複雑・ファジー小説

面影は儚く かがちの夢路へ
日時: 2018/10/29 16:11
名前: 藤田浪漫 ◆8nH/qRkwbA



あらすじ

「神の棲まう町」と知られる誘並市。そこには『カオナシさま』という都市伝説がまことしやかに噂されていた。
「夢の中にのっぺらぼうの女の子が出てくる」「その女の子の顔を見ると願いが叶う――」
誘並市に引っ越してきた主人公、月島博人はその『カオナシさま』の夢を見てしまい――




こんにちは。初めまして。藤田浪漫改め写楽というものです。7月30日付で改名しました。
小説を書くのはマジで数年ぶりとかになるのでだらっとふらっとのんびりとリハビリがてら執筆していこうと思います。
地味で冗長な山も谷もない小説ですが、どうぞよろしくお願いします。
頑張って4章ぐらいで一区切りするよう尽力します。
ではでは、よろしくお願いします




目次
前編「不在のアバンコール」

 
一章 「Like a dream on a spring night」>>1-11 >>17-25

一話 「隔絶」 >>1
二話 「安穏/Unkown」>>2 >>3
三話 「白縫筑紫/知らぬ慈し」>>6 >>7
四話 「灯籠/蟷螂」>>8 >>9
五話 「文目/菖蒲/勝負」>>10 >>11 >>17 >>18-20
夢話 「春の夜の夢のように」>>21
七話 「加筆/過失」>>22 >>23
八話 「Mess-age :11」>>24
終話 「廃絶」>>25

二章 「Does yellow innocence dream of no face?」
一話 「劇場/激情」>>28
二話 「segno」>>29
三話 「災厄/再訳」>>30


番外「あの日のぼくらへ」

犬飼圭 「MAD ROCK DOG/微睡む毒」>>12-14




お客様
バンビ さま
人工現物感 さま
浅葱游 さま←すこ


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Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.27 )
日時: 2018/08/15 14:00
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA

>>ねぎさんへ
この場では初めまして、藤田です。コメントありがとうございます。
こうかしこまって話すことは苦手で、ましてや普段馴れ馴れしく接しているねぎたからこそあれですね、なんだか照れ臭くなります。
ずっと前に憧れていた雲の上のお方が僕の小説を読んで頂いているというのは、物凄く有難いですね。それと同時に「下手なもん見せらんねえ……」と少し肩の力を入れながら面影を書いてます。
セリフ回しに力を入れてます。それとちょこちょこ入る小ネタとか、例えば場面に出てくる創作物とか。
コメントありがとうございます。これからも頑張ルンバ

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.28 )
日時: 2018/09/03 22:25
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA

 カタカタカタカタ……とフィルムが回る音だけが聞こえる。

 ここはどこだろうか。眼前に広がるのは行儀よく並んだ赤い椅子の群れ。その先にあるのは大きくて白いスクリーン。両脇を見れば黒い手置きがあって、僕の体重を柔らかなクッションが包み込んでいる。
 僕は今、どこかの古い劇場の席に座っているようだ。輪郭を歪ませるどろりとした薄暗さの中で、スクリーンだけが青白く光を放っている。僕以外の観客はいない。誰もいない。スクリーンの端で四角の列がすごいスピードで下に流れていく。

 カタカタカタカタ……とフィルムはひたすらに、滞りなく回り続ける。

「また逢えたね、博人くん」

 控えめに囁く声が隣から聞こえた。感じるのは懐かしさ、それと愛しい気配。

「うん、久しぶりだね、ともみ」

 僕は答えた。彼女はふわりと微笑んだ。
 フィルムは耳障りな音を立てながら、目まぐるしく回る。忙しそうに回り続ける。
 これは夢なのだろうか。いや、疑うらくもないだろう。彼女に会えるのは夢の中だけだ。

「ともみ、ここはどこなの?」
「どこって聞かれても答えにくいなぁ。あえて言うなら夢の世界……かな?」
「それは分かってるよ。今から何が始まるの?」
「待ってて、すぐに始まるよ」

 ともみはパン、と何かを合図するように手を叩いた。それと同時にフィルムが回る音がパタリと止んだ。今まで不気味な青白い光を放っていたスクリーンがべっこう飴みたいな色に変わる。やがて、ぽそぽそと聞き取りづらい音声とじゃりじゃりとざらついた映像が流れ出す。

──初めまして。月島博人くん、だね──

 スクリーンの奥の女の子はそう言った。雀の音みたいに高くて甘い声。ざらつく映像の中でも彼女の長い髪はとても綺麗で、つややかだった。そして、その女の子には見覚えがある。

「これは……?」
「うん、そうだよ。博人くんの友達の──誰だったっけ?」

 見紛うはずがない。スクリーンに映る女の子は白縫姫菜だ。そして、姫菜と相対しているのは僕。

──君は誰?──

 スクリーンの中の僕は姫菜に尋ねた。不思議な感覚だ。他の誰でも無い自分と誰かが喋ってるのをこうして第三者の視点で見るのは。

──あ、ごめん。次の決勝戦で君と戦う人の姉だよ──

 僕はこの姫菜のセリフに聞き覚えがあった。今映写されているのは、姫菜と僕が実際に初めて会った時の光景だ。確か、剣道の試合で筑紫と戦った後の出来事だった。

──初めましてでこんな事頼むのも変だけどさ──

 姫菜は僕をしっかりと見据えて言う。

──次の試合わざと負けてくれないかな?──

 ともみは手を叩く。静かな劇場の中でパン、と乾いた音が虚しく響いた。その音と示し合わせたようにスクリーンの映像は途切れて、辺りは光を失った。視界は完全な黒に包まれる。

「ともみが消したの?」

 僕は何も見えない中、隣にいるだろうともみに聞いた。うん、と横から返事が返って来た。

「ほら、博人くんと他の女の子が仲良くしてる所なんてあんまり見たくないでしょ?」
「仲良くって……」

 あれが仲睦まじく見えたのなら心外だ。姫菜のせいで初対面の筑紫に八百長を申しかける羽目になったのだから。

「この映像ってともみが流してるの?」
「うーん……、そうなんだけどね」
「……」

 僕は首を捻る。

「私が出来るのは言わば電源のオンとオフだけなんだ。次にどんな映像が流れるかは分からないの。一回消したら自動的にチャンネルが切り替わるテレビみたいなものなんだ」
「ふぅん……」
「ほら、博人くん。また次が始まるよ」

