複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.125 )
日時: 2017/12/13 23:49
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 去るエドガーの背を、少女はやや呆然として見つめていた。半歩踏み出しかけた足を引いたのは今更別れの言葉を告げた所で、というだけの事だ。告げなくてはいけない言葉を告げられなかった罪悪感もある。あの状態のレアを何も事前情報無しに見た彼が、どう思うか。其れを思えば口を噤み続けた少女の判断は間違いであったと言えるのだろう。そうは思いつつ少女の瞳はただ虚空を見つめるように空白を見やる。零れ落ちる何かを掬い上げる事もできぬままにただ無言を貫いていた。瞬く瞳には憂いが滲む。大丈夫ですか、と問いかけてくるハイルヴィヒの言葉すら、スヴェトラーナにとっては遠い場所から聞こえる、其れこそ周囲の喧騒に紛れる一つの音でしかなかった。反応が遅くなったことを謝れど、ハイルヴィヒは気にしないでほしい、とばかりに首を横へと振るばかりだ。
「あの……ハイルヴィヒ、レアさんは……いえ、レア様とエドガー様はどう、したら。……ご一緒に帰る事が叶えばと……思うの、ですけれど……」
 胸を僅かに上下させ、其の赤い瞳を見せる事のない金糸の髪をした少女の事を思い出しながら、スヴェトラーナは戸惑いを口にする。致命傷に至るものが無いならば、何時かその瞼は押し開かれよう。少女に彼女を背負う力は無く、たとえ上に連れゆくとすればハイルヴィヒの力を借りる他あるまい。エドガーに任せるのも手ではあるが、何にしても彼女らは元はと言えばベケトフと関係を結ぶ者に相違ない。薄氷の色は瞬いて、碧玉を見る。けれど碧玉の彼女は、何を語るでもなくただ黙って首を横へと振る。其れを目の当たりにした薄氷は大きく見開かれ、唇からは何故がまろび出る。お願いだから、と柔く紡がれる懇願に、ハイルヴィヒは眉を動かす。少女の瞳は閉ざされた唇の紡ぎたいであろう言葉を、ありありと湛えてハイルヴィヒを見やっている。それでもハイルヴィヒは、首を横へと振った。
「……、…………何故、ですか」
 少女の声は暗く、重い。怯える様な瞳は、ただまっすぐにハイルヴィヒへと向けられていた。
「彼女らを我々の家まで連れ帰るというのですか? それとも送り届けると? ……其処までする理由はありませんよ、お嬢様。……お優しいのは結構ですが、此の件に関して彼女を助けただけで十分ではないでしょうか」
 粛々と告げられる言葉は決して、スヴェトラーナの望むものでは無かった。少女の中で答えは無意識に決まっていたというのに。彼女を連れて行って、無事帰宅して、それから明日を迎える。そんな甘やかな夢ばかりを信じていたと言うのに。かと言って少女は癇癪を起こす程子供ではない。むしろその事実へ気が付き、己を恥じて同時に困惑が生まれる。
「……私、は……わたしは、その……優しさなどでは、なく……これ、は」
「其れが義務であると? ……ならば尚更、取捨選択を誤られませぬ様。……何かを為したいとお思いでしたら、ですが」
 彼女を助けたくせに、と少女の心は叫んでいるが、其れを音にする事など出来るはずもない。此処で放り出すなど無責任ではないだろうか。助けたならば助けた責務が発生するのではないか。選び取ったならば其れは、即ち――少女の思索は広い海を漂う様なものだ。詮無き事、唇をかみしめて悩む間に決断を下すべきなのだろう。分かっている、知っている。それでも選び取れない事があるのはどうしようもなかったのかもしれない。或いは単に、少女がただ甘く弱いからという至極単純な理由にほかなるまい。思えば少女は、自らが何も選べていない気さえするのだ。

 ハイルヴィヒはふと、手を握って、とスヴェトラーナより告げられた何時かの日の事を思い出していた。真白い部屋の中、たった二人になったその時に、スヴェトラーナがハイルヴィヒに震える極か細い声でそう強請って、その瞳の水面をぐらりと揺らす。その瞬間の光景は今でも、ありありとハイルヴィヒの瞼の裏に思い起こされる。あの日の少女が何に怯えていたのか、傭兵は最早記憶していないが、震える手を包み込んでやった折に少女の浮かべる安堵の表情がただ愛らしかった事ばかりは酷く鮮明に覚えている。今だってそうだ。ハイルヴィヒがスヴェトラーナの震える手を包んでやれば、スヴェトラーナの顔ばせに僅かに血色が戻り、その震えは収まった様にすら伺える。恐ろしい癖に、自らではなく他者を最優先に考えているその歪な笑顔の下で、少女はどんな表情をしているのだろうか。ハイルヴィヒに伺い知る事は出来ない。問うこともまた然り。曖昧な侭に、ハイルヴィヒは夢を見る事はない。スヴェトラーナはどうなのか、外へ歩むことを決断したと言うのに、その心はいつまでも優しいばかりの楽園へ篭もる事を望んでいるのではないか。考えるほどに深みに嵌まる。其の殻を破り捨て、手を引く事は、ハイルヴィヒには出来ぬ唯一。選択権は己ではなく彼女にある。雇われるだけの身であるというのに妙な話だとハイルヴィヒは自嘲し、息を吐く。肩入れし過ぎであろう自覚はある。ただ守り抜く事を考えていればいい。其れこそあの時、レアを見捨て、スヴェトラーナだけの手を引いて、真っ先に駆け抜ける選択肢もあるにはあった。足止めをあの二人に押し付ける事も出来なくはなかった。其れをしなかったのは結局、彼女だけが助かる状況を、誰よりもスヴェトラーナ自身が厭うて居ると知っているから。ただし、だからといって余計なリスクを背負う事を是とするつもりはない。天秤にかけた所で正しい答えはでてきやしない。ただ一つ、己や他者は気にならずとも、少女の心に何かが重くのしかかる事だけは忌避すべき唯一として、ハイルヴィヒの心に誓われていた。或いは、無意識に。
「ねえ、ハイルヴィヒ……私、間違っている?」
 少女は左胸のあたりできゅう、と重ね合わせた手を握りしめていた。アイスブルーの瞳は惑う様に揺らめき、けれど宛ら、救いを求めるかの様に、無垢の色を宿す。周囲の人々の喧騒など、今のスヴェトラーナにとってはあってないようなものだった。世界の最小単位たるたった二人だけが、今の少女の精一杯。恐怖、或いは憂慮。涙するのは容易な事なれど、少女は其れを選びたくなかった。全てを守り、持つものとしての責務を果たすと心に誓った、はずだった。口内で蕩ける砂糖菓子の様にホロホロと其の理想が崩れそうになる。信じたいのに信じられない。或いは、少女の望む夢は夢であるからこそ存続し得るのだと突きつけられる様な感覚であった。締め付けられる様な感覚で、けれども救いを、求めたかった。
「…………其の問に対して、明確な答えは持ち合わせておりません。いえ、私には到底正しい答えをお嬢様へ授ける事は叶いません」
