複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42



Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.144 )
日時: 2018/03/29 13:17
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 ――目眩がした。ぐるり、と世界が回るような感覚に襲われる。前後感覚は愚か上下感覚すら無くなるような心地であった。
「っ…………あ?」
 ひどく間の抜けた声がこぼれ落ちる。後頭部の痛みが、今更ハイルヴィヒを襲ってくる。幸い大きな出血はないらしいことを省みれば恐らく、落下の衝撃ではなく壁に思い切りぶつけられた折か、落下後に何処かにぶつけるかでもしたのだろう。触れればじわり、と痛みが広がる感覚はあるが大したことではない。顔になにかこびりついている感覚があるが、恐らく額の出血が原因だ。溜息の後、しばし目を開いていれば徐々に暗闇は融けていく。鮮明にはならずとも動くに支障は無い範囲にはなった。散乱している己の荷物を集められるだけ集め、銃の無事を確認すれば短く息を吐いた。思い出したようにポケットを確認すれば小瓶は割れて、ポケットの中で原型を留めず、硝子片となって散乱している。思わず零れかけるため息を飲み込んだ。どうするべきか、と上を見上げれば上方にかすかな光が見える。恐らくは、あの地点に己が落ちた穴があるのであろう、という事は推測できる。登ることが叶うか、と問われれば否だろう。じわりと痛む全身で、殊この足で、何の支えもなく上へ戻るというのはいささか無謀がすぎる。己が無事であるという事、もしも其処に留まっている様な事があるならば早急に離れるように、と令嬢へ伝える術は無い。悩ましげに上方を睨む事暫し、ハイルヴィヒ・シュルツの足はただ暗がりの向こうへ、向こうへと向いていた。何かに導かれるように、ただ其処に留まることを拒絶する様に。其の歩みを止める者は居らず、其の背を押す何かがあるだけだった。或いは、歩む先に運命があると信じて止まぬ様に。
 静寂の中、一人分の足音だけが響く。痛む足を、けれども引き摺る事はなく、ただ前へ。傍らにくるくると表情を変えてくれる、けれども月光が如き柔く儚い少女は無く。彼女を思えば歩みを今すぐにでもその傍へと戻りたい衝動に駆られる。清らかなる少女を、此の手で守る事こそハイルヴィヒ・シュルツの使命に相違ない。あの清らかなる白磁の肌に触れたいと願ってしまう。清らかなる水宝玉の瞳の味を知りたい。伸ばしたてで彼女を掻き抱き、其の髪に触れたい。其の美しい瞳に浮かぶ珠を舐めやる事すら望んでしまう。不可思議なほどにこの心は渇きを憶えている様な錯覚。思わず、ため息を吐いた。馬鹿らしい、と己の思考を一蹴し、その思索を恥じ入る。おぞましい、とすら思う。或いは、あの場で待ち続ける、という選択肢もあったそれでもまるで引き寄せられる様に歩を進めている。もしもの時は、とスヴェトラーナと語り合った事を思い出す。少女はひどく不安げな表情で此方を見て、瞳で嫌だと言いながらもわかったわ、と聞き分け良い言葉をかけてくれた。正直に言おう、ハイルヴィヒ・シュルツは此処で死ぬつもりは微塵もない。まだ此処で命を散らすべきではないと彼女自身は判別している。かといってスヴェトラーナに無事を伝える術も無い。ただ見えないなにかに手を引かれる様に、ハイルヴィヒ・シュルツは歩を進めるだけであった。壁伝いに、壁を支えとしながら歩む事すら馬鹿らしい気がしてくるが、不思議と足は前へ、前へと動いていた。
 ――ふと、手に違和感を憶える。はた、と足を止めて壁を見やれど、そこにあるのはそこ迄にあったものと何も変わらぬ、無機質な岩壁があるだけだ。けれど碧玉は怪訝そうに細められ、壁から離れた手はコンコン、と2度、その壁を叩く。ややあってからその手は少し離れた位置をまた2度叩いた。何が変わるでもなく、ただ変わらぬ音が響くだけだ。或いは、ほんの些細な気の所為として進み行く事が正しかったのかも知れない。それでもただ、此の場に惹かれて仕方がない。否、気になるだけ、そう、気になってしまうだけだ。やや逡巡の間を置いた後、ハイルヴィヒは黒い手袋を外し素手で壁へと触れる。やはり、何があるわけでもない。ただの岩壁だ。其の癖、奇妙なまでの確信じみた違和感は消える事がない。何かが、此処に在る。そう思えて仕方がない。じぐり、と痛むのは足ではなく赤い飾りを付けた耳である。なぜ、を思う間もなく、其の青い瞳は微かな光を零す何かを見つける。穴のようなそれを、覗かなくてはいけない様な気がした。呼ばれている様な錯覚すらある。少しばかり屈んで、それを見やろうとした瞬間だった。不意に、背後から強く引かれる感覚があった。気配らしい気配などなかったというのに。不覚をとったか、と振り向こうとした刹那、耳朶に触れる指がある。ヒヤリとして冷たいそれに思わず肩が跳ねる。死神の手と言われれば納得してしまう程に、冷え切った指だった。
「――うそつき」
 響く声が幻聴であるのか、ハイルヴィヒに判別は出来なかった。上がる息も、早鐘を打ち騒がしい心音も、かすかに震える手も、恐怖からもたらされるものではない。ゾクリ、と背筋に冷たいものを憶えて振り向こうにも身体が動かなかった。白い手が見える、伸ばされる腕はこの身体に絡みつき頬に氷の様に冷たい手が触れた。反射的に抜いたナイフを背後へと向けるも何かを刺し貫く感覚は皆無。それどころか其処には何もない。文字通り、なにも、何者も、ありやしなかった。ヒュゥ、と空気を吸い込んで、吐き出せない。嗚呼、やはりこれは、恐怖であるのか。ずぶり、と水中に引き込まれたかの様な感覚に、息が詰まる。息を吐いてしまったらもう、呼吸が止まってしまう様な気がした。悍ましい、とすら思う。けれど、けれど。鼓膜を震わせた様に思うその声はひどく懐かしく、暖かく、愛しい人の声にも似ていた。振り向きたいのに振り向けない、というのは、言葉を発したいのにそれが出来ない、というのは、こんなにも――。
「…………アッ」
 冷ややかな手に引かれる刹那、其の手が耳の飾りに触れた。それと同時に驚いた様な声が聞こえてきた。――そうした後小さく、囁くように「ちがうわ」とも。これすら、幻聴であるのやもしれないが。何も出来なかった、腕は動かない、足も。視界の端にちらついた白が焼き付いて離れない。いっそ気が触れてしまったのかとすら思えた。息が詰まって、どれほどだろうか。眩む様な感覚があった。思わず目をきつく閉じて、暫し。閃光は深い青の色。海中とは、恐らくこんな色なのだろうという妙な確信。咲き誇るは白百合。視界に混ざる赤の意味を、傭兵は知りはしなかった。美しく染まった菫の色<Violet>は、誰が為に。誰と問う声も、拒絶も、或いは許容すらも紡げないまま。いつの間にか、視界にあった白は消えていた。代わりにクラリ、とするほどに強い、芳醇な花の香が漂ってくる。思考を白く、白く塗りつぶす様に強い、白百合の、噎せ返る程の香り。思考を、思索を、塗りつぶされる様だった。視界すらも千切れていく、景色がハラハラと舞い落ちる。気付けば、膝を着いていた。噛みしめる指からは鉄の味が滲んでいる。少し、視界が滲んでいる。思考も、何もかも、グチャグチャとかき乱される様な感覚がいまだに残っていた。噛み締めていた指を離し、思わず左手は口を覆う。咳き込みながらも其の喉奥からは何も出てきやしなかった。荒い息を繰り返す事数度、未だにじわりと輪郭の滲む世界を見やり、どうにか息を整える。ひどく、凍えるような心地であった。融けゆく世界を、ただ菫色に宿して。どうか、どうか再び、君の声をと祈りながら。