 言うが早いか、またスクリーンから違う映像が流れだす。またセピア色の光で辺りが照らされる。
 スクリーンを眺めて僕は驚いた。映っていたのは僕の後ろ姿だったからだ。それだけならば何も驚くべきことはない。重要なのはその状況だ。
 スクリーンの中の僕がいたのは空港のラウンジだった。
 ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに、原型も留めてないほどにひしゃげた鉄の塊。唯一残った機体の鼻先がその巨大なスクラップが元は飛行機であったことを知らせている。キノコのような形をした爆炎が捲き上るのを、ガラス越しに見ていた。隣には力なく床に膝をついた妹もいた。もくもくと黒煙が止めどなく空に向かっていく。

「これって……何?」

 心なしか少し震えた声でともみは僕に問いかけた。僕はその映像を見ていられなくなって目を伏せたが、ともみの大きな目が僕をじっと見つめているのは何となくわかった。
 ラウンジの中は嵐のようなざわめきで支配されていた。何が起こったか理解できずに窓に向かっていく人。僕と同じように飛行機の中に家族が乗っていたのだろう、呆然と立ち竦む人。青ざめた人。
 僕がどんな顔をしていたか、その映像からは窺い知れなかった。だけど、恐らく無表情でその地獄絵図を眺めていたことだろう。ちょうど今の僕と同じように。

「ちょっと……これはあんまり見たいものじゃないね」

 ともみはパン、と手を叩いた。それと同時に映像は切り替わる。次に映ったのはまたもや見覚えのある風景。目立つ木製の箪笥。大きめなテーブルに椅子が四つ。茶色のファミリーサイズのソファー。登潟で僕が家族と住んでいた家だ。ブラウン管の古いテレビがニュースキャスターの顔を濁らせている。
 スクリーンの中で小学生くらいの年代の僕と、今はもう死んだお母さんの姿があった。ずっと昔の光景だ。お母さんが口を開く。

──あんた、またお母さんの顔に泥を塗ったね──

 吊り上がった目が幼い僕を見下ろす。幼い僕は何も言わず、その目をじっと見ていた。

──何なのその目は……。そんな化け物みたいな目で……。気持ち悪い──

 何も言わない。じっと。じっと見ている。

──見ないでって言ってるでしょ!?──

 お母さんが勢いよく手を振りかぶった。僕に向かって飛んでくる敵意を、幼い僕は瞬きもしないで見ている。
ともみが無言でパンと手を叩く。パチンと映像が切り替わる。

──お母さん達旅行に行くんだって。私はお兄ちゃんと一緒に残るけど──

 ともみがパンと手を叩く。映像が切り替わる。

──すまないけどウチはあの子を引き取れないね──

 ともみがパンと手を叩く。映像が切り替わる。

──博人。お前さえ我慢すれば丸く収まるんだ。他のクラスの子達に迷惑かかるだろ──

 ともみがパンと手を叩く。
 黒い煙がもくもくと上がる。腹に響く爆音。アクリル製の窓がキシキシと軋む。

「──もういいよ」

 隣からボソッとそんな声が聞こえた。慌ててともみの方を見るとすっくと椅子から立ち上がっていた。

「もういいよ、博人くん」
 ともみは両手でパン、と音を立てた。それと同時にスクリーンのキャラメル色の灯が途端に消えた。
 その光だけではない。回りの赤茶色の劇場椅子が、黒い手置きが、視界の端で頼りない光を放っていた誘導灯が、全て最初から無かったかのようにふっと消えた。
 明かりを全て失ったのに、友美の姿だけははっきりと見える。それだけだ。あとはどろりと僕を吸い込まんとするような黒と黒と黒。くるりと、ともみは僕の方に振り向いて言う。

「向こうの世界なんかさ──頑張ったって裏切られる事の方が多くて、求めたって落としていく物の方が多くて、初めましてよりもさようならの方がずっと──ずっと多いんだよ。もうさ、向こうに帰らずにこのままわたしと一緒にこの世界で過ごしちゃおうよ」
「……」

 僕は目を閉じて首を横に振る。僕なりの拒否のシグナルだ。

「……そう……」

 ともみは残念そうな顔をした。その表情に僕はズキリと心が痛んだ。アイスピックを胸に穿てられたような鋭い痛みだ。

「そうだよね……。博人くんはあっちの世界の人だもんね。うん。あっちにいる方がずっといいよ」
「……」

 僕は。
 僕は何を言えるだろうか。

「もうすぐ朝だよ。夜が明けるよ。またさよならだね」

 ともみの体が、その小柄でか弱そうな体が、少しずつ薄らんでいく。川の水のように半透明に、透き通っていく。
 彼女は僕に言う。

「博人くんは向こう側に大切にすべき人がいる。大切にしてくれる人がいる。それだけ、それだけ忘れないで」

 僕は何も言えない。ともみの姿は段々と、すうっと、見えなくなっていく。

「でも私のことも忘れないで。約束だよ」

 何も。

「さよならは言わないよ。またいつか、だね」

 ともみの姿はその声を最後にふわりと消えた。
 何もない空間を黒だけが揺蕩う暗闇の中、僕一人だけが残された。


二章 「Does yellow innocence dream of no face?」開始

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.29 )
日時: 2018/09/27 23:18
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA

 五月五日は端午の節句、即ちこどもの日として知られているが、二十四節気の一つ、立夏の日としての側面もある。この日から立秋の日までが暦の上での夏とされてあるが、誘並の地に吹く風はまだ爽やかな温度を保っている。

 ゴールデンウィークの最終日。連休中この学生寮飛想館の一室で亀のように閉じこもり、本棚の中で眠っていた未読の本を読んでいたのだが、そろそろ尽きた。両隣部屋の二人はというと、ポチは地元の馬片に帰省しており、レンは部活で多忙を極めている。手持ち無沙汰だ。
 机の棚にある道尾秀介の「向日葵の咲かない夏」を手に取って読んでみても、何十回と繰り返し読んだ本だ。冒頭の『油蝉の声を耳にして、すぐに蝉の姿を思い浮かべる事が出来る人はあまりいないだろう』というセリフぐらいは諳んじることができる。

 時計を見てみると、二つの針は丁度てっぺんを指していた。空腹を感じないでもない。近くのコンビニでパンでも買ってくるかな、と思った時、机の上に置いていた携帯がブーンと唸った。

「ん?」
 ディスプレイには見たことのない電話番号が表示されている。誰だろう。レンやポチならラインで連絡してくるだろう。訝しく思いながら携帯を手に取り、『応答』と書かれた受話器のマークを押す。

「もしもし?」
「ちゃーんヒロー!ハローハロー!灯ちゃんだよーっ!」
「……」

 電話の主は言わずもがなというか、灯だった。相変わらず鼓膜にキンキンと響く甲高い声。

「ん?ちゃんヒロ?もしもーし?生きてるー?」
「……」
「ちゃんヒロー!月島博人くーん?」
「……」
「つきしまひろとくーん!会計までお越しくださーい!」
「……」
「ぐーてんもーげーん!にいはお!」
「……」
「も、もしかして番号間違えちゃった!?し、失礼しました!」
「朝っぱらからうるさいよ、灯」

