複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.118 )
日時: 2017/11/14 13:51
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

「なんか騒がしいですねー」とどこか他人事の様に呟いたのはレアである。抑揚のない口調とは裏腹にその目はキラキラとした期待に満ちており、暇があると槍の調子を確かめるように槍杆の中段をしきり撫でている。そんなレアの様子を横目でチラチラと確認しつつも、エドガーはどこか落ち着かない様子で昇降機の中を歩き回っていた。彼女の目になると覚悟を決めてここまで付いてきたものの、やはり後悔は拭えず、無力な自分がどこまでレゥノーラに通じるのか、どこまで彼女に守られ、そして守っていけるのか不安があった。いっそのこと機械トラブル等が起きて動きが止まってくれはしないかと願ってしまうのだが、彼の思いとは裏腹に相変わらず昇降機はゴウンゴウンと音を立てて二人を地下へと誘っていく。
 昇降機が止まり、僅かな衝撃がここが終点であると知らせてくれる。一度ここで降りて別の昇降機に乗り換えるのだ。アゥルトゥラの気候とは異なる地下特有の纏わり付くような湿っぽさが不快であった。故、空気を散らすよう足の爪先を上に向けて蹴り上げるようにして二人は歩く。
「なぁんか嫌な感じですね。こうべっとりくっついてくるって言うんですかね。あんまり好きじゃないです」
「あぁ、そうだな。それに」
 ここでエドガーは言葉を切り、基地を全体を見回した。右往左往と慌ただしく動く学者連中は研究の忙しさに追われているよりは、予期せぬアクシデントに見舞われて焦っているようだった。顔のどこかに不安が陰り、学者ですら武器を片手に同じ学者仲間と話をしている者が多くいる。どっしりと構えているように見える傭兵連中も武器を手放そうとせず、必要があればすぐにでも戦うことができるだろう。敵のいない安全地帯であるはずなのに肌を刺すような緊張感は何なのか。エドガーは手汗をズボンで拭い、普段は楽観的なレアもヒリついた雰囲気に呑まれ、居心地の悪そうに顔を顰めていた。
「なぁ、本当に何かあったんじゃないのか」
「下の方で大きなレゥノーラ狩りをしているって言ってたじゃないですか。きっとそれのせいですよ。私達も早く混ぜて貰いましょう、親方」
 六十階以降でレゥノーラの大規模な掃討作戦が行われているのは知っていた。昇降機を使った際に偶然乗り合わせた学者と彼が雇ったであろう傭兵が教えてくれたのだ。あまりじろじろとは見ていないが、いやに身長が高い傭兵であったことは覚えている。(肝心の顔はフードを被っていたために見えなかった)
 戦場に赴くことを良しとしないエドガーは乗り気がせず、遠回しにここで待機しようと提案したものの、要らぬ気遣いはレアに察せられることはなく終わる。足取りの重いエドガーを引っ張り昇降機に押し込むと地下に向かうためのスイッチに手をかける。指に力を込める前に、一緒に乗る人はいないかとレアが問うたが応えた者はいなかった。一瞬波打ったように静かになったと思うと、二人のほうを瞥見しコソコソと耳打ちをするのみ。「言いたいことがあるならはっきり言え」と立腹するレアを宥めエドガーがスイッチを押す。足が地から離れた浮遊感を一瞬味わったのち、昇降機が動く。地下に降りていくにつれて頬に当たる風は冷たく鋭利なモノになっていく。平均体温が三十七度と高く比較的寒さに強いレアも堪えるらしい、腕を軽くさすっている。だから厚着してこいと言ったのにと非難めいた視線を向けているとレアと目があった。
「親方の外套ください」
「俺が死ぬから無理」
「親方は長袖着てるからいいじゃないですか」
「俺は寒いの苦手なんだよ」
 冷たく突っぱねればレアはむくれながらも渋々マントの袖を離す。聞き分けの良い子供のような仕草にエドガーの顔には苦笑いが漏れるが、その顔も耳を貫くような発砲音に思わず強張ってしまう。ワイヤーが擦れる音には慣れたが、小気味よくタァーンタァーンと廓内に響く発砲音には未だ慣れず肩が揺れてしまう。生き物の命を奪うソレはエドガーにとっては死神の声と変わらない。だからとてつもなく恐ろしい。
 二人が五十階まで到達した時、多くの人がごった返していた。確かにここにも前哨基地があるので上下の階と比べると人は多い。だが、座る場所が確保出来ないほど人が集まることは滅多にあることではない。昇降機の到着すると、無数の視線が一気に二人に突き刺さるが、すぐに興味が失せたようで皆、先ほどの会話の続きや武器の手入れの続きを始める。状況が掴めず惚けた二人の耳に飛び込んできたのは一体のレゥノーラが階下から徐々に階上へと上がってきているという報である。ようやくエドガーは先ほど鳴っていた発砲音の意味を理解し、戦いた。今現在は多くの傭兵や兵士が駆り出され足止めしてくれているおかげでレゥノーラの影はまだここにはない。だが、彼の山登りは順調らしい。六十階を超えたと聞いた時は周りがざわめき立ち、幾人もが昇降機へと乗り込み地上へと帰って行く姿が目立つ。誰も咎めはしない。それが生き残る上で最良だと理解しているから。ただソレをせずに死地へと飛び込む愚者もいる。
「先輩はここにいてください」
 レアも斯様な輩であった。槍に巻いた包帯を解きながらエドガーの方を一切合切振り向かずに答える。彼女の意識はエドガーのことよりもこれからやってくるであろうレゥノーラへと移っていた。包帯が全て外れ相棒が姿を現すと彼の返事を待たずに少女は廓の奥へと走り出す。
「行っちゃ駄目だ」とエドガーの制止は輻輳した人々の前では消され、レアの耳には届かなかった。カルウェノ人と大差ない小柄なレヴェリは直ぐに人並みに飲まれ見失ってしまう。水仕事で荒れた指先はレアの金糸を絡め取ることは叶わず手元に残ったのは彼女の残り香だけであった。後悔をすることさえも忘れ、呆然と立つ男の耳に「あいつ、終わったな」と見知らぬ誰かがせせら嗤う声が聞こえた。思わず声のした方をキッと睨みつけるが、自分の身長を優に超える男に見下されれば、体中の筋肉が緊張し委縮してしまう。切れ味の良いナイフを喉笛に突きつけられているような感覚に反射的に目線が下に向いてしまう。男はエドガーを見下ろし鼻で笑うと、小銃片手にレアの後を追うように人を掻き分け廓の奥へと消えていった。自分の無力さに涙が零れそうだったが、グッと堪え、これから自分が成すべき事を考える。手元にある武器は折りたたみ式のナイフが一本とリボルバー拳銃が一丁。それと替えの弾が5発。あまりに心許ない装備だ。新しく武器を買おうにもそんな大金を用意できない。そもそもこの状況下で売ってくれるかさえ分からない。頼る人すらいない絶望的な状況で、立っていることしか出来ない自分がもどかしかった。

