複雑・ファジー小説

龍の弩
日時: 2018/08/10 14:28
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs
参照: https://kakuyomu.jp/works/1177354054885033210/episodes/1177354054885033259

史上者のもとなる隠れたるところに住まふそのものはあるじの陰に宿らむ
(大変高貴な者のもとにある隠れ場、主の陰にかの人は住む。)

われひのたつのことを宣ひて ひのたつはわが避所 わが城 わがよりたのむ神なりと言はむ
(その人は火の龍に言うであろう、「火の龍はわが避けどころ、わが城、わが信頼しまつる神である」と。)

あるじはなんぢを惡辣のわなと疫よりたすけいだしたまふべければなり
(主はあなたを悪辣なるわなと恐るべき病から助け出されるからである。)


あるじその翔をもてなんぢを蔽ひたまはむ
(主はそのつばさを以ってあなたを覆い隠すだろう。)

あるじその爪牙をもてかれとなんぢを劃したまはむ
(主はその爪と牙をもってあなたと悪しき者を引き離されるだろう。)

なんぢその翅のもとに隠れ
(あなたはそのつばさの下に避けどころを得て、)

なんぢその爪牙のうしろに佇む
(またその爪と牙のうしろに居場所を得る。)


その眞は盾なり干なり
(そのまことは大楯であり、また小楯である。)

夜は恐るべきことあり
(夜には恐ろしいものがある。)

昼はとびきたる矢あり
(昼にはあなたを襲う矢がある。)

幽瞑にはひた歩む疫癘あり
(暗闇には忍び歩くおそろしい病があり、)

日午にはそこなふ烈しき疾病あり
(また真昼には猛り荒らす滅びが襲う。)

されどなんぢ懼るるなかれ
(けれど、あなたは何をもおそれることはない。)

千人はなんぢの右に斃れ
(たとえ千の人があなたの右に倒れ、)

万人はなんぢの左に斃る
(万の人があなたの左に死したとしても、)

されどかれとその厄災はなんぢに近づくことなからむ
(悪しきものとその滅びがあなたに近づくことはないだろう。)


なんぢのまなこはただこの事を観るのみ
(あなたはただ、その意識を以ってこのことを眺め、)

なんぢかれら惡者のむくいを見む
(悪しきものたちのむくいを見るのみである。)

 旧訳聖龍句 一の章四の段より抜粋
 新訳龍聖句 同章同段より当該抜粋

――――――――――――――――――――



【目次】
一章 :崩御、或いは再誕

Page:1



龍の弩 一:呪縛の野 ( No.1 )
日時: 2018/08/19 04:37
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

 呪われた地、というものがある。
 例えば有限の内に無限を内包する迷いの森。例えば火山の最中に有りて氷雪の蔽(おお)う氷地。例えば翼持つもの全てを拒絶する鳥墜としの渓。例えば鉄帯びる者全てを腐(くさ)す刃錆びの洞穴。また例えば、肥沃なる恵みの山中に有りて、あらゆる芽生えを否定する枯れ野。
 原因は多くの場合分かっていない。分かっていないとされてきた。
 しかし、もしも千羽矢(チハヤ)が分け入ったこの土地も、呪われているとすれば。
 彼は今、土地を呪う原因を見ていることになるのであろう。

「ひ、ィ……」

 枯草と倒木ばかり広がる地の只中。見慣れた狩場に現れた見慣れぬ広野の真ん中に、むくろが一つ転がっていた。
 全身を覆うのはざらざらとした砂色の鱗と、いやに青々と生す苔。琥珀めいて艶やかに透き通る二本の巨角。絡みつく無数の蔓草。しなやかに長い首、小山の如く巨大な体躯、丸太を束ねたような尾、それらを通す背の骨からは暁の色にも似た透石の棘が伸びる。翼は一対二枚。コウモリのものに似る翼はあまりに巨大で、その堅牢さが周囲の枯れ木をなぎ倒している。
 貌はトカゲや狼に似ていた。体躯は過日父親の仕留めた熊より何倍も大きく、三つ指の四肢はそれだけで鹿の胴ほどもあり、白銀に煌めく爪は鉄小人が研ぎあげた名刀の如く鋭かった。何より、見開かれた双眸。縦割れた瞳孔を持つそれの爛々たるや、最高級の翠玉を丹念に研ぎあげたようで、覗き込むほどに身体が震える。
 震えた拍子に得物の弓が手からすり抜け、枯草に落ちて乾いた音を立てた。

「ぁ……あ、」

 地神龍(フラクシナス)。チハヤら山の民が深く信仰する豊穣神。その崩御だった。
 何時御隠れになられた。村には直々に加護を受けた神官が常駐し、毎日二回声を聞いている。それによれば、一昨日も昨日も、今朝ですら声を聞いたと言った。その御声は何時もの通り慈悲と力に溢れていたと。近く執り行われる新春祭に励むべしと。あまりにも死が唐突すぎる。一体何がそうさせた?
 狩人としてのチハヤの観察眼は、信仰の対象が死した衝撃と驚きの渦中にあって尚、冷静に沈着にその原因を推し量りつつあった。身体全体を検分し、木や草に触れて出来たであろう細かな傷一つ一つの深さ重さを測り、見るだけで分からぬとなるや遺骸に近づいていく。微かに震える手が頚の鱗に触れると、氷のように冷え切った体温が感じられた。儚くなって時を経ているのは明白時だった。
 砂岩を切り出したような鱗に触れながら、頭の方に歩いていく。琥珀色に透き通った頭角や棘は惚れ惚れするほどに美しい。これが地神龍でなければ、そして死した原因が外傷に由来するならば、おそらくチハヤは喜んで死体を辱めたことだろう。狩人とは合理主義者であり、智慧深くもあり、何より慎重であるから。仮令それが何であろうとある恵みは享受するが、もたらした原因が分からぬ限りは鱗の一つも傷付けぬし、角の一つも持ち帰りはしない。開いたそれらから溢れ出るものが、ともすれば村を脅かす厄災たり得ることを知っているから。
 そして、今。チハヤの持つ知識と経験の中で、神の命を簒奪せしめた原因は、分からなかった。致命傷らしき傷はなく、何処かが折れているわけでもなく、それどころか剥製にしたいほど何の瑕疵もない。それは即ち、外的な要因で龍が死んだわけではない、ということを示していた。
 外的でないならば、可能性は極端に絞られる。老衰か、病毒か。しかし前者は考えられない。神なる身に寿命の概念は存在しないから。これが旧神(きゅうしん)の類ならば、神性の劣化がそうであると言うことも出来はするが、こと地神龍にはそう言ったものもない。そしてそれら以前に、これはまだ若すぎる。豊穣祭で謳い上げられる聖句の記述が正しければ、地神龍の本御霊(もとみたま)は山脈ほどの大きさになりて尚健勝であられるのだ。これも大きいは大きいが、まだ一目で全体が見渡せる。
 となれば――

