複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.232 )
日時: 2019/09/09 19:59
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 手負いの兵等はどうにもムスッとした表情を浮かべ、各々傷の手当を済ませていた。カルヴィンの脇腹の切創は思いのほか具合が悪いらしく、一日経ったというのに未だに微かながら出血が続いていた。だというのに、未だ眠っているハイルヴィヒを担ぎ上げ、何処から引っ張り出してきたのか小銃を二挺ばかり小脇に抱えている。これから拠点を移すのだ、ナヴァロの屋敷にある地下へと。
「無理はしない方が良いですよ、それ」
「無理だと思えば、無理になる。俺には出来る、お前にも、お前にもだ」
 無茶苦茶な精神論を展開しながら、ガウェスとランバートを見回した。ガウェスの傷の具合は良好らしく、それなり荷物を抱え、しっかり得物まで携えている。相反してランバートはどうだ、得物も、荷物すら持たず、手ぶらな上に杖まで付いている。まともに歩けない程、深い傷でもないだろうに、軟弱者と誹る様な視線が向けられた。
「……何だよ」
「いいや、お前は本当に軟弱者だな。キラに本当は玉も潰されたんじゃないのか? 女好きな不能か、こりゃ傑作だな」
 声を上げて笑いながら、カルヴィンはガウェスとランバートの間を割く。あの話、矢張りキラから聞かされていたのだろう。居心地の悪さが着火点となり、沸々と怒りが沸くのだが、傍らのガウェスまで肩を震わせて笑っており、すっかり毒気は抜かれてしまった。それと同時に何となく、カルヴィンに似てきたと溜息を吐いた。
「フェベス、銃はないのか?」
「あるにはあるが……本当にキラに玉を潰されたりしてないよな? いや、それが本当なら詫びたいんだが」
 何時まで玉の話をするんだ、と喉元まで出掛かったが、此処で乗ってしまえばメイ・リエリスの玩具になる。キラも、ソーニアも割と人をからかう様な事を好む。恐らく、その因子は彼女達の母、クレシダではなくフェベスから来ている物だ。これ以上、揶揄されるのは沽券に関わる。緊張した空気を和らげる為、山車に使われるのは吝かではないが、これはこれだ。
「あまりからかわない方が良いですよ……そういえばスヴェータ嬢はどちらに?」
「夕方、レーナルツが帰る時、先に出たそうだが」
 フェベスの言葉に言い様のない不安を覚えざる得なかった。レーナルツ自身に問題がある訳ではない、彼は襲撃を加えられ様とも彼女をどうにか、こうにか守る事だろう。その為の得物も物色していたのだから。それよりも彼等の放任的な所が気になって仕方ないのだ。フェベスは娘を好き勝手させ、レーナルツに至っては兵の統率こそせど、風紀など全く気にした様子すらない。もし、レーナルツの手元から離れたら彼女の身に危険が及ぶのではないだろうか、と思えるのだ。
「……それ教えてくれたって良いでしょう?」
 何故、誹られるのかが分からないのか、フェベスは顔を顰めながら、僅かに首を傾けていた。何かあってからでは遅すぎる、ハイルヴィヒを放置したまま出かけてしまったのだから、自棄になっている可能性すらある。不安ばかりが過ぎり、一瞬にして胸が押し潰されそうになる。そして、その重圧を背に受けた時、ガウェスは駆け出した。
 ランバートを押し退けると、彼がバランスを失って尻餅を付いていた。それを気にする様子もなく、廊下に出た。外では荷車に寝かせられたハイルヴィヒや、荷物の類を積み込んでいるカルヴィンと何やら話し込んでいるヘロイスの姿が見える。不干渉を貫き続けていた彼女が、何故という思いこそあったが、会釈一つせずに駆け抜けて行った。
「……なんだ、あいつ。思ったより元気そうだな」
「彼も怪我を?」
「あぁ、幸いに首はしっかり付いてる」
 気に成りこそせど、彼を追い走っては傷が開きかねない。何より久しぶりに見たヘロイスを無碍に扱う訳には行かない。
「相変わらずみたいですね。……メイ・リエリスの汚れ仕事をしてるのでしょう」
「それはラノトールの時代から変わらない。俺も、彼も同じ事だ」
 汚れ仕事とはよく言った物だ。都市の治安を乱す者をただ捕らえるだけ、殺すだけ。血で汚れはする物のジャッバールが行う様な、業悪に手を染めた訳ではない。立場こそ違えばカルヴィンを悪と誹る者こそ居るだろうが、その悪が向かうのは悪事を働いた者達だけにである。平時、性根の悪さが向かうのは、目を瞑ってもらうしかない。
「それより何をしに。仕事の帰りか? 随分早い時間だが」
「いえ、この街を見に」
 郊外であるが、クルツェスカで生まれ、育った身。庭の様な物だ、何も見て歩くような物など無いだろう。訝しげに見据えると月光に照らされる表情が見えた。悲壮というべきか、悲哀というべきか。何かに痛み、悼む様なそれにそこ意地の悪さが出てしまう。
「そうか、散歩とは暇そうで何よりだ」
 荷鞍に小銃を預け、振り向くとヘロイスは静かに笑っていた。
 彼女を最後に見たのはキラの葬儀の時、長らく姿を見ず、顔すら忘れてしまっていたその人物。蘇り始めた記憶、それが走馬灯の様に駆け巡るも、その中に笑っている彼女の顔はなかった。初めて見たのだった。
「本当に相変わらずで。……キラが死んで、変わってしまったと聞いていましたが、そうでもない様子ですね」
 彼女が死してからの荒みっぷりは、ヘロイスも聞き及んでいたのだろう。酒に溺れ、刀すら握らなかった一年を。
「戻ってきただけだ、復讐の為に。さ、行く場所があるなら、早く行く事だな。フェベスは苦手だろう?」
「……えぇ」
 背を押され、路地の奥へと押し込まれる様に歩かざるを得ず、非難するでもなくそのまま歩む。メイ・リエリス。嘗ての盟友、嘗ての同胞。しかし、その当主であるフェベス、その邪まな緑眼は恐ろしげな物に見えて仕方がないのだ。向かい合っているだけで全てを見通しているというのに、彼から発せられるのは全てを霧に隠す様な言葉。何も分からない、何も教えない。だが、何もかもを知られている。それの何と気持ちの悪い事か。馬鹿正直なカルヴィンは何も感じないのだろうが、ヘロイスは違うのだ。
「ヘロイス、早く行け」
 路地の曲がり角、彼女を押し退けカルヴィンは踵を返す。振り向いた先、大量の荷物を背負わされたランバートの姿があり、少し遅れてフェベスが出てきた。背には小銃を一挺。抱えた木箱の中身は分からなかったが、後生大事に抱えている事から重要な物が入っているのだろう。
「まだ荷物はあるのか?」
「いいや、必要なのはこれだけだ。あぁ、そうだ、それと」
 宙を舞い、飛んできたのは青。手の中には何か硬い感触。持っていけ、とフェベスが言葉を続けた。手を開けば、青い中石に銀の腕。見覚えのある指輪に思わず、目を瞑り小さく溜息を吐いた。
 何を語る訳でもなく、口を真一文字に結んだまま荷台へと腰を下ろした。幌にフェベスとランバートも乗り込み、行けと合図をしてくる。手綱を握るついで、ハイルヴィヒを見据えるも相変わらず彼女は目覚める様子もない。此処で襲われたら終いだな、と冗談を一つぶつけ、荷車を走らせるのだった。



 困ったら此処に来いと言われていた。聖堂は相変わらず薄暗く、アゥルトゥラの不信心を暗に表している。あの散々な物言いをしてきたカルヴィンの祖先である、ラノトールを合祀しているとは知る由もなく、スヴェトラーナは椅子に腰を掛けた。
