複雑・ファジー小説

Re: 君を、撃ちます。 ( No.31 )

日時: 2013/07/26 21:40
名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ
参照: 描けないなら創るまで

 目が覚めた。濡れた枕の感触を頬で感じながら、僕は白い壁を見つめている。目が覚めた、というよりも実際は無理やり覚めさせられたが正しいのかもしれない。ばたばたと騒がしい足音が、まだ完璧に目覚めていない僕の頭を揺さぶった。
 その跡は、僕の脳内レコーダーに保存されている。
 むくりと起き上がり、一日使わなかった脚で全体重を支えた。少しふらつきそうになったけれど、あまり問題は無いみたいだ。無意識に、指が首に巻かれた包帯の上を滑る。少しゆるく巻かれた、真っ白な包帯。僕は薄く笑って、扉へとゆっくり歩いていった。

 生きている実感を感じながら、扉をがらっと音を立てて開ける。ひんやりとした冷たく凍えた空気が、僕の周囲を飲み込んだ。騒がしかった足音は、ずうっと遠くで小さく聞こえている。耳を凝らさないと聞こえないほど遠い。
 けれど僕のひとみの先には、誰かが通ったあとは一つも残っていなかった。ひたすらに嗅ぎ慣れてしまったアルコールのにおいが、鼻腔をくすぐる。

 僕はどうしてか、あの足音の原因を知りたくなっていた。どれくらいの人数が、何のために朝早くからバタバタと駆けていたのか。不思議でたまらなかった。
 もしかしたら、僕の知らないところで誰かの目論見によって、この病院が乗っ取られてしまったのかもしれない。子供だましのそんな妄想が、僕の心を支配する。好奇心が、奥底からマグマのように吹き上げてくるような、恍惚感。
 骨が軋むような痛みに耐えながら、一歩ずつ部屋から遠ざかる。ひんやりとした空気が、僕の視界の全てを包み込んでいた。もう誰の足音も聞こえない。


 ――何だろう。


 本当に遠く。そう、遠くでよく覚えのあるぬくもりを感じた気がして、僕は足を止めた。後ろを見る。まだ、誰もいない。けれど小さく、本当に小さく、誰かの話し声が聞こえた。もう少し待ってみよう。
 手すりに寄りかかり、音の主がくるのを少しだけ待つ。たった少ししか歩いていなくても、もう足は棒のようだった。それでも運動してなかった頃に比べたら、まだマシなのかもしれない。首に巻いた包帯に指を絡めて、暇を潰す。家にいた頃は、いつも包帯を触っていた。何も思わないで、一日中触って時間を潰していたことを思い出す。


 懐かしい。

 
 思わず、ふふっと息がこぼれた。そうしてると、だんだん足音が近く、大きくなってくる。スニーカーじゃなくて、女の人がよく履くようなヒールのような音だと思う。
 近づいた、近づいた。僕はじっと音の方向を見つめ続ける。誰がくるのか、分からないけれど僕は見ていなくちゃいけなかったんだと思う。

 僕が見つめる先を、息を切らしながら走る女性の姿。何回か見たことがある、淡い桃色のスカート。手すりにつけていた背中は、自然と浮いた。無意識に、女性のほうへ体が向く。息を荒げながら、僕の進行方向だった廊下の先を見つめているみたいだ。
 僕は驚いたけれど「母親」に、いつものように手を振る。普段なら手を振り返してくれるはずの「母親」だが、今日はどうしてか手を振り返してくれない。思わず、眉をひそめてしまった。何よりも大事にしてくれた僕を気にすることが出来ないほど、何に焦っているのかと。

 僕を気にせず通り過ぎようとする「母親」が、無性に怖くて。ハンドバッグを持った「母親」の腕を、僕はぎゅっと握る。それでも「母親」は構うことなく走っていった。僕が掴んだと思っていたのは、「母親」の腕ではなくて、ただの虚空だったらしい。
 駆けていく「母親」の背中を見送っていると、後ろから看護師達の会話が聞こえた。

「今朝早くに運ばれてきた男の子、237号室の子にすごく似てなかった?」
「思ったわ、それ! 瓜二つ……双子なんじゃないかって思っちゃったわよ」
「でも、お母さん一緒よね? 本当に双子だったりしちゃって」

 クスクスと笑い声交じりの言葉を聴いて、僕は内心愕然とした。僕よりも、僕とは違う「僕」を「母親」が選んだかと、大切な人に見捨てられた悲しみが、大きな衝撃となって僕のことを襲う。
 痛いなんてものじゃなかった。体は、動こうとしない。動かない。たった一つで満たされていた心は、簡単に音を立てて崩れ去ったみたいだ。見捨てられても、涙は出なかった。

 母親が曲がっていった、廊下の突き当たり。本当なら今頃、僕があそこのあたりを歩いていたはずだった。好奇心に負けて、あの曲がり角を越えているはず。僕はそのまま、ぺたっと音を立てて床に座りこんだ。
 ひんやりと冷たい床が、僕の熱をじんわりと奪っていく。奪われる熱の中には、僕の感情や心の破片が混じっていたのかもしれない。音も無く、すっと流れていく僕の破片たち。何を思うことも、思わないことも、もう、できない。



 「椿木」……。


 たった一人の肉親に見捨てられた心が最後に呼んだのは、何故か「椿木」のことだった。好きでも嫌いでもない、とある「少女」の名前。なんのきっかけで知り合ったのかも、忘れてしまった。

 だけれど良い人だったのだろう。僕の脳内は、そんなことも分からないくらい、どろりと溶け墜ちてしまっていた。

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