複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.153 )
日時: 2018/05/26 22:20
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 帰路の輩は白く、強い羞恥心を持っているようだ。人の肌に触れては溶けて、消えてしまう。傍らで馬に跨るバッヒアナミルも、そんな雪の様子が物珍しいのか、手に触れたそれをまじまじと見つめていた。仕方ない話だろう、シャボーの砂漠では雪は降らない。冬季に砂礫が凍りつく事こそあれど、朝日に溶けては砂漠に吸い込まれて消えていってしまう。早々雪など見られないのだ。
「あっ……という間に溶けますねぇ」
 そうやって屈託なく、年齢不相応な幼さを見せながら彼は笑っているのだが、四半刻も前に「根雪が降る前に攻め切りたいですね」などと戦の算段とも思える発言をしては、攻略のための要点を語っていたのだ。尤もバシラアサドにはナッサルをボリーシェゴルノスクへの工作や、コールヴェン、クルツェスカの商人達を締め上げに使う気は微塵なかった。彼等の本領は野戦であり、何なら今後の戦争の主役となるだろう、野砲の扱い手である。全面的な戦争に使い出こそ在れど、所謂「汚れ仕事」には向いていないのだ。そういった小規模かつ隠密性、機敏性を求められる荒事には、ハサンの兵達のような薄暗がりを好んで生きている「適任者」が存在しているのだ。
「雪ばかり見てくれるなよ、伏兵から突然襲われては敵わん」
「見ていますとも。……だぁれも居ませんよぉ」
「慢心するな。人間は簡単に死ぬぞ、銃弾一発、一太刀浴びせられるだけでな」
「分かってますよ、よーく分かってますとも」
「本当か?」
「えぇ、敵なんて居ませんよ。今も、クルツェスカにも」
 態々、馬を隣に並べ、わざとらしくぐるりと回りを見回して見せた。伏兵などは居ないとおどけた様子だ。それもそうだろう、ユスチンは物騒な物を出すなと吐いた手前、伏兵を仕掛けるなど早々にして自分の言葉に反する行いをしてしまう事になる。これで仕留めそこなったならば、事は大事になる。あっという間に反故にされてしまう。それが分かっているのだ。尤も伏兵をし掛けた所で、ハサンの「露払い」に遭って終いなのだが。それよりもバッヒアナミルのこんな様子をユスチンの前で見せずに済んで良かったとバシラアサドは内心安堵しながら、大きく溜息を吐いた。彼のこの軽率にも見える様子は、自分まで軽く見られかねないのだ。ユスチンに向け、彼が言葉を放ったときは一瞬焦ったが、至極当然な事を言っていたため問題はなく、結果的にユスチンは下った。だがしかし、その身内はあくまで下っていないのが現状である。彼は「私は」という言葉を付け、強調していた。元より慢心するつもりは微塵もないが、それらを非力で矮小な存在だと軽視すべきではないだろう。護衛は勿論、その令嬢、何ならあの茶汲み坊主まで警戒しなければならないとバシラアサドは内心、一人ごちるのだった。
「ナミル。懸念はまだあるぞ、クルツェスカのメイ・リエリスとてそうだ。その一つだ。表向きには戦の支度などしていないが、彼等を慕う者達は未だ多い。鶴の一声で戦の支度をするだろう、あの者達は。何せ私もナヴァロの行動を締め付けるために彼等を使った、それほど影響力がある」
 その言葉を聞いた途端、バッヒアナミルは顔を顰めながら、馬上で振り向きバシラアサドを睨むかのように見つめていた。らしくない顔だと思わず、笑いそうになってしまったがそれを堪えながら視線を交わす。
「あぁ、ファハドがそこの娘と動いてましたね。……消してきましょうか?」
「お前まで身内殺しに手を出してくれるな。…………はぁ、それにその傷を負ってどうしてファハドを斃せると? お前の首が転がって終いだよ、ナミル」
 大きく欠伸をしながらバシラアサドはそう語る。らしくないその様子に違和感を覚えながら、バッヒアナミルは小首を傾げては彼女を黙って見つめていた。そういえば昔はこんな顔をしていたと記憶が蘇る。
「あぁ、いえ。フェベスをですね」
「止めておけ、まだ使い出がある」
 まだ彼の利用価値はある、彼の目的はアゥルトゥラ西部の正常化である。一貴族の専横を許さず、西部貴族達をまとめ上げ全てを西部防衛と対セノール外交に注力させようとしているのだ。その為に外患を招き、それを以ってして内憂を討つ。そして、外患を懐柔してて不可侵を結びつつ、交易を続行し時間を掛けて、民族間の交友を結ぼうという参段なのだろう。尤もバシラアサドには交友を結ぼうなどという気はない。降伏を申し出るには、降伏を受け入れる相手が必要なのと同じように、交友を結ぶにはその好意を受け取る相手が必要なのだ。残念な事にそんな相手シャボーの砂漠を隅から隅まで探し、砂漠の砂と礫を全て引っくり返したとしても居ない。故に恐らく、最後の最後には彼等と敵対する事になるだろう。そこまで事を引き伸ばすつもりは毛頭ないのだが。
「使い出、ですか」
「使い出、だ」
 バシラアサドの真意を汲み取る事は難しい。自分には政、その裏と表を見極められる目がなければ、裏を表とし、表を裏と見せ掛けるだけの知恵がない。ただただ得物と兵を輩に戦場を駆け抜け、暴力の化身、砂漠の化身として血を流し続けるだけしか出来ないのだ。だからこそ、今こうしてバシラアサドから出た己の本分を奪おうとしているような発言が引っ掛かり、バッヒアナミルは手綱を強く、強く握り締めた。それを感じ取ってか、バシラアサドは苦笑いの後、口を開いた。
「ナミル。人間というのは歳を取るにつれて、とても好きだった物が大して特別ではなくなるものだ。そうして少しずつ大事なものを忘れていく。……だが、私はまだ忘れていない、だからこそ今此処でお前を喪う訳にはいかんのだ。まだ、まだお前が得物を携え駆ける時ではない。……まだ私はお前を忘れられない」
 静かに笑みを湛えた彼女に、そう言い聞かせられてしまっては僅かに抱いた不快感が少しずつ落ち着いてく。何処か昔、幼い頃の記憶が蘇ってくるのだ。穏やかで少しばかり気が弱かったが、優しげな彼女がそこに居た。今となっては最早見る影もない、ただただ民を扇動し、闘争へ向けて直走る。だからこそ、バシラアサドに対して命を差し出さなければならないのだと、バッヒアナミルは己へと言い聞かせた。彼女を死なせては多くのセノールの悲願が潰えるのだと。
