複雑・ファジー小説

[リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2018/11/20 21:30
名前: にっか ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)

参加者一覧
・にっか(文字化けするためNIKKAと名乗ってます)
・ポテト侍
・霧島
 以上3名。敬称略。

設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

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Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.29 )
日時: 2016/09/28 23:38
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ

 ガウェス指導の下、ハイドナーの騎士団強化に努めたのは3年前である。他組合との対立の激化、賢者の石の更なる回収、そして、一族の悲願である賢者の石を使った製薬方法の発見。様々な理由から自軍をより強固なものとし、カンクェノのもっと奥へ潜ることが必要だと判断し行ったのだ。
 先ずは、兵士一人一人の練度の向上させ団の質の向上を図り、賃金の上昇と報奨金制度の設置で士気を上げた。しかしそれではまだ足りぬ。どんなに兵士達の練度をあげようが、鼓舞しようが、相手の力量が己の実力を上回ればあっさりと死ぬ。故に、ハイドナーが最も力を入れたのが即戦力の確保。少なくなった分をそれと同等、否、それ以上の供給で補おうとしたのだ。
 アゥルトゥラ全域から西方の砂漠に至るまで、腕が立つ者と年単位の契約を結び、契機が終わるまで騎士団の一員として迎える。そしてミュラの師は、一年間のみこの契約に同意した。この時から、ガウェスは精鋭達の所属している団を騎士団ではなく私兵団と呼びだした。騎士として称号を賜っている者より、外部から流入した人間が多くなったからだ。その事実を知っている者はガウェスと父と、ほんの一握りの信を置く者のみ。加えて、私兵団の彼らの行動や言動を見ただけで、騎士ではないと察することのできる洞察力を持っている人間くらいだ。
「つまり師匠はここにいたんだな」
「はい。二年前までは確かに」
「そっか……」
 ミュラはそれだけ言うと俯いてしまった。ガウェスは黙ってミュラの動向を見守る。ミュラは怒っているのだろう、同時に裏切られたと感じることだろう。15年間ずっと共にいたはずなのに、様々なことを教えてくれたはずなのに、何も伝えずに、1人でこの豊かな土地に越した己の師に、そしてこちらへ来いと唆したハイドナーに。ガウェスもこればかりはなんて声をかけようかと戸惑ってしまった。下手に慰めの言葉をかければ彼女のプライドを刺激し、火に油を注ぐ結果になってしまう。
 だが、そんな心配は杞憂に終わった。顔をあげたミュラは破顔していた。
「良かったぁ、本当に」
 安堵を覗かせた表情にガウェスは拍子抜けする。ミュラは上半身をテーブルに乗っかるように身を乗り出す。その時に気が付いた。彼女の瞳は父のように真っ黒ではなくて、黒に限りなく近い茶色だった。
「師匠さ、カンクェノの何処かにいると思う?」
「……、ええ。いると……思います」
「だよな!あたしもそう思ってたんだ。だって、こんなおもしれー所があったんだもん。一年で終わりだなんてもったいねーもんな」
 やけにぎこちないガウェスの返答を別段気にした様子もない。尤も、思わぬ吉報に舞い上がり彼を視ていないだけなのだが。
「恨んでいないのですか、我々を」
「そりゃあ、怒ってないわけじゃねーよ。正直、恨んでる。でも、師匠のこともうとっくにくたばったと思ってたからさ。生きているって分かったらそんなことどうでも良くなったんだよな」
 ミュラはクッキーを一つ、口の中に放り込む。唇についたクッキーの食べカス親指で払い紅茶を飲む。
「まぁ、なんだ。教えてくれてありがとな」
 ほんの僅かに顔を歪めたガウェス。ミュラはその変化に気づかない。更に話を続ける。
「また会ったらさ、いっぱい話を聞いてもらうんだ。驚くだろーなぁ……」
 師匠との再会に夢を馳せるミュラとその様子を何故か浮かないをするガウェス。太陽の騎士と称される彼に似合ぬ憂い顔。遠い目をしている彼をミュラは些か気を悪くしたようだった。歳不相応のふくれっ面をしてガウェスを見据えた。
「何だよ。あんたもあたしのこと馬鹿って言いたいのか」
「まさか。……ただ、貴女はあの人と似ている部分がある。そう思っただけです」
 自分で言っておきながらこの言い訳には少々無理がある。
 しかし嘘では無い。歩き方や喋り方や纏っている雰囲気、考え方も影響を受けている。とくに歩き方に至っては彼女のソレそのものだった。土踏まずと指の間から地面に足を下ろし、踵、最後に指を着地させる。いつぞや極東の島国に存在する『ニンジャ』と呼ばれる諜報部員、その歩き方を真似たのだと自慢気に話していた。確かに他者と比べても足音が小さい。ちなみにミュラは彼女の悪癖もしっかりと受け継いでいる。無意識のうちに右側に重心を寄せてしまっているのだ。それは、技術を盗んだ相手が右側ばかりに銃を携帯した為に身体の重心が右に傾いており、そのまま真似てしまった故の弊害である。ついでながら、彼女が銃をどこに携帯していたのかというとショルダー、ヒップ、レッグは勿論、アンクルにもホルスターをつけていた。更にはスリーブガンまで準備しているのだから、大抵の人間はその用意周到さに驚きを通り越して呆れてしまう。
 閑話休題、話を戻そう。師と似ているというのは、ミュラにとって最大の賛辞である。彼女を目標に今まで研鑽を積んできた。嬉しくないはずがないのだ。先の不機嫌さは既に羽が生えて飛んで行ったらしい、喜色満面に溢れている。
「この銃、貰ってもいいんだよな」
「ええ。どうぞ」
 一度テーブルに置いた銃を手に取り、構えてみせる。彼女は正確に謂えばセノール人ではないが、セノール人と通ずるものがある。武器が似合う。 
「撃ち方は?」
「師匠が教えてくれたから知ってる。でも全然狙いつけらんねーし当たらないから実戦で使ったことはねーかな」
 ブレイク・オープン型の銃。銃身を持ち、ヒンジと呼ばれるパーツを中心に折ればエジェクターによって空薬莢を一回で全て排出できる。当然ミュラも知っていた。実戦で使ったことはないというわりには手慣れた様子で銃身を折るとまだ空になってない薬莢が飛び出る。感心しているガウェスをミュラがしたり顔で見下す。
「お前は撃てんの?」
 何かの拍子で撃鉄の先端が雷管に触れないようシリンダーから最初の一発は抜くのも忘れない。再装填して銃身を戻す。
「ええ。剣はもう古いと、こってり叱られたあと多少ですが教えて貰いました。撃ち方や構え、リロード、手入れくらいなら出来ますよ」
「そこまで出来れば十分だろ。つか、使わねーんだな」
「幾度か考えましたが、我らが血族は戦いに赴く際は白銀に輝く鎧を纏い、剣を携え戦場へ参陣したそうです。それはハイドナーの掟であり、先代が培ってきた誇りです。例え古臭いと云われようと、この戦い方を変えることはありません。それに飛び道具は騎士からすれば卑怯な武器の象徴になっていますから。それを使うのは道に反するのでしょう」
 騎士が隆盛を極めたのは飛び道具が登場するまでの約200年間のみである。しかし、飛び道具、銃の登場を待つまでもない。大弓や弩が出てきてしまってからは近距離の武器よりもそちらが戦において最大の功績者になってしまった。
「ふーん」
 ミュラには理解し難い感覚だった。自分のように使おうにも肌に合わない、最大限の効果を発揮できないなどではなく誇り故に使わない。一族を重んじ、騎士の誇りを守ろうとする戦い方。自分ならば無理だ。そもそも砂漠の劣悪な環境下で武器を選りすぐって使うなど砂漠を生き残れない馬鹿がすることだ。使える物は徹底的に使い潰せ。仕事の時は冷静に冷酷に。それが師匠に教えられたことだ。(とは言っても、ミュラ自身、わざと獲物を見逃したり、物資を全て奪わなかったりと甘い部分があるのは否めないのだが……)

