複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.139 )
日時: 2018/03/04 16:25
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 仄暗い廓の中、奥へ奥へと流れて来るはずの冷たい空気が何故か止まっていて、彪は鎧通しの柄に手を掛けた。ミュラの背を押すため、刀を持たせたもののレゥノーラ相手に鎧通し一振りで敵うはずなどない。音も無く駆けながら散弾銃を手に取った。結露した木製の銃床はしっとりと手に馴染んでいた。それは暗闇の中に潜んでいる脅威に怯え、戦き、緊張の果てに冷ややかな汗を流しているかのようだった。死神はこの暗闇の中、声もなく悪辣に嗤いながらその瞳をぎらつかせているに違いない、喉元に背後から短刀を突き付けられているかのような緊張、緊迫した空気のそれは戦の匂いを醸す訳ではない、未だ感じた事のない身の毛が弥立つような感覚に苛まれ、彪は大きく息を呑んだ。何も出てくるな、と願いながら石畳の上を駆け抜けるのだった。
 ふと、右肩に走る疼痛に気付き、己の右手に目を呉れると鎧通しの柄が赤々と染まり、その鞘からは己の血が滴っていた。度重なる右肩への負傷、何らかの因果でも働いているのだろうかと呆れながらも左手で肩を抑えた。何れはこの腕すら奪われるのではないだろうか、と自嘲する。そうであったとしても。何れそういった結末を辿るとしても、化物と相見え、殺し合ったとしてもまだ死ぬ訳には行かないのだ。と己へと言い聞かしながら、ガウェス・ハイドナーから負わされた銃創の痕に触れた。あの場で死んでいてもおかしくはなかった、銃弾は急所に当たらなかった、己が信ずる神がまだ御許へ来るな、と天より突き返したのだろうか。
 冷えた廓の空気は傷に触れるのか、銃創痕の真上、化物にから負わされた傷が熱を帯びたように疼く。それに呼応するかのように、闘争の愉悦をもう一度味わいたいと、彪の得物は声なくして叫び、血を求めているかのようだ。だが、持ち主の思考は至って平静を保ったままである。熱を帯びず、果たさねばならない目的へ、ひたすらに向かい続けていられるのがせめてもの救いだろう。勝ち目のない戦はしない、そうやって死に行くのは唾棄すべき愚行である、と彪は己に言い聞かせている故の自制であった。
 階段を登り、上がりきった先、赤々と燃え盛る篝火が暗闇を晴らしていた。学者や、それ等に雇われた傭兵が幾人か見えた。彼等の視線の先には、ジャッバールの所有する多銃身機関銃が三基並べられていたが、ジャッバールの者達は居ないようで、模造と無断使用を防止するためにと多銃身機関銃からは、機関部にあるはずの歯車箱とそれを繋ぐ曲軸が取り外されており、弾の一発すらそこには無い。あくまで自分達以外には使用させず、技術の流出、設計の模倣すらも避けるべく努めているようだった。恐らくはハヤによる使用要領の一節にそういった機密保持まで明文化されているのだろう。
 はぁ、と深く息を吐き出し、石畳を再び駆け出した時であった。階下から妙な気配が伝わった。何かが息衝き、迫り来ているように感じられたのだ。意思もなく、ただただ本能に従って生きる獣のような肉の塊が、のたりのたりと覚束ず、まるで歩みを覚えたばかりの赤子のように不規則で、不自然な拍で歩み寄ってくる。地の底、そこを彷徨い続けた化物が迫り来ているように感じられたのだ。思わず止まった足取り、背後を見遣るなり、それは彪の視界に存在を主張した。暗闇から顔を覗かせ、それは彪を追い、一歩、また一歩と進み続けている。濁り、薄汚れたその白い肌、見つめるべく眼はなく、大きく開かれた口からは乳房上の歯のような物が顔を覗かせ、その後ろでは赤黒い巨大な舌が蠢いている。"それ"は四つの足で這い蹲り、躾のなっていない犬のように唸りながら涎を垂らし、背から伸びる四本の触手を持て余すのか、だらしなく石畳の上で引き摺っていた。
「……ケェーレフ、か」
 犬と渾名した者の感性を疑わざる得まい。巨大で醜悪、その様相はまるで人目を憚るかのように育てられた異形の白痴の如く。闇に潰され、盲いた目を頼りにその化物はただ這いずり回っている。犬というよりは芋虫のようだ、肥えに肥え、淀みと闇の中に滾る肉欲を満たしに満たし、卑しく、おぞましいその身を曝す恥すら持ち合わせていない。芋虫を置き去りにするように、彪は上階を目指して駆け始めた。のたり、のたりと摺るような足音が背後から離れず、それが幾度も幾度も反復し、廓の中で鈍く、短く響く。恐らくこのままでは地下へと戻れまい、ともすればこの"犬"を人の群れへと差し向け、強引に討つしかあるまい、このままこれを排除出来なければ、ミュラには悪いが彼女の判断でどうにかソーニアの安否、生死を暴いてもらうしかないだろう。
 一階、また一階と地上へと向かって行く。途中、銃声が階下より響いていたが恐らく、学者と傭兵が衝突したのだろう。そして、それ等が止まったという事は彼等が死した証と考えるのが妥当。名も知れぬ者達の死に悼む事などない。それよりも急がなければならないのだ、とただひたすら走り続ける。そうして辿り着いた第五十階層。人の群れはそこに確かに在り、多くの傭兵の姿も見られた。一様に得物を携え、それらは階下より訪れた彪へと注視する訳でもない。下から上がってきた一人のセノールにしか過ぎない。人垣、人の群れへと身を投じ、そろそろ化物が来るだろうか、と散弾銃の柄へと手を掛けた時だった。悲鳴、怒号が響き渡り、ケェーレフの名を呼ぶ声、あの化物の名を呼ぶ声と共に剥き出しにされた殺意と銃弾が飛んでいく。肉を裂き、撒き散らされる赤。化物の物も、人の物も混じりあい、無機質な廓を赤く、赤く彩っていく。鉄錆びた赤い沼の畔に立ち、物言わぬ骸を跨ぎ、化物へと迫る。触手に穿たれた人間の骸が、血の沼の中に斃れ事切れている。攻撃を浴び、化物は猛り狂っているようだった。
「──射線を開け!」
 退けと叫ぶ、その男はジャッバールの兵だった。多銃身機関銃の防盾、その向こう側、ハンドルに手を掛け今にも放たんとしている。防盾の向こう側の黒い双眸が睨むのは化物だけである。曲軸に嵌めこまれた箍が中空を舞い、ハンドルが回り始めた。撃たれては敵わないと、人垣を飛び越えた刹那、廓に一匹の獣が生まれたのだった。その獣は八つの頭から火を噴き、音よりも速く飛ぶ鉛の弾が"犬"の身を削いでいく。穢れた白と赤が飛び散り、篝火の朱を浴びたそれは言葉を紡ぐ事なくして、その存在を主張していた。
 これがジャッバールの武器か、と人垣の少し後ろで感心せざるを得ず、火を噴くそれに、人が人に相対し、血を流し争う時代の終焉が訪れたように思えるのだった。戦争、闘争、争い、暴力と血を好む事柄の在り方はこれからも変わっていく事だろう。それを示しているのは目の前で拉げた肉の塊となった、化物の骸である。それを忌々しげに踏み付けたり、死を確認しようと銃弾を見舞っている傭兵達を他所に、人垣を掻き分け、防盾の後ろで溜息を吐いている男の元へと歩み寄っていく。
「これが例の。初めて動いているのを見た」
「……ガリプか、態々こんな所まで何をしに来た」
 まさか化物を討つために引き連れ、上階を目指したとは言えまい。本来の目的であるソーニアの捜索について述べるしかないだろう。突然訪れた化物に、このジャッバールの兵も肝を冷やした事だろう。
「下で人捜しだ。……人手が要る。上層の者達を呼べとハヤがな」
「またか、分かった。すぐに行く、必要な物は」
「松明、灯りを有りっ丈持って来い。……頼んだ」
 "またか"と言う言葉が少しだけ気になったが、それを問うたならば己もまた言葉を語らねばならない。しかし、多くを語れば真を見出され兼ねず、手短に用件を済ませて踵を返していく。ハヤを出しに使ったような形になったが、これが最も自然に事を進めるには最良の手であったのだ。防盾の向こう側、ジャッバールの兵が小銃を担ぎ上げ、大声で同胞への指示を飛ばしているのが聞こえていた。事は上手く進んでいるようだ、と小さく笑いながら事切れた化物の傍らを歩む。銃弾で潰され、拉げ吹き飛ばされた肉の向こう側から顔を覗かせているのは骨だろうか。それすらも銃弾に穿たれ、その窪みに滴る赤い液体は凝固し始め、篝火の朱に照らされて光り輝いていた。それから少しずつ離れていく彪には、明かりに対する憧憬の念など存在していない、存在するのは暗闇を望むとも見えかねない焦りであった。落ちソーニアが死んでいたならば仕方のない話である。だが、もし未だに生き永らえているとしたら、無明の闇にて今も恐怖と対峙している事だろう。兵を率い、戦に臨む己とて化物へ恐怖を抱くのだ、戦地に身を置かず、血を流す事もなく、他者を殺めた事もない。そんな人間が恐怖に打ち勝てるとは考え難い。事は猶予を許さないと、もと来た道を急ぎ戻るのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.140 )
日時: 2018/03/04 00:17
名前: ポテト侍
参照: http://twitter.com/imo00001

