複雑・ファジー小説

Re: 君を、撃ちます。 ( No.45 )

日時: 2013/12/26 21:28
名前: 柚子 ◆Q0umhKZMOQ

 止まらない涙を拭うことも出来ないまま、ぽろぽろと玄関の床に涙の痕を落としていく。この家の女性は「ちょっと待ってて」といい、慌て気味に家の中へと戻っていった。止まらない涙を、蹲りスカートでぬぐう。
 
「つばきちゃん、家に、入れないの?」

 ゆっくりと赤子をあやす様な優しい口調で問われ、弱く横に首を振った。入ろうと思えば、きっと入れる。だけど、家には帰りたくない。今、家に帰ったところで何をされるかは全く分からないのだ。殴られるだけで済むか、分からない。
 ぽん、と頭におかれた手に、びくりと過剰に反応する。だんだんと呼吸が荒くなり、肩が震えた。叫びだしそうになるのを、いつものように抑える。声を大きくすると怒られていたから、涙はスカートだけで拭い、あいていた両手で口をふさぐ。

「つばきちゃん、大丈夫よ。つばきちゃんのお父さんもお母さんも、このおうちには居ないからね。自分の家には、戻りたくないの?」

 何度も何度も、頷いた。震えも嗚咽も止まらないまま、何度も。優しくしてくれる誰かに、初めて出会った喜びも手伝っているのか、涙は全く止まらない。
 普段なら耐えられていた涙が、いっぱいいっぱいになってしまったみたいだ。辛くて、苦しくて。だけど手を差し伸べてくれた。それだけで、私を壊すには十分だったらしい。

「つばきちゃん、ほら、涙を止めて。お父さんとお母さんに会う決心が付くまで、この家にいていいわよ」

 背中を優しくさすりながら掛けられた、温かい言葉。嬉しくてしょうがなかった。けれど、私は首を横に振る。今日は、ちゃんと家に帰ろうと少しだけ思った。
 もしかしたら、なんて思いが浮かんできたのだ。もしかしたら、お母さんもお父さんも、私がいなくなったことを心配してくれているかもしれない。

 私のことを嫌がらないで、受け入れてくれるかもしれないと思った。ゆっくりと止まってきた涙を、袖で乱暴にぬぐい私は立ち上がる。心配そうな女の人の顔が、目に入った。静かに「ごめんなさい」と言い、頭を下げ、逃げるようにして玄関から外に逃げ出す。
 後ろから呼び止められた声には、何も反応できなかった。これ以上甘えてしまったら、もう、あの場所には戻れなくなってしまうと思ったから。沢山走った。息が苦しくなっても、足がだるくなっても、一心不乱に走り続けた。視界の端に見えた「たばこ」の文字に、初めて立ち止まった。

 肺の辺りを、ぎゅうっと締め付けられているような感覚がする。息が整うまでが長くて、その場にしゃがみこんだ。背中も首周りも汗でびちゃびちゃ。一度大きく息を吸って、吐いた。まだ明かりのともるそこで、お父さんがよく吸っている煙草をカートンで二つ買う。

 脇に抱えて、また家への道を走る。走って走って、いつもの風景に戻った。殺風景な公園を通り過ぎれば、もう、私の住んでいるマンションがある。私の家の場所は薄いカーテンが一枚あるだけで、内側の光は駄々漏れだ。きっとお父さんがお母さんを痛めつけている声も、扉の外に、壁の向こうに、駄々漏れなんだろう。
 次は、私の番――。そう思うと、膝が笑い始めて、呼吸も乱れてきた。ぎゅっと拳を握り、深呼吸をし、マンションへと入る。階段を上る最中、家が近づくにつれて心臓はどくんどくんと、強く脈打っていった。怖くて、どうしようもない。

 もしかしたら、なんて淡い期待はもうなくなっていた。どこを殴られるのか、どこに煙草の痕をつけられるのか、心配だった。お母さんに、どのようにして私の心を壊されるのか。
 震える手で、ゆっくりと家のドアノブに手をかけた。手首をひねる前に、ドアに耳をつける。不自然なくらい、静かだった。いつもならお母さんのすすり泣く声、お父さんの苛立った声がずっと聞こえているのに。

「……た、ただいま」

 小さな声で言い、扉を開く。なんだか鼻を刺激するようなにおいがして、私は顔を歪ませた。煙草は靴箱の上に置き、静かにリビングへと向かう。

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