複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.103 )
日時: 2017/08/03 00:53
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 ジャッバールの屋敷がどうにも魔窟に見え、ランバートはクルツェスカの蒸暑さをすっかり忘れてしまうのであった。門番の視線は引き絞り、射掛けられた矢の如く。漂う空気のそれは神曲の一遍に登場する、地獄の最下に広がる冥府の湖上を走る風のよう。先日まで当たり前だった、楽園を追い出され、宛ら失楽園の思いである。
「……護衛は下げろ。得物も全て置いて行って貰おう」
 腰に差した刀、それはガリプの物である。それから僅か刃を覗かせ、彼等を一様に睨むのはガリプの兵と思しき者達である。やはりガリプはジャッバールに組しているか、と結論を得て、一挺だけ持って来た中折れ式のリボルバーを門番へと手渡し、護衛に下がるようにと手で合図を送った。恐らくは護衛を狙う者達は既に配置されている事だろう。そして、今此処に立つ自分達の事を狙う者もだ。拒否は悪手である。
 引っ手繰られるように取り上げられたそれは弾を抜かれ、そのまま守衛所の中へと持ち込まれてしまった。一様にガウェスからも銃は取り上げられ、ユスチンに至っては武器を持っていないなどと抜かす物だからボディーチェックまでされてしまっている。実際に彼は銃など持っておらず、遂に丸腰にされてしまった。
「随分と厳重じゃあねぇか。窮鼠に噛まれるのがそんなに怖いか?」
「口を慎めよ。お前らは窮鼠以下だ。自分を買い被りすぎだろう。半死人が」
 そうセノールの門番に一蹴され、随分と手痛い言葉を浴びせてくるとランバートは苦々しく思う。横目でガウェスを見遣るも彼の表情は優れず、拳を握り締めているばかり。ユスチンに至っては視界に入れる事すら敵わない。何故ならば刀の鞘のような硬い何かで、門番に背を押されてしまったからだ。無言ながら歩けという意思表示に従わざるを得ない。
 ジャッバールの屋敷の中央部には庭が広がっており、門から入るなり大柄なレヴェリの者達が視界を遮ろうと壁のように立ちはだかる。彼等がそう立ちはだかるのは見せたくない何かが在る故なのだろうが、あからさま過ぎるその行動に何処かうそ寒い思いを抱いた。恐らくそれはユスチンも同じなのだろう。軽口ばかり叩き、飄々としている彼の表情は心無しか強張っていた。
「あぁ、客ぅ? ご苦労さん。私連れてくよ」
 ふとその人垣の前を通り掛かったセノールの女。どこか冴えない垂れ目、細い身体。そして爪紅の映える指先。飄々とし、快活な印象を宿す声色。ランバートにはこの女に見覚えがあった。よく色街と大通りの辻にて見掛けるのだ。名はハヤ・セイフ・ラーディンといったか。
「……アサドの所でしょ、あんた等は持ち場に戻って。こいつ等が別の兵伏せてたら最悪だからねぇ」
「そうか。では頼む。……銃は持ってるか?」
「まぁね」
 腰に差しているのは固定式のリボルバー。六発装弾されたそれに手を掛けたまま、彼女は三人を手招き階段を上っていく。一段、また一段。ガリプの兵が背を押し、三人は再び歩まざるを得ず、彼女の背を追っていく。
「やらかしたねぇ。言葉全部頷かなきゃ死ぬってのは覚悟しといたら?」
「助言とは随分とお優しい事で」
「そう見える?」
 軽口を叩けば、ハヤは一瞬だけ振り向いてニィっとした笑みを浮かべて見せた。それは穏やかで平穏に溢れた人らしい笑みではなく、冷徹で、冷淡で、どうしようもなく人から掛け離れ、怨念、恨事の念に満ち溢れた攻撃的な物であった。
「私からしたらアゥルトゥラが幾ら死のうが関係ないんだけどね。あんたの屋敷の人間、弱いから死んだのよ。面白かったわ。何があったか分からないって顔しながら死んでいくんだもの。銃弾を浴びて、痛みに悶えて、狂ったように踊ってね。血を吐いたと思ったら動かなくなってさ。連中、私の"子供"の味を褒めてたでしょう?」
 後ろを向き直り、ガウェスを煽るような言葉を吐いてハヤはせせら笑うばかり。あの爪紅は血で染まり出来上がった物だと思える程に邪悪で目を背けたくなる。だというのに一人は怒りに震えながら、一歩足を踏み出すのだ。
「あら、生き残りの騎士さま。そんなに怒って。そんなに血が見たいなら、あの血の河の真ん中で寝転がって遊んでれば良かったでしょ。それとも何? 今血が見たいってなら、見せてあげるけどさぁ」
「あそこまでする必要があったのですか……」
 震える声、怒りを押し殺し平静を装いながら青い瞳がハヤを見据える。彼女は首を傾げたままで、踵を返して短く一言で返すのみ。
「あんたの首一つで償えると思ってるの?」
 質問を質問で返してきたハヤの不躾に顔を顰める訳でなく、ガウェスは己の過失に目を伏せ、落ち着けと言聞かせるように目を瞑って、首を横に振るう。その様子をハヤは見ている訳でもなく、どうでも良いと言いたげに歩みを進め、ある扉の前で立ち止まる。
「此処だから。私はあんたらが死体になって出てくるのを祈ってるよ。この死に損ない共が」
 背を向けたままハヤは言い放ち、そのまま廊下の奥へと歩み出した。ハヤはこの和平という名の敗北宣言に立ち会う訳ではないようだ。ともすれば此処に居るのはバシラアサドと少数の護衛だけになるのだろうか。
 随分な言われようだと張り付いたような苦笑いを浮かべつつ、ランバートは扉を二度ばかりノックする。その途端に背中にぞくりとした物を覚え、生唾を飲み込んでは短い時間で腹を括ろうと勤めるのであった。
「入って構わない」
 扉の向こう側からくぐもった声が短く一つ。少し低く、声色だけでその者が腹の中に飼っている業を推し量ってしまえそうであった。さっきのおかしな感覚の正体はこれか、と結論付けながら扉を開けば一家の当主の居室とは思えない程に質素な部屋が広がっていた。奥の壁には本がずらりと並び壁にはライフルが二挺と黒い鞘に収まり、護拳のついた反りのない真っ直ぐな刀が掲げられていた。
「足労痛み入る。掛けろ」
「ホント彼方此方痛いぜ」
 いきなり軽口を叩きつけるもバシラアサドは表情一つ緩める気配はない。青い目をした獅子は獲物を見据えているようだ。椅子に腰掛け、彼女を見返すも一度の瞬きの隙に気圧されてしまい、まともに見つめられない。同じ人間なはずだ、何がそうさせるのかとランバートは戸惑いを隠せず、案の定の居心地の悪さにユスチンは内心苦笑いを浮かべざるを得ない。だが、しかし一人だけは黙ったままバシラアサドを見据えているのだ。
「……貴女が許せない」
「そうか。許してもらわなくとも結構だ。私とてお前を許す気はない。出来る事なら親子の首を晒し、その身が磨り減り無くなるまで引きずり回したいよ」
 怒りを一蹴され、再びガウェスは口を硬く閉じ、拳を握り締めていた。場を弁えろとランバートがガウェスの足を踏み付け、彼を制しているのだがどうにもその様子がバシラアサドの傍らに立つ巨躯の護衛には見えているらしく、彼は嘲笑を堪えているようだった。
「単刀直入に言う。寛大な措置を頼みたい」
「寛大な措置とな。では命は奪わず、お前達の何もかもを私達に寄越せ」
 頷くはずがない要求を突きつけ、バシラアサドは笑っている。許す気など微塵もないその言葉に苦虫を噛み潰したようにランバートは顔を顰めている。
「何もかにも奪われちゃったらさ、生きていけないでしょ?」
「何も分かっていない。我々は五十年も昔、何もかにも奪われたが今こうして生きている。なに同じ人間だ。生きていけるさ」
「君達に理屈は通じないんだね」
「理屈など踏み潰し、捻じ曲げ、事を成してきた故」
 ユスチンの皮肉を言葉通りに踏み潰し、捻じ曲げバシラアサドはお前には用などないと言わんばかりにガウェスを見据える。青い目と青い目が向き合う。騎士の目には怒りが篭り、獅子の目には嘲笑が宿る。