 ガウェスが拾った手記の中身に目を通したのは深い意味はない。ただの気まぐれと純粋な好奇心、あわよくば廓について何らかの情報が載っていないかと僅かな下心であった。結論から言えば、レゥノーラについて重要な情報を得ることが出来た。もっと詳しく言うならば、先ほど彼の騎士が対峙した女型のレゥノーラの出生。物好きな学者ならばその内容に興味を持つことであろう。嬉々として顔を輝かせるだろう彼らとは違い、最後まで読み切ったガウェスの顔は普段よりも青白く病人の様であった。手記に呪いがかけられていたなどと馬鹿げたことを挙げるつもりはない。斯様なものが存在し得るならば、廓に入ってる者の殆どは死に絶えることになる。ただただ彼の気分を悪くさせたのはその内容。ただの遺書であったのならば十字を切りその者の安らかな眠りを祈っただろう。だがそこに書かれていたのは遺書などではなく、或る女も悲劇的な末路が描かれているのみであった。以下はその全文である。


 焼き火鉢を押し付けられている痛みで目が覚めた。いつからここに放置されていたのか、どのように此処まで運ばれていったのか皆目見当もつかぬ。私が空っぽの頭に辛うじて残している記憶は雇い主の吐き気を催すような邪悪な笑顔と耳を劈く発砲音が一発、火をあてられたような痛みと頭部を殴られた感覚、そして己が流した血の臭いのみである。このことから推察するに、私は雇い主に裏切られたのだろう。貿易を営み、各国から取り寄せた絢爛豪華な調度品、上質なマホガニーを使った家具が家内に多く鎮座していたから、金に糸目はつけない男だと考えていたが、どうやらそれは私の思い違いだったようだ。彼は傭兵に払う端金すら払おうとしないがめつい男だった。(尤も、相手の害意に気がつけなかった私にも非があるが……)
 ともかく、私は捨てられた。地獄の釜の底に。今、私の手元にあるのは吹き消えそうなほど儚い自由と衣嚢に入っていたベッコウ飴一つと愛用していた痛み止めが三日分あるだけだ。それ以外の持ち物は一切没収されていた。そんな中、手記と万年筆を見つけられたのは僥倖である。恐らく、ここで無念の死を遂げた何者かの置き土産だろう。遺品を使うのは些か申し訳なさを感じるが丁度良い。主人がいないのならば今度は私が手記の主になろう。自ら筆をとることは滅多にないが、体力が回復するまで、若しくは私の命が潰えるまでの僅かな時間、棄てられた女の暇潰しに付き合ってもらおう。
 そうだ、例え私が黄泉路に立たされることになろうとも、この手帳だけでも日の目を浴びると信じて、ここで起きた様々を記そうと思う。


 被弾箇所は右腕である。今日も痛みで目が覚めた。上半身を起こそうとしたが患部を針で刺されるような感覚に敢えなく断念する。着ていた服の一部を細長く千切り、に巻きつけてたものの、汚い布切れを巻きつけた程度の応急処置では止血くらいしか出来ない。弾は貫通しているが……、このまま放置しておけば破傷風になるだろう。早めの脱出が求められる。
 さて、この痛みでは二度寝することも出来ぬ。だので、今回は私のことを少しだけ記そうと思う。私はアゥルトゥラの生まれではない。ここよりも更に南にあるアレナルの小さな町で生まれた。痩せた大地に芽吹く命はなく、産業になり得そうなものもなかった。海原すら地平の彼方に青い線がゆらゆらと揺れるのを確認出来るのが精一杯で、あの町には荒涼とした大地が広がっているのみだ。もちろん、生活は裕福ではなく、両親も私と二つしか年が離れていない弟も、他人の命で金を稼ぐようになった。珍しいことではない、貧困に喰われないためには自分の体を食い物にするか、他人の命を食らって生き延びるしかなかったのだから。後悔はない。そして、紆余曲折が合って私はハイドナーに雇われたわけだが……。痛み止めが効いてきた。今回はこれでお暇させてもらおう。


 ふと、砂漠に残した弟子のことを思い出した。ミュラ・ベルバトーレという少女だ。彼女を見つけたのは赤ん坊の時。砂漠に残された遺跡群で声をあげて泣いていた。
 その時の私は二十歳近く、私は仕えていた貴族の命をうけ、あるレヴェリの男を追っていた。6尺を超える大男で何度か対峙したことはあるが、仕留めるには至らなかった。何度か土手っ腹に穴を開けたことはあったものの、何事もなかったかのように走り去っていった男の酷はくな笑みを、そして名前を私は忘れはしないだろう。そんなときに赤ん坊だったあの子を見つけた。熱線から逃げるように、遺跡の陰に赤ん坊だった彼女がいた。その遺跡群は50年前に起きた西伐の残り香で、セノールがアゥルトゥラ攻略に用いた拠点だとすぐに分かった。打ち棄てられた机や椅子、拾われなかった武器がぽつねんと床に捨てられた様は主人を待つ誠実な騎士の姿のようにも思えてしまい胸がキリキリと痛んだ。
 さて、話を戻そう。彼女のために殺そうかとも考えた。地獄で天使は生きられぬように、あそこは幼い子供が生きるにはあまりにも酷な場所であった。弱い者に与えてあげられるのは、死の安らぎのみだと思っていた。
だが、生きようともがく彼女に向かって如何しても引き金を引くことが出来なかった。考えてみれば、この時から傭兵としての私は死んだのか、若しくは私の命に何らかの価値をつけたかったのかもしれない。私は彼女を拾い、そこで生き抜く術を叩き込んだ。並行して私がかろうじて持ち得る、人としての道徳、常しきを教えた。
 様々な見聞が彼女のためになると考え砂漠から出ようとも思った。だが、私のことを血眼になって探している連中のことを考えるとどうしても一歩踏み出すことが出来なかった。だからおく病な私は彼女には、私とは縁も縁もない姓を与えた。いつか私の元をはなれ独り立ちするとき、障害にならぬように、飛び立つこの子の羽根をもがぬように、そして、私のようにならないようにと淡い願いを込めて。ミュラ・ベルバトーレと名前をつけた。いい子だったとも。やんちゃではあったが、好奇心旺盛で、これはなんだと訊いてくる彼女に答える度に偽りとはいえ、本当の家族のように思えた。
笑顔が素敵な子だった。学は無いが、私のような獣にならないでくれて、良かった。
だが、私は我が子にも等しい子を、捨てた。捨ててこちらへ来た。彼女には本当に非道いことをしたと思っている。アゥルトゥラにつれて行きたかったが雇い主が許可を下ろさなかった。二人分払うのが嫌だったのだろう。それでも普通に稼ぐよりも何十倍もよい値段だった。金が入り用だったとは言え、何も告げずに出て行った私を、彼女は待っててくれているだろうか。それともこの碌でなしの師を嘆き絶望して砂漠を出て行ってしまったのか。どちらにせよ、私はここを出て確かめなくてはならない。もしも彼女が待っていてくれたら、今度こそ彼女と旅に出よう。一歩を踏み出そう。そして様々なモノを見せてあげよう。砂と岩に囲まれた世界しか知らないミュラにとっては良い刺げきになるはずだ。早く出たい。
 そうだ。きっと上まで行けば人がいる。あぁそういえば金を取られているだった。どうやって関所を抜けよう。セノールと酷似しているせいで、面倒な輩はやって来ないが、関所の通過で苦労する。いっそ今度はジャッバールにでも雇って貰おうか。どうやら疲れが溜まっているらしい。頭が痛い。寝よう。


