コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ
- 第二章 ただ誰も傷つけたくなくて (9) ( No.42 )
- 日時: 2011/05/01 07:30
- 名前: 黎 ◆YiJgnW8YCc (ID: 9nQU0Vbj)
楓は倒れている魔獣の傍らに、顔を俯けたまま黙って立っていた。魔獣は足をぴくりとも動かさず、地面に倒れ込んでいるだけだった。しかしその場の風がおさまると、すぅすぅと虫のような息が楓の耳にも届きやっと安堵の息をつかす。
「……でも、このままじゃ」
楓はかろうじて右手に握っていた長剣を肩にかけてある鞘にしまおうと、右腕を上げる。魔獣の耳が少し動いた事にも気づかずに……
「私には魔術を使う事が出来ないの。私の身の回りにいる魔術者は…………今は“頼れない”」
楓は長剣を鞘にかちんと音がするまでしまう。そして心なしか楓の表情は強張っていく。それは決して魔獣が死にかけている事とは関係などなかった。不意に楓は顔……右目へと左手を運んで眼帯の上からそっと押さえ、左目をぎゅっと閉じる。
「時雨……貴方が変わっちゃったの? それとも私? あの日から三年も経ったんだね」
いつもの口調とは違いタメ口になり、どこか寂しそうに目を細めながら微笑む。
辺りは静寂に包まれ、ずっと続くかのように思われた時にその静寂を一瞬にして掻き消す獣の叫び声が空気を震わせる。それが魔獣のものだと気づくのにそう時間はいらなかった。
「魔獣!! まだ魔力が残っていたっていうの!! ……違う、誰が魔力を注入してる」
楓は暗雲が立ち込めた様に瞳を黒く濁らし、呆然と立ち尽くしていた。しかしその表情は次第に“怒り”へと濃く染められていく。両手はわなわなと震え、楓自身それを止めようともせず黙りこくり口を開かなかった。雨も降っていないというのに、にぽたぽたと透明に輝く滴地面を濡らす。それは楓の“両目”から出たものだった。悔しそうに左目をぎゅっと閉じているが瞼の中から溢れ出ている。そしてその滴は右目の眼帯の下からも、頬を伝って流れていた。
「…………許さない、絶対に許さない。陰で魔獣を操ってる弱虫野郎出てこいよっ!!」
楓は天空に顔を向け、これでもかというくらい辺りに怒りを怒鳴り散らす。その空間は一瞬、全てのものが、ぶるりと震えたようにも見えた。怒りに染まり、ただ気持ちだけで動き始めている楓は周りの様子など見えている筈がなかった。迷う事なく長剣を鞘から抜くと、魔獣の横を駆け抜けて行こうとする。
魔獣の隣を横切ろうとした時に最悪な事態は訪れる事となった。
「…………えっ?」
楓の意表を抜かれたような呆気ない声が自然と口からこぼれ落ちる。辺りは血が飛び散り、それは楓の顔や服をも赤く斑点模様をつける。楓が声にならない叫び声を上げながら膝から崩れ落ちたのはまもなくの事だった。それは魔獣が命の源の魔力を取り戻し、楓の右腕に噛み付いていたからだった。先程の攻撃も右腕にうけたため、楓の右腕からは血が止まる事を知らず、どくどくと溢れ出す。楓がぴくりとも動かなくなったのを確認すると魔獣は口を大きく開き、血が大量についた牙を楓の右腕から離した。血の海と化したその場所は、不気味なくらい静まり返る。
魔獣は楓を殺したと勘違いしているため、嬉しそうに奇声を撒き散らしている。楓は俯せになって倒れたままかろうじて震えている拳を握りしめようと力を加える。
「マ、マスター……ごめんなさい、約束守れそうにないです」
楓は苦笑をもらしながら仰向けに横たわる。楓が息をしている事に気がついたのか、魔獣はぎろりと目だけを楓に向ける。そしてゆっくりと近づいていき、左前足で楓の体を踏ん付ける。「グフッ」と楓の苦しそうな声と血が口から飛び出す。視点の定まらない瞳を無理矢理に魔獣の方へとゆっくり向ける。
「……ご、ごめんね。貴方を救ってあげたかったけど、ゲホッ……もう無理みたい。魔術者の人が魔力を消してくれたら元通りになれるのに、ね……」
“死”を覚悟したのか楓は最後に微笑みそう言うと瞳を閉じ、意識を失った。魔獣はその動作を見届けると躊躇うことなく楓を殺そうと爪をたて、最後の一撃を食らわせようとする。
しかし魔獣には見えていなかったようだ……光の速さで影が横切っていたことに。
「……俺の大切な人を奪わないでくれるかな? 次は俺がお前の相手になってやるよ」
魔獣の前にいた楓を抱き抱えると後方に素早く退き、正面にいる魔獣にようやくはっきりと姿を見せる。魔獣は“獲物”を取られたのがよほど悔しかったのか、“その影”を物凄い形相で睨む。
「無理するなって言ったのに…………楓、死ぬなよ」
切羽詰まったように、その人物はびくりとも動かない楓の頬に触れながら小声で呟く。するとその声に反応したかのように目がうっすらと開かれていく。数秒が経ち、その人物をはっきりと映し出すと驚いたように見開かれる。しかし額から流れ出た血が目に染みるらしく、しばたかせていた。
「マ……スター? 何で、ここにいるんですか!? 危険ですから……に、逃げて……下さい」
楓は力を振り絞りながら由羅に警告するが、言われた本人は楓を安心させるように微笑む。
「心配しなくていいよ。俺……“騎士”の一族だから魔術使えるし、運動神経もそこそこ良いから」
由羅は少し迷いの表情を浮かべながらも吹っ切れたように伝え、楓を地面に優しく寝かせると魔獣の元へと歩んで行った。