複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.137 )
日時: 2018/02/04 05:04
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 50階層へと足を踏み入れた其の刹那、頬にまとわりつく様な、何処かぬるりとすらした様な空気に少女は思わず足を止めた。何を口にするでもない、言葉を発する事はなくとも少女は確かに不快感を抱え、其の水宝玉の双眸に戸惑いの色を浮かべた。護衛の名を呼ぶ事はなかったが其の服の袖口を慌てて掴んで躊躇いがちにあの、と声を零す。傭兵もまた、此の場の些か妙な空気は察していた。袖口を握るその手を取って、自らの背の後ろへ、隠す様にと誘導する。周囲の喧騒へ耳を傾けていればぽつりぽつり、聞こえてくる言葉は絞られる。新種がどうの、逃げおおせた。或いは運が良かった、女がどうだ、何だ。二人が状況を察するには十分過ぎる言葉達は、50階層に満ち満ちている。背の後ろで水宝玉が見開かれ、少女が息を呑んでいる事は、ハイルヴィヒが確認するまでもなく確かな事だった。基地では護衛役かなにかを求めて来た人間か問わず、座り込む者もいた。身体を横たえる者もいれば、痛みに呻く者とていた。人々の喧騒もさして変わらず、此処も其れに相違ない。其の癖、何処か嫌な此の空気の正体は、彼らが口にする“新種”のせいなのだろう。
「……進むなら……お話を、伺うべきかしら」
 立ち止まれば、過去に呑まれてしまう気がしていた。かと言って何も知らずに歩む事ほど恐ろしい事はあるまい。撤退もまた選択だ。けれど、という思いは淡く、たしかに存在している。此処より先を歩む為れば、其のために必要な物を揃える必要も出てくるだろう。今日此の日は戻るにしても、今優先スべきは情報収集、喧騒へ耳を傾けながらきょろり、周囲を見回し一歩、また一歩と二人は歩む。薄暗がりより何かが現れそうな、そんな錯覚にやや恐怖心を抱くスヴェトラーナではあったがそれでも、歩みを止めやしなかった。
「――エリスのお嬢ちゃんか?」
 不意に懐かしい名を呼ばれ、スヴェトラーナは視線を声の主へと向け、まぁ、と思わず声がまろび出た。前に立つハイルヴィヒがスヴェトラーナを隠すように、其の名を呼ぶ男との間に割って入れば男の笑声が響く「そんな怖い顔しなさんな」と実に軽やかな言葉を添えて。その人の顔ばせを忘れるわけもない。在りし日には実に世話になった相手だ。嘗て此の廓へ足を踏み入れた折、一晩といえど面倒を見てもらった相手を、スヴェトラーナが忘れるわけもない。仮初の名を添えたあの日の、柔い思い出。或いは、此処でそうではないと否定しようと思えば出来る。どなたのことですか、ととぼけてしまおうと思えば出来なくもない。そのままハイルヴィヒの後ろに隠れて怖いわ、と小さな声で囁やけばハイルヴィヒが全て何とかしてくれるだろう。向こうも別段、悪意があるわけではないならば、申し訳なくはあるが有効な手段とも思える。けれど、けれども、其れが出来ないのがスヴェトラーナという少女であった。焦がれる様な心地で外を知ったあの日に、ふと思いを馳せれば、尚更。誰のことだ、と言いかけるハイルヴィヒを制し、其の背後から一歩、歩み出れば笑顔のまま膝を折る。何時かの日に見せた様に、至極自然な動作に、一切の無駄は無い。
「ええ、お久しぶりですわお兄様……まさか、此処でお会いするなんて、思いもしませんでした」
「ああ、全くだ。今日は……ああ、あん時の兄ちゃんと一緒じゃないんだな」
 きょろり、と周囲を見回す男が言うのはヨハンの事であろう。睨みを効かせ続けるハイルヴィヒと視線がかち合ったならば男は肩を竦めるばかりだ。スヴェトラーナが振り向けば長い金糸はふわりと揺れる。視線だけでハイルヴィヒを制すれば、控える傭兵は其の青い瞳の熱を僅かに取り戻す。宛ら氷狼の如き瞳であったと後に男は語る。
「あのね、お兄様“エリス・カエルム・アルブステッラ”今宵――ただ一人の娘として、参上いたしましたの」
 一歩、もう一歩と少女は男へ歩み寄り、其の距離を縮めた後に踵をあげて、顔を近づけた。水宝玉はゆるりと細められ花唇は秘めやかに言葉を紡ぐ。或いは、何時かに見た夢をなぞる様に。溢れる吐息は甘やかに馴染み、染み渡る。
「だからどうか……ね、秘密になすって、本当の私の事」
 本当も何もあったものか、偽りを述べる事に心が痛まないでもない。それでも今は、これが最善。名を偽れど身分まではどうにも気が回らなかった事へのツケだが自業自得といえよう。で、あるとして、少女は往々にして“お願い事”が無意識に、無自覚に得意であるらしい。知らず知らずにこうすれば、という道筋を知ってしまった或いは、これが“普通”であるだけなのやもしれぬが。白い指が、男の唇に触れるか触れないか、既のところで止められる。「お願いよ、お兄様」と紡ぐ懇願はただ甘美な響きすら孕み、宛ら毒ですらある様に。揺らぐ明かりに照らされるその頬は上気している様にすら見えるか。早鐘を打つ鼓動、伸ばされる手。全てを蕩かす蜜の様な少女は其の全てを甘受する――但し、控えていた傭兵がそうであるかと問われれば否であろう。関係性の再構築は済めども、其の根幹が揺らぐ事は或りやしない。半歩踏み出した足を制して、咳払いを一つ。叶うなら2人の間に割って入ってやりたかった。は、とした男が少女と半歩距離を取る。変わらず少女はにこやかな侭、彼を見ていた。
「ああ……ああ、なんだ、その……言わないさ、言わない。お嬢ちゃんにも色々あるだろうしな」
「お兄様、有難う御座います。ご協力感謝致しますわ」
 瞳に宿すは甘やかな色。男の手を握りしめ、僅かに体温を通わせる。その手を振りほどく事は容易いが、其れが出来ずにいる理由を、男ですら分からぬままに、背後の傭兵の視線に微妙な気まずさを憶えるばかりであった。するり、と少女の手が男の手から離れるのは程なくしてだ。穏やかな笑みはいつの間にか年相応か、それより幼気なものへと変化していた。ぱちり、と男の双眸は瞬く。なぁに、と問うように少女の唇が動いた様に伺えど、言葉が聞こえることはなかった。気のせいか、と男は再び瞬く。吐き出した息は男の中にある何かを、逃がす様に。
「あの……私達、此の下に行きたいのですけれど……此の階層の皆々様のお話をお伺いするに何か……あったのですか、此の下階で」
 少女は問うた。薄々、周囲の言葉をつなぎ合わせて察する事は出来れど、確信が欲しいという心もある。控えていた傭兵もまた「叶う限り説明していただければ助かる」とやや低い声でこぼす様に告げた。別段、隠すような事でもないだろう、と男は口を開きかけるが言葉を選ぶのは少女を前にしている故だろう。少なくとも男は、少女が“世間知らずのご令嬢”だという事を知っている。まごつく様な様子に、スヴェトラーナもハイルヴィヒも気付かぬわけではない。理由を察する事ができるのはハイルヴィヒ位のものではあったが、良いから続けろ、と口に出来ないのは彼女もまた、少女を傍に置く者である故である。
「面倒なのが居た、ってだけさ。お嬢ちゃんが詳しく知る必要は――」
 紡がれる最中、再び少女の手が男の手を包み込む。
「お兄様……あの……そのね、ええっと……ご配慮いただけるのは、嬉しいの。でも……大丈夫」
 其の目を、其の目を止めてくれ、等と男が口にできるわけもなくただ水宝玉に視線を固定されたままだった。何時かに見た硝子玉の瞳に生気が宿ったかの様な其の色は、ともすれば恐ろしい何かを宿す様ですらあった。飲み込まれる様な薄氷色に、息を呑むのは一瞬。ぐしゃり、と頭をかく男の姿が何時かの彼に重なった。
「…………周りの連中の話聞こえてたってなら、まあ新種のレゥノーラが出たって事はわかってるか。なんつーかなぁ……化け女みてぇな、いやぁな奴でな」
 男の説明を聞くスヴェトラーナの表情が曇っていく。そんなものが、と思わず零せば男はああ、と短く返した。仔細を説明する男の顔が何処か苦々しい表情を浮かべれば、比例して少女の眉尻も下がるばかり。ハイルヴィヒもまたピクリ、と片眉を動かす程度ではあったが確かな反応を見せる。少女を引き寄せて一度後の相談をすべきか、と思えど、それより早く、悩ましげにしていた少女が口を開いた。
「ね、お兄様、大変不躾なお願いとは承知です、突飛であるとも……でもね、私達2人だけでこの先に進むのは少し……怖いの。だから、その……お兄様方にご一緒させては、頂けませんか? 今すぐに、とは申しません。後日また下へ行かれるならばその時でもいいのです。……私は、あのあまりお役に立てないかもしれません、でもそちらの……ハイルヴィヒは、ええ、とっても腕の立つ方だから……お役に立てると確信いたします」
 不安に刹那、潤んだ瞳は伏せられるも、瞬きの後に持ち上げられ、少女は戸惑いがちに言葉を紡ぐ。其の瞳に月明かりを宿し、悩ましげに眉根は寄せられた。「必要ならば報酬もご用意いたします」との声は囁く様に、ほんの小さな秘め事の様に添えられるが、其の言葉が男の耳に届いていたか、否、届いては居たのだろうがその脳髄へ染み渡ったかと問われれば不明瞭にも過ぎる。何せ其の脳髄は既に、甘美な月の香に浸されている故に。
「そうさなぁ……今の雇い主の学者先生に聞いてみねぇ事には、なんとも」
「……許諾を貰える可能性は?」
 どうにか、といった体での男の返答にすかさず言葉を投げたハイルヴィヒは表情一つ変えることはなく、ただじ、と男を、睨め付けるかの様に見やるばかりであった。
「さぁなあ……正直あの先生の気分次第ってとこか……いや、でもなぁ……腕が立つ奴はまあそれなりに居るがその中でも結構使える奴が一人いるしなぁ……」
「…………少なくとも、銃の扱いならばそこらの寄せ集め共よりも自信がある。……まあ、口ではなんとでも言えるだろうがな。……駄目だったなら駄目だったで、構わないが……叶うなら目通りを願いたい」
 暗に、彼に交渉役になってくれとばかりの言葉をハイルヴィヒは投げかける。弱った、と言いたげに頭をかく男に向けて、スヴェトラーナも控えめに「お願いできませんか?」等と言葉を向けた。これはいよいよ、困ったと男は溜息を吐く。下方の瞳、鎮座する一対の水宝玉を見ているとどうにも断りづらい感情が芽生える。ややあってからわかったよ、と困り顔で2人へ告げればこのあたりで待っているようにと添えて雇い主であるという学者――恐らく向こうで何やら記している人物であろう。その人の方へと歩んでいった。其の背を見送った後、ハイルヴィヒはスヴェトラーナの肩へと手を添える。
「もし断られたら、また別の誰か……行動を共にできそうな誰かを探しましょう。少なくとも情報共有くらいは、許してくれるはずですから」
 彼らが見たというレゥノーラの仔細、並びにいくつかの情報はせめても耳に入れたい。対策が建てられるかと問われれば微妙なところであるとしても、何も知らずに歩む気には到底なれやしなかった。「そうね」と囁く少女は柔い笑みを、浮かべて。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.138 )
日時: 2018/02/12 21:07
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 彪のように軽やかに、ミュラはジャッバールがいる七十六階を目指す。階段を滑るように降り、先の見えない暗闇を駆けるその様子は闇を切り裂く韋駄天の如く。昇降機を待つ時間さえ惜しく、階段を使って下へと降りていく。流れゆく人達をするりと躱しながら彪の名を冠する者が示した彼女の元へと走る。だが、彼等の根城が近づくにつれて鼓動が高鳴り手汗が滲む。嗚呼、何をそんなに恐れているのか。廓で最も安全な場所であると言っても過言ではないのに、ミュラには虎穴に思えてならないのだ。少しでも変な行動を起こせば喉笛を噛み切られるような、そんな張り詰めた空気が全体を包み余所者を拒んでいる。現に、検問所のところまで向かったミュラに向けられた凍てつくような視線は彼女を萎縮させるのに十分すぎる威力をもっていた。セノールが何だったかと否が応でも想起させ忘れかけていた感情が呼び起こされる。冷や汗がドッと噴き出て初めてジャリルファハドと対峙した瞬間、ミュラは己の死を覚悟した時のことが克明に描き出される。思わず顔が引き攣り半歩後退った少女に、何用だと前より二人減って三人の男が改めて彼女に視線を送る。
「ハヤ……。ハヤって人に話がある」
 覚悟を決めて一番身長の小さい男に話し掛ける。それでも警戒心を一向に解くことはしない。むしろハヤの名前をだしたことで一層目つきが険しくなったようにすら思える。だが、手に持っていた刀を押し付けるように見せつければ感情の見えなかった黒い瞳に光が宿る。そして「ファハドの使いか」と問われたのでこくりと頷く。何があったと聞かれなかった。興味がないのか、詮索しないように教え込まれているのか。男は「ハヤはここから真っ直ぐ行った、奥の竈のところにいる」とだけ伝えるとミュラから目線を外し、再び廓の薄暗がりを見据え始めた。既にミュラのことは歯牙にもかけてない様子で、これからやってくる足音の方に目を向けていた。一方的に会話を終わらせられ、呆気にとられたが、かみつくほど暇ではない。お礼をそこそこに中へと入る。ジャッバールとあって殆どがセノールとレヴェリである。没個性となるアゥルトゥラやカルウェノの白い肌がここでは目立っている。また、セノール肌の色は似ていてもやはり人種が違いを思い知らされることとなる。意味を理解できない言語が耳を犯し、錐のように鋭い視線が肌を刺す。この寒さはコートでは防ぎようがない。
 ふと、ジャリルファハドに初めてセノールのことを問うたときのことを思い出した。自分が分からず、ならいっそのこと、セノールとして振る舞ってしまおうか思うこともあった。だがどんなに容姿を真似ようと彼らのように凍てつくような視線は──内心までも変えることは出来ない。然らば自分は何なのか。否、分からないからこそ何者にも為れると彼は言った。止まった足を急かすように後ろを歩いていた者が踵を蹴った。顔だけでも確認しようかと振り返ろうした寸前「すまない」と謝罪の言葉で彼の真意のほどを知った。セノールの古語を使わなかったから、彼もミュラが“はらから”ではないことが分かっているのだ。虎の巣穴に迷い込んだ子猫は「大丈夫」と言う代わりに手を軽く振り、意を示すと今度は誰にも踏まれぬように早足でその場を立ち去る。脇目も振らず真っ直ぐ進んでいくと確かに火が燃えている竈があった。そこで一人の女が近くで椅子に座って何かを読み耽っている。だが、ミュラにとってはこの竈周りの方が少々寒く感じられた。
 彼女の気配を察し話し掛ける前に顔を上げたのは流石はセノールといったところか。しかし珍客だったのは確かなようで大袈裟に目を丸くした。
「あんたは……ファハドの手下?」
「手下じゃねぇよ」 
 平然と返したが、彼の手下のように見えていることに内心がっかりした。