 きず口から細菌が入ったのかもしれない。患部が赤くはれてねつを帯びている。心なしか、頭もあつく意しきがぼおっとする。前に書いてからどのくらいの時が経ったのか分からない。窓が無く、何時も松明の火がもえている廷内では、日の入り沈みで一日をかくにん出来ない。負しょうし、しょう悴した体では動くこともままならない。天井から滴る雫を死人のようにしずかに眺めることが日かになっている。不自由な体になったものだと自ちょうにも近い笑みが浮かぶ。ほんの数日前が恋しい。
死にたくない。まだ死にたくない。体ちょうが崩れるとダメだ。悲かん的になるな、やりたいことがある。私は生きる。何としても生きる。視界が赤い。少しねる。


 誰かのささやき声がうるさい。言いたいことがあるならはっきりと言え。


体ちょうは、何とかよくなった。今日はなつかしい男と出会った。私があいつの名前を言ゆと、彼は唇をつり上げて「不様だな」と笑った。だがもうどうでもいい。一しょに連れて行ってくれなんて、私らしくもないみっともない言葉を言った気がする。すると男は、馬鹿にしたように鼻で笑い何かを口にした。それが、悔しくて悔しくて「冗だんさ」なんてうそはいて。馬鹿は私だった。私はもう、駄目かも知れない。あぁ、でも唯一つ、ただ一つ答えて欲しい。あの男とは一体どこで知り合ったかな。


イヤなゆめを見た。本当に、いやな夢だ。汗が、止まらない。頭が、あつい。灼けるようだ。あつい、あつい。痛い。【__解読不明の文字が連なっている__】

ようやく、いたみが治まった。汗がひどい。まな弟子をこの手で殺すゆめ、など、なんという悪むなのだろう。泣き叫んで命乞いをする、あの子の柔らかな表皮に私のえい利な、爪を突き立てて、焦らすように、ゆっくりと真横に裂くのだ。ゴボリと、音を立てて血が、湧き水のようにあふれ、目ん玉を、グルンと上に、回す。ひとみから、色が、消えて、赤い涙、を、流す。決して、みとめない、みとめないぞ、私は。彼女の首を掻き切った、しゅん間、おぞましいほどの、達成かんと、悦楽に、包まれていたなんて、私は信じない。


さい近わ、自分の名前、を、かくにん、することが、ふえた、気がする。とき々忘れて、し、まう。首か、ら、ぶら下げている、板をかくにん、する度に、自分が、自分であることを、かくにん、できて、安心する。さい近、物忘れが、ひどい。だからなのか、自分の、名前、を、確にんすることが、増えたような、気が、する。時々、忘れてしまう。首から、ぶら下げている、板、を、かくにんする度に、自分が、自分で、あることをかくにんできて、安心する。


ついに、レゥノーラと、そおぐうした。今まで、会わなかった、のが、奇せき、にも、ひとしい、だった。彼ら、は、私をみる、と「ゲッゲッ」と気味の、わるい、声をあげて、くるわの奥へと、引っ込んでしまった。何が目的かは、分からない、が、さい近、傷が、痛くない。良かった。直ったらしい。ひどい、ものに、ならなかっ、たのは、幸いだ。


久しぶ、りに人を、ころした。わたしを、なおそ、うと、してくれ、た人。仕方な、だろう。どうして、も、たんぱく、しつを、とる、必ようが、あった。だが、人のに、く、など、くえ、たもので、はな、い。すぐに、はき出す。
わたし、が生きの、こる、ためには、やむを、えなかったし、何、よりも、ここを、あらす不、とどきものを、へらす、ことが、出きたのだ。よろこば、しい、ことだ。


とても大切な子だたきがする。でもおもい出せない。まぶたのうらに写るくったくのないえがおをするこの子はだれだ?


が、くぜん、した。
きず口か、らながれ、た、のは、あかいえきた、い、ではな、い。ちのよ、うにあ、かい、か、がや、きをは、なつ、石。
ちだまりと、は、よべ、ぬ石、のた、まりば、にうつったわ、たしは、すでにわ、たひで、は、なかった。
も、しも、これを、みた、が、たのみ、ある。もしも、みゅらベるとーれ、と、こが、みつけた、ら、しん、だ、と、つ、たえてほ、しい。あと、ひと、りにし、て、すまな、かった、と、も。すき、に、いき、と、も。わたし、をわ、すれて、いいと。たし、し、んだ。もう一、ど、だ、け、太よお、を、あび、たかった。あの、子に、あい、か、った。ごめんね。