「さて、ハイドナーよ。選択肢は二つある。死ぬまで我々と争うか、それとも我々に従うか、だ。戦いたいならば最期まで来るが良い。一捻りにしてくれるわ」
 ランバートのみならず、ユスチンにもバシラアサドの意図は見え見えであった。渦中の当主であるガウェスを煽りに煽り、怒りに任せて闘争に打って出ようとしたならば、この場で殺そうとしていると。ジャッバールにとって利権は二の次、殺してしまっても持ち主を失い、宙に浮いた利権は手に入る。わざと決裂するようにと仕向けているのだ。焦りが募り、どう立ち振る舞うべきか、どう方向を修正すべきかとランバートは内心、焦りを覚えるのであった。
「……我々に今、その力はありません。ですから今此処に和平しに来たんです」
「力もなくして和平とな。……笑わせるなよ。お前達は今生かされているだけだ。死にたくなければ私に従うことだな。さて……」
 一枚の文書をガウェスではなく、ランバートの前に突き出しバシラアサドは煙草を咥えた。彼が文書を読んでいる間に煙草には火が付けられ、やや甘い煙の匂いが漂い始める。少しずつ彼の表情が強張り、引き攣って行く。何が彼をそうさせるのだろうか。その理由は書類に記された内容にあった。
 まずはハイドナーへの全面的な締め付けが記されており、人の出入り、収支に対する監視。そして装備の没収。最早貴族としての存在意義の一片すら残さないという意思表示がされている。一切の抵抗、敵対行為は許されないだろう。真綿で首を絞めるような行為に苛まれる事となるだろう。キールへは在ろう事か各ハイドナー分家への収支監視命令及びキール本体への収支監視であった。分家筋を使い傭兵の募集防止、キール自体で傭兵の募集が出来ないようにするためである。ベケトフに関しては直接関与しておらず、講和の場を取り持とうとしているだけである故、運河に面した造船所の建造をさせて貰いたいという文言に限っている。バシラアサドの意図は恐らく家を潰すのではなく、アゥルトゥラ西部に存在する既得権益の弱体化が狙いなのであろう。
「頷かなければ殺すが」
 最早交渉の余地はないだろう。ユスチンは気にしていないだろうが、この三人を挟むような位置にある窓が全て開け放たれており、狙撃手を置くのは容易い配置になっている。そしてユスチンの背後には幽霊のような男が一人、ただ立ち尽くしているのだ。何時の間に入ってきたかも分からない。これが噂に聞くハサンの兵なのだろう。そして、目の前に居るレヴェリの男。言うまでも無く得物なくして、どう戦って良いのか分からない。そもそも剣など全く意味を成さないだろう。
「少し考えさせてくれ」
「考えるも何も答えは一つしかあるまいよ」
 頷かなければ死ぬ事となり、その死は背後と眼前に迫ってきている。死ぬか、後で死ぬかの選択をさせられているのは重々承知の上である。どんなものかとユスチンは隣から書面を眺めていたが、全く動揺が見えないようだ。
「うん、ベケトフとしては問題なんてないよ。ただコールヴェンに橋があるから、それより上部構造物の高い船は作らないように」
「ヴィーエントの大橋の事はよく知っている。何も問題はないさ。では、これに署名を」
 テーブルの下から出てきたのはまた別の文書。それをユスチンは眺め、どこにも落とし穴はないだろうと判断するなりサインを一つ。矢継ぎ早にバシラアサドもサインを走らせ印を付く。
「写しは後日返送する。話が早くて良かった」
 先程までの砂漠の化身はどこへと行ったのだろうか、穏やかで人の良さそうな笑みを浮かべ、バシラアサドは目を細めていた。恐らくはこの二面性に皆騙されてきたのだろう。それが却ってランバートには恐ろしい物に見えてしまうのだ。
「で、決まったか」
 声色は全く違う。表情も何もかにもが違う。言葉や視線の類だけで、まるで首を絞められているかのような息苦しさに襲われ、ランバートはどうしたものかとせせら笑う事しか出来なかった。ガウェスの方を見る余裕など微塵もない。
「飲むさ、飲むしかない。キールはね」
 本家の人間の不始末で別家まで割を食うのは不本意である。しかし、此処で受け止めなければ更に被害は拡大する事だろう。まだ本家以外で家の人間に人死には出ていない。収支監視で済むならばそれで良い。しかし、今後傭兵など雇えない事だろう。基本的に傭兵は前金を払わなければ身動きは取らない。後金では雇えないのだ。前金、後金半々で雇おうとするならば前金を貰って、すぐにまた別の勢力へと鞍替えするのが殆ど。傭兵の忠誠は金でしか買えない。それを分かっているからこそ、こうして締め付けてきたのだろう。ともすれば反攻の芽は潰され、家の商売も上がったりだ。だが、それでも一族郎党皆殺しは避けられる。渋るように書面にサインを走らせ、この名前一つで助かるなら安いと己に言い聞かせる。
「ではキールは即座に集った傭兵を解雇せよ。即日だ。今日の内にな。さて……では、ハイドナーは」
 ランバートが頷いたことに返答一つせず、バシラアサドの青い目はガウェスを睨む。本家の人間はどうするのか、と。もし此処でガウェスが頷かなければランバートも共倒れとなる事だろう。周囲を囲み、己の口数を減らす事でガウェスに対する説得をさせない様、空気を締め付けるバシラアサドのやり口を苦々しく思いながらガウェスが口を開くのを待つ。彼の青い目には怒りが見え隠れしている。だが、その激情に背反するように不安が存在しているのだ。落ち着かない様子で窓の花瓶に差された紫の花を見据えるなり、彼は口を開く。
「騎士道、復讐、栄光……」
「高潔なふりをしたら、復讐に遭い、栄光を失う。お前にぴったりだ」
 煙草の火を消し、バシラアサドは文書をガウェスへと押し付ける。もう語る言葉はない。頷かなければ死ぬのがお前だ。頷かず死ぬのも本望ではないだろうと、最早交渉の余地など残されていない。と暗に言葉無く語っている。それを受け取ろうとしていた彼の手は震えていた。本当に良いのだろうか、と。今まで培ってきた栄光を失ってしまって良いのだろうか、と。何より何も分からず討たれてしまった彼等の無念は晴れるのだろうか、と。
「少し良いかい」
 ガウェスが文書を受け取る直前、割って口を挟んだのはユスチンであった。青い四つの瞳が彼を見据えている。
「死体を蹴るような真似、見っともなくないのかい? もう少し何か別の手があるんじゃない?」
「無い。我々は五十年前に同じような事をされた。今も我々を邪魔してきたのはハイドナーだ。殺しに殺されて当然だ。今この状況で後ろから刺されないだけ有り難いと思え」
 かつかつと後ろで足音が三つ、四つ聞こえたならば鞘から刃物が抜かれるような、少し甲高く透き通った金属の擦れるような音が鳴る。それはガウェスの背後に迫っており、抜き身のそれを左手で弄んでいるようだった。
 一蹴されユスチンは困ったというような顔をしている。抜かれた刃物の事など気付いていないようだ。此処でまとまった話をご破算とした所でジャッバールからしたら一切、出資をしていないため、痛くも痒くもない事であり、ユスチンに切れるカードはもう何もない。もし造船所の建造が始まってから、手の平を返したならば不義を言い広められる事だろう。
「自分の意思すら言えず、選択すら出来ないか。……ならば何が当主だ。よくも利権に座して居られたな。愚図でものうのうと生きてこられたのはお前の力ではない。ハイドナーの名に守られていただけだ。お前の浅慮で何人死んだ。お前が父親の傀儡であったが故に此処まで至り、お前が何もして来なかったから、判断すら付かず事を犯したのではないのか。ならば死んでもらおうか、お前自身で判断が付かないというのなら、私が判断してやろう。シャーヒン、殺せ」
「いや! 少し、少し待ってくれ! 少し時間をくれないか! 一晩! 今晩だけ時間をくれ!」
 脇から突き出た刃を手の甲で抑えながら、ランバートは声を張り上げる。四つの青い瞳がランバートを一様に見据える。手の甲は刃に触れた事で皮膚が裂け、赤い血が滴っているばかり。今はこの場を静めなければならないという意思が働き、痛みなど何処かに忘れてきてしまったように感じる事が出来なかった。
