複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.129 )
日時: 2017/12/26 00:50
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 道すがら、すれ違う人々の賑わいはつい先程までの出来事を夢の事であるかのように錯覚させる。片や地下では凄惨なる出来事があろうとも、地上はこうも賑わいを見せる。地上の騒ぎはつい先日の事であるようで、けれどももう人々の記憶の端に小さく記されるのみの事実と化しているらしかった。当事者とまでは言わずとも、何かと関わりの多いスヴェトラーナにとってはそんな風には考えられやしないのだが。足早に歩む二人を気に留める者など誰もいない。場にそぐわぬ上等な格好であっても人混みには紛れられる。結んだ手の暖かさはさて、どちらにとってさいわいであるのか。
「おっと、嬢ちゃん! ……今日は連れも一緒か?」
 歩む中で己を呼んでいるらしい聞き慣れた声にハイルヴィヒは足を止めた。ほぼ同時にスヴェトラーナの歩みも止まる。人の良さそうな店主がゆるりと手を振っている。店先に並べられた林檎は赤々として。やや困惑を表情に宿すハイルヴィヒではあったが、ややうつむきがちになっていたスヴェトラーナはまぁ、と声を上げて赤々とした其れを輝く瞳で見つめ、ハイルヴィヒの手を軽く引いて店先へと歩を進める。先程までとは先導する側を変えて少女が傭兵の手を引き軒先にて、店主へ笑みを向ける。ハイルヴィヒは挨拶代わりに店主へ目配せするのみであるが、スヴェトラーナは微笑んだままで膝を折る。
「ごきげんよう、ご店主様。美味しそうなお林檎ですね」
「ははっ、ごきげんようお嬢様。ああ、今日のとっておきだ! もうちょいっと北のほうの……」
「……ボリーシェゴルノスクですか?」
 ぱちくり、と少女の瞳は瞬いて、其の唇は懐かしい地の名を紡ぐ。そうそう! と頷く店主を余所に、少女はさも、其れしか目に入らないとばかりに赤い林檎を見つめ手を伸ばしていた。慈しむ様にその表面に触れ、優しく撫でる。瞳に慈愛にも似た感情を湛えて、宛ら夢を見る乙女の様にゆるりと細める。――其れの購入を決定するまでにそう時間はかからない。買っても良い? という令嬢の問に、傭兵が否を出す事は無い。林檎を2つ、明日の朝食にメニューがひとつ追加された。
「…………人があり、営みがあり……街があり、国がある……そう、そうね……そうだわ」
 去り際、ポツリと令嬢が零す言葉は町並みの喧騒に消えていく。
 帰宅の後は全く、何事も無かったかのようにスヴェトラーナは笑顔を浮かべていた。ハイルヴィヒの配慮を余所に、寧ろ「さっき咳き込んでいたけれど大丈夫でしたか?」等と問うて小首をかしげ、不安をその瞳に宿し、ハイルヴィヒを見つめるばかりだ。そんなスヴェトラーナの様子に、ハイルヴィヒは困惑せずにはいられない。けれども何故を問う事がなかったのは偏に、語るべき言葉に悩んだ故に他ならなかった。夕闇の喧騒、或いは夜の静寂。此れより訪れる何れかをスヴェトラーナが思わないわけではない。ハイルヴィヒとて同じだ。
 翌朝も其れは変わらず、何事もなく少女の花唇は朝の挨拶を紡ぐ。清らかなる瞳を、ハイルヴィヒへ真っ直ぐ向けて。ハイルヴィヒとて違和感を憶えないわけではないスヴェトラーナは変わらない、何一つ。いっそ悍ましいまでに何一つ変わらず少女は其処に存在している。反感のひとつやふたつ、憶えられて然るべきであろうとハイルヴィヒは考えていたというのに。スヴェトラーナは相変わらず、いっそ慈愛すら其の双眸に湛えて微笑むばかり。起き抜けに朝食の準備の手伝いを申し出る程に、いっそ溌剌とすらしていただろう。其の柔い色の瞳の奥に何を隠しているのか、ほんのティースプーンひとさじ程すらも見せない少女の姿に一抹の不安を憶えるハイルヴィヒではあるが、かと言って何かが出来るわけでもない。朝食の準備はほぼ出来ている、後は焼くだけだからと少女へ告げて、腰掛けるように促すのみだ。

「ねえ、ハイルヴィヒ……貴女の服を、貸してほしいの」
 ハイルヴィヒは裏返そうとしていたパンケーキを取り落としかけて、慌ててどうにかフライパンの中へと落とした。碧玉は丸く見開かれ、椅子にちょこん、と姿勢良く腰掛けているスヴェトラーナを見やる。
「ああ、ええっとね……特別なにかあるわけではないの。でも、その……お洋服、せっかく新調するなら……ハイルヴィヒみたいな格好がいいなって、思っただけなのよ。……それで、そのぅ……どんな感じになるのかしらってちょっと、気になって」
 どこか恥じらうように、其の頬に朱を宿して少女は笑っていた。純粋だけを集めて、真白い部屋のなかで培養した様なスヴェトラーナを見ていたハイルヴィヒは、閉じた眼の向こうに白百合を思う。ハイルヴィヒが息を吐き出せば、スヴェトラーナはぴくり、と肩を震わせた。けれども少女が謝罪を紡ぐより先に、ハイルヴィヒはパンケーキと昨日の林檎で作ったコンポートを乗せた皿とサラダにベーコンを持って、ダイニングテーブルの方へと歩んでいた。
「お嬢様には、少々……いえ、大分大きいでしょうが、それでも宜しいのでしたら」
 小さな音を立てて、皿が机に並べられる。ハイルヴィヒの言葉を聞いたスヴェトラーナはその双眸を輝かせ、感謝の代わりに微笑んだ。そうしてそのまま立ち上がればフォークとナイフを取るためにパタパタと小さな足音を立てて棚の方へと向かう。星のような色をした淡い金の髪がふわりと揺れる。ハイルヴィヒは碧玉の瞳をつぅ、と細めてから振り返り歩めば、窓を開け放つ。白いレースカーテンがふわりと、風に揺れた。少しばかり冷えたこの時期の朝の空気は心地よい。柔らかな冬の朝陽は星の色を反射して煌めいていた。或いは、此れが月光であったならば。
 此の白い部屋での朝食も、幾度目だろうか。時には外へ出て食事をとる事もあった。手を繋いで仲睦まじくカフェで朝食を楽しむ少女二人を見た者も居るだろうが、これと言った問題は起こりやしなかった。いつ如何なる場所であっても、少女は星の色を煌めかせて、射干玉の夜の色と共に或る。部屋に響く音といえばシルバーと皿が触れ合うほんの小さな音のみだ。食後に紅茶を用意するのはハイルヴィヒの仕事だ。片方はミルクを多めに、砂糖をほんの少しだけ。もう片方はほんの僅かな砂糖だけ。ミルクティーをスヴェトラーナの前に置けば紡がれる感謝の言葉。いつも通りの光景、日常。少女が夢想し、享受し、受け入れてきた日々の一片。そして或いは、此度酷く不自然な光景だった。

 朝食の後、皿を洗い終えれば二人はハイルヴィヒの部屋に向かう。クローゼットにしまわれた服の数はそう多くはない。デザインも似たようなものばかりだったがそれでもスヴェトラーナはあれやこれやと選び取っては姿見の前で己に宛てがいどうかしら、なんて笑うばかり。背後に控えるハイルヴィヒも徐々に表情は穏やかなものになっていく。其の内に此れ、と定めたらしいスヴェトラーナはベッドの上へ服を幾つか並べ、自らもその横へ行くべくベッドへ登る。纏っていたブラウスのボタンをひとつ、ひとつと外してベッドの上へそっと置き、白いYシャツへ腕を通す。「ハイルヴィヒに包まれているみたいね。なんだか心地良いわ」だなんてスヴェトラーナが零すものだからハイルヴィヒは奇妙な熱を憶えてしまった。諌める言葉も浮かばず、咳払いを一つすればスヴェトラーナはクツクツと楽しげに笑うばかり。暫し穏やかな心地に二人は浸る。