「ふーん。それで、何かあったの?」
「えっと、普通のレゥノーラじゃない変なのが襲ってきた。私達は平気だったけど。それにソーニアが襲われて。すげー音が、こう、聞こえて。多分落ちたんだと思う。私とジャリルファハドは無事で、でもソーニアからは返事無くって。私達だけじゃ危ないから」
「分かった分かった。つまり、手を貸して欲しいってそう言うことでしょ」
 コクコクと二、三度頷いた。早くこの場所を離れたい。ハヤは「やっぱりね」と一言を洩らし、背もたれに身体を預けて大きく手脚を伸ばした。
「そのレゥノーラの特徴、分かる?」
「姿は見てないから完全には分からない。でも襲われる寸前に犬の鳴き声みたいな声が聞こえた。あと、へんなウネウネした触手みたいのが出て来たよ」
「なるほどね。ま、ランツェールってところかなぁ」
 ハヤには心当たりがあるらしかった。しかし、その呟きはミュラではなく、ぽつねんと落とされた独り言らしかった。女性にしてはゴツゴツとした節くれ立つ指が顎を撫でている。ジャリルファハドとは別の意味で彼女が何を考えているのか分からなかった。だが、少なくともジャリルファハドよりはとっつきやすいように思えた。一頻り考える素振りをみせたあと、瞳がミュラの握っている彎曲している刀に向けられる。
「あんたが独断で来たってわけじゃなさそうね」
「ジャリルファハドにコレ持って行けって。そうすれば誰の使いか分かるって言われたんだよ」
「ファハド自身が来ないってことは相当切羽詰まってたんだ。と言うか、よく迷わないでこられたね」
 眉を潜めたミュラに構うことなく、せせら笑いながら続ける。
「ってそこまで馬鹿じゃないか」
「あ、当たり前だろ!」
 思わず声を荒げるとハヤはアハハッと声を出して笑い、青い瞳をようやくミュラへと向けた。
「いーよ。二人に死なれても困るし助けてあげる。場所は?」
「確か、七十四。なぁ早く」
「分かった分かった。すぐに準備するから、待ってて」
 そう言われればミュラは黙って頷くほかあるまい。眼鏡をテーブルに置いて読んでいた書類を持ったまま立ち上がる。そして念を押すように「待っててね」と声をかけ廊下に出て行った。「さむっ」とハヤの言葉を最後にハヤは廊下へと出て行き、ミュラが一人で竈の前に残されることになる。ぐるりしている本はまるで全てを攫う波のようであった。自分の背丈以上の本棚にぎゅうぎゅうに詰められていて、爪が入る隙間すらない。いたずらに外の声に耳を傾けてみるが、セノールの言葉を理解することは叶わなかった。本の表紙に目を通してみるが大半はセノールの、しかも古語である。アゥルトゥラでもセノールでもない文字で書かれている書物も並んでいる。ようやくアゥルトゥラの文字で書かれた本が見つかったが、難解すぎる内容は頭に熱を溜めるばかりで碌に内容など入ってきやしない。やっとのことで元の場所に本を戻しパチパチと赤く爆ぜる薪を見つめるが一分足らずで飽きる。愈々これはどうするべきかと振り向くと同時にドアが開いた。紅を乗せた唇が弧を描き、赤い爪化粧が施された指がこっちへ来いと手招きする姿は家に誘い込もうとする悪い魔女のようで背筋が寒くなる。
 ハヤの背後には数人の男達が銃を背負ったまま待機している。姿形は違えど同じ装備を身に着けている彼等は学者が雇っている寄せ集めの傭兵とは違う。集団に属する個として彼等は動いているようにミュラには感じられた。
「お前も行くのか?」
「うーん。行きたいのは山々なんだけど、これからやりたいことがあるんだよねぇ」
「そう……なんだ」
 なぜかは本人も分からなかった。ただ
ハヤが”行けない“と知ったとき、心底安心できた。早鐘を撞くように脈打っていた心臓が落ち着いていく。それを知っているかのように獅子の懐刀はミュラの方に近付いていくと、スウッと肩に手を置いた。ハヤは柔和に笑っていた。
「良かったって顔してるね」
 その言葉には氷のような冷たさを含まれており、思わずミュラの動きが止まる。心を見透かされたような言葉に、止まりかけた心臓が今度は動悸でも起こすかの如く脈打ち始めた。思わず逸らした顔。再び確認することなど出来るはずもない。
「あんたがそう思うのは正しいよ。私はファハドとソーニアが危ないから手を貸すってだけ」
 笑顔のままハヤは続ける。表情は最初にミュラと言葉を交わしたときと変わらないが声に乗せる感情だけ違った。先ほどよりも更に鋭利になった。
「もしもあんたがソーニアと同じ状況だったら突っぱねてた」
 思わず強張った表情になるミュラ。その顔を見て、ハヤの手に更に力が込められる。
「あんたが死のうが私にとってはどーでもいいんだわ」
 ついに耐えられず、肩に置かれた手を振り払い、距離を取った。彼女のことが恐ろしくて堪らないのだ。赤の他人であり、仕方がないことなのはミュラも重々承知の上だ。しかし、その心を隠そうともせず、むしろ本人に思ったままぶつけるのは正気の沙汰ではあるまい。それが純真な稚児であったならば可愛げがあったものの、堂々と本心を叩きつけたハヤからは悪意以外の何物も見出せない。
 小動物のように震えるミュラを見て、ハヤは唇を歪ませ笑い、再び椅子に腰をかけた。そして途中まで読んでいた書類に再び目を通すのだった。何か言いたげに口を開いたミュラだったが、言葉となって飛び出ることはなかった。言い争いをしてもいなされてしまうのが目に見えていたし、何よりも時間が惜しい。ここで言いたいことはジャリルファハドやソーニアに聞いて貰おうと思ったのだ。貸して貰った兵達は何も語らない。いや、話し掛けてもいい雰囲気を纏っていない。自分の性格を見越して斯様な連中を集めてきたのかと勘繰ったものの無意味なものだと分かりやめる。竈の側から離れる時、ハヤが「また来てね」と手を振ることはおろか振り返ることもしなかった。一言も発することはなく、借りてきた彼等と共に、今度は昇降機を使ってミュラは上へと向かったのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.139 )
日時: 2018/03/04 16:25
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 仄暗い廓の中、奥へ奥へと流れて来るはずの冷たい空気が何故か止まっていて、彪は鎧通しの柄に手を掛けた。ミュラの背を押すため、刀を持たせたもののレゥノーラ相手に鎧通し一振りで敵うはずなどない。音も無く駆けながら散弾銃を手に取った。結露した木製の銃床はしっとりと手に馴染んでいた。それは暗闇の中に潜んでいる脅威に怯え、戦き、緊張の果てに冷ややかな汗を流しているかのようだった。死神はこの暗闇の中、声もなく悪辣に嗤いながらその瞳をぎらつかせているに違いない、喉元に背後から短刀を突き付けられているかのような緊張、緊迫した空気のそれは戦の匂いを醸す訳ではない、未だ感じた事のない身の毛が弥立つような感覚に苛まれ、彪は大きく息を呑んだ。何も出てくるな、と願いながら石畳の上を駆け抜けるのだった。
 ふと、右肩に走る疼痛に気付き、己の右手に目を呉れると鎧通しの柄が赤々と染まり、その鞘からは己の血が滴っていた。度重なる右肩への負傷、何らかの因果でも働いているのだろうかと呆れながらも左手で肩を抑えた。何れはこの腕すら奪われるのではないだろうか、と自嘲する。そうであったとしても。何れそういった結末を辿るとしても、化物と相見え、殺し合ったとしてもまだ死ぬ訳には行かないのだ。と己へと言い聞かしながら、ガウェス・ハイドナーから負わされた銃創の痕に触れた。あの場で死んでいてもおかしくはなかった、銃弾は急所に当たらなかった、己が信ずる神がまだ御許へ来るな、と天より突き返したのだろうか。
 冷えた廓の空気は傷に触れるのか、銃創痕の真上、化物にから負わされた傷が熱を帯びたように疼く。それに呼応するかのように、闘争の愉悦をもう一度味わいたいと、彪の得物は声なくして叫び、血を求めているかのようだ。だが、持ち主の思考は至って平静を保ったままである。熱を帯びず、果たさねばならない目的へ、ひたすらに向かい続けていられるのがせめてもの救いだろう。勝ち目のない戦はしない、そうやって死に行くのは唾棄すべき愚行である、と彪は己に言い聞かせている故の自制であった。
 階段を登り、上がりきった先、赤々と燃え盛る篝火が暗闇を晴らしていた。学者や、それ等に雇われた傭兵が幾人か見えた。彼等の視線の先には、ジャッバールの所有する多銃身機関銃が三基並べられていたが、ジャッバールの者達は居ないようで、模造と無断使用を防止するためにと多銃身機関銃からは、機関部にあるはずの歯車箱とそれを繋ぐ曲軸が取り外されており、弾の一発すらそこには無い。あくまで自分達以外には使用させず、技術の流出、設計の模倣すらも避けるべく努めているようだった。恐らくはハヤによる使用要領の一節にそういった機密保持まで明文化されているのだろう。
 はぁ、と深く息を吐き出し、石畳を再び駆け出した時であった。階下から妙な気配が伝わった。何かが息衝き、迫り来ているように感じられたのだ。意思もなく、ただただ本能に従って生きる獣のような肉の塊が、のたりのたりと覚束ず、まるで歩みを覚えたばかりの赤子のように不規則で、不自然な拍で歩み寄ってくる。地の底、そこを彷徨い続けた化物が迫り来ているように感じられたのだ。思わず止まった足取り、背後を見遣るなり、それは彪の視界に存在を主張した。暗闇から顔を覗かせ、それは彪を追い、一歩、また一歩と進み続けている。濁り、薄汚れたその白い肌、見つめるべく眼はなく、大きく開かれた口からは乳房上の歯のような物が顔を覗かせ、その後ろでは赤黒い巨大な舌が蠢いている。"それ"は四つの足で這い蹲り、躾のなっていない犬のように唸りながら涎を垂らし、背から伸びる四本の触手を持て余すのか、だらしなく石畳の上で引き摺っていた。
「……ケェーレフ、か」
 犬と渾名した者の感性を疑わざる得まい。巨大で醜悪、その様相はまるで人目を憚るかのように育てられた異形の白痴の如く。闇に潰され、盲いた目を頼りにその化物はただ這いずり回っている。犬というよりは芋虫のようだ、肥えに肥え、淀みと闇の中に滾る肉欲を満たしに満たし、卑しく、おぞましいその身を曝す恥すら持ち合わせていない。芋虫を置き去りにするように、彪は上階を目指して駆け始めた。のたり、のたりと摺るような足音が背後から離れず、それが幾度も幾度も反復し、廓の中で鈍く、短く響く。恐らくこのままでは地下へと戻れまい、ともすればこの"犬"を人の群れへと差し向け、強引に討つしかあるまい、このままこれを排除出来なければ、ミュラには悪いが彼女の判断でどうにかソーニアの安否、生死を暴いてもらうしかないだろう。
 一階、また一階と地上へと向かって行く。途中、銃声が階下より響いていたが恐らく、学者と傭兵が衝突したのだろう。そして、それ等が止まったという事は彼等が死した証と考えるのが妥当。名も知れぬ者達の死に悼む事などない。それよりも急がなければならないのだ、とただひたすら走り続ける。そうして辿り着いた第五十階層。人の群れはそこに確かに在り、多くの傭兵の姿も見られた。一様に得物を携え、それらは階下より訪れた彪へと注視する訳でもない。下から上がってきた一人のセノールにしか過ぎない。人垣、人の群れへと身を投じ、そろそろ化物が来るだろうか、と散弾銃の柄へと手を掛けた時だった。悲鳴、怒号が響き渡り、ケェーレフの名を呼ぶ声、あの化物の名を呼ぶ声と共に剥き出しにされた殺意と銃弾が飛んでいく。肉を裂き、撒き散らされる赤。化物の物も、人の物も混じりあい、無機質な廓を赤く、赤く彩っていく。鉄錆びた赤い沼の畔に立ち、物言わぬ骸を跨ぎ、化物へと迫る。触手に穿たれた人間の骸が、血の沼の中に斃れ事切れている。攻撃を浴び、化物は猛り狂っているようだった。
「──射線を開け!」
 退けと叫ぶ、その男はジャッバールの兵だった。多銃身機関銃の防盾、その向こう側、ハンドルに手を掛け今にも放たんとしている。防盾の向こう側の黒い双眸が睨むのは化物だけである。曲軸に嵌めこまれた箍が中空を舞い、ハンドルが回り始めた。撃たれては敵わないと、人垣を飛び越えた刹那、廓に一匹の獣が生まれたのだった。その獣は八つの頭から火を噴き、音よりも速く飛ぶ鉛の弾が"犬"の身を削いでいく。穢れた白と赤が飛び散り、篝火の朱を浴びたそれは言葉を紡ぐ事なくして、その存在を主張していた。
 これがジャッバールの武器か、と人垣の少し後ろで感心せざるを得ず、火を噴くそれに、人が人に相対し、血を流し争う時代の終焉が訪れたように思えるのだった。戦争、闘争、争い、暴力と血を好む事柄の在り方はこれからも変わっていく事だろう。それを示しているのは目の前で拉げた肉の塊となった、化物の骸である。それを忌々しげに踏み付けたり、死を確認しようと銃弾を見舞っている傭兵達を他所に、人垣を掻き分け、防盾の後ろで溜息を吐いている男の元へと歩み寄っていく。
「これが例の。初めて動いているのを見た」
「……ガリプか、態々こんな所まで何をしに来た」
 まさか化物を討つために引き連れ、上階を目指したとは言えまい。本来の目的であるソーニアの捜索について述べるしかないだろう。突然訪れた化物に、このジャッバールの兵も肝を冷やした事だろう。
「下で人捜しだ。……人手が要る。上層の者達を呼べとハヤがな」
「またか、分かった。すぐに行く、必要な物は」
「松明、灯りを有りっ丈持って来い。……頼んだ」
 "またか"と言う言葉が少しだけ気になったが、それを問うたならば己もまた言葉を語らねばならない。しかし、多くを語れば真を見出され兼ねず、手短に用件を済ませて踵を返していく。ハヤを出しに使ったような形になったが、これが最も自然に事を進めるには最良の手であったのだ。防盾の向こう側、ジャッバールの兵が小銃を担ぎ上げ、大声で同胞への指示を飛ばしているのが聞こえていた。事は上手く進んでいるようだ、と小さく笑いながら事切れた化物の傍らを歩む。銃弾で潰され、拉げ吹き飛ばされた肉の向こう側から顔を覗かせているのは骨だろうか。それすらも銃弾に穿たれ、その窪みに滴る赤い液体は凝固し始め、篝火の朱に照らされて光り輝いていた。それから少しずつ離れていく彪には、明かりに対する憧憬の念など存在していない、存在するのは暗闇を望むとも見えかねない焦りであった。落ちソーニアが死んでいたならば仕方のない話である。だが、もし未だに生き永らえているとしたら、無明の闇にて今も恐怖と対峙している事だろう。兵を率い、戦に臨む己とて化物へ恐怖を抱くのだ、戦地に身を置かず、血を流す事もなく、他者を殺めた事もない。そんな人間が恐怖に打ち勝てるとは考え難い。事は猶予を許さないと、もと来た道を急ぎ戻るのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.140 )
日時: 2018/03/04 00:17
名前: ポテト侍
参照: http://twitter.com/imo00001