 薄ら寒く、それに抗う様に身を縮める。小さな篝火だけがぼうっと灯され、その微かな熱は彼女へと届く事もない。古い埃の匂いがすると、誰も居ないというのに足音が聞こえて来るのは気のせいではないだろう。此処も元は古戦場、この聖堂の下には戦火に巻き込まれた者達を葬る、集合墓地がある。亡者の一人や二人、居ない訳がないのだ。
 アースラなら、この闇の中を縫って現れても不思議ではないだろう。聞くに彼女の名は"夜歩く者"という意味があるらしく、何故そんな名を授けられたかは分からなかったが、夜に歩むというなら闇すらも友の様に親しく振る舞いながら、歩いていても不思議ではない。ハイルヴィヒの状況を、ベケトフの状況を聞かせたならば、彼女はどういう反応をするだろうか。アゥルトゥラの同胞である者達の様に半ば"自業自得"とも取れる発言するのではないか、と思えば口を開くのすら重く感じられた。
 セノールは一枚岩ではなく、ジャッバールと敵対する者達も居るが、それでもアゥルトゥラよりずっと戦争に特化し、その為に身を整え続けてきた民族だ。平和に座し、呆け生きてきたという事を信じられないのではないか、と思えるのだ。
 ふと、下の集合墓地から足音が聞こえて来る。それは消えたり、音を鳴らしたりと不規則で、普通の人間が歩いて出る物ではなかった。亡者かも知れないと思うと恐ろしくなり、椅子と椅子の間に身を潜めた。聞こえて来るのは女の声だ、何かを歌っている様だが、それは淡々とし、抑揚がない。何処かで聞いた事のある様な、ない様な形容しがたい言葉だ。単語と単語の節らしい物もなく、アゥルトゥラの物と比べてくぐもった発音が多い。
 扉が押し開かれ、足音が止まる。それと同時に金属と金属が擦れ合う様な音が響く。彼等もスヴェトラーナの存在に気付いたのだろう。それを察するなり彼女は気付かれない様にと更に身を縮ませ、顔を伏せた。来るな、来るな、と声なくして念じ、祈り続ける。突然、足音が目の前で響いたと思うと、項に冷たく、硬い感触。首を引き上げられるも、力が足りないのか手は両肩に伸び、後ろへ倒される。
「そんな変な格好しなくても」
 にやにやと意地の悪そうな笑みを湛えた、アースラの姿がそこにあり、彼女はスヴェトラーナを引き起こそうと手を差し伸べた。手には鉄鋲の打ち込まれた、皮のベルトの様な物が巻かれており、非力な女の身であるアースラとて、人を殴り殺せるだけの威力の打撃を放つ事だろう。
「ほら、立たないと汚れるよ」
 相変わらず年齢不相応な色がそこにはあった。魅入られそうな色、しかし魅入られては帰り道を塞がれてしまう。そんな魔性の色だ。思わず伸ばしてしまった手、酷く冷たい感触で覆われるに刹那の時もない。あ、と吐く間すらなく、手を引かれ立たされる。
「本当に此処に来るとはね。……何かあった?」
 張り付いた様な笑みに、どうもからかわれている様な気がしてならなかったが、アースラがボリーシェゴルノスクや、ハイルヴィヒの身に何があったか知る由もないだろう。
「……何故、此処に?」
「うーん、宿手配してもらってたんだ。ただ、私を売春婦と間違って声掛けた馬鹿なアゥルトゥラの股間を斬り落としちゃってさ。追い出されたって訳。一昨日から此処が根城だよ」
 あっけんからんと答え、アースラは笑っている。第一、セノールの売春婦など見た事がない。確実にジャッバールの元、そういった商売を行わない様にと達しが出ているのだろう。それと同時に彼等の矜持が許さないというのもあるのだろうが。
「……あの、アースラさ──」
「呼び捨てで良いよ、大して歳も変わらないんだし」
「……あの、復讐をどう思いますか」
 復讐という言葉に先日、自分が吐いた言葉が脳裏を過ぎったのか、笑みは消え失せ、彼女はじっとスヴェトラーナを見据えていた。本来なら戦いたくはない。しかし、民族は復讐、報復を望みに望み、今に此処まで膨れ上がってしまった。針の一突きでその怨嗟は破裂し、砂漠を駆け抜ける事だろう。
「まぁ、そう。そうだね……一方的に成るならしたいかな、私だってセノールだし。スヴェトラーナは?」
 正直な答えから、問い返されスヴェトラーナは口を噤む。腹の中、ごうごうと燃える怨嗟、復讐の炎が口から放たれても仕方がない。炎を吐き、叫ぶ怪物を孕んでしまったのだ。憤怒はその青を汚し、清廉な泉を血で染め上げる。
「燃え盛る炎の様です。赤々として、血のそれよりも赤い。……そして、醜い物です。それが私の中にもある。……それがとても苦しい、おぞましい。晴らすしかない、晴らしたい。……バッヒアナミルという人物を討ちたいんです」
「へぇ、ナミルを。へぇ、そうかぁ。へぇ……」
「知りあ──」
 刹那だった、首元に突付けられたのは大きく湾曲した短刀。皮膚を一切傷付けていなかったが、あと一分でも押し込めばスヴェトラーナの細首を切り付けるだろう。アースラの灰色の瞳には、先の魔性はなく、敵意とも殺意とも取れぬ感情が宿っていた。厭にぎらつき、体中に纏わり付く様な視線。見えない蛇に締め付けられている様だ。
「いいよ、アイツを討っても。たださぁ、アイツを討ったら今度はナッサルとベケトフが殺し合いだ、そうなったら最後。君も、君の護衛も、君の父も、使用人も。そうだなぁ、領民や親類皆殺しだ。その覚悟は?」
 声を放とうとしても喉は動こうとしない。冷たい刃には復讐の炎を以てしても、熱を伝えられそうにない。灰色の魔性は、ただじっとスヴェトラーナを睨み、答えを求める。セノールの夜魔は笑みすらなく、短刀の柄を握り締めるのだった。 

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.233 )
日時: 2019/08/13 00:24
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

廓内は外とは違い湿っぽい寒さがミュラにはどうも苦手だった。気温は夏冬でだいぶ違うのに何故湿っぽさは変わらないのかと文句の一つでも零したくなる。一歩踏み出す度に頬にあたる柔い風すら肌を切り裂くような冷気の鎧を纏っていて露出している部分がピリピリするのだ。霜焼けになった部分も在る。何よりもここで命を散らした者達怨念が渦巻いているように感じられて居心地が悪い。小さな段差に腰掛け、熱いコーヒーを啜ったミュラの脳裏にアースラが思い出される。彼女が居ると無意識に目で追ってしまう。やめろやめろと頭の中で言葉が反芻しているのに、余計に気になり、視界に入れたがる。彼女が視界に入ると心臓がドゥドゥと音を立てるのだ。唇が乾き、目玉が世話しなく右へ左へと動いてしまうのだ。素人目でも動揺しているのは明らかで、ソーニアですら、アースラと話した後のミュラを見て「大丈夫?」と本当に心配してきたほどである。
 無論、背丈が似ていて髪の色が似ている人物を目で追いかけたことは度々あった。だが、ほぼ全てのパーツ、雰囲気が似ているとあっては動揺しないわけがない。
 そんなことをぼんやりと考えているから、背後から忍び寄る影に気がつけなかった。突然肩に手を置かれ、大袈裟に声を上げて立ち上がる。こげ茶色の液体が跳ねて服の裾を濡らすがそんなことは些事である。ミュラが口を挟む前に「アースラのこと?」と聞かれれば同意せざるを得ない。何度も首を立てに振った後、同じ場所に座った。
「えと、凄く似てるんだよ、あいつ」
「エルネッタに?」
「……あぁ」
 昔を偲ぶように天井を見つめた。この部屋は通路とは異なり天井が高く、見上げると墨を零したような暗闇が広がっている。