「ハイルヴィヒ、あのね」
 少女は突如として口を開いた。ベッドの上に散乱した衣服の海の中で、元の服装へ戻る直前、ハイルヴィヒの白いYシャツに腕だけを通した格好のままで。背格好も大分異なる二人だ。一回りか、下手をすれば二回り程大きなYシャツはすっかり少女を包んだまま。
「私、考えて、考えて……ずぅっと、考えていたの。ハイルヴィヒがきちんと、私に色々伝えてくれたから」
 そう言いながら四つ這いになり、ベッドの縁に腰掛けていたハイルヴィヒの傍へとスヴェトラーナは歩み寄る。ギシリ、とベッドのスプリングが音を立てた。白い布地から肌は真白の色をして宛ら雪のような色だ。或いは白百合の花弁の様ですらあるか。少女の肩からは箒星が尾を引いてさらり、さらりと流れ行く。
「誰かを救う為に、何かを見殺しにしないといけない事もあるのでしょう。……私が尤も守りたいと願うのは他ならぬ、我が家を慕い、ついてきてくれているボリーシェゴルノスクの皆様……我が庇護下にある領民たる方々です」
 そう告げ、少女の白い腕が傭兵の身体へと巻き付いた。碧玉は丸く見開かれる。首だけを動かし少女のアイス・ブルーの瞳を、或いはアクアマリンにも似た其の目を見やる。驚愕は音も無く、二人の少女を包み込むのみ。少女が何時かに願ったささめごとは、けれども言葉を変えて、相手を変えて、守り手たる傭兵へと紡がれる。傭兵はただ、少女を見つめ静かに頷くばかり。彼女の決意は幾度か耳にしてきた。その度否定の一つも紡がずただ、頷くだけであったのは他ならぬ目の前の少女が現在、ハイルヴィヒの主に相違ないからだ。其ればかりでは良くないとは百も承知。されどハイルヴィヒに、少女の決意を無碍にする事はできなかった。
「ねえ、ハイルヴィヒ……私、貴女にとてもひどいお願いをするわ」
 ハイルヴィヒの耳元で、秘め事じみてスヴェトラーナは囁いた。息の音すら直ぐ側で、いっそ交わり融け合う様な感さえある。近い距離はこの空間にただ二人だけという事実を、ハイルヴィヒに強く突きつけて来る様だった。
「……何があっても私を、いえ……私の家を守って。そして私が私を守る術を、教えてちょうだい」
 彼女を守る事に異論はない。彼の日、彼女と共に或ると誓ってからこの生命すら彼女のものであるとハイルヴィヒは認識している。昨日に彼女に告げた言葉に偽りなど無く、少女の身を守ることこそ最善であると信じている。己の役目であるという以上に、其の可憐なる花を散らす事をハイルヴィヒ・シュルツは望まない。彼女のためならば命を投げ打つなど容易いことだ。勿論、時を見極めてこそではある。けれどもその時が来たならば、ハイルヴィヒは容赦なく自らの命を散らすだろう。其れが当たり前と言わんばかりに。けれども其れに唯一懸念があったとするならばスヴェトラーナという少女の“優しさ”なのかもしれない。彼女は自らを原因として他者を失う事を酷く恐れている。彼女が其れを過度に恐怖する理由は彼女の母の死であろう。されど其れは乗り越えるべき過去だ。彼女が宵闇への鍵を手にしたその刹那に、父へ突きつけた現実を、彼女とて見つめなければならないというのに。けれどもこの言葉は、或いは――。
「……お嬢様、それは」
 ハイルヴィヒは息を呑む。眉を僅かに動かして少女を見やる。己に縋るように巻き付いた腕から小さな震えを感じるのは気の所為ではないだろう。
「それは――或いは、誰かを見捨ててでも、貴女を守るべく最善を選び取って良い、という事で良いのですね」
 スヴェトラーナの腕に力が篭もる。無言は二人の間に重苦しく横たわり、ただ近く交わる様な吐息ばかりが其処にある。スヴェトラーナは返答をせずに、けれどただハイルヴィヒに縋る様に抱きついたままだった。少女の震えは大きくなる。涙している様にすら感じるが、其れが真実では無いとハイルヴィヒとて知っている。泣きたい心地であろう事は、痛いくらいに伝わってくるが少女は何も言葉にしない。他を切り捨てる選択を、少女は今でも望むまい。けれど選ばなくてはならない。とするならばひとつ、夢物語に幕引きを。此の世は閨に非ず、伽ばかりではない。その心身を考えなく暴くなれば、愛しき夢の中のみであるべきだ。零に近い距離で、スヴェトラーナの心音はハイルヴィヒに良く伝わっていた。
「…………ええ、ええ……そうね、そうよ……それでいいの。――選ばなくては、なりません。きっと。私の存在は、我が家の存在は、永遠のものではないのでしょう。けれど……望まれる限りは、そうでなくなったとしても叶う限り、今まで私達と共にあって下さった方々を何よりも優先したく思います」
 いつの日か、或いは近い日に、世の在り方が変わる事とてありえるだろう。驕りと言われてしまうとしても、ボリーシェゴルノスクを統べるベケトフの家は温情主義を貫き続けたという自負がある。其れはこれまでも、此れからも、何一つ変わらぬ事実であろう。父の治世を、スヴェトラーナが継げるのか、今だ少女自身不安を抱くがそれでも。父は何時か娘に家を継がせる気で居るらしいことをスヴェトラーナ自身理解している。其のために必要な事を少しずつ教わったという自覚もある。けれども同時に、少女は或いは、胎としての期待も背負うのだろう。家を繋ぐ事は少女であるからこそ叶う事。少女は其れに異論など或りやしない。吐く息すら震えてしまう。昨日の事を思い起こせば恐ろしさで心は潰れてしまいそうだった。恐ろしい場所に皆々が出入りしている。其の助けになりたいと思うもきっともう、此れは“取りこぼしてしまったもの”の一つなのだろう。協定を、との望みはある。けれど其れによって本当に守るべきものが傷つく結末など、見たくはない。固執する必要は或いは、無いのかもしれない。
「……お父様に、報告しないと。……全部。カンクェノへの干渉に関しては……お父様とてお考えが或りましょう。そも……あそこの現状をお父様がご存知でないとは考えがたいわ。――ねえ、ハイルヴィヒ。貴女はどうして、あそこに行っていたの?」
 少女の問いに、沈黙が生まれる。煌めくアイス・ブルーは真実を求め、碧玉を見つめていた。ハイルヴィヒは僅かに眉を動かし、黙りこくるも観念した様に、或いは何処か安堵したように口を開く。
「地下に、廓の下に……貴女のお家の祖先が過去、残された全てがある。其れを探すべく、視察管理の名目で、行っていました。……探索に関する命は今でも継続しております」
 その言葉に少女はそう、と小さく零す。そうしてややあってから再び、ささめごとの様に小さな声で、震える声で、ハイルヴィヒへと囁きかけた。
「……其れを、探しましょう。……きっと我が家に必要なものでしょうから。技術力も……人も。……多くが足りないわ、今のベケトフ……我が家には」
 そう言ってスヴェトラーナは柔く微笑んだ。ゆったりとハイルヴィヒの身体から腕を放して、小さく息を吐く。刹那伏せられた瞳が再びハイルヴィヒを見やる時、其処に鎮座するのは硝子玉の紛い物ではなく、水宝玉の様に穏やかに、けれども煌めく人の目であった。