 避難してきた人の波に押し流されそうになりながらもレアの爪先は廓の奥に向いていた。今の彼女はレゥノーラに対する憎悪と彼らを屠れるという歪んだ愉楽のみを糧に動いている。彼女の身を案じた言葉はただの雑音として片付けられ、赤い瞳を持つ少女は同じく血のように赤い瞳をもつ化け物を殺すために奥へと向かうのだ。腕を引っ張れば多少は止まるのだろうが、燃える炎の中に落ちた栗を素手で拾う者はいない。レアに向けられたのは嘲りと哀れみの視線だけだった。
 さて、人々の雑踏が遠のき視界が開けると廓の奥で何が起きているのか手に取るように分かる。絶え間なく聞こえる発砲音が止み、見知らぬ誰かの劈くような声が響く。それがレゥノーラか人間のモノなのか。恐らく後者であろう。硝煙の臭いに混じり微かに血の臭いがここまで漂い、多くの者は先の見えぬ暗闇で起きた出来事を頭の中に思い描く。ゴクリと誰かが息をのみ、多くはその足を止めた。何が来てもいいように先の見えぬ暗闇にジッと目を凝らす。無論レアもその足を止めたが、その実、親の仇と殺せる喜びに打ち震えていた。前回はガウェスに邪魔をされたが今回は違う。自分の手で憎き化け物を闇に葬り去ることができる。鼻がなくのっぺりとした顔に槍の刃先を突き立て何度も嬲り尽くし、その白い四肢を抉り、穿つ。そいつが息をたっぷり含んだ声を上げ許しを請うても内蔵をかき混ぜてやるのだ。そして赤い結晶を垂れ流し、宝石の運河を作ってやる。想像するだけで笑い出してしまいそうだった。もやは彼女に敗北の文字はない。これからやってくる仇敵の惨たらしい最期を思い浮かべ少女はうっそりと微笑み自分の背丈以上の槍に手をかけたのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.119 )
日時: 2017/11/14 16:46
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 息の仕方すら忘れてしまったかの様だった。震える身体は呼吸すら拒否してくる様で息苦しい。スヴェトラーナがハイルヴィヒの呼びかけに何一つ反応出来なかったのは、今しがたの恐怖が心の臓に刻まれたせいだ。空気を求めて僅かに開閉を繰り返す唇も、震えで動きもままならない。恐ろしいものが居るのだとは知っていた。わかっていた、つもりだった。ハイルヴィヒの声も、ミュラとソーニアが何やら話している声すら、遠い場所で響く音の一つとしてスヴェトラーナの耳には届いている。止まらない衝動に身を委ねるならば、きっと泣いてしまっていたのだろう。すんでのところでそれは押し留められている、否、恐怖でそんなものすら飛んでしまっているのかもしれない。明滅する光は其処には存在しないのに何故、何故。此の瞳の奥に赤く光る何かがあるのか。少女には理解できない、何一つ。理解を頭が拒んでいるのではないかとすら思えるほどぐわん、と脳内がかき回される感覚を憶えていた。
「ハ……イル、ヴィヒ……ハイルヴィヒ…………、……わたし」
 少女は漸く声を絞り出す。明滅する光が、眼窩に焼き付いて離れない。銃声が耳の奥でまだ響いている。飛び散る赤は美しかったというのに、あの青い色は何故あんなにも恐ろしかったのか。脳裏に描く姿が明確にならぬままに見据える先の青い色。同じ青い瞳でも、手を差し伸べてくれる人の青のなんと優しく美しい事。顔をあげて、呼吸をするだけで精一杯だった。声が掠れて、きちんと音になっているか、自身の事だというのに定かではない。齎された情報量が多すぎるわけではない。にも関わらず少女の脳内は混乱だけが占めていた。心臓が、痛いくらいの速度で動いている。何かがこみ上げてくるようで只、恐ろしく、悍ましい。思索をと思えど何も考えられなかった。ただ怯える一人の少女である事しか、今はできない。
「私……なにも、できなかった。なんにも、ねぇ……ハイルヴィヒ。私……なにも」
 声が震えた。底冷えする様な悍ましさが背筋を伝う。見開かれずとも其処に鎮座する一対の淡い水の色は湖面の様に揺れていた。少女は、両の手で自らの肩を抱きしめる。嘆きを、哀しみを紡ぐ言葉は氷のような冷たさすら孕んで。涙は未だをの頬を流れずとも、瞳に浮かぶ光の珠は、きっと。
「お嬢様……貴女は…………」
 傭兵の手を取って、怯えたような目をしたままでうわ言のように言葉を吐き出す少女に、かけるべき言葉は如何なるものであるのか。傭兵自身もわからずに居た。何も出来なくて当然だ、何もさせなかったのだから。彼女はそう在るべきであり、そうした存在である。寧ろ不用意に動かれれば、ハイルヴィヒとしても困るどころでは済まなかっただろう。握りしめる白い手の、なんと冷たいことか。この手が銃を握る可能性を思わなかったわけではない。けれどもそれは酷く、不釣り合いなものに思えて仕方がない。なにせ白いレースが土に薄汚れてしまっている事ですら、不自然極まりない事象に思えて仕方がないのだから。抱きしめる事が叶うならばそうしていたのかもしれない、けれどもハイルヴィヒはスヴェトラーナの手を握るに留まっていた。無意識の境界線は、二人を隔てる一線の様であり、けれども或って無い如くのものに相違ない。彷徨う少女の薄氷色がふと、学者たる人の方へと向いた折の事だ。其処に流れる僅かな赤を認めれば、薄氷は丸く見開かれる。零す音は声ですら無い。ただ短く、吸い込む息のような音であった。
「お怪我を…………大丈夫、ですか……ソーニア様」
 静寂を破り、ハイルヴィヒの手を離したスヴェトラーナはソーニアの元へと向かい、不安げな声を零す。揺れる瞳は最早ソーニア以外の何者も映してはいない。後ろに続くハイルヴィヒですら、その色に映る権利すらないと言わんばかりに。一切を排していた瞳が、再びハイルヴィヒを見やるのはスヴェトラーナがソーニアの前にしゃがみ込みその翡翠の瞳を近い距離で見やった後の事である。
「ハイルヴィヒ、ソーニア様のお怪我の治療を。……必要なものは持ってきておりますから、ご安心くださいね、ソーニア様」
 ソーニアが何か言葉を口にするよりも早く、スヴェトラーナの目配せと共にハイルヴィヒが彼女の傍に膝をつく。その手を覆っていた手袋を外し、手袋を中へ入れる傍ら腰の鞄から水筒を取り出した。其れを慌てて手で制するのは他でもない、ソーニアであった。ゆるり、青い瞳は持ち上げられ、深い緑の色を真っ直ぐに見据える。口は付けていないが、というやや的はずれな言葉に、緑の瞳は何処か訝しむ様に歪められた。それとほぼ同時に、下方に在った青い色がソーニアの緑の瞳を至近距離で見つめている。
「ひとまず、応急的な処置だけでも大人しく受けてくれないか、フロイライン・リエリス」
 ささめごとの様な言葉であった。立ち上がったハイルヴィヒは耳朶に息が触れる程に近い距離で、僅かな声量で、呟く様に言葉を零す。翡翠の色は丸く見開かれた。すぐに離れたハイルヴィヒの顔を慌てて見やるも、その顔には平素と変わらぬ仏頂面が張り付いているだけだ。其の癖、青い瞳はソーニアの瞳を射抜く様に見つめ続けている。これではまるで脅迫だ。その実、ハイルヴィヒにその意志は無く、ある意味令嬢を安堵させるために彼女を使う事への罪悪感が僅かに在ったのだが、其れが言葉になる事はない。
