複雑・ファジー小説

金の指輪、銀の指輪
日時: 2019/01/05 10:17
名前: 雪舟


 双子のお話

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Re: 金の指輪、銀の指輪 ( No.1 )
日時: 2019/01/05 12:21
名前: 雪舟


 筋交いの床屋へ向かおうと信号待ちをしていた裕也は、後ろから来た女にいきなり抱きつかれた。「眠くって歩けないの」と行っている声で、千代子だとわかった。裕也の父が、ここ半年ばかり一緒に暮らしている女である。酔っていなければ、愛嬌があってさっぱりした性格だが、仕事がら、朝は大抵こんな有り様だった。午後6時の街はまだ醒めやらず、舗も閉まっている。往来の少ない小宮だからいいようなものの、人目があったらかなわない。裕也は寄りかかってくる千代子を、角の煙草屋の方へ軽く押しのけた。

 「親父は一緒じゃないのか」
 「……誰、そんなの」

 千代子は裕也に拒まれ、いったんは煙草屋の戸板へ寄りかかったが、すぐにまた裕也の腕を掴まえ、しなだれてきた。

 「誰って、あんたの恋人だよ」
 「よしてよ、あんな男。ちょっとばかりいい男だと思って、厚かましいんだから。勝手にあたしの家でだらだら居座って、ろくに働きもしない甲斐性なしよ。」

 千代子は舌もなめらかにつけつけ言い放った。千代子が口にした悪態は裕也もそのまま父に言ってやりたいくらいで、小気味よかった。父の要は、仕事も暮らしも成り行き任せで、万事いいかげんである。裕也は母を知らない。亡くなった祖父母に、お前の母親は要に愛想をつかして出ていったんだよ、という風にだけ聞いたことがある。

 「なんだ、酔ったふりして。正気なら歩いて行けよ。」

 裕也は面倒くさそうに千代子の腕をふりほどいた。それでも千代子はしつこく寄り添ってくる。

 「重たいよ。さっきまでひとりで歩けたんだから、歩けるだろ」
 「寄り掛からせてくれないんだったら、ここで寝ちゃうよ」
 「そうしろよ」

 裕也は冷ややかに言い放ち、横断歩道を過った。間口が一間のこじんまりとした床屋である。毎朝6時に舗は開く。主人は、一日に5人の散髪をしたらそれきり舗を閉めてしまう、偏屈な変わり者だった。しかし散髪の腕はとびきり良いので、前髪を数ミリしか切りたくない裕也は、早起きが面倒でもこの床屋へ通うことにしていた。
 通りを渡りきったところで、裕也は舗道に正体もなく寝そべっている千代子を目にとめた。放っておけない様である。裕也は仕方なく引き返して千代子を揺り起こした。

 「早く帰れよ。今日この辺りにも警察が動員されてるんだってさ。不審者は構わず署へ連れてくって」
 「なあんで」
 「パレードだよ、皇太子の御結婚。」

 祝祭の金曜日、裕也の通う学校は臨時休業になった。生徒の代表は小旗を携えて沿道に立つが、裕也はそんな役目も担ってない。だが裕也にとって群衆はありがたい。願ってもない副収入をもたらす格好の場だ。そのために散髪もして身だしなみを整えようというものである。千代子はうん、と返事をしながら再び横たわった。するといきなり、裕也は千代子に腕を掴まれた。

 「キスして。そしたら家に帰るから」
 「よせよ、お前は親父の女だろ」
 「だからなんなの、キスしてくれないならここで寝ちまうからいい」

 千代子は春先にしては厚手すぎるコートをはだけて舗道で仰向けになっている。裕也は遠くの人影を見つけ、警官ではないかと危ぶんだ。朝から舗道で寝ているなど、面倒になりやすい。裕也はすばやく千代子に口づけした。紅が乾いた唇は思ったより固い。