「解呪……解呪師(かいじゅし)、呼ばなきゃ」

 一番考えたくない可能性を手元に残してしまった狩人は、それだけ絞り出した。
 チハヤらに、彼ら種族に、これをどうにかすることは出来ない。神を侵すほどの病毒も、神なるものの死が遺す呪縛も、彼らの積み上げた知識と智慧で何とか出来るものではない。彼らは霊威に対して極端なまで無力で、こう言った事態のときには必ず、すべを持った者の力が必要だった。
 不幸中の幸いか、村に常駐している神官は二人いる。片や豊穣の龍の加護を受けたもの、片や医薬を司る御使いの加護を受けたもの。後者は治癒師(ちゆし)として人を診る傍ら、人や土地に縛り付けられた呪いをほどく解呪師でもある。力を貸してくれるであろう。
 取り落としていた弓を拾い上げ、狩人は速やかに踵を返した。



 豊穣の神龍が隠れなさった。
 治癒師と、その友人である村おさがチハヤからの報告を受けたとき、既に村は押し殺された不安と恐怖で浮足立っていた。考えるまでもない、もう一人の神官が触れ回ったのだ。我が元に豊穣神の啓示来たれり、劫火が村を蓋うであろう――どう解釈しても村の危機を示すとしか思えぬ内容は、人びとを家に閉じ籠らせ、息を詰めた静寂を石畳の上に遊ばせた。しじまの中を駆けるのは、龍の骸を見た狩人と村おさと解呪師、その三人のみ。
 ねっとりとした視線が、家々から街路を往くものに注いだ。不安と、恐怖と、それをほぐしてくれるかもしれぬという期待と。反対に疫を持ち帰ってくるのではないかという猜疑と。およそ朗らかさとは程遠いほの暗い感情ばかりが凝るそれらに、三人は黙って耐えた。

「なぁ」

 耐えがたくなるのに時は然程必要ではなかった。足音ばかり漂う静粛さを、チハヤの声が切り裂く。隣に並んでいた村おさは地面を見つめたまま無言を貫いたが、治癒師は同じように人の声を求めた。自然と三者の並びは変わる。狩人の先導は変わらぬまま、村おさは下がり、治癒師が替わって隣り合った。
 治癒師に向けられたチハヤの視線には、濃い疲労と思案の色が滲んでいた。

「白雪(シラユキ)に――神官に啓示が下りたのは、いつだった?」
「君が山入りした直後。第一翠玉刻と第一月長刻の丁度間だった」
「五石刻半か」

 あの丘じみた巨体が冷え切るには、少し短すぎる気がした。今は冬と春の間で、第一翠玉刻――つまりは夜明け前ともなれば氷が張るほど気温が下がるから、或いはその時間に死したならば在り得るかもしれぬが。それに己は背の方ばかり触っていた。主に獣の熱がこもるのは腹であるから、仮令背や四肢が冷えていたとしても、はらわたにはまだ熱が籠っていたのかもしれない。或いは、あの骸が実はより以前からあって、神官に啓示をもたらしていたのが別の地神龍――神ならぬ竜が繁殖し数を増やすように、神なる龍とても、分御霊(わけみたま)の形で己の分身を残すことはあるのだ――であった、そう考えることも出来るだろう。
 などと。自身の心中に降って湧いた疑問に辻褄を合わせられる理由をあれこれと探し、チハヤは心の平穏を何とか保った。
 狩人とは実に合理的で慎重である。それは同時に、理屈の立たぬことに対する恐怖が人一倍強いと言うことでもあった。時に理不尽さを湛えて待ち構える山、その只中に有りて湧く感情に抗えるものは、決して多くない。ほとんどは他に縋ってそれを薄めるか癒すかした。あるものは妻子を持ちそのために戦った。あるものは学を極め理を以って対峙した。またあるものは信仰にのめり、常命(じょうみょう)ならぬものとの対話の中に導きを得た。
 チハヤもそうだった。彼に妻子は無いし、人間ほど信仰に篤いわけでもなかったが、その代わり知と賢と学に於いては自信がある。多くの不可解さについて紐解き、それを記述することで、チハヤは心の安寧を得ているのだった。
 長く沈黙を挟んで、狩人はおもむろに喉を動かした。

「龍の死体に傷は無かった。折れてもなかったし、打ち身らしいところもなかった。……何が、殺したんだろうな」

 信心深いものならば眉をひそめそうな言い草であろう。
 けれども、咎めるものはない。片や命の終わりを幾度も看取ってきた治癒師で、片や信仰の薄い学究と狩猟の徒である。どちらもごく冷静に龍の死因について思いめぐらせ、状況を頭の中で思い描いては、そこに己の知識を以って理由という肉をつけていく。
 やがて治癒師は、独自の思考を以って狩人と同じ結論に達した。

「病気かなぁ……」
「やっぱりそう思うか? 七橋(ナナハシ)」
「常界(じょうかい)の神様が土地を呪うような死因は、僕にはそのくらいしか考えられない。神龍が毒を飲まされるなんてことは考えにくいし、何より病死ってのは一番呪詛に近い死に方だ」

 最後の一言をチハヤは聞き咎めた。
 病が呪いに近いとは?

