複雑・ファジー小説

すばる(9/18投稿分にてミス有、修正済み)
日時: 2020/09/18 20:32
名前: 厳島やよい

 あいつが不幸になってくれたおかげで、僕は幸せでいられる。
 だれかが死んでくれたおかげで、わたしたちは生きている。


       ◇

執筆開始 2020.8.22(書き直し二回目※)
執筆終了 2020.9.11
投稿   2020.9.13 〜

イメージソング 『EGO』小林未郁
原作※イメージソング イメージエンディング 『Time Forgotten』Brian Crain & Rita Chepurchenko
 ※あとがき・解説参照


 雨宮 昴琉(アメミヤ スバル)…二十二歳、男。地元のレストランチェーンで働いている。

 相馬 葵(ソウマ アオイ)…二十歳、女。翻訳家になるのが夢。予備校生

 相馬 翠(ソウマ ミドリ)…アオイの母。未亡人。

 雨宮 千嘉(アメミヤ チカ)…スバルの四つ歳上の兄。


 暴力描写、若干の性描写などがあるため、苦手な方は閲覧をお控えください。
 また、本編中の文字化けは意図的なものです。ご了承ください。
 
 

Page:1 2



Re: すばる ( No.2 )
日時: 2020/09/14 20:17
名前: 厳島やよい


 アオイと出会ったのは、十九歳の春、つまりは二度目の高校二年生になったときのことだ。僕の通う、隣町の通信制高校に、アオイは入学してきた。十七歳になる、高校一年生として。
 小さなビルの一室であるあの学校には、わけありな生徒たちがたくさんいた。怪我や病気で進学が遅れたり、勉強についていけなくなった人、普通制高校を退学せざるをえなくなった人、不登校や引きこもりの経験者。もう一度学びたいと門戸を叩く中卒の大人も、ときどきいる。僕もアオイもそんな、わけあり、のひとりだった。
 はじめて声をかけられたのは、まだアオイが入学してきたばかりの頃。昔の知り合いに似ているといった感じのことを言われたけれど、僕にはまったくおぼえがなかったので、人違いだとあしらった。
 二度目に声をかけられたのは、それから半年以上が過ぎてからだ。
 校内行事で撮影係にまわることが増え、キャンパス内の壁には、僕の撮った写真がたくさん掲示されるようになっていた。宿泊行事のとき、死んだ親の形見であるカメラを持っていったところ、写真を見た先生たちが撮影係に任命してきたのだ。彼らのすすめで出展したフォトコンテストで初入賞した作品が、すこしのきっかけでアオイの目に触れ、そのおかげで仲良くなることができて。僕の写真を好きだと言ってくれたんだっけ。三年生に進級する頃には、趣味で撮った作品たちを彼女に見せるのが日常の一部になっていた。
 ありがたいなと、思う。
 正直僕は、学校生活をだいぶしんどいと感じていた。そもそも公立高校を一度退学していて、再入学してからも単位が足りずに留年するという、わけありの中でも一癖はある人間だ。撮影係を任されたときも、面倒くさいことになったなと、内心頭を抱えてしまったくらいなのだけど。僕の写真を、いつもきらきらした笑顔でまっすぐに褒めてくれるアオイの存在に、とても救われていた。いつのまにか、学校に行くことや他人と関わることが少しだけ楽になっていた。進路に悩んでいた僕をいまのアルバイト先に誘ってくれたのも、アオイだ。
 だから僕は、身におぼえのない、自分とよく似ているらしい「すぅくん」になろうと思った。普段からすすんでそう呼ばれるわけではないし、ときどき彼女が「すぅくん」を望むくらいならべつにいいかなと思ったのだ。
 幸い店長たちに気づかれることなく、アオイもすぐに落ち着いたので、残りのドリアを僕の腹におさめてふたりで店を出た。十二月に入ったばかりだが、今夜はひどく冷え込んでいる。吐き出した息の白さが、いつもより濃い。

「ごめんねスバル。わがまま言って、食べてもらっちゃって」
「へーきへーき。ちょうど小腹すいてたし、よかったよ。きょうは車で来たの?」
「ううん、バス。もうないから歩いて帰る」
「え、このご時世でそれはまずいでしょう」

 きみは殺されたいのかい。そう訊いてしまいたくなる。
 僕は自転車通勤だけど、二人乗りは交通ルールとか以前にそもそも自分がきついし、おたがい家も反対方向だ。へとへとになる未来しか見えない。ここは、歩いてでも「送ってくよ」「いい」なぜか急にご機嫌ななめな様子になり、ひとりで道に出てしまった。
 出入り口のすぐそばにある駐輪場で、急いで鍵穴を探っているのだけど、暗いせいでよく見えず、なかなか鍵がささらない。