「目の色だけだよ、違うのは。師匠は紫色の瞳だった。綺麗な、宝石みたいな瞳」
 一度だけ見たことがあった。エルネッタと同じ瞳の色をした宝石を。名前はとうに忘れてしまったが、今思うと勿体ないことをしたと思っている。もしもこの場にソレがあったらもっと色々なことを思いだせていたのかもしれない。
「私、ここでカンクェノの調査が終わったら旅に出ようと思うんだ。ジャリルファハドには師匠の遺品を集める旅をすれば良いって前に言われてたんだけど、踏ん切りがつかなかったんだ。でも、決めた。あいつらの考えを理解したいんだ。受け流すだけじゃない。もっとその先を考えたい。そうしたら、ジャリルファハドのこと、もうちょっと分かるかなって。勿論、お前のことも!」
 もっと色んな考えに触れたい。その上で彼らについて考えたいと彼女はそう言っているのだ。
「つい最近まで地球は丸いって知らなかったのに、できるの?」
「や、やってやるし。でも、その為には先ず此処を生きて出なくちゃいけないだろ?」
 コーヒーを一気に飲みきり立ち上がった。埃をはたくように尻の辺りをパンパンと叩いた。
「あいつらがここで何をしたいって考えてるのか分かんないよ。でも、仮に、ここであいつらから離れたらもっと何して良いか分かんなくなると思う。何よりもほら、安全だし。セノールだぜ。怖いけどさ。東洋の諺であるじゃん。長いものには巻かれろってさ。師匠の見てきた世界を私も見たいんだ」
 歪みなく笑ったからこそ言ってしまおうかと思った。「世界はそんなに優しくはないぞ」と。エルネッタの詳細は知らないが、彼女の此処の人間ではないことは確かだった。ミュラから話を聞くに、 色々な場所を知っているのだろう。だからこそ彼女が地獄を見てきたのことが容易に想像できた。
 そのことを忠告出来なかったのは一瞬の沈黙の内にミュラが便所に行くと言い出したからである。「御手洗って言いなさい」と普段と同じような注意をしてしまったのも悪かった。人混みに揉みくちゃになって消えた少女が早く戻ってくるようにソーニアはただ祈るしかない。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.234 )
日時: 2019/09/04 21:16
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

2019/09/03 加筆修正

 首筋をなぞる冷たい刃、それは人の熱すら伝わらず、そのまま皮膚を、肉を裂く代物である。何故、アースラがそれを突付けて来たかが分からなかった。聞くに及べば、サチの武門は二分化され、ジャッバール派と中立派に分かれている筈だ。そして、アースラはその中立派に属する人物、ジャッバールの息は掛かっておらず、アゥルトゥラに対し、敵意を見せる事はないとスヴェトラーナは高を括っていたのだ。
 声を出そうにも口がわなわなと震えるだけで、一声すら出ず、呼吸すら忘れさせる様な緊張に苛まれるばかり。じっとアースラの灰色が彼女を無情に見据え、答えを求め続ける。覚悟が出来ているか、という簡単な問いに答えは導き出せなかった。その覚悟は揺らいで仕方がないのだ。復讐、甘美にも思える響き、極上の愉悦を味わえるであろう言葉。それを孕み、ごうごうと燃え盛る炎がそこにはあった筈だ。だというのに、今こうして刃物を向けられるだけで、覚悟は揺らいでしまう。引いては薄弱たる己の意思に恐怖すら覚えるのだ。
「……で、復讐の後の殺し合い。その覚悟はあるか、って聞いてるだけじゃない」
 答えろ、とアースラは続けながら退屈そうに髪を弄ぶ、毛先に付いた埃を払えば、それは中空を舞い、闇に消えて行く。
「……もう、それは──」
 逃れられない物だ、と声なくしてスヴェトラーナは語る。振り絞ろうとした声も出ず、相変わらず首元に突付けられた刃に恐れ戦く。僅かでも動けば、首筋を裂き、赤い一滴を滴らせる事だろう。
「もう、それは……逃れられない物でしょう。……仕組まれた様に、人間が人間である内、避けられない。……そうでしょう?」
 覚悟の有無を語る事はしなかった、語る事が出来なかったのだ。己の思いが、怒りが一人でに歩き出し、世界に炎を撒き散らす。人を惹き付け、全く離そうとしない呪われた炎だ。
 答えを得られなかったアースラはがっかりした様子で、短刀を下ろし、スヴェトラーナの腕を掴んだ。彼女を椅子に押さえつけ、自身もその隣に座り込むと足を組む。
「……自分の言葉、思いには責任を取らなきゃね」
 復讐の責任、それは覚悟だとでも言いたげに彼女はそう語る。復讐は永遠に終わらない、終わらないからこそ方々に波及して行く。その内、小さな火種が地平を赤く燃やし尽くす。そういう代物だ。その果てが我々だとでも言いたげに、アースラは自嘲する様な笑みを湛えてはスヴェトラーナへと詰め寄る。
「どこかで晴らさなきゃ」
 耳元で囁き、自嘲的な笑みは何時の間にか色を帯びている様にも見えた。人を誑かす魔性というべきか。復讐を唆す悪魔がそこには居た。自己肯定感を切り刻まれ、自己選択をして来なかったスヴェトラーナという個にとって、今のアースラの言葉は毒以外の何者でもない。傷に沁み込み、精神を蝕んでいく。他者からの肯定、なんと甘美で、なんと残酷な物か。盛られた毒は甘露ではないというのに、簡単に喉元を過ぎて行ってしまう。耳障りの良い猛毒は喉越しが良い。
「……同胞を討つと言っているのに止めないのですね」
「ナミルに首取られて終わり、アイツ女子供関係なく斬るだろうから」
 討てると限らない、と言葉なく語りアースラは小さく鼻で笑っていた。その後の事を避けられないと知っているというのに、彼女は復讐を熱望する。その愚かさを嘲笑う様に。"虎"に挑む無謀を嘲笑う様に。
「まぁ、良いんじゃない? やりなよ。やってしまえば気分は晴れるよ」
 "夜魔"は笑みを湛えたまま、少女の背を押す。復讐は晴らすべきだ、腹の中に恨みを抱え続けては自壊に至るだけ。己が慕う人物とてそうだった、であればそれは早い内に晴らすべきなのだ。その対象が例え同胞であったとしても。恨みを抱く者が、闘争の果てに死したとしてもだ。死ねばそれまでだからだ。
 燃え盛る怨嗟の炎は油を注がれ、更に赤々と燃え上がっている。何時かは赤黒い血の赤に成り代わるだろう。血に酔うか、炎に魅入られるかはそれぞれだが、何れにせよ碌な結末を迎える事はない。だが、アースラは彼女を扇動するのを止めようとはしなかった。大局、趨勢などは分からない。悪気などない。スヴェトラーナを貶めようという気もなく、バッヒアナミルに対する恨みなどもない。ただ、事実を淡々と語る。誑かしている心算すらなく、ただ唯一の解決法を語るだけ。
「その為の術が……今の私にはありません。ハイルヴィヒも傷を負い、私の故郷とて今に戦火に果てるでしょう。……如何様にして復讐を果たすべきか、私には検討も付かないのです」
「えー、両手、両足きちんとあるじゃない。復讐をするって事は自分も死ぬかも知れないって事でしょ。術がないなんて事は有り得ないわ」 
 一蹴されスヴェトラーナは困った様に顔を背け、相反す様にアースラは何を困る事がるのかと僅かに首を傾げる。民族は勿論ながら、生きてきた環境、植え付けられた思想、何もかにもが異なるのだ。五体満足ならば遥かに強大な仇でさえ、万に一つ、億に一つの勝機はあるやも知れない。であるからこそ、スヴェトラーナの言う様な術がないなどという言葉を理解出来ないのだ。