 ――祈りは、或いは嘆きであったか。暗い部屋を不意に思い出す。凍てつく水底の夢を見る。悪夢に相違ない。此の世界の終わりまで、抜け出せぬ様な場所を、知らぬはずなのに思い出す様だった。おにいさま、と零れかける言葉を飲み込んだ。手を覆う白を取り払えば、其の下にある印は証に相違ない。地位を示す証拠を、と問われればこれ一つで事足りる。白磁の肌に刻まれた証が本物である証拠は、すぐに示されよう。そうでなくとも、身分を示す材料など数多い。いかに偽ろうと、この身に染み付いた何かは消える事などない。虚実の名を告げ、知らぬ家と言われた所でならばと真実を告げるのは容易いが、多少は誤魔化したままでありたいというものだ。地位に付いてくると言うならば、それも構うまい。今のスヴェトラーナにとっては、己に力を貸してくれる誰かがいる、と言うだけでありがたくおもえてしまうのだから。怯えたような顔をして、其の手を取って「こわいわ」と呟けばおしまいだ。深い、海の色を求めて少女は歩む。――此の高さでは、と紡がれた言葉は尤もだろう。けれど少女は口を開くことはなかった。ややあってから小さく、兄と慕う人にだけきっと聞こえる声で「ハイルヴィヒは生きているわ」なんて独り言を紡ぐだけだった。確信じみた予感だった。根拠など無くとも、耳朶に揺れる赤がそれを教えてくれる様な気さえしていた。歩む内見える酸化した赤に、少女は言葉を紡がない。胸中、あるのかわかりやしない魂の安寧と、一時でも構うまい、ほんの暖かな夢を見ることが叶う様にと願うだけだ。もはや帰らぬ日々であるならば、いっそ愛しさすら憶える。奇妙な話だ。一段、また一段と歩む内ふと聞こえた声は唸り声であったのやも知れないが、少女には囁きに聞こえて仕方がない。まるで白い雪の様に、ふわり、耳に落ちて来る様な。
「…………ハイルヴィヒ?」
 遠くから聞こえる声が、まるで其の人の声の様で、思わず駆け出しそうになる。其の足を阻むのは三人の内誰であるのか。――誰だって、よかった。細腕を掴む手を、少女は振り払う事はなかった。代わりに振り向いて、憂う瞳をじ、と三方向へ向けるばかり。
「……其処、其処に……何か――其処に」
 何を、という視線をひしひしと感じる。分かっている、己が妙な言動を取っている事くらい、わかっている。けれど確かな違和感が其処にあった。何を、と問いたげな、訝しむような男の視線に気付かないわけではない。兄と慕った一人の手をそっと取る。己の貧弱なそれとは違う、ひどく頼りがいのある、大きな手だった。
「どうか、なさいましたか?」
 其の問いは尤もだ。けれどもスヴェトラーナには、其の問いかけにすぐに答える為の材料が揃っていない。只の予感だ。只確かに憶えた違和感に従い指差す細い道は其の先が行き止まりでしか無い、只の袋小路である事を示す看板がある。ここからでも向こうの壁は薄らと視認できるし、其処に求める娘が居ない事もまた然り。ややあってから、その水宝玉をちらり、彼へ向けた。
「……、……その道の向こう側、に……気の所為かも、しれないのですけれど……あちらから、声が、しませんか」
 或いは只の気の所為か、求めるものとは全く別のなにかであるやも知れないというのに。息が詰まる、嘆きたくなる。消えたものを探す瞳は、それでも何もない通路を見つめ続けていた。早く進もう、と告げる声がする。悍ましいものが、舌を出して手招きしているかもしれない。それでも、其の誘いにすら乗らねばならぬ気がしていた。吐き捨てられた深い青を、或いはすでに菫の色に染まった其れを、少女は求めてやまない。困惑の色に、薄氷色は不安を宿す。ぱちり、瞬けば金糸をさらりと流しながら首を傾げる。行く行かないは、本来少女が選び取るべきなのだろう。けれど、此の場でほぼ役に立てない己よりは、経験深い誰かが判断する方が良いように思えてしまう。「おにいさまがたに、おまかせしますわ」と告げた声は消え入りそうなほどにか細く、柔い声色だった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.145 )
日時: 2018/04/09 08:40
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 闇は自らの存在を隠し、篝火の朱に道を譲っていた。下層へ、更に下層へと向かう一団に言葉など無く、ただ足音ばかりが響く。時折、蹴られ転がった瓦礫がからからと音を立てている。
「しっかし……こうも人探しが続けば廓に弄ばれている気分だ」
「廓の意思とでも?」
「あぁ、そうだ。此処は生きている」
 先程、この男は "またか"と苦言を呈していたが、度重なる捜索、救助に辟易としているようだった。故の戯れ言とジャリルファハドは鼻で笑っていた。
「いや……生きてるっつーか、人を謀り、食い殺そうとしてんだよ。人の子一人居やしないに声が聞こえたり、居やしない人間が姿を現す。そうやって人を惑わすんだ」
「果てには化物の餌とな、馬鹿馬鹿しい。此処は過去の遺構でしかない。その様な事があってたまるか」
「在るから言ってんだよ」
 足音に紛れ、ぽつぽつと会話を交わす。このカンクェノは単なる過去の遺構、解明出来ていない物こそ多々在れど、そんな超自然的な事柄は在ってはならない。そうジャリルファハドは否定の意を唱えようと、喉元まで言葉を引っ張り出すも、それを飲み込んだ。砂漠で見た物──アゥルトゥラ兵の亡霊をすっかり忘れていたのだ。身体の彼方此方を失い、人にしては歪。闇の中、苦悶の表情を浮かべ、呻き、蠢いていたそれをだ。
「お前は見たか?」
「……いいや、捜索、救助した奴等が口揃えて俺達に訴えてきたってだけの話さ」
 そうやってジャッバールの兵は苦笑するばかりであった。実際に自分の目で見た訳ではない。あくまで第三者の証言でしかない。彼は「忘れてくれ」と呟き、大きく欠伸をしていた。道は篝火の朱を受け、明るく照らされており、暗闇が緊張、不安を煽るような事もない。戒めるようにジャリルファハドは彼を見据えるも、それを改める気配もなくただただ歩み続けていた。
 十層ばかり下り終えると曲がり角から声が聞こえていた。その声はミュラのようだ、何処か語気が強く感じられた。共に下層へと降りてきたジャッバールの兵も怪訝な表情を浮かべながら、小銃を携える。それぞれが各々の得物に手を掛け、まるでこれから討入りに行くかのような状況であった。彼等の前へと立ちはだかり、背で制しながら角から顔を覗かせた。どうにもソーニアと言い争いになっているようだ。救われていたか、と安堵を抱きつつもまた面倒ごとかと不快感を覚える。
「何をしている、助けていたなら早く上に出れば良いだろうが」
「あぁ、いや。ソーニアがまたあの穴に潜るって聞かなくてさ、調べたい物があるとかって……」
「ソーニア。探索、調査は日を改めてからでも遅くはないだろう、何も急がずと────」
 松明に照らされた彼女の額からは流血しており、右腕にも擦過傷が見られた。左肩はだらりとぶら下っているだけで、力が篭っていないように見える。何よりも彼女の目であった、静脈が切れたかのように赤黒く染まっているのだ。まるでレゥノーラの目のよう。闇の中、ただただ獲物を探し、輝く死神のそれである。
「……目はどうした」
「え?」
「目だ、何故赤い?」
 ミュラと同じ事を問われるも鏡などない、自分の目が赤くなっている等と知る由もない。ジャッバールの兵達に至っては「レゥノーラの物と同じ」だという声すら挙がる。自分の瞳は父母と同じくして濃い緑、レゥノーラのように赤黒くなどない。
「……見間違いとかじゃないの?」
「見間違いなどではない、確かに赤い。早く上がって医者に見せるぞ」
「いえ、何ともないのよ。明かりにも目が慣れてきたし──」
 だが、普段よりも明かりが眩しく感じられる。そう語り、言葉を続けそうになるも言葉を呑み、ソーニアは相変わらず自分の無事を主張していた。明らかにその瞳はジャリルファハドから逸らされ、何処となく居心地の悪さを感じていた事だろう。
「傷を負っているだろう、それ以外にも怪我はないのか」
「そうね、肩はちょっと。……でも見せておきたい物があるのよ、お願い」
「ダメだ、今日は上がれ。その傷では足手まといだ、ただでさえお前はレゥノーラ相手に"全く役に立たない"」
 そうジャリルファハドに一蹴され、ソーニアは不愉快そうに彼を見据えていた。銃を扱えない怪我人がレゥノーラを相手に歯が立つはずがない。ただでさえ経験がないのだ、幾らジャッバール兵が居るといえども一人戦えない者を守るのは難しい。
「リエリスの。コイツの言う通りだ。俺等はアンタを助けに来ただけだ、アンタを守りに来た訳じゃない。降りてきたらアンタはもう助けられていた。これ以上は俺達の仕事じゃあない」
「……我々は上から降りてくるまでを待っていただけに過ぎない。もうこれ以上は関わる気がない、余り好き勝手を言ってくれるなよ。此処はもうお前達アゥルトゥラの物ではないのだ、目に付くならば……分かるな?」
 各々の兵がブレーキを掛けるように護衛をする気はない、と意思を示す。勝手が過ぎるならば命を奪うとまで語る。彼等とて余計な物に触れたくはないのだ。此度はハヤの命令という形でソーニア救助に兵が動いた、ハヤの名と同胞たるジャリルファハドの働きかけが無ければ、恐らくソーニアは死んでいた事だろう。心なしか彼女の表情には翳りが宿る。額から流れ出る血を手の甲で拭うと、傷に触れ刺すような痛みに苛まれる。
「だから言っているのだ、今回は上がるぞ、と。廓の修繕など誰もしていないのだ、此処を塞がれる事もない、日を改めろ」
 右肩から滴る血を石壁に拭い付けながら、ジャリルファハドはソーニアを戒める。乾いた壁に伸びる血の筋を見て、ミュラ以外は負傷者だという事に気が付いたのか、彼女は漸く首を縦に振るのだった。それに呼応するようにソーニアが肩に提げた小銃をミュラが受け取った、木製の銃床にはセイフ・ラーディンの名が刻まれていた。
「なぁ、さっさと上に上がろうぜ、帰ろう」
 下層のレゥノーラよりも恐ろしく感じられる存在を思い出し、一刻も早く廓の外に出て行きたい。そんな一念からの言葉であった。ソーニアが頷くと「行きがけの駄賃」だと上層のジャッバール兵も歩き始めた。下層の者達は「またな」とだけ、言葉を放ち一斉に踵を返し始めるのだった。
「俺達が居るのは五十階までだからな、そこから上はどうにかして上手く帰れよ」
「分かっているともさ、ミュラ。刀を」
「あぁ」
 刀を受け取る手は血に塗れていた。赤黒く変色し、固まったそれの上に血の筋が走っている。握り込められた刀の柄が血で汚れてしまった。そんな事は気にもならないのだろう、腰に刀を差し直すとジャリルファハドも彼等の背を追うようにして歩き始めるのだった。