 スヴェトラーナの瞳は不安に伏せられる。形の良い眉は悩ましげに顰められ、唇は引き結ばれるばかりだった。何か言いたげな硝子玉を見やって、けれどもハイルヴィヒは言葉を促さない。出来やしなかった、したくはなかった、其のどちらでもあって、どちらでも無かった。ただ暫しの沈黙が2人の間に流れていく。その間もハイルヴィヒは僅かに険しい表情のままスヴェトラーナを見つめていた。此れで話は終わりか、とハイルヴィヒが歩み出そうとするなかでスヴェトラーナはふるり、とその睫毛を震わせる。止まらぬ震えを押し殺す方法を、少女は知らなかった。その場に腰掛けたままのスヴェトラーナを、揺れぬ碧玉が見つめていた。
「っ、それ、でも……それでも、教えて。お願い……教えてください。私……私は、」
 どうしたら良いの、とか細い声が零れていく。そんな事、誰かに問うまでもなかろうに、それでも少女は其れを問う。緊張と恐怖の入り交じる面持ちはけれども、ハイルヴィヒの瞳に酷くうつくしく映っていた。揺らぐ薄氷で碧玉を見つめる少女は道に迷う、ちっぽけな一人の娘でしかあれない。
「……そうですね」
 不意にハイルヴィヒは再び口を開く。相変わらずゆらゆらと、湖面の様に波打ち揺れる硝子の表層を少女は傭兵へと向けて、幾度か其の瞳を瞬かせる。なぁに、と何時ものような柔らかな声は紡がれる事は無い。沈黙が二人を貫くのは一瞬の事。けれども少女にとって、其の一瞬の、なんと長い事。淡く、秘めやかに囁かれるささめごとが欲しかった。ただ何も言わずに抱きしめてほしい。ふつり、湧き上がる欲望は止め処無く溢れそうになる。押さえ込めて居たのに、感じることすら無かったのにと引き結ばれる唇は鈍い、鉄の味をにじませる。心臓が痛い、酷く息が苦しい様な心地であった。
「貴女が間違いと思うならば、そうなのでしょう。其の様な不安を抱えたままで、中途半端なお気持ちのままで居続ける事はある種……不誠実ではないかと」
 少女の瞳は僅かに見開かれた。温かな陽溜まりを、ぬるま湯のように生ぬるい世界を、其れだけを知っている。そうして同時に、其の温かな場所は酷く脆い夢であるとも。だからこそ全てを受け入れようとしていた。何かを否定しない様にしていた。誰かに嫌われないように、見捨てられないように。一人にされないように、少女は少女の心に城壁を築き、世界を守っていたのかもしれない。或いは、少女の父がそうしていたように。煌びやかなのは過去の残像ばかり。在るべきものは、在るべき場所へ。ハイルヴィヒとて、この言葉に何一つの保証をしてはやれない。スヴェトラーナにはスヴェトラーナの考えがあって然るべきだ。例えば其の言葉は其れを促しているものであったとしても、伝わらねば意味はない。繋いだ手はまだ、離さない。永久に共にとは全く不可能のものであるが、共に在れる限りは傍に。無意識下、二人が契った一つである。
「……お兄様なら……お兄様なら、なんて仰る、かしら」
 縋る様な言葉であった。誰に向けるでもない、今此処に居ない誰かを思って、少女は言葉を紡いでいた。伏せた瞳は在りし日の、温かな夢を見続ける。幼き日より親交がある、困った時にささめごとの様に小さな声で悩みを打ち明けた記憶もある。――酷く、古く懐かしい記憶だが。奪われた夢も、現にある今も、己の手で動かさねばならないと知れども、少女は何処かで心の拠り所を求めていたのかもしれない。或いは、夢見る自由に悪夢を見たか。
「……お嬢様」
 ハイルヴィヒの言葉はやや鋭く、氷柱に乱反射する光の様な響きを孕む。スヴェトラーナの肩は揺れて、その硝子玉の瞳には不安と怯えと、一抹の反感にも似た感情が宿る。“どうして――”紡がれかけた言葉は少女の喉奥へと飲み込まれた。
「……いい、いいの、いいのよハイルヴィヒ……ごめんなさい。……ごめんなさい、なんでもない。なんでも、ないの」
 忘れてちょうだい、と添えつつ、少女は視線を反らし、顔をも反らす。無言の間は、少女にとって恐怖でしか無い。碧玉の色が恐ろしいなんて、思いたくもないのに。耐え難い、と思えてならない。状況を飲み込むのに、スヴェトラーナのキャパシティはとっくに許容量を超えていた。しあわせを、さいわいをばかり見てきた少女は熟考の末に何一つ選べない。不決断こそ最大の悪と知れど、悩みは尽きない。月は、他の明かりがなくば輝けまい。伏せたアイス・ブルーはゆるりと覆い隠される。暫しの静寂が二人を包んだ後、少女の眼前に、傭兵は不意に跪いた。両の手で少女の手を握りしめ、其の瞳を見遣らんと、碧玉に柔い希望と、ただ一抹、ティースプーン一杯分程の黒い感情を込めて。
「お嬢様。どうかお忘れになりませぬ様。私は……貴女の為にある。この命を徒してでも、貴女の為なれば」
 咲き誇ることのない徒花であるというのに。少長い金の色が、其の震える柔らかな水の色をした瞳が、白い手が、全てが己のものならばと幾度思ったことだろう。怯える少女のなんと愛しい事。肩をぴくり、と震わせ、伏せていた双眸は傭兵を見つめている。怯えながらも、何かを伝えたげに。言わんとする事の予想が出来ぬハイルヴィヒではない、けれどもスヴェトラーナが其れを口にしないならば汲み取る気は或りやしなかった。ずるいとは承知であるが、それでもだ。戸惑いをその硝子玉の奥深くに宿したスヴェトラーナは僅かに口の開閉を繰り返す。紡ぐべき言葉に悩みながらも、ただハイルヴィヒの手を握る力を僅かに強めた。
「…………ハイルヴィヒ、それは……駄目よ、駄目だわ……駄目よ」
「ですがお嬢様。私の役目は、貴女をお守りする事にこそ或ります故」
 何が駄目なのか、少女は口にしない。其れならばとハイルヴィヒは粛々と語るのみだ。少女の望むささめごとを、閨に囁く甘い言葉を、口遊む事は容易なれど、ハイルヴィヒは其れを口にしない事を選び取った。輝く硝子玉は宛ら、水面の光を宿す。再び伏せられた其の瞳をハイルヴィヒは追いかけない。再び静かに帰りましょう、と囁いて、ややあってから頷く少女の手を引いて廓を後にする。帰りがけの予定であった買い物は、明日へ回す事としよう。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.126 )
日時: 2017/12/17 21:04
名前: NIKKA ◆vhrOLiO4QQ

 水と僅かなパンを手に歩むエドガーだったが、それを口にしようという気はすっかり消え失せてしまっていた。何故ならば多くの負傷者が次々と運ばれて来ているからだ。血の生々しく、不愉快な臭いに当てられたのか、それとも血の赤に酔ったのか、少しばかりの眩暈を覚える。僅かぐらつく視界の中、辺りを見回してみると幸いにして死者は居ないようだ。それでも流された血は夥しく、彼等の対応に当たるセノールの医者の語気は次第に荒くなり、その声の大きさに反比例するように疲労の色が見え始めていた。彼に従事する者もまた等しい。恐らくレアの手当てをしたのも彼等なのだろう。あれほど大きな怪我を負った者ばかりが、運び込まれてきたならば今の状況も当然と言えよう。痛みに呻く者は多く、血をだらだらと滴らせ、死人のように青褪めた顔をしながら石畳の上を歩む者も居る。終いには痛みや精神的な動揺からだろう、知識もないというのに自分で傷の処置をする者まで出始める始末だった。それを見る度にセノールの医者や、彼に従事する者達は大慌てで走り回っている。