「その為に……ハイルヴィヒ、私には貴女が必要だわ。……どうか私と共に或って。永遠は紡げずとも……叶う限り」
 その言葉にハイルヴィヒは頷き、身体ごと振り向き向かいあう。ベッドの上に居るスヴェトラーナの手を、ハイルヴィヒの白い手が握りしめる。銃を握り、命を奪う癖、何処か少女らしさを宿したままのその手で、清らかなる手を取っている。跪き、少女の白い手の甲に口吻を。少女が兄と慕う人の真似事はできやしない。到底騎士などという高潔なものにはなれやしない。それでもひとつ、誓うならば。
「――我が生命は、身体は、貴女だけのためにある。スヴェトラーナ嬢、どうか存分に私を、お使いください」
 騎士の誓いなどといった美しく、高潔にして美しいばかりのものではない。けれども猟犬は、其の手綱を確かに主に預けたというだけの事。否、主がようやくその手綱を握ったとも言えるか。目的を遂げる以外にも必要なことは多くある。少なくとも技術革新や人員確保は動くならば早い方が良いのだろう。後に、娘が父へ認めた手紙はそんな、自らの考えを綴ったものだ。何処かと協定を結ぶ事も視野に入れる事を進言しつつ、父も其れを思っているやもと思わないでもないが、何も記さぬよりはというだけの事。――結局二人が買い物へ出かけたのは昼も前の頃。あの地でも目立たぬ様にとハイルヴィヒが選ぶ服装に輝くスヴェトラーナの双眸には今までにない光が宿っていた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.130 )
日時: 2018/01/16 23:50
名前: NIKKA ◆vhrOLiO4QQ
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 ソーニアの語る惨状を耳にジャリルファハドは閉口したまま、時折静かに頷いている。表情は相変わらず薄く、宛ら穏やかでも険しくもない死に顔を浮かべた死人のよう。それでも見慣れた仏頂面にミュラは僅かに安堵を覚えながら、ジャリルファハド同様にソーニアの言葉に耳を傾けるのであった。
 階下より訪れしランツェールと呼ばれる知能の高い個体、それを撃退したレヴェリの少女、大勢の怪我人。それに加えて語り始めたのは巨大なレゥノーラ、ケェーレフ。そしてクルツェスカに於ける勢力図の変遷。ハイドナーは滅び、その親類の力は形骸と化した。彼等に近しい商人や貴族はジャッバールの支持に回り、彼女達が握り混んだ利権に手を触れようと足掻いている。情けない体たらくを語るのも恥ずかしく、ソーニアは顔を隠したい思いであった。それでも自分の話を聞いてくれている、ジャリルファハドとミュラを見据えながら語るのであった。滅んだハイドナーの名を聞いた途端、ジャリルファハドは静かに苦笑いを浮かべた。彼の死に対する偽装は功を奏したのだろう、ソーニアもミュラもまさかガウェス・ハイドナーが生きているとは思うまい。二人を謀るようであったが、ジャリルファハドは彼の生を口に出さず、ただただ頷くばかり。
「……二月は随分と長い時間だったようだな。カシールヴェナでも少しあってな」
「セノールの首都でしょ、外の人間に教えても良いの?」
「構わんさ……。ジャッバールで製造している銃器が皆出ていった。小銃から多銃身機関銃、野砲までな。密偵を走らせたがジャッバールの本拠であるワッケンやレーフスからも同様だ。……クルツェスカに入ってきてないかね」
 ジャリルファハドの問いにソーニアは小首を傾げながら、ミュラへと目配せするも彼女も同様であった。ジャッバールが交易のため使用している家紋を提げた馬車も増えた訳ではない。何かを運び込んだ様子はないのだ。
「密偵走らせても追えなかったの?」
「警戒が厳しくてな」
「うーん……? 相変わらず貴方達の刀の模造品は売られてるけど、銃器が商品として並んでるのは見たことないわ、私くらいよ? アゥルトゥラで使ってるの」
 壁に立て掛けられた小銃を見遣りながら、ソーニアはそう語る。ともすればジャッバールが銃器をどこへ運び出したか説明が付かない。また、何故運び出したかも説明出来ない。
「でもアレナルの銃は全く見なくなったわ、やっぱり売るんじゃない?」
「解せん、我々は商売として成り立つほど銃を作れんよ」
 考えれば考えるほど、ジャッバールがおかしな事をしているように思え、ジャリルファハドは訝しげな顔をしながら懐から煙草を取り出した。ソーニアの瞳がそれを戒めるかのような物へと変わっていく。
「煙」
「……あぁ、悪い悪い。つい、な」
 配慮に欠けた行動だったと己を恥じ入るように煙草をしまいながら、ジャリルファハドは短く詫びていた。カシールヴェナに居た時の様に、今は好き勝手吸えないのだ。
「怒られてやんの」
 端から茶化してくるミュラであったが、ジャリルファハドからは無視をされ少しばつの悪そうに目を伏せている、些細な復讐は案外効くものだと一つ鼻で笑った後、ジャリルファハドは溜め息を一つ。
「あぁ、そうだ。ベケトフが来てたわ」
「ベケトフ……? 知らんな」
「ちょっと北に行った所の貴族、ほら黒髪のこんな顔した傭兵覚えてる? その雇い主」
 顔をしかめて見せるソーニアであったが、らしくないとミュラは肩を震わせて笑っている。ジャリルファハドも記憶の片隅にある、古ぼけた引き出しを開くも顔が思い出せずに居た。そもそも似てないとミュラが茶化すと彼女は顔を赤らめながら、服の襟を引き上げ顔を半分隠してしまった。
「忘れてしまったが、だからどうしたというのだ」
「え、いや入ってるだけ。まだ何もしてないし、多分何も出来ない」
 鳩が豆鉄砲を食らったような呆けた表情のソーニアがおかしかったのか、ミュラは遂に腹を抱えながら笑っている。二人の湿っぽく、戒めるような視線に彼女は気付く様子もない。
「廓の中は既にジャッバールの支配域だ、何かを成すならばアサドから許可を得ねばなるまい。難しい話だ」
 発掘に必要な物は全て用意されている、レゥノーラと相対すというならば指揮権を与えられないだろう。物資とて既に潤沢である。最後に残るは既存の貴族や学者達への接近であるが、それで幅を利かせ始めたならば、彼等は第二のハイドナーとなるだけだ。
「して、ソーニア。まだ下へ行くのか、危ない状況なのだろう?」
「愚問ね、分かりきったことじゃない。行くに決まってる」
 知り得なければならない物は山積している、探し当てなければならない物はまだ廓の中に眠っている。それをどうして、こんな「些事」で諦めなければないというのか。高が化物が来ただけ、死の権化が目先を通り過ぎ、鼻先を掠めていっただけ。自分はまだ何事もなく生きている、手も足も眼も確りと残っている。ならばそれを擲つ理由はない。
 そんなソーニアの意思にジャリルファハドは関心を覚えるのだった。これが男で、戦地に立つような人生を送ったならば良い兵、指揮官となっただろう、と。踏ん切りの良さ、怯まない度胸、そして客観的な視点は前線指揮官に必要不可欠な事柄であり、ソーニアはその全てを兼ね備えている。勿体なく思え、仕方がなかった。
「そうか、それは結構だ。俺も得ねば成らん事があるのでな」
「利害一致ね」
「そうだ」