 二人は言葉を交わそうとせず、その間には寒風が吹き荒ぶ。北風の唸り声だけが辺りに響く。ふと、馬の鼻喇叭から我に帰り、バッヒアナミルは寒さに堪えきれず、身震いをしては再び馬の手綱を強く握り締めた。
「それでも、ですよ」
 五歩ばかし馬が進み、振り向き様に彼は笑みを湛える。その表情は穏やか過ぎて異質にも感じられる。辺りはまったくの白だというのに。自分の吐く息は白いというのに。此処がシャボーの砂漠のように思えるのだ。そこには確かに砂漠の化身が居た。砂塵に塗れ、砂礫の上に佇み、人を焼き殺さんばかりの陽を浴びても尚、猛り狂い、戦に望む。それを是とし、ただただ忠義を尽くすべき相手を前に喜び、笑っているサチの兵が、ナッサルの男が居た。
「そう急ぐな。……まだ、まだ早い」
 その一言に一瞬だけバッヒアナミルの表情は薄れ、俯いては肩を震わせながら笑っていた。彼にも結末が見えたのだろう、恐らくは自分が命を擲つべき時が見えてしまったのだ。バシラアサドは思う、この兵は少しでも背を押せば、死へと直走り、遂に死地に辿り着いては、喜び勇み命を擲つべく、闘争に身を投じる事だろう。
 この虎にも、獅子の名を冠す己にも次代の席はない。犯せるだけの業という業は既に犯してきた、己の触れた気に触れ、目の前の虎は箍を一つ、二つと外しかけている。なんと、業の深い事をしてしまったか、と思わずバシラアサドは目を細め、彼を視界へ入れないように俯いた。こうまで狂信的に思われる自分は恐らく幸福なのだろう。だがしかし、実の弟のように今の今まで接し、見てきたこの男を歪めてしまい、彼を不幸にしてしまうだろう自分自身を嘲り、嗤うのだ。これでは己が忌み嫌う、ハサンの男達と同じだと。嘗ての友を歪めた者達と同じだと。唇を噛み締めるのだった。
「どうしました……? 寒いですから早く帰りましょう」
「あぁ……そうだな、そうだったな」
「唇、血出てますよ、乾燥して切れましたか?」
「さて、な」
 道に敷き詰められた石畳には雪が積もっている。馬の蹄がその雪を蹴散らし、また一歩、一歩と道を進んで行く。一歩進めば、時は過ぎ去り、終わりへと近寄っていく。恐らくは己の死、輩の死に彩られた終わりだろう。三匹の獣は皆が皆、死へと向かって直走ろうとしている。獅子は民を扇動し滅びへと駆け、彪は死への分水嶺を一歩超えて歩む。そして最後の虎は扇動され、命を擲つ覚悟を決めている。そして、皆が皆、そういった道を歩もうとしているという事を確りと理解していた。獅子の笑みはもうじき、結末が見えるという事に対する喜びであり、彪は表情もなく覚悟を決めている。虎は仕え喜びながら死んでいく。そんな事を思えば「自分もまたセノールだ」と、どうしようもなく惨めで、どうしようもない胸苦しさを覚えるのだった。
 クルツェスカはまだ、まだ遠い。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.154 )
日時: 2018/05/24 19:51
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 死の舞踏はもうじき終幕を迎えるだろう。四人が逃げた方とは逆へ逆へと逃げてきたが、薬で騙し欺し動かしていた身体がついに重くなったのだ。鉛をつけたように重く足が怠く、背筋を伸ばして立つことさえ億劫に感じる。ぐらついた視界に、幕引きを任された演者が一人。クライマックスを告げるのは悍ましい化生のみなのだ。
 ハイルヴィヒは、死を予感していなかった訳でも、ひいては覚悟が無かったわけでもない。傭兵という仕事柄、人よりは一等、死が身近なものであったし、お嬢様の為なら易々と投げ出すと決めていた。ただ、あぁ、案外早かったなど、何とも場違いなことを考えがぼんやりと浮かんでいるのだ。心残りがないわけではないが、後はヨハンが上手くやってくれるだろうと、死を目の前にしているにも関わらず、落ち着いた気持ちで、ついに冷たい地面に膝をついた。しかし、このまま成すがまま殺されていくのは何とも情けない。それはせめても、猟犬としての意地。自嘲的な笑みを浮かべハイルヴィヒは震える足で立つ。たとい喰われる立場であろうとも、致命的な一打を、若しくは相打ちを。今までだって抵抗はしていたのだ。レゥノーラには急所に銃弾を叩き込んだはずだった。鳩尾、腹、首、脳天に最低一発は見舞ってやったはずだった。それなのに、彼女は死なず、熟れた林檎のように真っ赤な結晶を零しながらもハイルヴィヒの命を摘み取ろうと腕を伸ばすのだ。その手から生者は逃げる。互いに一つの目標のために追い掛け追われてきた。そして今、ハイルヴィヒは根競べをやめた、言ってしまえば、質の悪い開き直りであった。無論、あの騎士がスヴェトラーナを守り、とうにここから逃げ出せていると確信していたから出来たことではある。人差し指をトリガーを引っ掛け、狙いをすます。指先に力を込めることすら石臼を引くように辛い作業であったが、ほんの一瞬、レゥノーラの意識が他所へ向いたとき、指に力を込め、そして――。
 それが火を噴くことは無かった。バタバタと響く足音。荒い息づかい。武器同士が擦れ合いガチャガチャと音が徐々に近付いてくる。
「くたばりやがれ!」
 ぼやける視界でもオレンジ色の火花が爆ぜているのが確認できた。叱咤の一つでもやらないと気が済まないと思ったが、考えとは反して身体から力が抜けて、そのまま床に伏した。
 小バエを払うように鬱陶しそうに両手を振り回している。その隙にガウェスがハイルヴィヒの元まで走る。濃淡の違う蒼瞳が互いを映す。
「や……はり、な」
 フードで隠されていた男の顔が今度はくっきりと見えた。暗闇に映える白い肌。青い瞳。フワリとした髪質。見間違うはずもなかった。
「喋らないで。傷に障ります」