「アオイっ」

 待ってよ、と声をあげても、彼女は走り去っていく。ようやく自転車を出せた頃には、その背中はずいぶん小さくなっていた。ツンデレ属性の持ち主でもないし、追いかけてきなさいよ、なんて意思表示には到底見えない。むしろ追いかければ僕が殺されそうな勢いだし。諦めよう。
 首都圏内とはいえ、そんなものは名ばかりの淋しい地域だ。現に、まだ十時過ぎなのに人通りはないし街灯も少ないし、店の周りにも民家はあまりない。ここから南の方角、海のほうへ向かえば向かうほど、その傾向は顕著になっていく。

「まじで気をつけて帰ってよー」

 南のマンションを目指して駆けていく後ろ姿に向かって、叫ぶだけにとどめておいた。



       ♪


 お母さんは、どうして死ななきゃならなかったんだろう。
 警察から連絡が来て遺体の本人確認をしたあとから、ずっとずっと考えていた。だれが殺したのか、よりも、なぜ死んでしまったのか、という問いが頭の中を埋め尽くしていた。考えていたらどんどん体が動かなくなってきて、なんにも食べたくなくなって、眠ることもつらくなった。なんだか中学生の頃の自分みたいで、わたしがどこにいるのか、わからなくなる。悲しいってどういうことか、わからなくなる。
 三歳のとき、お父さんが死んでしまってから、お母さんは女手ひとつでわたしを育ててくれた。ひどく言葉が遅くても、叱ったりしないで待っていてくれた。わたしのせいで仕事をクビになっても、絶対に八つ当たりしなかった。
 中学校でいじめられて、学校に行けなくなったときも、外に出られなくなったときも。

「アオイがいてくれるだけで、わたしは、きょうまで生きててよかったなあって思うの」

 お母さんはよくそう言って、わたしを抱きしめてくれた。
 そんな人にここまで育ててもらえて、わたしは幸せ者だと思う。お母さんの娘でいられて、よかったなあと思う。
 いっぱいいっぱい、辛い思いをしてきただろうから。いっぱい、いっぱい、悩んできただろうから。両手に抱えきれないくらいたくさんのものをもらってきた分、こんどはわたしが、お母さんにたくさんのものをあげられるようになろう。二十歳の誕生日を迎えたとき、そう自分に誓ったばかりなのに。
 最後のいってきますを聞いた朝、お母さんはあんなに元気だったのに。
 どうして。
 どうしてわたしだけが、いまもこうしてのうのうと生きているんだろう。
 本当は、わたしが死ぬべきだったんじゃないのかな。
 布団のなかで朝になるまで毎晩考えていた。いきたい大学がようやく決まって、今年から通いはじめた予備校にも、受験が近づいているというのに足が向かなくなっていた。
 きっとこのままじゃ、わたしはおかしくなってしまう。ひさしぶりの長い夢から目覚めてそんな危機感に襲われた。そして真っ先に頭に浮かんだのがスバルの顔だった。急いでシャワーを浴びて、着替えて、それだけでもうへとへとだったけれど。世界に馴染めるようにせいいっぱい身だしなみを整えて、バスに飛び乗った。
 わたしの世界はどうしようもなく変わってしまったけれど、スバルは何も変わっていなくて。お母さんが死んでから、はじめて泣いた気がする。あんなに泣けるんだあって、すこしびっくりした。
 でも、やっぱり、スバルがお母さんのことを何も覚えていなくて、むかついてしまう気持ちのほうが大きかった。彼はなにも悪くない、そんなことは重々承知している。

「……うそつき」

 頭と心と体が、てんでばらばらだ。走っていても歩いていても、足がふわふわしている。
 どこのだれかもわからない人間に殺されるくらいだったら、スバルが犯人ならよかったのに。わたしも彼のように、自分に都合の悪いことはぜんぶ忘れてしまえればいいのに。頭と心の間にある場所で、最低な考えが浮かんで消えていく。
 数少ない街灯に照らされて、ため息が花のように広がった。立ち止まってあたりを見回しても、だれもいない夜があるだけ。こんな寒いさみしい夜に、痛みにたえながら死んでいったのであろう、お母さんを再び思った。

「あーおーいーちゃ「ひゃっ」

 隣から、声がした。

「そろそろこっちの世界に戻ってきました?」

 振り向くと、いつのまにかそばに停まっている黒の乗用車の窓から、若い男が顔を出していた。あんまりきれいに笑顔をつくるものだから、若干の薄気味悪さを覚える。
 見覚えが、あるような、ないような。

「なに、だれ?」
「ひどいなあ。雨宮千嘉ですよ。きみもスバルと同類なわーけ?」
「ああ……」

 スバルの四つ歳上、つまりは二十六歳の兄。片手で数えてもおつりが来るほどだが、これまで何度かの面識はあった。
 遠くから見れば、なんとなく似ていそうな感じだ。顔面偏差値はこいつのほうが高い。スバルが不細工だというわけじゃないけど。たしか彼は父親似だと言っていたから、チカは母親似なんだろうな。

「どの面さげて帰ってきたんですか。ここはもう、あなたのすむ場所じゃないはずですけど」
「べつにあいつのアパートには行きませんよ。ちょっと懐かしくて帰ってくるくらい、いいじゃないですか。アオイちゃんこそ、よくひとりで夜道を歩けますよねー」

