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*紹介文/目次*
修二が空になった藍子のグラスにビールを注ぎ淹れると、オレンジ色の光に照らせながら曖昧な表情で藍子は微笑んだ。久し振りに会った幼馴染みは、やはり綺麗な顔をしていて、不細工面の修二と居酒屋に居るのは、なんだか釣り合わない気がする。 周りは修二達より年上の会社員らしき男性が多く、そう言った意味でも藍子は目立っていた。最もこの居酒屋は、女性客も来やすいように、とテーブルに紅い薔薇の華をあしらっているから、女性客が少ない訳ではないのだが。「そんな遠慮するなよ」と茶化すように笑っても、藍子は学生時代のような明るい笑顔は見せなかった。
「……で、どうしたんだよ。急に『会いたい』なんて」
珍しく真面目な顔で問い掛けても、藍子は頑なにその口を閉じていた。小刻みに震える手は、明らかに修二に対する警戒を感じる。店員が手元に置いたおしぼりで必要に手を拭いたり、大雑把な修二から見ると異様としか形容するものは無い。
「ま、良いけど。とりあえず、今日は朝から何も食ってねぇから腹減った。なんか食わせてもらうぜ」
「……うん。ごめんね」
「別に謝る必要はねぇって」
メニューを手に取って、カラカラと笑う修二に安堵したのか、ようやく藍子は口を開く。
「藍子は? なんか食うか?」
修二は窓側に置いてあった、もうひとつのメニューを手渡そうとしたが、華奢な首を力無く振って否定を示される。さらさらと長い黒髪を揺らしている姿は何処と無く病的だった。
「ねぇ、修二くん」
突如開かれた藍子の口。学生時代は真っ赤に口紅を塗っていた彼女だが、今では見る影はない。そんな修二の視線を気付いたのか、藍子は少しだけ肩を震わした。だが、先程とは打って変わって、毅然とした態度で続けた。
「女にとって一番大事なものってなんだと思う?」
「……は?」
「いいから。……答えて」
そう言われて、修二はボサボサの髪を掻きながら必死に思考した。女にとって一番大事なもの。その突飛な質問に、男の修二は正解なんて解るはずも無い。「解んねぇ」と潔く降参することにした。
「……そっか」
やっぱり解らないよね、と付け足して藍子は俯いた。歯切れの悪さを感じた修二は「どうしたんだよ」と追求。昔からそういった曖昧な態度で話されるのが苦手で、ついぶっきらぼうになるのが修二の悪い癖だった。暫く沈黙を貫いた藍子であったが、おもむろに言葉を続ける。
「……実は、この間…………山仲課長に、襲われて……」
時が止まったようだった。久し振りに会った幼馴染みから吐かれた言葉は全くもって信憑性が無い。けれども、先程の全ての藍子の行動が修二の本能に警鐘を鳴らした。
「……は? 嘘、だろ」
山仲課長は藍子の上司で、一度会社に就職した藍子と偶然会った時に一緒にいた人だ。優しそうな彼が藍子の事を襲う、なんて。信じられない。だが、その想いは藍子が首を横に振った事で無惨にも砕かれた。確かにそういった訳なら、藍子の行動は全て説明がつく。ガタガタと震える藍子は今にも泣いてしまいそうだった。その姿を見た瞬間、藍子の事を犯した男への留まる事の無い怒りが噴き出す。
「夜、歩いてたら……急に手を掴まれて、『声を出すな』って言われて――」
「……もういい。何も、言わなくていい」
藍子の言葉を修二は遮った。
いや、違うだろう。遮る他無かったのだ。歪んだ唇が酷く愛おしい。思わず塞いであげたくなるくらいだ。修二の理性はそれくらい狂っていたのだ。
「……辛かったな」
それだけ吐くと、藍子は首振り人形のような仕草で頷く。目元にはうっすらと水滴が輝いていて、その表情だけで、その時の悔しさが流れてくるようだった。修二は今すぐ山仲を探しだして殴りかかりたくなったが、力を込めた拳をテーブルの下に隠す。
大柄な修二は、テーブルの下に手をいれる事など不自由だったが、今は然程気にならなかった。
学生時代の紅い彼女の唇が、叫ぶような動きをするのを想像して、ビールを煽る。修二は酒には弱かったが、酒の味は好きだった。全てを忘れさせてくれるから。心を落ち着かせてくれるから。
――もう、止めよう。
修二の拳から力が抜けた。
「藍ちゃん、もう泣くなや」
それは、学生時代の修二が、藍子によく言っていた事だった。何かあると修二に「修ちゃん、どうしよう。助けて。助けて」と泣く藍子の頭に手を乗せて「大丈夫だよ藍ちゃん」といつも笑っていた。あの日と変わらないように修二は敢えてそう言った。
「……ありがとう。修ちゃん」
目の前の藍子が涙を拭いながら漏らす。それを見て修二は穏やかに話しかける。彼女は被害者なのだ。今修二が怒った所でただ藍子が哀しむだけだろう。会社もやめちまえ、と言いたくなったがそれは藍子の人生だ。口出しすべきでは無いと思い直して口を噤む。
「ほら、折角久々に会ったんだから。飲めよ」
「……うん。そうだね」
暖かな光に包まれながら藍子がグラスに口をつけた。柔らかそうな唇。学生時代の紅とは全く違うそれは彼女の辛さを比喩しているかのようだった。
二人の会話など知らない、と言わんばかりのざわめきの中、修二は先程の藍子の言葉を思い出す。女にとって一番大事なものって何だろう。愛か。貞操か。心か。蜘蛛の糸のように複雑に絡み合った思考は、いつまでも結論付く事はなかったが、ただひとつ。これから修二にとって藍子が特別な人になることは間違い無い。そう確信した。
それから修二は藍子に色んな話をした。そのどれに対しても昔と変わらない笑顔を返す藍子に、修二の心は和んだ。
けれど、挑発的な真紅の口紅が脳裏から離れる事はなかった。紅。もしかしたらそれが女にとって一番大事なものなのかもしれない。気高い薔薇の華のようなプライド。それがもし女そのものだとしたら。目の前の薔薇を見ながら、修二はビールを流し込んだ。
――いや、いくら何でも飛躍しすぎだろう。
目の前で笑う藍子の頬に涙跡があるのが目に入ると、修二は考えを振り払った。馬鹿馬鹿しい。そう思って、また酒を煽る。
だが、その日は不思議と、酔うことは出来なかった。修二はただ、グラスの中の氷がカランと音を立てるのを眺めていた。女と紅