではあるが、この場、他方に人がいる中でぶつける質問ではないだろうと判断したまでの事。スヴェトラーナ<主人>が今語らぬというならば、ハイルヴィヒ<従者>がそれ以上追求する事でもない。了承の意を首肯のみで示せば、ハイルヴィヒも口を閉ざした。昇降機の揺れによる金属音と、機械的な音、時折聞こえる咳払いの音のみが空間に満ち満ちている。やや暗色に偏った昇降機内で、清らかに、純潔の色のまま、黒に染まらぬ少女の存在はある種異様であるのやも知れぬ。ハイルヴィヒもまた、瞳に宿す色の表層は暗くとも、其の深くにある色は淡く、鈍く輝いている。何よりも、黒髪に一筋垂れる白いシルクは、変わらず真白いままであった。2人の耳に輝く赤は、艶やかに。昇降機を降り、また次に乗るまでに歩みを進める折、ハイルヴィヒの黒髪と白いリボン、スヴェトラーナの星色の髪と真紅のワンピースの裾はふわり、場違いな色で揺れていた。靴音は音楽を奏でない。
「ハイルヴィヒ……此処はこんなに、寒々しい場所でしたか?」
 歩む中、少女がつい先程に抱いた疑問を零す。凍える程に寒いわけではない、決して真冬の白の中に立ち竦む様な感覚ではない。けれども確かに此処は、冷え切っている様に思えてならない、と少女の瞳は、否相貌は訴えていた。ハイルヴィヒはと言えば少しばかり口篭り、難しい顔をしながらも咳払いを一つ。傍を歩いていたらしい男が訝しげに二人を見るが、すぐに離れていった。その姿を横目に、ハイルヴィヒは眉間に薄らと皺を寄せて考え込む事暫し。少女スヴェトラーナの淡い瞳はゆらゆらと揺れている。見つからぬ答えを求めて、無意識に盲信するその人の答えを待って。――次の昇降機の前にたどり着くまで、二人の沈黙は続いていた。
「…………ご不安ですか」
 昇降機に乗り込む前に、ハイルヴィヒが絞り出せた言葉はそれだけだ。青い瞳はただ蒼穹の色をしてそこに鎮座している。廓を闊歩する人々を映すでもなく、目の前の少女すら映さず。ただそこに在るだけだ。揺らぐ瞳は少女に同じく、けれども淡く輝く事はない。
「いいえ、けっして……不安では。貴女が、ハイルヴィヒが一緒に居てくれるなら、何も、不安は……」
 少女の白いレースに包まれた手が、黒に覆われた手へと伸びた。けれどもその二つの色が重なる事は無い。ふるりと首を横へと振った少女の、柔らかな金の色がたおやかに揺れるだけであった。不安はない、けれどもスヴェトラーナの胸はざわめいている。不可思議な感覚は、今回ばかりはどこが不快な感覚へと昇華していく。原因など少女にわかるわけもない。かといって首を捻った所で、答えが出てくるものでもないだろう。そう結論づけた少女はただ、その双眸にある種の疑念を宿す。平穏は偽りとして、一見すれば全て一段落したような状況に対しても、取り繕われる様に一種の統治下にある、この場所に対しても。心に突き刺さる矢の様な“何か”の答えを探す事は、広い海の中にたった一粒の真珠を探す様な感覚だろうか。――けれど、令嬢たる少女は海を知らない。
 輝く夢はもはや潰えて、本来ならば明日も見えぬのだろうか。否、そも、明日など誰にも見えやしない。千里を見通す目を以てしても、明日の夢を映す事は出来ても起こる全てを口には出来まい。予言はあくまでも予言だ、予想もまた然り。全てを把握する事が出来ぬからこそ、少女は夢を見続ける、見続けていた。知らずとも、知ろうと手を伸ばす事は出来たというのに。遅すぎるという事は無い、と人は言うけれど、さて。悴むでもなく、けれども凍える手を握り、開き、また握る。吐き出す息に色はなかった。
 ――昇降機を併せて3つ乗り継ぎ、降り立った地下60階は何やら物々しい雰囲気に包まれている。ハイルヴィヒは一瞬、眉間に深く皺を寄せた後、令嬢の手を取った。驚きに、アイス・ブルーの双眸が満月の様に丸くなる。ぱちり、瞬くその後に、令嬢の口は引き結ばれた。地下に満ちる鋭い空気を、今更肌で感じたからである。安らぎは此処にはない、そも此の廓に、そんなものは存在しないのかもしれないが。少女は傭兵へ身を寄せる。その手を強く握りしめる。漸く重なる白と黒は、けれども先程の様な意味合いを、何一つ持たなかった。ただはぐれないように、その目的のためだけに結ばれた故に、混ざり合う事はない。ハイルヴィヒが歩めば、スヴェトラーナも其れに続く。黒髪の半歩後ろ、金の髪は柔らかに揺れて、淡く輝き舞うばかり。やや早足のハイルヴィヒの手が伸びてしまわないように、出来る限り離れない様に。手からだけではない、熱量を全てで感じられるように、令嬢もまた足早に歩む。
「…………ミュラ・ベルバトーレ?」
 唐突にハイルヴィヒの歩みが止まる。かと思えば驚愕混じりに、ハイルヴィヒは前方に座る少女の名を呼んだ。背後を歩いていたスヴェトラーナがハイルヴィヒに軽く衝突したものだから慌てて傭兵は謝罪を紡ぎ、令嬢は気にしないでと首を横へと振る。そうして再びミュラへと向いた蒼玉の瞳は僅かに見開かれていた。其の名を聞いたのはやや前のことではあるが、確かに、明確に覚えている。クセのある黒髪、小麦の色をした肌に何処か動物じみた空気の少女。子供の様で、纏う空気は独りを知る大人のものに相違なく。見紛うはずもない、名乗るか悩んだ事も、なんやかんやで協力してもらった事も、全て。思えばあの折より、全ては決まっていたのかもしれないが、さる家の興亡など、今はハイルヴィヒの思考の端にしかない。なにせ此処で彼女に出会う等と、予想外も良いところだ。
「あ……えーっと……ハイル…………ハイル、ヴィヒ……シュ、ルツ?」
 ハイルヴィヒをその瞳に映す少女もまた、驚愕に暗褐色の双眸を丸く見開いている。記憶を手繰りながら、黒髪の傭兵の名を呼んだ。思索の間に、傭兵も、令嬢も、口を挟む事はない。けれども名を呼ばれればハイルヴィヒは小さく頷く。ミュラは安堵からか、短く息を吐いている。そうしてから、ハイルヴィヒの後ろに控えるスヴェトラーナを見て、小首をかしげた。やや呆けていたスヴェトラーナではあったが、ミュラと視線が交わればハ、として柔らかな笑みを浮かべる。そうしてハイルヴィヒの手をやや名残惜しさを憶えつつも離し、半歩前へ。右足を斜め後ろ内側へ、スカートをつまみ上げて、膝を折る。そうしてから頭を下げれば金糸はさらりと流れ落ちる。流れる様なカーテシーはスヴェトラーナにとってはもはや慣れたもの。バランス一つ崩さず、乱れ一つなく頭を上げて、再び元の姿勢へ戻るまでの一瞬、暗がりの中でけれども少女は月明かりを纏うていた。
「ごきげんよう、ベルバトーレ様。……いつかの折に、ハイルヴィヒがお世話になりました。……私、スヴェトラーナ・ユスチノヴナ・ベケトヴァと申します。その……ハイルヴィヒの主、の様なものではございますけれど……どうか気軽に、スヴェータとでもお呼びください」