 しかし、今のスヴェトラーナにはアースラの語る言葉が理解出来た。人間はたったの一撃で死に瀕する、ハイルヴィヒの様に。だからこそ、術がないという事は有り得ない。仇たるバッヒアナミルとて一様に一撃で死に瀕する筈なのだ。
「……貴方達セノールは獣だと誹られていますが、本当にその通り獣なんですね。何処までも血腥くて、何処までも勇猛で。私達の様なアゥルトゥラには理解し難い限りです。いえ、……し難い筈でした。何となく、セノールが分かった気がします」
 復讐の果て、鬼とも、獣とも成り果てる事だろう。そうして成り果てた姿が目の前にある。その血を引き、その血脈をこれからも続けていく者が目の前に居る。そうか、彼等は地獄を見て来たからこそ、アゥルトゥラよりも前を歩む。前を歩むが故にアゥルトゥラは理解出来ない。しかし、彼等が地獄を歩み続けてきたであろう、原動力を知ってしまえば理解は容易い。それは復讐、ただの復讐だ。
「分からない方が良いよ、碌なものじゃないからね」
 へらへらと笑いながら、アースラは暗闇を睨む。口元だけは笑っているが、目元は全く笑っておらず、スヴェトラーナはおずおずとその視線の先を見据えた。暗闇の中、何者かの息遣いと足音ばかりが聞こえている。
「ま、良いわ。着いて来て」
 手を引き、アースラは歩み出した。暗闇の中、追って来る足音と息遣いに戦きながらも、スヴェトラーナは引かれて行く。何者なのか問おうとするも、口を手の平で塞がれ、言葉を発するなと戒められるのだった。
 唸り声を上げて開かれた扉、その隙間から飛び込んで来るのは寒風と青白い月光。聖堂よりも明るく感じられるのは気のせいではないだろう。日が暮れてからはそれ程まで時間は経っていないらしく、人通りも多少ながらある。
「……旧い人間は良い気分しないだろうからねぇ、そりゃ出て来るよ」
 一人ごち、へらへらと笑う彼女の言葉に首を傾げながらも、手首を掴まれたまま歩みを進めざる得なかった。人垣を縫い、二人は歩み続ける。
 漸く人垣を抜け、至ったのは小路。黙りこくってしまったそこは奇妙な物だった。アゥルトゥラの都だというのに、周囲はセノールの者達だらけ。腰に差した刀のそれは武門の物だという事が見て取れる。
 そして、漸く辿り着いたそこは屋敷というには簡素で、どちらかと言えば兵士の詰所の様にも見える建物だった。守衛とも思しき男がじっと此方を見据え、それがアースラだと分かった途端に歩み寄ってくる。
「何をしに来た」
「……マティーンに会わせて」
「構わないが、そうだな。そっちの女は?」
 突然の事だった。スヴェトラーナの髪を引っ掴み、前に押し出すと腿を踏みつけて、地面に膝を付かせた。男に顔が見える様に向け、アースラは答える。
「ベケトフの娘。ジャッバールに降った愚かなアゥルトゥラ。……捕らえたから」
 アースラの声色は今の今まで聞いた事がない程、冷たく淡々とした物だった。語る内容も思いもしない事で、何となく命の危険すら覚える様な物である。男は溜息を吐きながら、中へと入ってしまった。
「……緊張はしなくて良い、悪い様にはしないから」
 耳打ちをしながら彼女を立たせると、その背を押して男の後を追って行く。壁には幾つもの小銃や、騎兵様の刀剣、長槍の類が立て掛けれており、明らかに戦の支度がされている様だった。幾人かのセノール兵がじっと此方を睨む様に見据えているも、何か言葉を発する訳でもなく、ただただ静まり返り、煙草の煙ばかりが漂う。
「アースラ、入れ」
 少し奥まった部屋から、くぐもった声が聞こえ、その声の通りに進んで行く。あくまでスヴェトラーナを連行する様な素振りを見せたまま、彼女の背を半ば強引に押しながら歩んで行く。
 扉を押し開けば、そこに居たのは一人のセノールの男。傍らには大きく湾曲した刀、先程の兵達が控え間と同じ様に槍や、小銃が壁に立て掛けられていた。三人掛けの長椅子に座り込み、尊大に振舞う彼は酷く威圧的に見えた。思わずスヴェトラーナは萎縮して、視線を逸らしてしまうものの、アースラは相変わらず飄々とした素振りで振舞う。
「何だと思えばベケトフ……ベケトフの娘だと。ジャッバールに対しての交渉材料に成りもしない。ただの穀潰しを連れて来て、どういう心算だ」
 不快そうに言い放ち、杯に入れられた葡萄酒を一口で呷る。矢継ぎ早に中座させた葉巻に火を点けるべく、燐寸に手を伸ばした。
「……彼女の保護と"協力"を」
「保護は良いだろう。虜囚を粗雑に扱うのは褒められた事ではないからな。しかし、俺が此処に居るのは、ジャッバール本軍を迎え討つ為。ベケトフに力を貸すなど馬鹿げた話は無しだ」
 斜陽貴族に力を貸す物好きは居ない。居たとしても、それは下心がある者達。ルフェンスの様な権力拡大を目指す者達だけだ。ジャッバール配下に降り、方々から敵視されている者達に組するなど、有り得ない話なのだ。ましてや異民族、本来ならば敵対する者達なのだから。
「バッヒアナミルを討つ、その為に接近してくれるだけでいいから」
「馬鹿げた事を言うな。俺やファハドが束になって掛ってもアイツは殺しきれない。何をされたか知らん、興味もないが悪い事は言わんから、アイツと相対するのだけはやめておけ。首が幾つあっても足りない」
 マティーンはそう語り、杯に再び酒を注ぐ。確かにその通りだろう、四人掛りでも倒せず、その場に居合わせただけだというのにハイルヴィヒは傷を負い、未だに目覚める事もない。であるからして、彼がそう語り静止するのも仕方がない事だろう。しかし、それではスヴェトラーナの復讐心は納まらない。
「……本来なら私だけで成すべき事だとは分かっています」
「なら、勝手にやるんだな。俺達をお前達の訳分からない話に巻き込むな、馬鹿馬鹿しい。第一、アースラ。お前もお前だ。何れ殺し合う者達と縁を結ぶなど、信じられん」
「縁を結んでしまった以上、彼女は友よ。友が泣いているなら手を差し伸べるべきでしょ」
 アースラの言葉に溜息を吐き、マティーンは葉巻の火を再び中座させてしまった。左手に持った杯を叩き付ける様に置くなり、口を開く。
「友の為に友を死に追い遣るというのなら、お前はただの愚か者だ。背教者だ。我等セノールの裏切り者だ。ならば、殺すしかあるまいよな」
 傍らの刀を抜き放ち、マティーンはゆっくりと立ち上がった。ガリプの様に八双に構え、その切っ先は天を睨む。女の身で男と真っ向から斬り合うなど、冗談ではない。とてもではないが、敵わない。
「……いや、その。ごめん、刀収めて」
「全く……良いか。我々はセノールだ、お前がどんな奴と縁を結んだとしても、一向に構わん。その後、争いになって後悔したとしても俺には関係ない。だが、友を売る様な事だけはするな。それは恥だ、大恥だ」
 刀を収め、すぐに長椅子に腰を掛けると、マティーンはすぐに燐寸と葉巻に手を伸ばした。酒を呷り、喫煙を嗜む。セノールにしては世俗的だが、彼がアースラを戒めた言葉は信教であるリヴァーレ教の教えから来た物だろう。
「……お前達も掛けてくれ、椅子はそっちだ」
「うん……あのさ、話だけ聞いてもらえるかな」
「話だけだがな。ベケトフ、名は?」
「……スヴェトラーナと」
 長いな、と静かに笑いながらマティーンは葡萄酒を呷る。先程までの緊張感は何処へ消え失せたやら。刀を鞘に収め、膝の上に置くとじっとスヴェトラーナを見据えていた。バッヒアナミルを討つというのだから、何かがあったのだろうと彼は勘繰っているのだ。
「スヴェ……面倒だ、ベケトフ。何があったか、何が起きているかだけ話してくれ。我々に理がある事なら、理があると思えるなら我等、ラシードは動いてやろう」