 上層へ、上層へと歩みを続けるにつれ、左肩の痛みが強くなりはじめ、一挙手一投足が苦痛になり始める。その痛みが頂点に達した頃、地上の明かりがぽっかりと空いた廓の入り口から飛び込んできている。ジャリルファハドの流血も止まっているようで、右手を伝う血の筋はすっかりと乾ききっていた。無事ではないが、帰路に何事もなかったとミュラは安堵の溜息を吐いて、ソーニアの右腕を自分の肩へと回して、彼女を支えるようにして歩き始めた。
「ごめん」
「別に良いぜ、無事帰って来れたしさー」
 何処か間延びした彼女の返答に思わずソーニアは笑みを湛えたが、その笑みからミュラは目を離そうとしない。矢張り赤い目が気になって仕方が無いのだ。
「何よ?」
「いいや、別にー。さっさと医者行こうぜ」
 少しだけ前を歩いているジャリルファハドも、傷の具合も診てもらう必要があるだろう。どちらにせよ、医者へは行かなければならない。ソーニアの赤くなってしまった目も、原因を突き止め処置しなければならないだろう。
「眩し……」
 そう一人ごちるソーニアを気にも留めず、ミュラは彼女と共に石段を上がっていく。外の空気は廓の中よりも幾分冷たく、吹く風に思わず一つ身震いをするのであった。漸く外へと至り、大きく深呼吸をしながら目を閉じた。ソーニアは廓の前に広がるであろう、大路を見据えるべく身を翻す。先まで地下へと潜っていたものの、本来自分が居るべく地上は心地が良く感じられた。そして目を開く。
「……あれ?」
 視界は白け、傍らに居るであろうミュラの姿すら見えない。大路の人垣は勿論、ジャリルファハドの姿すら。空は青いのか、それとも白く曇っているのかも分からない。何も、何も見えないのだ。困惑したように辺りを見回すソーニアの瞳は日の光を受け、厭に赤く、まるで賢者の石のように輝いているのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.146 )
日時: 2018/04/07 19:30
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