「……わかったわ。それじゃあご令嬢のお言葉に甘えるとしましょうか」
 その言葉に安堵の息を零すのはハイルヴィヒではなく、スヴェトラーナであった。

「……戻りましょう、ハイルヴィヒ。……ソーニア様も、ミュラさんも。……このまま進む事は、とても得策とは思えません。下の方々にお願いをするのも一手ではありますが……どこまで協力を仰げるか。お二方だけならまだしも、その……私が、いるのでは。……それに何よりもソーニア様の怪我の手当を……優先したく思います。此処でやるよりも上のほうが落ち着けるでしょう? ……先程の、あの……“あの子”も上へ行きましたけれど……敵対の意思さえないならば、或いは……」
 ソーニアの傷の簡単な洗浄が終わった折、伏せた瞳をゆるりと持ち上げ、少女は語る。その瞳は訝しげに歪む翡翠を捕らえた時、ハ、として見開かれた。ふわり、少女の視線が宙に舞うのは一瞬で、再び僅かに瞳は伏せられ視線は下方を彷徨う。けれども今は、そればかりではなかった。やや薄氷の根底の色を揺らがせつつもふるりと、睫毛を揺らす。一歩、二歩、距離を詰めれば真紅のスカートの裾が踊る。
「その……分かり合える、とまでは申しません。ですけれど、此方に敵意がないと知れば危害を加えて来たりはしないのではないかな、と……思わなくも、ないのです。……言葉が通じればそれこそ……。……いえ、すみません。此方は……戯言と聞き流してくださいませ」
 確証などありはしない、けれどもあの時己は一瞥すらされずに見逃されたのではないか、と少女は何処か感じるものがあったらしい。恐怖は確かにあったのに、未だにこの様な事を口に出来る事に、スヴェトラーナ自身何処か呆れさえ憶えていた。それでも思わず口にしてしまう程には只、可能性を求めていた。無謀とは知っている、無知とは百も承知。故に少女はただ、苦笑にも似た笑みを浮かべる。「すみません」なんて言葉がまろびでるけれども忘れて、とは言わなかった。
「ねえ、ソーニア様。ひとつ、宜しいですか?」
 歩む最中、少女は、意を決したように口を開く。不安に揺れる瞳で、けれども目の前の深緑の色をただ、真っ直ぐ見据えて。問う先の彼女は赤毛を僅かに揺らす。
「何、スヴェトラーナ」
「先程の……ものは、人をいくら揃えても到底太刀打ち出来るものではないという認識で、良いのでしょうか。話し合う云々は抜きにして、正面からぶつかるならば、ですけれど」
 憂う様に、瞳を伏せるのは一瞬の事。またすぐに、薄氷の色は翡翠を見やる。柔く明滅を繰り返す様に、ぱちり、ぱちりとその双眸を瞬かせて。言葉の節々に滲む柔らかさは、此度ばかりは良い方向に働く事もないだろう。少女が平穏をこそと望むのは嫌というほどにわかりやすい。かと言って其れが理想論に過ぎぬ事もまた、少し世を知る者ならばすぐに理解できてしまう事だった。
「そうね、今のところは。……それにそもそも、話し合うなんて考えは捨てた方がいいんじゃない? あれが何を言っていたか貴女、わかる?」
 その言葉に、少女の瞳は逸らされた。何かを口にしていた事は理解できても、その内容までは理解できない。言語でのコミュニケーションが望めない以上、言葉で解決する事は不可能だという事くらい、スヴェトラーナにもわかっている。それでも何かを話すならば、分かり合える可能性を思ってしまうのは一種、少女の無垢な愚かさというものなのだろう。何かを思い悩むように、その瞳は伏せられた。
「ならば、そうですね……私達に出来る事……いえ、いいえ。私達が為すべき事はきっと、一つなのでしょう」
 ぽつねん、と言葉がこぼれ落ちた。星色の髪を揺らして、少女は音を紡ぐ。未だ知らぬ心を知るために、たどたどしくも紡ぎゆく。選び取る道に迷いながら、逡巡を経て、この手に何かをひとつ、ひとしずく、たった一粒、つかむために。
「付け入るなんて、そんな事を望んではおりません。権利の一つもいりやしません。戯言をと思われても仕方がないでしょう。ですけれど……叶うならばただ、協力を、協定を。……我が家が、いえ……私が望むのは平穏なのです。只、其れだけ。……傲慢とは知っています。叶わぬ夢かもしれません。ですけれど……そうだとしても“私”はもう、此処に立っていますから」
 夢見る少女は甘やかな、砂糖菓子の言葉ばかりを吐き出した。愚かなどと百も承知。選び取る事はすなわち、責任が生まれる。少女にとってそれはきっと恐ろしい事に相違ない。けれど、真実から顔を背け、決断を先送りにしてきた事も、それを選択していたのだと自覚するの瞬間は家を出てから多々あった。そして今、言葉にして漸く実感としてこの胸に染み渡る。痛みを憶える様な感覚さえあった。無力感に打ちひしがれる心地さえある。本来持ち得ぬ夢を見る自由を得てしまったが故に、この胸が痛むのであるとすれば目を閉じたいとすら思う。それでも一つ、前を向き、歩を進める理由があるならばきっとそれは、自ら選んだ道を否定したくない、その一心だったのかもしれない。正義を叫ぶ心を少女は持ち得ない、けれど。
「惰性に日々を過ごし、怠惰に身を任せ、怠慢に過ぎる行いをしたせめてもの罪滅ぼしなどとは申しません。ですけれどせめて……せめてもの責任は果たさねばならない……と、その……思うのです」
 一瞬の後に再び持ち上がった瞳には迷いの色が宿る。けれど同時に、震える声には決意も共に。残された時が僅かである事は、スヴェトラーナとて薄々理解していた。幾年後には何が起こるか知り得ない。何時か家名を背負う必要がなくなる日も来るのだろう。その日が何時訪れるかはわからない。或いは、背負う前にその必要がなくなるやも知れぬ。そうだとしても、今できる全てを為したいと思う。ついぞ先程まで怯えていたばかりの少女は名を汚さぬ様にとの心を胸に。口遊む愛の言葉を知らずとも、唄うべき言葉を知っている。知らぬことばかりの中でも何かを為すべく歩む事こそが正しいのだと柔らかな心で信じていた。後ろに続くハイルヴィヒは何も語らない、想うことはあれど、其れを言葉にする事は今は出来なかったらしい。少女の言葉は、彼女が選び取る道を模索する中でひとつ、選べる真実だった。その過程でこの身を失う事になるとすれば、或いは其れもまた。
「……難しい事はよくわかんねーけどさぁ」
 前方より少女の声が静寂に響く。瞬く彗星は何かを求め、縋る様に。スヴェトラーナと視線が交われば気まずそうに目を逸らすミュラは軽く頬を掻いている。
「いいんじゃねえの、そうしたいって思うなら、そうしたら。家の事とか、柵とか、そういうのは其れこそ私にはわかんねぇけど。……スヴェータがそうしたいっていうなら、そのために頑張ればいいじゃんか。それじゃ駄目なのか?」
 カツン、と少女の踵が音を奏でる。一歩、二歩、そうして三歩。ミュラとの距離を詰めるスヴェトラーナの表情は其れこそ何処か穏やかに、甘やかな微笑み。柔らかな月光の色を瞳に融かして、ミュラの手をそっと握りしめる。
「ふふ、ふふ……そうかも、しれませんね。ミュラさんったら、もう……」