 武門の長がそこに居る。ジャッバールに次ぐ規模の武門の長だ。アースラに緊張する必要はないと言われこそした物だが、どうにもそれは拭い去れない。首元に短刀を押し付けられた時よりは幾分マシという物だが、相変わらずきちんと声が出ない。それでも復讐を願うというのだから、笑い種だと自嘲する様に咳払いをして、漸く彼女は語り出すのだった。



 聞くに及べど、マティーンの表情は固結したままだった。然も興味などないと言う様に。彼は明確な拒絶の意思を示した訳ではないが、その得も知れない威圧感にスヴェトラーナは全てを伝え終える頃には、喉が厭に乾きを訴え、元よりか細かった声は既に消え入りそうになっていた。
 彼女の傍らに座り込み、じっとマティーンを見据えているのはアースラ。彼女こそ平静を保ったままだったが、緊張からか口を噤んだままだった。彼はラシードの当主であり、サチ全体を見てもバシラアサドに次ぐ次席の位置にある。しかし、彼は誰よりも激情的な人物なのだ。気に入らない事があれば、物事を荒立てなければ気が済まないのだ。ジャッバールとの対立を選んだのも、その性格が根底にある。此処で激昂され、先程の様に得物を引き抜かれたならば、もう庇い立ては出来ない。マティーンの一挙手一投足に注視せざる得なかったのだ。
「……そうか。だが、ナミルに斬られたのはお前の護衛なんだろ。お前の為に死ぬ覚悟すら決めた者だ。その者が闘争の果てに死し、お前が生き長らえたならそれで良いじゃあないか」
 護衛が斬られただけ。同じ血を引く同族でもなく、雇い雇われの関係でしかない。だからこそ、その仇討ちを理解が出来ない。酒に酔い、回らなくなった頭が悪さをしている訳ではない。煙草に混ざった麻が悪さをしている訳でもない。護衛が傷付いたからと、憤る思考を持ち合わせていないだけなのだ。
「何よりお前がジャッバールに弓を引けば、ベケトフは滅ぶだろう。表向き降ったベケトフを討つ大義名分を与えてしまう。……その果て、東部のルフェンスがこの争いに加担するともなれば、今の危うい均衡すらも崩れる。ともすれば、我々サチの氏族はジャッバールと一丸となってアゥルトゥラと戦わざる得ない」
「……それでは私の首は勿論、アゥルトゥラすら危ういという事ですね」
「あぁ、俺が止めようが止めまいがお前は事を成そうとするだろう。だからこそ、今お前を斬るのも俺の選択の一つとなったのだが──」
 生きたいか? と続け、マティーンは刀を引き抜いた。切っ先が額から、鼻先、口元を至り、喉元へと下りて行く。少し切っ先が押し込まれるだけで、それは皮膚を裂き、肉を穿つ事だろう。
 傍らのアースラを横目で見遣れど、彼女は身動ぎ一つする様子もなく。目を瞑っていた。生きるか死ぬかの選択は彼女次第、此処でマティーンを止めれば自身の命すら危うい。そして、ジャッバールを止めるという大義名分に置いて、役割を与えられている自身の価値を擲つ事となる。スヴェトラーナを連れてきたのは自分自身であるが、今この時分に至り、発言は過失となる事も有り得るのだ。
「……理想の為に犠牲を強いるのですね、貴方達も」
「理想に狂って溺れた無様なベケトフに言われたくないなぁ」
 マティーンの言葉はスヴェトラーナを穿つ。しかし、彼女の言葉はマティーンに対し、何の痛みも齎さない。理想の為に犠牲を強いたとて、その果てに理想を実現させるのは人間としての本懐である。何の犠牲も払わず、強いず、そうしてただただ平静に生きるなどという低い理想に狂い、有事に溺れ、今に沈もうとしているベケトフを彼は嘲笑う。
「良い事を教えよう。アゥルトゥラの貴族というのは、我々の在り方を変えた。荒れ狂い、流血しか知らなかった我々に戦術と恐怖、そして団結を授けた。……東の果てより馬に跨り、砂礫を気に留める事もない。地平を埋め尽くさんばかりの兵を率いては、得物を振るい抗う術すらない者をも屠る──」
 砂漠は血で染まり果てた。お前達は恐怖の化身だ、と語りマティーンの刀は再び宙に浮かぶ。切っ先が身体から退き、その"恐怖の化身"の真意を漸く知る。今更怖気付くか、否かを試されたのだった。そして、同じ側へと引き寄せ様としているのだ。故に彼は切っ先を収めるに至る。
「だからこそ、お前達アゥルトゥラの貴族は男も女も関係なく、暴力の化身であるべきだ。……何れ来る我々との闘争の為、暴力を研鑽すべきだ! そして、お前は今にナミルを殺そうとしている、我々の抱える怨嗟の一念と同じ怪物に突き動かされて! 我々と同じ立ち位置にまで降りて来た、我々と同じ"獣"に成り果てる道を選んだのだ! 良いだろう、その道。手を貸してやろう、お前も"獣"だ」
 矢継ぎ早に語る言葉に、狂気の一念が見えて取れた。マティーンの激情、怨嗟が爆発したかの様な錯覚を覚え、思わずアースラは眩暈すら覚え、息を呑む。
 自身を"獣"と誹ったアゥルトゥラまでも、同じ位置まで墜ちて来た。だからこそ、手を貸す。墜ちに墜ちた先から逃れられない様に、逃さない様にと雁字搦めにする為、手を貸すというのだ。
「……私は貴方達とはち──」
「何が違う事か。お前は復讐に身を窶すのだろう。お前も、俺も、同じだ。復讐に大も小もない。ならば、行く先は地獄のみ、墜ちた先からは這い上がれんぞ」
 否定の言葉を吐けど、遮られ思わずスヴェトラーナは口を噤む。復讐に大も小もない。セノールは先の戦争に対し、スヴェトラーナはハイルヴィヒの仇討ち。復讐は復讐でしかなく、それは同じ代物だと納得せざる得なかった。セノールを狂気に駆り立て、彼等の人間性を歪めた復讐に差異は存在しない。
 マティーンの言葉にスヴェトラーナは口を閉ざし、部屋の中は静まり返っていた。ぐうの音も出ず、否定の言葉を紡ぐ事すら出来なくなってしまったのだ。彼の言葉はその通りであり、素直に飲み込まざる得ない。だからこそ、あろう事か引き返そうという道を探り始めてしまったのだ。自身の肝の弱さを呪い、伏せ目がちにアースラを横目で見遣る。
「マティーン、ちょっと言い過ぎ」
「酒が入って饒舌なだけさ、だが、俺の言う事は間違いではない。復讐を望んだならば、我々と差はない。……墜ちに墜ちるまでだ。なぁ"スヴェトラーナ"」
 名を呼ばれただけだというのに、得も知れない魔性が手招き所か、手首を掴み離そうとしない。夜魔に手を差し伸べても、彼女は引き上げようとしてくれない。助けを求め、叫んだとてそれは夜よりも深い闇に飲み込まれてしまうだけだ。復讐に狂った民を前にして、復讐の恐ろしさを知る。一度、腹に宿してしまった復讐の子は一瞬で胎を侵しに侵し、産声を上げてしまったのだ。何て事を思ってしまった。何て所に来てしまった、とスヴェトラーナは心底恐ろしくなり、肩を震わせるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.235 )
日時: 2019/09/09 18:51
名前: 霧島 ◆PTMsAcFezw

 夜闇の如く恐ろしく、逢魔が時が如く悍ましい。其れは違うべくも無い真実なれど、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出せば不思議と心地良さすら憶えてしまっていた。肩の震えは、いつの間にか笑いに変わっていた。気でも触れたかと思われても、もはや構わなかった。
「……なれば墜ち行くまで。先の先、地獄より深いその先へ参りましょうや。……有難う御座います、マティーン様」