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.30 )
日時: 2016/09/23 18:45
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ

「ところで、ジャリルファハドには伝えたのですか?」
「何が?」
「貴女がここにいることです」
「いや、伝えてねーけど。でも、すぐ帰るとは書き残しておいたぜ。多分大丈夫だろ」
「……そうですね」
 未だ楽観的に笑うミュラと相対し、ガウェスの柔らかい表情を微妙に強張らせることになった。マズいことになった、と苦々しい思いで冷めかけた紅茶に口をつける。
 もしも連れが突然いなくなったら彼の武人ならどうするか。剣を交え、幾ばくか言葉を交わしだけではどうにも捉えきれない部分がある。が、彼女をそのままにしておくなど考えにくい。もしも彼が、彼女をここまで導いたのならば猶更だ。夜の町を韋駄天の如く駆け、彼女が行くであろう場所を虱潰しに調べていくはずだ。ここも候補に入っているはずだ。むしろ既にここに来ていても不思議ではない。
 やけに見回り連中が静かだ。もしやと思い窓から庭を覘けば、塗り潰したような黒の中に淡いオレンジがぽつりぽつりと見える。ガウェスはホッとした。だが、その心安も次のミュラの言葉で玉砕されることになる。
「この屋敷にもう1人、お客さんとかいんの?いや、勘違いかもしんねーけどさ」
 塗りたての白い壁に黒い染みがあると無駄に気になって仕方が無くなるように、その場に似合わない異物を本能的に気付いているのだ。事実、ミュラの勘は当たっていた。この屋敷には現在、ミュラを除くともう一人客人がいる。
「それはないと。いや、まさか……」
 少し考えてガウェスはティーカップを置いた。話し掛けてくるミュラを無視してドアの前へと立った。外に気配はない。しかし……。右手は剣の柄に、左手はドアノブに。途端空気が張り詰めた。寒くもないのに全身が粟立ち、冷や汗が流れる。それなのにどこか心を昂揚させるこの感覚をミュラは知っている。互いが互いを殺めるときの空気。黄泉への入り口が口を開けて待っていると知っていながら自らそこへ飛び込むような蛮勇。
 一瞬の沈黙。と、ドアが開け放たれると同時に突く!あの重装備から閃光のような鋭い一撃を繰り出せるのか。それ以前に何故こんな行動をとったのか分からない。ミュラは首を傾げる。
 部屋の外は今、ガウェスが開け放ったドアの音と剣が空を切った音以外何も聞こえない。何かを貫通した手ごたえもなければ誰もいない。
「まるで野生動物ですね。それに立ち聞きとは趣味がよろしくないようだ」
 誰に向けての言葉なのか、ミュラには判断しかねた。振り返ったガウェスに思わず身構えるミュラだったが、普段と同じ人当たりの良い柔らかな笑顔を見せている彼を見て気が抜けてしまう。
「念のために屋敷の見回りに行ってきます。ミュラは私が帰ってくるか、迎えが来るまではここで大人しくしているように、いいですね?」
「おい、セノールとかアゥルトゥラのこと教えてくれるんじゃねーのかよ」
「帰ってきたら教えましょう。それまでは良い子にしているように、いいですね」
 小さい子供を諭すような言い方。納得はしていないが、了解したようである。嘘つきと責めるように睨んだまま黙々とクッキーを食べ始めたのが証拠だった。聞き分けがいいのか悪いのか、思わず苦笑してしまう。ガウェスは部屋を出る寸前何かを思い出したようで、踵を返しミュラの方を向き直る。
「忘れるところだった。ミュラ、帰るときは裏門からお帰りなさい。今は閉鎖していますが、この鍵を使えば開くはずです」
 投げて寄越された鍵の頭にはハイドナーの家紋が描かれている。
「この部屋を出たら左の方向、道なりに進んでいけば屋敷の裏に出られる扉に辿り着くはずです。そこを出れば裏門が見える。鍵は使ったら適当に敷地内に投げ込んでしまって構いません。くれぐれも持って帰る、などしないように」
「ん、おっけー」
 今度こそガウェスは部屋を出て行く。見回りというのは真っ赤な嘘。彼がこれから向かうのは屋敷の外。そろそろ父が帰ってくるのだ。その足止めをしなくてはならない。もしもセノールと父が鉢合わせるようなことになったら、それこそ最悪のシナリオが出来上がる。下手をすれば第二の西伐が起きてもおかしくない。それは絶対に避けねばならない。
 そしてもう一つ、彼は嘘をついた。それは優しい嘘だった。だが、残酷であった。全てが白日の下に晒されたとき、ミュラが全てを知った時、危うかった嘘は彼女を絶望に突き落とす陰惨な真実へと姿を変えるだろう。だが、それを知っていて尚、言えるわけがなかった。師がいるかもしれないと気持ち華やいでいる彼女に、実は死んでいるなどと宣えるわけがなかったのだ。あの銃は彼女の遺品である。
 ガウェスは玄関ホールまで来て足を止める。最初は全てを伝える覚悟があった。しかし、師のことを憧れのヒーローのように話してくる彼女を、こちらでどのように過ごしていたか興味津々に訊いてきたミュラに、本当のことを伝える勇気を持ちわせていなかった。非道い人だ。自分が傷つかないために他人を傷つける選択肢をとった。
――あの子が来たら守ってほしい
 彼女がよく口に出していた言葉が過る。頭では十二分に理解しているはずなのに、それを行おうと意気込めば意気込むほど、手の中をスルリと抜けていく。まるで舞い散る花びらを掴もうとするかの如く。
 自分が最も忌むべき♂Rに頼らなければならないという自己嫌悪。ガウェスは屋敷の扉に手をかけ溜め息をついた。夜はまだ明けそうにない。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.31 )
日時: 2016/11/06 23:56