 完全に偶然だったけれど、よかった、スバルを振りほどいて来て。もしここに彼がいたら、文字通り発狂しかねないだろうから。

「おうちまで乗せていこうか?」
「結構です」

 関わるだけ時間の無駄だ。帰って寝よう。眠れるかどうかは別として。
 それに、知らない人に限らず、知っている大人でもかんたんについていってはいけません、って子どもの頃に習ったもんねえ。なにしろ、防犯ブザーを鳴らしても助けに来てくれる人なんていないような地区に住んでいたし。

「殺されたんでしょう」

 歩き出して数秒で、チカが大きな声をあげた。

「ミドリさんが、殺されたんでしょう」

 思わず、振り返ってしまう。
 連続殺人の被害者と、まだ決まったわけじゃない。それもあって、メディアでは匿名報道にしてもらったはずなのに。どうしてこいつが知っているんだ。

「五丁目のスーパーの近くなんじゃないですか、きみのおうち。ご近所の主婦が噂していましたよ。怖いよねえ、女の情報網って」

Re: すばる ( No.3 )
日時: 2020/09/15 18:36
名前: 厳島やよい




 すこしコンビニに寄りたいと言われたので、車の中で待っていることにした。どう考えてもそこまで広くなくたっていいだろう、と思わずにいられない駐車場には、チカの車しか停まっていない。もしかして、店員はここに住んでいるのかなあ。……冗談だ。
 FMラジオから流れる音楽が、さっきレストランで聞いたのと同じ曲だと気づく。この数か月、どこに行ってもこの曲ばかり流れているものだから、好きでもないのにおぼえてしまった。

「お待たせ。注文通りに買ってきましたよ」
「ありがとう、ございます」

 ちいさなビニール袋を提げて帰ってきた彼が、温かいカフェオレの紙コップを手渡してくる。頼んだとおり、ちゃんと砂糖も入れてあった。チカはホットコーヒーの、わたしよりひとつ大きいサイズを買ったらしい。
 先ほどスバルに事件のことを話したが、反応が芳しくなかったこと。高校生になって彼と再会したときからいままで、自分を思い出してくれたことは一度もなかったこと。それも含めて、これまでの一連の出来事はすべてチカのせいだと言っても過言ではないだろうと、さっき、つい感情のままに彼を責めてしまった。チカは黙ってわたしの話を聞いていた。
 家族の不幸に、結果的にわたしまで巻き込む形になってしまったのは申し訳ない、とチカは謝罪した。「それだけは謝ります。ですが兄弟間の問題については、ミドリさんならまあともかく、アオイちゃんに口を出される筋合いはありませんよね」と。あくまでも平淡にそう言われて、わたしは途端に恥ずかしくなってしまった。その通りだ。お母さんはあのとき、不幸の真っ只中にいたスバルを救いだしたけど、わたしは何もしていない。口を出す資格なんて最初からないのに。

「さっきのことは気にしないでください。アオイちゃんの言うことは正論ですから。ミドリさんもきっとそうおっしゃるでしょう」

 お詫びにカフェオレを奢っていただいてしまったものの、顔があげられない。

「もしよければ、僕らの実家に来ませんか。弟のアルバムなんかお見せしますよ。もちろん、彼には秘密ですけどね」
「え」
「本当はミドリさんに見せてあげたかったのですが、いろいろな意味で殺されそうでしたし、そもそも、もう……ねえ」

 苦笑しながら暖房を弱めるチカを、見上げた。
 まさか、それでこっちに帰ってきたのだろうか。

「どうかしましたか。あんまり美味しくなかったですかね、それ」
「い、いえ、なんでもないです。あのっ、明日にでもお邪魔していいですか? すぐ帰りますから」

 慌てるわたしを、きょとんとした顔で見ている彼の視線が気まずく思えて、残ったカフェオレを一気飲みする。

「構いませんよ。僕も明日中に片付けたい仕事があるので、人の目があると非常に助かります」

 ゆっくりしていってくださいね。チカはにっこりと綺麗に笑って、こたえた。

 スバルがはじめに通っていた公立高校をやめて、編入してから、あの実家は彼の中でもう存在しないことになっているらしい。同じように記憶を書きかえ、両親とともに死んだことにされている兄がそう語る。
 チカが県外に引っ越し、二度目の入学と同時にスバルも独り暮らしをするようになってから、ときどきお母さんが掃除しにいっていたのは知っていた。でもそれは初耳だ。地雷を踏んでしまわないように、家庭環境のことはほとんど直接訊いてこなかったから。
 残された家財もほとんど手付かずなため、そろそろその処分も考えなければいけない。ハンドルを握りながらそんなことを話す隣で、ゆるやかに、けれども確実に膨らんでいく眠気にさいなまれながら、ぼんやり昔のことを思い出していた。
 きのう、あんなに寝たのに。ちょっと睡眠負債がたまりすぎたかなあ。