 自由を知るその瞳が羨ましい。はた、と浮かぶ思考を少女がふるい落とすのは己の浅はかさ、はしたなさを恥じた故に。代わりに浮かぶ笑みはただ優しさだけを湛えていた。月明かりの星空に柔い夢を祈って。ハ、として手を離すのは己の手を覆う白が、土に汚れていた事を思い出したからだった。「ごめんなさい」なんて呟く声は苦笑交じりの笑みとともに。別に、と言う声が鼓膜を震わせれば、少女はまた喜色を隠さず笑みに宿す。今度は素手のまま、やや日に焼けたその手を握りしめた。暖かな感覚につい、少女の瞳は細められる。
「……仲が良いのは結構だけれど、早く行きましょう。手当してくれるんでしょ」
 ややあってから、咳払いの後にソーニアの零す言葉に弾けるように、どちらともなく手は離された。スヴェトラーナは変わらず笑顔のまま、またごめんなさい、と言葉を零す。そうして少女は、何時か来る夜明けに向けて歩み出す。一歩は頼りなくとも一人ではないならば、きっと。薄氷に暁の夢を宿して歩む先を見つめていた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.120 )
日時: 2017/11/30 00:09
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 赤く濡れた得物を引き摺り、それは暗闇から姿を現した。何発かの銃弾がその身を穿ったのだろう。真っ白な皮膚に幾つかの皺が生じ、それは蛆が這う様に蠢く。それ等が一つの塊となり、銃創を塞いでいった。それでも白磁のような肌にこびりついた赤い結晶は石畳へと落ちず、形容のしようがない異質さを醸していた。その異質さは恐怖を輩としている物であるが、レアは恐れ一つ抱かず、一歩、また一歩と向かっていく。踵を返すなどという選択はない。長槍の穂先を石畳へと下げ、眼前のランツェールを睨む。これは父母への弔い戦である、目の前の化物を殺めたならば父母の無念も少しは晴れる事だろう。
 原動力たる怨嗟は苦々しくあるが、その先にある報復、復讐、その類は甘美な物である。一歩、また一歩とランツェールに近付いていくにつれ、言い得がたい高揚感を覚え、少しずつ自身の口角が釣りあがっていくのが感じ取れた。ランツェールの血に濡れた得物を見ても、やはり恐怖を覚える事もない。恐怖を感じる事もない。ともすればレアは駆けるしかないのだ。長槍の穂先をランツェールへ向け、石畳を駆けてゆく。自身の死などという最悪な想像は微塵もない、眼前の仇敵を屠るという未来しか見えないのだ。
 目の前に迫る人間の女、それは得物を携えている。恐らくは今此処で退けても執拗に追ってくる事だろう。しかし、一人で何が出来るというのか。手折るも容易い、刺し穿ち殺めるも刹那の如し。であるならばやるべき事は一つしかない。
「トォア、コクラ」
 ランツェールの得物、その穂先が彼女へと向く。嗄れた声で愉悦を口にした刹那、その青い目は大きく見開かれた。自身の身の丈以上もある長槍、それを胴に受けるも、更に一歩、二歩と突き進んでいく。傷口が柄すらも飲み込み、その冴え冴えとした白を汚していく。刺し貫かれようと表情の歪まぬ眼前の化物、恐らくは痛みすら感じていない事だろう。であったとしてもレアは鬼胎抱く事なく、長槍を引き抜こうと身を翻した。化物の真っ白な手が柄を掴み取り、得物の切っ先をレアへと向けているからだ。青い目と視線が合うなり、槍の穂先を軸にランツェールの身体を右へと振り、そのまま力任せに槍を引き抜いた。真っ白な手は槍の穂先に割かれ赤い液体に染まるも、すぐさま結晶に覆われていった。恐らくあのまま居たならば、あの得物を用いた投擲を食らっていた事だろう。一歩間違えば死が訪れる。
 レアは言い得がたい高揚感に心を蝕まれ、命のやり取りというのはこういう感覚か、と内心感嘆するばかり。それはランツェールとて同じであった、銃で一方的に撃たれるでなく一合、二合とただただ刃を結び合うと、古い記憶が呼び戻されてくるのだ。昔の人間、そのまた昔の人間と対峙した記憶だ。勝敗など覚えていない、それでもその記憶に昂ぶりを覚えざる得ないのだ。
 言葉なく猛り、ただ吼える。眼前の化物は宛ら狂戦士の如く。長槍の穂先へ向かい駆け、刃が身に食い込めど止まる事なく、得物を振るう。切っ先がレアの右半身の彼方此方を掠め、その都度に肌の上を血が伝い、落ちていく。煩わしい痛みに呻きを上げながらも、右足を踏み込み上体を倒した刹那、右膝へとランツェールの得物が突き刺さる。撚った麻紐を力任せに引き千切ったような、乾いた音と共に訪れる激痛に吼えながらも、ランツェールの身体を突き倒す。一瞬、視界に入った膝は肉が裂け、骨が顔を覗かせていた。倒れてなるものか、と石突を石畳に突きながらランツェールを睨めば、その青い目もレアと等しくあった。白磁に差す朱、二つの青は目を背けたくなる程に美しく、同時に恐ろしげであった。現世のものではなく、常世のものではないのかと錯覚する程にだ。そんな化物が駆け、今眼前へ至る。開かれた口は厭に赤々とし、それへと突き刺さろうとする己の槍の穂先は最早止まらず、己の右目へ至る化物の得物も止まる事を知らない。
 頬を伝う血と柄を伝う赤い液体が混じり、石畳を汚していく。赤黒い沼に咲く、睡蓮の花の如くそれを踏み潰すのはレアの足であった。
「……ばけっ……、化物がっ……」
 ランツェールの身は槍の穂先へぶら下がっている。右手に持った得物、その切っ先はレアの額を切り裂いているも、致命打になっていない。身を焼くような痛みに耐えながら、化物の身を突き倒すとそれは死んだように身動き一つせず、石畳に寝転がっていた。ランツェールから離れ、尻餅を付くように座り込み、痛みを堪えるように唇を噛み締める。血に濡れた右足を見遣ると膝の辺りには大きく切り開かれ、骨が顔を覗かせていた。白い筋ばった繊維のような物は二つに断たれている。額から流れ出る血のせいで、視界は赤く染まりどこからどこまでが血やレゥノーラの体液で汚れているのか分からない。痛みに苛まれながらも、石壁へ身を預けるように上体を起こした。廓の奥からは足音と人の声が聞こえている。安堵を抱き、再びランツェールを見据えた時であった。
 白く細い指が動き、石畳を引っ掻くようにもがいているのだ。安堵は恐怖に塗り代わり、得物を求めるも化物に突き刺さったまま。己の身の丈以上もある槍を口に突き刺したまま、それは立ち上がる。柄を握り自分の頬を引き裂きながら、槍を引き抜くと裂けた口をだらりと開いたままレアを見据えていた。
「ミキィツ……、ジィキツ……」