「どういうことだ」
「得体が知れないってこと」

 冷や水を掛けられたように、心臓が縮んだ。
 最早彼らは会話もなく、のしかかる沈黙をどうすることもなく歩き続ける。

龍の弩 二:解呪 ( No.2 )
日時: 2018/08/19 04:38
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

 骸は変わらずそこにあり、周りにはこれを喰らう獣の一匹さえいなかった。
 見開かれた双眸は磨かれた宝玉の耀きを一片たりと喪わず、蔓草の絡む角一本、土を掻き木を薙ぐ爪一欠け、苔生す鱗の一枚一枚にいたるまで、チハヤが見た姿と寸分変わりない。なにかの死骸があって、これを辱めるものが何一ついないというのは、狩人たるチハヤにとってはこの上もない異様に映った。
 無論、神龍はその魂そのものが常命なるものと一線を画しているから、それを畏れて近寄らないのかもしれぬ。平生ならばそう考えただろう。しかし、今やかの頭を占めるのは、禽獣の嗅覚が病毒を嗅ぎ取った故に避けたのではないか――などと、そんな物騒な仮説ばかりである。
 心のざわつきを隠しおおせぬまま、チハヤは再び、残る二名は初めて、崩御したる龍の御前に立つ。その途端。

「――!!」

 解呪師は激しく打ち据えられたように全身を震わせ、かと思えば膝を屈しうずくまった。ぎょっとしたチハヤが思わず触れた肩は、あたかも棄てられた子犬のように震え、何よりぞっとするほど冷たかった。
 死体のような冷たさ。チハヤの頭に一瞬嫌な想像が過ぎる。しかし、ひとまずその予感は心の中に収めた。
 此処で新たな仮説を立て、無闇に不安を煽ることに意味はない。今の所は予感の範疇を出るものではないし、仮説が本当であったとしても、治癒師であれば恐らくは対処が可能だからである。故に、ナナハシへ掛けたチハヤの声に動揺は無かった。

「どうした」
「い、や。ちょっと――何だろう。分からない、急に腰が抜けた。呪いのせいだと思うんだけど。大丈夫、呪いなら」
「なら……いいんだけど」

 無理に浮かべた笑みは引きつり、顔色は蒼白。体温は先ほどにも増して下がった気がする。己の物騒な新仮説がますます真実味を帯びた気がして、チハヤは呻いた。
 立ち上がれず座り込む解呪師をその場に置き、狩人の足が龍の傍へとにじり寄る。武骨な手が骸に触れる。調べる為に軽く叩く。こうまでしても、チハヤには何の異常もない。村おさが触れたとしても、解呪師のように突然体調を崩すことはないであろう。仮令この龍を極限まで辱めたとしても、彼等が、“ソレ”に命を奪われることはあるまい。彼等にとってみれば、“ソレ”は日常的なものでもあるから。
 半歩、一歩。二歩。龍の骸を睨んだまま後ろに引き下がり、チハヤは解呪師を振り返った。

「解呪出来そう――と言うか、本当に大丈夫か?」
「嗚呼。大丈夫。平気……ちょっと、面食らっただけ。もう大丈夫だ」

 そう言いながらナナハシは膝に手をつき、ゆっくりと、然れどもしっかと立ち上がってみせた。先程までの蒼白な顔色は戻り、妙な振戦も鳴りを潜めている。いつもの人懐こそうな笑みには痩せ我慢の色も見えず、チハヤはひとまず猜疑と不安を己の心中に収めた。胸中に騒ぐ嫌な予感が外れればいい。そう思いつつも、口には出せなかった。
 ナナハシが遺骸に近づいていく。おずおずと触れ、横顔に滲ませた剣呑さを隠そうともせず、鼻梁に引っ掛けた眼鏡を人差し指で押し上げた。そうする間にもじりじりと脚を運び、ざらつく鱗の一枚一枚を丁寧に診ながら、長い時間を掛けて龍を探る。
 宝物に触れるように、或いは乙女を愛撫するように、触れるか触れないかほどの距離を滑らす。たっぷり数十分の時間を掛けて全身を調べ、ナナハシは葉擦れの音すら聞こえぬほどの集中に入った。
 癒しの御使いより加護を受け、月神の庇護を得たこの身なれど、神なる身の遺した呪いをほどくことは至難の業だ。身一つではとても出来ない。援けが必要だった。

〈火よ 太陽の落とし子 星廻る血潮〉
〈小さく灯れ 香焚きの火種〉

 皿のように窪ませた手の内に、ぽっと蝋燭ほどの小さな火が光った。火口によらず、仄かな温かみを以て、白い火がゆらゆらと祝(ほが)うように揺れる。蝋の芯を溶かすに十分なだけの熱を片手に携え、一つたっぷりと頷いたナナハシは、空いた手で白衣の内を探った。取り出したるは銀の香炉。竜胆の花と群れ飛ぶ蝶が掘られ、翅に宝石を象嵌した美しきその内には、既に一欠片の練香が入れてある。ぱちりと蓋を開け、砂を零すように火を落とせば、燃え上がった香は藤色の煙と甘い蜜の香りを放った。
 藤色の煙を吐くこれの名は、惹霊香(じゃくれいこう)。川底から拾った水晶に柳の枝葉、肥沃な土、黒曜石の一欠け――これらの粉を三日三晩晴天に晒し、伽羅と海龍涎を香料として混ぜ、蜜蝋で練り固めた香である。これを銀の香炉に焚いて使うとき、香の薫る内には、