       ※


 六年ぶりの実家に担ぎ込んだアオイが目を覚ましたのは、日付が変わって三時間も過ぎてからのことだった。かつてのスバルの部屋に、適当に縛って閉じこめておいたものの、待ちくたびれてこちらまでうたた寝してしまったくらいだ。カフェオレに仕込んだ眠剤、けっこう弱いはずなんだけどなあ。
 田畑に囲まれている辺鄙な地区の戸建てだし、百メートルは離れている近所の住民も、耳や脚の不自由な年寄りしかいない(まだ生きていれば)。けれども念のため、口にガムテープを貼り付けておいたので、事態を把握し呻きはじめた彼女に気づくのが少々遅れてしまった。

「仕事はとっくに辞めたんだ。俺の個人的な目的を果たすために、あの人たちに迷惑はかけられないからね」

 アオイの荷物は黒いポシェットの中の、バスの定期、財布に入った数千円の現金とレストランのクーポン券、そして携帯電話だけだった。彼女の細い身体を床で転がし、うしろに縛った手の指で、指紋認証をかいくぐる。
 何か言い返してくるが、どうだっていい。きちんと足も縛ってあるから、抵抗したって無駄なのだ。

「それにしても、母親が死んで自暴自棄だからって、あまりに無防備なんじゃない? 簡単に引っ掛かりすぎ。もうちょっと警戒心持とうよ」

 幸い、SNSのアプリには暗証番号も必要なかった。昨日の二十三時頃、スバルで間違いないであろう人物から〈無事に着いた?〉とメッセージが届いている。とりあえず少しは休みたいし、準備もあるしで、既読無視することにして待受へ戻した。
 僕が何をしているか、わかったのだろう。返事を送ったとも勘違いしているらしく、アオイがより一層激しく暴れだす。

「おまえさあ、拉致られてるって自覚ねーだろ」

 それでもしつこく膝で足元に蹴りを入れようとしてくるので、ポケットに携帯をしまってから、彼女を押さえつけて馬乗りになった。

「俺、女なら誰でもいけるたちだから。あんまりうるせーと襲うよ。いいの?」

 その言葉に、強気な目を向けつづけていたアオイが顔色を変え、すぐさま抵抗をやめた。自身の置かれている状況と、立場を、ようやく理解したらしい。
 性暴力を受けることは、人間にとって最大の屈辱だと思う。身体的、精神的、経済的なそれよりよほど破壊力があって、老若男女が行使することのできる、最低辺の暴力。優越感や、刺激や快楽を得ることも、被害者の心や人生を壊すことも、口を封じたりその上で自分に繋ぎ止めておくことも、すべてがほぼ確実に、手っ取り早くできてしまう。母親の手の中で精通を迎えた僕にとってそれは、身に染みるほど実感できることのひとつだ。
 子どもの頃、学校の成績が少しでも下がると、母はヒステリックになって僕を叩いたり、無視したりした。でも、好成績を維持していれば違う地獄が待っている。どちらを選んでも悪い方向に転ぶ。あの人は僕に対して息子以上の感情と、行き過ぎた期待を抱いていたのだ。狂っていると思う。
 涙をため、怯えた目で見上げてくる彼女の顔が昔の自分と重なって、ひどく眩暈がした。
 母を責めようとは思わない。死人を責めたところで、なんの言葉も返ってはこないから。
 でも。
 勝手に僕を歪めておいて、自分はあっさりと先に死んでしまうなんて。
 ずるい。
 
 
 

Re: すばる ( No.4 )
日時: 2020/09/16 17:51
名前: 厳島やよい



 アオイを誘拐してから三日が過ぎた。
 おしゃべりで、僕に対して妙に強気に出ていた彼女も、二日目を迎える頃には完全に青菜に塩、といった感じだ。ううん……なんだかしっくり来ないけど、いいや。とにかくこれ以上塩をふりつづけたってしょうがないので、すこしの自由を与えることにした。
 鎖かなにかで動物を拘束して、逃げようともがけば電流をかける、抵抗しなければ何の危害も加えない。それを一定以上の期間つづけるとたとえ拘束を解いても逃げようとしなくなるらしい。学習性なんとかって、言ったっけ。違ったかも。人間でも同じようなことが起きると聞いたことがあるので、適当な判断だが縄をほどいた。まあ、それよりなにより、風呂に入れていないせいで臭かったからなのだけど。
 シャワーを浴びさせ、スバルの古着と最低限の食事を与えたあとは、再び弟の部屋で縛りつけておいた。あくまでも彼女は、僕が果たしたい目的のために存在する人質でしかない。自身の立場を忘れられても困ってしまうから。
 アオイはクローゼットにもたれ、窓の外の夕焼けを見つめている。何を考えているのかその横顔からは察することができなかった。母親のことかもしれないし、この部屋の主のことかもしれない。
 それにしても。
 ずっと無視を決め込んでいるというのに、スバルは一向になにも連絡してこない。もうこちらの準備は整っているというのに。しびれを切らす、とはまさにこういうことだ。無意識に、携帯電話とアオイの手をつかんでいた。