「……なるほど、逃げるなよ」
 少し可笑しそうにバシラアサドは言い放ち、刃を収めるようにと手で指示を送って見せた。含みのある笑みを湛え、彼女は立ち去れと手で合図を送るばかり。厭にあっさりとした反応にランバートは呆気に取られたような表情を浮かべていたが、すぐに我に返り、小さく頷いている。
 ランバートの切れてしまった手を簡単にではあるが、バシラアサドが手当てし終えると逃げ帰るように、彼等は外にそそくさと外へ出て行ってしまった。この屋敷はさぞ居心地が悪い事だろう。鎧戸の隙間から僅か顔を覗かせて、彼等の後ろを見つつバシラアサドは一つ次の手を打つ。
「ジャリルファハドへ通達しろ、深夜ハイドナーを討てと」
 後ろに立ち尽くしていたシャーヒンはその短い指示に頷き、すぐさま踵を返し、外へ出て行く。キールは傭兵を全て追い出してしまい、更にはユスチンを家まで送り届けるためランバートも空ける事となるだろう。キールの屋敷にはガウェスと非戦闘員である使用人しか居ない。ガウェスの首を取るのは容易い事だろう。
 全ては手の上で転がっている。所詮は微温湯に浸かり続け、腑抜けた貴族であるのだ。討つに容易い。姦計の類を凌ぐ事は出来ないのだ。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.104 )
日時: 2017/08/13 23:58
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 屋敷の一室では、ささやかな茶会が開かれていた。参加者はスヴェトラーナとハイルヴィヒ、そしてヨハンの三人だけだ。本来ならば此処にスヴェトラーナの父、ボリーシェゴルノスクの地に座するベケトフ家当主であるユスチンも加わるのが通例であるが、彼は今しがた出かけてしまったのだから参加しようがない。眠れないのと其れらしい理由を添えて、心に巣食う不安をかき消す為に二人を茶会へ誘ったのはスヴェトラーナである。茶の用意をと名乗り出たのはハイルヴィヒで、茶菓子の用意をと笑うのはヨハンであり、私も何か、と口にするスヴェトラーナに笑いながら「お嬢様はゆっくりしててくださいよ」なんて告げたのもヨハンであった。数少ない使用人に頼むとしても、もう夜も遅い。此処はおとなしく、2人の言葉に甘える事にしたらしく部屋でおとなしく待つに留まっていた。一人になると、色々と考えてしまうというもので、少女はやや俯きがちに床を見つめて、白いスカートの上に置いた手を握りしめていた。進む秒針が止まる事はない。揺らぐ心に決着をつける日を先延ばしには出来ないだろう。父の帰還を待つばかりの娘としての気持ちと、いつか来たる継承の日を思う少女としての心は、混ざりあう事はない、相容れぬものであるが同時に成立し得るものであるのか。スヴェトラーナにはまだ分かりやしなかったし、そもそも彼女自身其処までの自覚が或るかと問われれば答え難いものである。不意に、微かな甘い香りが少女の鼻孔を擽った。スヴェトラーナが顔を上げればパンケーキを皿に乗せ、メイプルシロップとバターを共に持ち寄ったヨハンが笑顔で入室してくる。ややあって香ってくるのは茶の香りで、ティーセットを持ったハイルヴィヒがヨハンの後に続く。テーブルの上には茶会の準備がすぐに整い、優しい香りと暖かな空気に包まれる。砂糖をほんの少しだけ混ぜ込んだミルクティーに口をつけ、パンケーキをちみちみと食しつつ、他愛ない会話が茶会の席にて繰り広げられた。先程までの不安をかき消し、打ち消す様に。平素と何一つ変わらぬ風を装う茶会は、けれども確かな綻びを見せる。明日は何をしようか、と言った類の話に転びかけるたびに誰もが口をつぐめば、そうもなるというものだ。漠然とした不安感が、スヴェトラーナを襲う。父は詳しく何をしに行くとは教えてくれなかったけれど、大凡察しは付いている。ハイルヴィヒとヨハンは雇い主たる当主より事のあらましは聞いているし、此度の外出の意味も知っている。其れを令嬢たる少女へ教える事をしなかったのは、特別口止めされていたというわけでもなく、彼女に必要以上の不安を与えないための一種、無意識の措置であったと言えよう。其れがさて、効果を持ったものであるかは、別の問題だが。何も知らぬ事こそが最善であると、スヴェトラーナは今まで思っていた、否、思い込んでいたというよりも、そう思おうと努めていただけなのかもしれない。けれど其の現状に甘んじ、自ら歩まずにいると選択したのは彼女自身である。幾度目かの沈黙の折、少女はアイス・ブルーの瞳を伏せ、床へと視線を落とした。平素柔らかな笑みを形取る唇は、考え込むように真一文字に結ばれていた。
「あくまでも僕の推測ですけどね」
 沈黙を破る様に、ヨハンが口を開く。二杯目の紅茶に入れたミルクと少量の砂糖をかき混ぜたティースプーンを手に持ったまま顔の横でくるくるまわし、ふざけた調子を演出しながらも深い森の泉の色をした瞳に、ほんの少しだけ真剣な色を宿して。
「これから此の国、っていうか……まあ、こっちの方、面倒なことになるかもしれません。正直、この前からなーんか微妙な空気ですし? ……かといって、過剰に反応するにはまだ早いでしょうね。まあなんていうか、少なくとも此の家だけでも守るって言うなら、今回のユスチン殿の介入程度で終わらせておくべきかと。なにせほら、敵は一つじゃないわけですし」
 そういい終えたヨハンは今しがた淹れたばかりの二杯目の紅茶を一気に煽る。行儀が悪いとはヨハン自身とて理解しているが、どうにも喉が渇いて仕方がない。やや険しい視線のハイルヴィヒをよそ目に、カチャリと音を立ててカップをソーサーへ置いたヨハンは只笑うのみである。軽薄な発言はいつものことだが、スヴェトラーナの前で堂々とこうも軽い言葉を吐くのは滅多にない事であった。
「……何を敵とすべきかしら」
「…………お嬢様?」
ヨハンの言葉を聞いたスヴェトラーナはぽつり、と零す。ハイルヴィヒは黙したまま紅茶を口へと運び、ヨハンはやや素っ頓狂な声をあげる。ひとり、またひとりと沈黙を破れば綻びは大きくなり、穴は広がっていく。けれど、此れが間違いではないとスヴェトラーナは信じるしかなかった。否、間違いであったのだとしても、言葉にしなくてはいけないとつい先程思ったばかりなのだ、ならば、どうか。願いながら少女は言葉を紡ぐ。永遠ではなく、終焉を思って。
「最終的な民の安寧と平穏、そして其れを保ち続ける責務を果たす為には私たちは勝者へと与するべきなのでしょう。でも……もしも、もしもね、此処から大きな争いになるとして、勝者の目的が此の国の乃至は此の近辺の統治ではないとしたら? 考え難い事ですがある種の混乱を齎す事こそが目的だとしたら、其の勝者に与した私達がどうなるかなんて、想像に易いわ。……中立を保ち続ける事が叶うならば、其れに越したことはないけれど、そうした場合私達の存在など不要のものと民に判断されかねません。いえ……民が、其れを望むならば私たちは其れを受け入れるべきなのでしょう、けれど」
 少女の言葉ばかりが静かに落ちていく。二人の傭兵はただ黙して、少女の言葉を待っていた。聞くことが叶うならば、聞いていたい。当主へ仕える身ではあるが、当主はいつか変わるやもしれぬ。目の間への少女へと。ならば叶う限り彼女に添いたいと双方思ってしまうのはさて、それだけ深く関わりすぎた故であるのか。生来少女が持つ何か、のせいであるのやら。
「栄枯盛衰は人の世の理、栄え続けるものなど、ありはしないのではないでしょうか。其れこそ人の始まりから存在して、其れが理となっているものでもない限り。……お父様にもそれとなく教えられてきましたが事実、私もそう思わずには居られません。歴史を学べばこそ、いっそうに」
 でも、と少女は続けるが、その先を言うよりも前に紅茶へと口をつける。まるで心を落ち着かせるかの様に。ほのかな甘味は一時の激情を押し流し、少女の胸に柔らかな思いを取り戻させてくれる。溢れる気持ちに蓋はもう、出来そうにもない。