 如何なる理由なれど、その助力と、そして此処まで突き落としてくれたことに対する謝辞を、何一つ変わらぬ柔らかな声で少女は紡ぐ。ゆらゆらと揺れるグラスの中の葡萄酒に反射する男の瞳が、何を考えているかなど少女1人にわかるはずもなかった。されど、己の内に芽生えたる確かな獣性が否定されなかった事に、不可思議な安堵を感じた事だけは確かな事実である。
「……あの、アースラ……さん。いえ、アースラ」
 ふ、と隣の彼女へ、少女は視線を向け、嫋やかに、夜へ微笑む。融かすように、壊すように。光を冠する娘は、それを照らすことは無いけれど。
「さっきの答え……今更ですけど。……刺し違えても、殺します。例え我が血脈もまた危うくなるなれば……その要因の全てを廃する覚悟です。……復讐の怨嗟は止まらぬとしても」
 そう言い終える少女が浮かべる笑みはもはや少女のそれにあらず、むしろ子供のような何かであった。
「ほんと、遅いのね、決めるの。あなた達の家の血なの?」
「そうかもしれませんね」
 金糸に白い指を絡めて、遊んで、離す。サラサラと流れる金をみて、スヴェトラーナは小さく微笑むばかりであった。「やっと覚悟も決まりました」なんて呟く声は何時までも変わらぬままに、どこまでも柔らかで、鈴の音の様に。
「叶うかすら分からぬ言葉を吐き、助力を得てから確信する覚悟が、覚悟と言えるかは、わかりませんけれど」
 そう告げて、目を閉じる。「本当にね」なんて笑う彼女の声を聴きながら、いっそそれなら大戦争でも起きてしまえ、と何処か投げやりに考える己の存在をそのまま首を絞めて殺してやりたかった。国を上げての動乱の時代など、馬鹿らしい。されど結局は、かつて己の祖先が繰り広げた内乱を思うと血であるのかと乾いた笑いが溢れるのみだ。

 何かが潰れる様な、嫌な音がかすかに聞こえた気がするのとほぼ同時、男の手にじわりと広がる痛みがあった。反射的に顔を顰めては、手にしていた円匙を地面に突き刺し恐る恐ると言った調子で手を見やる。人差し指の付け根が、赤く染っていた。ああ、やってしまったなんてつぶやく暇もない。
「ごめん、ダーリヤ、セーム。ちょっと薬塗ってくるねぇ」
 傍にいた血族と協力者にそう告げてゆるく手を振ってはザクザクと雪を踏み締めて歩む。横目に、すっかり荒廃した領地を見やってはどうしたってため息が漏れてしまった。不可欠な事とわかっていても、どうしたってこの現状を嘆かずには居られなかった。自業自得、という言葉を突き付けられて尚、それは違うという気などさらさらないが、嘆くくらいは許されたい。甘えと知っていてもだ。彼が特別、彼女らの行動に口を出すことは無い。その資格がないと知っていたからだ。ついでに、無意味であるとも。そのような事に注力するよりは、戦が終わった後に畑を耕す事を考えた方がずっといい。まだ、意味がある。土を作るところから始めて、培ってきた術を以て育む。娘には何も学ばせていないようで、家の土台たる諸々の術は仕込んである。この家は私の代で終わりだな、なんてぼんやり思いながらも、彼女の術は平穏なれば、或いは復興の刻には有用であると信じるしかない。そも、そんな時が来るのかな、などと考えるのはやめた。
 戸棚を漁って、軟膏を取り出せばペタリとそれを患部に塗り広げ、上から適宜処置を施す。これを作るために育てていた薬草があった温室も、もう近いうちに使い物にもならなくなるのだろう。まだギリギリ残っていれば時間を見つけて多量に用意しておかねば。少なくとも使えるものになるはずだろう。手を握り、開き。作業に問題、支障は無さそうだと部屋を出ようとした刹那、部屋の扉が叩かれた。
「ユスチン殿ー、お手紙ですよ。スヴェトラーナお嬢様から」
 入室を促せば気の抜けた声と共にヨハンがひょっこり顔を出す。その手には一通の手紙が握られていた。平素ならばやる気もなさげにヒラヒラとそれを振る彼が、それをしていないものだからユスチンはゆるゆると小首を傾げる。
「スヴェータから? ……うん、有難うヨハンくん」
 仕事ですので、とヘラヘラ笑うヨハンから手紙を受け取っては、中身を見て――ユスチンの双眸は見開かれた。嗚呼、これは。と嘆く言葉すら出てこない。綴られた言葉が、夢であればまだよかった。否、それはそれで、娘の精神状態を危惧する事になるのだが……これはこれで、不安に思わずにはいられなかった。前半はまだ整った文字も、後半に行くに従って徐々に乱れた筆跡と化している。所々、インクの擦れたような跡があるのも娘らしからぬものだった。読み進めるごとに、ユスチンの眉間に皺が寄る。弱った、とも思わない、困った、ともまた然り。ただ一つ、愛しい愛娘が己の手の届かぬ深みへ、煉獄へ歩みだしたというその事実がただ、心苦しかった。少しばかり困ったような表情を浮かべていたヨハンをみやっては、手紙を手渡す。読んでおいて、と言われるより早くその文面へヨハンは目を通していた。大まかに読み終えて、綺麗に折りたたんではユスチンへ返す。
「良かったじゃないですか、ユスチン殿」
「…………そうかな」
「そうですよ」
 これでやっと、呪縛は終わりです。そう続く言葉とほぼ同時、ケタケタと笑い声がヨハンの喉から響いていた。ただ1人を殺すために、恨みなどないその者の血筋、あるいは同胞の犠牲をもはや問わぬこと、其のためになるならば手段を問うつもりなどないらしい事。そして、きっかけが怨嗟の炎であるとしても、其れを振りかざすことになるとしても、表向きは一つ二つ、まともな理由がほしいこと。その他、諸々。兎角其の手紙には諸々が詰め込んであった。ただ少女の揺れ動く心情などという可愛らしい言葉では済まないような、ともすれば愚かな娘の戯言が、いくつも。ならば、いっそ。――思わずこめかみに手を当てては小さな溜息をこぼす。
「……ヨハン君、ごめん。お茶の準備を……一応3人分」
「あい、かしこまりましたよ、っと」
 そう告げては部屋を出る。おそらくは漸く固まった意志を、ダーリヤとセームにでも告げる気なのだろう。其れは其れで良い、茶などいらないとあの二人は言うだろうがまあ、せめてものもてなしだろう。ついでだ、甘ったるい菓子でも付けてやろうとヨハンはほくそ笑む。
「しかしまぁ、お嬢様も“こっち”に来ますか」
「……復讐はなにも産まない、なんて大嘘だ。……ああ、でも残念だなぁ」
 くるり、と手の中のペンを回しては、窓より外を見やる。しんしんと降り積もる雪ばかりがそこにあり、他にはもはや、何も無い。絢爛ならずとも美しかった街も、そこにはもうなかった。嗚呼、まるであの日のようだとヨハンは双眸を細め、手帳いくつか書き記す。
「せめてスヴェータお嬢さんの瞳がいつまでも美しくあれるよう、頑張るとしますか」
 ――たとえ無謀であるとして、されど。……最早亡き妹によく似た、あの瞳は、どうか。

「……これは……うん、お願いというか、依頼かな」
 ダーリヤ、そしてセームの2人を「ちょっと休憩しない?」なんて名目で部屋へと招いて早々。手紙を握り締めぬ様自制しつつ、じぃ、と男は2人を見やる。頼まれたとおりに茶を3人分、ついでに嫌に甘い砂糖菓子も3人分ヨハンが運んできた所で、ユスチンはゆっくりと口を開いた。
「私の死をもって、即座にベケトフの家督は娘に継がせる、そういう事になってる。まあ、この現状でジャッバールが攻めてくる理由はあるだろうし、そうなったときに真っ先に狙われるのは私だろうから、まあ……うん、そういう前提で話す。……で、だ」
 刹那、伏せられた双眸は柔らかな水宝玉の色をしていた。娘と、よく似た色だ。