 ガウェスが拾った手記の中身に目を通したのは深い意味はない。ただの気まぐれと純粋な好奇心、あわよくば廓について何らかの情報が載っていないかと僅かな下心であった。結論から言えば、レゥノーラについて重要な情報を得ることが出来た。もっと詳しく言うならば、先ほど彼の騎士が対峙した女型のレゥノーラの出生。物好きな学者ならばその内容に興味を持つことであろう。嬉々として顔を輝かせるだろう彼らとは違い、最後まで読み切ったガウェスの顔は普段よりも青白く病人の様であった。手記に呪いがかけられていたなどと馬鹿げたことを挙げるつもりはない。斯様なものが存在し得るならば、廓に入ってる者の殆どは死に絶えることになる。ただただ彼の気分を悪くさせたのはその内容。ただの遺書であったのならば十字を切りその者の安らかな眠りを祈っただろう。だがそこに書かれていたのは遺書などではなく、或る女も悲劇的な末路が描かれているのみであった。以下はその全文である。


 焼き火鉢を押し付けられている痛みで目が覚めた。いつからここに放置されていたのか、どのように此処まで運ばれていったのか皆目見当もつかぬ。私が空っぽの頭に辛うじて残している記憶は雇い主の吐き気を催すような邪悪な笑顔と耳を劈く発砲音が一発、火をあてられたような痛みと頭部を殴られた感覚、そして己が流した血の臭いのみである。このことから推察するに、私は雇い主に裏切られたのだろう。貿易を営み、各国から取り寄せた絢爛豪華な調度品、上質なマホガニーを使った家具が家内に多く鎮座していたから、金に糸目はつけない男だと考えていたが、どうやらそれは私の思い違いだったようだ。彼は傭兵に払う端金すら払おうとしないがめつい男だった。(尤も、相手の害意に気がつけなかった私にも非があるが……)
 ともかく、私は捨てられた。地獄の釜の底に。今、私の手元にあるのは吹き消えそうなほど儚い自由と衣嚢に入っていたベッコウ飴一つと愛用していた痛み止めが三日分あるだけだ。それ以外の持ち物は一切没収されていた。そんな中、手記と万年筆を見つけられたのは僥倖である。恐らく、ここで無念の死を遂げた何者かの置き土産だろう。遺品を使うのは些か申し訳なさを感じるが丁度良い。主人がいないのならば今度は私が手記の主になろう。自ら筆をとることは滅多にないが、体力が回復するまで、若しくは私の命が潰えるまでの僅かな時間、棄てられた女の暇潰しに付き合ってもらおう。
 そうだ、例え私が黄泉路に立たされることになろうとも、この手帳だけでも日の目を浴びると信じて、ここで起きた様々を記そうと思う。