 これ以上だんまりを決め込むのも可哀想になってきたので、しょうがなく僕は返事をする。携帯の向こう側から「はっ!」と鳩が豆鉄砲を食ったような声が返ってきた。

「き、聞いてたの!酷いよ!あんまりだよ!アドルフヒトラーだよ!」
「……久しぶりに聞いたねそれ」
「というか全然朝っぱらじゃないよっ!もうお昼時だよ!」
「ついさっき起きたんだよ。僕にとっての朝は起床して二時間経つまでなんだ」
「その理論でいうとあたしにとって今は夕方だよ!」
「……?」

 それはあんまり理解できなかった。
 電話口から灯の声に混じってコトコトと換気扇が回るような軽い音が聴こえている。料理でもしている最中なんだろうか。

「っていうか何で僕の番号知ってるの?交換した覚えないんだけど」
「こないだ連示っちに教えてもらったの。ほら、ちゃんヒロって聞いても教えてくんなそうでしょ?」
「そんな事ないけど……」
「そんな事なくないよ。中学の時も聞いたのに適当なテレビショッピングの電話番号言ってきたじゃん」
「懐かしいね……、それ」

 一応弁明するとすれば、あの頃は自分の携帯なんか持ってなかったのだ。突発的な行動ばかり繰り返すこの娘が実家に電話をかけてきたりしたら、それはそれで面倒なことになるだろうし。

「で、何の用なの?いきなり電話なんかかけてきて」
「あ、そうだったそうだった」
こほん、と灯は咳払いを一つ。
「今さ、不動心の新商品を開発してたんだけどさ。ちゃんヒロに試食してもらいたいなって」
「試食?」

 不動心というのは灯の父親が経営している鉄板屋の事で、誘並最大の繁華街である平阪の路地を分けた所に暖簾を掲げている。ネオン街の中で一際目立つ古めかしい店で、灯曰く、「あたしは不動心の看板娘なんだよー」とのこと。僕がこの街に引っ越して来た初日、レンとポチの二人にこの店に連れて行ってもらったが、まあ味に文句のつけようはなかった。地元でひっそりとした人気を誇る隠れた名店なんだそうだ。

「……なんで僕なの?」
「んー、暇そうだったし」
「……」

 そうですか。
 確かにこのゴールデンウィーク中、常に暇を持ち余し日が落ちるのを横目で見ていたのだけど、今日ばかりは別だった。

「悪いけど今日予定が入ってるんだよね」
「予定?」

 灯は僕に尋ねた。電話の回線を挟んでも彼女のトボけた表情が想像できる。
「うん。誘並駅で音楽祭があるじゃん。それに姫菜が出るから見に行くつも──」
「──メだよ」
「え?」

 食い気味に遮られた。何を言ったかは上手く聞き取れなかったが、彼女に似合わない鋭い声色だった。

「ごめん灯、もう一回言ってくれる?」
「……」
「……灯?」
「行っちゃダメだよ、ちゃんヒロ」

 灯にしては珍しい、有無を言わさぬ言葉。いや、珍しいとかいうレベルじゃない。いつもの軽い調子の彼女からしたら想像できない様子だ。

「……何でかって聞かせてもらってもいい?」
「そ、それは──」

電話の向こう側で灯は口ごもる。数コンマの間、どんよりした沈黙が落ちていたが、すぐに灯は口を開く。

「ほら!姫っちょの出番って六時とかでしょ!?今から行っても絶対暇じゃん!」
「……二時からレン達の吹奏楽部の演奏があるからそれも見たかったんだけど……」
「吹部の演奏なんて文化祭とかでいくらでも聴けるでしょ!?」
「……」

 なんて、とまで言うか。この学校の吹奏楽は県内でもトップクラス、とかレンが言ってた気がするけど。

「ほら!つくしんぼも来るから!あの人味覚がバカだからちゃんヒロいないと正当な判断できないよ」
「筑紫も来るのかよ……」

 まあ確かに筑紫がいたらハンバーガー入りお好み焼きとかが店頭に並びかねない。

「お願いちゃんヒロ!来ないと飛想館に打ち上げ花火突撃させるよ!」
「……」

 懇願に見せつけた脅迫である。

「……そこまで言うならしょうがないな。今から行けばいいの?」
「うん!三十分ぐらいで着くよね!待ってるよ!」

 強引に言い通されて、そこで一方的にプツリと電話が切られた。ディスプレイに『通話時間2:30』という文字が映る。
 付和雷同というのか、意志薄弱というのか。他人の意見に無理やり押し切られる事が昔から多かった。何度も僕にとって不都合な事を押し付けられ、何度も甘んじて享受することの繰り返しだった。 正直に言うと平阪まで行くのが面倒くさい。
 ふう、と息をつく。
 目の前の文庫本を本棚の中に戻す。アイウエオ順で整理しているので松本清張と村上春樹の間。そこで机の上に置いていたあの怪文書がふと目に止まった。

『ホオカゴ オモカゲジングウ二コイ』

 これが僕の元に届いてちょうど十日経った事に今気付いた。





「あなたに決定権を与えましょう」

 少し回想しよう。これはあの怪文書をもらった日の放課後の事だ。

「今から私があなたにこの手紙を差し出しましょう。あなたが私との糸を拒むのならばどうぞ、これを受け取って下さい。あなたが望むのなら私もこれまでにしましょう。そして私たちの五本目の轍になってもよろしいなら、この手紙を受け取らないで下さい」
 眼鏡をかけたポニーテールの女の子、あやめが僕に手紙を差し出しながらそう言った。ここは本しかない殺風景な僕の部屋。
 彼女の白くて細い手に僅かだが水滴が浮かんでいるのが見えた。未だに外では雨が降っているのだろう。

「……」

 僕はあやめに向かってゆっくりと手を伸ばした。その瞬間、今まで一貫して無表情を保っていた彼女の唇が、ピクリと動いたような気がした。親指と人差し指で挟んで僕はその手紙を受け取った。少し湿り気を纏っているのを感じた。

「……そうですか」

 ポツリと彼女はそう言った。ほんの、ほんの僅かに落胆の色が感じられた。

「私たちの中には入らない、と。それがあなたの気持ちでよろしいのですね?」
「うん、そうだね」
「……残念です」

 あやめはくるりと踵を回した。僕に理由さえ尋ねないまま、彼女は出口に向かって早足で歩いて行った。彼女の華奢な後ろ姿がドアの向こう側に消えていったのを見送ってから、僕は深く息を吐いた。一体何を考えているのか、なぜこんな強硬手段を取ってまで僕を勧誘しようとするのか、まるで分からなかった。

