コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ

第三章 途切れない導きの連鎖 (4) ( No.57 )
日時: 2011/06/24 19:55
名前: 黎 ◆YiJgnW8YCc (ID: NH7CSp9S)



「マスター、どっちの服が良いと思いますか? 初日の第一印象って大事じゃないですか!!」

 楓はそう言いながら白く胸元に薄水色のレースのついた服と、紺色で裾にオレンジ色の布でギャザーがよっている服を指差す。由羅はぼんやりと墨を少し垂らしたような濁った瞳で楓を見上げる。その瞳に写ったはずの楓の姿は墨で塗り潰され、少しのまばゆい光を二度と輝かせはしないようにする。そんな最悪な光景を思い浮かべてしまった由羅は頭を垂れたまま、両手で髪をぐしゃぐしゃと掴む。楓の事を知れるなら……いっそあの事を、なんて馬鹿げた事を由羅は考えてしまう。“楓に重荷を背負わせたくない”という由羅の隠していた気持ちは“あの時”から変わりはなかった。

「……一つだけ聞いていい? 楓の右目って何で眼帯なの?」

 くたびれたぼろ雑巾のようによれたワイシャツに汗がじわりと染み込み出す。由羅は視線を楓の服へと向けたまま、言ってはならないことを口から落としていた。やはり気持ちを抑える事はできなかった。たくさんの感情が心を行き交い過ぎて、由羅は自分自身を見失っていた。楓は由羅が口を開いた事に対して一瞬嬉しそうに左目を輝かせたが、最後まで由羅の言葉を聞いた楓の顔からは血の気が引いていった。

「マスター、そんなことより服見てるんだったら、どっちが良いか考えて下さいよ」

 隠しきれない動揺を必至に消そうと楓はにこにこと笑う。
 由羅は口を開かず黙りこくり、楓はどうしていいのか分からず無意識に服の裾をきゅっと弱く握る。広いリビングには台所から食器に溜めた水の音が規則的に聞こえてくるだけだった。その音も音と音の時間の幅が長くなり、次第に二人の耳には届かなくなっていた。

「この右目は…………“報い、罪償い”です。今はそれしか話せません。ごめんさい」

 ついに耐え切れなくなった楓がぽつりと言葉をもらす。その言葉に反応したのか、由羅はゆっくりと顔を上げ楓の顔に目を合わせようとする。しかし予想とは、はるかに違う答えが返ってきたため目の視点が定まらずに動いてしまう。そしてタイミング悪く楓の目と由羅の目が合ってしまう。楓の方は気にしないで下さい、と言うように笑いかける。由羅は楓が笑いかけるのを右目の隅でとらえると、顔を背ける。その様子を見て楓は笑みを苦笑いへと変え、由羅に背を向けるようにくるりと向きを反対に変える。

「いつか……話さなきゃって思ってたんですけど、逃げていました。だから本当に気にしないで下さいね。全てを話すにはたくさん時間を必要としちゃいますけど」

 楓は吹っ切れたように声のトーンを上げて、へらっと笑ってみせる。由羅には楓の背しか見えなかったが、楓の目からは一筋の涙が零れていた。楓の背を見た由羅の心音が早くなって高まり、汗が背筋を伝っていくのが分かった。由羅はようやく我にかえり、自分が犯してしまった“罪”に気づく。

 “楓を傷つけてしまった”という事に……

 楓の後ろ姿は小さくかすかに震えているように、由羅の瞳には写っていた。由羅は自分が“あの時”の事を覚えていると、楓に言ったらどうなってしまうのか怖かった。だとしたら由羅は楓に“恨まれる”べき存在なのだから。由羅がいなければ未来は変わらず、楓は今“主”としていたはずなのだから。
 時計が二十三時を知らすために静かに音を奏でる。その安らぐような音で二人のぼんやりとした意識は覚まされる。

「……マスター明日は初日ですし、早く寝ましょう。私は食器を洗ったら寝ますから……おやすみなさい」

 楓は振り返り様に赤くなった目を細め、笑いながらお辞儀をする。楓の瞼は少し腫れぼったく、泣いていた事が分かった。由羅は苦しそうに顔を歪め、楓を凝視してしまう。その事に気がつかない楓は台所へと向かうために、由羅の横を通り過ぎようと歩みだす。そして楓が通り過ぎる瞬間、由羅は視点を窓のほうにずらして口を開く。

「……ありがとう」

 楓に聞こえたのかは定かに分からなかったたが、由羅の言葉が発声された時に楓の顔が心なしか幼き楓と重なって由羅には見えた。 楓はそのあと振り返りはしなかったが、由羅が台所のほうに体を向けて見ていると、さきほどよりも楓を近くに感じられた。カシャンカシャンと食器がぶつかり合い、皿の中に水がツゥゥと音をたてながら注ぎ込まれる。楓が奏でる音達が、非情に心地好くゆっくりと眠気を誘っていく。由羅の目はしょぼしょぼとし始め、小さく欠伸をする。疲れと眠さに限界がきたらしく、寝室へと向かおうとリビングのドアに手をかける。

「悪いけど眠くなったから先に寝るよ。明日はちゃんと六時に起きろよ。それじゃあおやすみ」

 由羅はまた小さく欠伸をし、リビングからでていった。楓は泡がついた顔を向け、笑いながら「おやすみなさい」と言い、また自分の作業を始めていた。
 結局食器洗いが終わったのはそれからたったの数分後で、楓は直ぐにリビングの電気を消して二階に上がって行った。
 楓は愛用の青いジャージに着替え、ベッドに素早く潜り込むと直ぐにすぅすぅと寝息をたて始めているのだった。
 外の世界はすっかり闇色に染まり、雲で隠されていた月が現ると街並みをゆっくりとゆっくりと明るく照らしていった。それはとても綺麗で神秘的な光景だった。