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 暗闇の中、静謐を壊すまいとジャリルファハドはガウェスの背を見送った。息を殺し、静かに穏やかに繕う。ガウェスが屋外から出て行くと、物陰から身を現し、小さく溜息を吐いた。ミュラが此処で己の姿を見れば、なんと反応するだろうか。大声を挙げるなど馬鹿な事はしないでもらいたいが、適わないかも知れないと諦観するような思いを抱きながら歩みを進めるのだった。
 ドアの前に立ち尽くし、己の身に降り掛かった剣閃を思い描けば、自然と笑みが毀れる。また殺し合う時が来れば、あの業が見られよう。それを如何に打ち破るかと考えれば、それが愉しみであった。腕を取るべきか、首を取るべきか、鎧の隙を突くべきか。それとも延々と斬り合い、殺し合いに興じるべきだろうか。はたまた、卑劣な手で意趣返しを施すべきか。武人と復讐者の性を馬鹿げたものだと鼻で笑い飛ばしながら、ドアノブを回す。気のせいではなく、部屋の中のミュラが気付いたらしく、視線が此方に向いている。
「随分、早かったなー?」
 ガウェスだと勘違いしているらしく、ドアの影に隠れるようにして己の身を晒さずにジャリルファハドは筆架叉を引き抜いて、それを床に突き刺すように投げ付けた。絨毯、木の床、それらを貫き、やや傾斜を付けて突き刺さったそれにミュラは視線を奪われた様子で、黙りこくり息を呑む。
「……憲兵に見られなかっただろうな」
 誰が来たか察しが付き、ミュラの顔立ちが一気に曇り、抗議の視線とも言えるそれをドアの裏側の人物へ向けていた。大声を挙げるような事も無かったが、怒りによく似た感情が胸の中を行き交い、不快感を露にする。
「何しに来たんだよ」
「迎えに来た、帰るぞ。お前の真意に汲めずにすまない事をした。俺の悪手だ」
 伝えたい事だけを簡潔に伝え、ジャリルファハドはミュラを一瞥して踵を返す。随分と勝手な事を言うとミュラは思ったが、短いながら侘びの言葉を聞いてやや驚いたような様子だった。 
 床に突き刺さった筆架叉を引き抜いて、ミュラは再びソファに腰を下ろす。ガウェスが戻ってくるまで帰る気はないのだ。それと同時にガウェスとジャリルファハドに言葉を交わす場を設けさせようと考えていた。いつまでも争ってばかり、五十年も昔の怨嗟を引き摺り続けるなど馬鹿馬鹿しいと思い立っての事、ミュラに悪意はない。
「まだ帰らねーよ」
「ふざけるな、お前がそうやって駄々を捏ねれば、俺はまた斬り合う事になる。敵の本拠で殺し合うなど、多勢に無勢に成り兼ねん。それにだな――」
 此処で事が起きれば、ジャッバールが攻撃を仕掛けてくる可能性があるのだ。ともすれば、時期尚早すぎる「東伐」乃至、クルツェスカにて「セノールの手による事変」が起きる可能性があった。結果的にはセノールを滅ぼす要因と成りかねる。奴等はそこまで考えていない事だろう。ハイドナーが危機に窮したならば、それに便乗するまでという短絡的な思考しか持ち合わせていない。
「それに――?」
 ミュラが言葉尻を取るようにして問う。
 彼女にセノールの野望を伝えるべきではない。国力を十分に蓄えてから、アゥルトゥラの一切合切を皆殺しにし、五十年前の怨嗟を晴らす。血で血を洗い流し、互いの死を以ってして浄化を図る。そんな物騒で黒く、醜い未来の出来事を予知させたくなかった。
「――――忘れろ。いいか? とにかく帰って身体を休めろ、明日からカンクェノに潜るのだ、ソーニアに迷惑は掛けられんだろう?」
 尤もらしい言葉を吐き、ミュラをはぐらかす。妙なことを言うと小首を傾げながら、彼女は再びクッキーに手を伸ばした。帰る気は微塵もない。まだ、居座る気満々である。その様子を横目で見ながら、どうしたものかと内心、ジャリルファハドは頭を抱えるのだった。
「……何故、帰らぬのだ」
「え? いやー、まぁさぁ」
 ガウェスとジャリルファハドが鉢合わせるように仕向ける気だとは言えない。ともすれば、ジャリルファハドが激怒する事だろう。結果的に帰らざるを得ない状況となる。しかし、今ミュラの頭の中では、それ以外の理由は考えられず、焦ったようにクッキーを飲み込み思わず咽てしまう。
「理由すら言えんか、この大馬鹿者が」
「だから、馬鹿って――――」
 大声を出しそうになり、ジャリルファハドが静かにしろとジェスチャーをする。はと気付いた様子でミュラは口を閉ざす。やや呆れたようなジャリルファハドの視線がミュラに突き刺さり、やってしまったと、ややしょげた様子でミュラは肩を落とした。
 その脇を通り過ぎ、ジャリルファハドが窓の外を見やる。警備の者が一列に並び、ある男を注視している。その男を真正面から出迎えるのはガウェス。そして、その男の顔には見覚えがあった。先代のハイドナーの当主であるロトスであった。セノールの怨敵、その姿を見て尚更此処から去る必要があると感じ入る。
「ミュラ、やはり帰るぞ」
「だから、まだ帰らないって」
「謂れもない汚名を背負えるか? それに怒りを持たぬか? お前にそれが許せるか?」
「何言ってんだよ」
 ミュラはやはり知り得ない。ロトスのセノールに対する排斥的な発言、感情、思考を。ミュラがそれを堪えきれる保障は何処にもない。激昂し凶行に及べば、セノールからすれば単なる迷惑な事でしかない。ミュラの短絡的な思考、感情を呪う。窓から外を見れば、ガウェスがロトスを引き止めているらしく、屋敷の中に入ってくる様子はなかったが万が一という事もある。
「もう一度聞く。謂れもない汚名を背負えるか――」
「あー、分かったって。帰れば良いんだろ……」
 根負けしたようにミュラはようやく立ち上がり、窓から外を睨むジャリルファハドを他所にドアの外側へと歩き出した。ガウェスが裏口と言ってたななどと思い出しながら、そこを目指す。その背を見て、どこへ向かうかと思いながらもジャリルファハドはミュラの後を追った。ロトス・ハイドナー、ガウェス・ハイドナー。この二人の命は何れ取らなければ成らない。特にガウェスの父であるロトスについては、首は要らず、その死体を踏み躙られ、尊厳も誇りすら微塵もない死を与えようと呪詛の念を思い描く。首を取るのはガウェスのみで十分である。尤も正攻法で殺すつもりは微塵もないのだが。