「……一体何だったんだよ……」

 僕は彼女が来襲するまでそうしていたように、ベッド脇のソファーに腰を下ろした。今日は厄日なのだろうか。どっしりとした疲労感が肩にのしかかっている。
 彼女の勧誘を断った理由は二つ。
 一つ目は彼女があまりにも不気味過ぎたからだ。まるで心臓のないアンドロイドのような、あるいは体温のないマネキンのような。その点においては同じく剣道同好会に所属する筑紫だって同様だ。何を考えてるかまるで分からない。あまり関わり合いになりたくないタイプだった。
 それともう一つ。
 安穏が欲しかった。何も波風の立たない、広い湖のような安穏が。

『人探しをしています』

 これは誘並に来た初日、天照高校の近くであやめと会った時に言われた言葉だ。

『あなたはともみ、という女の子をご存知ですか』

 酷く昔の事に思えるが、つい二日前の事だ。
 果たして『ともみ』は本当にこの世界にいるのだろうか。

「──ん……?」

 何かが頭の端っこに引っかかった。何かを忘れているような気がする。それもあやめに関する何かを。
 何だったんだろう。あの時あやめが読んでいた本?……いや、違う。ともみの名前を彼女から聞いた後。その後だ。

「あっ……」
 思い出した。彼女が落としていったもの。紫色の花が描かれラミネート加工された栞。恐らくあの日来ていた上着のポケットの中にまだ入っている。
 僕はソファーから立ち上がり、クローゼットの引き手に手をかける。ネイビーブルーの上着の胸ポケットを探るとやはり栞は中に入っていた。今からあやめを追いかければ間に合うだろう。これは値が張りそうなものだ。
 外に出るため短い廊下に出た時に、あちら側からドアが引かれた。見るとポチがドアの隙間から顔を出している。あやめが帰る音を聞いて自分の部屋からこっちに来たのだろう。

「ヒロくーん……大丈夫ッスかー?」

 心配そうに眉を落としてポチは僕に尋ねる。その顔は昔実家近くに住んでいた野良犬を彷彿とさせたが、今は彼に構っている場合じゃない。

「ポチごめん!どいて!」

 いそいそと部屋に入って来たポチを撥ね飛ばして出口に駆け寄る。「にゃう!?」とポチの驚く声が後ろから聞こえたが、意に介さずにスニーカーに履き替えてから部屋を出た。
 フローリング張りの廊下にずらっと扉が並んでいる。雨が降っているからか床が湿気を纏い少し滑りやすい。ランドリーで乾燥機がガタゴト音を立てている。人ひとりいない自習室の横を通り抜け、階段を下り一階へ。
 ちょうど部活を終えた生徒たちが帰ってくるぐらいの時間帯だ。昇降口の近くで肩を濡らした生徒の姿が目に留まった。傘立てに置いてあった誰のものかも分からないビニール傘を引ったくって、飛想館から飛び出した。
 雨は僕が下校した時よりも更に強まっていた。辺り一面白っぽく煙っている。傘を差してトボトボと歩く天照高校の生徒が何人か見受けられたが、その中にあやめらしき姿は見当たらない。
 もう行ってしまったのだろうか。というか今から追いかけても間に合わないんじゃないか?シャワーを浴びて少ししか経っていないのに、と憂鬱に思いながらビニール傘を開いた。長く使われていなかったのか、開く時にぺりぺりという音がした。

「……めんどくさいなぁ」

 ため息をつく。また濡れ鼠にならなくちゃいけないのか。
 水たまりの中を突っ切っていく。びちゃびちゃ水が跳ねてスニーカーが濡れるのを感じる。すれ違った天照の生徒が、急ぐ僕の姿を見て振り返った。
 やがて交差点にたどり着いた。信号機の赤色が濡れたアスファルトにどろりと反射して鈍く光っている。見回して見てもやはりあやめの姿は見つけられなかった。

「つっきー?」

 横から聞き馴染みのある声がした。振り向くとレンが傘を差してこっちに歩いて来ている。黒いショートカットの女子生徒が横に並んでいる。

「うわっ!お前どうしたんだよそんな馬鹿みたいに濡れて」
「……まあちょっといろいろあってね」

 目を剥くレンに、僕は適当に誤魔化した。彼の隣にいる女子が「連示、こいつは?」と聞いた。

「ん?ああ乃祈、こいつ月島だよ、月島」
「あー……月島くんか」

 ショートカットの女の子は妙に納得したような顔をしたが、僕はこの人に見覚えはない。何者なんだろうか。どうせレンの彼女とかガールフレンドとかだろう。

「それよりレン、聞きたいんだけど」
「ん?」
「あやめ見なかったか?」
「あやめ?あやめってあのあやめか?あの眼鏡オンナか?」
「そうだよ」
「あー……、確かさっきバス乗り場に──」

 後ろを振り返ったレンの言葉を遮るように大きなバスが横を結構なスピードで通り過ぎた。派手に水たまりの中に突っ込み、茶色に濁った水が僕とレンに向かって勢いよく降りかかる。

「うわっ!」
「ぬおっ!」

 洗濯したばかりのジャージの肩口に茶色のシミが一瞬で出来上がった。車道側にレンがいたおかげで女の子は一滴も濡れていないみたいだ。

「──あ、つっきー!あのバスだ!」
「……は?」

 レンが指を指した先を見る。さっき僕たちに水を跳ねていったバス。その一番後ろの窓際。眼鏡をかけた、ポニーテール。

「うっわ……」

 今日はやはり厄日だったようだ。濡れたジャージはとても冷たく、僕の体温を奪っていった。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.30 )
日時: 2018/10/29 14:37
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA

 誰かが停車ボタンを押したみたいだ。やけに耳に障るチャイムが静かなバスの中に響いて、窓側のランプが淡い赤色に灯った。「──次はぁ、ソウシ公園前……ソウシ公園前に停車致します……」と張りのない運転手のアナウンスが流れると同時に、バスはじんわりとスピードを落とした。
 何円払えば良かっただろうか。正面の運賃表を目を細めて見ると、ちょうど五百円だった。そういえばこの前ポチやレンと共にここに来た時もワンコインだったことを思い出した。
 車窓には無数に連なるビル群と、携帯を手にし伏し目でトボトボ歩く人の群れが映る。都会の景色はどこに行こうがさほど変わらない。一見色鮮やかに見えても代わり映えしないその風景を、僕は揺れるバスの中からぼんやりと見ていた。
 やがてバスはゆったりと停留所に到着して、空気が抜けるような音と共にドアが開いた。席を立つと僕の他にもここで降りる人は何人か見受けられた。
バスを降りる。相変わらずうんざりするほど人通りが多い。川を流れる魚みたいに早足で人々が歩いていく。ドミノのように所狭しと並んだビル群と、暖簾がまだ下がってない居酒屋が目立つ。だけど、数日前にここに訪れた時と比べると、どこか雰囲気が違う。あの時は日が落ち切った後だったので、ネオンが怪しい光を放つ夜の街、といった感じだったが、今はどうだろう。すれ違う人も、顔を酒気で蒸気させたサラリーマンの姿は当然無く、家族連れや若い学生の姿が目立つ。
 少し歩いたほどのところに広めの公園が見えた。ここから見ても葉がついた桜の木や逞しい椚の木が植えられているのが伺える。この無彩色な灰色のビル街の中にポツンと現れた緑は、何故だかどこか作り物の様に思えた。勿論植えられているのは造木なんかではなく、紛いもない本物の木なんだろうけど、何でだろうか。砂漠で氷山を見るようなものだからだろうか。