 利害一致という言葉に、互いに顔を見合わせ、声もなく静かに笑っている。しかし、ソーニアにはジャリルファハドの狙いが見えず、完全な利害一致ではないのだ。彼に腹積もりを既に全て明かしている。しかし、彼がカンクェノへと立ち入る明確な目的、何を欲しているか等、明確に分からないのだ。錬金術への関心は聞いているが、それより先の事は全く知らない。
「……そういえば何が欲しいの? あそこから」
 問うて成らぬ気こそせど、それを振り払い口から飛び出してしまった問いに彪の黒い瞳は射抜くように向けられ、朱色の髪が僅か動揺している。ここまで露骨な反応を示すとは予想していなかったのだ、じっと見られ場をはぐらかす様な次の一言が出せそうにない。
「……嘗て存在したと聞く、朽ちぬ鋼を作りたいのだ。冶金技術が欲しい。戦のためにな。……ソーニアよ、努々忘れぬよう、俺もアゥルトゥラの敵、セノールだと。今はまだその時期ではないだけだ」
 淡々と語るジャリルファハドであったが、その言葉からは怨恨の念が感じられた。彼等は復讐を望むセノールの民。血を血で洗い、生ける怨敵の一切を物言わぬ肉に変えようとしている者達だと、思い出さざるを得ない。騙していた訳ではない、セノールはそういう感情を持っていると。荒ぶり、血を流す事こそあれど、普段は理知的かつ平静であるからこそ、失念してしまっていたのだ。
「そんな顔をするな。朽ちぬ鋼が欲しいのは事実。アゥルトゥラを恨むも事実。だが戦は起こさんよ、戦備はするがあくまで抑止力だ、お前達と争わんようにな」
「笑えない冗談やめてよ、洒落にならないんだから」
 さぞ意地の悪そうな笑い方をしている彪を諌め、すっかり温くなってしまったお茶に口を付ける。冷えきった肝を温めるには丁度良いだろう。
「でも、サチも一枚岩じゃないのね」
「恥ずかしい話ながらな。我々とラシードは中立。ジャッバール、ナッサルの主力は事を急いている。やるとしたら勝たねば成らん、まだ早い」
「やっぱりやる気じゃないの」
「やるとしたらの話だ、勝算がなく泥沼化する戦に誰が身を投じたいものか」
 ソーニアとジャリルファハドが小難しい話をしている、とミュラは思いながらジャリルファハドの分の菓子を口に運んだ。彼は気付きこそしているがどうでもいいのだろう、何も言葉に出す事はない。二人の会話にはサチやらラーディン、ハザレなどとセノールの氏族の名が出てきているが、一体何の事だろうかと話し半分に聞き耳を立てる事しか出来なかった。ジャリルファハドが怪我をする前、時々こうやって二人の会話に着いていけない事があったが、それもどこか懐かしく感じられ、ミュラは小さく笑っていた。
「お前も笑っていられんぞ、事が起きたらお前も敵だ、あいつらはセノールとそれ以外の区別しかない……」
 最近ではそれすら危うい、と言葉を続けようとしたが、今ミュラが持つべきは危機感である。それ以上の知識を与える必要はない。
「そんなに復讐って大事な事か?」
「我々の多くには成さねば成らぬ事なのだろう。お前はそうなるなよ」
 そう諭すように語り掛け、彼は己を嘲るように笑っていた。そう言われたとしても、そういった状況になければ分からない。己の器というのは案外見極められないものなのだ。そうやって返す言葉もなく、口を開こうとしないミュラを見て、ソーニアは思い抱くのだ。己のそれもまた廓に対する復讐なのだ、と。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.131 )
日時: 2017/12/31 17:36
名前: ポテト侍@スマホ ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 ジャリルファハドとソーニアと大通りを歩いているとミュラは初めてクルツェスカに来たことをミュラは思い出す。関所を潜った先にあった石畳の道路も、煉瓦造りの家々も、往来する人々の多さも全てが新しく心が躍った。クルツェスカに慣れてしまった今では昔ほどの興奮は覚えないものの、寒暖で変わる服装や、露店に並ぶ品々を見ることに愉しさを覚える。些細な噂話に聞き耳を立てれば、人々がどのようなことに関心を持っているのか分かる。容姿や話し方で人種や職業を推察するのも面白い。慣れたとしてもやはりアゥルトゥラは飽きない。彼女にとってここは常に新しい発見がある、未知の場所であることには何ら変わっていないのだ。(それでも故郷である砂漠が恋しくなることは多々あるのだが……)
 さて、顔なじみになった露店の店主に挨拶もそこそこに、三人はついにカンクェノへとたどり着く。ここも前と相変わらず冷気と死の臭いをもって侵入者を出迎える。ソーニアとミュラはこの臭いに未だ慣れない。栗毛立つような悪寒が走る。では、彼はどうだろうか。とソーニアは横目でジャリルファハドを盗み見た。彪の冠する男は呼吸を乱すことはなかった。初めてここを訪れたときと同様、ひどく落ち着いていた様子で廓の闇を見据えている。ジャリルファハドが何を思い、廓の奥底を睨みつけているのか、ソーニアには測りかねた。先ほど話していた「冶金技術」への渇望、それとも「廓に潜む化け物」への恐れか牽制か。もしかしたら、両方かもしれない。何にしてもあまり良い感情ではないだろう。でなければ、僅かとは言え、彼の体から湯気のように立ち昇る殺気を何と説明されようか。そんなジャリルファハドに気圧されることは無く、彼に続くようにソーニアは廓に足を踏み入れる。ミュラも一瞬肩をびくつかせたものの、すぐに平静さを取り戻し、彼女に続く。勿論、何が起きても良いように利き手は銃のグリップに置いてある。昔ならば「ここまでレゥノーラは来ない」と鼻で笑われていた過剰な用心であっただろうが、昨日の一件もある。心なし、廓全体の雰囲気がひりつき居心地が悪い。だからこそ、臆せず進むジャリルファハドは二人にとって心強い存在であった。途中にある基地内は更なる緊張感と血の臭いが漂っており、それは基地の奥の方から流れてくる。怪我人が居るのか、それとも治療の残り香か。どちらにしてもミュラはあまり近づきたくないと顔をしかめた。臭気の有無ではない。怪我人が居る場所には常に怨嗟の声がつきまとう。己をこのような状態へ陥れた敵へ、不甲斐ない味方へ、自らを苦しめる怪我へ。地獄の業火に苦しむ亡者の呻き声が風に乗って聞こえてくる。その苦悶の声が聞き難くてたまらないのだ。
「変わったな」
 全体を見回し、呟いたのはジャリルファハドである。基地の雰囲気もそうだろうが、人の多さに些か辟易しているようにも見える。
「そうね。通門所が無くなったから、誰も彼も気兼ねなく入れるようになった。今は学者もそうだけど、商人が今は多いかなぁ」
 水、食料、弾薬、武器、果ては簡易テントや嗜好品まで、ここにいれば必要最低限の物資は揃えることが可能になっている。通門所で弾かれていたハイドナーと商売敵だった連中もここまで潜り、我が物顔で商品を売り込んでいる。彼らからすればジャッバール様々であろう。
 呼び込みをするりするりと躱しながら昇降機へと向かう。その途中、ある人物を見てミュラが足を止める。
「なぁ、あいつって」
「ん? あぁ、今朝も見かけた……。あんまりジロジロ見ちゃ駄目よ」
