複雑・ファジー小説

Re: 君を、撃ちます。 ( No.8 )

日時: 2013/03/21 22:06
名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ

 疲弊しきった僕は、バスタオルで体を包んだまま脱衣所でしゃがみ込む。一日でここまで疲れたことは、今までなかった。昔の記憶では朝から夜まで外を駆けずり回って、それでもまだ元気に「遊ぼう!」と周りを巻き込んでいた記憶しかない。
 のぼせ気味の身体がだるかったが、着替えが無いことを思い出しよたつきながらも脱衣所からでる。少し湿った足の裏が、ぺたぺたと音を立てフローリングに足跡を作っていたが気にすることはなかった。バスタオルを腰に巻いたまま、僕はゆっくりとリビングに入る。
 大きな窓を雨がぱたぱたと濡らしていた。僕はいつものようにテレビボードに置いてある小さなメモ帳とペンを手に取り、文字を書く。「少女」も「母親」も呼ぶのに分からない僕の名前を。メモ帳に書き終え、ペンをしまう。キッチンで料理をしている「母親」のもとに、歩いていく。

 とんとんと「母親」の肩を叩く。包丁を使い、魚のうろこを取っていた「母親」は僕を確認すると、裸同然の姿に口をぽかんと開けたが直ぐに表情を変え「どうしたの?」と笑顔で聞いた。僕は自然に開いた口を閉じ、手に持っていたメモ帳を「母親」に渡す。
 不思議そうな顔をしてメモ帳を受け取った「母親」は、僕が書いた疑問を見て驚いたような、悲しんでいるような表情を見せた。如何してそんな表情をしたのか僕は分からなかったから、じっと「母親」を見つめる。

「ペン、持ってきて」

 暫くしてから言った「母親」の言葉に頷き、僕はゆっくりペンを取りにテレビ台へと行く。数本置いてあるペンの中から、よく「母親」が使うピンク色のボールペンを持ってキッチンへ戻った。「母親」にペンを手渡すと、小さな子が書いたようなぐちゃぐちゃな字の下に「母親」の綺麗な文字が書かれていく。
 はい、と渡されたメモ帳を両手で受け取り書かれた文字を読む。漢字で「社木 伊吹」と書かれた上の部分に「やしろぎ いぶき」と書かれていた。それが僕の本当の名前なのかは、分からなかったが「母親」が書いた名前だったから僕は「社木 伊吹」という名前を使うことに決めた。

 ペンを元にあったところに戻し、湯冷めし始めた体を摩りながらリビングを出る。少し雨が弱まったのか雨音は小さくなっていた。階段を手すりを使って上り、僕の部屋へと入る。僕の名前が書かれたメモ帳を、ベッドに寝転がった状態で眺める。苗字も、名前も、何一つ知らなかった。
 僕の名前は伊吹だと、ずっと心の中で唱える。忘れてしまわないように、間違えてしまわないように。ふと「少女」が去り際に見せた悲しげな表情を思い出した。僕だけじゃ如何にも出来なかった「少女」の内の何かが、とても気になる。同時に、また来て欲しいなんていう淡い感情も現れた。

 せめて声が出せればと思いつつ、ベッドから下りクローゼットを開ける。同じ服しか入っていない中から、煤のような汚れがついた一枚を取り出し着た。他の服よりはワンサイズ大きく、僕の体に丁度合うとは言い難い。けれど、今はこれに一番惹かれた。バスタオルを手に持って、脱衣所へと向かう。
 階段を下りる途中に聞こえた談笑の声が「母親」と「少女」のものだと分かり、足元にバスタオルを置いた。音を立てないように階段を下りきると、玄関には予想通り「少女」が僕の「母親」と話していた。手に持っている赤い傘からはポタポタと水が垂れている。

「あ、××。今日から椿木ちゃん家に泊まるから、仲良くしてあげて」

 ――僕の名前は、伊吹で。社木伊吹って男で、それで、それで!
 上辺では笑顔を見せながら、パンクした脳内をどうにか整理しようとする。僕が今理解できているのは、名前が社木伊吹で性別は男ということだけだった。

「伊吹くん、さっきは急に帰っちゃってごめんね。それと、今日から宜しくお願いします。私、時雨 椿木(シグレ ツバキ)です」

 鮮明に聞こえた僕の名前に、騒がしかった頭の中がぴたっと静まった。「母親」の声では不鮮明だった僕の名前は、「少女」が呼べばすんなりと耳に入り、脳にまで伝わった。けれど「母親」の声がくぐもって聞こえたことは、一度も無い。
 不思議な気分になりながら、僕はバスタオルを拾い部屋へと帰った。

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