 と、そこでポケットに入れた携帯がバイブしていることに気付いた。取り出して見てみると、登録したばかりの『菱鬼 灯』という文字が表示されている。僕は通話ボタンを押して、携帯を耳に当てがう。

「もしもーし!ちゃんヒロー!やっほー!」
「……」

 いつも元気だなぁ、こいつ。

「おーいちゃんヒロー!聴こえてるー!?」
「うん、聴こえてるよ。どうしたの?」
「まだバスの中だったりする?何時頃に着きそうかな?」
「いや、もう降りたよ。今──なんだったっけ……、何とか公園前って停留所で降りたんだけど」
「何とか公園……?ああソウシ公園か!あそこにあるカキ氷のお店凄い美味しいんだよね!練乳かけ放題なんだけどさ!」
「練乳……?」
「そうそう、その公園の端っこらへんにね!三百円でラーメンが食べられる屋台がたまに来るんだけどさ、ちゃんヒロお金あんま持って無かったでしょ?今度行ってみるといいよ!」
「ちょっと待ってよ。何で僕が金の手持ちがないって知ってるの?そんなこと話した覚えないんだけど」
「……」
「もしもーし?灯ー?」
「……」

 灯が黙ることなんて珍しい。珍しいということは何かを隠そうとしているということしか考えられない。

「……もしかして僕が倒れた時とかに財布見た?」
「つ、つくしんぼが悪いの!タクシーで帰ろうとか言ってちゃんヒロのカバンの中漁ってたんだよ!あたしは悪くないの!」
「……止めない方も悪くない?」

 ともかく。

「そういえば僕、不動心までの道忘れたんだけど、どう行けばいい?」

 別に僕の記憶力が悪いわけでない。灯のいる鉄板屋不動心は、この平阪地区の迷路みたいに複雑に入り組んだ路地をかき分けた所にある。一回行っただけでこの道を覚えられる人なんて何人いるだろうか。

「うーん……、今どこにいるっけ?あの公園の近く?」
「そうだね、今その目の前にいるよ」
「じゃあソウシ公園で待ってて!あたしが迎えに行くからさ!」
「うん、了解。……でも僕あそこの公園行ったことないよ?どこで待ってればいいの?あそこ結構広いっぽいけど」
「んー。じゃあさ、公園の中に石造りのスズメのモニュメントがあるんだけど、そこで待ち合わせしよ。あたしの背と同じぐらいだから結構目立つと思うよ」
「分かった。そこにいればいいんだね」
「うん!よろしくー!」

 そこで勢いよく電話が切られた。ツーツーと電子音が携帯から流れた。側面の電源ボタンを押してから携帯をポケットの中に入れる。
そうと決まれば、と僕は公園に向かう。さほど遠くはない。せいぜい五十メートルぐらいだろう。
歩車分離式の信号が青色になって、和やかな音楽が流れる。確かこれは『故郷の空』だ。間抜けとも言えるその曲調は、忙しないこの都会の景色とはあまりにもミスマッチで違和感が胸を占めた。しかしどうしてこう明らかに合ってないこの曲を選曲したのだろうか。スローテンポの曲だと信号無視が減って事故が減ったりするのだろうか。
 そんな取るに足りないような事を考えながら歩いていると、ソウシ公園にたどり着いた。少し濁った川を挟んだ先に、目に優しい緑色の芝生の広場が広がっている。園内を囲むように木々が植えられており、やはりこの街の中で独特な雰囲気を放っていた。まるでここだけ隔絶されているみたいだ。まるでカットアンドペーストで無理やり公園だけねじ込んだような、不自然な
 ソウシ公園はどう書くのだろうかと疑問に思っていたが、頭上の標識には『この先 相思公園』とある。
 木製の古ぼけた橋を渡って園内に足を進める。植え込みが両端を沿う御影石の通路。アーケード状に空を覆う木が日差しを隠しているためさっきよりも少し涼しい。
園内は余暇を過ごす人で賑わっていた。リードを繋いで犬を散歩させている女性に、ベンチに腰掛けて談笑しているカップル。ボロボロの自転車に乗ったおじいさんがゆっくりと僕の脇を通り過ぎていった。
 溌剌と輝く新緑は都会の薄汚れた空気を浄化する。乾いた風が運ぶ自然の匂いに僕は少し郷愁に駆られた。
 さて、灯が言っていたモニュメントはどこだろうか。僕は周りを見回す。真円状の芝生広場。そのちょうど中央の噴水の側に件のモニュメントは見つかった。

「……あれかな……?」

 大理石だろうか、白っぽい石灰性の台座に小さな鳥が二匹。灯の言っていた通り、確かに目立つものだ。しかし、すぐ近くにかなり大きな噴水があるためこっちの方が待ち合わせ場所には適しているだろう。近づいて見ると、灯はスズメと言っていたが、よく見たら違う。尾が長くて細いためこれはセキレイだ。

「ここで待っとけばいいか……」

 周りを見回して見るが灯の姿は見当たらない。もう少しで来るだろうしここから動かない方が良さそうだ。携帯の電源を付けてレンから来ていたメッセージに返事をしてから、モニュメントの台座に何やら文字が書いてあることに気付いた。この石造の説明をしているようだ。
 この誘並は、日本神話のイザナギとイザナミが最初に作った地だとされているようだ。この地で両神は婚約の契りを結び、幾多もの神を産んだのだが、その際イザナミとイザナギに性交の仕方を教えたのが、このセキレイという鳥だったそうだ。この伝承から日本各地でセキレイは神の使いだと言われている。相思公園というネーミングもセキレイの中国名である相思鳥から来ているそうだ。
 字が風化していてかなり読みづらかったが、内容を掻い摘むとこんな感じだろうか。他愛もないおとぎ話のようなものだ。確かセキレイは夫婦円満の象徴という話を聞いたことがある。