「大怪我してる奴から連れて来い! 死んでないなら誰だって良い! 連れて来い!!」
 少し離れた所でセノールの医者が大声を張り上げて叫んでいる。この目が回るような忙しさにすっかり気が昂ぶってしまっているようだ。今、彼に手当てされているのはアゥルトゥラの傭兵なのだろうか。彼は目の前で大声を張り上げられ、すっかり気が滅入ってしまったのせいもあるのだろうが心なしか萎縮しているようにも見られた。その声に呼応するように、石畳の上に転がされている怪我人を乱雑に引き摺って、彼の元へと運ぶセノールの兵の姿が視界に飛び込んでくる。彼もまた負傷しており、額から顔、首元を血が伝う。人間と化物の戦争、その果てに出来上がったこの地獄のような状況にエドガーは眼を逸らし、覆い隠してしまいたくなるのだった。出来る事なら声すら聞かぬよう、耳すら塞いでしまいたい。
 レアが寝かされていた場所には簡易的にではあるが、テントが張られ外から彼女の姿はすっかり隠されていた。怪我人を外に出したままにしておくのは見てくれも良くないからだろう。中からは低い女の声、それと抑揚なくぽつぽつと一人ごちるかのような男の声がしていた。言葉の端からはセノール特有の単語と単語の輪郭をはっきりさせず、だらだらと繋げたような訛りが聞こえている。時折、セノールの言葉で話しているようだ。それと共に薄っすらと甘さを感じさせるよな香りがテントの中から漂う。今まで生きてきて、一度たりとも嗅いだ事のない匂いだ。一体誰が何をしているのだろうかと、怪訝な顔をしながら、その向こう側を覗くべく入り口に手を掛けた時であった。タトゥーの入った腕が伸び、エドガーの襟首を掴んではそのままテントの中へと引きずり込んだのだ。声を上げようにもあまりもの驚きに声は出せず、抵抗しようにも抵抗出来ず、石畳に引き倒されると、そのまま胸元を押さえつけられた。僅かに息苦しく、思わず呻いてしまう。苦悶の中、エドガーが見たのじゃ青と黒の四つの瞳。それらは彼を見下ろしている。一様に恐ろしげで、特に黒い瞳の男は人間の形をしているだけ、人間のふりをしている化物か何かのように感じられた。声を上げようにも上げられずに、エドガーは身動ぎするばかり。折角持って来た水は流れ出し、パンも石畳の上に転がってしまっている。
「……シャーヒン、離してやれ。手荒な真似をしたな。掴まれ」
 女の方から差し伸べられた手、その手を主はバシラアサド・ジャッバール・サチであった。クルツェスカに住まうならば、知らぬ者は居ない。彼女から差し伸べられた手を取り、上半身だけ起こすとシャーヒンと呼ばれた男の方はエドガーのその体たらくを情け無し、と鼻で小さく笑いながら清涼感のある匂いがするお茶に口をつけていた。
「手荒な真似をしたな、大丈夫か」
「え、えぇ……」
「最近、私達には敵が多くてな。少し気が立っているのさ」
 そうバシラアサドは表情一つなく、つらつらと語る。半年前にナヴァロと争っていたのはエドガーも知っている。彼女の右目の怪我がそれを物語っている。結果はナヴァロ方の戦闘放棄であったが、今も敵が多いとはどういう事だと内心、思いこそしたものの口には出さなかった。
「いえ……、その少し驚いただけですから」
「そうか、それなら良い。所で彼女はお前の知り合いかね」
「え、えぇ。そうですけど……」
「だから来たのか」
 青い瞳は瞬き一つせず、エドガーを見据え問いから逃がさないと言わんばかりの威圧感を醸す。恐らく本人は意図してやっていないのだろう。自然にそう見えてしまう。エドガーには辛うじて外した視線を眠っているレアに向けながら、頷いてバシラアサドと視線を交わさないように努める事しか出来なかった。。
「なるほど、そうか。やはりレヴェリだな。よくやってくれた。言っておくが私は二度も褒めんからな」
 ぼそりとバシラアサドの呟いた言葉に思わず、エドガーは彼女を見遣る。驚きを隠せずに居ると彼女は静かに笑っている。先ほどまでの刺々しさ、重苦しさは何処へと消えた事か。穏やかで人らしく、優しげにまで見えるのだ。その笑みに釣られ、ぎこちなく不自然なものではあったがエドガーも静かに笑っていた。
「だが、足の具合は余り良くない。腱を断たれたようだ、暫くは歩けんぞ」
「……治るんですか?」
「私は医者ではない、何とも言えんが我々で治療は持とう。……明日には地上に上げる、今日は私の兵も疲れてしまっているから勘弁してくれ」
 そうやって語るバシラアサドの表情はどこか曇り、先ほどまでエドガーに向けられていた視線は、テントの向こう側を透かし見る様な遠い目に変わっていた。何か思う事でもあるのだろうか、聞くにも背後のシャーヒンの存在が気になって仕方なく、これ以上に何かを問おうと口を開くのも憚られ、少しばかりの沈黙が流れた。バシラアサドの青い目はレアをぼんやりと見つめている。彼女が何を思うか、エドガーにはそれが分からない。
「さて……シャーヒン、そろそろ下へ行くぞ」
「……あぁ」
 そう短く返事をしたシャーヒンは立て掛けられてた小銃を二挺ばかり手に取り、その内の一挺をバシラアサドに投げ渡した。手元に残った一挺は己の肩に吊り下げ、腰に差している二振りの刀の内、一振りを抜いて刃を眺めている。妙な反り方をしたそれの刃は光りなど全く持たず、ただ殺すためだけに作られ、それだけを成すための代物に見えて仕方なかった。装飾は一切なく、使い込まれた様子だ。
「下、ですか?」
「お前には関係あるまいよ、私達しか知らんものもあるのだ」
 そうバシラアサドはせせら笑う。その内にシャーヒンはテントの外へと出て行き、彼女の笑みが少しずつ歪み、恐ろしげな物へと変貌していく。まるで飢えた肉食獣が、か弱い獲物を見つけそれの命を弄びながら、加虐心を満たしていく過程を見たかのよう。先ほどまでの穏やかさは何処へと、消えてしまったというのだろうか。
「面白半分、興味半分で首を突っ込む物ではない、その首を削がれても知らんからな。……では、またな」
 エドガーの肩を叩き、彼女がテントを去る間際、翻された出入り口の布の向こうには幾人ものレヴェリやセノールが武器を携え佇んでいた。彼等の様相は宛ら獣。暗い瞳が厭にぎらつき、血を求めているかのよう。辺獄のその更に先、地獄から舞い戻り、生者を羨み、彼等を輩とするため更なる闘争を求めているかの如く。近付いてはならない、見てはならないと、己に言い聞かせエドガーは瞳を伏せた。テントの向こう、誰かが鼻で笑ったような気がしてならない。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.127 )
日時: 2017/12/17 21:11
名前: NIKKA ◆vhrOLiO4QQ