 そこからは何も書かれておらず、時間が経ち赤黒く変色した血のみが染み付いていた。パリパリと音を立てて捲れていくページを青い瞳が世話しなく追いかける。やがて端までたどり着くとぱたりと固く閉じられた。周囲に気を配り誰にも見られていないことを確認すると薄汚れた手記を懐にしまいこんだ。警鐘のように大きく高鳴った胸に手をあて、シャツに皺が出来るのもお構いなしに指先に力が込められる。ゆっくりと開けた口から出たのは声ではなく喧騒に打ち消されるほど小さな吐息のみで、彼がどれほどの傷心しているのか見て取れた。これを書いた人物を知らぬはずがなかった。「エルネッタ・バイエル」、かつてガウェスと同じ騎士団に所属し、武器を振るっていた彼女。そしてミュラの育ての親である人物がよもやこんな結末を迎えていたなんて誰が予想するだろうか。しかも、実父……ロトス・ハイドナーのせいでだ。彼女の無念は如何ほどだったのか、この手記を見れば想像に難くない。もっと早くここを散策していれば彼女が化生に落ちる前に救い出せたのではなかろうか。後悔に震える男の前を多くの人が往来しているが、チラリと横目で様子を確認するくらいでさっさと通り過ぎていく。薄情とは感じなかった。むしろ声をかけられないほうが安心して懺悔の海に沈んでられる。
 誰かに名前を呼ばれることもなく、ぼんやりと人の波を眺めているとふと影が落ちた。上を見上げると学者と目が合った。赤い唇でニィと笑った彼は悪魔というよりは最高の悪戯を思いついた童のようだった。しかし彼の口元よりも大きく円いレンズの向こう側、ヘーゼル色の瞳がガウェスの頭に焼き付いた。
「次の調査はいつに?」
「調査なんてあるものか。あんな物騒なモンが彷徨いてて。おまけに雇った傭兵共はあの様だ。野犬の方が良い仕事をしたんじゃないかね、全く」
 大げさに肩をすくめてガウェスの隣に座る。ブーツの靴紐が解けていることを指摘すると、照れ臭そうに笑って「誰にも言うなよ?」と笑いながら金貨を一枚握らせた。口止め料という意味も込められているのだろうが、先の功績分も含めてだろう。彼は傭兵の繋ぎ止め方を理解している。感心しているガウェスをよそに男は足をグンと伸ばし気の抜けた大きな欠伸をしていた。幸いにもガウェスにうつることはなく、代わりに彼からはこれからどうするべきかが形の良い唇から語られた。
「あれを仆したいならば、ジャッバールまでとは言いませんが、それに準ずる武器を手に入れる必要があります。化生すら恐れぬ勇猛な兵を引き入れるべきでしょう。このまま突入しても余計な血が流れるだけだ」
 難しいことを押し付けている自覚はあったが無駄な血が流されるより断然良い。男は眉間に深い皺を作り「そうか」と返事を返したきり口を開こうとはしなかった。学者の中でも潤沢な資金を持っていることは廓を調査する道中に嫌と言うほど聞かされた。父が高名な学者らしいが、ガウェスは聞いたことも見たこともなかった。見栄を張っているのか、他国からきたのか。だが、たとい金を持っていたとしてもジャッバールに準ずる武器がそう安々と買える物か。例え、買えたとしてもアゥルトゥラの物ではなく、値が張る。全員分設えようものなら研究費の殆どをそちらに充てることになる。勇猛な兵だって雇うにも金が要る。
「それでお友達はいないのかい? 君のお眼鏡に適う戦士は」
 頭が回り、腕っぷしが立つ知り合いがいないわけではない。だが、今の自分はガウェス・ハイドナーに非ず。ここでは彼は亡者として扱わなければならない。でなければ銃をかついだ鬼どもが再び地獄へと連れ戻しに来るだろう。主人を騙すことへの罪悪に苛まれつつも首を横に振った。
「いませんね。職業柄、お友達は作らないので。……少し席を外します」
「便所か?」
「いえ。ただの野暮用です」
「主人に言えない用事ねぇ」
 許可が下りないのではと、ヒヤヒヤしたが行ってこいの代わりに右手をヒラヒラと振ったことで安心して彼に背を向けられる。彼は周囲の人間にジャッバールとケェーレフが衝突したときの様子を聞きに行くのだ。ケェーレフが五十階層に侵入したと聞いた時、鎮静化していた正義の心がメラメラと燃え上がり、銃を片手に走ったが間に合うことはなかった。終わった後も片づけがあると現場に近づくことは叶わなかった。どんな様子だったのか近くの人間に話を聞こうとしたが、てんやわんやの大騒ぎで耳を貸そうともせず、時間をおいてから再度様子を訊くことにしたのだ。理由は、ジャッバールの開発した武器がどれほどの威力を持っているのかの確認と新種の戦い方の特徴を知るがため。誰に話しかけようか視線を泳がせているとたまたま目が合ったとある二人組。丁度いいとガウェスはうっすらと笑みを浮かべ、近づいていく。そして警戒されない様に優しい声で問うのだ。「さきほどあったレゥノーラとの戦闘、何かご存知ないですか?」と……。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.141 )
日時: 2018/03/09 09:35
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 眼前の光景に、少女は声を失った。嘆く間すら与えられなかった。ただぼんやりと、人の首とはこうも容易く飛ぶものなのかと眺めるだけだった。飛び散る赤は、花弁のように美しいとすら思えた。どうして、と問う間すらありはしない。選択を誤ったと気が付くまでにそう時間はかかりはしない。先に出会った傭兵の仲介で、彼の雇い主たる学者と言葉をかわす事は叶った。
「そうは言うけどなぁ……君たち2人を一緒に、か」
「……無理を申し上げている事は承知しております。……それでもどうか、ご一考いただけませんか」
 吐き出す吐息は僅かに震え、強請る様な瞳は強かにその色を細めながら言葉を交わした事は記憶に新しい。少しばかり悩ましげな瞳をした学者に後ひと押し、してしまえばよかったのかもしれない。芳しき少女の様な顔ばせで、震える吐息で絡め取る様に言いくるめてしまえばよかったのかもしれない。幸か不幸か、或いはこの場合は不幸であったのか。彼の知り合いらしい学者と鉢合わせ、急ぐならば彼らについていくといい、なんて恐らくは厄介払いか、または存外純粋な好意からそちらへ付いて来て、このザマだ。もはややり直しは叶うまい。背を向けて走り出すにはもう、遅かった。体のいい盾として扱われなかっただけマシかもしれない。
 それでも、震える唇は音すら紡げず、ただ蒼白とした顔面に僅かに、桃の色を添えるばかりである。呆けている間にも突如として腕をひかれる。アッ、と声を上げつつも手を引かれるまま暗がりへと引きずり込まれた。眼前にあるのは険しい表情をしたハイルヴィヒの顔である。彼女の名を呼ばんと動きかけた唇には黒い手袋で覆われた人差し指が押し当てられる。静かに、と目で告げられればスヴェトラーナは黙り込むほかあるまい。視界が滲むのは何時以来だろうか。今更震えてくるスヴェトラーナの身体を、ハイルヴィヒが抱きしめる。
「……お嬢様、どうかこちらで……静かに、おとなしくしていてください。約束です」
 耳朶に流れ込む言葉に、スヴェトラーナは頷くしかできなかった。貴女は、と問う言葉は音にすらならず震える息にしかなってくれない。腕を離し銃を手に取るハイルヴィヒの姿を、水宝玉の瞳は怯え混じりに見つめていた。あるいは此処で、彼女を失う可能性も其の瞳の奥に描けば恐怖に震えは止まらない。恐ろしいと、悍ましいとすら思う。容易く摘み取られる花は、己のみでいいというのに。怒号と銃声と、咆哮にも似た声が入り交じる空間を直視しなくてはならないと理解しているのにこの身体はピクリとも動いてくれなかった。まるで、氷像にもで変えられたかの様に。固まる少女耳元に、傭兵の唇が迫る。大丈夫です、とその耳元で囁いて優しい口吻を一つ。物陰から現状を見るハイルヴィヒはポケットから取り出した錠剤を噛み潰し、刹那、息を吸い込んだかと思えば地を蹴り飛ばし前へ出た。同時に、銃声は2つ。スヴェトラーナの知らぬ言葉でハイルヴィヒが幾つか言葉を吐いて居る事は把握できた。此の空間で、彼女の声はよく響く、低くとも確かに少女らしさを僅かに孕む、甘い声だった。その実、零す言葉の意味がとても少女らしからぬものである事をスヴェトラーナが知る由もない。耳をふさいでしまいたい衝動だけは押さえ込んで、先程告げられた通りに物陰でただ黙して、涙をこらえ震えていた。祈るしか出来ぬ己の無力を呪えど今更どうしようもない事だ。ハイルヴィヒとの間にある約束じみた契約は何があっても守って欲しい、というものだった。仮令、誰かの命を犠牲にしても。酷い命であったとこんな時に改めて実感してしまう。はた、と思うのはそうだ、酷くエゴイスティックな思考である。ハイルヴィヒもまた、己と共に此処に隠れていればよかったのに、なんて、酷いこと。抱きしめて、囁いてくれる暇があったならできたろうに、なんて恨み節すら浮かんでくる。その実、ハイルヴィヒも其れを考えないでもなかった。けれど恐らく、此の面子でアレを退ける事は叶わないと踏んだ。隠れ続けて尚アレが残る様ならば、そして此方に気がついたら、どうしようもない事態になる可能性を思った。これは賭けに等しい。けれど程よく引く術を知らないわけではない。ある程度の所で適当に撒いて、スヴェトラーナと共に下か上か、どちらかへ逃げてしまう算段だった。迷いが己を弱くするとしても、此の決断に迷いはない。慢心はしない、細心の注意は常に払い続けるべきだ。一人で事をどうこうしようという気はないが、急ごしらえの面々で協調性を図るというのも無謀というものだろう。周囲を見やりつつ動かなくてはならない、というのは少なからずハイルヴィヒにとって不自由を強いられるに等しい。急ごしらえの身内とは言え、味方からうっかり流れ弾を食らう莫迦は避けたい。周囲からの悲鳴にも似た怒号も、咆哮か鳴き声か定かではない其の音も、今のハイルヴィヒには些細な雑音として処理されていた。照準を定め、引き金を引く。確かに正確に急所であろう箇所を撃ち抜けど死に至る致命傷までは中々与えられない。舌打ちをする間にも一人、一人と物言わぬ肉塊と化していく光景に対して想うことと言えば、スヴェトラーナが此の惨状を見ずにいてくれる事を祈るばかりであった。おかしな事柄ばかりだが、それでも進むためには此の化物を殺すか、或いは退かせるしかあるまい。敏い少女ならばきっと、己がいなくなろうと上へ向かう事を選び取れると傭兵は信じていた。幾度目か、引き金に指をかけた折に突如視界がブレた。せり上げてくる不快な感覚に思わず口元へ手をやった瞬間、背に大きな衝撃が走る。アッ、と声を上げる間もなかった。背後に支えとなってくれかけた壁はガラガラと音を立てて崩れ落ち、それから――。