 失礼だからと窘めてはいるが、彼女にとっては余計な問題を起こして欲しくないのが本音である。敵はレゥノーラだけではない。ここでは人すら敵になり得る。それは重々承知であろう。邪魔だと感じたらたとえ知己であろうと兇器の矛先を向けられかねない。そんな空気が常に蔓延しているのだ。ジャリルファハドも二人に倣い視線の先にいる人物を見遣った。が、特に興味が沸いたわけでもなく、ミュラの腕を掴むと大股で歩き出す。喚くミュラには目もくれず視線が昇降機の方へ。恐らく、次で乗れるだろう。
「あぁーもうひっぱんなよ!」
 やっとのことでジャリルファハドの腕を振り解いたと思ったら今度は後ろからずいずいと押され、昇降機へと押し込まれる。幸いにも二人を見失うことはなかったが、フードを被った彼は見えなくなってしまった。それでも未練があるらしい。キョロキョロと探すミュラを「もう見えないわよ」と、ソーニアはからかい笑う。しかし少女は納得出来ない。だから口を尖らせてぼやくのだ。
「気になるんだよ、なんかさぁ」

 ミュラが見つめられていたフードの者、もといガウェス・ハイドナーは心穏やかではなかった。この町に帰ってきたガウェスは身分を傭兵と偽り、アゥルトゥラに来たばかりの異国の学者に雇われることになった。初仕事の前に腹ごしらえをと、ふらりと立ち寄った店で早々にミュラとソーニアを発見したのだ。そのことは僥倖極まりないものである。しかし、食事の途中に顔を覗かれたことは想定外だった。平然を装ったつもりだったものの、肝が冷える思いであった。先程もミュラから送られてくる視線に嫌な汗がタラタラと彼の背中を流れていたが、正体がバレることがなくホッとした次第である。もしも彼の存在が彼女にバレようものなら、声を荒げ、間断なく質問を浴びせてくることだろう。物陰に隠れて話すくらいの知恵と知識は持ち合わせていると考えているが、どこでジャッバールや彼らに組する者らに耳を立てられていることやも知れぬ。廓とは別の意味で緊張が止まらず、妙に喉が渇く。申し訳程度の変装としてつけた口元の髭が上唇をくすぐり、日頃の鍛練でかさついた指先で唇をなぞった。
「怖いのかい?」
 話しかけてきたのはガウェスと同じく学者に雇われた男である。ガウェスと同じくらいかそれよりも一つ二つ年上の青年の頬はほんのり赤く、酒臭かった。また、どこで無くしてきたのだろうか、左手の薬指がなかった。
「えぇ。少しだけ」
「ほう。少し、少しか。そりゃあ豪儀なもんだね」
 男はケラケラ笑うと、どかりとガウェスの隣へ腰掛ける。チラリと覗いた腕には大小様々な傷跡が残っていおり、この男がどのような人生を歩んでいるのか表している指標のように見えた。
「俺は怖いね。何が起きるのか、起こるのか、ここではちぃーとも分かりゃしねぇ」
 持っていたウイスキーを飲みながら男は続ける。
「だからこうやって恐怖を誤魔化すのよ、分かる?」
 怖いなら、少し分けてやろうというのだ。余計なことを、と、ガウェスは首を横に振った。
「分かりかねます、私には。状況が好転するならば喜んで仰ぎますが……、何も変わらないでしょう? 現実から目を逸らすくらいなら、私は現実を受け容れて前へ進みます」
「あーあ、つれないねぇ……。何なら酒を分けてやろうと思ったけど、やらねーんだ」 
 更に酒を仰ごうとした男と勝手にしろと云わんばかりに興味を示さない男へ、主人からお呼びがかかる。途端、二人の青年に冷たい光が宿る。迅速に武器の確認をして立ちあがった男にガウェスは密かに感心した。酒を飲んでいてもこのような瞳が出来るのかと。彼はガウェスに目もくれず主人の下に。一拍置いてガウェスも立ちあがり、傭兵の列に加わった。ミュラの姿は見当たらないが、同じ廓にいるのなら巡り会えることもあるだろう。そもそも話しかけることも許さないのだ。沈黙は金とまでは言わないが、ここはもうハイドナーが管理していた頃とは違う。余計な事を口走れば死ぬことになるだろうて。己は死んだのだとバクバクと打ち鳴らす心臓に言い聞かせる。ガウェス・ハイドナーであると勘付かれてもならない。場合によってはその場で即刻殺すらあり得る。そんなリスクを背負ってまでここに来たのは家族という蜘蛛の糸のように細い繋がりを断ち切らせないようにだ。家族のように接していないがりじゃないかと嗤う者がいるのも事実。しかし、彼にとって彼女は唯一の家族なのだ。家族友人は命をかけて守るのが彼のなけなしの矜持であった。たとい、相手がその事実を知らなくとも。
 染みついてしまった騎士道精神は拭えず。古い慣習に囚われた自身への自嘲を噛み締め、主人を守るために彼は新たな盾となるのだった。
 

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.132 )
日時: 2018/01/07 03:01
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 視界を覆う砂埃、大勢の声、舌打ち、男の声、銃声。嗚呼なるほど、これは祖父の夢だとハイルヴィヒが直感するまでにそう時間はかからない。鮮血の赤は見えない。銃の重みも感じない。けれども確かにこれは、あの人の夢だという確信があった。――不意に、誰かに引き上げられる様な感覚を経て、ハイルヴィヒ・シュルツは双眸を持ち上げた。どうやらバスタブの中で眠ってしまっていたらしい。ため息すら反響するような心地を憶えながらも片膝を立て、膝頭と鼻とを寄せる様にして縮こまればポチャン、と湯が音を立てた。温い温度の中、ハイルヴィヒは思惟を巡らせる。祖父は、酷く寡黙な人だった。この仕事に就くと決意したあの日、全てを教えると口にしつつも望まぬと気付けば道を外れて、まっとうな道へ向かって良いと言ってくれる様な人だった。最後の会話は嫌に鮮明に覚えている。たったひとつ、道を見極めろと口にしたあとに行方をくらませたのは二年程前の事だ。護衛として雇われ、廓へと入り、それきりだ。雇い主共々、帰っては来なかった。それを恨んではいない、嘆いてはいない、ましてや悲しいとすら思えなかった。いつか来る別れが今日来たのか、と思うだけだった。今と変わらぬ、けれども幼さを僅かに残す青い瞳を伏せて、祖父の冥福を淡く祈るばかりであった。思い返せば只の記憶に過ぎない。ハイルヴィヒは深い溜め息を吐いた。窓から覗く月へ向けて手を伸ばせば月明かりに出来た影が傭兵の顔に落ちる。まばゆい月明かりを、今宵ばかりは慈しみたい。先日、廓で見た怯えた少女の表情がふと、脳裏をよぎる。傭兵はぐしゃり、何かを握りつぶす様に拳を握った。

 銃を持ちたい、とスヴェトラーナが口にしたのは不意に、買い物の後の事だ。纏うワンピースの裾を揺らしてハイルヴィヒの方に向き直ったスヴェトラーナは懇願するでもなく、ただ小さなお願い事といった体で言葉を紡いでいた。なりません、とハイルヴィヒが口にしたのは反射的にであった。何故、を問う様に水宝玉は僅かに細められ、其の眉尻はゆるりと下がった。思えば確かに少女は守る術を知りたいと口にしていた。少なくとも己の身を守る術は身につけるべきであろう。其のためには少なくとも、其の手で銃を扱うに支障がない程度にはなってもらう方がずっと良い。かと言ってその白魚の様な、透き通る雪の色をした指が引き金を引く事を、あろうことかハイルヴィヒは想像すら出来ずに居る。弾の込め方、銃の構え方、撃ち方さえ教えてしまえばきっとスヴェトラーナでも小さな拳銃ならば扱えよう。