 少女は傭兵より、彼女の話を少しばかり聞いていた。其の全てではないけれど、彼女のような人が居たと。其の折に、少女の淡い色をした瞳は好奇心と興味に輝いていた。知らない人、見知らぬ世界を、遠い地の夢を知る人。其の人に焦がれずして、何を思えというのか。憧れよりも憧れ以上の夢を抱いていた人だ。同じ時を過ごす事など出来ぬと思っていた人が今、目の前に居る。其れだけでスヴェトラーナの胸はときめき、弾む。場違いな思いと知れど、柔らかに抱く期待を抑える事が出来ぬのは、まだ少女が子供のままである故、だろうか。さて、ベルバトーレ様、等と呼ばれ慣れぬ呼称に擽ったさでも憶えたのか、ミュラはその柔らかな頬を掻いている。其の様子を変わらず見つめるアイス・ブルーから目を逸らすのは偏に、気恥ずかしさがすべての理由だ。ハイルヴィヒは何を咎めるでも無く、再び令嬢の手を取った。さも其れが当然と言わんばかりに、何一つの違和感を抱かせぬまでに自然に。スヴェトラーナもまた、傭兵の手を握る事に抵抗は無い。
「あー……スヴェータ? うん、その、なんだ……ミュラでいいよ。様って、なんか慣れないし」
 視線をやや下方で彷徨わせてから再び薄氷色を見やって、ミュラはそう告げる。スヴェトラーナの顔ばせにはやはり、柔らかな笑みが宿るのみ。白百合の様に、けれど淡雪の様に融ける様な笑みを、令嬢は少女へ向けていた。
「まあ……ふふ、お優しいのですね。ミュラお姉様は…………ぁ」
 “お姉様”と続けたのもまた、さも、自然な流れと言わんばかりに。けれども令嬢はすぐにハ、として其の瞳を見開き、声を漏らして、すぐに伏せた。お姉様と呼ばれたミュラもまた再び、驚きと戸惑いに其の瞳を見開いている。言葉に詰まる令嬢は口ごもる。何かを言いかけては口を噤む。本当に、自然なことだった、無意識にお姉様と呼んでいた。兄と慕う人を前にした時と同じく、さも自然にそう口から溢れていたのだ。理由なんてわからない、わかるわけもない。ただ無意識に、そう呼ぶ事が自然だと言わんばかりに音となっていた。
「……お姉様も、なんか……こっ恥ずかしいな!」
 暫しの沈黙に、ハイルヴィヒも口を挟む事ができず、困惑混じりに蒼玉をミュラへと向けていた。けれども照れ隠しか、ケラケラと笑いながらミュラがそう言い放った事が幸いしたか、スヴェトラーナの戸惑いはふわり、飛んでいってしまったらしかった。ぱちり、とアイス・ブルーが瞬いて、次いで再び柔らかな笑みが相貌に宿る。安堵の色に瞳は輝き、吐き出す息はまた、柔らかに。
「……ふ、ふふっ……ごめんなさいね、ミュラさん。……なんだか、不思議。自然と溢れてしまって……嗚呼、本当に……不思議だわ。貴女様を前にするとね、なんだか、暖かな気持ちになってしまうの」
 再びハイルヴィヒの手を離したスヴェトラーナは一歩、また一歩、ミュラの方へと近寄って、そうして、其の手をそっと取った。白いレースに包まれていても、其の手の体温は感じられる。少しばかり顔を近づけて、穏やかな笑みのままで少女は感謝を告げる。淡い氷の色の中でまろぶ光は、今はミュラへだけ向けられる。触れ合うよりもずっと遠い距離、けれども語らうには些か近い距離で、令嬢の瞳は少女をいっぱいにうつしたまま瞬いている。天上に輝く太陽を思わせる少女を前に、令嬢の頭をふと過る人を、けれども今は振り落とす。他人の前で誰かを重ねる等、できそうにもなかったから。
「ただいま…………ミュラ、何やってるの?」
 ハイルヴィヒが咳払いをするのと、ソーニアが戻るのはほぼ同時の事であった。さて、学者の目に2人の少女がどう映ったかは定かではないが、少なくとも困惑があった事は違いない。戸惑った様に緑玉をハイルヴィヒへ向けるが、返ってくるのは無言のみ。羞恥を感じたのはミュラだけらしかった。目をパチクリと瞬かせてきょとん、としているスヴェトラーナを軽く押して己から離せば、碧玉の色は鋭く細められる……が、かと言って何があるわけでもない。変わらず何事か、とわからない顔をしているスヴェトラーナは決して不快に思うでもなく、寧ろ己の行動がミュラにとって不愉快だったかと不安をいだいたらしく「ごめんなさい」等と謝罪を紡ぐばかり。気にしないで、とも悪い、とも言いたげなミュラの視線に安堵感を取り戻すのはすぐの事ではあるのだが。
「お、おう、なんだ、その、おかえりソーニア。……うん、別に何もしてない!」
「……そう?」
 何でもない、と告げてもソーニアは何処か訝しげなままだ。当然といえば当然なのやも知れないが。かといって突く話題でもないだろう。ハイルヴィヒの咳払いが再び響く。そうしてからソーニアの澄んだ瞳はハイルヴィヒへ向き、次いでミュラの傍に立つスヴェトラーナへと向いた。
「2人は、ミュラの知り合い?」
「んー……知り合いっていうか……そっちのハイルヴィヒは前にちょっと会った事ある。ソーニアもみた事あるかも。こっちのスヴェータは、さっきはじめて会ったばっかりだぜ」
 さて、近くに居る方と前々から既知であるならばまだしも、ついぞ先程随分と親しげにしていた方が初対面とは此れ如何に。また一瞬、訝しげな視線を向けられたミュラはなにやら抗議したげであったが良い言葉が浮かばなかったのか、口籠るばかりだ。そうしてすぐに聞こえた足音は、スヴェトラーナの響かせるもの。ソーニアの方へ近寄って、再びカーテシーにて敬礼を。
「ごきげんよう……ええと、ソーニア、様? 申し遅れました。私スヴェトラーナと……スヴェトラーナ・ユスチノヴナ・ベケトヴァ申します。……此方は護衛のハイルヴィヒ、何卒、お見知りおきを」
 スヴェトラーナの表情はミュラへ名を告げた折と変わらず、蕩ける様な微笑みである。名を告げる事に抵抗はない。家名もまた然り。視察等と銘打ちつつも決して高圧的なものにするつもりはない。彼女らもまた、此処へ探索、乃至は調査に来た面々であるのならば、尚更に。少女の柔らかな色の瞳は只、慈しむように目の前の人を見つめていた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.117 )
日時: 2017/10/22 22:59
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 そう名乗る少女に相対し、ソーニアは深緑の瞳を向けるばかりであった。随分と珍しい人間が廓の中に来ている、と妙な関心を抱いた為である。日和見、様子見ばかりのベケトフが……、珍しい事もある事だ、と。
 何時までも口を噤み、返答のないソーニアを怪訝そうにスヴェトラーナは見つめ、小首を傾げている。清涼とした青を宿し、まるで世の悪や穢れという物を微塵も知らず、隔絶された世界で生きてきた人形のようだ。そういった物に一切染められていない瞳に見続けられるのはどうにも居心地が悪く、ソーニアは遂に口を開く。
「えぇ、宜しく。……この先に何かあって? そもそも何をしにきたの?」
 少し意地の悪そうな笑みを浮かべながら、ソーニアは地下へと口を開けた階段を見据えた。視線の先、朱の差した暗闇がそこにあるばかり。人の息遣いなどそこにはなく、影の一片すら見当たらない。だというのに何かが叫び、吠え、来るなと威嚇しているかの如く、聞きなれない音が響き渡っている。それが何なのかスヴェトラーナには分からず、彼女の瞳には不安を覚えたように一抹の翳りが宿ったようである。しかし、彼女の護衛である傭兵はそうではなく、真っ黒な瞳を細めながらソーニアへと向かってくる。