選択は任せると言われても道は一つしか残されてはいなかった。スヴェトラーナの言葉を何の根拠も証拠も無い小娘の戯言だと一蹴してしまうのは容易いことである。が、奈落の底に落ちた侍従がどこへ消えたのか手掛かりがない以上、道標を示してくれるのはありがたいことであった。皆、同じことを思っているらしく「行きましょう」と言ったガウェスの言に抗弁する者はおらずスヴェトラーナが進めた道へ爪先を向ける。篝火の淡いオレンジは五人が進む道を大まかに照らしてくれるのみで、どのような構造をしているのか目視する事は難しい。だが、目で確認できたところで、落ちている者はここで無念の死を遂げた者達の置き土産、若しくは、埋葬されることのない遺体のみだろう。見えない方がいい。時折聞こえる猿叫のような金切り声は上の階から聞こえてくる。誰かの怒鳴り声と空を裂くような発砲音は瞬きの間に静かになり、廓に一瞬の静寂をもたらす。しかしすぐに女性の断末魔が聞こえ、直後に男性の断末魔が響く。何が起こったかなど見る必要もない。「死んだか」と不謹慎なことを呟く傭兵も諫めることはせず、青い顔した少女に話しかけた。
「大丈夫ですか。疲れたならここを抜けた先で休憩をとりますが?」
 べっこう飴のように淡い優しさに包まれた言葉に、「おにいさま」と出掛かった言葉を堪え、代わりにスカートの裾をギュッと握りしめた。
「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫ですから、それよりも、早く、ハイルヴィヒを」
 それだけを伝え、憂いを帯びた瞳を閉じる少女は宗教画から抜け出してきたかのような清らかさがあった。見る者を惚けさせる儚げな美しさにガウェスも見惚れたものの、「あの」と、声をかけられて我に返る。口元に優しげな微笑を浮かべ「畏まりました」と返事をする。止めていた足を動かせば、小石を蹴り上げてジャリッと音を立てて闇へと吸い込まれていった。五人が辿る未来を見せられているかのようで、顔を顰めたが、すぐに気を取り直し、口を真一文字に閉めた。例え何があろうと後には退けぬ。道は前にしか続いていないのだから……。
 さて、通路を抜けた先にあるの石造りの部屋。壁には赤黒く光る液体が付着している。何て事はない。廓ではよくある光景である。早足で抜けてしまおうとした部屋片隅、光の届かない影が蠢いた。こちらが口を開く前に「誰だ」と問うた声は若い女性の声である。研がれたナイフのように鋭く短い言葉は威嚇する獣の唸り声の如く、他者を威圧するのには十分すぎた。暗闇に姿は隠されているが、シルエットだけは僅かな火の光が教えてくれる。訓練を詰んだ人間なのだろう。銃を構える姿は熟練の狩人を連想させた。だが、腕を痛めたのか、銃口が僅かに震え、下を向いている。片足を負傷しているらしく、無事な方な足に体重をかけて支えていた。もしもあと一発でも銃弾を放てばバランスを崩し倒れてしまうだろう。暗闇に目が慣れてくるとようやくその姿を捉えることが出来た。
「あなたは」
 驚愕と歓喜が入り混じったガウェスの声。彼が歩み寄るより早くスヴェトラーナは暗闇に紛れる女性に対して駆け出していた。一瞬虚をつかれた顔をしたが、走り寄ってきた人物が愛しい白百合であると知ったとき、彼女の手から銃が零れ乾いた音を立てた。