「私の娘は……次期当主は、この戦争を以て、我らが土地を侵したる者と戦うと決めた。故に……」
 息が震える、子供じみて柔らかな笑みはそこに無く、ただ冷ややかな色をした瞳だけがあった。
「“この国を”守る為に、ベケトフはアウルトゥラに加担する。彼らとの制約を反故にするとして、でも降ったのは“私”だけだからね。と、いう名目で本来成すべきを、今更だとしても成さなくてはならなくなった。まあ、ついでに攻められたらやり返すくらいは、ねぇ? ある程度諸々は“私”は許諾したけど、此処を攻めて良いなんて一言も言ってないし。あと私が殺されたら其れこそすべて反故にされたに等しいよ」
 気持ち、小声でそう告げる。閉ざされた部屋に4人。されど誰が何処で何を聞いているかなんてわかりもしない。そも、向こうから此の土地の現状がみえないわけでもないのだから、このほぼ傾いた均衡ですら、何時まで続くか。
「だから……私が、僕が死んでも……此処を何としてでも死守して欲しい。いや、違うな……この家に力を貸し、戦ってくれ。国のため、って名目をつけよう。報酬も、物資も、必要なだけ。……僕が居なくなったあとは、あの子がなんとかする。あと……ダーリヤ、君たちに迷惑かけるかもだけど――」
「……構いません。向こうの事は向こうの事、こちらの事はこちらの事。なぜ我が家が多くの子を抱えるか、お分かりでしょう」
 凛、とした声が響く。ユスチンやスヴェトラーナよりも深い青が、東部に広がる海のように、されど深淵すら覗き込むかのようなただ深い、深い青が、ユスチンを捉える。彼女の下にいる4人の弟妹、赤い瞳の彼らではなく、彼女が此処に居る。
「ついでに、此処で引いて下手にアウルトゥラの上層部というか、貴族どもに目をつけられては叶いません。我々は貴方の為に動くのではなく、我々のために手を貸しましょう」
 そう告げて、ダーリヤは柔く微笑んだ。されど其処に平素の、王子が如き絢爛さはなく。ただ何か、仄暗い何かを求むるが如き獣性を淡く、淡くにじませていた。
「まあ、そもそも私達、東部ベケトフの兵はアウルトゥラに助力すべく、一度此処へ来ているんです。近い内にクルツェスカ方面へ、向こうのアウルトゥラの皆々様と合流するために出立しなくてはなりません。……塹壕も、まあそこそこできてきた。あとはユスチン殿、貴方とセームが良い、とさえ言ってくれるなら……私は向かうよ」
 まあ、監視の目が怖いけれどね、なんてケタケタと笑う。おそらくはその時が、事が起こる可能性の一つだろうが、最早避けられぬならば、其れは其れで良いというものだ。如何に手早く、最小限に、さっさと向かうか。此処数日の吹雪が其れを邪魔するが、同時に機であると理解していないわけでもない。暗に、何時でも準備はできていると女は笑い、深海の瞳をゆるく、細めていた。

「あぁ……やっと」
 その日の作業も終え、一人、部屋に戻ったダーリヤは小さく呟いて、柔い月明かりをぼんやり見上げる。手を伸ばせば影が顔を覆い、指の隙間からこぼれる月明かりが心地よい。いつかに見た、此処の一人娘の様な柔らかさを、静かに浴びては息を零す。
「……楽しみだ」
 女の声は静かに震えていた。己一人の力を過信などしていない。非力ではなくとも少なくとも砂漠の民のような、鬼神が如く強さも、セームの様な強かさも持っていないと自覚している。されど愚直になれるほど純真ではなく、夢を見るほど気楽でも居られない。戦い方は心得ているが、それだけであるといえばそうだ。持ち寄った銃を片手に、銃身を優しく撫でた。外を見れば未だ白く輝く白銀世界が広がっている。雪のごとく白く、月明かりのように嫋やかであれど其の瞳の奥に確かに狂気<月>を孕む一人娘の行動を思えばどうしたって、女は喉を鳴らさずに居られなかった。あの純真さもまた良いのだけれど、などと独りごちればベッドへ静かに身体を沈めた。花を手折る男が羨ましい、否、女であるのか。わからないがまあ、どちらでも良かった。されど遂に、そうだ、遂に。同じ場所に墜ちてきたのならば。
「……本当に、楽しみだよ」
 ただそう小さく呟いて、そう遠くない出立を思い女は静かに、目を閉じた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.236 )
日時: 2019/09/16 00:04
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 中座させた葉巻に蝋燭の炎を宛がうと、紫の一筋が立ち上る。それを矢継ぎ早に薄い唇で咥えるなり、ルフェンスの女狐は雪原を睨んだ。虎視眈々というには、眼差しに鋭角さはなく、寧ろ何処か虚ろげにも見えた。宛らプロビデンスの目とでも形容すべきだろうか。
 ダーリヤがクルツェスカに赴き、メイ・リエリスと合流するとなれば、ボリーシェゴルノスクを守備するのはルフェンスの兵が主軸となるのは確実、屋敷に対する点での防御こそ成り立てど、線で彼らの侵攻を止めるには層の薄さを感じていた。損失が出た際の補充も侭成らない可能性すら考えられる。しかし、それは承知の上の事。補充が侭成らないならば、手早く再編成と陣地転換を行うだけの事である。
「ユスチン殿、あの港のセノール共が何者なのか、本当に分かっていないんですね?」
「ジャッバールじゃないのかい? ……人数くらいは把握してるけど」
「それは私達も把握してます!」
 やや食い気味に身を乗り出し、セームは吠える。人気の少ない屋敷の中だ、ダーリヤや使用人のヨハンにまで声は聞こえていた事だろう。少しだけ都合悪そうにして、彼女は椅子へと腰を下ろしなおした。
「武門の構成くらいは知ってるよ、ジャッバール、ラシード、ナッサル、ハサン、そしてガリプでしょ? それでもラシードとガリプは関与してない、彼等であるって事はないでしょ」
「えぇ、まぁ。そうでしょうね。仮にあれがガリプだとしたら、私は手を引きます」
 敵うものじゃない、戦って良い相手じゃないとセームはアゥルトゥラのトラウマに過剰反応を示した。老人の目や、手足がない原因は彼等であるからだろう。
「少なくともガリプではない。しかし、ジャッバールの兵でもないんです。彼等」
 ボリーシェゴルノスクに来てから、セームは彼等を監視し続けていた。腰に曲刀を差すものは居らず、皆一様にして大きく湾曲した短刀を差している。そして、それがどこの武門なのかアゥルトゥラは把握出来ていないのだ。下調べをした限り、あの港に陣取るジャッバールの兵は一個中隊程度の人数である事しか分かっていない。
「バシラアサドを見た事があるでしょう、ジャッバールはその殆どが直刀。ナッサルは帯刀しない者も多い。ラシードとガリプは長い方が前者、短い方が後者。では、彼等は何者かという話です」
「……クィアットの末裔かい?」
 闇に入り、闇より出で、血を流す。殺せど死なぬクィアットの血を引くハサンの武門。サチの氏族の中で最も人間性が希薄で、最も謎に包まれた兵の一派、彼等であるとしか考えられなかった。
「えぇ、恐らく。……貴方はもっと身辺警護に注力した方が良い。死後、幾らスヴェータにすぐ家督を譲ると言ってもです」
「スヴェータにも知らせるかい?」
「……ダーリヤに手紙でも持たせた方が良いでしょうね」
 自身の娘がまさか、その血を引く者と親しくしているとは知る由もなく、ユスチンは何度も頷いていた。
「……それにしてもセーム、君が此処に残ってくれるとは思ってなかったよ。ダーリヤがクルツェスカに行くなんて段階で、首を横に振ると思ったんだ」