 ガウェスはらしくない焦りを滲ませ、しかし、まだ息がある少女に安堵していた。ぐったりとしている彼女をおぶると部屋の壁に沿うように、レゥノーラにバレない様に味方の元まで歩く。彼らの背後にある通路に入ってしまったら、一度彼女をおぶり直し、今度は昇降機まで全力で走る。闘争の匂いで他の悪鬼を呼び寄せてしまう可能性もあり、現在、そこまでの余力はない。傭兵の二人もガウェスの後に続き、時折、牽制の代わりに銃弾を放っていたが、無意味だと知ると走ることに専念した。
 やがてヒタヒタという足音も聞こえなくなったが、ここを離れたい、ハイルヴィヒの容態から一刻も早く地上に上がる必要があった。あの新種がケェーレフのような俊敏性を持ち合わせていたら、ガウェス達はここまで逃げ帰っては来られなかっただろう。そもそもこの少人数では助けにすら行けなかった。最近では祈ることのなかった神に、今回、久しぶりにガウェスは感謝したのだった。

 昇降機まで走り、戻っていると視界の隅に見知った影を見た。何故彼女がこちらに残っているのだと目を丸くし、思わず速度を緩めた。向こうもガウェスの存在にに気が付き、人に流されないように鍛えられていないほっそりとした足で踏ん張り、懸命に河を渡っている。既に昇降機に乗っている傭兵に「早くしろ」と怒鳴られ我に返る。ようやく渡りきり、「あの」と伸ばされた手を反射的に握り、彼女と共に籠へと飛び乗った。手を握られた瞬間、触れたことの無い纏まりつくような滑りとツンとした匂いが鼻をついた。スヴェトラーナが視線を手元に落とすと赤黒い液体がこびりついている。全身が粟立ち、思わず「ひっ」と声を上げたが、傷だらけのハイルヴィヒを見た瞬間、今までの恐怖が引っ込み、悲哀の表情を浮かべた。沈痛な面持ちで「あぁ……」と声を上げた少女はおぶられている少女の頬を撫で、「ハイルヴィヒ」と呟いた。
 ざわめきを掻き消すように「上へ、早く!」と叫んだその声は氷柱のように鋭く、気圧された男が地上へのボタンを押した。昇降機は地上に向かって駆け、その間にハイルヴィヒの止血を試みる。彼女を床に置き、真新しいガーゼで患部を圧迫する。出血にひどい場合は心臓に近い方の動脈を強く抑えるがそれでも血の勢いは止まらず、彼女が呼吸するごとに傷口がピクピクと動き、赤黒い血が溢れてくる。濃い血の臭いに頭がクラクラするが、止めるわけにはいかず、手袋が赤く染まっても抑え続けた。それを見た若い男が「手袋を外したらどうか?」と助言をしたが、右手の手袋は外すわけにはいかなかない。ガウェスの右手の甲にはハイドナーの家紋が刻まれている。
「ありがとうございます」
 腕で汗を払い感謝だけ伝えると再び抑える作業に戻る。噛み殺せない焦燥感と共に脳裏にぼんやりと浮かぶのは、過去に自分を治療してくれたセノールの男。仇敵であるハイドナーを治療したのだから、彼には彼なりのポリシーを持ち、医者をやっているのだろうが、頼みに行くわけにもいかない。仮に彼の元へ走ろうと思っても、名前すら知らないのだ。
 地上に戻ったガウェスは湿気った空気を掻き切るように駈ける。今度は喪わないように、今度こそ守り切るために。騎士としての残滓を胸に、彼はただ、病院へと足を運ぶ。そこまでの道のり、多くの人は傷だらけのハイルヴィヒとそれをおぶる大柄の、フードの男を見ると自然と道を空けてくれた。気が付けば、走っているのはガウェスのみで一度振り返ってみればスヴェトラーナは五メートルほど後ろを、置いていかれないように懸命についてきている。二人の傭兵は地上に出た途端、お役御免とばかりにいつの間にか姿を眩ましてしまった。礼を言うのを忘れたので、再び会えたらきっちりと礼を言おうと決める。あと、追加の報酬も。そして、様子見だと緩んでた足を速め、先ほどよりも早い足取りで病院へと向かう。今までの遅れを取り戻そうと、彼女には悪いが、この速度でついてきて貰うほか無い。時間が惜しい。彼女も灯火が消える前にどうしても治療を受けさせてやらねばならないのだ。曇った心とは裏腹に、空は突き抜けるように青く、太陽すら微動だにしない。唯一ぽつりと浮かぶ雲だけは、ゆるゆると形を変えて、日常も非日常も刻々と進んでいくことを示してるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.155 )
日時: 2018/06/02 13:12
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 恐ろしいならば歌いなさい、と。そう教えられた事がある。母を亡くし、酷く落ち込んでいた時に、父とて精神的に安定していなかったろうに。娘の身を案じ、2人だけには酷く広くなってしまった寝室でそう教えてくれた。何処の言葉かも分からない、意味も上辺ばかりしか知らない、けれど紡ぐと不思議と心の休まる音だった。少女はぼんやりとした、浮かぶような心地で、休まらぬ心を落ち着かせるかの様にただただ、小さな唇から音を紡ぎゆく。明日を夢見て、白百合を胸に。或いは、其の心に静かな泉を思い描きながら。心の端がちり、と焼け焦げるような錯覚、チャリン、と耳元で小さな音が、鳴り響く。周囲の男たちの視線も、焦るような声も。兄と慕う人の背中も、其の手も、倒れ伏す彼女すら何時かに見た光景の様な気がしてしまう。何故、を思考する暇などありやしない。上がりきった昇降機、開く扉、急ぐ其の人の後を、少女はただ必死に追うばかり。
「――“миреостц”...」
 無意識に紡ぐ言葉は、きっと、知らないはずの魔法の呪文<キーワード>何時か、どうか――此処に骸が増えぬ様にと。私の、美しい従者にどうか、これ以上疵が残らないようにと、やわい願いを、けれども切実に込めて。
 ゆらゆらと揺られる感覚に、何か懐かしさを憶える。けれど、此の唇は言葉を紡げず、瞳もまた、瞼を押し上げる事すら億劫で仕方がないものだから、何も映さない。滲む視界、ざわめく周囲の音、何ひとつが非現実のものである様に感じられてしまう。そんな中でも酷く鮮明に、少女の声が鼓膜を震わせればピクリ、とハイルヴィヒの睫は震える。其れに気付く者は、誰一人在りやしないのだけれど。どよめく様な人々の声すらはるか遠い場所からの音に聞こえて仕方がない。微睡みの内にありながら、深層は酷く、明確に覚醒を憶えている。吠え立てる様な獣性に突き動かされそうになりながらも、身体の自由は一切利かない。指先すら動かせぬ侭、虚ろな瞳でけれど彼女自身は此処にはない何かを睨めつけていた。何かが背を押すような、いっそ蹴り飛ばしてくる様な感覚さえあった。もしも身体が自由に動くならば、己を背負う誰かの肩に牙を突き立てていたのかもしれない。首輪の外れた猟犬は最早、狂犬に相違ない。招かれるまま、手を引かれるまま――否、背を押されるままに、衝動に突き動かされる、獣の性だ。けれども其の意識もふ、と途切れる瞬間がやってくる。溶かされてしまった様にぐるり、と、どろりと、意識が流出していく。混濁の内に、娘の意識はプツリ、と途切れた。