 ミュラの後を追い、歩を進めると殺風景な部屋に扉が据え付けられた小部屋へと辿り付いた。小部屋のドアを閉めるとミュラは辺りを見回して、埃を被った椅子に腰を下ろした。何故座ると抗議するように視線を向けるとミュラは口を開く。
「なんで、そこまで帰りたがったんだよ」
 それがミュラには引っかかっていた。ジャリルファハドを何が来ても刀一つで立ち向かうような人物だと思っていた故、尚更であった。彼女の問いにジャリルファハドは重い口を開く。
「ガウェス・ハイドナーの父親が帰ってきたからだ」
「は?」
 それだけでは理由にならないとミュラは声を上げる。いつもの事ながらジャリルファハドの要点を抜かした話し方に辟易してくる。
「お前は知らぬだろうよ。あれは我々セノールを徹底的に敵視している。……宿を断られた程度で激怒するお前では、あれの言葉に耐えられない、そう判断した故に引いたのだ」
 ミュラを貶すような言いぶりであったが、その語り口から心身を案じてからの判断だという事がミュラにも理解できた。ジャリルファハドの真意としては、その先ミュラが凶行に及ぶ事がないようにという思いがあったが、それは語るべきではない。
「そんなに嫌われてんのか」
「我々の文化、慣習、真実を知るソーニアのような者も多くはないが存在する。全てがその限りという訳ではない」
 何となく生き難い人種だとミュラは思ってしまう。それを思った時、あの宿で己を突き放したジャリルファハドの言葉の真意を捉えられたような気がした。何者か分からないなら、何者かわからない状況に甘んじえろ、と。態々セノールのような人種のフリをするなと諭されたのだ、と。しかし、それでも自分が何者であるかははっきりとさせたいとミュラは思う。自分が何人で、どこで生まれたのか、誰が親なのか。それを知り得ない限り、はっきりとした自己を確立できない、そんな気がしてならなかった。
「ふーん……、そんなもんか。ま、此処まで来たんだし、さっさと帰ろうぜ」
 やけに聞き分けが良いと怪訝な表情を浮かべるジャリルファハドを他所に、ミュラは裏口の扉を開き、その鍵を見据えた。ガウェスは置いていけと言っていたが、どうするべきか。少し悩んだ後、鍵を懐にしまう。どうせ近い内にまた会う事になる。そんな気がしてならなかったからだ。
「蒸してんなぁ……」
「砂漠では有り得ん。此処は人が暮らす所ではない……」
 水もなく、日中は灼熱、夜は極寒。凡そ人間が暮らす場所ではない所から来た輩が言う言葉ではないと、ミュラはジャリルファハドを横目で見やる。思いの他、慣れない気候が堪えているらしく、仏頂面にやや疲労の色が混じっているように感じられた。まさか、迎えに来たのはいいが疲れたから帰りたいとほざいたのでは、と疑いの視線を向ければ、その射掛けるような視線が帰ってくる。少し気まずくなったのか、思わず視線を逸らし、ミュラはそっぽを向く。
「……なんだよ」
「それは俺の台詞なんだが」
「いや、何か言いたいから見てたんだろ?」
「お前も何か言いたい事があるんじゃないのか……?」
 話と状況が噛み合わない二人が暗がりを抜けていく。その暗がりの中からハイドナーの屋敷を見据えれば、ロトスとガウェスが屋敷の中に入っていく様子が見られた。ばったり行き会うという事は避けられたようで、ジャリルファハドは安堵の溜息を吐くのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.32 )
日時: 2016/09/28 21:20
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ

 宿に戻れば、最初にここを訪れた時と同じ。相も変わらず金髪の少女が一人カウンターに立っている。来客がミュラとジャリルファハドだと分かると、遠慮がちに微笑み「お帰りなさい」と声をかけてくれる。帳簿の記入は既に終わったらしく、代わりに整理整頓されたカウンターの中で何かを読んでいた。
「何読んでんの?」
 興味を持ったらしいミュラが覗き込めば、蟻のように小さく細かい文字が頁を埋め尽くしている。文字を追うだけで眩暈がしてきそうだ。しかし、自分よりも若いように思える彼女はそれを諸共せず熱心に読んでいる。物は試しとミュラも挑戦してみるが、三行目に突入した時点で目が乾くような錯覚に苛まれ、頭がキャパオーバーだと警鐘を鳴らす。内容が分からないわけではないが、頭の情報を整理したいと思う。いつの間にかジャリルファハドも隣に来てミュラと同じように目を通していた。
「アゥルトゥラの教典か」
「はい。一般的には聖書と呼ばれているんですけど」
 表紙を見せようと一度本を閉じれば、セノールの教典にも負けて劣らずの分厚さにミュラは引き攣った笑顔をし、ゆっくりと後ずさった。その様子を見て、少女は僅かにだが笑った。帰ってきたときに見せた大人びた笑顔ではない。年相応の純朴な、乙女のように清らかな微笑で、その中に少しだけ悪戯心が滲み出ていた。
「読みますか?」
「い、いんやぁ、結構デス」
 この厚さの読み物を読破出来るかも分からなければ、知識も理解力も欠如している。聖書の内容を覚えておける脳ミソを持っているわけでもない。仮に言葉一つ一つの意味をとれたとしても文全体で読みとることさえ危うい。ミュラは自らの頭の悪さにうんざりしてしまう。少女は断るのを当然分かっていたようで、「残念です」と言いながらも声は楽し気に弾んでいた。
 拒否したミュラの代わりにジャリルファハドが聖書を手元に引き寄せ、視線を落とす。ミュラは再びカウンターまで戻り、今度は本ではなくジャリルファハドを観察する。文字を追う速さが自分の比ではない。ミュラが二行ようやく読み終える頃には、頁の半分ほどを読み終えるぐらいの速さだ。これに関して幼い頃からどれだけ文字や本に慣れ親しんだかにもよるものだろう。吸収した知識はジャリルファハドの見識や論辨を支える一つとなっている。ミュラは自らのコンプレックスを刺激されて、さきの感情がぶり返しそうになるのを太腿を抓ることで堪える。3ページほど読んでジャリルファハドは顔をあげた。
「とっくに廃れたものだと思っていたのだがな」
「信仰している方もまだいらっしゃいますよ。有名な方だとハイドナー家の当主であるガウェス卿もそうですね。とは言っても、あと数年で廃れてしまうかもしれません。アゥルトゥラの民は古い文化や慣習を嫌忌する人が結構いますから」
 顔にはこれから一つの文化が消えゆくことへの憂いが見え隠れしている。ジャリルファハドやミュラとは違う雪像のように白く滑らかな細い指が聖書を慈しむように優しく撫でる。その指は熟練の人形師が時間と労力をかけて造りあげた1つの作品のように寸分の狂いもなく美しい。だからこそ手の甲にもある赤黒いケロイド痕が一層人目を引く。
「そうか……」
 過去の賢人達が残してきた文化を守るのではなく、あえて風化させ破壊する。しかも破壊したあと、そこに新たな文明を打ち立てることもせず残骸が朽ち、滅びるのを待つ。ジャリルファハドからすれば理解できない、したくない感覚である。何百年も積み上げてきた遺産の尊さを解ろうともせず、無価値なモノと見縊る矮小な価値観。挙句、全てを闇に屠ろうとするなど信仰していた神と先人達に対して冒涜である。憤しさを覚えるジャリルファハドであるが、その様はいたって平静。荒立つ心を抑え、さも何でも無いかのように振る舞う。
 時刻は既に十時を回っている。小さく欠伸を漏らす少女。
「そろそろ休めば?」
「まだお客様が来るかもしれませんから」
「いやでもさ、もう夜だぜ。寝た方がいいよ」
 自分より年下の少女の身を案じてのことである。しかし首を縦に振ることはない。むしろさっきよりも強固な意志を込めてミュラを見据える。
「明日になれば交代出来ますから」
「でもよ」
「わたしの元に来る人を、わたしは決して追い出さない」