 「初めてなの」

 その一言で裕也は弾かれたように千代子から離れた。14になったばかりの裕也は、万引きやたかりなら手慣れていたが、キスは勝手が違う。といってためらいがあったわけでもない。ただ、千代子にこうもあっさり見抜かれてしまうとは思わず、憮然として後も見ずに走り去った。是が非でも今日の仕事はしくじるまいと床屋へ飛び込んだ。千代子のことでもたついて、裕也は六番目だった。なんとか頼み込んだが主人は愛想がない。おまけに前髪をいつもより短くされた。裕也にとって悪い朝になった。
 父親が全うな職についていないせいで、必要最低限のものですらろくにそろわない暮らしである。買うには元手がいるし、すでにあるもので我慢するなら卑屈になるしかない。父の要が春先の上着として裕也に与えたのは、千代子が着こなした女物であった。勝手に仕立て直して着ろ、と言う。それでいて仕立て屋は寄越さないのだから、裕也は恥を忍んで女物を着るか、肌寒さに耐えるか、のどちらかだった。自然、裕也は非合法に得ることを覚えた。

 「嫌になるな。どうしてあの女に見抜かれたんだろう。」

 裕也は、遊び相手の清彦を相手に、嘆息を漏らした。清彦は裕也の散髪が終わるのを見計らって現れた。さっそく、二人して足並みを揃え、仕事場へ急いだ。

 「そりゃ、下手だからさ」

 清彦はすげなく言う。不服な顔をする裕也を見て、教えてやろうか、と笑った。

 「大きなお世話だよ」

 裕也は、千代子ばかりか清彦にまでからかわれ、面白くない。慈善好きの有頂天人を騙す手口にかけては、清彦よりも裕也のほうが勝っている。裕福な家の息子のくせに、退屈しのぎで小遣い稼ぎをしている清彦とは違い、裕也は暮らしがかかっていた。空腹を満たし、服を新調するにはまず資金がいる。裕也たちのまがまがしい遊びに、数十万の人が集まる今日のパレードは、またとない荒稼ぎの機会をもたらすはずだ。人手があればあるほど騙すに手頃な相手も多くなる。
 通りはどこもかしこも皇居へ向かおうとする人々で混乱し、沿道には人があふれていた。紋付きの袴で身拵えた年寄りや、晴れ着姿の家族連れが、カメラを携えて続々と門口を出てくる。日本橋へ近づくほどに群衆は増え、歓喜と熱気で満たされた。裕也たちも、馬車パレード見たさに集まる人々と一体になって前へ進んだ。

 「あんな年増女に、大真面目でキスができるもんか」
 「負け惜しみ言って。一体どんなキスをしたのか知れたもんじゃない」

 裕也たちは無駄口をたたきながらも、辺りを窺って商売相手を探すことは怠らない。綸子や刺繍のそこそこ上等な着物をまとった中年増に目をつける。高級品を身につけた令夫人然としたのは、面倒が起こったときに厄介なので避ける。年齢は、ちょうど裕也たちの母親と同じ歳ぐらいが狙い目だ。
 裕也たちの手口は、まずは後ろから駆け寄って「母さん、母さんじゃありませんか」と声をかける。振り向いた女の顔を見て、すばやく顔色を変え、「ごめんなさい。人違いでした。生き別れの母と面影がそっくりで。ああ、とうとうお逢いできたと早合点したものですから」、と今度は平謝りする。そこで相手の憐れみを誘えればしめたもの。その後に身の上話をする。たいてい、同情して小遣いをくれる。実際に母親のいない裕也のほうが演技は達者である。