 被弾箇所は右腕である。今日も痛みで目が覚めた。上半身を起こそうとしたが患部を針で刺されるような感覚に敢えなく断念する。着ていた服の一部を細長く千切り、に巻きつけてたものの、汚い布切れを巻きつけた程度の応急処置では止血くらいしか出来ない。弾は貫通しているが……、このまま放置しておけば破傷風になるだろう。早めの脱出が求められる。
 さて、この痛みでは二度寝することも出来ぬ。だので、今回は私のことを少しだけ記そうと思う。私はアゥルトゥラの生まれではない。ここよりも更に南にあるアレナルの小さな町で生まれた。痩せた大地に芽吹く命はなく、産業になり得そうなものもなかった。海原すら地平の彼方に青い線がゆらゆらと揺れるのを確認出来るのが精一杯で、あの町には荒涼とした大地が広がっているのみだ。もちろん、生活は裕福ではなく、両親も私と二つしか年が離れていない弟も、他人の命で金を稼ぐようになった。珍しいことではない、貧困に喰われないためには自分の体を食い物にするか、他人の命を食らって生き延びるしかなかったのだから。後悔はない。そして、紆余曲折が合って私はハイドナーに雇われたわけだが……。痛み止めが効いてきた。今回はこれでお暇させてもらおう。