 唐突に放たれた言葉にミュラはどういう意味かと数度瞬きを繰り返す。
「ここに訪れる方は、様々な問題が抱えた方が多いです。クルツェスカは正直、そういう人達が生きるには厳しい土地だと思います。ならここはそんな人達の為にありたい。その人達を救う最後の砦でありたい。自己満足、かもしれませんが……」
 顔が爛れたあの日から、彼女も人生を狂わされた人間の一人なのだ。職を失い、世間から爪弾きにされれば、飢えと貧困にあえぎ野垂れ死ぬしかない。でも、それでも救われた。だから今度は自分がそういう人達を救いたい。聖女のように清らかな慈愛。ガウェスやジャリルファハドとは違うがこれも一つの自己の形だ。そう気がつけば、ミュラは喉に引っかかっていた魚の骨がとれたような晴れ晴れとした気持ちになれた。先ほどまでムスッとしていた顔が、今は無邪気な子供の様な笑顔を見せている。
「そっか。……まぁさ、どうしても眠かったらあたしに言えよ。代わりにここで仕事してやるからさ」
 仕事をこなせる根拠も無いのに自信満々に宣うミュラを見て、少女は笑い、彪は嗤う。ジャリルファハドの脛を蹴り飛ばしてやろうと画策するが、それより前にミュラの脛をジャリルファハドが蹴る。彪が影を見て相手の動きを予測していることを失念していたのだ。
「なん、で、分かったんだよ」 
「俺に一発くらわせたくば気配を消すんだな、馬鹿者」
 相変わらず滅茶苦茶なことを言ってくるセノールにはほとほと嫌になってしまう。ミュラは恨めし気な視線を投げつける。
「馬鹿じゃ、ねぇよ。くぅ……」
 尻尾を踏まれた子犬の様に悲痛な表情を見せる。笑顔で見送る少女を背に2人は部屋へと向かう。到着すると、早速ベッドに横になったミュラだったが、腰につけた銃の存在を思い出すと、家主に見つかった泥棒のように慌ただしく立ち上がった。受け取った銃にはセーフティもそれと同様な装置もついていないのだ。強い衝撃を与えれば暴発する可能性があった。
「どうした?」
「な、なんでもねぇよ」
 視線から逃げるように彼に背を向ける。不自然なミュラの行動に怪訝そうに眉を顰めるもすぐに興味が失せ視線を外す。言及されなかったことに安堵を覚えつつ、今度はゆっくりとベッドに座る。早いうちに拳銃の件は伝えた方がいいが、話すタイミングが掴めない。目を窓の外に移せば綺麗な三日月が見える。地平線では手が届くのではと思うほど大きく見えた月がここでは小さくなってより遠くにある。星も砂漠で見た時よりもずっと少なくなってしまった。
「色んな生き方があるんだな」 
 口から滑るように出た言葉はミュラの独り言であった。今日一日の出来事が陽炎のように頭の中に浮かび上がっては揺らめき消えていく中、自分がしたことを省みる。
「ジャリルファハド」
「今度はなんだ」 
「今日は、ごめん。ちょっと自分勝手だった。反省する」
 人に謝罪するなど何時ぶりだろうか。上手く言葉に出来ていただろうか。そんな不安が胸をよぎり、横目でしか確認しなかったが、あのむっつりとした顔を乱すことができたのだ。ミュラは満足した。ジャリルファハドが何か言う前に立ち上がり、早足で脱衣所へと向かう。途中で視線を感じたが気付かないフリをしてドアを閉める。明日は言ったとおり、カンクェノに潜る。ジャリルファハドに師の存在を告げておくべきか。黙っておくべきか。悶々としながらシャワールームのドアを開ける。
(使い方訊けば良かった)
 後悔先に立たず。人一人がやっと入れるくらいのシャワールームで立ちすくむミュラ。砂漠にいた時は穴倉近くまでカナートと呼ばれる地下用水路をオアシスから引いていたので水浴びはしていた。だが、シャワーは初めて見る代物であった。一度服を着直しジャリルファハドに頼ることも考えたが、逃げるように来てしまった手前何となく気まずい。とりあえず目の前にあったレバーを回す。シャワールームから悲鳴が聞こえたのはそれからすぐのことである。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.33 )
日時: 2016/09/28 22:45
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU

 “ああ!愛しています、愛しています!貴方達を平等に、等しく!ただ私は愛しているのです!”
 ――少女が少女たる所以とは如何なるものであるのか。例えば一つ、彼女の問いに関して語るなれば。

 “おつかい”を終えた少女達は軽やかな足取りで帰宅する。ふわりとした金糸の髪を揺らすスヴェトラーナは始終笑顔であったが、道を共に行くハイルヴィヒの面持ちは硬い。ヨハンがユスチンに言伝をしたし、そも無理やりであろうけれどユスチンからスヴェトラーナの外出許可は降りている。とはいえど、ユスチンが素直におかえりなさいを言うだけで済むとは思えないのだ。添えるならば、必要な買い物であったといえども、スヴェトラーナをあのような、本来彼女とは無縁であるべき場所へと連れて行ったという事実も、ハイルヴィヒの中に仄かな罪悪感を抱かせている。――屋敷の荘厳な扉が開く、エントランスへ足を踏み入れるのと同時か、足音が反響して聞こえてきた。

「スヴェータ! ああ、もう、ほんっとうに良かった!! ハイルヴィヒが居たから大丈夫だとは思うけど……怪我はないかい? どこもぶつけたりしていないかい? 何か怖いことはなかったかい? ああ、もう……本当に! スヴェータに何かあったら、と思うだけで僕、もう……心配で心配で!」

 駆けてきた白髪交じりのふわりとした髪の男、スヴェトラーナの父たる男ユスチンは大の大人らしくもなく、宛ら妹を心配する兄か何かの様に、愛しい人の無事の帰還を喜ぶかの様に。スヴェトラーナを抱きすくめれば矢継ぎ早にそう告げる。遅れて奥から小走りでやってくるのはスヴェトラーナが幼き折より彼女に仕える侍女である。「おかえりなさいませ」の言葉こそ丁寧なそれであるが、其処には確かな安堵があった。柔く優しい色を宿す瞳もまた、其れを物語って居ることだろう。
 さて件のスヴェトラーナといえばだが、はじめこそキョトン、としていたものの、すぐに呆れにも似た、けれども愛しい人へ向けるのと同義の優しい笑みを其のかんばせに。「もう」だなんて言葉をこぼしつつも、父の背へと手を回す。

「お父さま、もうスヴェータは子供ではないわ。そんなに心配されるほど、幼子であったのは遥か過去の日、其れこそずっとずっと昔のお話。……そうでしょう?」
「……そうだけれど、そうだけれどね、スヴェータ。僕にはもうスヴェータしか居ないんだよ。君にもしものことがあったらって考えるだけで僕はもう耐えきれないんだ、わかって、分かっておくれよスヴェータ! 愛しいディーナと僕の愛しい愛しいたった一人の娘なんだ、君は。……ディーナが居なくなって、君が居て、ならば僕は君を守らなきゃいけないだろうそうだろうそうだよそうだとも! だから、だからねスヴェータ、分かってほしい。どうしようもない、父の我が儘だけれど……それでも、僕は……僕は」

 まくし立てるように男は言葉を連ねていく。言葉尻に行くに連れて徐々にしぼんでいく言葉。其れを全て聞き終えて、娘はけれども静かに微笑むばかりだ。とんとん、と父の背を叩く。宛ら、母が子をあやすかの様に。「だいじょうぶよ、おとうさま」と優しくささやかれる言葉は、喩える為ればさて、ささやかな魔法、おまじないの言葉。此の光景を“いつものこと”と処理してしまう此の屋敷の面々は果たして正常と言えるのか、誰も知りはしない。確証はない、誰の保証もない、真相など、誰も知らない。知る必要も、無かった。なにせ此処は彼らの王国、大きくも狭い箱庭の中なのだから。
 ひとしきり父と娘は再会を喜び、主に父親が満足した頃、娘は漸く解放される。娘のかんばせに浮かぶのは、柔い笑み、穏やかな其れ。いつも浮かべる完璧な笑顔だった。

「うん……ごめんね、スヴェータ。ありがとう。……僕は少し、ハイルヴィヒと話があるから、先にお部屋に戻っていなさい。……ね? 良い子だから」
「ふふ、ふふふ! お父様ったら。そんな風にお願いなさらずとも、スヴェータはきちんとお部屋に戻ります。お父様の“お仕事”の邪魔は、したくないもの。……ハイルヴィヒ、お父様とのお話が終わったら私のお部屋に来てね。約束、約束よ! 絶対なんだから! お茶の用意をしていただいて、待っているから」

 父の言葉に楽しげに、娘は笑う。そうして青の双眸を細めて紡ぐ言葉は聞き分けのいいご令嬢の、正しい言葉、間違い一つ無い、正しく美しい言葉だ。けれど添えられる“友”への言葉がどうにも弾んでしまうことばかりは、許して欲しい。最後に父とひとつ、ふたつ、囁き秘め事を交わしてから、侍女と共に、娘・スヴェトラーナは部屋へと向かう。その前に、洗面台で手を洗うのは忘れずに。なにせスヴェトラーナは良い子であるから、それだけだ。
 スヴェトラーナが去るのを見届ければ、父・ユスチンは改めて、件の少女ハイルヴィヒへと向き直る。些か緊張の面持ちで男を見るハイルヴィヒの視線を受けても尚、男はいつの間にやら浮かべていた柔和な笑みを崩さない。文字通り、完璧な笑みを。