「お嬢様は、私をお使いになれば良い。……貴女がわざわざ、其の様なものを知る必要などは」
「でもハイルヴィヒ、もしも、の可能性もありえるのではないですか? ……ハイルヴィヒが自分を使えと言ってくれたから、貴女に頼んだの。……ヨハンさんにお願いだって、出来るんだから」
 拙く、幼い脅し未満の言葉だ。恐らく同僚も、彼女に銃の扱いを教える事は無いだろう、とハイルヴィヒは思案するもその評定は険しさを増すばかり。それでもスヴェトラーナは引く様子を見せず、澄んだ瞳をじ、とハイルヴィヒの方へ向けたままだった。胸の前で手を握りしめたまま首を傾げる事もなく、ダメですか、と問う声にハイルヴィヒは答えなかった。人差し指の先を軽く噛む様にしながら暫し無言を貫く間、少女も言葉を発する事は無い。時折、少女が開きかけた唇から漏らす呼気の、其の小さな音だけが二人の間に存在する音ですらある様に、2つの色は交わっていた。
 最終的にハイルヴィヒが折れた、というよりも無理やり己の心を塗りつぶした。白百合の花を散らさぬ事が自らの使命だと信じている。其のためには、彼女に最低限の自衛をさせる事も必要だろう。理解している、万が一に彼女がパニックに陥る事があるならばという懸念が無いわけでもないが現状、少女の性格をみるに恐らくは問題はないだろう。気負いすぎる事があるかもしれないがそも、彼女に銃を取らせるのは本当の最終手段だ。少女が少女的である事をこそ望んでいたつもりはない。けれど何処かで其れを、失われた過去の、存在し得ぬ可能性の夢を見ていたのかもしれないとは思えてしまう。宝玉の様な、或いは清らかな月の様な、其の瞳には魔力でも籠もっているのか。そんな或りえない結論を憶えてしまう程に、其の瞳は。

 少女の星色は耳の下あたりで2つに結われている。柔らかな髪は歩く度、背負う鞄にあたって跳ねていた。水宝玉の煌めきは顔ばせに一対、鎮座したまま陽の光に煌めいた。ロングブーツの踵で地面を蹴る度に羽織る長いコートの裾は揺れる。纏うのは平素の様な上等な服ではない、肌の白さも、柔らかな色の髪も、どこか幼気な顔立ちも澄んだ瞳も偽れはしないが、よく良く見れば服が真新しいが、人混みであれば其の程度瑣末事だろう。彼女と共に歩む傭兵は首の後ろ辺りで長い髪を一つに束ね、荷物を手に粛々と歩を進める。女二人ともなれば目立ちそうなものではあるが、平素以上に体の曲線を隠すハイルヴィヒの姿は遠目に見れば性別がわかりづらいものになってはいるはずだ。雇い主と護衛役、その関係性は変わってこそいないが、ある程度は真っ当に、大通りも廓も闊歩できる格好にはなった。目的が変化したならば特別、存在を主張する必要も無い。密かに様子を伺う事をついでとするならばこの方が都合がよかろう。言葉を交わすにしても平素のように弾む声ではなく、粛々と言葉少なにやり取りをするのみに留まっている。特別な確認は家を出る前に済ませてしまった。最低限、銃の使い方もスヴェトラーナに教え込んである。約束事は、万が一の際にのみ使用する事というひとつだけ。それで十分だった。

 冷ややかな空気が頬を撫でる。恐怖心を忘れたわけではないが、怯える心地ではいられない。目的がただ一つに絞られたならば寧ろ上々、歩めるというものだった。スヴェトラーナはハイルヴィヒの手を握ることはしないもののその傍を離れぬように歩を進めている。多くの人々が廓へ入っている事も幸いしてか、地下へと折りゆく二人を気に留める者は居なかった。幾多の足音の中に、たった2人の足音が目立つわけもない。時折背負う鞄を肩で持ち上げて背負い直しながら、歩みを止めるわけにはいかない。はぐれぬように距離を縮めつつ昇降機を幾つか経由し基地として使用される階へとたどり着いた。決して、白い楽園の様に心地良い場所ではなく寧ろ其の真逆、暗がりに何かが潜むような、宵闇の中に取り残された様な心地がする場所だ。一瞬、少女の水宝玉の瞳が伏せられる。深く呼吸を繰り返せばあまり好ましいとはいえぬ香りが鼻腔をかすめた。不快感を僅かに表層に、体調を尋ねてくるハイルヴィヒへ問題ないと告げれば無理やり口角を持ち上げた。
 必要なものを改めて確認して、次の昇降機へと向かう折、不意に、少女の足が止まる。不思議そうな顔をして振り向く護衛役の事など目に入らないとばかりに、今しがたすれ違った数人の中の、フードを目深に被った人物をただ凝視していた。驚愕を其の瞳に宿して、一歩、二歩と足が動く。
「――……お兄様?」
 まろび出る言葉は無意識に。見開かれる水宝玉は驚きと、けれども喜びを煮詰めた色を孕む。すれ違ったその人の肩が揺れた気がする。彼の隣に居るもう一人が振り向いて、視線が交わる。射抜かれるような心地であった。息苦しさすら憶える中で、それでも少女の鼓動は早まるばかりだ。薄明かりの中、星の色はきらめいて、白磁の手は伸ばされる。
「お兄様……嗚呼……」
 兄と慕う人を呼ぶ少女の手を諌めるように護衛が引いた。蒼玉にやや険しい色を宿して、それでも少女を貫かぬようにと最大限、気を使って。少女にだけ届くような声で、其の耳元にて言葉を紡ぐ。
「……行きましょう」
 既に小さくなりゆく其の人の背に向けて伸びていた少女の手は名残惜しそうに降ろされ、大人しく護衛のそばへ少女は戻った。ごめんなさい、と小さな声で紡がれた言葉はどこかしょげたようですらある。あまりにも懐かしい、天日のぬくもりを想起させた。九天に煌めく光を見た心地でさえあった。スヴェトラーナは求めて止まなかったものを感じた様にすら思う。それでもハイルヴィヒの思うところは言外に把握できる。例えばあの人が、或りえぬとしても此処に居ると仮定して。其の存在を示すような事をすればどうなるか位、スヴェトラーナとて理解できるのだから。そも、此処で対人間での面倒事を起こす事は避けるべきだろう。反射的に言葉を零してしまった事を恥じるが最早まろび出た言葉は取り消しようがない。ならばせめても出来ることはこれ以上、追求をしないという事位だ。少女は静かにうつむいて、深呼吸を数度。何処かじっとりとした空気を肺へと取り込み、顔を上げれば穏やかな顔ばせが其処にある。少女は常と変わらず柔い笑みで、再び歩を進める。一歩、一歩と着実に。
「悲しみを」
 ふいに少女が口を開いた。傍を歩む傭兵は蒼玉を雇い主へと向けて小首をかしげている。
「……悲しみを、捨て去る事も、忘れ去る事も出来ないのでしょう。きっと。……喜びを抱きしめ、記憶し続ける事も叶わないのでしょう」
 其れだけつぶやいた後、うつむいてわかっているわ、と少女は零す。それでも叶わぬ最善を求めて止まない。此の気持ちに終止符を。そう思えど叶うならばと或りえぬ夢を見てしまう。決意に満ちた中で、其の癖こうしてぐずぐずと、思いが燻ってしまう。
「毒のようね、まるで」
 ぬくもりに慣れきってしまった、平穏をこそ愛しすぎた。今更悔いても仕方のない事だとわかっているつもりだというのに。砂糖菓子の夢を見ている様だ。表情にこそ出さずとも、ハイルヴィヒの困惑や迷いを感じる。布に覆われた手が此の肩へ触れるか触れまいかと僅かに動く光景も横目にではあるが見えている。嘗てなら、自らその手に触れる事もあったかもしれない。少なくともその手を甘受し、ティースプーン一杯の蜂蜜を何一つ疑いなく此の口へと運んでいただろう。