 と、そこで。
 石碑のちょうど横。視界の端で何かがふらっと揺れるのが見えた。
 思わずハッと顔を上げる。視界の端で揺れたそれが、どこか見覚えのあるものだったからだ。急いでモニュメントの向こう側を見る。

 黒い髪を後ろで三つ編みにした後ろ姿がスタスタと広場の出口に向かっている。その姿は僕がこの誘並に初めて来た日にお守りを渡した女の子によく似ていた。
 あの紙に書いてあったこと。『ともみ』という夢の中の少女。その全てをあの三つ編みの女の子が握っているんじゃないかと不確かな自信があった。

「ちょっと待っ……!」
「──ちゃんヒロー!」

 ちょうど走り出そうとした時、聞き馴染みのある声が後ろから聴こえて、バシっと背中を強く叩かれた。振り返ると、後ろにいたのはやはり灯だった。

「やーお待たせお待たせ!もうつくしんぼ店で待ってるよ!」
「……」

 横目であの三つ編みの後ろ姿を見てみると、少しずつ遠ざかっていく。

「ん?どうしたの、ちゃんヒロ?早く行こうよ!」
「……おっけ、行こうか」

 灯にあの女の子を話してもおそらく無駄だろう。僕は諦めて灯の横に並ぶ。

「ここ来たの初めてだっけ?いいところでしょ?」
「うん、そうだね」

 灯はご機嫌なようで僕の隣を跳ねるように歩く。後ろにいる三つ編みの女の子が口惜しくなったが、まあいいだろう。またいつか会った時にでも聞けばいい。

Re: 面影は儚く かがちの夢路へ ( No.31 )
日時: 2019/01/04 20:52
名前: 写楽 ◆8nH/qRkwbA

「ねえ、ちゃんヒロ?」

隣の灯が甘い声色で僕に尋ねた。一歩彼女が足を踏み出す度に、ふわりふわりとそのショートカットが揺れて、制汗剤だろうか、柑橘系の匂いが僕の鼻をくすぐる。

「ちゃんヒロの地元のさ、登潟ってどんな所だったの?」
「どんなとこって聞かれてもね……。ただの田舎だよ。田んぼと海しかない辺鄙な町」
「うーん……、田舎ってことは知ってるよ。一個隣の県だもん。だけどさ、田舎の感じってあんまし想像つかないんだよねー」
「想像つかないって……、携帯で調べたら写真なんていくらでも出てくるだろ?」
「いや、そうなんだけどさ。なんていうかな……?」

灯は眉間に皺をすっと寄せて口を一文字に結んだ。

「あたしってほら、十五年間ずっと誘並のこの街で生きてきたんだよね。だからさ、田んぼがどんなのとかは知ってるんだけど、実際に田んぼの前に立った時にどんな匂いがして、どんな風が吹いてて、あたしが何を感じるとかまるで分かんないんだよね」
「田んぼなんて農作業なんかしない僕たちからしたらただの風景だよ。ただそこにある、ただそれだけだよ。ビジネスなんかしない僕たちがビルを見ても何も考えないだろ?」
「んー?うーん……、そうなのかなぁ……?そうじゃない気もするんだけど……」

灯はしばらく神妙そうな表情で悩んでいたが、考えるのが面倒くさくなったのか、「ま、いっか!」と言って、今度は科学の教師が実はカツラなんじゃないか、という話をし始めた。

僕と灯は大通りを抜けて、今は狭い路地裏を二人肩を寄せて歩いていた。真昼なのに薄暗くて、どことなく湿ったような空気が漂っている。室外機が唸り声を上げながら生暖かい息を吐いていた。僕たちの両脇に所狭しとばかりに並ぶ居酒屋は、まだ昼過ぎだからか、全てCLOSEの札を提げていた。日が翳ればあの提灯も赤く灯り、ここはアルコールの臭気漂う盛り場と姿を変えるのだろう。
さっきまでいた大通りは吸い殻一つ落ちていない綺麗な道だったが、この道はとても清潔とは呼べる所ではなかった。発泡酒の空き缶、割れたビール瓶の破片、黒ずんだバナナの皮、果てには白濁していろんなものが浮いた吐瀉物が足元に落ちているため、普通に歩くだけでも油断できなかった。
「ゲロなんか気にしてたらこの街で生きていけないよ?」
なんて灯はケラケラ笑いながら、その悪臭を放つ吐瀉物をピョンと飛び越えていた。鉄板屋でバイトしていたらそういうものにも慣れるのだろうか。彼女の違う一面を見れたような気がした。

程なくして鉄板屋不動心の前にたどり着いた。今まで太陽の日差しを遮っていた建物の壁がなくなってさっと辺りは明るくなった。目を細める。まるで長いトンネルを抜けてきたかのように思えた。
前と来た時と同じ、昭和から何も変わっていないようなレトロチックな様相。塗装の剥げた木の外装が趣を感じられた。植木鉢に植えられた朝顔が蔓を伸ばして、近くのすだれにぐるぐると巻きついている。置き看板の後ろに、安全に乗れるかどうかさえ危うい錆だらけの自転車が一台。
この前来た時はすっかり太陽が隠れた時間帯だったが、今は真昼だ。この古ぼけた店もまた違う表情をしているように見えた。

「よし、着いた着いた!」

と灯は朗らかな顔で言って、不動心の入り口の方にドタドタと忙しなく駆けて行った。この娘のペースには僕のバイタリティでは着いていけない。僕は彼女の後をのそのそ追いかける。

「やっほー!帰って来たよ!」

灯は横開きのドアを手で開きながら言った。建てつけが悪くなって来ているのか、ギシギシと軋む音がする。僕もその後に続いて店内に入る。
店内の電灯はついていなかったが、全ての窓が開かれているため、辺りは明るかった。僅かに香るタバコとアルコールの残り香。右奥にカウンター席があって、左手にテーブル席が四つ。そのテーブル席の一番奥に、見慣れた顔が座っていた。

「やあ、遅かったね」

薄く微笑を浮かべながら、筑紫は読んでいた本をパタンと閉じて、僕に向かって片手を上げた。僕は控えめに頷くことでそれに応える。

──あの写真の事、どこにも多言しないことを約束してくれるかい?