「でも、でもね……叶うならば争いなど無く、平穏で……暖かな心地で過ごす事が出来る未来が、ほしいわ。……誰も彼もが心に平穏を宿して、幸せに暮らす、そんな世界で、あってほしいの。……私も、此の心に詰まった憤りを如何に消化するべきか……悩ましく思いは、しているのです。でもね、きっと、そう、激情のみを拠り所として動くことは、よくない……と、そう思っているから」
 ひどく子供のような夢であると、スヴェトラーナの言葉に対して思ったのは何もハイルヴィヒだけではなく、ヨハンも同じであった。訪れるやもしれぬ滅びを肯定しながらも、平穏を望む少女の心の内を、完全に理解することが叶う者などいやしない。それでも、それでもだ。少なくとも彼女の言葉を聞き届けた2人はそれを忘れる事は無いだろう。たとえ、柔らかな夢想であるとしても。
「私が為すべき事を、為せる事を、とずぅっとね、考えていたんです。……私はいつか、此の家を、ベケトフ家を継ぐ事となりましょう。次代を担い、ボリーシェゴルノスクの民の安寧と平穏、幸福を守る事こそが使命となる。でもそれはきっと、今も変わらないのではないかと、思ったんです。それならば……私、此の家を守りたいのです。横暴、なのかもしれません、驕りであるのかもしれません。でもね、今の私が考えられる限りでは、此の家を存続させる事こそが、民の安寧、幸福につながると思うのです。だから……だから、その」
 それきり少女は口籠る。良い言葉が見つからない、と少しばかりの困惑を其の瞳に湛えていた。歩みださねばと思うくせに、少女の心は何処かに恐怖を残したままだ。安寧の夢に揺蕩う事が許されぬ立場でありながら、それを続けたのは他でもない少女自身。嫌われるのが恐ろしいなど、嗚呼、きっと。
「では、お嬢様は……其の意志をお父上に告げるのが最善ではないでしょうか。我々に告げる事もまた、思考の整理としては得策やもしれませんが……真に伝えるべきは、ユスチン殿へ向けて、でしょう」
 何かへの言及を躊躇う様な表情を浮かべていたスヴェトラーナに、ハイルヴィヒは粛々と告げる。分かっている! そう叫べるものならばスヴェトラーナはそうしていたかも知れないが、幸いにも少女の胸にはギリギリの自制心が宿っていた。というよりも、そうしないように今まで努めていた事のある意味での弊害、恩恵、どちらとも取れるものがあるだけだ。少女は俯いて、暫し黙りこくる。柔い笑みがその表情に舞い戻ることは未だ無く。パンケーキの微かな甘い残香、わずかに香る紅茶の香り、時計の針の音と三人の僅かな息遣いだけが部屋にはあった。
「……ハイルヴィヒ、遅くとも夕方には間に合うように、ランバートお兄さまのお宅へ、お父様を迎えに行ってください。叶う限り、急いで」
 不意に少女は顔を上げ、静かに告げる。名を呼ばれた黒髪の傭兵は静かに頷き、紅茶を一口。考える限り、早いほうが良いならば早朝には家を出るべきか。そんな事を考えるハイルヴィヒから、鈍い金の髪の毛先をいじるもう一人の方へと少女は視線を向ける。
「ヨハンさんは、この家の周囲をそれとなく覗っていてください。何事もないとは思いますが、ハイルヴィヒが居ない以上、何らかの事態に気付くのは早いほうがいいでしょうから。……ヨハンさんなら、細かい事にもすぐ、気付いてくださるし、何よりそういう事、上手ですもの」
 少女の言葉にヨハンは目をパチクリとさせた後「任せといてくださいよ」とへらりと笑う。平素と何一つ変わらぬ笑みであった。拙い思考に相違ない。当主たるひとが此の家に早くに居たほうが良いというのは結局スヴェトラーナの私情に過ぎないし、傭兵達が語ってくれた現状からぼんやり巡らせた考えは杞憂であるやもしれないし、見当違いなのかもしれない。そうだとしても、今できる事はただ指を咥えて待つ事ではなく、考えて、進むことだと判断した。少女の意思が、そうさせた。
「言うまでもない事でしょうし、杞憂である事を願うばかりですが……。事はあまり、荒立てませぬ様、何卒よろしくお願い致します。その……誰かが傷つくのは、悲しいことですから」
 この期に及んで少女はそんな言葉を紡ぐ。2人は勿論、すべての人が傷つく事を恐れる言葉は静かに、消え入りそうな声であった。“どんな人でも、話し合えばきっと分かり合えるわ”そう何処か寂しげに笑う少女の姿を、ハイルヴィヒはぼんやりと思い出しながら、パンケーキを口へと運んだ。夜は更け、時は進む。取り残されぬ様にと進む歩みは、今までの停滞を取り戻すほどに早足でなくてはなるまい。妖精の羽音は聞こえる事はなく、只其処に在るのは僅かな緊張感。暫し時が経てば再び穏やかな談笑が聞こえるばかりである。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.105 )
日時: 2017/08/14 00:01
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

「では、ハイルヴィヒ。……お父様を宜しくお願いします。それから……ガウェスお兄様とランバートお兄様にもどうぞよろしくね」
「ええ、お嬢様、どうぞおまかせください。ユスチン殿と合流の後、早急に此方へ戻ります故、ご安心を」
 翌朝、諸準備を終えたハイルヴィヒがスヴェトラーナとヨハンに見送られ、邸宅を出た。出掛けに令嬢よりかけられた言葉への返答の中で、ハイドナーの2人への言及を、ハイルヴィヒはそれとなく避ける。何度言うべきか、上手な言葉が浮かばなかったというだけだ。宜しく、と言われてどうしたら良いやら、些か悩むのがハイルヴィヒ・シュルツという娘であった。スヴェトラーナの横に立つヨハンはといえばハイルヴィヒと視線を交えて、静かに頷くばかりである。大凡、互いの考えたことは伝わっているだろうから、言葉は不要とでも言うべきか。
「それから、その……ハイルヴィヒ、ごめんなさい、もう一つだけお願いが」
 いざ行かんとするハイルヴィヒへとそう告げて、スヴェトラーナがハイルヴィヒに手渡したのは一通の手紙である。シンプルな白い封筒には柔らかな文字で差出人が少女である事を示し、宛先が兄と慕う人出あることを示していた。施された封蝋には、少女が好む月の意匠が見て取れる。
「ガウェスお兄様に直接、乃至はハイドナーの家の……そうね、信頼できそうな方にお会いしたらお兄様に渡していただくようにお願いしてください」
 瞬間、ヨハンの表情が曇った事にハイルヴィヒは気が付いたが“今は抑えろ”と言いたげな視線をハイルヴィヒが送ってやれば、ヨハンは渋々、と言った風に笑って、肩を竦めていた。スヴェトラーナより受け取った手紙は、丁重にしまわれた。
「畏まりました、お嬢様。……ですが何を……いえ、きちんとお渡し致します」
 紡がれかけた問いは、結局答えを生み出さない。たとえハイルヴィヒが問うて居たところで、スヴェトラーナは「大した内容ではないのです」と誤魔化すばかりであっただろう。封筒には三枚の便箋、一枚は未記入のもの、一枚はささやかな励ましの手紙。そうして、最後の一枚にはささやかな“内緒話”を。公的な効力はきっとない、他愛ない令嬢の戯言。けれどどうか平穏をと望む、少女の淡い願い事――。

 ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフは会合の後もけろりとして、平素通りに振る舞っていた。かと言って2人を突き回す事はしなかったのだが。帰りがけも弾むような調子であったが、其の瞳の奥で何やら考え込んでいたことばかりは、確かな事実である。
「こんな事言うのも、まあ、当主としてはよくないのかもしれないけれどね」