 ふと、砂漠に残した弟子のことを思い出した。ミュラ・ベルバトーレという少女だ。彼女を見つけたのは赤ん坊の時。砂漠に残された遺跡群で声をあげて泣いていた。
 その時の私は二十歳近く、私は仕えていた貴族の命をうけ、あるレヴェリの男を追っていた。6尺を超える大男で何度か対峙したことはあるが、仕留めるには至らなかった。何度か土手っ腹に穴を開けたことはあったものの、何事もなかったかのように走り去っていった男の酷はくな笑みを、そして名前を私は忘れはしないだろう。そんなときに赤ん坊だったあの子を見つけた。熱線から逃げるように、遺跡の陰に赤ん坊だった彼女がいた。その遺跡群は50年前に起きた西伐の残り香で、セノールがアゥルトゥラ攻略に用いた拠点だとすぐに分かった。打ち棄てられた机や椅子、拾われなかった武器がぽつねんと床に捨てられた様は主人を待つ誠実な騎士の姿のようにも思えてしまい胸がキリキリと痛んだ。
 さて、話を戻そう。彼女のために殺そうかとも考えた。地獄で天使は生きられぬように、あそこは幼い子供が生きるにはあまりにも酷な場所であった。弱い者に与えてあげられるのは、死の安らぎのみだと思っていた。
だが、生きようともがく彼女に向かって如何しても引き金を引くことが出来なかった。考えてみれば、この時から傭兵としての私は死んだのか、若しくは私の命に何らかの価値をつけたかったのかもしれない。私は彼女を拾い、そこで生き抜く術を叩き込んだ。並行して私がかろうじて持ち得る、人としての道徳、常しきを教えた。
 様々な見聞が彼女のためになると考え砂漠から出ようとも思った。だが、私のことを血眼になって探している連中のことを考えるとどうしても一歩踏み出すことが出来なかった。だからおく病な私は彼女には、私とは縁も縁もない姓を与えた。いつか私の元をはなれ独り立ちするとき、障害にならぬように、飛び立つこの子の羽根をもがぬように、そして、私のようにならないようにと淡い願いを込めて。ミュラ・ベルバトーレと名前をつけた。いい子だったとも。やんちゃではあったが、好奇心旺盛で、これはなんだと訊いてくる彼女に答える度に偽りとはいえ、本当の家族のように思えた。
笑顔が素敵な子だった。学は無いが、私のような獣にならないでくれて、良かった。
だが、私は我が子にも等しい子を、捨てた。捨ててこちらへ来た。彼女には本当に非道いことをしたと思っている。アゥルトゥラにつれて行きたかったが雇い主が許可を下ろさなかった。二人分払うのが嫌だったのだろう。それでも普通に稼ぐよりも何十倍もよい値段だった。金が入り用だったとは言え、何も告げずに出て行った私を、彼女は待っててくれているだろうか。それともこの碌でなしの師を嘆き絶望して砂漠を出て行ってしまったのか。どちらにせよ、私はここを出て確かめなくてはならない。もしも彼女が待っていてくれたら、今度こそ彼女と旅に出よう。一歩を踏み出そう。そして様々なモノを見せてあげよう。砂と岩に囲まれた世界しか知らないミュラにとっては良い刺げきになるはずだ。早く出たい。
 そうだ。きっと上まで行けば人がいる。あぁそういえば金を取られているだった。どうやって関所を抜けよう。セノールと酷似しているせいで、面倒な輩はやって来ないが、関所の通過で苦労する。いっそ今度はジャッバールにでも雇って貰おうか。どうやら疲れが溜まっているらしい。頭が痛い。寝よう。


 きず口から細菌が入ったのかもしれない。患部が赤くはれてねつを帯びている。心なしか、頭もあつく意しきがぼおっとする。前に書いてからどのくらいの時が経ったのか分からない。窓が無く、何時も松明の火がもえている廷内では、日の入り沈みで一日をかくにん出来ない。負しょうし、しょう悴した体では動くこともままならない。天井から滴る雫を死人のようにしずかに眺めることが日かになっている。不自由な体になったものだと自ちょうにも近い笑みが浮かぶ。ほんの数日前が恋しい。
死にたくない。まだ死にたくない。体ちょうが崩れるとダメだ。悲かん的になるな、やりたいことがある。私は生きる。何としても生きる。視界が赤い。少しねる。


 誰かのささやき声がうるさい。言いたいことがあるならはっきりと言え。


体ちょうは、何とかよくなった。今日はなつかしい男と出会った。私があいつの名前を言ゆと、彼は唇をつり上げて「不様だな」と笑った。だがもうどうでもいい。一しょに連れて行ってくれなんて、私らしくもないみっともない言葉を言った気がする。すると男は、馬鹿にしたように鼻で笑い何かを口にした。それが、悔しくて悔しくて「冗だんさ」なんてうそはいて。馬鹿は私だった。私はもう、駄目かも知れない。あぁ、でも唯一つ、ただ一つ答えて欲しい。あの男とは一体どこで知り合ったかな。