「ふふ、ごめんなさい。……ソーニア様とミュラさんに、お会い出来るといいのだけれど」
 先日知った人の名をなぞる。2人より4人、というわけでもないけれど、少なくとも己より此の地に詳しい誰かの存在は、スヴェトラーナにとって心強いものである。例え鉢合わせたとして、行動を共にしてくれるかどうかは別問題とスヴェトラーナも承知している。それでももしもが許されるならと小さな希望を抱きたかった。或いは、そうしなくては居られなかっただけなのかもしれない。
「……もし見かけたらお教えします」
 先の謝罪にハイルヴィヒ・シュルツは返答を濁した。次ぐ言葉があった事に安堵したのは事実だ。短くそう告げた後、連れたって、改めてやってきた昇降機へと2人は乗り込んだ。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.133 )
日時: 2018/01/11 08:00
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 昇降機が金切り声を上げ、下へ下へと落ちていく。柵に顔を近づけすぎると鼻を持って行かれそうだ。突然、どんと下から突き上げられるような衝撃が走り、僅か体勢を崩したミュラの首根っこを掴んだジャリルファハドは鼻で笑っていた。扉が開くと同時に人垣は崩れ始め、その最後尾を追うようにしてソーニアが出て行く。早くしろ、と言わんばかりに一瞥を投げ掛けたならば、それに応じるように二人も後を追うのだった。
 カンクェノの冷えた空気に悴み始めた手を擦り合わせ、外套の袖にソーニアは手を隠した。これで少しは温いだろう。何時の間にか追い抜かれてしまい、自分の目の前を歩くジャリルファハドを見るも、彼はこの寒さを大して気にしている様子もない。腰の刀だけがゆらゆらと揺らめくばかりで、その持ち主には何の変化も見られない。
「さっむ……」
「だから上着くらい羽織ってきたらって言ったじゃない」
 そうやってソーニアに一蹴されると不貞腐れるように短く唸り、ミュラは怪訝そうな表情を浮かべるのであった。冬のカンクェノは酷く冷え込んでいる。太陽が当たらない故、当たり前の話である。
 ジャリルファハドは特にミュラへと何かを言及する訳でもなく、歩を緩めるような事もせず、ただただ歩み進めていく。三人の間には沈黙が広がっていく。小銃のストラップが擦れるような音や、ジャリルファハドの持つ散弾銃の弾から発せられる金属音と足音ばかりが鳴り響く。周囲を歩む者達は多く、彼等の言葉や息遣いすら感じられるというのに、それ等の音ばかりが耳に入ってくるのがどうにも不思議に感じられ、ミュラは小さく溜息を吐いた。不思議な感覚に苛まれて仕方がない。
 心なしか今日のカンクェノは何時もより暗く、何時もよりも重苦しい空気が広がっているように感じられた。血が流れたのは三日前の話だ、仕方のない事なのかも知れないがそれでも異常に感じられて仕方がない。何者かの来訪を拒むかのような意思が働いているかのようだ。それはカンクェノの意思か、はたまた人々の意思か。それとも筆舌、名状し難き物の意思か。誰にも分からないが、異常だという事だけは手に取るように分かる。故に心なしかソーニアの足取りは重く、彼女も説明の付かない違和感に苛立ちを覚えているようだった。
「何かしらね、この変な感じ」
「余りこの空気に慣れてくれるなよ、これは戦の前の空気だ。心地いい物ではないというのに、これは人を好みに好んで仕方ない。付き纏われて、離れられなくなる」
 冗談なのか、本当なのか分からないような感覚的な言葉であったが、ソーニアは静かに頷いていた。腿のシースに収められた鉈や肩から吊り下げた小銃。自身もまたこの空気を醸す者達と同じ格好をしているのだ。郷に入って郷に従う訳ではないが、自分もまたこの空気を醸す者達と同じ存在になってしまうかも知れない、と思うと空恐ろしくあり、そうは成るまいと自身に言い聞かせるのだった。
「しかし……これでは回り全てが敵に見えて仕方ないな」
 辺りは得物を持つセノール以外の者達が厭に多い、下層に至ったならば比率は逆転する事だろうが心なしかジャリルファハドの居心地は悪そうである。学者は捨て置いたとしても、彼等が雇った傭兵というのはどうにも、ぎらぎらとした目をしていて、それで居ながら研ぎ澄まされ、多くの肉を切っり、血を吸いに吸った刃物のような印象を宿す者ばかり。こういった者達と先人は殺し合ったのかと思えば、此処も砂漠も然したる違いは無いのだろうと思えるのだ。流れる血も、飛び散る肉もただただ赤く、人のそれである事には変わらないのだ、と。
 更にカンクェノの奥、下層を目指し昇降機を三度ばかし乗り継いでいくと、やはり人種の比率が逆転し始めていく。壁に幾つものは弾痕が見られ、レゥノーラとジャッバールが交戦した形跡が生々しい程に残っていた。壁に飛び散った血痕も残ったままである。上層の人間と比べ、此処に居るセノール達はまだ熱を帯びているようにも感じられ、普段は寡黙な者達が多い彼等であったが、ジャリルファハドを見るなりやや興奮気味で、捲くし立てるような語気で話しかけてくる者も居た。一様にセノールの言葉で話すため、ミュラは勿論の事ながらソーニアも一部分からず、首を傾げていた。
「何話してたの?」
「あぁ、挨拶程度の話だ。それとあいつ等が言うにはハヤが上に居るとな。例の七十六階だ」
 今回、カンクェノに潜ったのはソーニアがジャッバールから依頼されていた、カンクェノ内に残されていた文章の解読結果を渡す為である。現在、ジャッバールに占拠されている階層まで行かなければならない。
「ベルゲンの書斎ね、行きましょ」
 ベルゲンの書斎、そう呼ばれる七十六階。そこからは夥しい数の文書が見つかっている。ソーニアが三月ほど前に解読依頼を受けていた文書もそこから発掘された物だ。ジャリルファハドも文章に目を通していたが、彼が目的とする物は一切記されておらず、最下層に存在する聖櫃と呼ばれる物体や、全知の小人、人造人間などそういった文言が目立つ散文化された一節が記されているだけであった。これを記した者の名が文末に必ず記されており、その者がベルゲンという姓を名乗っていた様だ。それだけはセノールにも読めた様で、地下七十六階をベルゲンの書斎と呼んでいるのだ。
「それにしてもベルゲンって実在したのねって。実家の書庫も大概古い本置いてあるけど全く記述無かったし」
「十四世紀頃の書はあるか」
「いいえ、無いわ。それ以前のは全く。セノールに焼かれちゃって」
 やはりか、とジャリルファハドは苦笑いをしつつ階段を上がっていく。それもそのはずだ、クルツェスカは一度セノールの手により陥落している。その際、セノールが行ったのはクルツェスカの焦土化である。運河が未完であったため、水が無かった空堀を埋め立て、西壁を破壊。占拠後の支配を行いやすくするため、防備兵は勿論、住人も徹底的に殺害する必要があった。最も手早い手段が火を放つという事であり、その果てに失われてしまったのだろう。
「……カランツェンを除いて防備隊は弱かったと聞く。最後のガリプ直系も腕を持っていかれたからな」