 帰宅の途につき、邸宅へと入った後にユスチンは泉の色をした瞳をゆるりと細め、唐突に言葉を紡いだ。手を後ろで組んだまま、童子の様に無邪気な風に半回転し後ろに居た二人の青年を真っ直ぐに見やる。少しばかり考え込む様な間を置くのは、あくまでもベケトフの当主としての建前の様なものなのだろう。ゆるゆると口元が弧を描き、瞳も三日月の様に細められる。シルバーグレイの柔らかな髪をふわりと揺らして小首を傾げれば男は言葉を紡いだ。
「此の国の始まりから、人の営みの始まりから、ハイドナーがあったわけでもないんだ。君たちが世の道理ってわけでもなかったんだし……今までだって、栄枯盛衰は世の習い、繁栄があれば衰退があるってものだよ。如何に栄えていた国だって、滅びていった歴史がある。遅い早いの違いはあっても栄えた以上衰退は避けられないものなんだしさ。君たちが滅びずにずーっと栄え続けるっていう道理もないんじゃないかなぁ」
 まあ、其れは僕らだっておんなじだけどね、と笑う姿は実に無邪気なものである。……そう装っているだけとも取れるといえば、取れるのだが。此の男は真相を表に出しやしない。二人が何か言うより早く、ユスチンはまた前を向いてしまった。やや不満げに、何かを言いたそうな表情のガウェスをよそに、ユスチンはただ幼子のように跳ねて進むばかりである。殊、特権階級を盾に驕り、権力に溺れ、特権ばかりを振りかざしてきたならば、とは流石に男も続けはしなかったが、腹の中に抱えている思い等は、そんなものである。哀れみがないわけではないし、同情しないわけでもない。ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフは確かに彼らひいては今は亡き元当主に友情を感じていた。けれども同時に、家としての価値を測るならば、さて、みなまで言うな。――あくまでもユスチン個人の思考では、あるのだが。
「そーれーでー、僕、スヴェータとの約束も在るから、早く帰らないといけないんだよね。でも……そうだなぁ、うん、もしも君たちだけじゃどうしたって答えが出ないっていうなら」
 其処まで言えばユスチンは言葉を区切り、再びくるり、と半回転。2人の青年を柔らかな水の色は見つめ、ぱちり、揺らめいていた。
「僕、残るよ、ランバート君のお家に。明日の朝にさっさとで帰る形でも、僕はいいわけだし」
 実質、減りに減った彼らの戦力を分散させまいとするのがユスチンの思う所だ。それを直接的に口に出さなかったのはある種ユスチンという男のやり方であり、何でもない風を装う事によって無駄な緊張感を持たせぬための申し訳程度の心遣いであった。
「そいつは困るなぁ、ユスチン殿。早急にお帰りいただかんと」
 ユスチンの言葉に否を返すのはランバートであった。初老の男の瞳は一瞬円を描く。正直、突っぱねるならば彼ではなくガウェスの方であると思っていたのだ。ふぅん、と呼気をもらした男の双眸が細まる。右目に嵌め込まれた片眼鏡の奥にある瞳には僅かに、揺らぎが生まれた。どうして、と問う前に、ランバートは言葉を続ける。
「なにせお宅のお嬢様に“お父様を宜しく”って言われてるんだ。安心安全にさっさとご帰宅いただく他の選択肢があるわけないんでね」
 軽薄な笑みと共に青年は語る。其の言葉を聞けばなるほど、大凡理解はしているらしいとユスチンも納得はするのだが其の納得を受け入れられるかと言えば別の話だ。帰宅の途に就くとしてもハイルヴィヒを連れてこなかった以上此の家から誰かしら、というよりもどちらかが護衛役として己につく事となろう。状況を考えればランバートが来るのが妥当だが、それは極力避けたい、そもそも二人を引き離すという事自体、ユスチンにとって避けたい事態に相違ない。なにせ2人は――少なくともガウェス・ハイドナーは――娘の知己でありそれなりに親しい人である。一人でも欠ける事を、娘が望まないのは明白であろう。
「んーわかった、それじゃあ僕一人で帰るよ。ふふん、もう僕もいい大人だからね! 一人で帰るくらい問題ないさ」
 相も変わらずの態とらしい口調で、男は笑った。ついでに態とらしく胸を張る事も忘れない。そんなふざけた態度をよそ目に、今度男の言葉に難色を示したのはガウェスの方である。恩人を一人で帰らせる訳にはいかないとはなるほど、律儀な彼らしい主張である。でも、と反論しかけたユスチンが最終的に彼らの言葉にうなずかざるを得なくなったのはランバートもまたそういうわけにもいかないから、と口にしたからに他ならない。2人に言われてしまうともなれば、いくらユスチンでも我儘を装ってこの主張を押し通す事も叶わない。途中まででいいよ、なんて軽く笑いつつ帰宅の準備を早急に済ませればユスチンはまた、年齢に見合わぬ子供の様に伸びを一つして「疲れたぁ」だなんて零すばかりであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.106 )
日時: 2017/09/10 21:17
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 帰りがけのユスチンは、至極寡黙なものであった。行きがけのあの騒がしさは何処へやら、何か考え込むふうに窓外をみやって唇を真一文字に結んだままだ。同行するランバートとしては有り難い反面、行きがけのあの怒涛の、一方的ともとれる会話を思い出せば薄気味悪いものすら感じる。かといって、ユスチンが何か悪巧みをしているとも思えないのは、其の横顔に僅かな寂寞を見たからである。
「……ねえ、ランバート君」
「なんです? ユスチン殿」
 暫しの無言の間を破る声は何処か重苦しい。らしくもないな、とランバートは思うが其れを言葉にする事はなかった。白々しく、なんでもない風に反応するランバートを、ユスチンの瞳が捉える事は無かった。相も変わらず青い色には外の景色が流れていく。
「…………ごめんね」
 空白を置いた男の背が、何処か小さなものに見えてしまったのはランバートの気の所為だろうか。其の姿を其の瞳に映す事はなく、けれども確かに、ランバートへと聞こえるようにユスチンはそう言ったのだ。晴れ渡る空の様な、無邪気な明るさは、其処に存在しない、しえない。ユスチンは明確に何が、とは言わなかった。けれどもその言葉の示す所は明確であった。もしも誰かがユスチンの瞳を見る事が叶ったならば、其処にある懴悔の念に気がついただろう。どこか歪なものすら感じさせる空気の中、けれどもランバートが何かを言うより早くユスチンは声を上げた。其れこそ今までの生真面目な雰囲気が一転、平素の歳不相応な子供らしさすら憶えさせる声であった。
「あ……ごめん! ちょっと、ちょっと止まって!」
 身を乗り出すようにしながら御者にそう告げる男の瞳には淡い驚愕が宿る。馬車が止まるとほぼ同時に扉を開け放ち道へと降りる男に声をかける間もなく、ランバートは只後に続くのみであった。同時に、今しがたすれ違った馬車も止まる。何事かと警戒するよりも早く、その馬車から降り立つ娘は一つに結った長い黒髪をふわりと踊らせて、鋭い色の青い瞳で二人を見ていた。
 ――ハイルヴィヒの説明は簡素で至極手早いものであった。ユスチンの帰宅の護衛の引き継ぎ、並びにランバートへ早急に帰宅する様にと促す言葉をさっさと告げて、ユスチンを己が乗ってきた馬車へと乗るように促した。戸惑い気味のユスチンもスヴェトラーナの名前を出されれば何やら納得したように頷き、促される侭に馬車へと乗り込んだ。ハイルヴィヒはその後に続く前、ランバートの方を改めて向き直せば氷の様な瞳で彼を見やる。実質、睨みつけられている様なものだろう、ランバートにとってすれば。
「それから……バート、貴様に此れを……当主……ガウェスに渡してくれ。お嬢様からだ」
 彼の内心等知る由もないハイルヴィヒは至極淡々と言葉を紡ぎ、ランバートへと一通の手紙を押し付ける。真白い封筒に、ダークレッドのシーリング。綴られる文字は柔らかな風合いで至極少女らしいそれである。ほのかに纏う花の香は白百合にも似た香りであった。
「へぇ……何の御用で? あ、恋文か?」