「なに、するんですか」

 ロックが解除されると同時に、彼女が振り向く。かすれた声でガムテープの貼り忘れをようやく思い出したが、例の学習性なんとかを信じることにしてそのままSNSを開いた。

「電話すんだよ、弟に」

 相手の動きがないのなら、こちらから向かっていけばいい。

「俺は、俺をあいつの兄だと認識させた上で、あいつを殺しにいきたいんだ」
「やめ……、やめてください!」

 通話ボタンに指をかけようとした瞬間、飛びかかられて、倒れこんでしまった。

「わたしは死んだっていいからっ、スバルに関わらないで! やなことを思い出させないで!!」

 つばをかける勢いで、叫ばれる。
 寒気がした。女に、自分の上に乗られるのは苦手だから。
 彼女はまだ何かわめき散らしていたが、耳鳴りがしてきて聞こえない。たまらず腹を蹴り飛ばして手近にあったタオルをその口の中に押し込んだ。

「びーびーうるせーんだよ、ほんとにさぁ」

 机のペン立てに、カッターナイフのあるのが見えたから。
 アオイに乗り上げて、錆びた刃先でその腕を切りつけた。ぎゃあっ、と動物の鳴き声みたいな音が聞こえて、白いパーカーの袖が裂けたところからじわり、色づいていく。同じように死にたい気持ちもどこからか沸き上がってきた。
 強引に彼女の服を下ろして、汗で湿った肌に爪を食い込ませる。嗚咽を漏らす表情を、直視できなかった。まあ、見る必要もないが。

「言ったことはちゃんとするから。その覚悟があるんだろ、おまえには」

 痛みでのたうち回るアオイを押さえつけて、吐き捨てた。最底辺の暴力を、おまえに振るうと。宣言なんて良心的過ぎたかもしれない。いまから殺しますよ、いまから襲いますよ、なんてふつうの犯罪者は言ってくれないもんな。相手の反応を楽しんでなぶり倒すようなキ××イならともかく。
 こいつを刺し殺していっしょに死んでしまおうかとすら思った。でも、今こいつと死んだって、どうせスバルは。どうせスバルは死なないし、あのときみたいに記憶を上書き保存して、僕のこともアオイのことも、都合よく世界から消し去ってしまうかもしれない。僕は、なんにも忘れることなんてできなかったのに。
 ちゃんと不幸になってもらわないと。僕から奪った幸せの分。だからそれまで、生きなくちゃ。"死にたい"を、なくさなきゃ。
 だから必死に、機械的にでも、塗りつぶして、沈めて、快楽を求める。
 僕も所詮、あの狂った人間の息子なんだなと思ったら、ことが済むまで涙が止まらなくなってしまった。


「もしもーし、スバルくん。相馬ミドリを殺した、雨宮チカっていう者なんですけどー」


       ※



「…………は? 兄は死んでますけど。ご友人ですか? なんで、アオイの、」
『だから、おまえの兄さんだよぉ。頼むからさー、勝手にひとを亡霊にすんなー』

 どこか気だるげな、ねちっこい男の声が受話器から耳に伝う。わけがわからなかった。
 きょうは早上がりなので、休憩室でゆっくり、夕飯がわりのピザを食べてから帰り支度をしていたのだけど。携帯電話の通知ランプがいつもよりたくさん光っているので見てみたら、連絡の途絶えていた(既読はついたので、無事だろうと思った)アオイから五回も不在着信があって。何事かと思っているとまた携帯が震えたので、電話に出たらこの様だ。
 うしろでうめき声のような音が聞こえる。だれかが彼の近くで嘔吐しているのだと、すぐにわかった。ときどきレジ前で戻す客がいるのだ。とくに子どもが多いけれど。

『きみの大事なアオイちゃんを拉致っちゃいましたー。彼女を殺されたくなければ、今夜0時にひとりで海浜公園まで来てくださいねー、ひとりでだよーーーっ』
 
 一方的に通話を切られる。アオイを、兄さん、が、誘拐、した? いつ。どうやって。なんで、なんでなんで。
 眩暈がしてきて、ロッカーの前で座り込んだ。手にうまく力が入らず、携帯電話を何度も床へ落としてしまう。
 たしかにどうしようもなく、あれは兄の声だ。六年前、僕たち四人家族が巻き込まれた交通事故で亡くなったはずの、雨宮チカの声。

「どういう、ことだよ」

 僕は疲れているのだろうか。よくできた幻聴と妄想だな、小説一本は書けるぞ。そんなことを考えてはみたものの、最後に一瞬だけ聞こえてきた叫び声も、おそらくアオイのものに間違いなかった。
 現実逃避をしていても、しかたない。アオイを助けにいかないと。

「雨宮せんぱーい、なんかあったんすかー?」

 カーテンの向こうから、休憩に入ったばかりのカルボナーラくんこと、岸くんが訊いてくる。慌てて荷物をまとめ、靴を履き替えて更衣室から出た。

「なんでもないよ。 ……あれ、今日のメインはドリアなんだ」
「二食連続はちょっちきついですから、へへっ」
「相変わらずよく食べるよねー」
「食べ盛りなんです! これでも削ってるんすよ」