筑紫と会うのはあの雨の日振りだろうか。姫菜以外の顔をぐちゃぐちゃに塗りつぶされた写真。どす黒い憎悪と、赤く変色した敵意。『さよならに返事はいらない』。僕はその約束を律儀に守り続けている。誰にも言えない。言えるはずもない。

「聞いてよつくしんぼ!ちゃんヒロってばね!ソウシ公園で待っててって言ったのに八坂の方に行こうとしてたんだよ!どう思う?」
「あはは……」

ドスドスと足音を立てて奥に進みながら頬を膨らませる灯に、筑紫は苦笑いを浮かべて見せた。
この街に来たばかりの僕ならばその笑みを花のように瀟洒な笑みだとか形容しただろう。だが今ならそんなことは言えないだろう。あんなものを見せられたのなら。

「──博人くん」
「ん?」

筑紫に名前を呼ばれて思わずハッと我に返った。見ると筑紫が僕に向かって手招きをしていた。

「そんなとこで立ち呆けてないでこっちおいでよ。ほら」
「……あ、うん。ごめん、今いくよ」

三和土で靴を脱いでから、僕も店内に上がる。老朽化が進んでいるのか、床を踏むごとにきし、きしと音が鳴る。テーブルまでたどり着いて、筑紫の向かいに腰を下ろした。

「随分久しぶりな気がするね、博人くん。同じ学校に通ってるのに全然顔見ないね」

筑紫は言いながら白い布巾の上に逆さに置いてあった空のコップを手にとって、ポットでそれに水を注いだ。ポットの中にこれでもかとばかりに入れられた氷が擦り合って、カラカラと高い音を立てた。

「はいこれ博人くんの分」
「ん?……あ、ありがとう」

僕は筑紫からコップを受け取った。よく冷えていて、その冷たさは汗ばんだ手のひらに心地良かった。

「さっきまで姫菜がテレビに映ってたよ。もうちょっと早く来てたら見られたんだけど」

筑紫がテーブルに頬杖を突いたまま、カウンターの上に置かれたテレビを指差した。

「姫菜が?」
「うん。誘並駅の音楽祭に出るからこっち来てるんだよ。今面影神宮のロケしてたんだけど、もう中継は終わったみたいだ」
「ふうん……」

画面を見れば、今は若い男性のアナウンサーがスタジオでニュースを読んでいる最中だった。

「じゃああたし今から料理作るから、二人はその間ちょっと待ってて!」

灯がカウンターの向こう側から言った。冷蔵庫の中を忙しなく探っている。既に調理が始まっているようだ。うん、と筑紫は頷く。

「……あ、灯、ちょっとどうでもいいこと聞くんだけどいい?」

一つ気になった事があって僕は灯に尋ねた。

「ん?なに?」
「テレビって前からあんなとこにあったっけ?」
「ぬー?あー、あれね」

灯はエプロンを後ろ手で結びながら答えた。

「前はほら、あそこの──レジの上に板付けてそこに置いてたでしょ?でもあれ最近老朽化してるみたいで、いつ落ちてくるか分かんないからあたしが取っちゃったんだ」
「かといってカウンターの横に置くのはやめた方がいいと思うよ。鉄板の熱で壊れるだろ」
「んー?あー……、そうだよね。考えとくよ」

灯が鉄板の上に油を引いたみたいだ。油が熱せられて弾けるけたたましい音が店内に響く。
筑紫は口を開かずに、面白くもないニュース番組をじっと見ていた。一つのテーブルを隔てた僕と筑紫の間に、少し気まずい空気が流れる。正直彼とはいい関係を築けているとはいいがたい。レンやポチの2人みたいに決して気さくで人懐っこい性格でもないし。
テレビの奥では誘並動物園でパンダの展示が始まったというニュースが流れていた。

「そうだ、博人くん」

筑紫はポツリと口を開いた。さっきまでと比べてほんの僅かに低くした声色。

「ん?」
「あの約束、ちゃんとちゃんと守ってくれてるかい?」
「……」

冷たい何かが僕の背筋をすっと撫でたように感じた。僕は思わず彼と目を合わせる。どこまでも深く、清らかな黒色で、まるで夜の底みたいな瞳だった。

「誰にも言うわけでないだろ。これは保証できるよ」
「うん、それじゃ良かった」

筑紫は口角を上げた。でもそれはとても友好的な笑みとは思えなかった。ただ表情筋が動いて笑っているように見せただけだ。

「姫菜は頑張ってるみたいだよ。さっきも元気に面影神宮のレポートしてたし、今は他のメンバーが神宮の拝殿にお参りしてる中、一人だけ別行動で違う仕事してるみたいだし」
「……そうなんだ」

他のメンバー、か。

「そう言えば博人くん、昨日僕カオナシさまだっけ?の夢を見たんだ」
「……へえ」
「クラスの子が『願いを叶える夢』とかって話してるのは知ってたんだけど……まさか僕が見るとはね」
「何をお願いしたの?」
「いや、そんな大層なお願いはしてないさ。ただ、姫菜が元気に、幸せに暮らして欲しいって。それだけだよ」
「ふうん……」
「そうだ博人くん。この『カオナシさま』の都市伝説が一体何者なのか、僕なりに考えたんだけど、ちょっと聞いてもらっていいかい?」
「……ん?うん、いいけど」
「オーケー、ちょっとこれを見てほしい」

そう言って筑紫は、テーブルの上に置いてあった携帯を持つ。皮でできたシックな手帳型のカバーだ。彼の細長い親指が流れるようなスピードで携帯を打鍵する。
しばらく経ってから、「君は『this man』という都市伝説を知ってるかい?」と言いながらその携帯を僕に渡した。
その画面に写っていたのは、白と黒で描かれた男性の不気味な顔だった。太い毛虫のような眉と、広い額、丸い団子鼻。何を考えているかいまいち汲み取れない目と、薄く微笑を浮かべた口。見ているだけでどこか不安を駆り立てるような、そんな顔だった。

「何なのこれ?凄い気持ち悪いけど」

僕は彼に携帯を渡した。筑紫はそれを受け取ってテーブルの上に置いてから語り始めた。

「こんな話があるんだ。ニューヨークだったか、ロサンゼルスだったか忘れたけど、腕利きの精神科医がいてね。彼の元にある日、『夢の中に見知らぬ男が現れる』と言う女性患者が訪れて、似顔絵を描いてみせたんだ。──それがこの画像なんだけど。しばらく経って別の男性患者も、この男が夢の中に現れると言ったんだ」
「……ふうん」
「やがて全国各地から、この男が夢の中に現れるという情報がどんどんでてきてね。その夢の内容も、『この男と自分が手を繋いで街中を歩いていた』『コンビニの店員がこの男だった』とか『この男が自分に馬乗りになって首を締めていた』『家族全員がこの男の顔になっていた』みたいな話まであって、千差万別なのさ。現に今からインターネットで『this man』で検索してみれば、目撃情報がそれこそごまんと出てくるよ。ここで博人くんに聞きたいんだけど、この話、『カオナシさま』の都市伝説に少し似てないかい?」
「……まあそうだね。少しの違いこそあれ、夢に同じ人物が出てくるっていう点に置いては似てるんじゃないかな」