「…………」
 ハイルヴィヒはゆるり、と其の瞼を持ち上げる。薄暗い部屋は、其の癖何処か清潔感を保っているらしく、天井の白さは此の薄暗がりでもよく分かる。まるで催眠にかかった様に重たかった手足が、徐々に軽くなっていく。右手をゆるく握りしめた時、手が何か温かなものに触れた。確かな質量をもつ其れの正体が、スヴェトラーナの白く細い手であると気付くまでにそう時間はかからない。ベッドに身体を預ける様に、床に膝をついて眠っている少女の姿が、徐々に鮮明になってくる。手負いの獣の様であった其の瞳に、人らしい、或いは理性とも呼ばれるものが宿るのはそう長い時間を要さずしてであった。蕩けるばかりであった思考が徐々に覚醒していく。もう一度、其の白い手をそっと握りしめればスヴェトラーナの長い睫がふるり、と震え、閉ざされていた瞼は押し開かれる。淡く美しい、水宝玉の瞳は今だ微睡みの内に或れど。覚醒は直後に。見開かれる瞳は潤み、目元がやや赤い。声にならぬ声をあげ、其の花唇をパクパクと動かしている。か細い、悲鳴の様な、けれども歓喜と安堵の入り交じる声と共に立ち上がり、長い長い間を置いて「ハイルヴィヒ」と傭兵の名を呼んだ。令嬢に呼ばれた娘は最早獣性の欠片も無く、一匹の猟犬として静かに、其の双眸を細めるばかりであった。令嬢はハイルヴィヒの上へと覆いかぶさり掛けるものの、彼女が満身創痍とすぐに思い出せばベッドの端へ、今度は其の白い布の上へ身体を預ける。崩折れる様に、只美しい線を描いて。金の髪が、白の上に舞い踊る。良かった、と小さく、幾度も呟く声は白に飲み込まれていく。震える華奢な肩に、ハイルヴィヒが手を伸ばす事は叶わない。其の髪を、頭を、撫でてしまいたいのに叶わない。嘆くよりも早く、口惜しさと悔恨が湧き上がる。乾ききった唇は、彼女の名をなぞるだけ。重ならぬ白い手はシーツを強く、強く強く握りしめる。もう一度、金糸雀の囁きでハイルヴィヒ、と傭兵の名を呼びながら。

 どれ程の時間が経っただろう。少女は肩を震わせた侭崩折れ、娘は体躯をベッドへ預けたままだった。不意に、足音が聞こえる。其処で漸く、ハイルヴィヒは此処が診療所である事を認識する。
「おう、目ぇ醒めたか、シュルツの」
「……嗚呼」
 お陰様で、そう続けたかった言葉は掠れて禄に言葉になりやしなかった。眼前の初老の男は何処か不機嫌そうな瞳を、硝子越しにハイルヴィヒへと向けている。ハイルヴィヒもまた、蒼穹の色をした、其の癖只々冷え切った色の瞳を真っ直ぐに彼<医師>へと向けた。見覚えのある人物だ。何かと彼には世話になっている。何時かに大怪我をした折など、思えばヨハンに担がれて此処へ運び込まれた記憶がある。あの時の、何故だか酷く泣きそうで、苦しげなヨハンの表情が脳裏をよぎった。零す娘の息は、短く。突っ伏して居た少女もゆるりと其の首を擡げ、此処の主を見やる。ハ、として目元を拭って立ち上がれば、一礼。完璧な動作をもって、至極自然な動きであった。
「…………ご丁寧にどーも、お嬢ちゃん。まァ……金の話は後々だ。何にせよ」
 そう言って、男は静かに息を吐く。ポケットを漁りつつもすぐにハ、とした様に少女二人をみやり、舌打ちを一つ。
「よかったな、生きてて」
 其の言葉に目を丸くして、其の瞳に水珠を浮かべて、ハラハラと涙するのは令嬢であった。けれども誰一人、驚く者はなく。ただ心地よい沈黙が病室に在るだけだ。森閑とした空間はただ、三者三様の心地よさを漂わせていた。
「ったく……どうしてシュルツってのはこう、無茶するんだかな。…………良かったな“ハイルヴィヒ”飼い主が優しくって」
 あのお嬢ちゃん、ずっとお前の傍で泣いてたぞ。と付け足された言葉に、ハイルヴィヒの眉はかすかに動いた。
「祖父も、父も…………無茶ばかり、していたんだ。…………其の前も、ずっと、前も。なら……血筋だろうな」
 掠れる声で、ハイルヴィヒは言葉を紡ぐ。掠れた喉が僅かに痛むが、乾きからくるものであるならば、何一つ問題はありはしない。聞き苦しい、と言いたげな視線の男は溜息を零した。「まァ、いいがな」と吐き捨てるように零した後ちらり、と令嬢を見やり、其の後傭兵を見やった。
「……暫くは安静だ、いいな? ……“お嬢様”と一緒なんだ、なんか訳アリとかだろ。暫くはお嬢ちゃんと一緒に此処にいりゃいい」
 其の言葉に少女は感謝を紡ぎ、傭兵はただ静かに、其の双眸を伏せるだけだった。

 ハイルヴィヒが静かに眠りについた頃、スヴェトラーナはゆるりとその双眸を押し広げ、胸を静かに上下させるハイルヴィヒを静かに見守っていた。其の光景に口を噤んでいた男はふと、少女の傍へと歩み寄る。
「……割と、真面目にギリギリだったんだぜ? ……此処まで運んでくれた坊っちゃんに礼言っといてくれ。それにしてもまぁ、こいつが助かったのもお嬢ちゃんの祈りが通じたかね」
「祈ってなどいませんわ、お医者様<Врач>」
 少女は、やわい笑みを男へと向ける。どこまでも穏やかに――穏やかすぎる其の笑みを。半歩、少女と男の距離が縮まる。す、と持ち上がる踵。近くなる距離、至近距離で見つめ合う二人は、けれども浪漫の欠片を遺さずに。
「…………祈ったところで、神<Смерть>は、何一つ……救ってはくださらないでしょう?」
 ふわり、と甘い香りが漂う。或いは、男の気の所為であるのかも知れない。ただ柔らかな笑みの少女は念押す様に短い言葉を紡いで、小首をかしげている。柔らかな空色に、けれども甘いばかりではない色を湛えて。――鼻腔をくすぐるのが白百合の香であると男が気付いた頃には、眼前の少女の瞳に妖光は最早無い。微笑みは少女然とした其れであるし、ただ柔らかな蜜が、あるいは毒のようにじわり、広がるだけ。