 頬が裂けている故だろう、化物が発する言葉は舌足らずであり空気の抜けたような印象を持つ。まるで嬉々とし笑うように目を細めながらランツェールはレアの長槍を片手にゆっくりとした足取りで歩み寄ってくる。動こうにも足は動かず、声を上げようにも恐怖から震えるだけで口から声が出るような事もない。レアの耳に入るのは死神の足音ばかり。ランツェールがレアの傍らに落ちた己の得物を拾い上げると、その青い瞳はぼんやりと彼女をただただ見下ろしていた。厭に人間らしさを感じるそれであったが、恐怖の対象である事には変わらない。足が動くならばすぐにでも逃げ出し、死という結果を忌諱したくて仕方がないのだ。だが、それは叶わない願いであり、忌憚すべき死は踵を返す事もない。長槍の穂先がレアの頬を伝い、彼女の頬の皮膚を裂いて行く。ひりつく痛みと恐怖に苛まれるうちに穂先は頬から離れていく。血を流しすぎたのか、離れていく穂先の先端をしっかりと捉える事も出来ず、混濁し始めた意識に苛まれるばかり。ランツェールが次に何をするかなど分かるはずもない。ぼんやりとした視界の中、厭に映える青い瞳だけがレアの脳裏に鮮烈に、鮮明に焼きつくのだ。真っ黒な意識の渦の中、見たのは青い光、最後に聞いたのは腹の底に響く銃声であった。




 眼前に斃れ臥す女を他所に、ハイルヴィヒは小銃から出る煙の匂いに目を見開いていた。ソーニアから借りた小銃の軽さも去る事ながら、比較的短い銃身から来る取り回しの良さ、組み立て精度の良さに驚いていたのだ。反動は少なく、後装式である故に再装填も用意。明らかに近距離での使用を想定されたそれに明確すぎる「人に対する殺意」を感じ取らざるを得なかった。それを傍らのミュラに押し付け、既に弾が込められた自身の小銃を構えたならば厭に重く、粗雑な作りに苛立ちを覚えた。照星を照門の溝に収め、ランツェールの額に照準を合わせる。そして間髪入れず、引き金を引くなり炎と煙と共に弾丸を放ち、ランツェールの額を穿つ。首が大きく跳ね上がり、天井を睨んでいるがそれでも身体は倒れず、それどころか飛び上がり天井に張り付くようにして四つん這いで向かってくるのだ。裂けた口からだらしなく垂れ下がった舌は厭らしく蠢き、得も知れない得体の知れなさを醸す。背後でスヴェトラーナから、短い悲鳴が上がったのは気のせいではないだろう。
「……寄越せ」
 ミュラから拳銃を引ったくり、天井に張り付くランツェールを見据えた。人間を撃つのと造作もない。寧ろ人間のように喚き、命を請うような真似もしない故に実に撃ちやすくある。傍らでソーニアとミュラが小銃を構え、ランツェールを睨んでいるが当てられるだろうか。そんな疑問が思い浮かぶも撃たないよりは幾らかはマシであり、彼女達を制する理由などない。
 放たれた銃弾は一発、二発とランツェールの身を穿ち、その内の一発が細足を太股の辺りから削ぎ取る。耳を覆いたくなるような叫びを上げている。
「その倒れているのを連れて行け、殿は私がやる」
 顎で行けと促し、ハイルヴィヒはミュラから小銃を引っ手繰りランツェールへと銃口を向けた。背後ではソーニアがスヴェトラーナの手を引き、ミュラが倒れている女を担ぎ上げている事だろう。各々が役目を果たしている。ならば、自身に出来る事は何か。その答えは単純かつ、一つしかない。目の前の化物に対する足止めである。階上に逃げた先、まさかこれほど近くに居り、化物と同じ道を通るとは予測していなかった。そもそもレゥノーラとの交戦、接触経験が一番多いのはソーニアだ。道の選択に彼女の助言こそあれど、外れてしまうとはこの廓に住まう者達は人が危機を避け、どう歩むかを予測し、その裏の裏を掻き人を害するように作られているかのような思惟を感じてしまう。そうでなければ、この化物も元は人であったかのように思えて仕方がないのだ。何者にも行き会わぬように、小路を静かに潜り抜ける知能があるかのように。ならばこそ、であるからこそ。そんな化物は早いうちに殺しておくべきなのだろう。だが、自分だけではそれは不可能だ。故にハイルヴィヒは願いと呪詛を吐く。
「……さっさと死んでおけ」
 願いと呪詛を輩とし、銃弾は矢よりも速く飛んでいく。後頭部から入った銃弾はランツェールの頭を貫通し、石畳に減り込む。ソーニアの小銃よりも一発の威力は此方の方が上か、と関心しながらハイルヴィヒは醜く、耳障りな叫びを上げるレゥノーラを背に駆け出すのだった。あれを殺そうとしたならば、確実に命のやり取りとなる事だろう。一人では恐らく死に至り、大勢で掛かったとしても幾らか死人が出るのは確実だ。だが、今はまだ命を掛けるような時ではない。何よりも、己が守らなければならない存在はまだこの廓の中に居るのだ。すぐにでも追いつき、行動を共にしなければならない。もう一発の銃弾を見舞い、ハイルヴィヒは踵を返すのだった。石畳を駆ける足音は一つ、背後に置いて来た化物は追ってくる事もない。階下から聞こえて来るのはセノールの怒号、大勢の足音だ。あの化物の死はもう近い。その死に至るまでの短い時間、化物はただただ吼え、ただただもがき苦しむばかりなのだ。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.121 )
日時: 2017/12/01 16:54
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 身を隠すにはこれほどうってつけての場所はあるだろうか。

 草木が鬱蒼としげる森の片隅にその家はあった。いつから建っているのか分からぬほどひどく古ぼけた一軒家。レンガで出来た赤土色の外壁は大半は青々しい蔦と葉に覆われ、老朽からか、レンガが見えている部分もところどころが欠けてクリーム色の下地が顔を出している。灰色の屋根にも蔦が巻かれ、枯れ葉や若葉が無造作に積もり風が吹けばカサカサと葉っぱ同士が擦れ笑い声をあげるのだ。(もしも屋根の真下にいる状態で地震が来たら間違いなく、上から落ちてきた葉っぱの海に溺れてしまうだろう)カーテンの隙間から零れる光も暖炉の小さな明かりのみの僅かなもので、遠くだと明かりがついていないようにすら見える。生活音すらほとんど聞こえないそこに、初めて訪れた者は廃墟もしくは御伽噺に出てくる魔女の家を連想してしまうことだろう。だが住んでいるのは醜い老婆ではなく、二十代前半の年若い女性、そして、その女の元には現在、あるお客人が二ヶ月ほど居候していた。
 ぐつぐつと煮えたぎるお湯をドライハーブがセットされているポットに注ぐ。バタバタと音を立てながら注がれていくお湯の動きに合わせて網の中のクルクルと躍る葉は幼子が蝶々を追いかける動作にも似ていた。愛らしい動作に無表情だった顔が緩み、小さな厨房の中で静かに微笑んだ。熟れた林檎のような香りとミントのように仄かな清涼をこれ以上逃がすことのないようポットに蓋を閉めた。そして元々用意してあったお盆の上に乗せてハチミツの入ったパンを二欠片手にとってお皿に移す。ティーカップは既にお盆の上に乗っていた。
「御機嫌如何ですか?」
 音もなく忍び寄ってきた女性に驚いた様子はなかった。顔を上げちらりと時刻を確認すると「こんな時間か」と呟き、ガウェス・ハイドナーは読んでいた本を閉じた。年季の入ったロッキングチェアはガウェスが立ち上がると同時にキィキィと金切り声をあげて二度三度上下に揺れていたが直ぐに勢いを無くして静かになる。暖炉にくべられた薪だけがパチパチと爆ぜる音を聞きながらガウェスはソファーに座った。ソファーは何も言わずガウェスを受け入れた。