 彪は東へと進むのだ。顔は真っ黒な布で覆い隠され、表情は全く読み取れない。僅かな隙間から覗く、真っ黒な瞳が睨むのは、その瞳と同じくして黒い砂漠である。辺りは全くの闇である。道標は青白く死人のような月、その灯りだけである。己の衣擦れ、蹄の音、得物同士が擦れる音だけが静まり返った砂漠に鳴っていた。からり、ぱかりと規則的に鳴るその音はどこか心地よく、これから死地へ赴くというのに平静を保っていられるのだ。腰の刀はこれからも血を求めるだろう、獅子より貰い受けた鎧通しも等しく、そうあるのだ。刃は喉の渇きを潤し、肉を喰らいたいと吼えている。そんな彼等を制するのは己の理知であり、それだけは失うべきではない大切な代物である。
 暫く闇の中を歩み、窪地へ至る。そこには洞穴があり、人が過ごしていた痕跡が見て取られた。それはつい最近の話ではなく、数ヶ月前までの話である。馬から降り、その穴へと適当な石を投げ込むも何の反応もなく、静まり返ったままである。獣の類は居ない、居るとしたならば野盗くらいだろう。刀を抜き、静かに歩む。人の気配などはないのだが、奥まで行かなければ分からない事である。刀に手を掛け、一頻りぐるりと見回り、人も獣も居ない事を確認すると小さく溜息を吐いて、少しだけ草臥れた椅子に腰を下ろすのだった。傍らにはもう一つ椅子があり、此処には二人の人間が住んでいたのだと思われる。此処に住まう者は何故、こんな辺鄙な所に住まい、何をして生きていたのだろうか。恐らくは真っ当な人間ではないだろう。野盗や傭兵崩れ、そんな碌でもない者達であると考えられる。そして、彼等は恐らくセノールの手により排斥された事だろう。この砂漠は部外の者を生かそうという意志は微塵もない、それは恐らくセノールという民族がこの砂漠に在り続ける限り続く事だろう。

 寒さを凌ぐべく、焚いた火、その燃え滓が爆ぜ、小気味の良い音を立てている。外では乗ってきた馬が鼻喇叭を鳴らしている。目は利くのだろうが、それでも不安なのだろう。そうして鼻を鳴らして辺りの様子を探っているのだ。何か居るのだろうか、と傍らに置いた刀を手にジャリルファハドはゆっくりと、出来る限り音を立てずに歩み進んで行く。生物の気配というべきだろうか、何かが蠢き、何かの息衝くような存在感は感じ取れるのだが、馬のせいで数までは分からない。まだまだ自身の研鑽は足りないかと、己をせせら笑う。洞穴より顔を覗かせるも馬の姿のみで、他に何者の姿はない。馬の頬を二度、三度と撫で、何事もないと落ち着かせるかのように首を二度ばかし軽く叩いた。その時である。背後でざりざりと礫を蹴り、砂を漕ぐ足音が聞こえたのだ。刀の柄に手を掛け、刀身が僅か顔を覗かせた。ゆっくりと振り向き、暗闇を睨むと視線の先に居たのは一人の男である。暗闇の中、不自然な程に身体を傾け、足を引き摺っているのだ。彼が上げる呻くような声は厭に苦しげで、助けを求めているかのよう。
「……大丈夫か」
 刀を抜いたまま暗闇の中の男に問う。答えはなく、ただただ呻くばかり。ジャリルファハドは一歩たりとも動かず、また刀の柄から手を離す事もない。その者の姿をはっきりと捉え、己の眼前に至るまでは近寄る気などないのだ。呻き声は少しずつであるが、強くなりその醜悪な声がはっきりと耳に入り込む。呻きの中、風を切るような音が聞こえ、それはある程度の規則性を持っているように感じられた。宛ら人の呼吸するが如くである。雲が晴れ、月の灯りがふと灯ったその刹那、ジャリルファハドの疑問は消えるのだった。死人のような青褪めた顔、それに浮かび上がる怨嗟と苦悶。腕はなく、首は大きく切り裂かれ、右膝から下も大きく拉げているのだ。あぁ、これは嘗て先人達が殺めた者達の無念の権化であろう、一度死したとしてもまだ再び死を望み、醜悪な様相を呈し立ちはだかるか。それともそれ程までに憎く、その憎悪に突き動かされ更なる闘争を望むのか。口元に浮かび上がった笑みが消え去るよりも速く、抜き身の刀がその異様を切り裂いていく。手応えはなく、姿もない。常世のものであったとしても、切っ先が食い込めば死んでしまうかと嗤いながら、ジャリルファハドは踵を返し洞穴へと戻っていく。真に恐れるべしは人であり、常世のものであるならば一蹴するだけの事。だがしかし、これより望む廓にて立ちはだかるのは異形の化生、それは人ではなく、また常世のものでもないが、現世に在るものである。慢心はすべきではなく、輩へ戦の手順、戦の手本を武門たる己が示さねばならない。化生をどう殺めるべしか、傷を癒しながら考えてきた策を講じなければ成らないのだ。
 ふと、馬の鳴らす鼻喇叭に身構え、あの男が居た場所を見遣るも姿も、形もない。あぁ、そうか。己が恐ろしげな顔をしていたのだろうと、小さく笑いながら先ほどと同じように頬を撫で付け、ジャリルファハドは洞穴へと戻っていった。朝を待ち、凍て付く長い夜を過ごさねばならないのだ。



 夜が明け、漸く訪れた朝だというのに夜通し望んでいた、太陽の光は地へと届かない。故にその熱は感じられず、ただ寒風を浴びるだけである。吐く息は白く、馬の鼻息もまた白く、霞みの如く。礫には霜が降り、これはもうじき冬が来るのだろうと予感せざるを得なかった。鞍の後ろに括りつけた荷から外套を引っ張り出し、それを羽織る。やはり顔も隠さねば冷えた空気に嫌がらせを受ける事だろう。昨日の様に顔を布で覆い、馬に跨ると冷たい鞍の感触が伝わってくる。慣れた物である故、特段何かしらの反応を示す訳でもない。手綱を握り、ただ砂漠を駆けるのみなのだ。霜が降りたおかげで砂は然程飛ばず、普段吸う空気よりも清浄に感じられた。冬特有の匂いというべきか、鼻に飛び込んでくる厭に透き通り、清浄過ぎる故に不快感に似た感覚を覚えた。清すぎる水には魚が棲まないのと同じという訳ではないが、あまり気持ちのいいものではない。
「走ってくれよ」
 馬の首を軽く叩き、顔を覆う布の下でジャリルファハドは静かに笑みを湛えた。冷え始めた手に人よりも温かい馬の体温は心地よい物であるからだ。もうじき走り続けて四日が経つ、五十年前この砂漠を越える為、一年余りの月日を費やし、血の河と死肉の園を作り上げたアゥルトゥラと比べたならば、その速き事、風の如くといった様であろうか。尤もそれも度が過ぎていけば、今のように向かい風で己が凍え、縮み上がるだけの話である。布の下、穏やかだった笑みが自嘲に変わり、何時もの様な仏頂面が戻ってきていると彼には知る由もない。
「……もう少しか」
 西方交易路の道標として立てられている石塔を幾つも通り過ぎ、漸くクルツェスカの城壁が見え始めた頃、ジャリルファハドは馬に跨ったまま、ジャッバールから得た通行証を懐から取り出した。それにはバシラアサド、彼女の署名がされており身分を手荷物などの検査も不要である旨が記されている。恐らくはジャッバールがクルツェスカ内に武器を運び込んでいるのも、こういった手形や通行証を使い憲兵達の目を欺き、手を一切触れさせずに居るからなのだろう。此処に至るまで、幾つか馬車や隊商を追い越してきたが彼等も同様と考えられた。西方諸国との交易路とは名ばかり、馬車を引くのは大凡セノールだらけであった。
「呆気ないものだ」
 外患に好き勝手され、門戸まで奪われたともなれば、このクルツェスカという都市は既に陥落したも同義、これ以上クルツェスカの委細な地図を作り、送る必要もないだろう。そんな事を考えている内、検問へと辿り着く。顔に巻いた布を取り、それを馬の首に掛けると彼は下馬し、手綱を引いたままゆっくりとした足取りで憲兵達へと向かっていく。