――神官。御使いの神官。
――おお、おお。何ということ。龍だ。恵みの龍が御隠れなすった。
――禍いが降るぞ。災いが降るぞ。大いなる恵みの山々に。

 人ならず神ならざる、小さき者達が集い囁くのだ。
 小さく、されど大いなる者ども。事象に住まい、事象を操る者。妖精。精霊。時には神霊。それらの集いしは、精霊の井戸端(スピリットリンク)。
 名付けたのはいかなる洒落者か? 想うことも馳せることもせず、ナナハシは口から言葉を滑らせた。

「死呪を解く。絡まれるなよすだま達」

――笑止千万! 誰に物言う人の子よ。

「この言の葉は神意の代行。この声は神なる声。神なる者が小さき者に言う」

――良きぞ。良きぞ。その声に神を聴こう。その言の葉に神を覚えよう。
――歌え歌え。謳え謳え。

「知れたこと。痴れたことよ。歌おう。謡おう。謳おう」

――神の声で。神の言の葉で。悔悟を解く詩を謡え。
――疾く疾く解け。

 治癒師と、霊と。流れるように綴る詩句が辿るのは、予定調和の落ち所。ナナハシら治癒と解呪の一族に代々継がれてきた、集めた霊の意を揃え、従え、そして無数のかれ等と通じ合う秘儀。呪文にして呪文にあらず、術にして術にあらぬ。
 一切合切を束ね、解呪が、始まる。

〈我等はみ月 わけ月 あらた月〉
〈化野の燐火 昏きの導 移ろい変わる虚ろの陽〉
〈夜闇に渉る淡き虹 はて、汝は我等を見るか?〉

 妖精が、精霊が。場に集うあらゆるお喋りなもの達が。口々に紡ぐは月神に捧ぐ聖句。時と共に姿を変え性質をも変え、転じて無数の面性を併せ持つ彼女を語るに、多くの口がこれほど適任なことはない。
 だが足りぬ。月の女神は移ろいを司り、呪われた場を正常な場へ移ろわすが、それでは時が掛かりすぎる。月女神の庇護はその時を著しく早めはするものの、即時性はない。月の一巡を待たねばならぬし、それでは遅すぎた。村の民にひと月枯れ腐る呪いに怯えて暮らせなどと、そんな非情は口にできない。なれば、すぐに解いてしまえる手が必要であろう。
 その御手の主を綴るために、治癒師は此処にいる。

〈其は御使いの長たりて〉
〈六翼の緋の臨み来たるに その濁り盲の眼を開け〉
〈其は一頭蛇の杖掲げ 打つは死疫を灼く医薬の箋〉

 朗々たる呪句に読まれるは、癒しの御使い(アンゲルスサナティ)。ナナハシら治癒師の一族に加護を与う、医師薬師と傷病者の守護神。ありとあらゆる異常を正常に戻し、安寧と安息を賜う力を人びとに授けるこの神の寵愛と加護は、この敬虔で勤勉な男にこそ最大限に与えられた。
 ナナハシに与えられた治癒の権能は、最早治癒師としての範疇をさえ超越する。欠損を補い、抜けぬはずの毒を抜き、死の近似にあるものすら呼び戻す。そして、人ならざるもの――そう例えば、何処か定まった場や家屋であるとか――の“病”すらも、この強壮な治癒師は慈しみ、癒すのだ。それが許されるのは、ひとえに彼の善良さ故だった。
 さりとて、彼も所詮は人の身である。神性の権能を扱うに、人の魂は脆く儚い。ナナハシはその点規格外の頑健さを持ち合わせはしたが、それとて人の範疇を出るものではなかった。

〈我等が宮に照り映え輝け〉
〈陽に出るより尚明々と 星に晒うより尚白々と〉
〈我等が宮より隠れて眠れ〉
〈影に入るより尚昏々と 地に埋るより尚黒々と〉

〈その耳に聞き届け 怨嗟に捩れた今際の苦鳴〉
〈その双眸に見て覚え 艱難辛苦の断末魔〉
〈是語らぬ口に語る 死際の惨き 死毒に病む身の歎き〉
〈是瑕疵なき身に立ち込める 枯れ朽ちる腐蛆の垂涎 痩せ耗る真冬の霹靂〉

 幾十幾百の、年頃も高低もばらばらの声が、月神を讃える度に。己が口で神を讃え窮状を綴る度に。意識の奥深く、魂に築いた祭壇が軋む。その感覚は如何とも表現し難いものがあったが、無理に形容するならば、熱湯で満杯になった皮袋を頭に押し込まれ、蓋を閉めた間から煮え湯を注がれているようとでも言うべきか。
 烈しい頭痛と熱に浮かされ、意識が一瞬薄らぐ。ぐらりと身体が傾ぎ、そのまま倒れかけた身体を、場に集う妖精の数人がそっと留めた。
 月明かりを映した白銀の髪、仄かに薔薇色の肌、上等の月長石をはめ込んだが如き双眸。額と背にはそれぞれオオミズアオの触角と翅を持ち、絹糸で編んだ浅葱色の装束が、月光に照らされた花の萼(がく)のように薄く透けて風に踊る。
 その字(あざ)、夜灯妖精(セントエルモ)。夜に淡く輝く燐火の精であり、時に人を惑わす幻の精でもある。昼と夜、光と闇、可視と不可視、相反する事象の間を行き来する彼女らは、その移ろう性質により月神の眷属としてつとに知られていた。
 月神のわざを使うとき、彼女らは傍に添い、燐火と幻視の性質を以って記述する。

〈いざ見遣らん明々たる白き内に〉
〈我等の目明きは惑うものの導〉
〈いざ見遣らん昏々たる黒き内に〉
〈我等の眠りは惡しきに賜う夜帳よ〉
〈我等の夜を汝に与おう 腕に眠れ愛し子よ〉