 「裕也は見てくれで稼ぐんだから、本当は黙っててもいえようなものさ。まだるっこしい手順を踏まずにさ、真っ向から僕と遊びませんかって、誘ったらどうなんだ。」

 清彦は言いながらしげしげと裕也の容姿を見据える。手足も首も細く、育ちの悪さをまるで感じさせない美貌。日本人離れした高い鼻は陰をつくって憂いを帯びさせ、涼やかな目元と色気のある唇も相まって彫刻のようだった。しかも母親が消息不明なのは本当の話なのだから、裕也の生い立ちには暗い部分がある。だからか、裕也は内から出るほの暗い退廃的な雰囲気も持ち合わせていた。裕也は清彦に揶揄されて膨れっ面になった。

 「別に遊びたいわけじゃない、小遣いが必要なだけだ」
 「さ、どうだか。裕也は母親ってものに妄想を抱いてるよ。案外、本気でどこかに生きていると思っているだろう。」
 「思ってなんかない」

 実は、本心に近いところを突かれ、内心どきりとしていた。ときおり母を恋しくなるのは事実だ。裕也はムキになって清彦を軽く小突いたが、すぐさま仕返しされた。清彦は裕也がいつもより前髪が短いのに気づいて、次から床屋を変えろよ、と言った。

 「そろそろ別れよう。ひと仕事終えたらいつもの舗で落ち合って、稼ぎを比べようじゃないか。」
 「そりゃ楽しみ。待ち合わせは何時にする」
 「5時でいいだろう」
 「わかった」

Re: 金の指輪、銀の指輪 ( No.2 )
日時: 2019/01/05 18:54
名前: 雪舟

 「まあ、お可哀想に。お母様がいないだなんて」

 女は、若草の紋綸子に黒羽二重の羽織を重ねている。微かに鈴蘭の匂いのする香を焚き染めていた。馬車立ての華やかなパレードをひとめ見たさに、久しぶりに都会へ出てきたのだという。裕也は路上ではじめた身の上話を、場所を移してもう一度詳しく語ったところである。女の誘いで、末宮にあるフルーツパフェの舗に来ていた。憐れんでご馳走してくれるような場合はかなり脈がある。裕也は熱心に語り、めったに味わえないスロベリーパフェを奢ってもらった。女は、ヴァニラとチョコが合わさったアイスクリームを注文した。

 「私たちって、親子のように見えるかしら」

 女は裕也をまじまじと見つめて言った。裕也は瞼を伏せ、いかにもといった感じで孤独な声音を演じてみせる。

 「そう、思われては、迷惑でしょう?」
 「いいえ。私、息子を思い出したの。ちょうど逆の境遇なのよ。」
 「息子さんをお探しなんですか」
 「ええ。でもね、冥府では会いようがない。」
 「……すみません、気がつかなくって」
 「あら、謝ることはないのよ。一年前に病気で亡くなりましたもの、いいかげん諦めなきゃね。…ただ、時々、思い出してしまうの。男の子を見ると特に」

 裕也のストロベリーパフェは途中からただ溶けるにまかせてある。女は喋りながらも器用にアイスクリームを口に運んでたいらげた。裕也は詐欺に失敗した以上は、一刻も早く立ち去りたいと頃合いを図っている。すぐにでも次の相手を探したい。おりよく、女が先に席を立った。

 「たのしかったわ。思いきって外出してみてよかった」

 勘定を払い、外に出た女は車を呼び止めた。緑の車体が停まり、扉を開いた。裕也はパフェを奢ってもらった礼を述べ、女が車に乗り込む傍らへ佇んでいた。女は不意に裕也の手を掴んだ。

 「ねえ、お乗りなさいな。送ってさしあげる。」
 「いえ、逆方面ですから」

 それは嘘ではなく、女の車は蓮宮を向いているのに対し、裕也は逆に小宮方面へ行くつもりだった。

 「それなら、ほんの百メートルでいいの。乗って頂戴。それとも、こんなおばさんにしつこくされるのは迷惑かしら」

 面と向かって訊かれては裕也も迷惑とは言えず、末宮橋で降ろしてもらう約束で車に乗り込んだ。問われるままに名乗り、父のことも喋った。ところが、裕也に意識があったのはそこまで。あとは覚えていない。ふたたび目覚めたのはやけに豪奢な部屋の長椅子の上だった。