「通行証は」
 憲兵は不機嫌なのか、ぶっきらぼうに問う。ジャリルファハドは特に帰する様子も見せない。
「あぁ、これだ」
 バシラアサドの署名の下に記された「ジャリルファハド・ガリプ・サチ」の名に、憲兵達は一瞬顔を顰め、口を閉ざしたままでジャリルファハドへと視線を投げ掛けた。左から青、黒、青、灰と八つの瞳が彼を射抜く。
「何か用かね」
「……余り派手な動きをするなよ、お前はジャッバールではない。消そうと思うならば我々でも出来る事だ」
 そう語る憲兵の青い目は厭にぎらついていて、そこには負の炎が灯っているように感じられた。セノールに対する差別感情か、それとも西伐で親族を殺されたか。恨みを買っても仕方はあるまい、ガリプはアゥルトゥラに大勢殺されはしたが、それ以上にアゥルトゥラを殺め、蹂躙し、血を流したからだ。
「そうか。そうだな、十も二十も連れて来ると良い、全員食い散らかしてくれるわ」
「言葉を選べ彪。獣狩りなど容易い事だ」
「抜かせ、大言成さねば虚言だろう。……お前達のような半端者に出来るのかね。あぁ、そうだ。人を殺したことは?」
 売り言葉に買い言葉とはこの事だろう、そう半分冗談とも、半分本気とも取れる言葉を投げ掛け、ジャリルファハドは憲兵から通行証を引っ手繰ると、張り付いたような笑みを浮かべた。その表情に憲兵達の背筋に冷たいものが走る。眼前に居るのは人ではなく、獣、化生の類に感じられ、憲兵の一人は思わず視線を逸らしてしまった。それを見て、彼は小さく鼻で嗤うと手綱を引き検問を立ち去るのであった。背後では何やら大声で憲兵が吼えているが、聞き耳など持つ必要もない。人間には獣の言葉など分からないのだ。どうせ飼い慣らされ、猛る事を忘れた犬畜生の戯言である。
 先ほどの憲兵の事などすっかり忘れた様に相変わらず人気の多い街だと、少し関心しながら彼は歩み進めていく。出来る事なら急ぎたいのだが、街の中で馬に乗るなど、迷惑な話であるため下馬したまま手綱を引いて、ゆっくりと往来の邪魔をしないようにだ。敵地ではあるが、その程度の礼節、常識は成さなければならない。さもなくばただの獣、野人の類でしかない。
「……さて」
 硬い石畳の上、人の足音がこれ程まで五月蝿く耳に入ってくるものか、と一瞬カシールヴェナとの差異に戸惑いを抱くものの、些事であると己に言い聞かせ彼は大路を行く。ミュラはどうしているだろうか、何事も無ければ良いのだが、と小さな溜息を輩として。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.128 )
日時: 2017/12/26 01:25
名前: ポテト侍@スマホ ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 一旦家に戻りミュラは服を着替え、ソーニアと共に外で朝食をとる。二人の直感で決めた初めての入った店は焼きたてのパンが食べられるのが自慢の店だった。扉を開ければ、チリンチリンと来客を告げるベルが鳴る。店内に踏み出せば焼けたパンの香ばしい香りとコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。と、ミュラの腹の虫がぐるぐると鳴き声を上げた。腹を手で押さえるが既に遅し。目を合わせたソーニアが噴き出して笑ってくるのだから、羞恥がメキメキと育ち、ミを熟れた林檎のように赤くするのだった。
 店内はクラシックがかかり、ダークブラウンの床にそれよりも少し薄茶色のテーブルと椅子が配置され、窓際に置かれたピアノがモダンな雰囲気を演出している。配置された五つの席のうち二つは先客がおり、老夫婦のような男女とフードを被った人物が一人、スープを啜っている。室内でフードを被るとは余程顔に自信が無いのか、若しくは何かの訳ありか、席に案内されている最中にさりげなく顔を除こうとしたが、目深く被ったフードからは口元の髭しか確認できない。ソーニアが不機嫌そうに失礼よと窘めれば素直に謝ってチラチラと視線を送るのをやめて向き直る。随分と聞き分けがよくなったものだとソーニアは思案する。口を尖らせて文句の一つでも垂れていたことだろう。
 運ばれてきた具だくさんのスープを見ると顔を綻ばせ、嬉々としてスプーンをとった。たっぷり入った色とりどりの野菜はミュラにとっては宝石箱を眺めているのと同等の喜びなのだろう。何せ彼女は一日二食、一食が当たり前の生活を行っていたのだ。しかも、酷いときならば、干し肉1枚やドライフルーツで餓えを凌いでいたという。こちらとは違い水にも限りがあり、満足に飲めることなど早々なかっただろう。常にギリギリの生活を送っていた彼女にとって、アゥルトゥラはどのように映っているのだろうか。幸せかそれとも満ち足りすぎているのか。いずれにせよ、当人じゃないソーニアの感覚でどうこう言える問題ではなく、目の前で幸せに浸る少女をぼんやりと見つめる。その時、ふと手を止めた彼女と目が合った。
「なぁ、今日もカンクェノ行くのか?」
 付け合わせのサラダを食べながらミュラが問うた。
「そうね。探索はしなくても様子は確かめておきたいし……」
「昨日の今日だぜ。平気かなぁ」
「ジャッバールもいるから平気だとは思うけどね。ミュラがお馬鹿なことしなければ」
「なっ! ば、馬鹿なことしねーし」
 鼻息荒く言い返したミュラをソーニアは普段通りの振る舞い、コロコロと笑う。だがしかし、彼女の内心は不安が渦巻いている。いつ、昨日のことが起きるやもしれぬ。あの時は多くのジャッバールの兵と多くの傭兵がいたから助かった。だが、もしもミュラとベケトフの二人、レアだけであの状況に陥っていたら……。身も凍る思いだ。曇る心を誤魔化すようにくし切りにされたトマトを食す。思い切り咀嚼してやれば人工的ではない自然な甘みが口いっぱいに広がる。やはりジャリルファハドには帰ってきて貰わなければならない。彼女達だけでは荷が重すぎる。いや、彼がいてもランツェール相手ではジャリルファハドですら持て余すかもしれない。
「まぁ、行っても行かなくてもどっちでもいいけどさ」
 落ち着きを取り戻したミュラは食事を再開するが、黒い眸には翳りがあった。彼女も似たようなことを思っているのだろうか。半ば上の空でパンを囓る彼女を真似てソーニアも一口大のパンを口の中へと放り込んだ。生地に練り込まれていたトウモロコシを噛むと少しだけ甘かった。

朝食を終えた後は買い物を済ませて家に帰ってくる。食休みとカンクェノに入る準備を含めた自由時間を思い思いに過ごしている。ふと、扉をノックする音が聞こえた。ミュラと声をかければソーニアに抗議の視線を送ろうとしたが、皿を洗っていると分かると寝転がっていたソファーから飛び降りてドアノブを回す。その様子をソーニアはバッチリと見ていた。
「ミュラ、鍵はかけてって言ってるでしょ」
 キッチンから飛んできた叱咤にミュラはフンと鼻を鳴らした。