「ハイルヴィヒ……ハイルヴィヒ?」
 すべての音が止んだ時、怖ず怖ずと顔を覗かせた先に広がる光景を、現実とは認めたくないが認めざるを得ないだろう。それでも真っ先に、今一番に求める人の名を無意識に呼ぶのは現実を、現実として処理するための思考が追いついて居ないからだ。歩を進めればピシャリ、と小さな音を立てて赤が跳ねる。やや茶に汚れた白いソックスに花が咲く事など気にもとめずに、スヴェトラーナは歩みを進めた。遺体の数を数えて、顔を確認出来るなら其れを、出来ずとも服装を見やれど確かなことは一つ。“ハイルヴィヒ・シュルツが其処には居ない”という事だ。白いリボンを靡かせる黒い長髪を探そうとも、其の姿は無く。黒いジャケットと白いYシャツの整った格好を見つけようとその体は少女のものに非ず。ならば彼女は、と周囲を見回し、ぞ、とした。ポッカリと壁にあいた穴は、記憶の限り先程まであったものでは無い。血の気が引く様な心地だった。踏み出そうとする足は全く動いてくれない。前へ、前へと向かわなくてはならないと思えど、其の穴から下を覗く事が、彼女の名を呼ぶ事が、只恐ろしい事の様に思えて仕方がなかった。返答がなかったら? もしも其の穴の先に――。
「っ……ふ……ぁ…………」
 崩れ落ちそうになる足をどうにか踏ん張って、赤く、絨毯がかかった様な壁際へ歩みゆく。手を付けば生暖かくぬるりとしたものが手袋に触れるも、気に留めてはいられなかった。震える手で、足で、滑りそうになりながらもどうにか其の穴の傍へ向かうまでにひどく、長い時間がかかったような気がしていた。実際は、10分も経っていないのだけれど。――覗き込む穴の先にあるのは、暗闇。はらはらと流れる雫がはるか下方へ落ちていく。その先にあるものなど、分からなかった、見えなかった。ハイルヴィヒ、と震える声で呼んでも返答は無くただ、声が響くのみ。何も見えない、と言うのはまた或いはの可能性を想起させる。うつむいているばかりではいけない、とわかっているのに、理解できているのに。顔を上げられない。いっそ此処から飛び降りれば、と思えど足は竦む。己の無能さに、非力さに、何もかもに嫌気がさす。誰かのように優れた力など持っていない。どうしようもないただ一人の娘である。為すべき事を思い返し、なぞり、それでも震える声でもう一度だけハイルヴィヒ、と名を呼んだ。ひどく、弱々しい声で。月明かりすら刺さないこんな場所では、何も見えやしない。手を伸ばすことすら恐ろしいと思う己自身にただただ嫌気がさすばかりだ。ふさぎ込んでしまいたかった、もう嫌だと嘆きたかった。けれど、ふさぎ込むばかりでは、誰一人救えない。或いは救える可能性すらも潰してしまうことになる。奥歯を噛み締め、少女は顔を上げる。赤く染まる瞳も、わずかに上気した頬も、其の癖ひどく冷える身体も、何もかもをそのままに。けれども此の心に宿る僅かな希望だけを頼りに一歩、また一歩と歩みを進める。一人で歩む道は、こんなにも静かなものだったか。2つに結いた金の髪も、新たに設えた手袋も、その服も靴も斑な赤に染まってこそいるが無傷であるのは幸いだった。これに痛みでも加わっていたら、と思うとつい、スヴェトラーナは自嘲じみた笑みを浮かべた。ハイルヴィヒはきっと、もっと痛かろうに、なんて。或いはこの心がありふれた心であるとしても。一人で此処に居るという事がどんなに愚かしいかなんて、スヴェトラーナとて分かりきっている。けれども足は鉛の様に重くて仕方がない。喉奥にせり上げてくる不快感をどうにか飲み込んで一歩、一歩と上へ向かう。其の途中、聞こえてきた繰り返される銃撃音に肩が跳ねた。それでも冷静に一歩を踏み出す事が叶ったのは、50階層の光景を薄らとでも記憶していたからだ。チャリ、と音を立てた左耳のイヤリングに触れて、深呼吸を。その後、早くしなくては、と思うのは謎めいた確信を――ハイルヴィヒの生存をなぜだか確信できたから。盲信であると言われれば、そうであるのやも知れぬ。かと言ってこの感情を押し殺して、留めてしまっては歩む理由すら失ってしまう様な気がした。徐々に酸化して赤黒くなった誰かの血が分からぬ鉄の香りを纏えど、今は其れを気にする余裕はなかった。
 向こうに煌々と輝く人々の存在の証に胸をなでおろす。それでも急がねば、という感情は抜け落ちない。漸く階段を登りきった折、向こうに見える、倒れ伏し動かない肉塊に何故か、胸が締め付けられる感覚を憶える。正しい事とわかっている、納得もしている。これが間違った事だなんて思っていないし、ましてや可哀想、なんて思ってもいない。それでも何故か、喩えるならば恐らく子を失った母の心とは、これをさらに悲哀で覆い、悲痛の涙で満たしたものなのではないかとすら思う程には。ざわめくばかりの周囲は、たった一人顔を出す少女の存在になど気が付きもしないらしい。安堵の息を吐くにはまだ早い。相変わらず重い足を動かして留まらず、前へ。歩むうち、周囲のどよめきが此方へ向いている様な感覚を憶えるも其れに構う間は無かった。頼れる誰かを、と思って浮かぶ人は、どうして。
「……おにいさま?」
 其れは或いは、ひどく不用意な発言であったのかもしれない。けれど、驚愕に見開く瞳で、震える唇で、そう呼ばずにはいられなかった。ひどく、懐かしい心地だった。郷愁にも似た感情だった。頼れる誰かをと浮かべたうちの一人、出会うことは或りえぬはずの人。声が震えていた、どうしたって多分、上手く言葉を紡げていなかっただろう。それでも、懐かしい陽溜まりの香りを確かにおぼえている。あの温かな空の色をおぼえている。二人組と何か話しているらしい柔らかな声だって、忘れるものか。駆け出しそうになるも、其れを阻むのはひどく重苦しい足だった。ともすれば、こればかりは幸いであったやも知れない。喘ぐ様に息をしながら、空気を吸い込むのすらやっとな心地でずるずると歩みを進める。其れは、本能的な歩みであったのかもしれない。火の灯りしかないこの空間で、ただ優しく、けれども眩しい光に釣られる様に、一歩、一歩とただ歩む。荒くなる息をどうにか整えようと必死で、周囲のどよめく様な声など少女には聞こえなかった。血に塗れた少女の存在に気付く誰かが、何かを叫んでいる様な気がする。其の声ですら、今のスヴェトラーナには遠く、何処か別の場所から聞こえてくるただのざわめきの一つに過ぎない。彼と語らっていた二人も此方に気付いたらしい。ぎょ、とした目で此方を見ている。ちらり、と視線を去り際の二人へくれてやれば驚愕の表情のまま、その場に固まってしまった。ちょうど会話が一区切りでも付いたところであったのか、少女に知る術はない。それでもごめんなさい、とも助けてほしい、とも口にできぬままただ一歩、また一歩と三人、否、実質的には一人の元へ歩みゆく。何か言われるより先に、言葉をかけられるよりも先に、と言う意識が何故か芽生える。焦燥であり、或いは淡い歓喜ですらある。名も無き花の如く、気高くなれぬただ柔らかな少女のまま、声が聞こえるであろう範囲に急げば詰まる息を吐き出した。
「……ハイルヴィヒ……いえ。私の護衛が……壁が、崩れて……きっと、下の、方に……っ」
 必死だった。伝えたいことが纏まっているのに吐き出される言葉はてんで纏まってなんかいない。天上に煌めく三日月があれば或いは、けれど地下に、月の光は届くまい。優しき月光に包まれし夜は此処には無い。されど日輪の如き輝きならば、仮令その拠り所を失おうとも確かに、此処に在る様に感じられた。懐かしい人或いは其れに似ただけの誰かが口を開くよりも前に、声を絞り出す。
「名も知らぬお方に、お願いするのも……妙な事とは存じております。でも……どうか、ご助力くださいませんか」
 あくまでも、他人同士。其れを貫かねばなるまいと理解している。故に、心の何処かで違和感を憶えながらも少女は切に言葉を紡ぎ、頭を下げた。水面を湛え、潤む水宝玉から、雫がこぼれ落ちぬ様にと必死に押さえ込みながら、少女はまた懇願する。どうか、と。柔く震える声を隠すことなんで出来なかった。情けでいい、ほんの僅かな哀れみで十分だ。恐怖に溺れてしまうその前に、歩む道すら見えなくなってしまう前に。無理は承知だった、駄目と突きつけられれば其れまでだ。それ以上は無い。別の護衛を探せと言われてしまえば其れまでで、けれど彼女でなくてはという理由を明確に少女は口にはできない。ただ、尤も信頼できる人が彼女であるという以外の、何ひとつは。
「何かのついででも、構いません。行けるところまでお送りいただくだけでも構いません」
 それでも少女は言葉を紡ぐ。永遠ならざるも、永久を誓った人を求めるように、言葉を選ぶ余裕など無かった。息が荒い、上手く酸素を吸い込めない。気分が悪くなってくる様ですらあるが、震えたままでも、言葉を止める事はなかった。
「……どうか、どうか……お願い、します」
 言い終えれば顔を上げる。恐らく其処にあるはずであろう青空の色を求めて、水宝玉は柔く煌めく。願いを、祈りをただ、今は見えぬ空の輝きへと込めて。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.142 )
日時: 2018/03/10 01:28