〈昼を夜に 夜を深き夜に さあ目を閉じて――“月巡りの夜(ステラハイ・ララバイ)”〉

 一足先に、すだま達が術を編み上げた。
 途端に日が陰る。かと思えば茄子紺に染まり、銀粉をまいたように星が散る。月神の権能が広げた夜の衣、その暗き下で、集う夜灯妖精の内一人が飛び回る。くすくすと、けらけらと、不敬にも神龍の骸を踏み付けて跳ね踊りながら、身軽な少女は鱗粉のように燐火を撒いて、己が主の袖下を一杯に照らし上げた。
 その光に解呪師は見る。骸全体に這い、背の骨や首を締め付け、心の臓を搦めとる、ミミズとも木の根ともつかぬ長紐を。蛇にも似てぬらぬらと黝(あおぐろ)くなまめくそれが、妖精の見せる龍の呪いであると。気付くのはあまりに容易い。
 なればこそ、ナナハシは呪句を紡ぐ。

〈耀く御手にて繙き解せ かれは軛〉
〈此の地此の身に呪縛は有らず 戻れ常の影 翔け去れ病毒の竜〉
〈癒しの秘儀を与えよう 永久より長く穏やかであれ〉

〈我が箋は唯一つ、「汝よ、自在たれ」――“解呪(ディカース)”〉

 声を掠れさせながら、呪句は完成した。
 もしもこの山に意識があったなら、何か巨大なものが、強固に根付く何かを引っ張り上げたと感知しただろう。さりとて当事者ならぬ者にその感覚はなく、目に映るのは香炉から吐き出される煙と、妖精がまいた月光に朧な呪縛と――その端を掴んで引く、仄白く輝く何かの手のみ。
 音すら無い。
 呪いはするすると、絡まる紐を引くように龍の骸から離れ、それは途中で蝙蝠のそれに似た数対の翼を開く。引かれる側とは反対の側、のろのろと持ち上がった頭に宝冠のように艶めく角を伸ばし、蛇を厳めしくしたような貌にはぎらぎらとした牙を生やし、長い胴をくねらせながら空に伸びあがったそれは、何を顧みることもなく偽りの夜に身を翻した。
 何対もの翼を羽ばたかせ、宝冠めいた角を見せつけながら夜を翔ける後ろ姿が、ナナハシの目に捉えられなくなると同時、

「な、な、何だッ!?」

 動揺と恐怖に揺れる悲鳴が、解呪師の意識を遠くの空から手元の地へと引き戻す。悲鳴の主はチハヤ。その視線は、骸の横たわる方に向けられたまま動かない。
 遅れて骸に意識をやったナナハシの呻きは、いくらかだけ冷静だった。

「ぁ、あ……呪いが、解けたから」

 骸の腐敗であった。
 だが常命なる者の腐敗ではない。鼻腔から脳裏までにこびりつくのは強い土と草の匂い、脆くなり割れた鱗の狭間から溢れ出すのは冷え固まり始めた溶岩で、しなやかさを失った四肢の肉は形を保ったまま巨岩と化し、見開かれた瞳はそのまま硬質化して宝石の輝きを保つ。詰まっているであろうはらわたは、細かな砂岩やガラスの粒となり、脆くも崩れて風に攫われていった。
 ――神性とは、事象の裁定者にして事象そのもの。肉持つ神性の肉とは、すなわち現象の化身。であるならば、地の豊穣を司る龍の肉とは即ち岩であり、血潮は溶岩であり、臓物は砂であり、双眸や骨は鉱石である。神性の権能によって生命を形作るそれらは、その死により生きるものとしての形を失うのだ。それは権能の消失後速やかに起こり、その様は遺骸が土に還る様を早回ししたようで、故の腐敗である。
 岩と金銀宝石の塊となって崩れゆく龍、その有様を呆然と見つめる三者。
 その目が覚めたのは、香炉に焚かれた煙が尽き、千々に霧散してゆくすだま達の気配を感じたせいだった。

「ふは……」

 深く、声を零すほどに深く息を吐き、立ち尽くしていた解呪師が座り込む。入れ替わりに、解呪の様子を座って眺めていた村おさと狩人は立ち上がった。
 辺りは森閑としているものの、居心地の悪い静謐ではない。耳を澄ませば、何処かおずおずとした小鳥の声が聞こえた。狩人が気配を探れば、子兎や狐の類が様子を見るようにうろうろしているのが分かる。何処かぎこちなくも、平素の山が戻りつつあるのは明らかであろう。

「解呪か。何度見ても凄まじい」

 ほぅ、と感嘆混じりの言葉は村おさ。それにただ笑みだけを返したナナハシの横顔には、神官としての誇りと達成感と、それだけでは隠しがたい疲労が複雑に滲んでいる。大神術を行使した負担は重く、頭に重く伸し掛かる頭痛と発熱と、魂の酷使による苛烈な倦怠感は、最早治癒師から言葉を発する気力も奪い去っていた。
 動けそうにない解呪師と、歩み寄るその友人。二人の年長者はさておいて、若き狩人は逝き崩れた龍の亡骸に向かう。呪いは解け、龍は死んだ。ならばその後に残ったものを猟師が検めたとて、鉱石を掘り出し鹿から角を切り出すことと変わりあるまいと。実に合理的で現金な考えである。
 そんな狩人に、何か一つ罰が当たったとすれば。