「そうは言うけどさーソーニアだって鍵かけないときあるじゃん! 自由に入ってくださいって言ってるようなもんだぜ、ソレ。私だけに言うなよ」
「最後に入ったのはミュラよ。貴方が閉めるべきでしょ?」
「えぇー、最後の確認はソーニアだろぉ?」
「お前ら、もう少し静かに出来んのか」
 半ば呆れ気味に肩をすくめた人物は二人の見知った人物である。予想外の来客に思わず口を開けて呆けてしまったが、最初に呼んだときのように「ミュラ」と言ってやればすぐに瞳を輝かせて「どこ行ってんだよ」と頬を膨らまして責め立ててくる。相変わらず騒々しいことこの上ないが、変わってはいまいかと不安を覚えていたジャリルファハドにとっては杞憂であったと安堵することが出来たのも事実。岩のようにゴツゴツした掌が、柔らかくクセが強い黒髪を梳いた。無骨な手とは対照的にその手付きは優しく、ミュラも気持ちよさそうに目を細めた。
「少し伸びたか?」
「当たり前だろ。どれだけ離れてたと思ってんだよ」
 2カ月は経ってるぜと笑う。「あぁそうか」という言葉は出ずに心だけの呟きで。改めて時の流れを感じる。どうやら、己が思っている以上に長い時間、こちらを留守にしていたようだと実感する。いつの間にか手元から離れていたミュラは読みかけの本を棚に片付けている。代わりに赤毛の女性がジャリルファハドの前までやってきた。燃えるような赤毛、命が芽吹いている森を思わせる緑の瞳。忘れるわけが無い。眸に穏やかな光を宿す彼女をみるとミュラを任せて正解だったと実感させてくれる。
「おかえり。ジャリルファハド」
「あぁ。大事ないか?」
「おかげさまで。まぁ色んな事はあったけどね」
「ほお……」
 僅かに目を見開いたジャリルファハドの黒い瞳には興味が見え隠れしている。ソーニアは最初に話すべき事はやはり昨日での出来事だろう。
「座って待ってて。お茶を持ってくるわ」
 パタパタと小走りで台所に消えていったソーニアを見送り、ジャリルファハドは室内へと入った。テーブルやイスと言った生活最低限の家具は置いてあるが、調度品の類いは殆どない。強いても言うなら本棚の隣にある観葉植物くらいか。埃を被ってないところを見るとしっかりと掃除はされているらしい。
 ここには自宅に帰ったような安心感は無いが、なんとも言えぬ懐かしさがふつふつとこみ上げてくる。ふと、ソファーの方で音が聞こえたので、視線を移すと、ミュラがジャリルファハドに視線を送りながら、いやに嬉しそうに座面を叩いてる。ここに座れと合図を送っているのだろう。拒否をする理由も道理もない。ミュラの隣に腰を下ろすと人懐こい犬のように身をずいと乗り出す。
「聞いてくれよ。私、友達が出来たんだぜ」
「友達?」
「すっげぇ良い奴でさ、話をしたんだ。見た目はちょっと恐いけどさ」
 彼女に友達が出来るのは意外であった。ジャッバールのおかげでセノールに対しての誤解は蝸牛の歩みではあるが解けつつある。しかし、それでも大多数の人間が差別をしていることには変わらない。もしかしたら、彼女の友達とはアゥルトゥラの人間ではないかもしれない。しかしそれでも構わなかった。誰かと共に有るからこそ人間は生きていけるのであり、その世界に存在してると実感できるのだ。己が知る者が誰もいなくなったとき、その人間は世界に置いていかれた事に他ならないのだから。だから、彼女に友達が出来たことを素直に祝福しよう。
「そうか。大事にしろよ。畏友の仲になるやもしれん」
「いゆー?」  
 首を傾け疑問符をつけたミュラにジャリルファハドは苦笑いを浮かべ答えた。
「尊敬できる、生涯の友のことだ」
「へぇー。なぁ、ジャリルファハドにはいるのか? その、いゆー」
 ミュラの質問に変わってしまった昔馴染みの獅子が脳裏をよぎった。もしも彼女も自分もあのまま砂漠に留まり続けていたら畏友になり得たのだろうか。眉間に寄った皺は一瞬だった。隣に座る純真無垢な彼女はその僅々たる変化を読み取ってはいたが、どうした?と疑問が飛び出ることはなかった。ただ期待に満ちた目を向けてくる。
「さぁな、分からん」
「んだよ。居たらどんな奴か知りたかったのに」
「俺はこんな馬鹿と友達になった奴の顔を拝みたいがな」
「次、巫山戯たこと抜かしたら、一発入れるからな」
「ならその間に俺は三発入れてやろう」
「言ったなぁ……」
 胸の前に拳を二つ作り、ファイティングポーズの構えをとったミュラを止めたのは湯気が立っているカップを持ったソーニアだった。邪魔をするなと言おうとしたが、ニコニコと笑う彼女の姿が師匠と重なり、毒気が抜けてしまい、力が入っていた両腕がだらりと降りた。
 さて、本日のお茶菓子は少し失敗したからとタダ同然で貰ってきたスコーンが三つ。一番最初に手に取ったのはミュラだった。
「昨日、カンクェノで起きたことから話すわね」
 ソーニアの一言で子犬とのじゃれ合いを打ち切り、彪の目線がソーニアに向けられる。春の日の海原を思わせる静かな瞳が向けられる。そんなに身構える必要も無かろうとも思ったが、突っ込むのは野暮というもの。それよりも彼は早く何が起きたのか知りたいであろう。食器が擦れる音もそこそこに、ソーニアは昨日起きたことをゆっくりと話し出すのだった。


Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.129 )
日時: 2017/12/26 00:50
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 道すがら、すれ違う人々の賑わいはつい先程までの出来事を夢の事であるかのように錯覚させる。片や地下では凄惨なる出来事があろうとも、地上はこうも賑わいを見せる。地上の騒ぎはつい先日の事であるようで、けれどももう人々の記憶の端に小さく記されるのみの事実と化しているらしかった。当事者とまでは言わずとも、何かと関わりの多いスヴェトラーナにとってはそんな風には考えられやしないのだが。足早に歩む二人を気に留める者など誰もいない。場にそぐわぬ上等な格好であっても人混みには紛れられる。結んだ手の暖かさはさて、どちらにとってさいわいであるのか。
「おっと、嬢ちゃん! ……今日は連れも一緒か?」
 歩む中で己を呼んでいるらしい聞き慣れた声にハイルヴィヒは足を止めた。ほぼ同時にスヴェトラーナの歩みも止まる。人の良さそうな店主がゆるりと手を振っている。店先に並べられた林檎は赤々として。やや困惑を表情に宿すハイルヴィヒではあったが、ややうつむきがちになっていたスヴェトラーナはまぁ、と声を上げて赤々とした其れを輝く瞳で見つめ、ハイルヴィヒの手を軽く引いて店先へと歩を進める。先程までとは先導する側を変えて少女が傭兵の手を引き軒先にて、店主へ笑みを向ける。ハイルヴィヒは挨拶代わりに店主へ目配せするのみであるが、スヴェトラーナは微笑んだままで膝を折る。
「ごきげんよう、ご店主様。美味しそうなお林檎ですね」
「ははっ、ごきげんようお嬢様。ああ、今日のとっておきだ! もうちょいっと北のほうの……」
「……ボリーシェゴルノスクですか?」