「…………知らん、責任持って預かった手紙を、貴様は盗み見るのか?」
 訝しげな色を孕む蒼穹の瞳はランバートを貫いた。少女らしからぬ鋭い光にランバートは肩を竦める。慣れた手付きで手早く、丁寧に手紙をしまえば確かに、と青年は頷く。
「確かに渡せよ。本来は私が直接渡すべきなのだろうが……私は早急にユスチン殿をお連れしなくてはならない。貴様は信頼できんが……信用は出来る。頼んだぞ」
 その言葉におや、と目を丸くしたのは他でもない、ランバートだ。信用やら信頼の類を、彼女が他人に寄せるとは些か予想外であった。例の金髪の小憎たらしいあの男ならば或いは、と思わなくもないのだが……。少なくとも彼自身に信用を向けられる事は予想外であった。そもそも、彼女が言葉にして伝えてくる事自体が、些か予想の範疇外である。あれを不要な馴れ合いと彼女がしていないだけか、存外にいまだ人らしさが残る犬であるのかはさておくとして、伝えるべきを伝えるだけ口にした少女はそのまま踵を返し、当主の後を追って足早に去ってしまった。

 帰宅したユスチンとハイルヴィヒを迎えるのは娘と一人の傭兵、其れからスヴェトラーナの世話役として付けている女中が二人、執事長と近くに居たらしい使用人数人だ。ただいまと気楽に告げるユスチンに歩み寄るのは淡い金糸の髪を持つ娘であった。
「お父様……その、おかえりなさいませ。……お待ち、しておりました」
「うん、ただいまぁ、スヴェータ。……何事も、なかったかい?」
 父のその言葉に、娘の瞳のアイス・ブルーは一瞬陰る。其れを見逃さぬユスチンではなかったが、娘がすぐに浮かべた花笑みを見てか、別の理由か、それ以上何かを追求する事はなかった。――或いは、血の繋がりとは不可思議なものである故の直感じみたものが、すでにこの時父たる男の中にあったのやも知れぬ。そっとその頭を数度撫でて「何もなかったならいいんだ」と柔い笑みを添えて告げた。本格的に何かあったならば、恐らくヨハンからの報告が上がるだろう。
「……お父様、その……お茶でも、如何ですか?」
「んー……そうだね、少し溜まった仕事がおわったら……すぐにお邪魔するよ。先にお部屋でゆっくりしていなさい」
 最後に娘の頭をひとなでしてから、ユスチンは自室へと歩を進めた。その後にヨハンが続き、何やら言葉をかわしているが聞き耳を立てる様な会話でもなし、ハイルヴィヒの方へと向き直ったスヴェトラーナは女中の一人に茶の用意を申し付けて、ハイルヴィヒへ労りの言葉をかけつつ、白い部屋へと歩みゆく。
「……何かは、為せるかしら」
 ゆらゆらと揺れる琥珀色の湖面を見やりながら、スヴェトラーナはぽつりと零した。何処か悩ましげに伏せられるアイス・ブルーの瞳はその基底にある星をゆらりと瞬かせている。再び沈黙が空間を支配しテーブルの上、カップの中にある琥珀色もまた、凪いだままであった。星はまだ、瞬かない。溢れ出す感情を噛み締めて、感じ得ぬ痛みを思う少女の嘆息は、重苦しく真白の部屋に落ちていく。共にあったハイルヴィヒも、ユスチンへ報告資料を渡し、口頭での簡単な報告も終えてからやってきたヨハンも、言葉を発する事はない。ただ静かにハイルヴィヒの蒼い瞳の深い部分がゆらり、揺れるのみであった。

 書斎にて、些か慌ただしく書類に目を通すのは此の家の当主たる男である。娘に似ながらもやや鮮やかさを増した氷色の瞳の奥には文字の海が広がっている。書類仕事はどうにも性に合わないな、と思ってからはすっかり久しいが、かと言って投げ出す程の無責任さをこの男は持ち合わせていなかった。……平素、プライベートな空間に於いて、些かの無責任感を匂わせる行動が見えてしまう事もある事は決して否定しない。殊、親しい人の前ではどうにも他人の心の機微に疎い箇所すらあるだろうが、幸いにも今は職務の最中ともなれば、至って真面目な当主としての顔でいられるというもの。1通りのサインや修正を終えた後、最後に目を通すのは先程、新聞に乗るよりも早くに情報を持ち寄ったヨハンからの報告内容を纏めたメモ書きである。先刻、報告を受けた折にも感じた脱力感を今一度憶えながら、当主ユスチンは短くも重苦しい溜息をひとつ。いい加減この家、ひいては自領でも警戒を強めるべきだろうか。かと言って突然の行動は混乱ばかりを生むであろう、とも思えば軽率な行動だけは控えたい。過度に反応してしまえば何らかの軋轢を生みかねないだろう。過剰反応は不要、かといって安心しきるわけにもいかない。流石に無反応、というのも能天気がすぎるというものだ。
「……ナヴァロ君の所に色々お願いしないといけないかなぁ」
 ポツリとそう零せば、やや癖のある白髪交じり故にグレーがかった髪をぐしゃりとかき上げる。過剰な反応は避けるべきだ、そもそもベケトフが何をしたかと問われれば何もしていない。いつも通りではないか。中立を程よく保ち、必要ならば多少の出資こそすれど、大々的に此の家が動いた事はかつてアゥルトゥラへ祖先が逃げ込んだ切っ掛けになった出来事、それからカンクェノの建造に携わって以来或りはしなかった。少なくとも書物、ひいては文字に残されている限りは、であるが。記録こそが正しいと、ユスチンは思わない。例えば其処に記しきれない多くの事象が存在しているだろうから。けれど少なくとも、伝え聞く限りでも、文字を読み解く限りでも、ベケトフの家は比較的日和見主義を貫いていると言って構わないのだろう。時に面倒に巻き込まれる事こそあったようだが、此の家は今の今まで続いているし、少なくとも己の代で潰えさせるつもりは、現当主には今のところない。――ただ、己の代で終演を迎える事を否定もしない。
「永劫続く栄光は、ありはしない……よねぇ」
 男は己の娘に、己の跡を継がせる気でいるが、その実、迷いが或る。此の家が存続する事こそ、民の安寧なればと思えど、男は其れが傲慢であると理解していた。そして男は確かに娘を愛しているが、その愛が枷となり得ると薄々気がついている、わかった上で見て見ぬふりをしているのは他ならぬ彼の選択だ。彼女を次期当主とするために最低限の教育はしている。学ぶべきを学ばせ、令嬢として相応しくあるようにと躾けてきた。――時折、其れが偏に己の傲慢に過ぎず、只理想を追い求めているだけなのではないか、と妻の幻霊に囁かれる様な感覚を覚えながらも、だ。娘に圧倒的に足りないものは見聞であり、外から遠ざけた己の矛盾に、男は乾いた笑いを浮かべるだけである。すでに妻は亡く、兄はそれよりも前に没した。外を恐ろしいと、男は思わない。けれどもこれ以上愛しいものを失う事をこそ、男は恐れている。害するものが何一つ或りやしない楽園が存在するならば、それは。――ため息はひとつのピリオドだ。足を軽く振り上げ、子供の様に立ち上がろうとすればガツン! と音がして男の脚と机とがぶつかった。「痛い!」と反射的に上がる声は至極、子供じみたものである。

 父が娘の部屋を訪れるのは、思えば久々のことであるように思う。屋敷の奥まった其処を、彼女の部屋として与えたのは妻を亡くした後だった。白い扉と、白い調度品を揃えたその部屋の窓枠もまた白く、其処から見える庭の景色が好きなの、と笑ったのはさて、娘であったか、妻であったか。シルバー・グレーの髪をかきあげて、ため息をひとつ。瞳を伏せたのは一瞬で、白い扉をノックする頃にはすっかりいつも通り、穏やかな父の顔をしていた。スヴェトラーナは父を快く迎え入れ、用意していた椅子へと彼の手を引き連れていく。当主たる人の姿を見て、ハイルヴィヒとヨハンは頭を下げる。ユスチンはどうにも、自分が和やかな茶会の空気を固くしてしまったような気がして、些か気まずさを憶えていたらしい。「固くならなくっていいのにー」と告げる声は変わらぬ子供らしさを孕んでいた。
「ねえ、スヴェータ」
 父子水入らず、とは言わずとも気心の知れた者同士の集う茶会は和やかに進んでいた。ユスチンは突如として、真面目な表情で娘の名を呼ぶ。何か、と言いたげな娘のアイス・ブルーの瞳には、淡く不安の色が揺れている。