「……ユスチン殿、この度は……」
「ああ、いいんだ、気にしないでくれ。寧ろ……スヴェータを守ってくれて、ありがとう、ハイルヴィヒ。……何処へ行ったか、はこの際問わないよ。スヴェータもいつか……大人にならないと、いけないから。……考えたくはないけどね、わかってる……僕だって、わかっているさ。…………さて、ハイルヴィヒ、此処からは君と“私”の話。お仕事の話だ、いいかな?」

 男の問いに、ハイルヴィヒは静かに頷いた。吐き出される息は、男のもの。一度双眸を伏せてから、再びハイルヴィヒを映すその瞳は、いつの間にか先程まで娘へ向けていた柔らかさとは、また別の穏やかさを湛え、其処に2つ鎮座していた。何処までもただ穏やかなそれは、違和感を覚えるほどのもの。言うなれば、底知れぬ深淵に見つめられているような。ハイルヴィヒは此の瞬間が決して嫌いではなかった。娘にはどこまでも甘いばかりの父であり、けれども彼は間違いなくベケトフ家の当主である。変わったのは一人称ばかりではない事など、既に分かりきったことだ。
 ベケトフの家は、決して非常に広大な領地を持つわけではない。強大な戦力を有するわけでもなければ、積極的に他家や他国と争った記録もない。かのハイドナー家等と比べてしまえば、弱小と嗤われてもしかたなかろう。されど其処には、長きに渡り培われた技術がある、紡がれてきた歴史がある。そして何より一つ、“ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフ”という男の、家名の存続への強い意志。意志のみではどうにもならなかったやも知れぬが、男が此の家の当主として生まれ落ちたその瞬間から、ベケトフ家の当主となる事を、始めからさだめられていたのだろう。大袈裟ではあるやも知れぬが、言ってしまえば天性の才。彼という男は“治める”というのが得意であった。来る者拒まず去るもの追わず、けれども此の領地を害するものばかりは許さず。領地の無理な拡大は望まず、不要な争いなど持ち込まぬべきと語る。只、此の家を守り、存続させる事と考えて、其れを正しく実行してきただけ。正しく“ベケトフ家の当主”である男。其れが目の前の、柔和な笑みを浮かべる男。して、その男、ユスチンは穏やかな声色で、言葉を紡ぐ。

「ハイドナーのご当主さん、何か言っていたかい?」
「いえ、特には。……ですがあの様子ならばおそらく、協力は取り付けられたかと。……不可抗力かつ、大したものではありませんが、少しばかりは恩を売った形となった事案もございます。……あの馬鹿真面目な騎士ならば、おそらく是と返答してくれるでしょう」
「……ぷっ、あっははは! そうかそうかぁ、ハイルヴィヒ、君に頼んで本当に良かったよ。……ハイドナーの若当主君は本当に真面目だからねぇ。いやぁ、良いことだ、良いことだけれど……ううん、いいか、これはやっぱりやめておこう」

 そう言って、ユスチンはゆるゆると肩を竦めてみせる。ハイルヴィヒはといえば、曖昧な表情を浮かべたままで、困惑混じりの薄い笑みを、ひとつ。止めておく、と言うならば言及する必要もなかろう。其れに添えて凡そ、ユスチンが続けたかったであろう言葉の見当は、付いているのだから。

「返事は急がずとも構わない、と添えておきましたが……現当主殿の方が返事を書いてくれているのならば、明日にでも届くかと。何せ、随分と真面目な方ですから」
「うんうん、そっか。……いやぁ、ふふ、一応元ご当主、現ご隠居殿の方への言葉もそれとなく書いておいたからねぇ……ガウェス君が返事を書いて、ロトス君から返事が来なかったらまあ、はは、その時はお察し、ってやつかな? うちはどの程度だと思われてる、くらいに考えていいかも?」

 そう言って、ユスチンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。「なんてね、冗談さ」と軽く笑い飛ばしてはいるが、さて。――否、考えるのはやめよう、とハイルヴィヒはゆるく息を吐く。ベケトフ家とハイドナー家、ひいては当主たるユスチンとロトスはそれなりに付き合いも長い、個人的な付き合いも含めて色々とあることは察しているが、己が踏み込むべき領域ではあるまい。そうハイルヴィヒは考えている。ベケトフ家に雇われて気がつけばそれなりの時を経ているが、あくまでもハイルヴィヒは雇われた身、そのあたりは弁えているつもりだ。
 それからは幾つか、後日の任務に向けて必要な確認を済ませる。他家の協力者の件だとか、手はずだとか、目標目的の照らし合わせ。打ち合わせるべきことはいくつもあったが、それが早くに終えられたのは他でもない、ユスチンの計らいだろう。「スヴェータが待っているんだろう?」と娘の名を紡ぎ細められた瞳の奥に宿った何かには、気付かぬふりをして。ハイルヴィヒは頭を下げて、足早に、廊下を行く。向かうのは、勿論スヴェトラーナの部屋。誘いを断るわけにもいかない、そうする気など更々ない。

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