 「びっくりなさったでしょう。だけど、こうでもしなきゃ家へ来てくれないと思って。許して頂戴」

 先程の女が言った。裕也はどうにか辻褄の合う答えを見つけ出そうとした。
 通りすがりの、見知らぬ女。裕也はいつもの小遣い稼ぎにその女を選んだ。「母さん、母さん」と切迫した声で呼び、袖を掴む。女が振り返ったところで人違いを詫びれば、それだけで数千円の小遣い稼ぎになるはずだった。それが、見事に失敗した挙げ句、不覚にも騙されてしまったのである。

 「仰る意味が、わかりません」
 「ええ、そうでしょうとも。貴方は何も知らないもの。」
 
 裕也はますます首をかしげた。人出を当てこんで荒稼ぎするはずの半日を、まったくの骨折り損で費やしてしまった。パフェを奢ってもらったほかはまだ一銭にもなってやしない。口惜しくなった裕也は、その部屋の金目のものを手当たり次第に盗んでしまいたいと思った。どれもこれも値がはりそうなものに見える。
 カーテンは蔓草を織り浮かした緑の生地で、琥珀色の絹糸を丁寧に撚った房飾りで束ねてあった。壁際の棚には、白磁に青絵を施した大皿や花瓶などがいくつか並び、グリルを百合か水仙のもようにしつらえたラジオが、麗しく置いてある。椅子の覆いやテーブル掛け、電灯にいたるまでどれひとつとして安物はない。ただし、裕也の暮らしには不要なものばかりで、欲しいと思うものはなかった。
 
 「ともかく、僕はこれで失礼します。」
 「急いでるの」
 「ええ、小宮で5時に人と会う約束を」

 裕也は言いながら飾りたてた部屋を見回して正面と左右に三つある扉の、どれが玄関へ通じているだろうかと密かに探った。

 「お気の毒だけど、とうに5時を過ぎてるわ」

 裕也は改めて窓の外を見て、西の空へ沈みかけた太陽を認めた。

 「ねえ、聞いて」

 裕也は急に真剣な素振りを見せる女に向き合った。

 「貴方は、私の、息子なの」
 「冗談もほどぼどになさって下さい、帰ります」

 裕也は苦々しく席を立ち、女のもとから離れようと一歩出た。電車が通る最寄りへ行ってしまえばこの家と縁が切れる。それより、舗にほったらかしにした清彦に、己の失敗をさんざんからかわれるのは疑いなく、気分が重い。裕也はいつしか溜め息を漏らしていた。

 「要さんが、貴方の本当の父親でなくっても」

 裕也の喉がごくりと波打つ。女の言葉が何かのスイッチだったかのように、あるいは歯車がカチンと合わさった瞬間のように、直後に裕也は、逃げよう、そう心に決めた。裕也は足早に歩を進める。女は追いかけはしなかった。ただし裕也の背に向かって吐くように言葉を出していく。

 「病気で亡くなったのは末っ子。貴方は長男なの。要さんは、私の夫の弟なのよ。色々あって、こんな形になってしまったけれど、……一緒に暮らしましょう!」

Re: 金の指輪、銀の指輪 ( No.3 )
日時: 2019/01/13 17:06
名前: 雪舟

 あの晩、裕也は電車でアパートの家に帰った。要には無断で外泊したことを叱られた。千代子に祐也がいない間の要の取り乱し様を聞かされた。清彦にはさんざんからかわれ、これからも飽きるほどからかわれるだろう。
 夜になり、飯を食い終えた千代子が仕事に行こうと家を出た。