「誰か撃ってるのか」
「えぇ、ジャッバールがレゥノーラの掃討にね。人的被害なし、レゥノーラは多数撃破って所ね。あれが蹂躙っていう事よ、見て来る?」
「……危うい物に近寄る必要はないだろう」
 賢明な判断だとソーニアは穏やかに笑いながら「そうね」とハイルヴィヒへ返事をするなり、石壁に身を預けてその場に座り込んだ。暫くは此処に居続ける必要がある、最悪時間を見て地上に戻るべきであるためだ。階下では撃ち砕かれた死骸が斃れ臥し、辺りに力なく転がっているのだ。途切れる事のない銃声、火を噴く数々の銃口が化生の肉と壁を穿った結果、赤く染まった闇が広がっている。
「えぇ、賢明ね。……二人とも此処から先は暫く行けないし、少し休んでいったら? 回りは……まぁ、傭兵だらけだけど」
 そう語り掛けるソーニアは膝に銃を置いて、静かに笑っている。その姿が学者も傭兵も一瞥した程度では見分けが付かない。自分とてその内の一人だという自嘲であるようにハイルヴィヒの目には写るのだ。
 彼女の膝の上には見慣れない小銃があり、それがハイルヴィヒの目を引く。アゥルトゥラで使用されている物よりも短く、やや小振り。口径もやや小さい。恐らくセノールで使われている物だろう、何故彼女がそれを持っているのかという疑問を抱くも口に出す事はない。
「何時まで進めないんだよー」
「さぁね、まぁよくある事よ。……二人ともどうするの?」
 ミュラの野次を往なし、ソーニアは再び二人を見遣る。どうするも何も危うきに近寄るべきではない、一旦引き返すか、此処でジャッバールが引き上げてくるのを待つべきだろう。しかし、その判断はあくまで自身の物でしかなく、主であるスヴェトラーナの物ではない。彼女へ判断を促すよう、伏せ目がちにハイルヴィヒは視線を投げ掛けるのだった。
「……別の通路はないのでしょうか?」
 スヴェトラーナの口から出た問い、それに対しソーニアは思わず呆気に取られるのであった。レゥノーラの掃討、それは謂わばレゥノーラの巣へ火を突き回しているのと変わらない。スヴェトラーナの疑問に答えるならば「通路はある」となるが、刺激されたレゥノーラが此方へと向かってくる可能性があるのだ。
「スヴェトラーナ、良い? 今はレゥノーラの巣を突いてるのと同じ状況よ、無理に進むのは最大の悪手。命綱を首に掛けて綱渡りしてるのと変わらないわ」
 少しばかり脅かす説教の様になってしまうが、これで先に進もう等という考えは消える事だろう。恐らくスヴェトラーナはレゥノーラの恐ろしさを知らないだろう。あれは人間が太刀打ちするには頑強かつ凶悪過ぎる相手である。一度相対したが銃弾を何発見舞っても死せず、セノールの武門の者すら恐れをなした異形の怪物なのだ。
「……下に居る方々はそんなものと戦っているのですか?」
 己の身を案ずるでなく、掃討に従事している者達の身を案ずるような発言にソーニアは妙な違和感を抱くのだ。何がと問われれば形容に困る違和感ではあるが。敢えて謂うならば自己が希薄なのだ。周囲へ同調を原動力とし、辛うじて動いているように見えてしまう。良家の令嬢ともなれば、こんなもんかと思い至る。
「えぇ。前任者の怠慢につけこんで、此処の利権を全て掌握した。故に此処に出入りする面々の守護も受け持つようになった。……彼等程、レゥノーラとの戦いに長ける者達は居ないわ」
 怠慢、その言葉に彼女の瞳は僅か見開かれ、それと共に護衛であるハイルヴィヒの顔付きが険しくなったのが見て取れる。彼女達もハイドナーに組していたとなれば結果を出せずに居た事実を「怠慢」と謗られるのは気分の良い物ではないだろう。だが、それは事実だ。結果的にハイドナーの手勢が死んだだけ、クルツェスカの雲行きが怪しくなったならばそそくさと出て行ってしまった、謗られようとも反論の余地などないのだ。
「だからこそ聞いているの。何をしにきたの、って」
 その問いにスヴェトラーナの口は開かれず、その代わりに淡く青い瞳だけがソーニアの深緑の瞳を見るばかりであった。交わされた視線を互いに外す事はない。言いたい事があるならば言えば良い、何故口を閉ざし続けるのか、それがソーニアからしてみれば疑問であるのだ。
「此処に出入りする人間に付け入る隙なんてないわよ。発掘用の拠点だってジャッバールが用意したし、昇降機だってそう。あなた達が出来るのは邪魔にならないようにするだけ……、下にジャッバールの人間居るけど少し待った方が良い」
 階下へ繋がる暗闇を見て、ソーニアは静かに笑いながらそうスヴェトラーナに問い掛ける。結果は言うまでもない、ベケトフの人間に出来る事はないだろう。このタイミングで廓へ訪れたという事は打算を孕んでいると容易く察し取れる。現実を突きつけられたならば廓から立ち去る事も有り得るだろう。余計な犠牲者候補を増やさずに済む。
「……止んだか」
 ふと、ハイルヴィヒが呟く。階下から響く銃声は静まり、平静を取り戻したように感じられる。スヴェトラーナが何も言えずに居る以上、誰も言葉を発する事なく静まるのであった。
 階下へ至る階段は全くの暗闇、篝火の朱が僅かばかり差してはいるがそれは足元を辛うじて照らすだけの物に過ぎない。間を持たせるにも何か話す訳にも行かず、ミュラがそこへ視線を送った刹那、再び銃声が鳴り響くのだ。それも厭に近い場所でだ。反射的にソーニアは抱えた小銃を階段へと向けながら、少しずつ後ろに下がってくる。出遅れながらもハイルヴィヒはスヴェトラーナと庇うように銃を携え、ソーニアと隣り合う。
「近いわね」
「あぁ、近い。……ソイツを撃てるのか」
「一応ね、当たるかどうかは別の話」
 何時の間にかミュラが傍らで拳銃を構えて居るが、彼女の顔色には緊張が見え隠れしている。恐らくこの状況、レゥノーラが寄って来たとしても銃をまともに扱えるのはハイルヴィヒだけだろう。足手まといを三人抱えた状況でこの傭兵がどこまで立ち回れるかは甚だ疑問だが、それでも抵抗しなければただただ死ぬだけである。
 三人が一様に銃を構えたまま、暗闇を睨む。階下の銃声は途切れ途切れとなり、途切れる事のない銃声は全く聞こえず異常事態が起きているのは明らかであるのだ。
「何か……、来てるぜ」
 ミュラの声は少しだけ震えているように感じられたが、恐らく今自分も彼女に返事をしたならば同じような声を出してしまう事だろう。そんな情けない姿を見せるべきではない。今は口を閉ざしたまま、構えた小銃の銃床を頬に強く押し付ける事しか出来ないのだ。
「セタキル……ロシセルエ」
 暗闇から聞こえる声、それは人間の物ではなく、厭に冷たく、厭に重苦しい代物であった。暗闇に差す朱色、そこに姿を現したのは小柄ではあるが手に棒状の得物を持ったレゥノーラである。青く光る瞳、薄っすらと開かれた口元からは賢者の石と思わしき、赤い結晶がこびり付いている。ソーニアとミュラにはそれが何であるか、正体を察するに容易い。