「……君も、此処最近の市井の事情は、知っているよね。……だから、と、あまり言いたくはないけれど……暫くは家にいなさい。……いいね」
 大凡、予想通りの言葉が父の口から紡がれた。平素の娘であったならばこの言葉に思う所があれども黙って頷き、ただ父の言う通りにしていた事だろう。けれど最早、小鳥は鍵を求める少女になっていた。何かを掴み人となりたがり、夢の果てを求めたがる。揺れる心に、ピリオドを。
「…………ごめんなさい、お父様。其のお約束は、守れません」
 少女の瞳に宿るのは娘の柔らかな花の色では無い。テーブルの下できゅ、と両の手を握りしめ、怯えながらも進む事を選んだ、一人の少女の瞳にはカサブランカの香が混ざる。父の瞳は驚きに大きく見開かれた。彼女が己の言に素直に頷かなかった事なんて、あったろうか。
「……スヴェータ……僕は、」
 君が心配だから、君を守りたいだけだ、喪いたくないから、もうなにも――何と続けるのが最善なのか、もうユスチンには分からなかった。彼女が望むのならば、その背を押して笑顔で見送るのが父たる己のとるべき姿なのかも知れない。けれどそれを上回るのは、彼女も喪う恐怖である。
「お父様……あのね、お父様……私……私、この邸で今まで通り幸せに浸って、優しい夢だけを見て過ごすのはもう……嫌、なのです」
「スヴェータ……スヴェトラーナ、それは……」
「お父様は、何時まで……過去に生きておられるのですか?」
「っ、違……違う! 違うよ――」
 ディーナ、と男が妻の名を口にしたのは無意識下で、娘とその人を重ねていたからなのだろう。ガチャン! と音を立ててカップをソーサーの上へ置いたのも、鼓膜を震わせる自らの声に驚愕するのも、娘ではなく父であった。違う、と言葉を反芻する声はまるで凍えた様な其れ。娘は瞳に哀れみを宿すでもなく、悲哀で満たすでもなく。一瞬細めた薄氷色に変わらぬ柔らかな色を湛えて、父を見る。
「私が……私が生きるのは……今なのですよ。私だけではなく、あなたも……きっと」
 ユスチンに娘の瞳を見る余裕は無かった。ヨハンは表情こそ平素と変わらぬものであるが口を固く結んでいるし、ハイルヴィヒも何かを語る事は無い。泉の色と空の色は1組の父娘の行方を静かに、見守るのみである。
「私……知りたいの、世界を。……私の抱く感情を。すべてを知る事が叶うなどとは、思っていません。でも……でもね、私……気づいて、しまったのです」
 娘は、震える薄氷の色を只真っ直ぐ父へと向けた。貫かぬ様に、けれども逃さぬ様に。淡く冷えた色をした瞳の奥に、暖かな色を僅かに織り交ぜて。震える唇で言葉を紡ぐ。優しい夢を壊すように、硝子箱に罅を入れ、壊していく。
「――お父様、貴方の愛は……牢獄だわ」
 娘は、真っ直ぐに父へと向けていた視線を逸してしまいたかっただろう。訪れた静寂は、娘の耳にただ重苦しく響き続ける。音など皆無、其れでもただ、何かが鼓膜を震わせる感覚ばかりが残り続けていた。ぎゅ、と握りしめる両手のひらはすっかり汗ばんで、吐息すら震える。
「此処に居れば、恐ろしいものなど何も知らずに、穏やかに、作り上げられた幸せだけを見続けて居られたでしょう。……いつか、終わりが来るとしても。其の瞬間までは、きっと。でも、お父様。私は……私、は……もうとっくに、外を知ってしまったから。焦がれる気持ちを知ってしまったから。だから……お父様。私は貴方の持つ鍵が欲しいのです。…………此処を出て、私が、私の足で立つために。歩むために」
 娘は懇願し、新たなる色を望む。訪れる暗闇を恐れず、泉に空ばかりを映さず他のものを写すために。マ・メール・ロワに語られる夢ばかりが現実ではないと知ったから。色とりどりの花々が語りかける夢はこれで、幕引き。咲き沿う薔薇を散らすのが此度の答えであるとしても。
「……いつまでも、子供のままじゃいられない。いや……居てくれないんだね」
 ぽつりと溢される父の言葉に、伸ばされたその腕に、娘は睫毛を震わせる。噛み締めかけた唇を、けれども噛まずに済んだのは父の手が、そっと娘の頭を撫でたから。娘は驚きに目を丸くして、顔を上げる。柔らかな、慈愛に満ちた父の表情、瞳の奥には一抹の寂寞感こそあれど、決して其ればかりではない様であった。例えば、夜空に浮かぶ優しい満月の様な其れ。朧に霞まぬ色をした暖かな其れである。頭を離れた父の手は、一度離れ、歩み寄る父の手は娘の背中へそっと回される。柔く、けれども力強く娘の体躯は抱きしめられ、あふるる雫が頬を伝った。
「……ごめんなさい、お父様」
 娘の懺悔は、誰が為に。父は再び娘の金糸の髪を優しく撫でる。気にしないでと笑いかけながら、大丈夫だと告げるように。そして父は思う。つくづく娘は素直が過ぎると。己の留守に共に行く事を拒否して護衛と家に残るとだけ告げて、勝手に出ていってしまえば良いものを。結局出てしまえば同じ事、ただ罪悪感のある無しか、或いは。護衛の片割れが許してくれない可能性を考慮し、すべて計算の上であるとは思えない。娘の流す涙は朝露の如き清らかさで、はらはらとこぼれ落ちているのだ。其れを疑うなど、父に出来るわけがなかった、其れだけである。
「スヴェータ、いいんだ。いいんだよ……君はきっと、いつか外へ出なくてはいけないのだから。それなら……うん、早いほうが、いいだろう? それに、ほら、永続的な何かは、僕らがどうしようもなく“人間”である限り、あり得るものじゃ、ないんだ。わかってる、わかっていたさ。……だけどねスヴェータ、一つだけ忘れないで。僕にとってはもう、君が全てなんだ。だからどうか……帰ってくると、約束してほしい。……僕の言葉はもう、その……信用ならないかもしれない、けど、でも……本当に、君が……スヴェータが、大切だから」
 父の言葉に娘はただ首肯する。あふるる言葉は、とても声になりやしなかった。ただ頷いて、了承の意を示すので手一杯であった。永久の別れにあらず、けれども不測の事態とは常にあり得る可能性の一つだ。如何にささやかな可能性であれど、それは直ぐ隣に居るのかもしれない、その可能性は捨てきれない。其の事態を、一度ならず二度経験した男はただ怯えるばかりであった。そしてまた少女も、それは同じくする所であったのやも知れぬ。己が誰かと重ねられる事には慣れていた、期待を裏切る事程恐ろしいものも、見捨てられる程に忌避すべきものもなかった。ただそれも今日で終いにしよう。父を大切に思う気持ちは確かに娘のものである。嫌われたくないと、見捨てられたくないと願うのもまた然り。言葉を紡ぐ事が恐ろしいのもきっと今日でおしまい。明日目覚めた時には、己の身体はまるで己のものではないように感じられるのではないか、そんな漠然とした期待と不安を織り交ぜて、けれども少女は瞳に星の輝きを宿していた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.107 )
日時: 2017/09/10 21:20
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ
参照: http://twitter.com/imo00001

 美しい西日であった。オレンジ色の斜陽は放射状に伸びており、さながら薄い垂れ幕を敷いているかの如く。見る者に溜息をつかせることだろう。自然のカーテンに巻かれながら、ランバートもガウェスも小難しい顔をして、出発の時間までの僅かな時間ではあるが言葉を交わす。彼方より此方を見つめる太陽は昼間の突き刺すような日差しは成りを潜めたとしてもジリジリとした暑さは未だ健在である。ガウェスの頬を汗が流れる。それがこの蒸し暑さによるものなのかランバートに手痛いことを言われた故のことなのか、馬車の小窓から覗いていただけのユスチンには分からなかった。