 爽やかな笑顔がまぶしい。今回のメニューは、海老サラダとミートドリアと日替わりスープとスパイシーチキン、のようだ。
 そういえば、内定をもらって論文も書き終えているからもう暇なんだとか言っていたっけ。それでシフトを増やしたのか。僕ならぜったいに遊び呆けている。カメラ片手に四十七都道府県全制覇! とか、引きこもってゲーム三昧! とか(それができる経済力の有無はべつの話だ)。
 生前、父が酒を飲むとよく、公務員になれと口うるさく言ってきたのを思い出した。壁にかけられたシフト表を眺め、今月分の自分の給料をざっと計算して、息をつく。岸くんは、初任給でこの額を追い越してしまうんだろうな。
 僕には、そんな当たり前を叶えられそうにもない。だから素直に尊敬してしまう。

 退職代行サービスって、即日でも頼めるかな。

「改めて、おめでとう」

 チキンを頬張っていた彼が、目を丸くして振り返る。
 僕が死ぬことになっても、兄を殺すことになっても、アオイを取り返しにいかなきゃ。大好きなこの場所を、この人たちを、僕のちいさな世界を、守るために。

「ありがとう、ございます?」
「じゃあもう帰るわ。お疲れ様」
「あ、あのっ、スバル先輩!」

 休憩室の扉に手をかけようとしたとき、がたんっ、と椅子を蹴飛ばして岸くんが立ち上がった。
 スープが若干こぼれているのも気にとめず、まっすぐな笑顔を向けてくる彼に、特別な意図はなかったのかもしれないんだけど。

「また、先輩のカルボナーラ、食べさしてくださいね」

 ………………あー、
 ああああああもう。

「うん」

 しょうがないな!

Re: すばる ( No.5 )
日時: 2020/09/17 18:12
名前: 厳島やよい



 なーんて、自分で自分に格好をつけてはみたものの。公園までの道中、これほどまでに心細いとは想定外だ。
 街灯も、人や車の往来もない、ただ広いだけの道を早足で進んでいく。海浜公園も約束の時間も、すぐそこまで迫っていた。
 敵は一人だが、おそらく僕よりも腕力があるし僕の味方だってだれもいない。家を出るとき、カッターナイフでもハンマーでも、なにか武器を持っていこうかと一瞬心が揺らいだけれど。こんな僕をこれまで信用してくれていた岸くんや、店長たちを、正面から裏切るようなことはしたくない思いが強かった。
 とにかく全力を尽くそう。
 携帯電話をポケットにしまって、公園へ足を踏み入れる。松の防風林をくぐりぬけるとすぐに、月明かりに照らされるだいぶ背の伸びた兄と、以前よりさらにやつれたように見えるアオイの姿を見つけた。やっぱり幻覚なんじゃないかと目をこすってみたけど、ちゃんと影がある。現実だ。

「にい、さん」

 かすかな波の音に紛れて、こぼれる声が、震えていた。
 目を細めるチカの足下にいるアオイは、僕が昔持っていたのと同じパーカーと上着を着ている。縛られているわけでもないのに、彼女はチカから離れようとしない。誘拐されていたというのは本当だった。
 僕はさらに二人に近づいていきながら、たずねた。

「兄さん、どうしてこんなことをしたの。お金が目的じゃないんでしょう。アオイのお母さんを殺したっていうのは本当? もしかして、兄さんは連続殺人の犯人なの? どうして……生きてるの」
「まあまあ、焦るなって。そんなにいっぺんに訊かれても答えらんねえし」

 へらへら笑いながら、チカは答えた。
 喉の奥に、苦味がこみ上げてくる。いやなことを思い出してしまいそうで、背中に冷や汗が伝った。もう十分冷えてます、間に合ってます。

「その顔が、俺は昔ッから大嫌いなんだよ」

 左の頬に重たい衝撃があって、流れるように芝生の上へ転んでしまった。いきなりグーで殴るか、ふつう。なんか遅れてじんじんしてきたし、口の中切れてるし、血は不味いし、うわあいてえ。

「俺よりも馬鹿なくせに、要領ばっかりよくて、呑気に生きてきやがって。俺は毎日毎日、親と先生の期待に応えるために必死に勉強して、いい兄ちゃん演じて、血を吐く思いで生きていたのに」

 ああ、子どもの頃もそんなことを言われて、同じように殴られてたっけな。両親はもちろん気づいていたけれど、決して兄さんを叱らなかったんだ。兄さんのほうが、僕よりずっとずっと出来がいいから。むしろ加勢して悪口とか言う人だったもんな、母さんなんか。……いまさら思い出した。これって走馬灯だったりして。