 そのレゥノーラはランツェールであった。銃弾を浴びた白い肌を曝し、返り血を滴らせながらそれはゆっくりと歩む。カンクェノ発掘が開始された時から人間の前に立ちはだかり、人間は一度の勝利すら得られない。そんな存在が眼前に居る。それはとても恐ろしく、姿を見ただけで敵愾心を挫かれてしまいそうだ。だが、そんな事は許されないのだ。ソーニアの小銃が火を噴くなり、矢継ぎ早にハイルヴィヒ、そしてミュラが引き金を引く。ソーニアの一発はランツェールの右肩を穿ち、ハイルヴィヒの銃弾は首元を穿つ。ランツェールの上体は大きく反るも、全く効いている様子はない。傷口を真っ赤な液体が覆い、凝固していく。
「ナァ……トミムョクテレツ」
 何かを呟き、ランツェールは一気に駆け出す。次弾の装填は間に合わず、ミュラの持つ拳銃だけが一発、また一発と火を噴くもその銃声も五度で鳴り止み、二発しかランツェールに当たる事はない。その白い肌の上を滑った赤い液体は凝固し、それが辺りに散らばって行く。ソーニアが小銃を投げ捨て、鉈を抜いた刹那、ランツェールの槍の穂先はソーニアの肩の上を超え、石畳に突き刺さる。それを軸にソーニアの身を超え、ランツェールはただ駆け抜けていく。
「……えぇ?」
 レゥノーラの本能に反する行為に戸惑いを覚えながら、ソーニアは震える手で鉈をシースに戻そうとするも上手く収まらず切っ先が右腿に触れ、僅かに血が滴った。ふと視線を下げるとすっかり青褪めた顔をしたスヴェトラーナの姿があった、彼女は尻餅を付き、僅かに身を震わせている様である。
「お嬢様、手を」
 ハイルヴィヒが差し伸べた手、それをスヴェトラーナは中々握れずに居た。すっかり強張った身体は言う事を聞かず、ただ恐れ戦くだけ。心すら圧し折られてしまいそうである。ハイルヴィヒはスヴェトラーナを案じ、ソーニアはミュラを傍らにランツェールの妙な行動に疑問を抱くのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.118 )
日時: 2017/11/14 13:51
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

「なんか騒がしいですねー」とどこか他人事の様に呟いたのはレアである。抑揚のない口調とは裏腹にその目はキラキラとした期待に満ちており、暇があると槍の調子を確かめるように槍杆の中段をしきり撫でている。そんなレアの様子を横目でチラチラと確認しつつも、エドガーはどこか落ち着かない様子で昇降機の中を歩き回っていた。彼女の目になると覚悟を決めてここまで付いてきたものの、やはり後悔は拭えず、無力な自分がどこまでレゥノーラに通じるのか、どこまで彼女に守られ、そして守っていけるのか不安があった。いっそのこと機械トラブル等が起きて動きが止まってくれはしないかと願ってしまうのだが、彼の思いとは裏腹に相変わらず昇降機はゴウンゴウンと音を立てて二人を地下へと誘っていく。
 昇降機が止まり、僅かな衝撃がここが終点であると知らせてくれる。一度ここで降りて別の昇降機に乗り換えるのだ。アゥルトゥラの気候とは異なる地下特有の纏わり付くような湿っぽさが不快であった。故、空気を散らすよう足の爪先を上に向けて蹴り上げるようにして二人は歩く。
「なぁんか嫌な感じですね。こうべっとりくっついてくるって言うんですかね。あんまり好きじゃないです」
「あぁ、そうだな。それに」
 ここでエドガーは言葉を切り、基地を全体を見回した。右往左往と慌ただしく動く学者連中は研究の忙しさに追われているよりは、予期せぬアクシデントに見舞われて焦っているようだった。顔のどこかに不安が陰り、学者ですら武器を片手に同じ学者仲間と話をしている者が多くいる。どっしりと構えているように見える傭兵連中も武器を手放そうとせず、必要があればすぐにでも戦うことができるだろう。敵のいない安全地帯であるはずなのに肌を刺すような緊張感は何なのか。エドガーは手汗をズボンで拭い、普段は楽観的なレアもヒリついた雰囲気に呑まれ、居心地の悪そうに顔を顰めていた。
「なぁ、本当に何かあったんじゃないのか」
「下の方で大きなレゥノーラ狩りをしているって言ってたじゃないですか。きっとそれのせいですよ。私達も早く混ぜて貰いましょう、親方」
 六十階以降でレゥノーラの大規模な掃討作戦が行われているのは知っていた。昇降機を使った際に偶然乗り合わせた学者と彼が雇ったであろう傭兵が教えてくれたのだ。あまりじろじろとは見ていないが、いやに身長が高い傭兵であったことは覚えている。(肝心の顔はフードを被っていたために見えなかった)
 戦場に赴くことを良しとしないエドガーは乗り気がせず、遠回しにここで待機しようと提案したものの、要らぬ気遣いはレアに察せられることはなく終わる。足取りの重いエドガーを引っ張り昇降機に押し込むと地下に向かうためのスイッチに手をかける。指に力を込める前に、一緒に乗る人はいないかとレアが問うたが応えた者はいなかった。一瞬波打ったように静かになったと思うと、二人のほうを瞥見しコソコソと耳打ちをするのみ。「言いたいことがあるならはっきり言え」と立腹するレアを宥めエドガーがスイッチを押す。足が地から離れた浮遊感を一瞬味わったのち、昇降機が動く。地下に降りていくにつれて頬に当たる風は冷たく鋭利なモノになっていく。平均体温が三十七度と高く比較的寒さに強いレアも堪えるらしい、腕を軽くさすっている。だから厚着してこいと言ったのにと非難めいた視線を向けているとレアと目があった。
「親方の外套ください」
「俺が死ぬから無理」
「親方は長袖着てるからいいじゃないですか」
「俺は寒いの苦手なんだよ」
 冷たく突っぱねればレアはむくれながらも渋々マントの袖を離す。聞き分けの良い子供のような仕草にエドガーの顔には苦笑いが漏れるが、その顔も耳を貫くような発砲音に思わず強張ってしまう。ワイヤーが擦れる音には慣れたが、小気味よくタァーンタァーンと廓内に響く発砲音には未だ慣れず肩が揺れてしまう。生き物の命を奪うソレはエドガーにとっては死神の声と変わらない。だからとてつもなく恐ろしい。
 二人が五十階まで到達した時、多くの人がごった返していた。確かにここにも前哨基地があるので上下の階と比べると人は多い。だが、座る場所が確保出来ないほど人が集まることは滅多にあることではない。昇降機の到着すると、無数の視線が一気に二人に突き刺さるが、すぐに興味が失せたようで皆、先ほどの会話の続きや武器の手入れの続きを始める。状況が掴めず惚けた二人の耳に飛び込んできたのは一体のレゥノーラが階下から徐々に階上へと上がってきているという報である。ようやくエドガーは先ほど鳴っていた発砲音の意味を理解し、戦いた。今現在は多くの傭兵や兵士が駆り出され足止めしてくれているおかげでレゥノーラの影はまだここにはない。だが、彼の山登りは順調らしい。六十階を超えたと聞いた時は周りがざわめき立ち、幾人もが昇降機へと乗り込み地上へと帰って行く姿が目立つ。誰も咎めはしない。それが生き残る上で最良だと理解しているから。ただソレをせずに死地へと飛び込む愚者もいる。