「あぁ、私達は勝てなくて逃げた中、彼等が殿したって事しか知らないから。あぁ、そうそう。カランツェンの末裔がまだ居るのよ、憲兵なんだけど物凄く忙しいみたい」
「そうか、尚武な血が途切れていないのは喜ばしい限りだ。……しかし、憲兵とな。これは不味い事をしたやも知れん」
「何かしたの?」
「少し"からかい"過ぎた」
「へぇ――」
 二人が他愛もない話をしている最中、ミュラは心此所に在らずといった様子だ。彼女の視線は薄暗く、ぽっかりと口を開けている闇を向いていた。それでも彼女は一段、また一段、そして一段と階段を上がっていく。先日見た男の事が気掛かりで仕方がないのだ。というのも二人の会話に着いていくにも、知識が足らず閉口している内に思い出してしまったからだ。何処かで見たような男だった、何とも言えない既視感に苛まれ、それが胸の中に突っかかるのだ。どう二人へ問うべきか、と考えている内に目当ての階に到達してしまい、すっかりタイミングを失ってしまった。それと同時に厭にひり付いた空気が漂っているのも感じ取られ、何となくそういった行動自体が憚られてしまった。。三人の視線の先には検問が築かれ、出入り口は一つしかない上に小銃を持った兵が五人ばかり、中にも得物を携えた者達が居ると考えるのが妥当だろう。
「じゃ、ちょっと行って来るわ、待ってて」
 小銃を下ろし、鞄から封筒を取り出しながらソーニアが歩んでいく。ジャリルファハドの首肯など全く見ていない。その足取りに恐怖や遠慮は見えず、やはり肝が据わっているとジャリルファハドは感心していた。相手はハヤだ、頭も良ければ、内面は悪辣、抜け目ない上に突飛な行動が目立つ人物である。同胞ではあるが、出来る事なら近寄りたくない存在である。ソーニアの背を見送りながら、階段に腰を下ろし小さく溜息を吐くのであった。



 検問の内側は同じカンクェノだと言われても、信じられない程に整然としており、古くやや黄ばんだ針桐で作られた本棚が所狭しと並べられていた。そんな景観に不釣合いであったが、得物を持ったセノール達が大勢居る。主目的は襲来するレゥノーラに対する反撃、ハヤの護衛。恐らく居ないだろうが、検問を突破しようとする者達に対する攻勢手段としての役割も兼ねているのだろう。彼等はソーニアを見ても平静を保ち、何かをしてくるという訳でもなかった。明らかに脅威ではないと認識され、自身がまだジャッバールの庇護下にあるという証であった。故に不快感は抱かなかったが、強いて言うなら煙草の煙が充満しているのが、気になる程度の話である。
「ハヤ居る?」
「あぁ、奥の竈の所に。あいつ寒い、寒いと騒いでいてな、朝から離れようとしないんだ」
 ソーニアに問われた男は苦笑いをしながら奥を指差す、僅かに開かれた扉の向こうにハヤは居る。ある者には親しい友人として。ある者には怨敵として。ある者には一介の技術者として。思えば彼女には多数の顔がある事に気付きながらも、歩み扉を開けば火に当たる彼女の姿があった。丁度、薪をくべていた様でソーニアに気付くなり、火の中へと薪を乱暴に投げ込んだ。
「久しぶり」
「おー、態々こんな所までご苦労さん。寒いから当たってきなよ。そうだ、例のアレ……どう?」
「意味分からないって所ね。まだ誰も到達してない最下層、万能の小人、人造人間? 何よそれって感じ」
 封筒に入った文書がハヤに突きつけられるなり、彼女は訝しげに受け取り、首から吊り下げた眼鏡を掛けた。何時ものように薄っすらとした化粧に赤いアイラインと、指先の爪紅が褐色の肌に映える。眼鏡の向こう側の青味を帯びた黒い瞳が忙しなく動いている、恐らくはただ流し読みをしているのだろう。まだ熟読には及んでいない。そもそも、彼女は人前で何かに集中する事はない。必ず追い出されてしまう。無防備な姿を他者に曝すのは美徳ではない、というセノールの独特な考えから来る行動だった。
「人造人間ねぇ、昔のアゥルトゥラもおかしな事を考えるよ。人間なんて孕んだ末、腹から出てくるだけでしょう。事に至らず、時も掛けず人間が出来上がるだなんておかしな話だよ。しかも万能、万能だよ? 人間は人間より優れた存在を作らないのさ、これは神の領域の話じゃない?」
「……ベルゲンは確かカルウェノよ?」
「どっちでも良いよ、私達からしたら。アゥルトゥラもカルウェノも同じ」
 それだけ言い捨て、ハヤは茶に口を付けながら、再び翻訳が書き足された文書に目を通していた。彼女の言う通りアゥルトゥラとカルウェノに対する明確な区別はもう既に形骸と化している。両者の混血が進みに進み、純粋なカルウェノは数える程しか存在しない事だろう。時折、難しそうな顔をして眼鏡を弄んでいる彼女を一瞥し、ソーニアも壁際に置かれた椅子に腰を下ろした。辺りを見回していくと古書が彼方此方に収められており、それらの背表紙には朱書きでチェックが飛ばされており、ハヤ等も独自で解読を進めていたと考えられる。何らかの意図からか自らで解読を解き進めたかったのか、それとも単なる彼女の気紛れか。
「ふーん、それじゃ当時のカルウェノは神をも恐れず、自分達より優れた存在を作ろうとする愚か者だったのね。まぁ、良いさ。私たちも異教の神は恐れるに足らず、その神も信徒も鏖殺とし、優れた者はより優れた者で叩き潰すんだ、刃が届かないなら届くまで刺すだけさ」
 ハヤから発せられる言葉は、どこか興奮しているようで彼女の底の浅さや、悪辣さが僅かに顔を覗かせたようだった。セノールは突然、凄む事がある。ジャリルファハドにそういった面は見られないが、どうにもバシラアサドやハヤは時折そんな面を出す事もある。ソーニアはそれが少し苦手に思っていたが、特に何も言及せず顔に不快感を出さぬように努めるのであった。
「本当に神を恐れないのはどっちかしら」
 それでも皮肉を一つだけハヤにぶつけたならば、彼女はニィっと笑いながら眼鏡を外す。本当に神を恐れないのは自分達だと言わんばかりに、傲岸不遜に笑っているように見えて仕方なかった。その笑顔が消えると同時に目を指先で軽く抑え、わざとらしく天井を見上げて、小さく唸り声を上げていた。
「……最近、近眼が酷くてさぁ。人造人間作って? そいつの目を私の目と挿げ替えたらマシになるかなぁ」
「歳かしらね」
「失礼な、大体そんな変わらないじゃん。……そうだ、次の文書はまだ待ってて。出来るだけうちで解読してから渡すから、また寝ずの番だよ。此処は不夜城になるんだ」
「お疲れ様、また時間あったら何処か出かけましょ」
「それも良いね、そうしよう。……そういえばファハド来たでしょう? あとその手下も」
「えぇ、外で待たせてるわ。ほら、此処に入れてもらえないから」
 ハヤはジャリルファハドの事を聞きながら、心底悪い表情をしながら笑っていた。それは悪業を犯すような顔付きではなく、少し悪戯心の混じったような年不相応な表情であるのだ。彼女も齢にして二十九、三十がもう目前であるというのにと、思わず呆れてしまう。それと同時にソーニアは彼女と顔を見合わせながら二つの疑問を抱くのだ。何故、彼女がジャリルファハドの帰還とミュラの存在を知っているのか、と。妙な胸騒ぎを感じつつ、眼前の異邦人を見据えるのだった。

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