「…………よ、かったぁ……」
 後日、はた、と診療所を訪れたヨハン・クリューゲルは包帯に巻かれながらも生きながらえた相方を見て安堵とともにそう呟いた。事の顛末はスヴェトラーナと此処の医師だという男から聞き及んでいる。そも、こうしてこの場所へ辿り着けた事自体奇跡に等しい。スヴェトラーナとハイルヴィヒが此方での拠点としている部屋へと赴いた折り、2人の不在を知れば些かの懸念を胸に、真っ先に此処へとやってきた事は果たして幸いであったか。今はまだ、わからない。何にせよやってきたヨハンを診療所の主はまっさきにこの部屋へ連れて行き、見開かれた薄氷の色が其処にふわり、生まれただけだ。――少しばかりハイルヴィヒに話がある、と医師の男へ告げれば大凡状況を察してくれたらしく「シュルツの嬢ちゃんに釘刺しとけよ」と告げてスヴェトラーナに話がある、と彼女を病室の外へと連れたってくれた。何かと、表沙汰にし難い事を引き受ける彼らしい、というべきか、それなりの付き合いが在る故、と思うべきか。ヨハンには判断し難いものの、其れを気にするのは後の事とした。ハイルヴィヒに、ボリーシェゴルノスクにおけるベケトフの状況をさっと告げる。その上で、ユスチンの考えも添えた、けれど。
「んで、まぁ……現状はこういう事なんで。……お嬢様が帰って来る、ってのはちょーっと困る……感じ、だったんですけどぉ」
 ため息混じりにベッドへ腰掛けてハイルヴィヒを見やる柔らかな安堵の色をその瞳に。ハイルヴィヒの顔の横に、ヨハンの手がそぅ、と置かれる。ギシ、とベッドのスプリングが軋んだ。
「……ヴィッヒー、僕、今からすっげーひどい事言います」
 青と緑は交わりそうで、交わらぬ距離にある。二人の間だけに在る秘め事を、確認する様に。
「――その状態で、全快したとして。……お嬢様の護衛、務まりますか」
 其の言葉は躊躇いがちに紡がれる。ひどいこと、と言ったくせに随分と柔らかな物言いだ、とハイルヴィヒは小さく鼻を鳴らした。そうしてから細める瞳に敵意は無く、いっそ、穏やかな心地ですらあった。
「…………此の命に代えても、お嬢様をお守りするのが私の役目だ。……私の、役目だ」
 瞳は細めた侭、ハイルヴィヒはただ静かにそう告げる。仮令何があろうとも、或いは今此の瞬間、此処へと令嬢を害する要因が来るというならばいっそそれらを殺し尽くすつもりだ。己の身体の状況を正常に判断出来ないわけではない。それでもやらねばならない、という衝動が此の胸の内にある限り、ハイルヴィヒ・シュルツは番犬として、猟犬として其れらへ牙を立てよう。ハイルヴィヒが笑顔を浮かべる事は無い。さりとて、怒りを見せるわけでもなく、ただひやりとして、其の癖何処か切実な色を織り交ぜた声で言葉を紡ぎゆく。ヨハンが口を挟む余地など、穏やかなくせにこれっぽちも或りはしなかった。少しばかり困ったように笑いながら、ハイルヴィヒの黒髪に指を通す。何だ、と言いたげな視線に肩を竦めていいじゃないですか、と青年は囁いた。
「――折角、久々の再会なんです、ちょっとくらい……ね」
 青年の声はただ、眼前の少女を慈しむように或いは淡い執着を、滲ませていた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.156 )
日時: 2018/06/03 13:23
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 辺りに漂っている匂いは何だろうか。それは微かな物であったが、鼻に纏わり付き、決して離れようとしない。腹を空かした鬣犬の様にしつこかった。この匂いの正体は、石炭酸である。囲いの向こう側、少女の大きく開かれた膝の傷を消毒するために用いられていた。無色透明なその液体が放つ、独特な臭気にそれを扱うルトと少女は互いに顔を顰めては、時折顔を見合わせて苦笑いを浮かべていた。
 囲いの外では上半身を曝したバッヒアナミルの姿があった。少しばかり冷え込み、それが不快なのか口を真一文字に閉ざし、表情を顰めるばかり。そんな彼の右胸には未だ塞がり切らない、大きな傷が存在を主張していた。傷の回りの皮膚は赤く変色しており、刀傷を負わせた者の怨嗟がまだ残っているようだ。首元を裂かれ、雨の下で血を流して死んでいった男の無念がいつまでも纏わり付いてくる。傷は確かにバッヒアナミルの身を蝕み、侵して行く。これは最早呪いだ、と彼は傷を見て嗤っていた。人を呪ったとしても、殺しきれぬかと肩を震わせ、こんな傷を負ってしまったと己を嘲る。死を覚悟した者が死へと駆け、ひたすらに向かっていく。一合、二合と斬り結ぶ内、そんな狂気に自分が乗せられてしまった、その未熟をただただ嗤うのだった。
「次……ナミ坊。早くしろ」
「その呼び方止めて下さいよ、もう俺だって二十一ですよ」
 囲いの向こう側から呼ぶ、その声は彼を何処か茶化しているように感じられた。幼い頃からの付き合いもあるのだが、彼は自分よりも圧倒的に年上。何ならば自分が実の姉のように慕うバシラアサドよりも年上なのだ。ルトに何かを言い返したとしても、理不尽に一蹴されてしまう。何時もの事ではあったが、囲いの向こうにまだ居るであろう少女に聞かれたくはなかった。
「これ相変わらず……臭いですね」
「うるせぇ、文句言うんじゃねぇよ」
 上着を小脇に抱え、苦言を呈しながら、二歩、三歩と歩みを進ると、視界に入ってきたのはレヴェリの少女であった。額には大きな切創の痕が一つ。そして、殆ど塞がりかけた切創が膝にある。噂になっていたランツェールと呼ばれるレゥノーラ撃退した少女の怪我と一致している事から、目の前の少女がそれだと予想出来た。レヴェリの身体というのは随分と頑丈だ、と関心を抱きながら彼女を見据える。まだ、撃退してから一月余り。だというのに、傷はもう殆ど癒えかけているではないか。それに引き換え、自分は十ヶ月前の刀傷が未だに癒えきらず、身を蝕み続けている。ただただ強靭、ただただ強壮。そんなレヴェリの身体が何処か羨ましく思え、ぼんやりと少女を見つめていた。
「……なんですか?」
「なんでもないですよ。……あぁ、いや。俺の治療が始まるんで、早く出て行って下さいな」