「先輩はここにいてください」
 レアも斯様な輩であった。槍に巻いた包帯を解きながらエドガーの方を一切合切振り向かずに答える。彼女の意識はエドガーのことよりもこれからやってくるであろうレゥノーラへと移っていた。包帯が全て外れ相棒が姿を現すと彼の返事を待たずに少女は廓の奥へと走り出す。
「行っちゃ駄目だ」とエドガーの制止は輻輳した人々の前では消され、レアの耳には届かなかった。カルウェノ人と大差ない小柄なレヴェリは直ぐに人並みに飲まれ見失ってしまう。水仕事で荒れた指先はレアの金糸を絡め取ることは叶わず手元に残ったのは彼女の残り香だけであった。後悔をすることさえも忘れ、呆然と立つ男の耳に「あいつ、終わったな」と見知らぬ誰かがせせら嗤う声が聞こえた。思わず声のした方をキッと睨みつけるが、自分の身長を優に超える男に見下されれば、体中の筋肉が緊張し委縮してしまう。切れ味の良いナイフを喉笛に突きつけられているような感覚に反射的に目線が下に向いてしまう。男はエドガーを見下ろし鼻で笑うと、小銃片手にレアの後を追うように人を掻き分け廓の奥へと消えていった。自分の無力さに涙が零れそうだったが、グッと堪え、これから自分が成すべき事を考える。手元にある武器は折りたたみ式のナイフが一本とリボルバー拳銃が一丁。それと替えの弾が5発。あまりに心許ない装備だ。新しく武器を買おうにもそんな大金を用意できない。そもそもこの状況下で売ってくれるかさえ分からない。頼る人すらいない絶望的な状況で、立っていることしか出来ない自分がもどかしかった。

 避難してきた人の波に押し流されそうになりながらもレアの爪先は廓の奥に向いていた。今の彼女はレゥノーラに対する憎悪と彼らを屠れるという歪んだ愉楽のみを糧に動いている。彼女の身を案じた言葉はただの雑音として片付けられ、赤い瞳を持つ少女は同じく血のように赤い瞳をもつ化け物を殺すために奥へと向かうのだ。腕を引っ張れば多少は止まるのだろうが、燃える炎の中に落ちた栗を素手で拾う者はいない。レアに向けられたのは嘲りと哀れみの視線だけだった。
 さて、人々の雑踏が遠のき視界が開けると廓の奥で何が起きているのか手に取るように分かる。絶え間なく聞こえる発砲音が止み、見知らぬ誰かの劈くような声が響く。それがレゥノーラか人間のモノなのか。恐らく後者であろう。硝煙の臭いに混じり微かに血の臭いがここまで漂い、多くの者は先の見えぬ暗闇で起きた出来事を頭の中に思い描く。ゴクリと誰かが息をのみ、多くはその足を止めた。何が来てもいいように先の見えぬ暗闇にジッと目を凝らす。無論レアもその足を止めたが、その実、親の仇と殺せる喜びに打ち震えていた。前回はガウェスに邪魔をされたが今回は違う。自分の手で憎き化け物を闇に葬り去ることができる。鼻がなくのっぺりとした顔に槍の刃先を突き立て何度も嬲り尽くし、その白い四肢を抉り、穿つ。そいつが息をたっぷり含んだ声を上げ許しを請うても内蔵をかき混ぜてやるのだ。そして赤い結晶を垂れ流し、宝石の運河を作ってやる。想像するだけで笑い出してしまいそうだった。もやは彼女に敗北の文字はない。これからやってくる仇敵の惨たらしい最期を思い浮かべ少女はうっそりと微笑み自分の背丈以上の槍に手をかけたのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.119 )
日時: 2017/11/14 16:46
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 息の仕方すら忘れてしまったかの様だった。震える身体は呼吸すら拒否してくる様で息苦しい。スヴェトラーナがハイルヴィヒの呼びかけに何一つ反応出来なかったのは、今しがたの恐怖が心の臓に刻まれたせいだ。空気を求めて僅かに開閉を繰り返す唇も、震えで動きもままならない。恐ろしいものが居るのだとは知っていた。わかっていた、つもりだった。ハイルヴィヒの声も、ミュラとソーニアが何やら話している声すら、遠い場所で響く音の一つとしてスヴェトラーナの耳には届いている。止まらない衝動に身を委ねるならば、きっと泣いてしまっていたのだろう。すんでのところでそれは押し留められている、否、恐怖でそんなものすら飛んでしまっているのかもしれない。明滅する光は其処には存在しないのに何故、何故。此の瞳の奥に赤く光る何かがあるのか。少女には理解できない、何一つ。理解を頭が拒んでいるのではないかとすら思えるほどぐわん、と脳内がかき回される感覚を憶えていた。
「ハ……イル、ヴィヒ……ハイルヴィヒ…………、……わたし」
 少女は漸く声を絞り出す。明滅する光が、眼窩に焼き付いて離れない。銃声が耳の奥でまだ響いている。飛び散る赤は美しかったというのに、あの青い色は何故あんなにも恐ろしかったのか。脳裏に描く姿が明確にならぬままに見据える先の青い色。同じ青い瞳でも、手を差し伸べてくれる人の青のなんと優しく美しい事。顔をあげて、呼吸をするだけで精一杯だった。声が掠れて、きちんと音になっているか、自身の事だというのに定かではない。齎された情報量が多すぎるわけではない。にも関わらず少女の脳内は混乱だけが占めていた。心臓が、痛いくらいの速度で動いている。何かがこみ上げてくるようで只、恐ろしく、悍ましい。思索をと思えど何も考えられなかった。ただ怯える一人の少女である事しか、今はできない。
「私……なにも、できなかった。なんにも、ねぇ……ハイルヴィヒ。私……なにも」
 声が震えた。底冷えする様な悍ましさが背筋を伝う。見開かれずとも其処に鎮座する一対の淡い水の色は湖面の様に揺れていた。少女は、両の手で自らの肩を抱きしめる。嘆きを、哀しみを紡ぐ言葉は氷のような冷たさすら孕んで。涙は未だをの頬を流れずとも、瞳に浮かぶ光の珠は、きっと。
「お嬢様……貴女は…………」
 傭兵の手を取って、怯えたような目をしたままでうわ言のように言葉を吐き出す少女に、かけるべき言葉は如何なるものであるのか。傭兵自身もわからずに居た。何も出来なくて当然だ、何もさせなかったのだから。彼女はそう在るべきであり、そうした存在である。寧ろ不用意に動かれれば、ハイルヴィヒとしても困るどころでは済まなかっただろう。握りしめる白い手の、なんと冷たいことか。この手が銃を握る可能性を思わなかったわけではない。けれどもそれは酷く、不釣り合いなものに思えて仕方がない。なにせ白いレースが土に薄汚れてしまっている事ですら、不自然極まりない事象に思えて仕方がないのだから。抱きしめる事が叶うならばそうしていたのかもしれない、けれどもハイルヴィヒはスヴェトラーナの手を握るに留まっていた。無意識の境界線は、二人を隔てる一線の様であり、けれども或って無い如くのものに相違ない。彷徨う少女の薄氷色がふと、学者たる人の方へと向いた折の事だ。其処に流れる僅かな赤を認めれば、薄氷は丸く見開かれる。零す音は声ですら無い。ただ短く、吸い込む息のような音であった。
