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Re: ▽ 碧い空に手を伸ばして / 短編集 ( No.137 )
日時: 2012/06/16 21:02
名前: 花瑚 (ID: S6dv/qbT)

【空模様】


 ひそひそ、ひそひそ。
 トイレに足を踏み入れた瞬間に聞こえる嫌な音。むかつくよねー、うざいよねー。時々漏れてくる単語に嫌気がさす。トイレに部外者が私しかいないのを良いことに、言いたい放題好き放題。胸の中はどうしようもなくやるせない思いで一杯になる。
 人はどんどん変わってしまう。昔はこんなことを言う子ではなかったのに、なんで。そんな思いはもやもやと胸を覆い、どんどん量産されていく。
 どうして、人は人を傷つけることが好きなのだろうか。
——あまりにも住みにくい世界に、心が陰る。



 コツコツ、という振動が、頬杖をついて空を眺めていた私の肘に伝わる。その堅い音が、シャープペンで私の机を叩く音だと気付くまでに数秒かかった。

 はっとして、その音を発する主の元へ顔を向ける。視界に青ではなく、いつもの見慣れた教室が広がった。そして、いつもの何を考えているのか分からないような笠井の顔が、ちょっと心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 私はしばらく呆けていたらしい。周りの様子を見て、今が漢字の小テストの時間だと気付いた。私の机の上に置いてあったはずの真っ白な答案は、知らぬ間に、笠井の手の中で満点の答案へと姿を変えていた。

 ようやくこちらを向いた私に、笠井は無遠慮に答案を渡すと、机から身を乗り出していた体を元に戻す。そんな笠井の一連の動作を、ぼけっと眺めていた私は笠井の耳が少し赤くなっていることに気付いた。改めて答案を覗くと、笠井の整った字が綺麗に整列していて、まるで私が書いた字のように見えた。


——嗚呼、昔から変わっていない人がここにいる。



 心が、じんわりと温かくなり、重かった気持ちが少しだけ軽くなった。そしてそれと同時に懐かしい気持ちが溢れてくる。
 
 笠井は昔から変わらない。無口だけど誰に対しても公平で、優しい。そう、あのときだって。
 
 小学校の頃、やんちゃな私は鉄棒から落っこちて腕を骨折した。私はあまりの痛みに動けなくなったはずなのに、気付いたら保健室にいた。にこにこしている養護教諭に何がどうなっているのかと問うと、笠井くんが私に知らせてくれたのよ、と笑いながら答えてくれた。

 人見知りをせず、誰にだって明るく接せられることが私の長所なのだ。なのに、どうして笠井にだけはあの時のお礼を言うこともままならないのだろう。

 笠井はきっとあの時のことを覚えていない。今日の優しさだって大したことだと捉えていないだろう。でも。


"ありがとう"


 ちいさくちいさく呟いてみる。いつか笠井に届くような大きな声で言いたい。その時まで笠井の近くにいられるかな。そんな想いを胸に、空を見上げる。
 どんな住みにくい世界だって、空は変わらず青なのだろうと思った。