「あ……ごめん、あの。そこの杖取ってもらえます?」
「えぇ、どうぞ」
 ルトの机に立て掛けられた杖を手渡すと彼女はぎこちないながらも、杖を付いて立ち上がった。小さく一礼だけしては、ひょこひょこと跳ねるようにして囲いを後にしていく。その背中を見送りながら「よく歩けるなぁ」と矢張り感心した様子のバッヒアナミルであった。
「まだ、少しだけ膝が痛むそうだ」
「あの傷ですからね……」
「それに最近は寒い。傷に障るのさ」
 恐らく普通の人間があの傷を負ったならば、完全に癒える事はないだろう。傷が塞がれど、腱は強張り日常生活にまで支障を来たす。老い、身体が衰えていくにつれ、少しずつ壊れていくのだ。それがまだ若いバッヒアナミルには分かっていた。何故ならばアゥルトゥラにはそんな老人だらけであるからだ。半世紀も昔、先人達に負わされた傷が未だに彼等を苦しめ続けている。ある者は身体を傾け、下手に操作された糸繰り人形のようだ。ある者は目を奪われ、またある者は手足を削がれている。冷えた風が苦痛なのか、彼等は一様に顔を顰めていた。そんな様子が愉快で仕方がなかった。
「名前は?」
「興味あるか?」
「勿論ですとも」
 まだ若いながらも、単独で化物を撃退した兵である。その名を知っておきたい、そんな武門の男の思いである。時が来たならば殺し合うかも知れない、互いに背を預ける事もあるかも知れない。ジャリルファハドは同じ道に生きる者達の名を聞くなと、自身に言い聞かせてきたが、道が違えば殺すだけ、道が交わったなら共に歩むだけの事。虎は生来、温情の類を持ち合わせていないのだ。
「レア・バシュラール。見ての通りレヴェリだ。アサドが拾って来たんだ。だもんだから、うちで手当てしてんだが、最近は傷も良くなってきたみたいでな、あと半月もすりゃ杖の補助も要らんだろう。一人で歩ける。俺等セノールやらアゥルトゥラじゃ考えられない治癒速度さ」
「……羨ましいです。俺も早くこの傷を治さなきゃいけないのに。……ルト、もう少し早く出来ませんか」
 つい先日、ジャリルファハドにも同じような事を言われたためか、ルトは顔を顰め不機嫌そうにバッヒアナミルを睨む。どうしてこうも、武門の兵達は生き急ぐような素振りを見せるのだろうか。彼等の姉貴分であるバシラアサドとて、何時ぞやのハイドナーから朱肉を借りられなかったからと、自分の右手、親指の付け根を噛んで裂き、その血を朱肉の代わりに捺印した時もそうだった。セノールであるのならば、気骨を見せなければならないと、そこまでやったのだ。傷は時間を掛け、ゆっくりと癒さなければならない。痕が残ってしまえば癒えたとしても、一生の傷となりそれは衆目を引く。歳を取り、老いるにつれその傷跡が疼き、痛むものだ。であるからこそ、しっかりと癒さなければならない。
「アサドもファハドも、お前もただの馬鹿ガキだ。全く……」
 悪態を吐きながらも、手際よく傷の手当てを進めるルトに僅かな申し訳なさを感じ、バッヒアナミルは視線を背けた。彼は彼なりの役割を果たしている、生ける者を救い、傷を癒す。それが彼の役割である。だからこそ、自分も自分の役割を果たすべく、こうして傷を癒しに来ている。自分が武働きで手を抜かないように、ルトもこうやって怪我人の手当てをしていて、手を抜くという事はしないだろう。そこに人種は関係ない。だというのに、今の自分の発言には彼へと向かい合う自分に誠意、真摯さが欠如していた、と感じざる得ず、恥を覚え、今すぐにでもルトの目の前から立ち去りたかった。
「あの、ルト。……すみません」
「……別に良いって。お前は上の二人と違って、きちんと謝るじゃねぇか。よく気が付く。アサドなんて居直って、俺を脅しやがる。ファハドは相変わらずよく分からん、えらい他人行儀に振舞うんだぜ」
「あの二人は不器用で意地っ張りですから……。今は仲違いしてますけど、似た者同士です」
「知ってるさ、お前より付き合いは長いんだ。……こんなもんかね」
 何時の間にか傷はすっかり錦紗で覆われていた。傷の付近をルトが拳で小突くと痛みが走り、思わずバッヒナミアルは短く呻く。きっと睨んではルトの右足を踏みつけ、反撃を加えていた。お互いが悶絶し、声にならない呻き声を上げている。第三者が見たら馬鹿馬鹿しい事をしていると、失笑せざる得ないだろう。実際、この様子を見ていた第三者は呆れたように、苦笑いをしながら眼鏡を弄ぶ。爪紅を差した指先でくるくると眼鏡が回っている。
「やっぱり馬鹿だったね。みーんな」
「あぁ、コイツは馬鹿だ。サチの三猛、三馬鹿……その一人だぜ」
「私の旦那も充分馬鹿だよ」
 苦笑いをしつつ、彼等に向かい合ったのはハヤであった。右手には多くの資料が抱えられており、手引き車にはカルウェノが著したであろう、錬金術の本が大量に詰め込まれていた。それも相当な年代物である。
「うるせぇな、俺は馬鹿じゃあねぇ」
「いいや、アンタも残念ながらね。……ナミル、傷は?」
 馬鹿は目の前に二人居ると揶揄し、ハヤはじっとバッヒアナミルを睨むように見つめていた。そんな顔をせずとも、眼鏡を掛けたら良いだろうにと内心、馬鹿はもう一人居ると嗤いながら「何ともないですよ」と何時も通りの答えをぶつけた。聞いておきながら、あまり感心なさげに短く相槌を打ち、ハヤは傍らの椅子に腰を下ろす。彼女が浮かべる笑みは酷く薄っぺらな物に見えた、初冬の朝、水溜りに張る氷よりも薄い。指で軽く押すだけで割れてしまいそうな程にだ。
「近々さ、間引くんだよ。地下のアイツ等を」
「間引く……?」
「あぁ、そっか。……廓に行った事は?」
 問いに首を横に振るう。無理もないだろう、彼はクルツェスカに来てからバシラアサドの護衛として振舞い続けてきた。廓で何が起きているか、逐一情報を得ていただろうが、彼を重用するバシラアサドが廓へと行かせようとしなかったのだ。そして、彼もまた手負いの虎でありながら、その身の不調を隠し、張りぼてであったがセノールの一兵として振舞い続けてきた。表に出たならば護衛として、裏へ戻ったならば傷の治療に専念する日々。廓へ一歩でも入るような余裕はない。ともすれば"間引き"という言葉が意味する物を知る由もないだろう。
「狩りさ、狩り。化物の」
