複雑・ファジー小説

Re: 君を、撃ちます。 ( No.44 )

日時: 2013/12/14 22:10
名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ


第二話 『私』

 
 小さな世界が嫌いだった。空っぽの自分自身が、嫌いだった。私を取り巻いている環境は、小さい頃から何も変わっていない。息苦しい煙草のにおいとアルコールの混じった、汚い空気。
 私の周りにはそれしかない。そっと、顔に出来た痣に触れる。ぼうっと痣を撫でながら、自分の部屋に戻る。安いマンションで、リビング以外の部屋は二つしかない。その中の物置部屋が、私の部屋。

「おい、椿。ッ、煙草買って来い」

 扉の奥から、酔った父親の声が聞こえる。静かに立ち上がり、痣を隠すようにマスクをつけて、部屋からでると床にお金が置いてあった。煙草購入用のICカードもある。
 それらを拾って玄関に行く途中で、仕事から帰って来たお母さんにあった。口パクで「ごめんね」と言われ、ふいっと視線を下に向ける。お母さんも、お父さんも、大嫌い。誰からも、何からも守ってくれないこの家族が大嫌いだ。

「……行ってきます」

 重たい扉が閉まってから、廊下に出て言う。家とは違う新鮮な空気を目一杯吸い込んだ。たまには換気をしよう。そう思って、外を歩いていく。少し蒸し暑い日にマスクをつけている私を、近所の人は不思議がらない。私の親が、どんな人なのか知っているから。
 会釈してくるご近所さんは、いない。井戸端会議をしながら遠巻きに私のことを話す人ばかり。本当に、嫌になる。靴の踵が磨り減るのは気にせず、踵をすって歩いていく。

 近くの公園から小さな子達の話し声が聞こえた。何も辛いことを知らないんだ。私と同じような環境で、過ごせばいいのに。そう思うと、目頭が熱くなってくるのが分かった。
 涙を流さないように、ぎゅっと歯を食いしばりながら、少し遠くの煙草屋を目指す。数分ほど歩いて、煙草、の看板が見えた。此処の自動販売機で煙草を買って帰れば、それで終わる。少しだけまた、気持ちが沈んだ。

 帰りたくない。

 ぎゅっと着替えないままだった制服の胸元を、強く握る。親に反発する恐怖が、足元から這い上がる感覚がした。一回目は顔を思い切り殴られた。二回目は、やっぱり殴られて、蹴られて、家の外に放って置かれた。
 当てもなく歩いて、一人だけ私を見てくれた女の人がいた。優しく声をかけてくれて、家に招いてくれた人。その面影と、ぼやけた景色だけえを頼りにとぼとぼと歩いていく。

 夕焼けは、家を出たときよりも西に傾いていた。だけどまだ日は長くて、私の影法師をずうっと長く長くしている。煙草屋を過ぎてからも、ずっとずっと歩く。
 もう、いつ帰ったとしてもお父さんに殴られる。それなら探されても分からないくらい遠くに行きたかった。息苦しくなり、マスクをはずす。すれ違った知らない人に、頬にできた痣を見られても気にしていられなかった。

 どれくらい歩いたか、分からない。街灯はぽつぽつとつき始め、私の歩いている道もだんだんと住宅が少なくなってきた。ぼやけた景色と、今見ている景色は、ほぼ同じ。
 きっと、合ってる。
 そう信じながら、曲がり角を曲がる。暗くうっそうとして見える林の中に、一軒だけぽつりと明かりのともっている家があった。きっと、あれだ。少しだけ心の中で喜びがこみ上げる。ゆっくりとゆっくりと歩いて、その家へと向かう。



 玄関扉の前に立ち、大きく深呼吸をする。少し震えた指で、チャイムをぐっと押し込む。無機質なチャイム音が扉の奥に響く。少ししてから、がちゃ、と音がした。その音で、体に力が入る。何を言ったらいいのか分からないほど、緊張していた。
 
「社木ですが、どちら様ですか?」

 優しそうな女の人の声。ゆっくりと、言葉を出していく。

「こ、こんばんわ。えっと……時雨、椿です。少し前に、その、夜に道歩いていたときの……」
「しぐれ、つばき? 夜歩いてたって……。もしかして、おうちから出されちゃった子?」

 家から出された。その言葉を聞いて、からからの喉に僅かな唾液を送り込む。

「はい。そのときの、です」

 そう言ってからの少しの沈黙が、とても長く感じられた。また、先ほどのようにがちゃ、と音がする。ぱたぱたと音が聞こえてすぐに、重たそうな玄関の扉が開いた。
 暖かな光の中から、顔が出てくる。

「つばきちゃん、よね。あの時の。もう遅いから、ほら、入って入って」

 優しそうな笑顔に迎えられ、頬を涙が伝った。

メンテ