 二人の間に言葉はなく、頬を伝う涙を拭うことも忘れ飛びついてきた少女を従者は受け止めた。普段ならなんてことはない衝撃が足の負傷のせいでバランスを崩して尻餅をつく。張り詰めていた緊張が、呑み込まれてしまいそうなほど大きな悲壮感が、灰風に飛ばされるように消え、廓に似付かわしくない安堵があった。そして一等その安堵を享受しているのはスヴェトラーナであろう。迷惑がかかってしまうと分かっていながらも涙を止めることは出来ず、声を殺し、吐息と僅かな嗚咽を洩らす少女の背を従者は静かに撫でている。冷たい印象をうける吊り目が、今は穏やかに垂れ、彼女も彼女で安心という名の海に溺れているのだ。そんな二人の様子を遠巻きに見ているのはガウェスだった。彼の顔からも嶮しさが消え、本来の穏やかな気持ちが戻りつつあった。
「女の子二人で来たのか」
 ガウェスの隣に立った男が目を丸くし驚いているのは瞠目しているからではなく驚きと呆れであった。いつ落ちたかは知らないが、廓に一人、しかも負傷した状態で生き永らえていたなど奇跡以外の何物でもない。それに案内もつけずに二人でこのような下層にくるなど無謀にも程がある。
「女二人でここに来るなんて。何が目的なんだ」
 男は煙を吐き出す。真っ白な灰はパラパラと床に落ち、その姿は床と同化するように消えていった。
「俺は心配だよ。ここは女子供だけで来るところじゃねぇ、そうだろ? 男がいなくちゃ。男が」
 無造作に伸びた髭を撫でている男が何の意図をもってそのような発言をしたのか、聡明な騎士はすぐに理解できた。しかし、とりあうつもりはないのだ。自分の置かれている状況が分からないほど愚かでもない。
「自分で頼んでみたら如何です?」
「やーよ。見たところ、お前さんとあの嬢ちゃんは知り合いなんだろ? 俺みたいな赤の他人が頼むよりもお前さんの方が確率が高い」
 軽口のつもりだったのだろうが、ガウェスにとっては心臓を鷲掴みにされるほどの衝撃であった。ジッと二人を見つめ平静を装うが鼓動は火事が起きた際の鐘よりも早く脈打っていた。
「シャボーの砂漠に落とした針を見付け出せるくらいの可能性ですよ?」
「それでもゼロよりはマシさ」
 短くなった煙草を足で踏みつけると横からではなく、今度は真っ直ぐとガウェスを見据えた。この時、初めて男の瞳が黒ではなく焦げ茶色をしているのに気が付いた。
「さぁてそろそろ行こうじゃないの?」
 傭兵がガウェスにこそりと耳打ちをした。このような場所に長居はしたくないだろう。後ろで武器を弄っていた男も同じ気持ちなのだろう。背中に視線を感じる。お二人共と一声かけて視線で合図を送れば、ガウェスの意図をくみ取ったであろう。黒衣の少女はこくりと首を立てに振った。
 その時だ。この場にいる全員に纏わり付いていた空気が変わった。巨大な蛇に巻き付かれているような雰囲気から、神聖な儀式を執り行う、重く冷え冷えとした雰囲気へ。再びりぃんと張り詰められた緊張感が一帯を覆いガウェスの顔を冷や汗が頬を伝う。忘れもしないだろう。鼻をつまみたくなるような死臭を撒き散らしながら近付いてくる醜悪なる化生の存在を。ごくりと生唾を飲んだのは期待ではなく緊張。十の瞳がガウェス達が通ってきた通路に集中する。未だ正体が現さないソレに対し、ついにガウェスと傭兵二人が持っていた銃のセーフティが外された。目を離さずしゃんと立ちあがったハイルヴィヒにスヴェトラーナは思わず口を開きかけたが、ハイルヴィヒの人差し指がそれを阻止する。そしてすぐに離された指の感触に浸る様に細く白い、透き通った指が唇を往復するが、女性の断末魔のような奇声に中断される。トリガーに指がかかる。銃口は迷いなく通路の出口に向けられ、松明に照らされた先端は黒く光る。ぬちゃ……ぬちゃ……と人ならざる者の足音が大きくなる。一歩、また一歩と近付く度に咀嚼音のような音が反響し、一層不快感が募らせる。松明の炎が揺らめき陽炎を映した時、ついに姿を現した。傭兵二人からは「なんだ」と困惑が洩れ、スヴェトラーナはその醜悪な姿に目を伏せた。ハイルヴィヒは眉をひそめ、ガウェスは苦しそうに顔を歪める。彼の青い瞳に映ったソレは真っ赤な鮮血に濡れた対峙した女型のレゥノーラに他ならなかった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.147 )
日時: 2018/04/22 04:53
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 切り裂かれた右肩を曝しながら、ジャリルファハドはぼんやりと囲いの向こう側を見据えていた。傍らのミュラは腕に彫られた刺青をまじまじと見つめているのだが、そんな彼女の様子など全く気にも掛からず、ただただソーニアの状態だけが気がかりだった。彼女の負傷は勿論ながら、その身に起きた異変はあまりにも異常であるからだ。あの深く鮮やかな深緑の瞳が何故、血のように赤黒く染まり、光りに過敏な反応を示すようになってしまったのだろうか、と気掛かりで仕方がないのだ。
「……傷、痛いのか?」
「そういう訳ではない。……少しソーニアが気掛かりでな」
 彼女を診ているのは己が同胞である人物である。彼の腕は確かだが、理解に及ばない物を見た時、どんな反応をするか分からず、匙を投げてしまう可能性もあった。それがジャリルファハドの不安だった。このままソーニアの目が治らず、原因も分からず終いとなった場合、その先の彼女の人生は光を忌諱し、薄闇の中でしか過ごせない物になるだろう。そんな可能性があると思えば、サチの武門の兵である己が居ながら彼女に傷を負わせてしまったという事実に居た堪れず、拳を握り締めた。
「おい、ファハド。良いか」
 仕切りの向こう側から顔を覗かせた男が呼ぶ。立ち上がった時、右肩から血が伝い床に滴るもそれを気にする様子もなく、呼ばれるがままジャリルファハドは歩んでいく。何故か彼の足取りは重く見え、ミュラは小首を傾げていた。
「俺にはさっぱり分からん。強い光が入ると全く見えんそうだ。少しでも暗ければ問題はないようだが……理屈も分からんよ、そもそも俺が診れるのは外傷だけだ、傷がない物をどうやって調べろってんだ」
「……傷の手当てはきちんとしてくれたんだろう?」
「えぇ、それはしっかりしてもらったわ」
 口を挟んできたソーニアを一瞥すると、彼女は光を忌憚するように目を閉じていた。額に当てられた綿紗は傷をすっかり覆い隠しており、その生々しいであろう傷跡を曝そうとしない。
「肩も動くわ。入れてもらったから」
「見よう見真似の整復だったが、案外上手くいったみたいでな」
「ルトよ、随分といい加減な事をしてくれたな」
 そう彼を戒めるも、ジャリルファハドは内心感謝の意を唱えていた。感謝の言葉は誰の耳に届く事もない。だが、しかし。ルトと呼ばれた男は苦言を受け止めながらも、その感謝を汲み取ったようで満足気に笑っていた。
「まぁ、座れ」
ジャリルファハドに座るようにと促し、彼を無理矢理に座らせると笑みが突然、意地の悪い物に変わっていく。昔からこういう男だった、と何処となくジャリルファハドは遠い目で彼を見ながら苦笑いを浮かべている。
「おい、ミュラとかって奴。ちょっと来い! ソーニアを連れて行け!」
 大声で呼ばれミュラは少しだけ慌てた様子の足音が聞こえた後、仕切りの際から顔を覗かせた。連れて行け、とルトが顎で指図するとそれに応じ、小さく頷きながらソーニアの手を引く。彼女はミュラへと侘びながらであったが、何時も通りの笑みを湛えていた。あくまでも目以外は問題ないと言葉なくして主張しているようだ。
「おい。ハヤが悪さを働いたなら詫びておこう、悪気はないんだ。許してくれ」
 "ハヤ"という名を聞いた時、一瞬だけミュラの顔付きが強張り、身動ぎをして彼をじっと見つめていたが、はと我に帰ったようにそそくさと仕切りの中から出て行ってしまった。その背を見送りながら、ジャリルファハドは薄っすらと笑っていた。
「図星のようだな。ハヤには会わせたくなかったが、仕方あるまいよ。上にはレゥノーラが居たのだから、アイツを一人で行かせる訳にはいかなかった」
「死ぬよりマシってもんさ。ミュラもハヤに引っ張られなくて良かったじゃないか。近頃は第二のアサドになりつつある。いや、アサドより悪い。だが、俺には諌められないのさ。ハヤの言う事はセノールの悲願だ、否定出来る身じゃないんだ。俺とてアゥルトゥラを殺してやりたい。……縫うぞ」
 雑談を交えながら、縫合の準備を終えたのかルトは傷を縫い出すのだった。尋常ざる痛みが走る物の僅かに表情を歪めるだけに留め、深呼吸をしてから再び口を開く。
「お前はハイドナーの兵の死に顔を整え、手当てしてやっていたと聞く。それは本心かね」
「あぁ、本心さ。アゥルトゥラを殺してやりたい、そして救える限りの人間は救う。どっちもな」
 二律背反するような言葉を吐く、ルトの真意を推し量る事は出来ず、ジャリルファハドは口を閉ざすも、何針か縫い進めていくとやはり痛みを耐え切れないようで再び口を開いていた。
「……アサドはどうした」
「あぁ、あいつ? ちょっと用事だってボリーシェゴルノスクに行ってるぜ」
「それは何処だ?」
「此処から少し北の街だ。そうか、お前が知る訳ないよな。要衝でもない、強いて言うなら運河に接してる程度の話だぜ。まぁ、クルツェスカの衛星都市ってところだな」
 何をしに行ったのだろうか、と思案するもそれは痛みに阻害され、ジャリルファハドは溜息を吐きながら目を閉じ、左の拳を握り締めるのだった。