 「あら、要さん宛に届いてるわ」

 玄関にぽつんと置かれた鉢は、宛名だけがかかれていた。千代子の声に裕也も要も鉢を覗きこむ。凛と淋しく首を垂れた白い花が、植えられていた。

 「なんていう花なの」
 「鈴蘭」

 千代子の無邪気な質問に花の種類や名前なんかには無頓着なはずの要が答えた。

 「あんたが知ってるなんて…あ、わかった、いわくつきの花なのね。ね、そうでしょう、いいなさいよ。」

 要は黙りきってよそを向いた。千代子は裕也に耳打ちする。

 「ねえ、あんたなんか知らないの。」
 「知るわけないだろ。これは清彦んちのだよ。売るほど家にあるさ」

 裕也は嘘をついた。

 「なあんだ、」

 千代子は残念そうに言うと今度こそ家を出て仕事に向かった。直後に裕也は靴箱の上に千代子の口紅があるのに気づく。仕事柄、必要なもののはずだ。今から行けば充分追い付くだろう。

 「あいつ、忘れ物したみたいだ。届けてくる」

 要にそう言って裕也は千代子の後に続く。要の、話がある、それだけが聞こえた。角を曲がったところであの女とすれ違った。二人の間を鈴蘭の香りが通り抜ける。女は祐也のことを一瞥もせず、小窓の方を向いていた。小窓の向こうでは要が煙草を弄んで、吹かしていた。

Re: 金の指輪、銀の指輪 ( No.4 )
日時: 2019/01/18 21:33
名前: 雪舟


 「もう、やめないか、こういうの」

 裕也は清彦から視線をずらしながら呆れたように言った。
 祐也と清彦は、祐也が女に騙されて果たせなかった約束をもう一度取り決め、丁度小宮の舗で稼ぎを比べていたところだった。結果は僅差で祐也の勝ち。ざっと四万ほどだった。

 「こういうのって」
 「だから、騙して金とることだよ」
 「…何かあったな?」

 清彦は一瞬きょとんとしていたがすぐに口の端を上げて瞳をぎらつかせた。清彦は暇潰し程度にやっていたのだから、いつ終わっても気にはならなかった。しかしこうも唐突なのは怪しい。裕也に何があったのか、清彦は興味津々だった。
 
 「別に、何も」
 「うっそだあ、だって可笑しいだろう。突然金持ちになったわけでもあるまいし」
 「……」
 「……」
 「……」
 「まさか、本当なのか」

 こくん、と裕也は頷く。以前、視線は清彦からそらしたままだ。清彦はゆっくりと目を見開き、席を立ち上がって机に手をつき前のめりになる。おでこがくっつきそうなほど顔を近づけた。

 「お、おま」
 「聞け聞け聞け、一旦聞け」

 裕也は気持ち悪そうに顔を引き、清彦を落ち着かせようと少しでも平静を装う。内心は裕也もかなり混乱していた。清彦は席につき驚きのあまり呆けている。

 「母さんが、いたんだ」

 ぴくっ、と清彦が反応し真面目な顔になった。

 「富永さんっていうんだけど、なんか、裕福らしいんだ。それで、これから一緒に住まないかって、提案されて」
 「どこで」
 「え?」
 「どこに住むんだ」
 「まだ住むって決めた訳じゃないけど……蓮宮」

 裕也たちが住んでいるのは小宮。蓮宮は末宮を挟んだ東にある。それでも県内で、電車で一時間とかからない。清彦はケロリと顔色を変えて言う。

 「なんだ、そんなに遠くないじゃないか」
 「うん……」

 対して裕也は元気がなかった。うつむき、清彦と目を合わせない。注文したアイスクリームは溶け始めていた。グラスの水滴が落ちる。二人の間には沈黙が流れ、気まずくはなかったが雰囲気は今までになく暗かった。