イヤなゆめを見た。本当に、いやな夢だ。汗が、止まらない。頭が、あつい。灼けるようだ。あつい、あつい。痛い。【__解読不明の文字が連なっている__】

ようやく、いたみが治まった。汗がひどい。まな弟子をこの手で殺すゆめ、など、なんという悪むなのだろう。泣き叫んで命乞いをする、あの子の柔らかな表皮に私のえい利な、爪を突き立てて、焦らすように、ゆっくりと真横に裂くのだ。ゴボリと、音を立てて血が、湧き水のようにあふれ、目ん玉を、グルンと上に、回す。ひとみから、色が、消えて、赤い涙、を、流す。決して、みとめない、みとめないぞ、私は。彼女の首を掻き切った、しゅん間、おぞましいほどの、達成かんと、悦楽に、包まれていたなんて、私は信じない。


さい近わ、自分の名前、を、かくにん、することが、ふえた、気がする。とき々忘れて、し、まう。首か、ら、ぶら下げている、板をかくにん、する度に、自分が、自分であることを、かくにん、できて、安心する。さい近、物忘れが、ひどい。だからなのか、自分の、名前、を、確にんすることが、増えたような、気が、する。時々、忘れてしまう。首から、ぶら下げている、板、を、かくにんする度に、自分が、自分で、あることをかくにんできて、安心する。


ついに、レゥノーラと、そおぐうした。今まで、会わなかった、のが、奇せき、にも、ひとしい、だった。彼ら、は、私をみる、と「ゲッゲッ」と気味の、わるい、声をあげて、くるわの奥へと、引っ込んでしまった。何が目的かは、分からない、が、さい近、傷が、痛くない。良かった。直ったらしい。ひどい、ものに、ならなかっ、たのは、幸いだ。


久しぶ、りに人を、ころした。わたしを、なおそ、うと、してくれ、た人。仕方な、だろう。どうして、も、たんぱく、しつを、とる、必ようが、あった。だが、人のに、く、など、くえ、たもので、はな、い。すぐに、はき出す。
わたし、が生きの、こる、ためには、やむを、えなかったし、何、よりも、ここを、あらす不、とどきものを、へらす、ことが、出きたのだ。よろこば、しい、ことだ。


とても大切な子だたきがする。でもおもい出せない。まぶたのうらに写るくったくのないえがおをするこの子はだれだ?


が、くぜん、した。
きず口か、らながれ、た、のは、あかいえきた、い、ではな、い。ちのよ、うにあ、かい、か、がや、きをは、なつ、石。
ちだまりと、は、よべ、ぬ石、のた、まりば、にうつったわ、たしは、すでにわ、たひで、は、なかった。
も、しも、これを、みた、が、たのみ、ある。もしも、みゅらベるとーれ、と、こが、みつけた、ら、しん、だ、と、つ、たえてほ、しい。あと、ひと、りにし、て、すまな、かった、と、も。すき、に、いき、と、も。わたし、をわ、すれて、いいと。たし、し、んだ。もう一、ど、だ、け、太よお、を、あび、たかった。あの、子に、あい、か、った。ごめんね。