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 僅かな明かりだけが闇を照らしていた。理屈は分からないが、青白く光る石が壁に埋め込まれており、それが道を示している。その輝く石を頼りに、壁へと右手を付きながらソーニアは歩み続けた。彼女の表情には僅かの苛立ちが見られた。その原因は額からの流血や、体中彼方此方に出来てしまった擦傷、ひりついた痛みが不愉快であるからだ。極めつけは全く使い物にならない左腕だ。全く力が入らず、無理矢理動かそうとすると激痛が走り、視界にちかちかと火花が走る。恐らくは肩が抜けてしまったのだろう。これでは銃など持っていても自衛すら侭ならず、走る事すら難しいだろう。出来る事は息を殺し歩み続ける事だけだ。本来ならば落下位置から動くべきではない。恐らく上階からジャリルファハド達が捜しに来るだろう。そこまでの憶測出来るのだが、僅かな好奇心に駆られて歩まざるを得なくなってしまったのだ。それは何故かといえば区画に僅かな見覚えがあったからだ。嘗て"ベルゲンの書斎"で見た間取り図に似通っているのだ。螺旋を描くよう、緩やかな勾配が地下へと誘う。間取り図通りなら、七回角を曲がれば開けた区画に出るはずだ。その先に何があるかは分からないが、それを確かめなければならないだろう。その途中、ジャリルファハド達が追いついたならば大手を振って歩める。安心できる道中だ。一本道故、彼等ならば追いつくのも容易いだろう。
 一回、二回、三回と角を右に曲がり、回数を重ねる事の五回。心なしか青白く光る石の数が増え、闇が晴れつつあった。その光りはとても安らぐのだが、何故だか集中が散漫となり、額の傷や左肩の痛みが和らいでいくように感じられた。余りもの心地よさに遂に歩みが止まり、はぁと吐いた溜息と共にソーニアは腰を下ろしてしまった。何者かが耳元で「休んでいけ」と言うからだ。それは聞き覚えのある声だった。だが、誰の物なのか分からず、ソーニアは再び溜息を吐いて目を瞑った。少し棘があって、よく通る声。いつもあんな声で威勢良く語り、笑い、廓と地上を忙しなく走り回っていたような気がする。短く切り整えられた赤い髪が、ぱたぱたと揺らめき、落ち着きのない躾られていない犬の尾のようだと揶揄した事もあった。それも実の姉の──。
「キ──」
 目を見開き、名を呼ぼうとした。だが、しかし。先と全く違った状態に言葉が詰まり、ソーニアは逃げ場などないというのに身を後ずさる。先まで青く輝いていた廓は赤く染まり、眼前に佇むは左腕を失い血を流しに流す、亡霊であった。明るく、彩度の高い赤髪は血で濡れ赤黒く変色していて、乾いたそれの欠片が石畳の上へと音もなく落ちて行く。ただ彼女はそこに佇むばかりで、何も語る訳でもない。赤の差した深緑の瞳が、昇天定まらずただただソーニアを見据えている。鼻筋を伝い、顎から滴る血を拭い取りながらソーニアは亡霊を見据える。何をしてくるでもない、それであったが恐れを持つのは当然の事。目を背けたい現実を直視し続けながら、自分は幻覚を見ているのだろうか、と思案する。ならば成す事は一つしかない。
「今更、化けて出るなんて悪趣味。しかもこんな時にだなんて──」
 矢継ぎ早に飛び出る罵声は止まる事を知らず、終いには崩れ落ちた瓦礫を投げつける始末。それはごつりと鈍い音を発する訳でもなく、亡霊へと当たりその深緑の瞳は閉じられた。死せど止まらず、ただ流れる血の滴は飛沫と化し中空を舞う。血を流しながら、にやりと張り付いたような奇態とした笑みを浮かべるそれは霧散するかのよう、赤い光の中へと散っていく。宛ら血の霧の如く。薄れ、消え行きながら彼女は何かを口にしていた。それは音もなく、誰の耳にも届かない言葉であった。
 姉の形をした亡霊、そのおぞましい姿に閉口しつつソーニアは額の血を拭う。厭にざらつく、不愉快な感触が血の中に混じっていたが、恐らくは傷口に砂利の類が入ったのだろう。痕にならなければ良いのだが、と傷を気遣いながら、壁に手を付き立ち上がり、更に奥へと進んで行く。その足取りは重く、何者かに足を掴まれているかのよう。ソーニア自身もそんな倦怠感に似た、言い得難い感覚に苛まれ不快感を覚えている。
「──るわは……さ、い」
 濃すぎる赤の向こう、消え入るような声が聞こえ、それは全く聞き覚えのない声であった。しわがれ、痰の絡んだような歪み、ざらついた声だ。老いに老い、終の見え始めた人間のそれだ。先のように甘言を囁くでもなく、その逆でもない。だというのに声は鳴り止まない。それでも歩みは止めず、遂に開けた空間へと出た。目先には伽藍が広がり、その最奥、闇の向こうには更に通路が見られた。恐らくは地下に続く通路だろう。濃すぎる赤は何時の間にか晴れ、辺りは全くの闇と化している。この奇妙な現象、状況を委細記録に録らなければならないと、鞄から手帳を引っ張り出すと鉛筆を走らせ始めた。手に付いた半渇きの血液が赤黒く紙を汚し、己の崩れかけた指紋が手帳に広がっていく。ある程度の状況を記録し終えると小さく溜息を吐き、手帳と引き換えに水筒を取り出した。まだ全く手を付けていないそれは水で中が満たされている。一口だけ飲み、水筒片手に元来た道を見遣った。ソーニアの視界にあるのは朽ち掛けた石畳、それの上に積み重ねられた石壁。赤は愚か、青白く光る石すら見られない。だというのに闇は薄く、視界がはっきりとしている。何時の間にか声は鳴り止み、ソーニアの足音、衣擦れだけが廓の中に聞こえていた。時折、かつんと甲高く、短い音が響くがそれは単に小銃の銃口が床に当たっているだけの事、何も恐れる事はない。幸いにも此処にレゥノーラは居らず、強いていうならば先程から起こり続けている奇妙な現象が不愉快なだけだ。
「……変ね、今更だけど」
 一人ごち、ソーニアは踵を返した。心なしか左肩が痛み、参ったなぁと溜息を吐いた。
 やはりこの廓はおかしな物で溢れ返っている。レゥノーラも勿論の事ながら、散見される壁に刻まれた文字や、まだ誰も辿り着いていない最下層、現在、ジャッバールに占拠されている"ベルゲンの書斎"と枚挙に暇が無い。此処は命を掛けるに相応しい場所だろう。そう思えるとこの怪我、落下も一つの経験なのだと何処までも前向きで居られ、心なしか足取りは軽くなるのだった。ふと、伽藍へ振り向き、闇を睨む。後ろ髪を引かれるような思いなどない、また何れ此処に来る事もあるだろう、その時まで先へ進むのは止めておこう、その前にもう一度だけその異質で、異様で、恐怖すら抱かせるその佇まいと記憶に焼き付けておきたいだけの事なのだ。
 ぼんやりと暫く見つめ続け、ソーニアは漸く歩み出した。元来た道を戻り、角を幾度も曲がって行く。闇を一歩、暗がりを一歩。明かり一つない道をまた一歩。そうやって歩き続けるうちに自分が落ちた場所へと辿り着く。天井の穴を見上げるも、明かり一つ差し込まない。妙な事もあるものだ、と瓦礫に身を預けた後、逃げるようにソーニアは横になった。冷たく、硬い石畳は寝心地が悪い。外で寝ているのと対して変わらないなぁ、と小さく笑っていた。救助はまだだろうか、まだジャリルファハドは来ないのだろうか、と欠伸を一つだけして目を閉じた。瞼の裏では先の妙な体験が鮮明な映像として、繰り返されている。青から赤へ、亡霊が訪れ闇に声が響く。伽藍の先の闇は深く、好奇心とも恐れとも知れない何かが胸の中を去来する。何故、今の今にキラが姿を現したのだろうか。そもそもあれはキラなのだろうか。何かを言おうとしていたが、何を伝えたかったのだろうか。あんな死に顔、死相を曝して事切れたのだろうか、と思い至る内、早く彼女を見つけなければならないと、廓に立ち入るようになった理由を思い出し、瞳を開いた。深緑の瞳は暗く、何処までも続く闇を睨む。
「────ニア!」
 闇の向こう側、声がしている。何処か溌剌としていて、よく通る声だ。からん、からんと何かが壁にぶつかっているのか、拍子木のような音が短く聞こえて来る。降りてくる、人が降りてくるのだろう。多分、あの声はミュラだ。篝火が闇を朱色に照らし、縄梯子を支えているセノールの顔がよく見えた。彼等は何かを叫び、その声に反応するように見知った顔が此方を見下ろしている。少し慌てた様子でミュラが縄梯子に手を掛け、降りてこようとしていた。ジャリルファハドの姿は見えないが、彼はどこに行ってしまったのだろうか、と少しだけ不安を覚える。
「ミュラ! ジャリルは!」
「まだ来てない! 今行くから待ってろ!」
 叫び問えば、よく状況が掴めない返答が帰ってくる。まだ来てないとはどういう事だろうか。何かあったのだろうか、と憂慮せざるを得なかった。壁に手を付いてゆっくりと立ち上がりながら、ミュラを待つ。彼女は手提げ灯を持っており、その明かりがゆらゆらと揺らめいている。それが厭に眩しく、ソーニアは目を細めた。闇に目が慣れてしまったせいだろう。
「怪我してんじゃん、大丈夫そうにないなぁ」
「ちょーっと左肩をね」
 全く動かない、と穏やかに笑いながらしっかりと動く右腕でミュラを引き寄せた。そうして肩以外は何ともないとアピールしたつもりだったが、ミュラの表情は心なしか硬く、黙りこくったままソーニアを見つめていた。何か付いているのだろうか、と右手でコートを払うも別に何もなく、額の傷に触れるも血はすっかり乾き、止まっている。
「……何?」
「目、目だ。おかしい。……なんだよ、それ」
 目と言われようと鏡など持ち得ない、何の事だと疑問を覚えながら首を傾げる。目に怪我などしていない、何の違和感もない。強いていうなら明かりが眩しすぎて、直視出来ない程度の事。これも何れは目が慣れれば解消される事。ソーニアに出来る事はミュラの困惑が消えるよう、いつも通りに笑う事だけ。健在を主張するだけ。
「行きましょ」
 そう短く声を上げ、縄梯子へと手を掛ける。左手だけでも辛うじて上っていけるようで、ソーニアはするすると一人でに上がっていく。落ちる前と変わってしまったソーニアに違和感を覚えながら、ミュラは彼女が今まで居たであろう暗闇を睨む。石畳は途絶え、一面壁で埋め尽くされている。何もなく、この狭い区画で何があったのか、とミュラは想像するも、一つだけ身震いをしてソーニアの後を追うのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.143 )
日時: 2018/03/17 15:18
名前: ポテト侍
参照: http://twitter.com/imo00001