「父さんたちが死んでから、俺、すっごく虚しくなった。なんであいつらは先に死んじまうんだよ、なんで俺はおまえと生き残っちゃったんだよ」

 そんなこと、僕にきかれても。
 加害者はあのとき即死しているし、家族連れの車を殺すまで煽るような頭のおかしい人間のすることなんて、理解のしようがない。あ、そういうことじゃないか。
 何度も身体を蹴られながら、殴られながら、ぼんやりしてきた頭で考える。冷静に考えていられるのは、そのおかげかもしれない。もし正気だったら、発狂していたはずだ。あの事故のあとから、僕の脳みそでは変なスイッチが入ってしまったようで、兄さんの関わる記憶は地雷でしかなくなってしまったから。

「父さんも母さんも、大嫌いなのに。まだ生きている自分のことが許せなかった。あのときから、死にたくて死にたくてたまらなくなったんだよ、俺は。だから、俺のことを好いてくる女たちをいままで何人も道連れにしようとしてきた。でもあいつら、最後には俺のことを異常者呼ばわりして、みんな離れてくんだ。結局は嘘つきなんだよ。すぐほかの男に股開いてるしなぁ」

 孤独な人だな、兄さんは。

「それなのにおまえは、俺を家から追い出して勝手に存在まで消して、何事もなかったように生きててさ、くっそムカつく。俺ばっかりこんな思いして死ぬなんてまっぴらだ。どうせならおまえを不幸に突き落としてから死にたかった、だからミドリを殺しに帰ってきたんだよお」
「アオイの、おかあさん? どー、して、」
「あいつさ、死ぬ間際に笑ってたんだ。やっと会えるねって。馬鹿馬鹿しくて死ぬ気失せたよ。そもそもおまえは何にも覚えちゃいなかったし……もう何度死ぬのを諦めてきたのかな、はは」

 なんだか会話が噛み合わない。僕の声が聞こえていないだけなのかもしれないけど。
 拳は止まなかった。そんなに殴り続けていたら、兄さんだってかなり痛いはずなのに。

「だけど、いまの俺にはアオイがいる。このままおまえを殺して、アオイとふたりで一緒にいくんだ。最初からこーすればよかったかなあ!」

 襟元をつかんで叫ばれる。やっぱり無茶だったかな、手ぶらでボス戦に挑むなんて。
 空のてっぺんに浮かぶ、満月の光がまぶしい。なんだか気が遠くなってきた。

「ばいばーい、昴琉」

 意識を手放す直前、兄さんの笑う顔が見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。


 

Re: すばる ( No.6 )
日時: 2020/09/18 20:29
名前: 厳島やよい


 お気に入りのブランコと大きなすべり台がせっちされている中央公園は、家からじてんしゃで二十分くらいのところにある。かぞくのだれにも負けないように早く家にかえって、かぞくのだれにも内緒で、ほうかごは毎日公園にあそびにいっていた。家の中はいごこちがわるいから。
 小学校にあがって、お兄ちゃんはよく、ぼくを叩くようになった。お母さんはそもそもぼくを無視するし、お父さんも、お兄ちゃんをおこらない。でもお父さんは、ときどきひみつでおかしとかを買ってくれるから、すこし好きだ。
 もうすぐやってくるゴールデンウィークに、お母さんとお兄ちゃんは二人だけでおばあちゃんの家に行くと言っていた。きょう、帰ってからのことを考えるとゆううつになるけど、ゴールデンウィークのことを考えればとても楽しい。何度でもすべり台にのぼれちゃう。 

「お? めずらしいかおぶれ」

 八回目をすべろうとしたとき、下の広場に、見なれない親子がいるのを見つけた。年少さんか、年長さんくらいの女の子と、そのお母さん(たぶんきっと)。女の子はなぜか地面にしゃがみこんでいて、お母さんはその子に話しかけているように見えた。
 しゅーーーーーーーーっ、とすべりおりていって、ぼくは女の子に話しかけにいった。

「ねーねー、いっしょにあそぼーっ。ぼく、雨宮スバルっていうの。小学一年生。きみは?」

 女の子は、もじもじしながら黙って目をおよがせていた。ぼくを見たり、お母さんを見たり、地面を見たり。いそがしそうに目玉を動かしている。口はつぐんだまま。
 お母さんが、ごめんねえ、とやさしい声でぼくに言った。

「まだおしゃべりが難しいんだ」
「ふーん」

 ようちえんの星組で、そんな子がいたなーと思い出した。コマ回しと鉄棒が、すごくとくいな男の子。

「この子は、相馬アオイ。年少さんよ。わたしはアオイのお母さんで、ミドリっていうの。よろしくね」

 はいっ、よろしくおねがいします! とおじぎでもしようとしたら、アオイちゃんがいきなり立ち上がって、ぼくの手をひっぱって走り出した。
 あんまり遠くにいかないでねー。ミドリさんの声が小さく聞こえたので、空いている手をあげて、へんじをしておいた。

「うおおおお、アオイちゃん、ブランコに乗るの?」

 走りながら、大きくうなずく。こういう風にならおしゃべりできるのか。

「ブランコはにげないから、ゆっくり歩いてこう! ころんじゃあぶないでしょ」

 あわてて言うと、アオイちゃんは急ブレーキをかけた。ぼくのほうが転びそうになってしまう。あぶないあぶない。
 息を切らすぼくを見て、アオイちゃんが楽しそうにわらっている。さっき座っていたとき、なんだかかなしそうに見えたから、わらってくれたのがうれしかった。