 ランバートが屋敷を空けると、ついにガウェスは一人となった。いや、一人というには少々語弊があるかもしれない。何せ、身の回りを世話をする使用人が数人は残っているのだから。もっとも殆どの使用人には暇を出して屋敷から出て行かせた。これ以上余計な犠牲を増やさないための苦肉の策である。屋敷の中を我が物顔で歩いていた傭兵達に至ってはよもや解雇の命が出るとは思ってもみなかっただろう。しかし、ジャッバールとの制約通り、ランバートは屋敷に帰ってくる否や彼らを集めると躊躇いなく解雇の命を出した。多くの傭兵が困惑と悲哀に暮れたのは言うまでもない。そこには彼の末弟の姿もあり、ひどく狼狽えていた。しかし、事情を説明されると、人に好かれるであろう優し気な垂れ目をキッと吊上げて「ここに残る」と最後まで粘っていた。彼は傭兵ではなく、ハイドナーとして、キールとしてここを守りたいと申し出たのだ。ガウェスは彼の心意気に感服の息を洩らしそうになったがランバートの瞳はひどく冷たいものであった。大凡、家族に向ける代物ではない犬畜生に向けられるような軽侮の視線である。それを浴びせられてもなお、若き傭兵はしっかりとランバートから目を逸らさない辺り、彼の意志の強さが伺える。だが、確固たる意志を持つ青年をせせら笑いながら「俺達を物言わぬ肉塊にしたいなら残ればいい」と黒い男は脅しをかけた。それが実弟にかける言葉かと、言葉で咎める代わりに足を踏んだ。だが、全く効いていない。訂正もしなければ、痛がる素振りも見せない。ギョッとしたガウェスをチラリと横目で見遣ると、にやりと意地の悪い笑みを一つ堪え、容赦なく踏みつけた。(ちなみにガウェスは声は出さず奥歯を噛みしめて痛みに耐えていた)青年は冷水をかけられたみたいに肩を震わせ顔を青くした。一度大きく目を見開いたと思うとすぐにアイスブルーの瞳を伏せ渋々と同意したのだった。
 逆に次弟はひどく淡々としていた。文句の一つでも出るかと予想をしていたが、事情を聞くと眉間に寄っていた皺を更に深く刻み、たった一言「分かった」と言うとソファーを立った。彼は商人であり、無理に屋敷を出る必要はない。だが、ここにいては何が起きるか分かったものではないと、ランバートと、本人たっての希望であった。それを拒む権利はありはしないのだ。嗚呼、そして、ガウェスは忘れはしないだろう。部屋を出る寸前、振り返った時の見えた軽蔑と怨嗟に満ちた視線を。
 全員に金品と次の仕事への紹介状を渡して、手は打ったものの、ハイドナーひいてはキールに多少なりともヘイトが溜まることは免れないだろう。それでも、彼はここまで仕事ができる奴だったのかとガウェスは舌を巻いた。もっとも一仕事終えた途端、仕事の途中で知り合った女性に猫なで声で電話し始めた時、少しでも尊敬した自分を恥じ、苦々しく顔を歪めると、彼の足をさっき以上に力で踏んだのだ。
 さて、使用人は既に寝、辺りはシンと静まり返っている。キール邸は大通りに面しているので、屋敷の中にいても人々の動きも賑わいも手に取るように分かる。特にここら辺は飲み屋街が多い地区なので朝から夜まで多くの人で賑わっている。だが、深夜になるとまともな人間ならば帰路へつき、享楽的な人間は色町へと吸い込まれていく。今まで聞こえていた雑踏は遠くへ行ってしまった。鳥の羽ばたく音でさえ耳に届き、静けさが空間を支配していた。本来ならば心地の良い閑散が今のガウェスにとっては孤独感を生み出す装置でしかない。
 質の良いウォールナット材で出来た椅子に腰掛けている彼の顔は冴えない。柳眉を歪ませている原因はテーブルの上に置いてある一枚の書類である。ジャッバールから受け取ったソレは、ハイドナーを破滅に導く悪魔との契約書に他ならない。契約を交わせば、ハイドナーは骨の髄まで邪悪な獅子に食い尽くされることとなろう。無論、彼も理解しているのだ。これにサインをしなければ一族郎党皆殺しにされると。事実、交渉の席ではサインをあぐねいた彼に痺れを切らし、バシラアサドはシャーヒンを用い殺害しようとした。彼らは本気なのだ。
 だが、代々積み上げてきた財を栄光をここで屠って良いモノか。自分が死したのち、先祖に顔向けできるのか、ハイドナーを守ってほしいという母親の願いはどうなるのか。様々なものが重荷となって自分の背にのしかかってくる。先程、ランバートはガウェスに告げた。「お前は自由である。縛るものは何もないのだ」と。だが、だが、否! 何の重責も抱えていない彼は分かるまい。ガウェスの苦悩が。圧し掛かってくる重荷を捨てる度に罪悪という鎖になって絡みついてくる世にも恐ろしい悍ましい感覚が。ポトリと手から万年筆が落ちる。書類に一滴二滴と黒い染みを作っていくが、両の手が万年筆を拾い上げることはなく、代わりに端正な顔を覆うこととなった。無理に動かすとジャリルファハドに刺された傷がズキズキと痛んだが、それよりも心が悲鳴をあげているのだった。
 どれくらい経っただろうか。もしかしたら、一時間も経っていないやもしれぬ。それでもガウェスにとっては悠久の時を過ごしたように感じてならなかった。呆けている彼の耳に二階からパリンと乾いた音が聞こえた。隠されていた青い双眸が自然と天井を見据える。恐らくは真上の部屋からだ。何かが投げ込まれたのか、はたまた盗人か。使用人に任せるべきかと思い浮かせた腰を再び下したが、武器を持って戦えるのはガウェス以外いない。愛用の剣を手に取るが少し考えるような素振りを見せると、壁に立てかけ、真新しいクローゼットを開ける。洋服が一枚もかかっていないクローゼットの中には棹だけが物寂しくかかっている。結局は使わずじまいになるかもしれないと準備をしてくれた仲間には申し訳なく思い苦笑が洩れるが、奥にしまってある一本の剣を見つけると途端に顔が引き締まる。普段は使うことがないもう一つの刀剣。普段使っている剣と比べると小さく、重量も軽い。だが、室内という狭い空間で戦うならば、取り回しが効くように刀身が短くフリの軽い方がいい。
 パッと見た限りでは部屋は荒らされた形跡もなければ、人が出入りした様子もない。気のせいで済めばならば良かったものの、割られた窓ガラスが事実を突き付けてくる。ここから侵入したのだ。石が投げ込まれただけの可能性も考えたが、キールの屋敷にそんな物好きな事をする輩はいない。銃に持ち替えるべきかとグリップを指先でなぞるが、ここで再び問題を起こせば今度こそハイドナーは骨の一片も残らず真実と共に闇に葬られることは明白である。また、騎士らしからぬ思考であることに気が付くと自己嫌悪で胸が軋む思いになった。
 部屋の隅まで調べても手掛かりらしい手掛かりは見つからず、息を吐き、肩を落とした。パタリと扉を閉めて、隣の部屋へ向かおうとした矢先、ふと彼は思い至ったのだ。ここまで用意周到な輩が何故、物音を立ててここから入って来たのか。ここまでの手腕があるならばもっと他にやり方があったはずではないのか。取っ散らかっていた憶測がパチンパチンと嵌り、ようやく一つの答えを導き出した時、自分の置かれている立場を悟った。途端に廊下の照明が一気に消え、今まで見えていた世界が黒く染め上げられる。先手を取られた! ガウェスは焦る。侵入者は彼が部屋に入り、出てくるまで一秒も目を逸らさずにジィと見ていたのだろう。そして、気が抜けた一瞬のスキをついて揺さぶりをかけてきた。何という執念! 何という忍耐力! 梟が遠くで鳴いている。それ以上にバクバクと脈打つ心臓がうるさい。窓から差す月の光が一層青白く光っている。息を吐き、落ち着けとガウェスは言い聞かせる。照明を消せば確かに姿は隠せるが、視界が効かなくなる。それは相手も同じだ。だがもしも、それを一切意に返さない人物、夜目が利く人間だとしたら、例えば、セノールのように。咄嗟に振り向いた先、暗闇に慣れぬ瞳でも確かに捉えた。窓から降り注ぐ白い光。月明かりを乗せた刀が銀色の軌道を描き真っ直ぐとガウェスの首に向かっていく。刀身の部分が彎曲した刀は堕ちた騎士の命を刈り取る、死神の鎌のようであった。

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