「良好です。傷も完全に塞がりました」
 そう言って笑うものの彼の肩には真新しい包帯が巻かれ、未だにジャリルファハドと対峙した日の爪痕が残っている。女は返事の代わりに彼の顔を一瞥すると淡々とした動作でティーカップを置き、蒸らした紅茶を注ぐ。冷淡な態度に苦笑いが漏れるが、鼻の奥に広がるカモミールの芳醇な香りに思わず綻ぶ。
「良い匂いですね」
「ありがとうございます」
 女は特に表情を変えず無表情のまま答えた。気にせずガウェスは続ける。
「薬として煎じて飲むか床に巻くための植物だと思っていましたが、このような使い方もあるのですね」
 女への感嘆を洩らし、こくりと喉を鳴らして紅茶を飲む。すっきりとした甘さにミントを彷彿とさせる爽やかさに思わず「美味しい」と洩れる。唯一の家族であるミュラに飲ませてやったらどのような反応をするだろうかと想像巡らしたが、夢物語だと気づき止める。
 二人だけのお茶会は非常に静かなものだった。食器が擦れる音とどちらともいえない小さな溜息のみが聞こえるだけである。轟々と音を立てて暖炉の中を高く燃えていた炎も大分小振りになり、一息吹きかければ消えてしまいそうなほど小さくなっていた。焔が陽炎のように揺れ、蜃気楼のような幻影が揺らめきの先に見える様な気がして、思わず見入ってしまう。
「そこに何か見えるのですか?」
 女の問いに「いいえ」と答え、炎から目を逸らした。
「面白い方だ、あなたは」
 まだ半分以上中身が残るティーカップをソーサーに戻し、ガウェスは独り言のようにつぶやいた。女の瞳がガウェスに映す。そこには彼の言うことに興味を示すというよりも警戒しているかのようだった。
「憎くないのですか? ハイドナーが」
 目の前の女性に問う。女はホッとした半面つまらなさそうに再び溜息をついた。パンを一口齧り、ガウェスを一瞥すると興味なさげにこう言った。
「何故です? ハイドナーとザヴィア、共に多くの血を流したのはとうの昔の話。私たちがそれに囚われる必要がどこにあるというのですか?」
「その後ハイドナーはカンクェノを私物化した。管理者を自称し、貴方達が築いた全てを牛耳った」
「この地に安寧が訪れるならばと祖先はそれを許容致しました。それに……、仮にザヴィアに貴男方に反する意志があったとしても、意見できる力なんてありませんでした」
 事実だけを伝え、何でもない様に女は紅茶を啜る。一方の青年の方はザヴィアという言葉に片眉をピクリと動かしばつの悪そうに顔を逸らした。ザヴィアとハイドナーの関係はアゥルトゥラの歴史を研究している者で知らぬ者はいまい。クルツェスカがヴェーリスカと呼ばれていた五百年前、そこを治めていたのはザヴィアという一族であった。そんな彼らと戦い勝利し、土地を奪ったのはハイドナー一族である。ザヴィア家は、三等親以内の親族は首を切られ、それ以外は二度とクルツェスカ及びカンクェノには入らないようにと政令をだし、区域外へと放逐された。尤も、政令は解かれ彼らの子孫は自由にクルツェスカを行き来できるのだが、古くから根付いた慣習が潰えるにはまだ時間がかかる。今も人目につきにくい森の奥でひっそりと生活しているのだ。
「随分と客観的な意見ですね」
「傍観は慣れていますから」
「それは」
 諦観なのではないか? という言葉を飲み込む。赤い瞳はレゥノーラというよりも共にカンクェノに潜ったレベェリの少女を思い出させた。性格は真逆だが、容姿的には似通っている部分が多い。輝くような金髪に白い肌、血のように赤い瞳。見たことはないが、背中にはレアと同じように小さな翼があるのだろう。僅かに違うのは鶯色をした鱗が頬の半分まで覆っていることか。傭兵を生業にしている者のとは異なり、彼女の鱗は脱皮してたの蛇の鱗のように柔らかかったのをしかと覚えている。嗚呼、目を閉じると封じ込めたはずの記憶の鍵が開く。哀愁が胸を刺し、もう一度アゥルトゥラに行きたいという思いが鎌首を垂れてくる。それを見越したように女は鈴の様に美しい声で訊くのだ。
「行くのですか、クルツェスカに。遺跡の管理者だった者として」
「どうでしょうか。私が行く理由はありませんから。全てを喪った時点で私は盤上から外された駒と同じです。部外者が口出しすべきではない」
「そうですか……」  
 女の口調には明らかに落胆が含まれていたが、何故なのか今のガウェスには分からなかった。女は黙ったまま立ち上がりカーテンを開けた。そこには赤と橙色の煉瓦が敷かれた道が広がっており、彼にとっては見覚えがある道だ。ここを真っすぐ行けばクルツェスカの中心街へたどり着くことができる。
「夢を、見るのです。地獄の釜の蓋が外れ、白い亡者達が地上へ溢れる夢を。彼らは人肉を喰らい、滴る血肉で朱い運河を作る。仄暗くおぞましい悪夢」
 窓をなぞる指は陶磁器のように細く白く、触ったら壊れてしまうのではないかと錯覚させる。俯き、憂いを帯びた顔には光だけではなく、影の黒もよく似合う。光と影で照らし出された凹凸は容姿も相まって神秘的な雰囲気を醸し出すのだ。
「何かがあそこで起ころうとしている。そう思えてなりません」
 遠回しに彼女が何を言っているのか、ガウェスは理解できた。振り向いた女の顔には懇願が見え隠れしていた。だが、ガウェスは彼女の願いを叶えるつもりは一切無かった。眉間に皺を寄せたまま首を横にふる。
「ならば余計に貴方の元を離れるわけには参りません。私はまた、貴方に借りが出来てしまいました」
 男の返答に瞳を僅かに見開いたあと、声を殺して嗤った。
「ハイドナーが無くなった今でもそのようなことをおっしゃるのですね」 
「一生治らぬ本能のようなものです。どうか御容赦ください」
「ならばクルツェスカに行くことが私への恩を返すことだとお考えください。飛び立てぬ哀れな私の代わりに」
「大きな災厄が訪れることを知ってなお、戦えぬ女人を一人ここで捨て置けと、私にそうおっしゃるのですか。巫山戯ないでいただきたい。家も誇りも何もかもが潰えようとも騎士の誇りを忘れたわけではない」
「セノール人との戦いで銃を使った時点で貴殿の誇りは地の底まで失墜していること、努々お忘れ無きよう」
 ガタンと大きな音を立ててガウェスが立ち上がる。ティーカップは倒れ、ソーサーから溢れた紅茶がテーブルに広がり、床へと滴り落ちていく。そんなことにも目もくれず、ガウェスは飢えた獣の様な剣幕で女を睨む。しかし、彼女には一切怯んだ様子はなく窓際を離れガウェスの目の前へやってきた。テーブル越し、初めて青い瞳と赤い瞳が邂逅する。男は女性に対しなんて怖い顔をしているのだと、女はかの御高名なガウェス卿に向かってなんて冷たい顔をしているのだろうと驚き、そして恐怖した。自分が他の自分であるような気がしてならない。互いに逸らされた瞳。火照っていた頭が徐々に冷やされてまともな思考が戻ってくる。室内は沈黙し、雛鳥が親鳥を求める声だけが耳に入り、まるで会話を急かしてくる野次のようだった。