 運河に運び込まれているであろう資材を眺めながら、バシラアサドは煙草の煙を吐いた。紫煙は運河を走る風に吹かれ、その形をあと吐く間もなく失ってしまう。それはまるでこの街の行く末を示しているかのようだった。傍らには護衛としてバッヒアナミルの姿があり、彼は未だに僅か痛む右胸の傷跡を擦りながら、堪える冬の寒さに顔を顰めていた。
「アサド、寒いです。入りましょう」
「……そうするか」
 彼女の視線の先には資材運搬用の引揚船台が築かれており、そこに乗せられた三隻の船があった。錆び、朽ち掛けている船であるが未だにしっかりと走る事が出来る。機関の音が少しだけ喧しい程度の話だ。あの船にも来る時には働いてもらわねば成らない、と小さく笑みを浮かべて煙草を投げ捨てるのであった。
「この街は良い、血の匂いも、戦の匂いもしない」
「振りまいているのはアサドじゃないですか。此処も何れはそうなる。……俺だって手伝いますよ」
「傷を癒してからの話だ。余り不調を悟られぬようにな。お前が張子の虎では困る」
 半年以上前に負わされた右胸の傷は未だに癒えず、膿み僅かに熱を帯びていた。身を翻せば身体は強張り、容易く傷が開いてしまう。だとしても、ジャッバールにはナッサルの虎が居るという事を主張して置かなければならない。多くはルーイットとシャーヒンを恐れる事だろう、それでは足らず彼等に匹敵し得る兵は多ければ多いほど良い。例え傷を負い、病んでいたとしてもだ。今は戦うでなく、戦わずして相手を黙らせるという云わば抑止力が必要な時である。
「寒い……傷に障ります」
「私を守れない程にか」
 そうやって煽ると彼は侮るなと言わんばかりに、目を見開きバシラアサドを一瞥する。
「……全く、失礼ですね。ベケトフの犬くらい、ちょーっと噛んで殺しますとも。その位は……簡単です」
「そうか、気を抜くなよ」
「えぇ、勿論です」
 バッヒアナミルの言う通りだとしても慢心は出来ない。既に放たれたハサンの兵は彼等の屋敷を取り囲み、動向を探っているのだ。令嬢とその護衛の不在、残るは当主と一人の青年のみ。歯牙にも掛けるまでもない。何故、こうして護衛を付け、多くの密偵を放っているかといえば、これからそのベケトフの屋敷へと赴くからである。埋め込まれた櫟の種は恐るべき早さで芽を出し、何時の間にか毒を撒き散らすようになってしまった。種を砕き、枝をばら撒くべく獅子は歩みを進めているのだ。
「尤も番犬も留守だがな」
 そうバッヒアナミルを揶揄すると彼はどこかほっとしたような表情を見せ、また右胸の傷を気にするようにして擦っていた。余程この寒さが堪えるのだろうか、どこか気の毒な思いを持ちながら彼を見つめていると「大丈夫です」とにこやかに笑みを浮かべながら、気丈に振舞っているのだった。仕方あるまい、ベケトフが事を構えるというのならば自分で当主を討たざる得ないだろう。懐に収めた固定式の回転式拳銃に触れながら、大路の奥に佇むベケトフの屋敷を見据えるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.148 )
日時: 2018/04/22 00:26
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