 そこからは何も書かれておらず、時間が経ち赤黒く変色した血のみが染み付いていた。パリパリと音を立てて捲れていくページを青い瞳が世話しなく追いかける。やがて端までたどり着くとぱたりと固く閉じられた。周囲に気を配り誰にも見られていないことを確認すると薄汚れた手記を懐にしまいこんだ。警鐘のように大きく高鳴った胸に手をあて、シャツに皺が出来るのもお構いなしに指先に力が込められる。ゆっくりと開けた口から出たのは声ではなく喧騒に打ち消されるほど小さな吐息のみで、彼がどれほどの傷心しているのか見て取れた。これを書いた人物を知らぬはずがなかった。「エルネッタ・バイエル」、かつてガウェスと同じ騎士団に所属し、武器を振るっていた彼女。そしてミュラの育ての親である人物がよもやこんな結末を迎えていたなんて誰が予想するだろうか。しかも、実父……ロトス・ハイドナーのせいでだ。彼女の無念は如何ほどだったのか、この手記を見れば想像に難くない。もっと早くここを散策していれば彼女が化生に落ちる前に救い出せたのではなかろうか。後悔に震える男の前を多くの人が往来しているが、チラリと横目で様子を確認するくらいでさっさと通り過ぎていく。薄情とは感じなかった。むしろ声をかけられないほうが安心して懺悔の海に沈んでられる。
 誰かに名前を呼ばれることもなく、ぼんやりと人の波を眺めているとふと影が落ちた。上を見上げると学者と目が合った。赤い唇でニィと笑った彼は悪魔というよりは最高の悪戯を思いついた童のようだった。しかし彼の口元よりも大きく円いレンズの向こう側、ヘーゼル色の瞳がガウェスの頭に焼き付いた。
「次の調査はいつに?」
「調査なんてあるものか。あんな物騒なモンが彷徨いてて。おまけに雇った傭兵共はあの様だ。野犬の方が良い仕事をしたんじゃないかね、全く」
 大げさに肩をすくめてガウェスの隣に座る。ブーツの靴紐が解けていることを指摘すると、照れ臭そうに笑って「誰にも言うなよ?」と笑いながら金貨を一枚握らせた。口止め料という意味も込められているのだろうが、先の功績分も含めてだろう。彼は傭兵の繋ぎ止め方を理解している。感心しているガウェスをよそに男は足をグンと伸ばし気の抜けた大きな欠伸をしていた。幸いにもガウェスにうつることはなく、代わりに彼からはこれからどうするべきかが形の良い唇から語られた。
「あれを仆したいならば、ジャッバールまでとは言いませんが、それに準ずる武器を手に入れる必要があります。化生すら恐れぬ勇猛な兵を引き入れるべきでしょう。このまま突入しても余計な血が流れるだけだ」
 難しいことを押し付けている自覚はあったが無駄な血が流されるより断然良い。男は眉間に深い皺を作り「そうか」と返事を返したきり口を開こうとはしなかった。学者の中でも潤沢な資金を持っていることは廓を調査する道中に嫌と言うほど聞かされた。父が高名な学者らしいが、ガウェスは聞いたことも見たこともなかった。見栄を張っているのか、他国からきたのか。だが、たとい金を持っていたとしてもジャッバールに準ずる武器がそう安々と買える物か。例え、買えたとしてもアゥルトゥラの物ではなく、値が張る。全員分設えようものなら研究費の殆どをそちらに充てることになる。勇猛な兵だって雇うにも金が要る。
「それでお友達はいないのかい? 君のお眼鏡に適う戦士は」
 頭が回り、腕っぷしが立つ知り合いがいないわけではない。だが、今の自分はガウェス・ハイドナーに非ず。ここでは彼は亡者として扱わなければならない。でなければ銃をかついだ鬼どもが再び地獄へと連れ戻しに来るだろう。主人を騙すことへの罪悪に苛まれつつも首を横に振った。
「いませんね。職業柄、お友達は作らないので。……少し席を外します」
「便所か?」
「いえ。ただの野暮用です」
「主人に言えない用事ねぇ」
 許可が下りないのではと、ヒヤヒヤしたが行ってこいの代わりに右手をヒラヒラと振ったことで安心して彼に背を向けられる。彼は周囲の人間にジャッバールとケェーレフが衝突したときの様子を聞きに行くのだ。ケェーレフが五十階層に侵入したと聞いた時、鎮静化していた正義の心がメラメラと燃え上がり、銃を片手に走ったが間に合うことはなかった。終わった後も片づけがあると現場に近づくことは叶わなかった。どんな様子だったのか近くの人間に話を聞こうとしたが、てんやわんやの大騒ぎで耳を貸そうともせず、時間をおいてから再度様子を訊くことにしたのだ。理由は、ジャッバールの開発した武器がどれほどの威力を持っているのかの確認と新種の戦い方の特徴を知るがため。誰に話しかけようか視線を泳がせているとたまたま目が合ったとある二人組。丁度いいとガウェスはうっすらと笑みを浮かべ、近づいていく。そして警戒されない様に優しい声で問うのだ。「さきほどあったレゥノーラとの戦闘、何かご存知ないですか?」と……。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.141 )
日時: 2018/03/09 09:35
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 眼前の光景に、少女は声を失った。嘆く間すら与えられなかった。ただぼんやりと、人の首とはこうも容易く飛ぶものなのかと眺めるだけだった。飛び散る赤は、花弁のように美しいとすら思えた。どうして、と問う間すらありはしない。選択を誤ったと気が付くまでにそう時間はかかりはしない。先に出会った傭兵の仲介で、彼の雇い主たる学者と言葉をかわす事は叶った。
「そうは言うけどなぁ……君たち2人を一緒に、か」
「……無理を申し上げている事は承知しております。……それでもどうか、ご一考いただけませんか」
 吐き出す吐息は僅かに震え、強請る様な瞳は強かにその色を細めながら言葉を交わした事は記憶に新しい。少しばかり悩ましげな瞳をした学者に後ひと押し、してしまえばよかったのかもしれない。芳しき少女の様な顔ばせで、震える吐息で絡め取る様に言いくるめてしまえばよかったのかもしれない。幸か不幸か、或いはこの場合は不幸であったのか。彼の知り合いらしい学者と鉢合わせ、急ぐならば彼らについていくといい、なんて恐らくは厄介払いか、または存外純粋な好意からそちらへ付いて来て、このザマだ。もはややり直しは叶うまい。背を向けて走り出すにはもう、遅かった。体のいい盾として扱われなかっただけマシかもしれない。
 それでも、震える唇は音すら紡げず、ただ蒼白とした顔面に僅かに、桃の色を添えるばかりである。呆けている間にも突如として腕をひかれる。アッ、と声を上げつつも手を引かれるまま暗がりへと引きずり込まれた。眼前にあるのは険しい表情をしたハイルヴィヒの顔である。彼女の名を呼ばんと動きかけた唇には黒い手袋で覆われた人差し指が押し当てられる。静かに、と目で告げられればスヴェトラーナは黙り込むほかあるまい。視界が滲むのは何時以来だろうか。今更震えてくるスヴェトラーナの身体を、ハイルヴィヒが抱きしめる。
「……お嬢様、どうかこちらで……静かに、おとなしくしていてください。約束です」
 耳朶に流れ込む言葉に、スヴェトラーナは頷くしかできなかった。貴女は、と問う言葉は音にすらならず震える息にしかなってくれない。腕を離し銃を手に取るハイルヴィヒの姿を、水宝玉の瞳は怯え混じりに見つめていた。あるいは此処で、彼女を失う可能性も其の瞳の奥に描けば恐怖に震えは止まらない。恐ろしいと、悍ましいとすら思う。容易く摘み取られる花は、己のみでいいというのに。怒号と銃声と、咆哮にも似た声が入り交じる空間を直視しなくてはならないと理解しているのにこの身体はピクリとも動いてくれなかった。まるで、氷像にもで変えられたかの様に。固まる少女耳元に、傭兵の唇が迫る。大丈夫です、とその耳元で囁いて優しい口吻を一つ。物陰から現状を見るハイルヴィヒはポケットから取り出した錠剤を噛み潰し、刹那、息を吸い込んだかと思えば地を蹴り飛ばし前へ出た。同時に、銃声は2つ。スヴェトラーナの知らぬ言葉でハイルヴィヒが幾つか言葉を吐いて居る事は把握できた。此の空間で、彼女の声はよく響く、低くとも確かに少女らしさを僅かに孕む、甘い声だった。その実、零す言葉の意味がとても少女らしからぬものである事をスヴェトラーナが知る由もない。耳をふさいでしまいたい衝動だけは押さえ込んで、先程告げられた通りに物陰でただ黙して、涙をこらえ震えていた。祈るしか出来ぬ己の無力を呪えど今更どうしようもない事だ。ハイルヴィヒとの間にある約束じみた契約は何があっても守って欲しい、というものだった。仮令、誰かの命を犠牲にしても。酷い命であったとこんな時に改めて実感してしまう。はた、と思うのはそうだ、酷くエゴイスティックな思考である。ハイルヴィヒもまた、己と共に此処に隠れていればよかったのに、なんて、酷いこと。抱きしめて、囁いてくれる暇があったならできたろうに、なんて恨み節すら浮かんでくる。その実、ハイルヴィヒも其れを考えないでもなかった。けれど恐らく、此の面子でアレを退ける事は叶わないと踏んだ。隠れ続けて尚アレが残る様ならば、そして此方に気がついたら、どうしようもない事態になる可能性を思った。これは賭けに等しい。けれど程よく引く術を知らないわけではない。ある程度の所で適当に撒いて、スヴェトラーナと共に下か上か、どちらかへ逃げてしまう算段だった。迷いが己を弱くするとしても、此の決断に迷いはない。慢心はしない、細心の注意は常に払い続けるべきだ。一人で事をどうこうしようという気はないが、急ごしらえの面々で協調性を図るというのも無謀というものだろう。周囲を見やりつつ動かなくてはならない、というのは少なからずハイルヴィヒにとって不自由を強いられるに等しい。急ごしらえの身内とは言え、味方からうっかり流れ弾を食らう莫迦は避けたい。周囲からの悲鳴にも似た怒号も、咆哮か鳴き声か定かではない其の音も、今のハイルヴィヒには些細な雑音として処理されていた。照準を定め、引き金を引く。確かに正確に急所であろう箇所を撃ち抜けど死に至る致命傷までは中々与えられない。舌打ちをする間にも一人、一人と物言わぬ肉塊と化していく光景に対して想うことと言えば、スヴェトラーナが此の惨状を見ずにいてくれる事を祈るばかりであった。おかしな事柄ばかりだが、それでも進むためには此の化物を殺すか、或いは退かせるしかあるまい。敏い少女ならばきっと、己がいなくなろうと上へ向かう事を選び取れると傭兵は信じていた。幾度目か、引き金に指をかけた折に突如視界がブレた。せり上げてくる不快な感覚に思わず口元へ手をやった瞬間、背に大きな衝撃が走る。アッ、と声を上げる間もなかった。背後に支えとなってくれかけた壁はガラガラと音を立てて崩れ落ち、それから――。