「卿を愚弄しているわけではありません」
「分かっています、もちろん。ただ、貴方は、何が起きてもココを離れないでしょう?」
「ええ。この地死せるときこそ我が寿命尽きしとき。ヴェーリスカを墓標とし、心静かに眠りましょう」
「恩人をみすみす殺されろと。あの悲しみをまた私に味合わえと。それにこれ以外にも貴女にはたくさんの借りがある」
 感情を押し殺して極めて冷静であろうとするガウェスだが、指先までその気遣いは回らず、無意識のうちに握り拳を作っていた。勿論、ガウェスの言い分は女にも痛いほど理解が出来る。共に古い因習に囚われた者同士。ガウェスはハイドナーを守ってほしいと母に言われため、騎士の真似事をし、女はクルツェスカに近づいてならないと先代の遺言を守り続けてしまった。望めばこんな辺鄙な場所ではなくもっと良い場所に引っ越すことも出来たであろうに。他所に逃げる勇気も無く、言われるがままにここで生を全うする道を選んでしまった。彼もこのままでは同じ道を辿るだろう。古臭い因習に囚われ動けずにいる。彼に後悔してほしくなかった。
「貴方様の大切な御ん方が死せることになっても、同じことが、ここに残ると言えますか?」
 逸らされていた視線がこちらに向く。怒りよりも驚きが勝り、纏う雰囲気が柔らかくなったのを肌で感じる。多少の困惑を含んでいるとはいえ、曇りのない瞳は今の彼女には眩しすぎた。瞳を僅かに伏せて会話を続ける。
「カンクェノと露店街を結ぶ大通りの丁度中間の十字路」
 色街とカンクェノ、露店街、メインストリートとを結ぶ部分だろうとガウェスは推察した。クルツェスカでも特に人通りが一番盛んな場所だ。女は続ける。
「黒い髪に黒い瞳、小麦色の肌を持った年若い女性が事切れた状態で打ち棄てられておりました。私はガウェス様の妹君様を見たことはありませんから必ず彼女だと断定はできません。ですが、貴方様が教えてくれた彼女の容姿と私が夢で見た彼女の容姿があまりにも一致し過ぎているのです。……それでもまだ、貴方は行かないとおっしゃるのですか」
 白魚のように滑らかな手が岩のように無骨な手に重ねられる。
「あの子は貴方の唯一の♂ニ族なのでしょう?」
 卑怯な手だと重々承知の上でこの言葉を放った。案の定、今にも泣きだしてしまいそうなほどにその端正な顔を歪め下に向ける。女も女で彼に苦しい思いをさせているのが誰でもない自分なのだと自覚するたびに忸怩たる思いが重く重く圧し掛かってきて、思わず嗚咽をあげそうになる。
「厄災を防いで欲しい等と図々しいことは申しません。禁忌が起ころうと私は貴方を咎めませんわ。ただ、ただ! 見てきて欲しい。この国の行く末を」
 何も言わないガウェスに向かって吹き消えてしまいそうな儚げ笑みをして握られていた手をゆっくりと離す。そしてすぐに訪れる出立のための準備をと、早足で彼の横をすり抜けようとしたが、寸でのところで手首をグッと掴まれる。
「お願いがあります」
「何でしょう?」
「生きてください。必ず。そしてもしも、ここが危険な場所ならば逃げてください。貴方を、失いたくない」
「……承知致しました。ガウェス・ハイドナー」
 了解の言を得るとゆっくりと離された手。奥の部屋から持ってきたフードがついた紺色の外套を受け取りながら、彼女はここを離れないことを直感していた。震える手は嘘をついたことへの罪悪か、それともこれから迫りくる未来に恐怖しているからなのか分からない。「ありがとう」と曖昧に微笑み、己が無力を奥歯で噛み締めながら太陽の騎士は町の中心にへと歩き出した。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.122 )
日時: 2017/12/01 02:48
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 払われぬ闇が、すぐ背の後ろまで迫っているかの様であった。ついぞ先程まで抱いていた淡い希望など躙り潰されたにも等しい。噛み締めた唇からじわりと、鉄の味が滲む。ソーニアの手を強く握りしめるスヴェトラーナの瞳は淀みにも似た黒が覆いかぶさっていた。背後に響く銃撃の音はハイルヴィヒのものなのだろう。銃弾が白を貫き、赤が舞い散る姿は容易に瞼の裏に思い描かれる。何が恐ろしいのか、スヴェトラーナ自身にすら酷く曖昧であった。ハイルヴィヒの身体に傷が付く事であるのか。彼女に万が一が或る事なのか。其それともあの異形が追ってくる可能性であるのか。或いは、白い異形を怪物と称しそうになる己自身なのかもしれない。硝子玉の瞳には寂寥感が滲む。数刻どころか、つい先程までの己の浅はかさに嫌気が差すが、それでも希う心に未練がましくも縋りたい気持ちも僅かに残っていた。其の心が求める感情へ答えは無く、薄暗がりに不規則なリズムが刻まれるばかりであった。何を、恨むべきなのだろうか。何も恨まない事が正解なのだろうか。けれどもきっと少女は、呪うならば己を呪うのだろう。優しくも閉鎖的な夢に溺れて、月明かりで照らされる世界を陽溜まりの下にある物だと盲信して、無知を許容し続けた故に。スヴェトラーナは再び、ソーニアの手を強く握り締める。伝わる温さで漸く他者の生を想起して、安堵を思い出す。恐ろしいならば逃げてもいいと、出立前に父がこの耳に囁いてくれた言葉が脳裏に蘇る。優しく抱きしめて、髪を撫でてくれたあの日の思い出は、少女にとって輝かしき日々夢であり、ある種牢獄じみた場所へと連なる一つの連綿とした記憶であった。駆けるばかりの足は、美しいステップを踏みはしない。習った通りに、正しく動く事はなかった。幾度も転びかけてはソーニアの手を引っ張ってしまっていたが、その手が離される事は無かった。背後に迫る足音に振り向いたのはスヴェトラーナだ。其の視界の先に踊る黒髪に、瞬く青い瞳を見やって、少女は短く息を零した。
 駆け抜けた先で感じたのは心地よい倦怠感などではなく、ある種徒労感にも似たものであった。息が上がる。心音が騒がしい。まるで運命に嘲笑われているかの様な感覚さえ憶える。手を引いてくれた人にお礼の一つも言えぬまま、少女は棒立ちで短く呼吸を繰り返していた。小柄とはいえ人を1人抱えて駆け抜けたミュラの事が気になれど、其方へと歩む事すらできない。レアの怪我に気付いたらしい者らが治療をとの声を上げている。顔見知りたる人なのだから、自らが何かしら口にしなくてはと思っているのに少女の唇は音を紡がない。横目で見やる先ではミュラが一人しゃがみ込んでいる。恐らく今しがたの人々へレアを預けたのだろう。彼女にも何事も無かったかを尋ねなくては、そしてソーニアの怪我の治療をしなくては、ハイルヴィヒに怪我はないかを聞かなくては――成さねばならぬ事ばかりだ。或いは、少女が過剰に手を伸ばしすぎているだけであるのだが。視線をさまよわすばかりのスヴェトラーナの肩に、ハイルヴィヒの手が添えられた。グローブ越しのふれあいはほんの一瞬だ。薄青は見開かれる。見据える先の青は、確かな美しさを少女の薄氷色へと映してくれる。少女の心に張り詰めた糸がふつ、と緩む。握りしめられていた両の手はゆるりと開く。呼吸を幾度か繰り返したスヴェトラーナがハイルヴィヒの耳元で幾つか言葉を囁やけば、ハイルヴィヒはソーニアの元へと歩み寄る。