ケェーレフを連れてきた男はセノール人だったらしい。いや、連れてきたというよりは追いかけられて五十階まで逃げ込んできたと言うべきか。彼はここまで来ればケェーレフを倒せると踏み、事実そうなった。どんな容貌をしていたのかと聞いても大した情報は得られず、犬の化け物はジャッバール特製のガトリング砲で蜂の巣になってその命を終えたということだけが今回の収穫である。礼を言って端が少し欠けている銀貨を渡し彼らと別れる。予想外の駄賃に二人組は「またな」と手を振るが一期一会の出会いだ。もし仮に会ったとしても敵同士の可能性だって十分にある。ガウェスは手を振り返すことはなく持っていた水を口に含んだ。
 さて、雇い主が動かないという以上、彼にできることはジャッバールの目に留まらない様に廓についての情報を集めるに他ない。広間で石像のように息を殺していようかと思った矢先、控えめに声をかけられた。廓では聞き慣れぬ、大人になり切れていないふわりとした少女の声。普段の癖で笑顔を浮かべ「はい」と振り向くと、その表情が一瞬にして固くなる。白磁のようなシミのない肌、サファイアの瞳、金糸を集め編み出された髪。子供らしい円みを帯びた鼻先をスンと鳴らして視線を下へ下へと落としたスヴェトラーナが居た。切れ切れになった言葉を繋げ合わせるにハイルヴィヒが崩れた壁の外に落ちて行方不明になったらしい。ふるふると揺れる睫毛が憂いを誘い、悲壮感よりも泡沫の様な儚さを滲ませている。今にも大粒の涙を流し崩れ落ちそうになっている少女を前に、ガウェスは何を為れば良いのか、なんと答えるべきなのかを完全に見失っていた。「おつらかったでしょう」と同情し優しく抱擁すべきか、「急いで助けに行きましょう」と意気込み武器を持つべきなのか。失意に沈む少女を慰める術は知らず、「あぁ」と小さく声を漏らすのみ。そもそもスヴェトラーナがここにいること自体、ガウェスにとっては想定外の出来事なのだ。虫ピンで止められた蝶々のように大切にされてきたお姫様が護衛付きとはいえどのように過保護な父親を説き伏せたのか。嫌というほどと伝わる困惑にスヴェトラーナは罪過を感じ、頭を下げた。迷惑をかけてしまったという罪悪に耐えきれなかったのだ。
「ご無理ならば……、良いのです。えぇ、えぇ、本当に。心配なさらないでください」
 アテがあるというのか。外に飛び立ったばかりだというのに。籠の鳥はどこへ向かうというのか。誰を頼ろうというのか。見送ってしまえば良いモノを、踵を返し、トボトボと去ろうとする華奢な手をゴツゴツとした無骨な手が包む。振り返った先に見えたのはふわりと笑う。もちろん、フードを深く被っているため、スヴェトラーナにガウェスの表情を窺い知ることは出来ない。ただ、纏う雰囲気が香水を振りまいたように和らいだから、青年が微笑んだことを悟った。
「細かい話はあちらで」
 優しく温かな言葉は冷えきったスヴェトラーナの心を解かすのに十分であった。ガウェスに手を引かれながら、それでも歩幅を合わせてくれるような気遣いに溜め込んでいた感情の一端が涙となり頬を濡らす。幸運なことに目の前の騎士は前を向くのに夢中で見えてはいなかった。
 手を引かれてやって来たのは階の中心。最も人通りが多く賑やかな場所で学者や傭兵の他にも商人が水や食料を売っている。ガウェスから受け取った水を飲むと荒れていた心がやや落ち着く。そして促されるままたどたどしくも先ほどあったことを話し始めた。金糸雀のように澄んだ声は雑踏に掻き消されてしまいそうなほど、弱く細いものであったが、彼の高潔なる騎士は一言一句聞き漏らすことなかった。彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、適度に相づちをうちながら彼女の話を聞く。次第に表情が険しくなっていった彼は、スヴェトラーナが全てを話し終え閉口すると「分かりました」とだけ答え自らも口を封じた。あの学者の近くにいなかったのが口惜しくてならない。もしも彼の側にいれば多少の口添えができたろうに。さすればその後の悲劇は免れたかもしれない。血の跡を残し消えた愛しい愛しいハイルヴィヒ。死んではいないだろうが、無傷でもあるまい。彼も不思議とその確信はあった。出来ることなら、今すぐにでも銃を手に取り、死臭漂う階下へと駆け込みたいものだが、武器も人も足らぬ。二人きりで、しかも片方は碌に武器も扱えぬ素人。一人で女性を守りきれる自信はなかった。他に協力者が必要であろう。だが、ミュラやジャリルファハド、ソーニアがどこにいるのか分からない。ジャッバールなど以ての外だ。それならば、その他の場所から借りてくる他あるまい。その主旨を伝えられると、少女は美しいかんばせを横に振り拒否を示した。故に青年は折れてしまいそうなほど華奢な左腕を掴んだ。驚いて顔をあげた少女が今度は逃げない様に視線で縛り付ける。
「貴方にしか出来ない。貴方じゃないとハイルヴィヒを……、貴方を助けてくれた人を救えない」
乳飲み子に言い聞かせるように優しく、しかし迷いのない真っ直ぐとした瞳で訴えれば、息を吐き出すだけだった少女の唇が開き、震える声で「はい」と返した。しかと返事は受け取った。スッと立ち上がり恭しく伸ばす。その手を握りスヴェトラーナが顔をあげたその時、フードに隠されていた顔を一瞬だけ瞳に映すことが出来た。やはりその顔はお兄様と慕うその人と同じだった。