「お怪我を…………大丈夫、ですか……ソーニア様」
 静寂を破り、ハイルヴィヒの手を離したスヴェトラーナはソーニアの元へと向かい、不安げな声を零す。揺れる瞳は最早ソーニア以外の何者も映してはいない。後ろに続くハイルヴィヒですら、その色に映る権利すらないと言わんばかりに。一切を排していた瞳が、再びハイルヴィヒを見やるのはスヴェトラーナがソーニアの前にしゃがみ込みその翡翠の瞳を近い距離で見やった後の事である。
「ハイルヴィヒ、ソーニア様のお怪我の治療を。……必要なものは持ってきておりますから、ご安心くださいね、ソーニア様」
 ソーニアが何か言葉を口にするよりも早く、スヴェトラーナの目配せと共にハイルヴィヒが彼女の傍に膝をつく。その手を覆っていた手袋を外し、手袋を中へ入れる傍ら腰の鞄から水筒を取り出した。其れを慌てて手で制するのは他でもない、ソーニアであった。ゆるり、青い瞳は持ち上げられ、深い緑の色を真っ直ぐに見据える。口は付けていないが、というやや的はずれな言葉に、緑の瞳は何処か訝しむ様に歪められた。それとほぼ同時に、下方に在った青い色がソーニアの緑の瞳を至近距離で見つめている。
「ひとまず、応急的な処置だけでも大人しく受けてくれないか、フロイライン・リエリス」
 ささめごとの様な言葉であった。立ち上がったハイルヴィヒは耳朶に息が触れる程に近い距離で、僅かな声量で、呟く様に言葉を零す。翡翠の色は丸く見開かれた。すぐに離れたハイルヴィヒの顔を慌てて見やるも、その顔には平素と変わらぬ仏頂面が張り付いているだけだ。其の癖、青い瞳はソーニアの瞳を射抜く様に見つめ続けている。これではまるで脅迫だ。その実、ハイルヴィヒにその意志は無く、ある意味令嬢を安堵させるために彼女を使う事への罪悪感が僅かに在ったのだが、其れが言葉になる事はない。
「……わかったわ。それじゃあご令嬢のお言葉に甘えるとしましょうか」
 その言葉に安堵の息を零すのはハイルヴィヒではなく、スヴェトラーナであった。

「……戻りましょう、ハイルヴィヒ。……ソーニア様も、ミュラさんも。……このまま進む事は、とても得策とは思えません。下の方々にお願いをするのも一手ではありますが……どこまで協力を仰げるか。お二方だけならまだしも、その……私が、いるのでは。……それに何よりもソーニア様の怪我の手当を……優先したく思います。此処でやるよりも上のほうが落ち着けるでしょう? ……先程の、あの……“あの子”も上へ行きましたけれど……敵対の意思さえないならば、或いは……」
 ソーニアの傷の簡単な洗浄が終わった折、伏せた瞳をゆるりと持ち上げ、少女は語る。その瞳は訝しげに歪む翡翠を捕らえた時、ハ、として見開かれた。ふわり、少女の視線が宙に舞うのは一瞬で、再び僅かに瞳は伏せられ視線は下方を彷徨う。けれども今は、そればかりではなかった。やや薄氷の根底の色を揺らがせつつもふるりと、睫毛を揺らす。一歩、二歩、距離を詰めれば真紅のスカートの裾が踊る。
「その……分かり合える、とまでは申しません。ですけれど、此方に敵意がないと知れば危害を加えて来たりはしないのではないかな、と……思わなくも、ないのです。……言葉が通じればそれこそ……。……いえ、すみません。此方は……戯言と聞き流してくださいませ」
 確証などありはしない、けれどもあの時己は一瞥すらされずに見逃されたのではないか、と少女は何処か感じるものがあったらしい。恐怖は確かにあったのに、未だにこの様な事を口に出来る事に、スヴェトラーナ自身何処か呆れさえ憶えていた。それでも思わず口にしてしまう程には只、可能性を求めていた。無謀とは知っている、無知とは百も承知。故に少女はただ、苦笑にも似た笑みを浮かべる。「すみません」なんて言葉がまろびでるけれども忘れて、とは言わなかった。
「ねえ、ソーニア様。ひとつ、宜しいですか?」
 歩む最中、少女は、意を決したように口を開く。不安に揺れる瞳で、けれども目の前の深緑の色をただ、真っ直ぐ見据えて。問う先の彼女は赤毛を僅かに揺らす。
「何、スヴェトラーナ」
「先程の……ものは、人をいくら揃えても到底太刀打ち出来るものではないという認識で、良いのでしょうか。話し合う云々は抜きにして、正面からぶつかるならば、ですけれど」
 憂う様に、瞳を伏せるのは一瞬の事。またすぐに、薄氷の色は翡翠を見やる。柔く明滅を繰り返す様に、ぱちり、ぱちりとその双眸を瞬かせて。言葉の節々に滲む柔らかさは、此度ばかりは良い方向に働く事もないだろう。少女が平穏をこそと望むのは嫌というほどにわかりやすい。かと言って其れが理想論に過ぎぬ事もまた、少し世を知る者ならばすぐに理解できてしまう事だった。
「そうね、今のところは。……それにそもそも、話し合うなんて考えは捨てた方がいいんじゃない? あれが何を言っていたか貴女、わかる?」
 その言葉に、少女の瞳は逸らされた。何かを口にしていた事は理解できても、その内容までは理解できない。言語でのコミュニケーションが望めない以上、言葉で解決する事は不可能だという事くらい、スヴェトラーナにもわかっている。それでも何かを話すならば、分かり合える可能性を思ってしまうのは一種、少女の無垢な愚かさというものなのだろう。何かを思い悩むように、その瞳は伏せられた。
「ならば、そうですね……私達に出来る事……いえ、いいえ。私達が為すべき事はきっと、一つなのでしょう」
 ぽつねん、と言葉がこぼれ落ちた。星色の髪を揺らして、少女は音を紡ぐ。未だ知らぬ心を知るために、たどたどしくも紡ぎゆく。選び取る道に迷いながら、逡巡を経て、この手に何かをひとつ、ひとしずく、たった一粒、つかむために。
「付け入るなんて、そんな事を望んではおりません。権利の一つもいりやしません。戯言をと思われても仕方がないでしょう。ですけれど……叶うならばただ、協力を、協定を。……我が家が、いえ……私が望むのは平穏なのです。只、其れだけ。……傲慢とは知っています。叶わぬ夢かもしれません。ですけれど……そうだとしても“私”はもう、此処に立っていますから」
 夢見る少女は甘やかな、砂糖菓子の言葉ばかりを吐き出した。愚かなどと百も承知。選び取る事はすなわち、責任が生まれる。少女にとってそれはきっと恐ろしい事に相違ない。けれど、真実から顔を背け、決断を先送りにしてきた事も、それを選択していたのだと自覚するの瞬間は家を出てから多々あった。そして今、言葉にして漸く実感としてこの胸に染み渡る。痛みを憶える様な感覚さえあった。無力感に打ちひしがれる心地さえある。本来持ち得ぬ夢を見る自由を得てしまったが故に、この胸が痛むのであるとすれば目を閉じたいとすら思う。それでも一つ、前を向き、歩を進める理由があるならばきっとそれは、自ら選んだ道を否定したくない、その一心だったのかもしれない。正義を叫ぶ心を少女は持ち得ない、けれど。