「狩り、ですか。人狩りなら良いのですが、化物となると経験がないので」
 化物も人も薄い仕切り一枚の差しかない、そう思うも口に出さずハヤは「あっそ」とだけ再び相槌を打つ。人が殺せるなら化物は殺せる、化物が殺せるならば人は容易い。ただただ殺めるだけなのだ。あの化物は命乞いをする訳でもない。その骸からは鉄錆びたような生臭い血の臭いを醸すでもなく、打ち破られた腹から飛び出る臓腑、その中身の不快な臭いを醸す訳ではない。ただただ、無遠慮に何かを感じる訳でもなく化物を殺めるだけなのだ。
「簡単、簡単。傷の具合が良かったら参加しなよ」
「……えぇ、まぁアサドが行って良いと言うなら」
「ま、アイツ次第かな。……あぁ、それと。今回は外部の人間達も入れるみたいでね、アゥルトゥラが加わったからって人狩りしちゃあダメ。最後の"楽しみ"を摘み食いしちゃあいけない」
「そう、ですか。……ちょっとくらい"味見"したってバレやしませんよ」
 互いに軽口を叩き合い、顔を見合わせて笑うばかり。先程のハヤの笑顔を厭に薄っぺらだと思ったバッヒアナミルであったが、彼の浮かべる笑みもハヤのそれと似通っている。「血縁ではないはずだが」とルトは怪訝そうに二人の顔を交互に見つめては、大きく溜息を吐いたのだった。
「文句でも?」
「いいや、別に何でもないさ。ただ怪我だけはしてくれるなよ」
 俺の仕事が増えるから、とルトは冗談を付け加えてハヤを見つめていた。彼女は恐らく廓に行くだろう、そしてルト自身もだ。彼が率いるハザレの兵が居なければ、ジャッバールの後方支援能力は大きく欠け、徒に死者を増やすだけとなる。人は人である内は容易く死ぬものである。化物に傷を負わされたならば、それだけで死ぬ。怪我をするな、というその言葉には傷一つ負うなという、ある種の願いのような意味合いも含まれているように感じられ、バッヒアナミルは「難しい事を言うなぁ」と内心、一人ごちるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.157 )
日時: 2018/06/10 18:41
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 雪か、とその男は外套の襟をかき合わせ、ぶるっと短く身震いをしていた。老いには勝てないと苦笑いをしながら、彼は石畳を踏み付け、雪を蹴散らしていく。身に凍みる寒風は人の目には捉えられないというのに、それを睨み緑色の瞳には力が篭る。その様相はまるでこれから戦地に赴く、兵士のそれのようであった。彼からしてみれば話し合いの場というのは、戦場であるのだ。フェベス・メイ・リエリスという、この男はボリーシェゴルノスクに血を流さない戦場を持ち込むべく、今歩むのであった。
 厭に人気のない屋敷であった。出迎えたのは少し草臥れた様子の当主であり、彼以外に屋敷の中には誰も居ないようである。娘とその護衛はクルツェスカに居るとは知っていたものの、此処まで寂寞を感じるのはおかしな話だと思いながら、外套を脱ぐ。払い損ねた雪がはらはらと落ちては、水へ姿を変えていく。それを余所にフェベスは小さく会釈をしながら、三歩近寄り左手を差し出した。武働きなどしていないのに、指は節くれ立ち、厳しさを醸す大きな手だ。
「久しぶりだなぁ! もう十年にもなるか?」
「なんだか老けたよねぇ……」
「お互い様だ!」
 差し出された左手をユスチンが掴むと、彼を振り回すように手は縦に振り回される。肩が抜けてしまうのではないかと思える程の、激しすぎる握手に戸惑った様子のユスチンを見て、フェベスは年齢不相応かつ「鉄面」の渾名に不釣合いな程の笑みを浮かべているのだった。乱暴で豪快なガキ大将が、そのまま大人になり、落ち着きを覚える前に老人になってしまったのだろう。若い頃からこうだったなぁと、振り回されながらユスチンは内心、一人ごちる。声なき声を聞き取ったのか、漸く手は離された。少しだけ肩が痛むのは気のせいではないだろう、と抗議の意味を込めながら、ユスチンは彼をじっと見ては口を開く。
「……冷えるから此処で立ち話は止めにしよう」
「俺達も歳には勝てんなぁ、しっかり老ける。白髪があるぞ」
「君は相変わらず赤いよねぇ……」
「目立たないだけさ、白髪と皺みたいに蓄えも増えてくれりゃ良いんだがなぁ……」
 さっきから歳を取った話しかしてない、とユスチンがぼやけば、また彼は声を上げて豪快に笑っていた。こんな男だというのに、クルツェスカ、その近郊にて策謀を張り巡らし、神算鬼謀を以ってして戦わずにして各勢力と渡り合っている。外見は熟練した老兵、中身は老練とした策士といった所だろう。口を開けば、三枚、四枚の下が姿を現すはずだ。よく背中から刺されたり、撃たれずにいると思わず感心を覚えてしまう。
 応接間に通すと何時の間にかフェベスは椅子に腰を掛け、ユスチンへと座れと指図をしてくる。これでは立場が逆だと、思わずユスチンは呆れてしまいそうになったが、そういえば昔から勝手気ままなところがあったと思い出しながら、向かい合うようにして椅子へと腰掛けた。
「吹雪いてるのにお疲れ様。クルツェスカはどうだい?」
「雪はそこそこ、彼方此方凍っている。朝が辛い」
「そっか、いやーねぇ。最近はクルツェスカからの来客が多いんだ」
 クルツェスカからの来客、という言葉にフェベスの目に力が篭り、「その件で来た」と彼は短く言葉を発するのだった。先ほどまでの大声で、まるで叫び倒すかのような声ではなく、低く唸るような声色であった。
「ジャッバール。バシラアサドだが四日ばかしクルツェスカを空けていた事があってな。てっきりカシールヴェナへ帰ったかと思ったんだがな……此処に来ていただろう」
「よーく見てるね。君の目は彼方此方にあるのかい? 僕は窓に鎧戸張った方が良いかな?」
「あぁ、そうした方が良いだろうな。何なら屋敷の窓を全部覆ってくれて構わないぞ? 流石に後ろに目はないけどな」
「それはもう人間じゃあないね」
 軽口を叩き合いながら、二人は雑談に興じて中々本題に入ろうとしない。どうもユスチンがそれを避けるように会話を運んでいるようだ。フェベスはそれに気付いているのだろう、相槌はどんどん短くなり、終いには咳払いをしてユスチンをじっと睨む。突然凄まれ、一瞬だけユスチンは怯んで口を閉ざした。