厨房は目下調理中みたいだ。油が弾ける音と、ソースが焦げる香ばしい匂いがする。

「うん、僕もそう思うよ── とにかく、この男の正体について長らく研究されていたんだ。アメリカ軍の新兵器の副作用だとか、この男は実在の人物で、人の夢の中に入り込む特殊能力を持っている、という馬鹿げた仮説があったりするんだけど……、とにかく、最近この『this man』の真相が分かったんだ。これは『カオナシさま』の都市伝説にも言える事かもしれないんだけど」
「……」
そこで筑紫は自分のコップを手にとって、優雅とも言える仕草でそれをすっと口の中に含んだ。喉仏がゆっくりと動いてからコップをテーブルの上に置く。
「この話は最初から作り話だったんだ」
「作り話?」
「そう、作り話。精神科を訪れた女性患者もいなければ、相談を受けた精神科医もどこにも存在しない。確か……イタリアの広告会社だっけ、ネット上のクチコミがどのくらいのスピードで広まるかの実験として噂をばら撒いたんだ」
「でも……さっき言ってたじゃないか、現在でも世界各地でこの男の目撃情報が出てるって」
「このモンタージュ写真を見て気持ち悪いって思ったよね?」
「ん?うん」
「気持ち悪い、って思う。何なんだこの男は、って思う。自分はこの男に会いたくない、って思う。人間は誰しも睡眠時に夢を見て、その夢は起床時に見たり聞いたりしたことがモロに反映されるからね。あえてイタリアの広告会社は、この写真を一度でも見たらしばらくは頭から離れないような容姿にしたんだよ。『this man』の作り話を聞いた人々が、実際に夢の中で『this man』を見るようにね」
「……」
「じゃあ『カオナシさま』の話に戻そうか」

筑紫はテーブルの上に頬杖を突いた。

「確か、セーラー服を着たのっぺら坊が夢の中に現れて、その顔を見ると願いが叶う、って話だったかな?この話って誘並の──それも限られた範囲の中高生にしか流行してないみたいなんだよね。学生は大人に比べて、明確な願望とか目標とかを持ちやすいんだ。例えば将来の事、進路の事、恋人の事、部活の事、家族の事、友達の事……。そりゃあ顔を見ただけで願いを叶える神様の話なんてすぐに広まるよ」
「フロイトの精神分析論……だっけ?」
「フロイト?うーん……ごめん。よく分からないな」

フロイトの精神分析論とは、人間の精神を下からエス、自我、超自我の三層に分け、エス、すなわち快楽だけを求める心を夢という幻覚によって充足させる、といったものだ。あまり詳しくは覚えてないんだけど。

「でもそれは──」
「おまたせーっ!」

僕が筑紫に反論しようとした所で、灯が僕たちの間に皿を置く音で遮られた。その衝撃で手元のコップに注がれた水がふっと波紋を作ったのが見えた。

「あ、灯ちゃん、もうできたのかい?早かったね」
「うん!やー、これは灯ちゃん渾身の出来だね!絶対美味しいもんこれ!」
「……灯、いきなり来ないでよ……。びっくりしたじゃんか」

無邪気にケラケラ笑う灯に悪態をついてから、彼女が持ってきた皿に目を移す。湯気がゆらゆらと伸びて、ソースが焦げた独特の匂いが鼻腔を刺激した。

「……ねえ灯、これは何?」
「んー?お好み焼きだけど?」
「違う、それは分かる。生地に乗ってるこれは何?」

ソースの焦げ茶色と、マヨネーズの白色、青のりの緑色、それとクリーム色の生地。そこまでは普通のお好み焼きだった。問題はその上にどかんと乗せられて、異様な存在感を放っているでろんでろんの麺と焼き豚。

「ほら。誘並って豚骨ラーメンが有名でしょ?だから誘並名物のラーメンと鉄板焼きの奇跡のコラボレーション!惹かれ合う二人の大胆かつ優美なハーモニー!みたいな」
「美味しいの……?これ」
「まあほら」

涼しい顔で手元の割り箸を指でパキっと綺麗に真っ二つにする筑紫。

「広島風お好み焼きとかあるじゃないか。そこまで突飛な料理って程でもないんじゃないかな」
いただきます、と言いながら、筑紫は箸でお好み焼きを一口サイズに器用に分ける。テーブルにソースが落ちないように左手で皿を作りながら、口元へと運び、パクリと口の中に入れた。

「灯、これどういう風に作ったの?」

僕も筑紫と同じように割り箸を二つに分けてから、灯に尋ねた。よく嗅いでみれば普通のお好み焼きなら絶対にしないような匂いがする。

「まずお湯とカップラーメンを用意して、普通にラーメンを作ります」
「うん」
「三分待ってからスープと麺を分けて、水の代わりにスープを入れて生地を作って、鉄板で焼いて、最後に麺を置いて、ソースとかいろいろかけて完成!」
「絶対まずいだろこれ……」

作り方を聞いてから一層食べる気が無くなった。筑紫を見ればまだ口の中でもぐもぐと咀嚼していた。
「……」
もぐもぐとまだ噛む。
「……」
まだ噛む。
「……」
少しして筑紫はやっとゴクリと喉の奥に飲み込んだ。ふうと大きく息を吐いた。

「どう?つくしんぼ!美味しいでしょ?」
「……」
「筑紫?」

普段の彼なら絶対にしないようなこわばった表情。心なしか少し顔色も悪くなった気もする。
しばらく言葉を選んでいるようだったが、はあとため息をしてから一言。
「犬の餌みたいな味だね……」
「えぇーっ!」

テーブルにバン、と手をついて、筑紫に迫る灯。ほんの少しだけ顔をしかめてから、筑紫は自分のコップを掴んで、クイっと水をあおった。

「灯、試食ってこの一品だけ?」
「う、うん……、そうだけど……」
「じゃあ僕もう誘並駅に行ってもいいかな?レンの演奏見に行きたいんだけど」

僕は椅子から立ち上がった。壁の時計は一時を指していた。今から誘並駅に行けば、もしかしたらレンの演奏にも間に合うかも知れない。

「待って!」

灯がガシッと僕の肘辺りを掴んだ。とても強い力で思わず僕は立ち止まる。
「ん?」
「もうちょっとだけ……、もうちょっとだけだから!」
「ん?」
いつにもない強い目つきで灯は僕に迫った。
どういうこと?と僕は訊ねようとした。訊ねようとしたけどそれは出来なかった。
ぴろんと。やけに神経に触るような、否応無しに不安を駆り立てるような電子音がテレビから流れた。
はっとして僕はテレビに顔を向けた。筑紫も僕と同様だった。テレビ画面には赤い線で日本地図が大きく描かれていて──
「緊急地震速報です」
音声が鳴った。
「強い揺れに警戒してください」

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