「惰性に日々を過ごし、怠惰に身を任せ、怠慢に過ぎる行いをしたせめてもの罪滅ぼしなどとは申しません。ですけれどせめて……せめてもの責任は果たさねばならない……と、その……思うのです」
 一瞬の後に再び持ち上がった瞳には迷いの色が宿る。けれど同時に、震える声には決意も共に。残された時が僅かである事は、スヴェトラーナとて薄々理解していた。幾年後には何が起こるか知り得ない。何時か家名を背負う必要がなくなる日も来るのだろう。その日が何時訪れるかはわからない。或いは、背負う前にその必要がなくなるやも知れぬ。そうだとしても、今できる全てを為したいと思う。ついぞ先程まで怯えていたばかりの少女は名を汚さぬ様にとの心を胸に。口遊む愛の言葉を知らずとも、唄うべき言葉を知っている。知らぬことばかりの中でも何かを為すべく歩む事こそが正しいのだと柔らかな心で信じていた。後ろに続くハイルヴィヒは何も語らない、想うことはあれど、其れを言葉にする事は今は出来なかったらしい。少女の言葉は、彼女が選び取る道を模索する中でひとつ、選べる真実だった。その過程でこの身を失う事になるとすれば、或いは其れもまた。
「……難しい事はよくわかんねーけどさぁ」
 前方より少女の声が静寂に響く。瞬く彗星は何かを求め、縋る様に。スヴェトラーナと視線が交われば気まずそうに目を逸らすミュラは軽く頬を掻いている。
「いいんじゃねえの、そうしたいって思うなら、そうしたら。家の事とか、柵とか、そういうのは其れこそ私にはわかんねぇけど。……スヴェータがそうしたいっていうなら、そのために頑張ればいいじゃんか。それじゃ駄目なのか?」
 カツン、と少女の踵が音を奏でる。一歩、二歩、そうして三歩。ミュラとの距離を詰めるスヴェトラーナの表情は其れこそ何処か穏やかに、甘やかな微笑み。柔らかな月光の色を瞳に融かして、ミュラの手をそっと握りしめる。
「ふふ、ふふ……そうかも、しれませんね。ミュラさんったら、もう……」
 自由を知るその瞳が羨ましい。はた、と浮かぶ思考を少女がふるい落とすのは己の浅はかさ、はしたなさを恥じた故に。代わりに浮かぶ笑みはただ優しさだけを湛えていた。月明かりの星空に柔い夢を祈って。ハ、として手を離すのは己の手を覆う白が、土に汚れていた事を思い出したからだった。「ごめんなさい」なんて呟く声は苦笑交じりの笑みとともに。別に、と言う声が鼓膜を震わせれば、少女はまた喜色を隠さず笑みに宿す。今度は素手のまま、やや日に焼けたその手を握りしめた。暖かな感覚につい、少女の瞳は細められる。
「……仲が良いのは結構だけれど、早く行きましょう。手当してくれるんでしょ」
 ややあってから、咳払いの後にソーニアの零す言葉に弾けるように、どちらともなく手は離された。スヴェトラーナは変わらず笑顔のまま、またごめんなさい、と言葉を零す。そうして少女は、何時か来る夜明けに向けて歩み出す。一歩は頼りなくとも一人ではないならば、きっと。薄氷に暁の夢を宿して歩む先を見つめていた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.120 )
日時: 2017/11/16 23:50
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 赤く濡れた得物を引き摺り、それは暗闇から姿を現した。何発かの銃弾がその身を穿ったのだろう。真っ白な皮膚に幾つかの皺が生じ、それは蛆が這う様に蠢く。それ等が一つの塊となり、銃創を塞いでいった。それでも白磁のような肌にこびりついた赤い結晶は石畳へと落ちず、形容のしようがない異質さを醸していた。その異質さは恐怖を輩としている物であるが、レアは恐れ一つ抱かず、一歩、また一歩と向かっていく。踵を返すなどという選択はない。長槍の穂先を石畳へと下げ、眼前のランツェールを睨む。これは父母への弔い戦である、目の前の化物を殺めたならば父母の無念も少しは晴れる事だろう。
 原動力たる怨嗟は苦々しくあるが、その先にある報復、復讐、その類は甘美な物である。一歩、また一歩とランツェールに近付いていくにつれ、言い得がたい高揚感を覚え、少しずつ自身の口角が釣りあがっていくのが感じ取れた。ランツェールの血に濡れた得物を見ても、やはり恐怖を覚える事もない。恐怖を感じる事もない。ともすればレアは駆けるしかないのだ。長槍の穂先をランツェールへ向け、石畳を駆けてゆく。自身の死などという最悪な想像は微塵もない、眼前の仇敵を屠るという未来しか見えないのだ。
 目の前に迫る人間の女、それは得物を携えている。恐らくは今此処で退けても執拗に追ってくる事だろう。しかし、一人で何が出来るというのか。手折るも容易い、刺し穿ち殺めるも刹那の如し。であるならばやるべき事は一つしかない。
「トォア、コクラ」
 ランツェールの得物、その穂先が彼女へと向く。嗄れた声で愉悦を口にした刹那、その青い目は大きく見開かれた。自身の身の丈以上もある長槍、それを胴に受けるも、更に一歩、二歩と突き進んでいく。傷口が柄すらも飲み込み、その冴え冴えとした白を汚していく。刺し貫かれようと表情の歪まぬ眼前の化物、恐らくは痛みすら感じていない事だろう。であったとしてもレアは鬼胎抱く事なく、長槍を引き抜こうと身を翻した。化物の真っ白な手が柄を掴み取り、得物の切っ先をレアへと向けているからだ。青い目と視線が合うなり、槍の穂先を軸にランツェールの身体を右へと振り、そのまま力任せに槍を引き抜いた。真っ白な手は槍の穂先に割かれ赤い液体に染まるも、すぐさま結晶に覆われていった。恐らくあのまま居たならば、あの得物を用いた投擲を食らっていた事だろう。一歩間違えば死が訪れる。
 レアは言い得がたい高揚感に心は蝕まれ、命のやり取りというのはこういう感覚か、と内心感嘆するばかり。それはランツェールとて同じであった、銃で一方的に撃たれるでなく一合、二合とただただ刃を結び合うと、古い記憶が呼び戻されてくるのだ。昔の人間、そのまた昔の人間と対峙した記憶だ。勝敗など覚えていない、それでもその記憶に昂ぶりを覚えざる得ないのだ。
 言葉なく猛り、ただ吼える。眼前の化物は宛ら狂戦士の如く。長槍の穂先へ向かい駆け、刃が身に食い込めど止まる事なく、得物を振るう。切っ先がレアの右半身の彼方此方を掠め、その都度に肌の上を血が伝い、落ちていく。煩わしい痛みに呻きを上げながらも、右足を踏み込み上体を倒した刹那、右膝へとランツェールの得物が突き刺さる。撚った麻紐を力任せに引き千切ったような、乾いた音と共に訪れる激痛に吼えながらも、ランツェールの身体を突き倒す。一瞬、視界に入った膝は肉が裂け、骨が顔を覗かせていた。倒れてなるものか、と石突を石畳に突きながらランツェールを睨めば、その青い目もレアと等しくあった。白磁に差す朱、二つの青は目を背けたくなる程に美しく、同時に恐ろしげであった。現世のものではなく、常世のものではないのかと錯覚する程にだ。そんな化物が駆け、今眼前へ至る。開かれた口は厭に赤々とし、それへと突き刺さろうとする己の槍の穂先は最早止まらず、己の右目へ至る化物の得物も止まる事を知らない。