「何だ、こりゃ……」

 最初に探った砂と硝子の山――腐れてくずおれたはらわた――の中に、一抱えほどの翠玉を探し当てたことだろう。

三:不穏 ( No.3 )
日時: 2018/08/28 11:44
名前: 月白鳥 ◆/Y5KFzQjcs

 護るように金や銀、銅、他様々な鉱石を貼り付かせた、翠玉の珠。

「これは、まあ……間違いないね」

 チハヤが龍の遺骸から掘り出したのは、そんなものだった。
 覗き込めば向こうが透け、陽に透かせば玄妙な虹の輝きがちらつき、翳を落とせば翠葉の色はより濃く。恐ろしいほど上質な宝石である。いっそ翠玉に似た色や質感に固まったガラスだとでも思いたかったが、砂に埋もれて擦り傷の一つも付かぬ硬さといい、何よりこの絶妙に青みの掛かった碧といい、チハヤの目利きの上では紛れもなく翠玉だ。心配になって村おさにも意見を仰いだものの、結論は変わらなかった。
 身体が震える。まずは龍の遺骸が生む奇蹟の凄まじさに。そして――これが一体龍の何なのかという、にわかに湧いた疑問のおぞましさに。
 そう。はらわたであった砂山から出てきた以上、翠玉の珠は龍の身体が変じたものに相違ない。ではこれは何だ。
 僅かに歪な球形といい、滑らかな艶といい、これは。

「卵……茨枝(イバラエ)、これ卵だ。龍の卵だよ」
「嗚呼。私にもそう見える」

 勢い込んで張り上げたチハヤの声に、村おさ――イバラエは、努めて穏やかに同意した。皺の多い、けれども衰えを感じさせない力強き手が、若き狩人の背をそっと叩く。触れた背は固く張り詰め、凶暴な獣と日々格闘する者のそれとは思えぬほどに、か細く震えて止まらない。とんでもないものを掘り出してしまった。触れてしまった。そんな不安と当惑と、じわじわとした恐怖が、細かい震顫を通じて伝わってくる。いっそ泣きそうな様子だった。
 これが、ただ卵が卵のまま儚くなってしまった成れの果てと言うなら、チハヤが此処まで動揺することはなかっただろう。いくら上等でも死んでしまえば石である。そこの区別を見誤るほど、狩人の感覚を鈍らせた覚えはない。
 ならば、狩人をこうまで著しく畏れさす原因は、最早一つ。

「良き友、良き家族と思えばいい。世の中には遊草龍(サリクス)や月華龍(オクシペタル)を乗りこなす者もいるそうじゃないかね、きっとこの仔も力になる」
「……俺は、ただの狩人だよ」
「嗚呼、お前は狩人だ。龍を拾ったからと言って英雄に祀り上げられる訳でも、平原の戦場に放り出される訳でもないさ。ただの友で、ただの家族だ」

 卵は生きている。
 チハヤとイバラエが認識した事実は、たったそれだけ。それだけの事実が、チハヤをこうまでも弱気にさせる。
 彼がもっと能天気で学のない男なら、恐れはしなかったかもしれない。だが、彼は深い山に単身分け入って生還できるだけの聡明さと、その頭脳を支える豊かな知識を併せ持っている。龍の仔を拾い、それを育て上げた者が何と呼ばれ、どう扱われるか、彼は知っているのだ。その扱いや呼称が、己の歩みたい道と大きく違うことも。
 無責任でいたい。自分以外の命や願いなど背負い込みたくはないし、糧を得る以外の命のやり取りなど御免だと思う。しかも、見も知らぬ誰かからの期待や羨望や、嫉妬や憎悪を受けてまで。そこまで身を削れるほどの聖者ではない。生き方が他人本位で自己犠牲的だと言われたことはあるが、チハヤ自身は己をこの上もなく自分勝手な生き物だと思っている。
 だが一方で、それ以前に、チハヤは一度拾った命を打ち捨てられるほど薄情者でもない。服が濡れるからと言って、池で溺れる仔犬を見殺しに出来るような、そんな冷淡さの持ち合わせはなかった。今回ばかりは濡れる範囲と温度が違いすぎるわけだが、それでも本質とはそういうもの。少なくともこの狩人はそう考えている、
 卵を撫ぜる。表面の滑らかさと内に籠る仄かな熱が、革の手袋越しでも伝わる。
 生きているのだ、やはり――再確認を済ませて、チハヤは村おさを見上げた。

「もし求められたら、村を出る。それまでは……」
「ふむ……山は広大で寛大だ。お前とその仔が一生暮らして、その骨を埋められる程度にはね。それでもお前が外へ出てゆくと言うのなら、止めはしないよ」

 しっかり育め、と。
 背を叩くイバラエの手の大きさが、頼もしくもあり、重たくもあった。



 銀の香炉から、細く藤色の煙が棚引いている。
 ナナハシが持ってきた香炉に再び火を入れたのはチハヤ。自身の腰に巻いたベルトに四辺から下がる鎖を引っ掛け、線香ほどの薄い煙に巻かれながら、狩人は龍の骸がある場から少し離れた水場へ来ていた。山の上流、雲に巻かれ見えぬほどの高みから流れ落ちて染み込み、地下の留まりから湧きだす水は冷たく清らかで、長丁場の狩りをするときにはいつも使う。しかしながら、チハヤが此処に来た理由は、何も小さな泉から水を頂戴するだけではない。
 自然石を積み上げて区切りを付け、ついでに少しばかり高さを上げた泉に近づく。声を掛ける代わりに素手の先を触れさせば、こんこんと溢れる水が不自然に揺らいだ。かと思えば、生き物のように指先へ水が絡み付いてくる。水が自立して動く異様さに、しかしチハヤが動ずることはない。

「茨藻の、遊びに来たんじゃない」

 一言で伸びあがろうとする水の動きが止まる。かと思うとただの水に戻り、次の瞬間ぬるりと水面が大きく持ち上がった。陽光を受けて煌めく冷水が形作るのは、細かなレース編みの薄布を巻き付けた女の上半身。薔薇の葉の縁にも似てぎざついた薄布からは、水晶のように透き通った水滴が落ちて、泉にいくつも波紋を広げている。
 彼女は茨の君(ナヤス)。山に湧く清泉の精であり、末端ではあるが御使いの眷属でもあった。此度の件に関して、意見を仰ぐには丁度いい相手である。そんなチハヤの心底を知ってか知らずか、彼女は僅かに青く色付いた瞳を細めて、薄布が幾重にも覆う手で口をそっと押さえた。
 少しばかり考え込むように俯き、泉の精が顔を上げる。吐息のような声がした。