       ◇


 これは、彼ら三人の物語。
 今夜限りで鮮明に彼のもとによみがえる、無かったことにされた、三人の記憶。



2.『ミドリ』


「スバルくん、いつもここで一人で遊んでたの?」
「うん。ときどきクラスの子とか、ようちえんのときの友達とかがいて、いっしょに遊ぶこともあるよ」
「そうなんだ」

 夏休みが始まって、子どもたちもだんだん暑さになれてきた頃。
 砂場でお城をつくるアオイを木陰のベンチで見守りながら、近くのコンビニで買ったアイス(二人分の容器を引っ張って外すやつ)をふたりで食べて、話していた。
 アオイは歯にしみるのが嫌で食べないので、代わりに彼女の大好きなフルーツヨーグルトを選んだのだけど、心配になるくらいの速さであっという間に完食して、砂場に走っていってしまった。物心ついたときから食べるよりも遊んでいたいタイプだ。わたしもそうだった。

「アオイちゃんとミドリさんは、この公園にくるようになったの、最近だよね?」
「……うん。駅のほうに住んでるから、ここからはちょっと遠いの。前までは北公園によく行ってた。となりがアオイの幼稚園だから」

 じゃあすみれ幼稚園かー、卒園してもいっしょに西小に通えないんだね、とスバルくんがさみしげに呟く。なんだか微笑ましいし、ありがたい。

「いつもの公園には知り合いがたくさんいて、息苦しくてね。アオイも同じ組の子は苦手だから、ここならいいかなあと思って、来てみたの。そしたら、スバルくんが声をかけてくれた」

 大きな瞳で見上げてくる彼のやわらかい髪を、そっと撫でる。天使みたいな笑顔の子だと、あのとき、思ったっけ。
 アオイがいてくれるから孤独を感じたことはないけれど。少しだけ、心細かったことは、不安だったことはたしかだ。
 夫が病死してから、もう二年が過ぎる。見上げた深い青空には、あの日とそっくりな、高い高い入道雲が伸びていた。うだるような暑さと、近くの木々にとまる蝉たちの鳴き声が、時間感覚を狂わせそうだ。
 精密検査で、脳幹近くに悪性腫瘍があるとわかったときには、もう手遅れで。ほとんど苦しめずに逝かせられたことだけが、不幸中の幸いだったと思う。
 夫の死後、決意した。だれがなんと言おうとも、わたしの手で、娘のアオイを育て上げると。
 けれども世間はそう甘くなかった。ただでさえ子持ちへの風当たりが強い会社に、シングルマザーの居場所なんてあるわけがなく。アオイがよく体調を崩すため、遅刻や早退、欠勤を繰り返していたところ、結果的に首を切られてしまったのだ。よく一年以上も持ちこたえたなと、部長には褒められたけど、半分以上嫌味だろう。
 その後、もちろんすぐに次の就職先を探した。ざっと三十回は面接を受けに行ったが、結果は全滅。断られた理由も、ほぼすべて同じ。おまえにできることは何もない、何もするなとだれかから言われているような気がしてきて、一旦すべて諦めることにした。
 思えば、葬儀のあとからなかなかアオイに構ってやれる暇がなかった。しばらくはゆっくり休もう。アオイのそばにいてあげよう。贅沢をしなければ、保険金と貯金を切り崩してやっていける。いまは、それがわたしの仕事なのだと、自分に言い聞かせつづけた。あの子の言葉が遅いのは、事実だ。でも夫が倒れてから、それまでできていた簡単な受け答えすらも難しくなってしまったのだ。
 ストレスのせいだろうから、ケアを続けていけばきっとまた話せるようになる。そう医者は言っていたものの、もし一生このままだったらと考えると、不安で仕方ない。現に幼稚園ではほかの子どもたちからいやがらせを受けていると、担任の先生から聞いているし。
 「パパがいないからふつうの子と違うんだ」「赤ちゃんみたーい」ひどいときは、そんなことをわたしの目の前で言われた。本人は当然言い返せないからストレスが溜まるし、わたしは彼らの保護者に開き直られたり、逆ギレされたりで散々だ。若い女だから舐められるのかもしれない。
 …………もしあのとき、癌を患ったのが夫じゃなく、わたしだったら。夫じゃなく、わたしが死んでいたら。
 こうは、ならなかったのかなあ。
 そんなこと、スバルくんに話したって迷惑なだけなのに。

「ぼく、ふたりに会えてよかったよ。ミドリさんが生きててくれて、よかったなって思うよ」

 あの日と同じ、天使みたいな笑顔で言うものだから。

「ご、ごめんなさいっ、アオイちゃんのお父さんが死んでよかったってわけじゃないんだ!」
「わかってるよ。ありがとうね、スバルくん。ほんとにありがとうね」

 苦しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。

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