 「行くか」
 
 清彦が突然被ったような明るい声を出す。裕也は顔を上げた。

 「蓮宮に行ってみよう。これから住むかも知れないんだし、偵察だ。街の雰囲気ぐらい覚えとけ」
 「え」

 裕也は事態が急過ぎて理解できなかった。しかし清彦は祐也の手を握ってぐんぐん波のような勢いで進んでいく。勘定を済ませると一直線に駅へ向かい、電車に乗った。年季の入った車両には祐也と清彦以外、誰もいない。裕也はあっという間の出来事に追い付いていけず、ぼうっとしていた。窓から外の景色を見ると、雰囲気が変わるのがわかった。小宮と蓮宮ではさほど遠くないのに、雰囲気や街並みががらりと変わる。蕭酒な彫刻が施されたランプの街灯、橙や茶の煉瓦が敷き詰められた路、清潔で小洒落た品の良い店、何もかもが違う。ここで住むのだと思うと吐き気がしそうになった。
 清彦をちらりと盗み見ると、少し猫背のところは相変わらずで、瞳には強い意志があった。手は繋がれたままだ。

 「蓮宮ー、蓮宮ー」

 アナウンスが閑静な車内にこぢんまりと響く。二人は電車を降りて高塔に行った。そこは蓮宮の街並みや海が見渡せることで有名で、春先は観光客でいっぱいになるほどだった。裕也はなぜそこに行くのか知らない。ただ清彦についていけば大丈夫だと思った。エレベーターで最上階までのぼると、扉が開いた瞬間からガラス張りの向こうに澄んだ青空と山々、その先には海が見えた。

 「ほら、見てみろよ」

 清彦が指差したのはコインを入れると30秒だけ景色を見れる双眼鏡だった。裕也は言われるがままに財布からコインを出して入れる。双眼鏡を覗くと蓮宮の街並みが拡大して見ることができた。
 紅葉が終わりかけた、まだ朱色が残る山々。冷たいせせらぎが聞こえてきそうな川。きらきらと輝く海の地平線からは夕日が出てきていた。
 ここで、暮らすのか。裕也は端的にそう思った。蓮宮は綺麗だ。自然も街並みも美しい。何より富永家についていけば生活がずっと楽になる。もう衣替えや散髪代にいちいち困ったりはしない。 

 「おい」

 そしたら学校も苗字も変わる。出来なかったことが、諦めていたことが、出来るようになる。ゲームも本も、好きなものが買える。

 「おいってば」

 清彦が無理やり祐也が覗いていた双眼鏡を剥ぎ取る。裕也は泣いていた。

 「もう見えてないだろう」

 清彦の言った通りだった。とっくに30秒は過ぎている。それでも祐也が双眼鏡を覗くのをやめなかったのは涙を見られたくなかったからだ。裕也は顔が見えないようにうつむく。清彦は祐也の手をとり、ずかずかと大股でエレベーターの方に向かった。その間祐也の顔は見ないでいてくれた。エレベーターで下に降りると駅に行き、電車にのる。電車に乗っても裕也は涙が止まらなかった。

 「俺、嫌なんだ」

 ぽつりと裕也が言った。夕陽が二人を照らしていた。車内に祐也の震え声だけが響く。

 「清彦と別れるの、嫌だ。たかが電車で一時間って思うかも知れないけど、でも、俺は嫌なんだよ。嫌だ。清彦と別れるの、」 
 「小宮ー、小宮ー」

 二人は手を繋いで電車を降りる。小宮は丁度会社や学校から帰宅する人や子供を幼稚園に迎えに行った帰りの親子などでそれなりに人が多かった。二人がいつも別れる角にきたが、手は離せなかった。裕也は涙を拭っている。清彦はそれをじっと見ていた。裕也が嗚咽を繰り返す。蚊の鳴くような声だった。

 「き、よひ こ」
 「俺もやだよ。祐也のことが好きだから嫌なんだ。離れたくない。」
 「、うん、」

 このまま二人きりで遠い所へ行けたら……二人はそう思って、でも口には出さなかった。繋がれた手だけが、温かかった。
 

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