 ぱちくり、と少女の瞳は瞬いて、其の唇は懐かしい地の名を紡ぐ。そうそう! と頷く店主を余所に、少女はさも、其れしか目に入らないとばかりに赤い林檎を見つめ手を伸ばしていた。慈しむ様にその表面に触れ、優しく撫でる。瞳に慈愛にも似た感情を湛えて、宛ら夢を見る乙女の様にゆるりと細める。――其れの購入を決定するまでにそう時間はかからない。買っても良い? という令嬢の問に、傭兵が否を出す事は無い。林檎を2つ、明日の朝食にメニューがひとつ追加された。
「…………人があり、営みがあり……街があり、国がある……そう、そうね……そうだわ」
 去り際、ポツリと令嬢が零す言葉は町並みの喧騒に消えていく。
 帰宅の後は全く、何事も無かったかのようにスヴェトラーナは笑顔を浮かべていた。ハイルヴィヒの配慮を余所に、寧ろ「さっき咳き込んでいたけれど大丈夫でしたか?」等と問うて小首をかしげ、不安をその瞳に宿し、ハイルヴィヒを見つめるばかりだ。そんなスヴェトラーナの様子に、ハイルヴィヒは困惑せずにはいられない。けれども何故を問う事がなかったのは偏に、語るべき言葉に悩んだ故に他ならなかった。夕闇の喧騒、或いは夜の静寂。此れより訪れる何れかをスヴェトラーナが思わないわけではない。ハイルヴィヒとて同じだ。
 翌朝も其れは変わらず、何事もなく少女の花唇は朝の挨拶を紡ぐ。清らかなる瞳を、ハイルヴィヒへ真っ直ぐ向けて。ハイルヴィヒとて違和感を憶えないわけではないスヴェトラーナは変わらない、何一つ。いっそ悍ましいまでに何一つ変わらず少女は其処に存在している。反感のひとつやふたつ、憶えられて然るべきであろうとハイルヴィヒは考えていたというのに。スヴェトラーナは相変わらず、いっそ慈愛すら其の双眸に湛えて微笑むばかり。起き抜けに朝食の準備の手伝いを申し出る程に、いっそ溌剌とすらしていただろう。其の柔い色の瞳の奥に何を隠しているのか、ほんのティースプーンひとさじ程すらも見せない少女の姿に一抹の不安を憶えるハイルヴィヒではあるが、かと言って何かが出来るわけでもない。朝食の準備はほぼ出来ている、後は焼くだけだからと少女へ告げて、腰掛けるように促すのみだ。

「ねえ、ハイルヴィヒ……貴女の服を、貸してほしいの」
 ハイルヴィヒは裏返そうとしていたパンケーキを取り落としかけて、慌ててどうにかフライパンの中へと落とした。碧玉は丸く見開かれ、椅子にちょこん、と姿勢良く腰掛けているスヴェトラーナを見やる。
「ああ、ええっとね……特別なにかあるわけではないの。でも、その……お洋服、せっかく新調するなら……ハイルヴィヒみたいな格好がいいなって、思っただけなのよ。……それで、そのぅ……どんな感じになるのかしらってちょっと、気になって」
 どこか恥じらうように、其の頬に朱を宿して少女は笑っていた。純粋だけを集めて、真白い部屋のなかで培養した様なスヴェトラーナを見ていたハイルヴィヒは、閉じた眼の向こうに白百合を思う。ハイルヴィヒが息を吐き出せば、スヴェトラーナはぴくり、と肩を震わせた。けれども少女が謝罪を紡ぐより先に、ハイルヴィヒはパンケーキと昨日の林檎で作ったコンポートを乗せた皿とサラダにベーコンを持って、ダイニングテーブルの方へと歩んでいた。
「お嬢様には、少々……いえ、大分大きいでしょうが、それでも宜しいのでしたら」
 小さな音を立てて、皿が机に並べられる。ハイルヴィヒの言葉を聞いたスヴェトラーナはその双眸を輝かせ、感謝の代わりに微笑んだ。そうしてそのまま立ち上がればフォークとナイフを取るためにパタパタと小さな足音を立てて棚の方へと向かう。星のような色をした淡い金の髪がふわりと揺れる。ハイルヴィヒは碧玉の瞳をつぅ、と細めてから振り返り歩めば、窓を開け放つ。白いレースカーテンがふわりと、風に揺れた。少しばかり冷えたこの時期の朝の空気は心地よい。柔らかな冬の朝陽は星の色を反射して煌めいていた。或いは、此れが月光であったならば。
 此の白い部屋での朝食も、幾度目だろうか。時には外へ出て食事をとる事もあった。手を繋いで仲睦まじくカフェで朝食を楽しむ少女二人を見た者も居るだろうが、これと言った問題は起こりやしなかった。いつ如何なる場所であっても、少女は星の色を煌めかせて、射干玉の夜の色と共に或る。部屋に響く音といえばシルバーと皿が触れ合うほんの小さな音のみだ。食後に紅茶を用意するのはハイルヴィヒの仕事だ。片方はミルクを多めに、砂糖をほんの少しだけ。もう片方はほんの僅かな砂糖だけ。ミルクティーをスヴェトラーナの前に置けば紡がれる感謝の言葉。いつも通りの光景、日常。少女が夢想し、享受し、受け入れてきた日々の一片。そして或いは、此度酷く不自然な光景だった。

 朝食の後、皿を洗い終えれば二人はハイルヴィヒの部屋に向かう。クローゼットにしまわれた服の数はそう多くはない。デザインも似たようなものばかりだったがそれでもスヴェトラーナはあれやこれやと選び取っては姿見の前で己に宛てがいどうかしら、なんて笑うばかり。背後に控えるハイルヴィヒも徐々に表情は穏やかなものになっていく。其の内に此れ、と定めたらしいスヴェトラーナはベッドの上へ服を幾つか並べ、自らもその横へ行くべくベッドへ登る。纏っていたブラウスのボタンをひとつ、ひとつと外してベッドの上へそっと置き、白いYシャツへ腕を通す。「ハイルヴィヒに包まれているみたいね。なんだか心地良いわ」だなんてスヴェトラーナが零すものだからハイルヴィヒは奇妙な熱を憶えてしまった。諌める言葉も浮かばず、咳払いを一つすればスヴェトラーナはクツクツと楽しげに笑うばかり。暫し穏やかな心地に二人は浸る。
「ハイルヴィヒ、あのね」
 少女は突如として口を開いた。ベッドの上に散乱した衣服の海の中で、元の服装へ戻る直前、ハイルヴィヒの白いYシャツに腕だけを通した格好のままで。背格好も大分異なる二人だ。一回りか、下手をすれば二回り程大きなYシャツはすっかり少女を包んだまま。
「私、考えて、考えて……ずぅっと、考えていたの。ハイルヴィヒがきちんと、私に色々伝えてくれたから」
 そう言いながら四つ這いになり、ベッドの縁に腰掛けていたハイルヴィヒの傍へとスヴェトラーナは歩み寄る。ギシリ、とベッドのスプリングが音を立てた。白い布地から肌は真白の色をして宛ら雪のような色だ。或いは白百合の花弁の様ですらあるか。少女の肩からは箒星が尾を引いてさらり、さらりと流れ行く。
「誰かを救う為に、何かを見殺しにしないといけない事もあるのでしょう。……私が尤も守りたいと願うのは他ならぬ、我が家を慕い、ついてきてくれているボリーシェゴルノスクの皆様……我が庇護下にある領民たる方々です」
 そう告げ、少女の白い腕が傭兵の身体へと巻き付いた。碧玉は丸く見開かれる。首だけを動かし少女のアイス・ブルーの瞳を、或いはアクアマリンにも似た其の目を見やる。驚愕は音も無く、二人の少女を包み込むのみ。少女が何時かに願ったささめごとは、けれども言葉を変えて、相手を変えて、守り手たる傭兵へと紡がれる。傭兵はただ、少女を見つめ静かに頷くばかり。彼女の決意は幾度か耳にしてきた。その度否定の一つも紡がずただ、頷くだけであったのは他ならぬ目の前の少女が現在、ハイルヴィヒの主に相違ないからだ。其ればかりでは良くないとは百も承知。されどハイルヴィヒに、少女の決意を無碍にする事はできなかった。