一人の令嬢と三人の護衛。昔、読んだ小説にそんなタイトルの話があったとガウェスはぼんやりと考えていた。内容は、一人の令嬢を巡り、三人の騎士が奪い合うもので、最後の章で、令嬢と結ばれた騎士は他国との戦争で命を落とす。嘆き悲しんだ彼女は身体を壊しそのまま亡くなってしまう悲劇的な最期を迎える。なんてことはない、ありきたりな宮廷小説だった。
 六十三階は静かなもので、人の声は勿論、物音一つしない。足音と息遣いだけが空しく響き、時折蹴った石が壁にぶつかりコツーンコツーンと反響する。ガウェスに他に雇われた傭兵は二人。この場の限りのハイルヴィヒを救出するまでの契約だ。当初は渋っていたが、彼女が貴族の令嬢だと知ると喜んでついてきてくれた。浅ましいと罵倒したくなったが、今は自分も同じ穴の狢。出かかった言葉を噛み殺す。現在ガウェス達がいる階は他の階と比べると単調な造りをしているように感じた。一本道の通路を抜けた先、スヴェトラーナに連れられてきた場所は確かに何かが争った形跡がある。壁は崩れ、下には全てを飲み込まんとする暗闇が広がっている。死体は誰かに埋葬されるわけでもなく、野晒しにされたまま転がされている。この惨状をスヴェトラーナは一人で見たのだと考えるとガウェスは胸が締め付けられる思いで、隣に立つ彼女に時折視線を向けてしまう。あの時のことを思い出しているのだろう、肩を震わせながらも双眸はしかと暗闇を見据え、落ちていった護衛の手掛かりが無いかを探している。
「この高さじゃもう……」
 傭兵の一人が言った。ガウェスは否定も肯定もできまい。ガウェスも松明で照らしてみたが彼女が持っていた銃も血の跡すら見つからなかった。
「降りられる場所を探しましょう。下に行って確かめないと」
 異を唱える者はおらず、再びガウェスを先頭にして中を歩く。廓に巣くう悪魔にばれないように息を殺して下へと続く階段を探す。他の階から聞こえる銃弾と断末魔が何を起きているのかを暗に示す。壁にべったりと飛び散っている赤黒い液体。四肢の無い胴に首だけの遺体。安らかな顔をしているのは少ない、業火に焼かれる囚人のように苦悶の表情を浮かべ、無残にも冷たい床に転がされている。その酸鼻極まる世界の奥に次へと続く階段があった。「最悪だ」と呟いたのは誰か。恐らく皆、同じ気持ちだろう。目を伏せ、鼻をつまみ、口から入ってくる僅かな鉄臭さに耐えながら目的の場所へと歩む。ぴちゃりと跳ねた血液が服やマントの裾につくが気にしている暇が無かった。漸く地獄を抜けても彼らに安息の地はない。一刻も早くハイルヴィヒを見つけこの迷宮から脱出しなければならない。然らば足を動かさなくてはならないのに、彼が動かしたのは足ではなくて口であった。
「少し待ってください」
 何をそんなにびびっているのだとからかう言葉が傭兵の口から出ることはなかった。風の唸りと共に男とも女ともとれない囁き声が聞こえてきたのだ。ガウェスだけではない、此処にいる全員に聞こえたようで、異様な緊張感に包まれる。行きましょうと誰が言ったわけでもなく、恐る恐るガウェスが一歩を踏み出し、それに他の三人が続く。もちろん、右手の人差し指はトリガーに引っ掛けるのは忘れない。ゴクリと生唾を飲んだのは誰か。四人はただただ仄暗い階段を進む。

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