――貴方、変なものが絡みついていたわ。少しつついたら解けたけれど。

「多分地神龍の呪いだ。俺には効かない」

――そうね、貴方達は何が絡んでもわからないものね。でも気を付けなさいな。幾重も絡めば重くなる。どんなに鈍感でも、動けないほど雁字搦めにされてはもう無視出来ないでしょう。
――絡まりに気付けない子は怖いわ。本当に、本当にその時まで何ともないのに、瞬きする間に動かなくなるんだもの。私、千の矢にそうなって貰いたくないわ。千の矢ったら、私達にも分からない間に無理するんだもの……

 ふるふると泉の精がかぶりを振る度に、布端から細かな水滴が散った。ベールの向こうに沈む心配げな女人の表情に、チハヤはくすぐったそうに肩を竦めて答える。

「そうなる前にお前が解いてくれるんだろ、茨藻? それよりも龍のことだよ。何があったんだ」

――どうして私に聞くのかしら?

「癒しの眷属。俺は急いでる」

――……そう。山主様には不幸だったわ。
――あれは魔の世のやまいよ。誰かが開いたの、向こう側から。それを主様が閉じようとした。“門”は閉じられて、けれども山主様は魔の世の気を吸った。

 茨の君の答えに言葉を失う。
 龍が呪いすら遺して死に至る理由が分かった。異界の病を伝染されたのだ。
 この世界は、二つのよく似た世界が隣り合って一つと認識される。俗に常界(じょうかい)と異界(いかい)の名で呼び表されるその二界は、互いが互いにとって猛毒となった。食料は勿論、水や大気すらもがその対象であり、異界の者が常界の空気を一度でも吸えば、肺がただれて死ぬのだ。逆も然り。例外は幾つかあるが、少なくともこの山に暮らす民のほとんどにとって、異界のあらゆるものが死毒に等しい。
 恐らく、罹ったのはただの風邪だ。異界では。
 しかし、常界に於いて、その性質は反転する。

「……ナ、ヤス」

 即ち。命に別状のない病から、神殺しの疫癘へ。
 即ち。すぐ癒える軽症から、国滅ぼしの重病へ。
 途轍もなく嫌な予感がして、字を呼ぶ声が掠れた。

――どうしたの、千の矢。

「さっき、呪いを解こうとした時に、あいつが……ナナハシにも、伝染ったかもしれない。このままじゃ死んじまう」

――御使い様の神官が?
――私に何が出来る? 力になりたいわ。力になれるはずよ。

 目尻を下げてすり寄ってくる手を受け容れる。長い服の袖が濡れ、はらはらと止め処なく落ちる水滴が頭に触れて、眼も鼻も口もない上を滑らかに伝い落ちた。象牙で出来た表面が冷気を知覚する。
 チハヤは人間ではない。人のような感情と知能を持ち、人に紛れて暮らすことは出来るが、少なくともその首から上は、人間のものとは大きくかけ離れていた。

「考えてみる。俺だって、異界の賢者の末裔だもんな」

 その形を示す言葉は、人族にはない。
 だから、地球儀というその言葉は、チハヤら種族の言葉を借りたものだった。



「チハヤッ!」
「……!!」

 茨の君のいる水場から戻ってきたチハヤに掛かったのは、イバラエの悲鳴じみた叫び声だった。
 見れば、村おさの腕にはナナハシの細い身体が収まっている。ぐったりと投げ出された手は蝋か紙のように生気なく、同じく血の気の失せた顔に落ちかかる黒髪の間、ずれかかった眼鏡の奥に見える目は力無く閉じていた。浅い息は途切れ途切れ、時折思い出したように深く一つ吸っては、また止まる。取るものもとりあえず駆け寄り、半ば掴むように触れた肌は、山深くの秋水のように冷たい。
 最悪だ。チハヤは心の内で絶叫した。いや実際に言い放ったのかもしれないが。それを気にしていられるほど心中は穏やかではない。
 言葉もなく香炉の蓋を開ける。水場に行く前掌大ほど残っていた香は、もう小指の先ほどしか残っていない。これら全てを煙にしても、この状況をどうにか出来るほどの精霊の井戸端が作れるかどうかは賭けであった。しかも、分の悪い賭けだ。応えてくれない可能性の方が遥かに高い。出来るのは願うことだけ。何しろチハヤは神官でもなければ、治癒師のようなわざを使えるわけでもないのだから。
 予備はもうない。これが予備である。だが、それでも、やるしかない。一抹どころではない不安と恐怖を柏手一つで叩き殺し、チハヤは腰鞄から薬包紙に包まれた散剤ともぐさを取り出すと、まとめて香炉に詰め込んだ。火打石の一打で火を入れる。薬包紙を燃やす橙色の炎が収まった後、薄く上がり始めた藤色の煙は、甘い百花と蜜の香りの他に、目の覚めるような強いハッカと苔の香りを漂わせた。
 状況の掴めぬイバラエにも、香の変化の意味は分かる。集めたい精霊を限定するとき、惹霊香の調合と香りは変わる。
 だがこれは――