「私を囮に、貴様らが逃げるのが一番いいだろう」
 後ろへ、後ろへと静かに後ずさる中、娘は至極淡々とした語り口で、しかしはっきりとそう口にする。其の言葉に一番に反論するのはスヴェトラーナにほかならない。しかし其の唇が動く前に、ハイルヴィヒの指は再びスヴェトラーナの唇へと触れた。静かに、と言わずとも少女は理解しているだろう。現に、少女は其れを理解している。されど口を開かずにはいられない、といわんばかりの視線でハイルヴィヒを射抜く。否、射抜くなど。見つめるだけだ、焦がれるように。或いは懇願するように。
 焼け付くような劣情が、ハイルヴィヒの胸に残っていた。渇いていく様な感覚すらあった。求める色は赤なれど、其の真髄は此処には在らず。鼻孔を掠める白百合の香にすん、と鼻を鳴らす。愛おしいと思う、慈しみたいとも思う。永遠に、少女が少女である事を望む気持ちが今ならば理解できる。うつくしいものを、うつくしいままで。其の理想の何と美しいこと。されど其れは本来、望んではいけないものだ。少女は何時か成長し、羽化し、羽根を伸ばして飛び去っていく。それが道理、摂理――されど。
「私が、此の中で一番今役に立たん。なら……足を引っ張るよりも此処で切り捨てろ。それでいい。……貴様のことは、信頼している」
 少女を見ず、深青の瞳は真っ直ぐに少女が連れた三人――の、内の一人。かつて太陽が如き輝きを背負っていた其の人へと向いていた。彼のみを見つめている、とはきっと彼以外にはバレまい、等という奇妙な確信を胸に。碧に紅が混ざりゆく。焼け付くような痛みを、けれども少女は歓迎する。或いは、その瞳に血を混ぜた様にじわりと、紅の色は広がり行く。毒の雫を垂らす様に、じわり、じわりと、その碧を侵食していく。なにかに背を押される心地だった、手を伸ばしてしまいたかった。飲み干してしまいたい衝動を、今はただ抑え込む。無意識に、中指を強く噛んでいた。滲む鉄の味は決して良いものではない、そのはずなのに。慌ててポケットに手を突っ込む、破片はある程度捨てたもののまだ多少混ざっているだろう、が、仕方あるまい。錠剤をいくつか口へと放り込みガリ、と噛み潰した。呼吸が上がるその前に、静かに、告げるべきを少女へ。
「……お嬢様、宜しいですか。……此の儘、此の奥へと進んでください。出口ではありませんが……道はあります」
 仮令紺碧の底に或れど、どうか彼女に白百合の夢を。柔い願いを胸に、ハイルヴィヒ・シュルツはさながら懇願する様な声色を以てスヴェトラーナへと告げた。行き止まり、との表記を見ているスヴェトラーナとしては、ハイルヴィヒの言葉に衝撃を受けるが、其の言葉を信じぬという選択肢を持ち合わせては居ない。ただ信じる人の言葉を、悲痛にすら思えるその瞳の奥に在る色を、信じる他なかった。薄氷の色は刹那伏せられる。固く、固く閉じられた瞼。少女は静かに息を呑む。震えを隠すなど出来やしない。けれど。
「……わかりました。貴女の言葉を、無駄にはしません」
 スヴェトラーナの言葉に、ハイルヴィヒは安堵の息を零す。そっと、其の髪を撫でる。後ろ髪を引かれる様な心地だが彼女だけでも逃がすならば、此の方法が最善であろう。何か言いたげな三人を無視して、ハイルヴィヒはスヴェトラーナに囁いた。
「…………真っ直ぐ進むと、私が抜けてきた小さな穴があります。……其の向こう、壁伝いに行けば……きっと、何かが分かるはずです」
 己の辿った道を思い起こしつつ、ハイルヴィヒはそう告げる。柔い笑みは今、少女にのみ向いていた。或いは永遠に、此の笑みは、彼女のためだけに。
「……白百合の香りにどうか、ご注意を」
 口づけてしまいたかった、其の柔らかな唇に触れたいと本能が叫んでいる。噛み付くように、其の全てを欲している己が、心の何処かに確かに存在している。白い肌に、赤はよく映える――など、何故、今。
「……ええ、約束するわ、ハイルヴィヒ。だから……また、あとでね」
 凛、としてなど居ない。柔らかで、今にも崩れてしまいそうな。けれども甘く、優しい声だった。スヴェトラーナの水宝玉の瞳には今、ハイルヴィヒ以外映っていない。映さねばならぬものは多くとも、少女の瞳にはハイルヴィヒ・シュルツ以外の存在は拒まれていた。愛しい、とふと思う。許されるなら永遠に、白百合の安寧に包まれてしまいたかったというのに。其れは今叶わない。早く、と言いたげな男の視線など無粋と思えど尤もな主張だ。長いようで手短な別れ。これが永遠となるか一時となるか、奇跡に賭けねば選択は明白。