「ねえ、ハイルヴィヒ……私、貴女にとてもひどいお願いをするわ」
 ハイルヴィヒの耳元で、秘め事じみてスヴェトラーナは囁いた。息の音すら直ぐ側で、いっそ交わり融け合う様な感さえある。近い距離はこの空間にただ二人だけという事実を、ハイルヴィヒに強く突きつけて来る様だった。
「……何があっても私を、いえ……私の家を守って。そして私が私を守る術を、教えてちょうだい」
 彼女を守る事に異論はない。彼の日、彼女と共に或ると誓ってからこの生命すら彼女のものであるとハイルヴィヒは認識している。昨日に彼女に告げた言葉に偽りなど無く、少女の身を守ることこそ最善であると信じている。己の役目であるという以上に、其の可憐なる花を散らす事をハイルヴィヒ・シュルツは望まない。彼女のためならば命を投げ打つなど容易いことだ。勿論、時を見極めてこそではある。けれどもその時が来たならば、ハイルヴィヒは容赦なく自らの命を散らすだろう。其れが当たり前と言わんばかりに。けれども其れに唯一懸念があったとするならばスヴェトラーナという少女の“優しさ”なのかもしれない。彼女は自らを原因として他者を失う事を酷く恐れている。彼女が其れを過度に恐怖する理由は彼女の母の死であろう。されど其れは乗り越えるべき過去だ。彼女が宵闇への鍵を手にしたその刹那に、父へ突きつけた現実を、彼女とて見つめなければならないというのに。けれどもこの言葉は、或いは――。
「……お嬢様、それは」
 ハイルヴィヒは息を呑む。眉を僅かに動かして少女を見やる。己に縋るように巻き付いた腕から小さな震えを感じるのは気の所為ではないだろう。
「それは――或いは、誰かを見捨ててでも、貴女を守るべく最善を選び取って良い、という事で良いのですね」
 スヴェトラーナの腕に力が篭もる。無言は二人の間に重苦しく横たわり、ただ近く交わる様な吐息ばかりが其処にある。スヴェトラーナは返答をせずに、けれどただハイルヴィヒに縋る様に抱きついたままだった。少女の震えは大きくなる。涙している様にすら感じるが、其れが真実では無いとハイルヴィヒとて知っている。泣きたい心地であろう事は、痛いくらいに伝わってくるが少女は何も言葉にしない。他を切り捨てる選択を、少女は今でも望むまい。けれど選ばなくてはならない。とするならばひとつ、夢物語に幕引きを。此の世は閨に非ず、伽ばかりではない。その心身を考えなく暴くなれば、愛しき夢の中のみであるべきだ。零に近い距離で、スヴェトラーナの心音はハイルヴィヒに良く伝わっていた。
「…………ええ、ええ……そうね、そうよ……それでいいの。――選ばなくては、なりません。きっと。私の存在は、我が家の存在は、永遠のものではないのでしょう。けれど……望まれる限りは、そうでなくなったとしても叶う限り、今まで私達と共にあって下さった方々を何よりも優先したく思います」
 いつの日か、或いは近い日に、世の在り方が変わる事とてありえるだろう。驕りと言われてしまうとしても、ボリーシェゴルノスクを統べるベケトフの家は温情主義を貫き続けたという自負がある。其れはこれまでも、此れからも、何一つ変わらぬ事実であろう。父の治世を、スヴェトラーナが継げるのか、今だ少女自身不安を抱くがそれでも。父は何時か娘に家を継がせる気で居るらしいことをスヴェトラーナ自身理解している。其のために必要な事を少しずつ教わったという自覚もある。けれども同時に、少女は或いは、胎としての期待も背負うのだろう。家を繋ぐ事は少女であるからこそ叶う事。少女は其れに異論など或りやしない。吐く息すら震えてしまう。昨日の事を思い起こせば恐ろしさで心は潰れてしまいそうだった。恐ろしい場所に皆々が出入りしている。其の助けになりたいと思うもきっともう、此れは“取りこぼしてしまったもの”の一つなのだろう。協定を、との望みはある。けれど其れによって本当に守るべきものが傷つく結末など、見たくはない。固執する必要は或いは、無いのかもしれない。
「……お父様に、報告しないと。……全部。カンクェノへの干渉に関しては……お父様とてお考えが或りましょう。そも……あそこの現状をお父様がご存知でないとは考えがたいわ。――ねえ、ハイルヴィヒ。貴女はどうして、あそこに行っていたの?」
 少女の問いに、沈黙が生まれる。煌めくアイス・ブルーは真実を求め、碧玉を見つめていた。ハイルヴィヒは僅かに眉を動かし、黙りこくるも観念した様に、或いは何処か安堵したように口を開く。
「地下に、廓の下に……貴女のお家の祖先が過去、残された全てがある。其れを探すべく、視察管理の名目で、行っていました。……探索に関する命は今でも継続しております」
 その言葉に少女はそう、と小さく零す。そうしてややあってから再び、ささめごとの様に小さな声で、震える声で、ハイルヴィヒへと囁きかけた。
「……其れを、探しましょう。……きっと我が家に必要なものでしょうから。技術力も……人も。……多くが足りないわ、今のベケトフ……我が家には」
 そう言ってスヴェトラーナは柔く微笑んだ。ゆったりとハイルヴィヒの身体から腕を放して、小さく息を吐く。刹那伏せられた瞳が再びハイルヴィヒを見やる時、其処に鎮座するのは硝子玉の紛い物ではなく、水宝玉の様に穏やかに、けれども煌めく人の目であった。
「その為に……ハイルヴィヒ、私には貴女が必要だわ。……どうか私と共に或って。永遠は紡げずとも……叶う限り」
 その言葉にハイルヴィヒは頷き、身体ごと振り向き向かいあう。ベッドの上に居るスヴェトラーナの手を、ハイルヴィヒの白い手が握りしめる。銃を握り、命を奪う癖、何処か少女らしさを宿したままのその手で、清らかなる手を取っている。跪き、少女の白い手の甲に口吻を。少女が兄と慕う人の真似事はできやしない。到底騎士などという高潔なものにはなれやしない。それでもひとつ、誓うならば。
「――我が生命は、身体は、貴女だけのためにある。スヴェトラーナ嬢、どうか存分に私を、お使いください」
 騎士の誓いなどといった美しく、高潔にして美しいばかりのものではない。けれども猟犬は、其の手綱を確かに主に預けたというだけの事。否、主がようやくその手綱を握ったとも言えるか。目的を遂げる以外にも必要なことは多くある。少なくとも技術革新や人員確保は動くならば早い方が良いのだろう。後に、娘が父へ認めた手紙はそんな、自らの考えを綴ったものだ。何処かと協定を結ぶ事も視野に入れる事を進言しつつ、父も其れを思っているやもと思わないでもないが、何も記さぬよりはというだけの事。――結局二人が買い物へ出かけたのは昼も前の頃。あの地でも目立たぬ様にとハイルヴィヒが選ぶ服装に輝くスヴェトラーナの双眸には今までにない光が宿っていた。

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