「国を守るなどと言われてしまっては、此処で引くのもルフェンスの名折れですからね。弱小であったとしても、そういう意思を示したのだから私も血の流し甲斐があるという物です。それに少し、頼みたい事が」
 セームはどこかにやついた笑みを浮かべながら、ユスチンを見つめていた。悪辣で、強かな印象は何処かへと消え失せており、代わりに今の彼女は悪戯っぽく年不相応にも見える。
「あんまり無茶苦茶な要求はやめて欲しいなぁ」
 冗談を飛ばせば、彼女は少しだけ目線を外し、声なくしてくつくつと笑っている。
「此処から東の私の都まで運河を伸ばして欲しいのですよ。スヴェータが死んで、その子も、その子が死んだとしても終わらない。そんな大きな話ですが、子孫の為、引いては国の為になるでしょう?」
 夢幻に狂ったかの様な言葉だったが、彼女は正気なのだろう。また身を乗り出し、夢を語る。己は流血、争いに生きる事しか出来ない。だからこそ、後世には何も遺せないのが虚しいと。子孫の為、国の為に死後も尽くしたいと語るのだ。
「……うん、まぁ良いよ。そんなにこの国が好きかい?」
「生まれた国ですもの。戦とは多勢の為、少数を切り捨てるのが常で、残るのは勝敗の結果のみです。しかし、東西を繋ぐ運河が出来れば、物流も良くなり、後世の民草も貧し、飢える事もなければ、道に迷って狼の腹に収まる事もない。……良い話でしょう?」
 暴力に狂い、流血を好む貴族の時代は恐らく密かに終わっていたのだろう。有事に瀕したクルツェスカは今や逆行せざる得ない状況ではあるが、何時かは未来を見なければならない。座し、呆けるのは貴族以前に人間としてあっては成らないのだ。
「スヴェータにも伝えておくよ。……僕の、私が亡き後もどうにか頼むよ。クルツェスカの者達に愛娘を任せるのは気が引けるからね」
「民草は我々に仕えてくれますが、我々は民草に仕えなければならない。だから質素でも強く生きろと、エツェルは言ったのです。……スヴェータが民草に仕えるならば、私なんて子育ての指南以外出来る事はありませんよ」
 戦の前だというのに、どうも穏やかな空気が流れていく。ユスチンが動くというなら、突っ慳貪な態度、姿勢を取る必要がなく、お互いの利害が漸く一致したというのもあるのだろう。
「……西の貴族は一体、どこで道を間違えたんだろうねぇ」
 ぼそりと一人ごちる様に出た言葉はセームの耳に届く。商人の真似事ばかりをし、本来のあり方を歪め、座し呆けて生き続けてきた。そうなってしまった原因は何だったのか、と中空に問うたはずだったが、彼女は口を開く。
「厄介な隣人を遠ざけたのが原因でしょう。彼等は抑圧された恨みを爆発させるべく、走り続けてきたのに西部は彼等を恐れ、忌諱し続けた。そのツケですよ、これは」
 ただの半世紀、一瞬の半世紀。研ぎ澄まされていた筈の牙はすっかり抜け落ちてしまった。先人を恨むべきではないだろうが、それでも彼等がセノールを忌諱し続けたのは愚行だったのだ。だからこそ、同胞達が青い目の獅子に噛み付かれても、遠巻きに眺める事しか出来なかった。此方に来るな、と祈りながら現実を忘れる事しか出来なかったのだ。
「バシラアサドか……クルツェスカに流れ着いたばかりの頃、遠巻きに眺めた事はあったけど、あんなにぎらぎらしてなかったんだけどねぇ」
「皆、腹の中には化物を飼っているものです。私も、貴方も。ダーシカや、ヨハンでしたっけ? あの小坊主も。……スヴェトラーナだってね」
 人間である以上、仕方がないと一人ごちセームは葉巻を灰皿へと押し付けた。中座させた訳でなく、吸い終えたのだ。
「寧ろ人間たる証明でもあります。……仕方ない事なんですよ」
 まるで自身に言い聞かせる様だった。吐き出した言葉に返す言葉もなく、ユスチンはぼんやりと暖炉の炎を眺めた。その朱の色は腹に飼った化物の瞳のそれよりも淡い。生み出された負の化物はずっと赤く、深い色を醸しているに違いない。
「……さて、そろそろお暇としますかね。ユスチン殿、寝首を掻かれぬように」
 不穏な言葉を吐いているも、セームの面持ちはやはり何処かにやついていた。全く気の利かない冗談で、ユスチンも声なく、鼻で笑うしかなかった。気を付けろと簡単に言ってくれれば良いだろうに、何故そうしないのか妙だったが気にした事でもない。立ち去っていく彼女を見送りながら、ユスチンは小さく溜息を吐くのだった。



 珍しく風雪がなく、空は晴れていた。月がじっと地上を睨み付けては、青白く呆けた顔を曝し続けていた。
 迎えの護衛から小銃を受け取り、セームはそれを肩に担ぐ。銃剣の穂先が月を穿たんばかり天を向く。目抜き通りだっただろう大路に人気は全くなく、占拠している家屋の前、夜警に立っている兵士以外はそこに存在していない。
「ベケトフは戦を構える、覚悟しておけ」
 ぼそりと呟けば、両隣と前に立つ兵士達は静かに頷いていた。彼等からしてみれば、元々セームはその気だっただろう、分かりきった事だ。コールヴェンにて語った"三勢力全てと戦う"という形が崩れた以上、当初よりも幾分か気が楽というもの。
「さっさと一発お見舞いしてやった方が良いんじゃないのか? ハーズバーグの砲もあるんだろ?」
「あくまで仕掛けられるまで待つ。……ジャッバール自体、水面下で敵意は見せて居るが、今の今まで直接的かつ、表立って軍集団での攻勢に出ていない。此方から攻撃を仕掛ければ、奴等の非難が我々を襲う。それはクルツェスカの民衆を敵にする。本当に厄介だ、民衆を味方に付けているってのがな」
 被害は避けられない、とセームは暗に語る。ジャッバールは貴族からしてみれば不倶戴天の敵である。西伐を経験した老人達は彼等を非難する事だろうが、それを経験してない者達、特に商人や学者はジャッバール支持者も多い。交易路の構築、廓でのレゥノーラ駆逐のせいだろう。
「言葉も通じない土人だったらさっさと撃ち殺せば良いんだけどなぁ、そうもいかんのか、やっぱり」
「我々の不倶戴天の敵、ロノペリとは比べてやるな。奴等よりよっぽど理性的で、よっぽど凶暴だ」
 理知を持った獣程、厄介な物はない。だからこそジャッバールという相手が厄介で仕方がない。諦観した様に吐いた溜息の白はすぐに形を失い、消え去るばかり。この戦の気配もただただ消えてくれない物だろうか、とセームは一人で笑っていた。
「バシラアサド、どこか私に似ているよ。本当に。だからこそ恐ろしい」
 配下の兵の手前、そんな事を口走るべきではなかったが、そう短く吐露せざる得ない。父を、兄を殺め、家督を強奪してはひたすら走り続けてきた。自らの手を汚し、ただただ闘争に明け暮れ続けた。気付けば優秀な人間に回りを固められ、民衆から背を押され、引くに引けなくなった。彼女も、自分も同じ様に思えて仕方がなかったのだ。
「だとしたら、我々は死ぬしかありませんなぁ」
 げらげらと護衛は笑ってみせ、その凍りついた筆髭を袖で拭う。辿ってきた道こそ似通えど、指揮官と政治家では全く違う。仮にバシラアサドが指揮官であるならば、クルツェスカは疾うの昔に戦火に果てている事だろう。
「お前達は殺しても死ななそうだがな」
 軽口を叩けば、彼等は三者とも笑っていた。戦場で軽口など褒められた事ではないが、凝り固まっていては成るべき事も成らない。遂にはセームまで鼻で笑い始め、寒空の街に笑い声ばかりが響くのだった。

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