「……参りましょう、奥です」
 ハイルヴィヒのそばを離れ、“おにいさま”達のそばへと歩み寄る。足音を出来るだけ立てないように、静かに。息を殺す。囁くような声はそれでも何処か、甘さを孕んで。皆の反論を、少女は其の柔らかな視線で遮った。わかっている、そのくらい、言われずとも、彼女が――彼女がきっと、囮としてはあまり役に立たない事くらい。下手をしたら一撃すら加えられず終いかもしれない。震える銃口では平素の様な射撃は難しかろう。装填の暇もないかもしれない。一瞬で、事が終わってしまうかもしれない。
「……おい、お嬢ちゃん」
「其れ以上、其れ以上どうか……」
 何も、言わないで。男と言葉を遮るのは今にも溢れそうな水面を湛える少女の瞳だった。怯えるように伸ばす手は何処にも触れることはない。振り向かず少女は歩みゆく。或いは一人であったとしても、向かうべく場所ができたならばそれで、いい。駆け出したい衝動を飲み込んで、振り返らず少女は、歩を進める。

「……ユースチン殿、ちょ〜っとめんどくさい事になりそうですよ」
 書斎で書類と睨めっこしていたベケトフ当主の元に、鈍い金の髪をした青年が歩み寄る。びっくりしたぁ、なんてわざとらしい言葉を零す当主に、青年は肩を竦めた。
「……ま、ユスチン殿なら、大凡面倒の正体もご理解なさっているでしょうけど」
 其の言葉に、当主はシルバーグレイの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。モノクルの奥の、淡い色彩の瞳は困った、と言いたげに細められている。
「……わかってるけど、一応報告を」
「はいよっと」
 青年の口から紡がれるのはおそらく屋敷が監視下にあるという事、気の所為ではないだろう。情報は力、少なからず武力で劣るならば、其の程度はできて当然といわんばかりに。かと言って無闇矢鱈に其れ等に手を出すわけもない。或いは、静観ともとれるのだろう。――事実を前に、憶測を最後に添えた青年の言葉に、当主の顔ばせはやや、険しさを増す。
「……僕らは中立、というか僕は中立。何があっても……守るべきものを正しく守らなきゃいけない」
 決意、と言うほどでもない。ただ彼にとって、当たり前のこと。ただ唯一揺らがない、此の家に通づる、意思を。
「……我が領地、我が領民に、危害が及ばぬ様……立ち回ってみせるさ」
 紡がれる言葉は穏やかに、けれどふせられ、再び開く瞳には――穏やかならざる光が、一筋。実力行使などもってのほか、されど言いなりになどなれやしない。何処まであがけるかなど正直未知数ではあるが、それでも。

Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42



小説をトップへ上げる
題名 *必須


名前 *必須


E-Mail


URL


パスワード *必須
(記事編集時に使用)

本文(最大7000文字まで)*必須

現在、0文字入力(半角/全角/スペースも1文字にカウントします)


名前とパスワードを記憶する
※記憶したものと異なるPCを使用した際には、名前とパスワードは呼び出しされません。