 頬を伝う血と柄を伝う赤い液体が混じり、石畳を汚していく。赤黒い沼に咲く、睡蓮の花の如くそれを踏み潰すのはレアの足であった。
「……ばけっ……、化物がっ……」
 ランツェールの身は槍の穂先へぶら下がっている。右手に持った得物、その切っ先はレアの額を切り裂いているも、致命打になっていない。身を焼くような痛みに耐えながら、化物の身を突き倒すとそれは死んだように身動き一つせず、石畳に寝転がっていた。ランツェールから離れ、尻餅を付くように座り込み、痛みを堪えるように唇を噛み締める。血に濡れた右足を見遣ると膝の辺りには大きく切り開かれ、骨が顔を覗かせていた。白い筋ばった繊維のような物は二つに断たれている。額から流れ出る血のせいで、視界は赤く染まりどこからどこまでが血やレゥノーラの体液で汚れているのか分からない。痛みに苛まれながらも、石壁へ身を預けるように上体を起こした。廓の奥からは足音と人の声が聞こえている。安堵を抱き、再びランツェールを見据えた時であった。
 白く細い指が動き、石畳を引っ掻くようにもがいているのだ。安堵は恐怖に塗り代わり、得物を求めるも化物に突き刺さったまま。己の身の丈以上もある槍を口に突き刺したまま、それは立ち上がる。柄を握り自分の頬を引き裂きながら、槍を引き抜くと裂けた口をだらりと開いたままレアを見据えていた。
「ミキィツ……、ジィキツ……」
 頬が裂けている故だろう、化物が発する言葉は舌足らずであり空気の抜けたような印象を持つ。まるで嬉々とし笑うように目を細めながらランツェールはレアの長槍を片手にゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。動こうにも足は動かず、声を上げようにも恐怖から震えるだけで口から声が出るような事もない。レアの耳に入るのは死神の足音ばかり。ランツェールがレアの傍らに落ちた己の得物を拾い上げると、その青い瞳はぼんやりと彼女をただただ見下ろしていた。厭に人間らしさを感じるそれであったが、恐怖の対象である事には変わらない。足が動くならばすぐにでも逃げ出し、死という結果を忌諱したくて仕方がないのだ。だが、それは叶わない願いであり、忌憚すべき死は踵を返す事もない。長槍の穂先がレアの頬を伝い、彼女の頬の皮膚を裂いて行く。ひりつく痛みと恐怖に苛まれるうちに穂先は頬から離れていく。血を流しすぎたのか、離れていく穂先の先端をしっかりと捉える事も出来ず、混濁し始めた意識に苛まれるばかり。ランツェールが次に何をするかなど分かるはずもない。ぼんやりとした視界の中、厭に映える青い瞳だけがレアの脳裏に鮮烈に、鮮明に焼きつくのだ。真っ黒な意識の渦の中、見たのは青い光、最後に聞いたのは腹の底に響く銃声であった。




 眼前に斃れ臥す女を他所に、ハイルヴィヒは小銃から出る煙の匂いに目を見開いていた。ソーニアから借りた小銃の軽さも去る事ながら、比較的短い銃身から来る取り回しの良さ、組み立て精度の良さに驚いていたのだ。反動は少なく、後装式である故に再装填も用意。明らかに近距離での使用を想定されたそれに明確すぎる「人に対する殺意」を感じ取らざるを得なかった。それを傍らのミュラに押し付け、既に弾が込められた自身の小銃を構えたならば厭に重く、粗雑な作りに苛立ちを覚えた。照星を照門の溝に収め、ランツェールの額に照準を合わせる。そして間髪入れず、引き金を引くなり炎と煙と共に弾丸を放ち、ランツェールの額を穿つ。首が大きく跳ね上がり、天井を睨んでいるがそれでも身体は倒れず、それどころか飛び上がり天井に張り付くようにして四つん這いで向かってくるのだ。裂けた口からだらしなく垂れ下がった舌は厭らしく蠢き、得も知れない得体の知れなさを醸す。背後でスヴェトラーナから、短い悲鳴が上がったのは気のせいではないだろう。
「……寄越せ」
 ミュラから拳銃を引ったくり、天井に張り付くランツェールを見据えた。人間を撃つのと造作もない。寧ろ人間のように喚き、命を請うような真似もしない故に実に撃ちやすくある。傍らでソーニアとミュラが小銃を構え、ランツェールを睨んでいるが当てられるだろうか。そんな疑問が思い浮かぶも撃たないよりは幾らかはマシであり、彼女達を制する理由などない。
 放たれた銃弾は一発、二発とランツェールの身を穿ち、その内の一発が細足を太股の辺りから削ぎ取る。耳を覆いたくなるような叫びを上げている。
「その倒れているのを連れて行け、殿は私がやる」
 顎で行けと促し、ハイルヴィヒはミュラから小銃を引っ手繰りランツェールへと銃口を向けた。背後ではソーニアがスヴェトラーナの手を引き、ミュラが倒れている女を担ぎ上げている事だろう。各々が役目を果たしている。ならば、自身に出来る事は何か。その答えは単純かつ、一つしかない。目の前の化物を少しでも足止めである。階上に逃げた先、まさかこれほど近くに居り、化物と同じ道を通るとは予測していなかった。そもそもレゥノーラとの交戦、接触経験が一番多いのはソーニアだ。道の選択に彼女の助言こそあれど、外れてしまうとはこの廓に住まう者達は人が危機を避け、どう歩むかを予測し、その裏の裏を掻き人を害するように作られているかのような思惟を感じてしまう。そうでなければ、この化物も元は人であったかのように思えて仕方がないのだ。何者にも行き会わぬように、小路を静かに潜り抜ける知能があるかのように。ならばこそ、であるからこそ。そんな化物は早いうちに殺しておくべきなのだろう。だが、自分だけではそれは不可能だ。故にハイルヴィヒは願いと呪詛を吐く。
「……さっさと死んでおけ」
 願いと呪詛を輩とし、銃弾は矢よりも速く飛んでいく。後頭部から入った銃弾はランツェールの頭を貫通し、石畳に減り込む。ソーニアの小銃よりも一発の威力は此方の方が上か、と関心しながらハイルヴィヒは醜く、耳障りな叫びを上げるレゥノーラを背に駆け出すのだった。あれを殺そうとしたならば、確実に命のやり取りとなる事だろう。一人では恐らく死に至り、大勢で掛かったとしても幾らか死人が出るのは確実だ。だが、今はまだ命を掛けるような時ではない。何よりも、己が守らなければならない存在はまだこの廓の中に居るのだ。すぐにでも追いつき、行動を共にしなければならない。もう一発の銃弾を見舞い、ハイルヴィヒは踵を返すのだった。石畳を駆ける足音は一つ、背後に置いて来た化物は追ってくる事もない。階下から聞こえて来るのはセノールの怒号、大勢の足音だ。あの化物の死はもう近い。その死に至るまでの短い時間、化物はただただ吼え、ただただもがき苦しむばかりなのだ。

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