「フロイライン・リエリス、もう一度足を見せていただきたい」
 そう告げるハイルヴィヒであったが、横目でスヴェトラーナの方を見やっている事は確かだ。なにせ蒼穹の色は霞がかった向こう側の様にゆらりゆらりと揺れている。或いは、揺らぐ湖面の様に、僅かな光を乱反射させていた。凪は、まだ来ない。
「いえ…………座っていい?」
 特別深い傷ではない。先程の応急処置のみで問題は無い事位、ハイルヴィヒとて承知していように。だからこそ断りの言葉を紡げば揺らいでいた青にはまるで懇願するような色が織り交ぜられる。スヴェトラーナがそんな瞳をするならばまだ理解できるが、よもやこの傭兵がそんな目をしようとは、誰が思い至るというのか。ややあってから無理矢理に言葉をつなげる。蒼穹の色に僅か、安堵が宿る事に気付けるのはソーニアのみであろう。他方、スヴェトラーナは地を見つめ、自失呆然とばかりに立ち竦んでいた。具合を問うてくれるミュラに問題ないと告げこそすれど、淡い夢見る泉の水面は曇天の空に濁った色彩を映すのみである。少女はふるり、と睫毛を揺らす。開く唇は誰かの名をごく小さな声で呼び、再び閉じられた。伏せられた瞳は星月を見ず、ただ暗闇を映すのみである。
 ソーニアの前に跪くハイルヴィヒは手際よく、先程巻いた包帯を解いていた。傷口を暫し見やった後に、鞄から取り出した軟膏を塗り、また新たな包帯を巻き直す。二人の間に言葉は無い。閑談すらなく、静寂が破られるのは再びソーニアの足に包帯が巻かれた折である。
「大したことがなくて、よかった」
 ハイルヴィヒの声はやはりささめごとの様に秘めやかに紡がれた。囁かれるような言葉はどこか柔らかな風ですらある。ソーニアの翡翠の瞳はぱちりと瞬いた。手でも握られ様ものなら足でも蹴飛ばしてやる気だったが、流石にハイルヴィヒはそこまではしてくる事は無く、土産代わりか――本人にその気は一切無いのだが――平素変化しないその顔ばせには一瞬柔らかな表情が浮かぶ。剣呑とした空気はそこには無く、一人の黒髪の少女が柔らかな青を瞬かせるのみであった。本当に、と呟くソーニアの声に、ハイルヴィヒは静かに頷くだけである。
 スヴェトラーナの元へとハイルヴィヒが再び赴けば寄り添う二人の姿があった。白と黒、とまでは行かずとも対照的な2人を見て、ハイルヴィヒの眉間には思わず皺が寄る。――其れは無意識のものであった。ハイルヴィヒ自身ですら内心、驚きを隠せない。令嬢に実害があるならばともかく、遠目に見やれば少女2人、至極和やかとも取れる風情で語らっているにほかならない。けれども奇妙なざわめきを胸に憶えてしまう。少しばかり頭痛がする。上着のポケットに入れてある小瓶に触れる。蓋を開けかけてその手を止めたのは、残る理性が囁きかけて来たからにほかならない。今はまだ、少しばかり早い。

「……ごめん、なさい。……ごめんなさい、ごめんなさい……すみません」
 スヴェトラーナは両の手を固く握りしめて震える声を零していた。さて、少女とは無知であり、無垢であるべきであろう。事を知らず、美しさのみを知り、受動的であるべきものだ。夢を見る自由はあれどさて、少女/スヴェトラーナが抱くべきは何であったのか。夢を見る自由すら剥奪されれば、悩まずに済んだのだろうか。思案した所で詮無き事である。何も知らぬくせに、何かを知りたいと手を伸ばす事が間違いであった気すらしてしまう。これを悲劇と語るには悲愴性が足りやしない。喜劇には到底なりそうにもない。伸びる白い手はさも、救いを求めるかの様に、縋る様にミュラの手を握りたがっていた。そも、スヴェトラーナの言葉は反応として過剰過ぎるものと言っても過言ではなかろう。揺らぐ水面、澄み渡りながらも自らにすら理解出来ぬ未知へ恐怖し続けるその瞳は何処までも澄んでいた。何故、をミュラが問うた。今にも泣きそうに潤む瞳が持ち上がり、金糸の髪はさらりと流れていく。
「……私が、こちらへ行くことを選ばなければよかったのです。せめても、ミュラさんとソーニア様だけでも下へと促すべきでした。……そうしたら、お二人は、少なくともこんな、事には」
 嘆きは粛々と語られる。ハイルヴィヒはそれに対し語る言葉を持ちやしない。引き結ぶ唇を僅かに噛み締めて、険しい顔をしたまま、やや離れた其の場所から2人を見つめるのみである。語りかけてしまえば良かったのかもしれない。スヴェトラーナを呼べば彼女は言葉を切り上げて此方へとやってくるであろうから。けれども其れはしなかった、出来なかった。少女の嘆きに或いは夢を見るような錯覚であった。明日の心を夢見る様に、或いは、何かに祈る様に。つなぎ合う事はなく、只其の手首に添えられた白い手を、黒曜の瞳はじ、と見つめていた。
「後悔したってしょうがねーよ。……それにさ、スヴェータは別に、悪意があってやったわけじゃねぇんだろ」
「……、……そうだと、しても……」
 だから許される、とミュラは言いやしなかった。無事ですんだからこそ、こうして言葉を交わせるなれば。スヴェトラーナはまた俯いて、眉をひそめる。此の短い時間で、少女は表情を変えるに忙しない。ぐるり、ぐるりと思索は巡る。息苦しく、喉の奥が乾ききって張り付く様な感覚すらあった。鼻の奥がツンと痛む様だった。此のままではと思う最中、不意に、咳き込む様な音がする。咳き込むのはハイルヴィヒに相違ない。三者三様、それぞれにハイルヴィヒを見やった。薄氷色は驚き不安にまた揺らぎ、黒曜の色は丸く見開かれ翡翠の色は何事か、と驚きを其の色に織り交ぜる。蒼玉の目は3つの視線それぞれに目配せをして唇だけで気にしないようにと告げる。スヴェトラーナへの目配せの折には其の青に酷く、優しい色すら湛えて。ふらり、と一歩踏み出したハイルヴィヒに声をかけたのはソーニアだ。ついぞ先程までとは微妙に立場を入れ替えつつ、交わす言葉はほんの数言。今にも駆け寄らんとしていたスヴェトラーナは、いまだのミュラの隣にいる。何か悩むように口を開いては閉じるを繰り返す。
「……そうだとしてもどうか、此の謝罪は……取っておいてください」
 今更な言葉をぽつねんと続ける。頷くミュラを見て、スヴェトラーナは柔らかに笑う。目元の赤みはまだまだ引かない。
「……たとえ如何なる道であろうとも」
 少女は努めて、柔らかな声で言葉を紡ぐ。忌避すべき唯一を恐れて、未知の恐怖に身を晒して、とっくの昔に心は折れてしまっていたとしても。
「為すべき唯一に向かって歩むことだけがきっと、今できる事なのです」
 宛ら、己に言い聞かせる様に少女は言葉を紡ぐ。或いは何時かの夢に見たさいわいを手にするために。急いても意味はないと知るのはきっと、今宵この日であってこそ。

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