SS小説(ショートストーリー) 大会【平日イベント】

薔薇、棘の傷 ( No.96 )

日時: 2017/08/09 00:10
名前: 葉桜 來夢 ◆hNFvVpTAsY

それは、風の冷たいある冬の日だった。
空は、今にも雪が降り始めそうな曇天であった。
そんな空の下、僕は何をする訳でもなく、一人でフラフラと歩いていた。
他にすることがなかったのだ、何も。
僕以外誰もいない部屋にいるのはとても退屈で、
耐え難い寂寥を感じたので、こうして外に出て歩くことにしたのである。
しかし、寒々しい冬の日に好き好んで散歩をする人間もいないもので、
僕の寂しさは依然、和らぐことはなかった。

―カサ。

僕の足に何かが当たり、しんとした空間に乾いた音が響いた。
見下ろしてみると、そこには在り来たりな花束が落ちていた。
そうー薔薇の花束である。
誰だって一目で分かるその特徴的な花束は、寂しげに空を仰いでいた。
一体どうして、このような道端に薔薇の花束が落ちているのだろうか。
誰かの落とし物ならば、交番に届けた方が良いかもしれない。
まだ僅かに残っていた良心が、僕を屈ませてそれを拾わせようとした。
しかし。
僕は屈むのを途中で止めた。
道に落ちていた花束は、いつの日か僕が貰ったものと同じ店のものであった。
記憶の引き出しがガタガタと音を立てる。
そして、その出来事を僕に思い出させた。

そうだ、あれは丁度、今日と同じような冬の日だった筈。
ここから近い場所にある海辺の公園に、僕は呼び出された。
冬の海は勿論、とても閑散としていた。
周りを見回しても、僕以外には彼女しかいなかった。
僕がそこに現れると、彼女は半ば強引にその花束を渡してきた。
突然の出来事に戸惑った。付き合ってください、とそれだけ言われた。
結果として、僕はその勢いに押し切られてしまった。
僕は彼女とはほぼ面識は無く、呼び出されたのも友人を通してだった。
向こうは一目惚れであったらしい。
それまで誰とも付き合ったことのない僕は、舞い上がってしまったのかもしれない。
だからいけなかったのだ、僕は選択を誤ったのである。

確かに、彼女は顔も整っていたし、性格も良かった。
特に非の打ちどころがなかったのである。
それでも、その交際は僕にとって息苦しいものであった。
何故か?
その当時、あろう事か僕には他に好きな人がいたのだ。
だから、僕は最後まで彼女を好きになれなかったのである。
我ながら、卑怯で最低で情けない人間だと思う。
彼女は華やかな薔薇の花束を僕に渡してくれたのだが、
僕は最初からその花を見ておらず、ずっとその棘に囚われていた。
そしてそれは、双方の心をグサリと刺していった。

―冬が終わると共に、その恋も終わった。
彼女はどうして、と泣いて僕の服の袖を掴んだ。
僕はただ、ごめんと言うしか無かった。それしか言えなかった。
いつでも臆病な僕は、こんな時でさえ本当のことを口に出せず、
そんな僕の言動は、宛ら薔薇の棘であったのだ。

これは拾うことが出来ない、そう思ったから僕はそこで静止した。
拾う資格は僕にはないのだ、きっと。
しかし、これも自分がその思い出に触れたくないだけの言い訳かもしれない。
そう思うと、急に僕は花束から目を逸らしたくなった。
姿勢を元に戻し、空を見上げる。
雪がひらり一片、僕の頬に落ちてきた。
このまま降り続ければ、翌朝には積もっている事だろう。

僕は家に帰るため、また歩き始めた。
花束は、他の誰かに拾われるだろうか、それとも―。
どちらにせよ、僕はもう関わることは無いだろう。
駄目だ、拾え、という良心が最後に僕を振り向かせた。
花束は寂しそうに転がっているだけだった。

……もうどうしようもないのだ、僕も、花束も。

棘の傷は、一生消えることなく僕の心を抉る事だろう。
けれども、臆病な僕はそれを治す術を持っていなかった。
僕は背を向けて、一旦記憶の引き出しをパタリと閉める事にした。

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