「チハヤ、凍え死にさせる気か!?」
「ナヤ――いや、流氷の翼(リマキナ)! 頼む、出てきてくれ……!」

 イバラエの非難を無視して、チハヤは出来上がりつつある精霊の井戸端に願いを叩き付けた。香の濃さに頼れない以上、望みの精霊を引き寄せるのは迷いなき意思だ。この狩人にはそれが出来るだけの確信があった。
 呼び集めるのは茨の君でもいい。己と人に好意的なかの精霊ならば、少ないリスクで多くを呼び集められる。だが、ことこの場合に至っては、なるべく多くの熱を短時間で奪い去る必要があった。この一瞬でそこまで打算したわけではないが、チハヤの結論に理屈を付けるならば、つまりはそう言うことだ。
 必死な声音に引き付けられたか、ごぉと低く風が唸り、鳥肌が立つほどの冷気がチハヤとナナハシの周囲に渦を巻く。もしチハヤに適切な才能があるならば、その風の中に、透き通った天使めく小人の姿を見ただろうか。
 春始めの暖かさが一気に真冬の寒さに取って代わる。思わず身震いしたイバラエの腕の内で、不規則な呼吸を繰り返していた身体が、にわかに大きな息を吸った。閉じていた眼が薄く開かれ、奥の淡い銀瞳がぼんやりと周囲を見回す。好転の兆候に浮かびかけた安堵は、けれどもすぐに胸の奥へしまい込んだ。
 救援の叫びによって呼び集めた精霊を繋ぎ止めるのは、危難が続いているという現状だ。ただでさえ初春の昼という薄氷の精には居づらい場にありて、苦境が去っていると判断されれば、これ以上維持は出来なくなる。そうなればチハヤにはもう打つ手がない。故にこそ好機を隠した。かの者は未だ危機の内にあると、霊にも己にも信じ込ますために。
 実際の所、ナナハシの容態は予断を許さぬ状況にあった。呼吸こそ徐々に安定しつつあるが、開かれた銀の双眸に正気の色は薄く、体中を冷やされたせいで肌からはいよいよ生気が失われつつある。そんな自身の不調が不安なのか、ずいと膝を寄せたチハヤを見上げる表情は、今にも泣きだしそうに揺れていた。

「ぅ、……な、に? チハヤ、僕はどうなったんだ?」
「龍殺しの疫病に罹ってる。残ってたんだ」
「そっか……病気の、種類は?」

 一度ぎゅっと固く閉じ、再び開かれた双眸には、数瞬前より幾分強い正気の光。ともすれば忘れそうになる呼吸を意識して継ぎ問えば、落ち着いて聞いてくれ、と念押しの後に答えは返ってきた。

「風邪だ。異界でなら一日で治るような、大したことのない」

 眉根がきつく寄せられた。
 治癒師として、また或いは医薬の神性の神官として、およそ呪毒疾病の類については学を修めてきたつもりだ。その積み重ねられた豊かな知識が、今し方チハヤより告げられたことの重大さを教えた。同時に、冷え切った身体を更に冷やす意味も。
 異界の風邪が常界の者に伝染ったとき、まず呈する症状は体温の低下だ。その下がり方は尋常でなく、真夏に暖炉を焚いても氷の如く冷え、ほんの半石刻でも放置すれば低体温で意識を失う。この間に食い止められなければ、最早手の施しようはない。激しい空咳と呼吸困難、不整脈や意識の混濁を繰り返し、最後には少しずつ体中の機能が停止して死に至る。
 これに有効な対処法は一つ――とにかく体温を下げること。死ぬほど冷え切っていたとしても、上げることは病魔を活性させる絶対の禁忌だ。熱と異界の感冒はこの上もなく相性が悪い。かの強壮なる守護龍が呆気なく崩御したのも、かのものが溶岩という膨大な熱量を血潮として巡らせたが故だ。
 ひょう、と冷風が頬を撫ぜ、既にして凍死寸前の身体を更に冷やしていく。普通ならば、この状態になった時点で――否、これよりも前に意識が飛んでいてもおかしくはない。しかし、ナナハシの頭はむしろ、驚くほど冴え渡っていた。その異常こそが、己の内に病魔が巣食うと再認させる。
 低くなり過ぎた体温故か、風邪特有の倦怠か。ともかくも、鉛を詰めたように重い手を動かす。チハヤの補助は首を振って拒否し、ずるずると胸の上まで引き摺り上げた右手で、ゆっくりと剣指の形を作った。
 チハヤの知識と機転による応急処置は成功した。
 ならば後は、治癒師の仕事だ。

〈氷よ 氷よ 六剣の刃 薄氷の下〉
〈病魔を裂け 退魔の六手〉

 流氷の翼へ捧ぐ呪句。危機によって集められたそれは、危難への助力を願う声に応えて身を翻す。ひょぉひょぉと甲高く寒々しい隙間風の音は、可憐な見た目と相反する勇猛さを秘めた、彼女ら天使の嘶(いなな)きだ。
 常命なる者には分からぬ雄叫びが、近寄らなかった薄氷の精を呼ぶ。春の燦々たる日差しはそのままに、精霊の井戸端の中だけが見る見る内に冷えてゆく。健常者二人には堪える寒さだが、イバラエはまだ上体も起こせぬ治癒師の身体を支え、チハヤは香を以てこの場自体を支えねばならない。どちらもこの場を離れることは出来ず、故に耐えるしかなかった。
 びょうびょうと、轟々と。次第に重さ鈍さを増す薄氷の精の声を聞きながら、ずり落ちかかった眼鏡をのろのろと鼻梁に引っ掛けなおしたナナハシは、次の瞬間自身の行動を大いに後悔した。
 レンズによって補正され、矯正を受けた視界に、まず飛び込んだのは。

「ぁ、えっ……ひっ!」

 ぐぱぁ、と。
 人のものに似た頭部を六つに裂き、牙と棘の生えたバッカルコーンで顔に喰らいつこうとする、世にも獰猛なる氷神の眷属。

「ひぃィやぁあああぁ――――!?」

 貫かれた生娘よりも尚悲痛な絶叫を上げ、治癒師の意識はそこで途絶えた。

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