「話を戻すぞ。……実はな、危うくその時期でジャッバールを刺し掛けた」
「……刺す?」
 武力闘争に打って出る事はないフェベスの口から、似合わない文言が飛び出した。問うようなユスチンの言葉に彼は小さく頷きながら、にぃっと笑って見せる。その笑みは鉄面というよりは、呪いの面が愉悦を覚え、口元を歪めているかのようだ。こんな笑い方をする男だっただろうか、と疑問を抱きつつ彼をじっと見つめていると突然、笑みが消え失せ呪いの面は、鉄面へと戻っていく。
「あぁ。文字通り刺すのさ、メイ・リエリスとその旧配下、新興貴族の手によってな。クルツェスカからジャッバールを叩き出せば勝ちだ。そのままコールヴェンに控えたルフェンスを召集し、クルツェスカの防御を固める。兵站基盤が無ければアイツ等には戦えない」
「出来るのかい?」
「出来なかったらお前に伝えはせんよ。それを成す為に、周辺の街を捨て置かねばならんのだ。全てをクルツェスカへ集約する」
 捨て置くという言葉にユスチンは思わず口を閉ざす。クルツェスカが軍事的な要衝である事は理解している。陥落してしまえば、運河沿いにコールヴェンまでの侵攻を許し、アゥルトゥラ西南部の支配圏を喪失してしまう。結果的に西北部のセルペツェスカを孤立させ、西部の防衛機能は崩壊してしまうのだ。だからこそ、フェベスは周囲の街を捨て置くと言い切る。それは恐らくこのボリーシェゴルノスクも含まれて居る。ジャッバールと事を構え、仮に戦争が勃発したというなら彼等はまず、クルツェスカの包囲と運河制圧を行う事だろう。真っ先に攻め落とされる事が予見されるのだ。
「きな臭いとは思ってたけどねぇ、君まで戦支度かぁ。ジャッバールもそんな感じがするんだよね」
「お互いそれしか選択肢はないからだ。ジャッバールは戦を起こし、我々はクルツェスカを多大な犠牲を払ってでも守らなければならないのだ。許せユスチン。……それとも運河を埋めるか」
「えぇ? 僕に力仕事をしろって?」
「腰をやってしまうなぁ」
 力仕事、運河を埋めるか、戦に出るか。二つの意味を込めて問えば、短く言い返してまたフェベスはげらげらと笑い出した。若くとも運河を埋めるなんて出来るものか、ジャッバールと戦えなど難しいにも程があるとユスチンは呆れた様子で彼に視線を投げ掛ける。彼等と戦えば、時間こそ稼げようが全滅は必至。運河を機能不全に陥らせたならば、間違いなく全てを敵に回す事だろう。ジャッバールのみならず、西部から中央へ向かう商人達もだ。寧ろ前者よりも、後者の方を敵に回すのが恐ろしくある。名目上はジャッバールへと下っている以上、彼等には弁舌にて多少の時間稼ぎは出来るだろうが、商人達はそうもいかない。未だに悪印象は払拭出来ておらず、敵視されている現状、彼等の行動を阻害するような事をしてしまえば全面的な抗争に陥るだろう。
「まぁ、……だから来たのさ。手短にな。この街にも防備を拡充させろ、徴収農民でも傭兵でも構わない。それが出来ないならば住人をクルツェスカへ移せ。クルツェスカでも多少の被害こそ出ようが、無抵抗に死ぬ此処よりはマシというものだろう。両方もありだ。兵は多いに越した事がない。……幾ら弁舌で立ち回るつもりだとしても、先方に戦を避けるつもりが無ければ事は起きてしまう」
「分かってるとも、僕が下った相手は話が通じない相手だって。戦に生きて、血の匂いを好む奴等だってね。手札を切る時ってのが来てるのは分かってるよ」
「そうか、それなら良い。それとだ。……娘の件は任せておけ、我々メイ・リエリスは影ながら守備をしよう。お前のところの猟犬……いや、番犬か。手負いだろう?」
「まぁね。ほんとよく見てるよ。……君の娘は良いのかい?」
「ソーニアには強いセノールの兵がついている。ジャッバールではない、尚武なガリプだ。信頼に値するさ」
 そう語るフェベスに一瞬だけ翳りが見えたのは気のせいではないだろう。他人の娘を守るように力を傾けられるというのに、何故自分の娘を守るように力を出さないのか、ユスチンには疑問であった。恐らくその答えは翳りの中にあるのだろうが、彼は語ろうとしないだろう。鉄面を被って、三枚、四枚の舌で翻弄されて終いだ。
「子に難儀するなぁ、お互い」
「まぁね」
「苦しくもなんともないがな、キラの為に死ねたらどれほど良かったか」
「……まだ左腕しか見つかってないんでしょ?」
「あぁ……棺は軽かったよ、本当に軽かった」
 彼らしくない笑みをフェベスは湛えていた。鉄面の下から穏やかな笑みが現れているのだ。何処となく、その笑みには後悔が滲み出ているようにも見え、彼の「子に難儀する」という発言は現状に際し、心配、不安を抱いているというのが感じ取られる。それの苦心、苦悩は鉄面と誹られる彼にも人並みの心があるという証でああった。であるからこそ態々、実情を伝え、進言をしにクルツェスカから出てきたのは、何か謀ろうとしているでなく、ひたすら備え、危機を回避しろと伝えなければならないという本心からの行動であると判断出来るのだ。
 暫く沈黙が二人の間に流れ、ふと思い出したかのようにフェベスは身を乗り出して語り始めた。先ほどまでの大声は何処へやら。彼は密かに語る。
「……ユスチン、ロトスの倅の件。聞いているかね」
「屋敷で焼け死んだって聞いたよ?」
「死んでいなかったらどうするかね。まだ引っ張り出せるものがあるとは思わんか、ハイドナーのその向こうにある者達だ」
「死人を当てにするだなんてらしくないじゃないか」
「そう言うな、まだまだ俺には手札がある。切れる限り切ろうじゃあないか、余ったらお前にくれてやる」
 豪快に笑い、肩を震わせている。歳を取ってどうにも悪の親玉のような風貌になった彼は、高笑いが似合うようになったなぁとユスチンは思っていた。若い頃から体格は良く、政治家というよりは戦士のようであり、そんな彼は老獪な外見を手に入れた。同じような歳のはずなんだけどなぁ、と内心一人ごちながら、ユスチンも釣られて静かに笑っているのだった。

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