「ハイルヴィヒ……ハイルヴィヒ?」
 すべての音が止んだ時、怖ず怖ずと顔を覗かせた先に広がる光景を、現実とは認めたくないが認めざるを得ないだろう。それでも真っ先に、今一番に求める人の名を無意識に呼ぶのは現実を、現実として処理するための思考が追いついて居ないからだ。歩を進めればピシャリ、と小さな音を立てて赤が跳ねる。やや茶に汚れた白いソックスに花が咲く事など気にもとめずに、スヴェトラーナは歩みを進めた。遺体の数を数えて、顔を確認出来るなら其れを、出来ずとも服装を見やれど確かなことは一つ。“ハイルヴィヒ・シュルツが其処には居ない”という事だ。白いリボンを靡かせる黒い長髪を探そうとも、其の姿は無く。黒いジャケットと白いYシャツの整った格好を見つけようとその体は少女のものに非ず。ならば彼女は、と周囲を見回し、ぞ、とした。ポッカリと壁にあいた穴は、記憶の限り先程まであったものでは無い。血の気が引く様な心地だった。踏み出そうとする足は全く動いてくれない。前へ、前へと向かわなくてはならないと思えど、其の穴から下を覗く事が、彼女の名を呼ぶ事が、只恐ろしい事の様に思えて仕方がなかった。返答がなかったら? もしも其の穴の先に――。
「っ……ふ……ぁ…………」
 崩れ落ちそうになる足をどうにか踏ん張って、赤く、絨毯がかかった様な壁際へ歩みゆく。手を付けば生暖かくぬるりとしたものが手袋に触れるも、気に留めてはいられなかった。震える手で、足で、滑りそうになりながらもどうにか其の穴の傍へ向かうまでにひどく、長い時間がかかったような気がしていた。実際は、10分も経っていないのだけれど。――覗き込む穴の先にあるのは、暗闇。はらはらと流れる雫がはるか下方へ落ちていく。その先にあるものなど、分からなかった、見えなかった。ハイルヴィヒ、と震える声で呼んでも返答は無くただ、声が響くのみ。何も見えない、と言うのはまた或いはの可能性を想起させる。うつむいているばかりではいけない、とわかっているのに、理解できているのに。顔を上げられない。いっそ此処から飛び降りれば、と思えど足は竦む。己の無能さに、非力さに、何もかもに嫌気がさす。誰かのように優れた力など持っていない。どうしようもないただ一人の娘である。為すべき事を思い返し、なぞり、それでも震える声でもう一度だけハイルヴィヒ、と名を呼んだ。ひどく、弱々しい声で。月明かりすら刺さないこんな場所では、何も見えやしない。手を伸ばすことすら恐ろしいと思う己自身にただただ嫌気がさすばかりだ。ふさぎ込んでしまいたかった、もう嫌だと嘆きたかった。けれど、ふさぎ込むばかりでは、誰一人救えない。或いは救える可能性すらも潰してしまうことになる。奥歯を噛み締め、少女は顔を上げる。赤く染まる瞳も、わずかに上気した頬も、其の癖ひどく冷える身体も、何もかもをそのままに。けれども此の心に宿る僅かな希望だけを頼りに一歩、また一歩と歩みを進める。一人で歩む道は、こんなにも静かなものだったか。2つに結いた金の髪も、新たに設えた手袋も、その服も靴も斑な赤に染まってこそいるが無傷であるのは幸いだった。これに痛みでも加わっていたら、と思うとつい、スヴェトラーナは自嘲じみた笑みを浮かべた。ハイルヴィヒはきっと、もっと痛かろうに、なんて。或いはこの心がありふれた心であるとしても。一人で此処に居るという事がどんなに愚かしいかなんて、スヴェトラーナとて分かりきっている。けれども足は鉛の様に重くて仕方がない。喉奥にせり上げてくる不快感をどうにか飲み込んで一歩、一歩と上へ向かう。其の途中、聞こえてきた繰り返される銃撃音に肩が跳ねた。それでも冷静に一歩を踏み出す事が叶ったのは、50階層の光景を薄らとでも記憶していたからだ。チャリ、と音を立てた左耳のイヤリングに触れて、深呼吸を。その後、早くしなくては、と思うのは謎めいた確信を――ハイルヴィヒの生存をなぜだか確信できたから。盲信であると言われれば、そうであるのやも知れぬ。かと言ってこの感情を押し殺して、留めてしまっては歩む理由すら失ってしまう様な気がした。徐々に酸化して赤黒くなった誰かの血が分からぬ鉄の香りを纏えど、今は其れを気にする余裕はなかった。
 向こうに煌々と輝く人々の存在の証に胸をなでおろす。それでも急がねば、という感情は抜け落ちない。漸く階段を登りきった折、向こうに見える、倒れ伏し動かない肉塊に何故か、胸が締め付けられる感覚を憶える。正しい事とわかっている、納得もしている。これが間違った事だなんて思っていないし、ましてや可哀想、なんて思ってもいない。それでも何故か、喩えるならば恐らく子を失った母の心とは、これをさらに悲哀で覆い、悲痛の涙で満たしたものなのではないかとすら思う程には。ざわめくばかりの周囲は、たった一人顔を出す少女の存在になど気が付きもしないらしい。安堵の息を吐くにはまだ早い。相変わらず重い足を動かして留まらず、前へ。歩むうち、周囲のどよめきが此方へ向いている様な感覚を憶えるも其れに構う間は無かった。頼れる誰かを、と思って浮かぶ人は、どうして。
「……おにいさま?」
 其れは或いは、ひどく不用意な発言であったのかもしれない。けれど、驚愕に見開く瞳で、震える唇で、そう呼ばずにはいられなかった。ひどく、懐かしい心地だった。郷愁にも似た感情だった。頼れる誰かをと浮かべたうちの一人、出会うことは或りえぬはずの人。声が震えていた、どうしたって多分、上手く言葉を紡げていなかっただろう。それでも、懐かしい陽溜まりの香りを確かにおぼえている。あの温かな空の色をおぼえている。二人組と何か話しているらしい柔らかな声だって、忘れるものか。駆け出しそうになるも、其れを阻むのはひどく重苦しい足だった。ともすれば、こればかりは幸いであったやも知れない。喘ぐ様に息をしながら、空気を吸い込むのすらやっとな心地でずるずると歩みを進める。其れは、本能的な歩みであったのかもしれない。火の灯りしかないこの空間で、ただ優しく、けれども眩しい光に釣られる様に、一歩、一歩とただ歩む。荒くなる息をどうにか整えようと必死で、周囲のどよめく様な声など少女には聞こえなかった。血に塗れた少女の存在に気付く誰かが、何かを叫んでいる様な気がする。其の声ですら、今のスヴェトラーナには遠く、何処か別の場所から聞こえてくるただのざわめきの一つに過ぎない。彼と語らっていた二人も此方に気付いたらしい。ぎょ、とした目で此方を見ている。ちらり、と視線を去り際の二人へくれてやれば驚愕の表情のまま、その場に固まってしまった。ちょうど会話が一区切りでも付いたところであったのか、少女に知る術はない。それでもごめんなさい、とも助けてほしい、とも口にできぬままただ一歩、また一歩と三人、否、実質的には一人の元へ歩みゆく。何か言われるより先に、言葉をかけられるよりも先に、と言う意識が何故か芽生える。焦燥であり、或いは淡い歓喜ですらある。名も無き花の如く、気高くなれぬただ柔らかな少女のまま、声が聞こえるであろう範囲に急げば詰まる息を吐き出した。
「……ハイルヴィヒ……いえ。私の護衛が……壁が、崩れて……きっと、下の、方に……っ」
 必死だった。伝えたいことが纏まっているのに吐き出される言葉はてんで纏まってなんかいない。天上に煌めく三日月があれば或いは、けれど地下に、月の光は届くまい。優しき月光に包まれし夜は此処には無い。されど日輪の如き輝きならば、仮令その拠り所を失おうとも確かに、此処に在る様に感じられた。懐かしい人或いは其れに似ただけの誰かが口を開くよりも前に、声を絞り出す。
「名も知らぬお方に、お願いするのも……妙な事とは存じております。でも……どうか、ご助力くださいませんか」
 あくまでも、他人同士。其れを貫かねばなるまいと理解している。故に、心の何処かで違和感を憶えながらも少女は切に言葉を紡ぎ、頭を下げた。水面を湛え、潤む水宝玉から、雫がこぼれ落ちぬ様にと必死に押さえ込みながら、少女はまた懇願する。どうか、と。柔く震える声を隠すことなんで出来なかった。情けでいい、ほんの僅かな哀れみで十分だ。恐怖に溺れてしまうその前に、歩む道すら見えなくなってしまう前に。無理は承知だった、駄目と突きつけられれば其れまでだ。それ以上は無い。別の護衛を探せと言われてしまえば其れまでで、けれど彼女でなくてはという理由を明確に少女は口にはできない。ただ、尤も信頼できる人が彼女であるという以外の、何ひとつは。
「何かのついででも、構いません。行けるところまでお送りいただくだけでも構いません」
 それでも少女は言葉を紡ぐ。永遠ならざるも、永久を誓った人を求めるように、言葉を選ぶ余裕など無かった。息が荒い、上手く酸素を吸い込めない。気分が悪くなってくる様ですらあるが、震えたままでも、言葉を止める事はなかった。
「……どうか、どうか……お願い、します」
 言い終えれば顔を上げる。恐らく其処にあるはずであろう青空の色を求めて、水宝玉は柔く煌めく。願いを、祈りをただ、今は見えぬ空の輝きへと込めて。

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