コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ

Re: 小説カイコ ( No.75 )
日時: 2012/05/06 21:01
名前: ryuka ◆wtjNtxaTX2 (ID: ijs3cMZX)

時木の少ない生前の記憶はなかなか壮絶なものだった。

悪時木を追って黒い壁に突入しようとしたのだが、時木いわく黒い壁の正体は悪時木の負の感情であり、生きている人間の俺が下手に触ると死ぬかもしれないらしい。さっき触っちゃったよ……
そして打開策として時木が俺に一旦憑りつくこととなった。時木が俺の中にスーッと入ってくるときには全身鳥肌立ちまくりでやばかった。それと同時に時木の生前の記憶が走馬灯のように頭の中で駆け巡って、何となく勝手に人の心を垣間見てしまったようで申し訳なかった。
それに、普段あんなにふざけている鈴木が、こんな幼少期を送ってきたとは思いもしなかった。

「どれ、じゃあ行ってみますか。」
黒い壁に突入してみるとさっき感じた冷たさや痺れは全く感じなく、代わりに胸にせり上がってくるような息苦しさがひどい。思わず吐いてしまうような、身体中を巡る、熱。

でも、それも数秒で終わる。
気が付けば、俺は一人、見知らぬ所に立っていた。

どんよりと曇った灰色の空に、赤錆びのひどい古びたアパート。
時々、生温い風がねっとりと不快に頬を撫でる。

「時木、ここ、どこだろう。」心の中で時木に問いかける。
『わからないけど……201号室の表札、時木って書いてあるな。』

成程、言われた通りにアパートに取り付けられた螺旋階段を登っていくと、201号室の表札には乱暴な字で“時木”と黒のマジックで書いてあった。
このアパートの造りは基本的に木造らしく、一歩歩くごとにギシッギシッと足元が不穏な音を立てる。201号室のドアは完全に開け放ってあり、中の様子がありありと見えた。
玄関からは居間らしき部屋までは短くて薄暗い廊下が細々と通じているだけだった。
そこにたった一つ、ローファーが置いてあるが、目に見える限り他に物は何も無いようだった。死んだような空気。死んだような家。

『高橋、中に入れよ。』
頭のどこかで、時木の声が響いた。
「え、だって人の家だし。勝手に入る訳には。」
『じゃあ、お邪魔しまーすとか言うのかよ。阿呆くさい。どうせ私の親父のアパートだ、勝手に入っていいよ。』

なんとも良心の揺らぐ所だが、ここは一歩踏み込んでみることにした。何の為にここに来たのか分からなくなってしまうし。

「あのー、時木さーん」
一応声をかけてみたが応答は無い。さらによく見たら廊下には土足で歩いた跡があった。きっと鈴木が歩いた跡に違いない。じゃあきっと、この部屋のどこかに居るはずだ。
すっごく悪いことだとは分かっているが、玄関に勝手に入った。とりあえずスニーカーを脱いで、薄暗い廊下から居間へと向かう。居間へのドアをそっと開けると、廊下よりかは明るかったが相変わらずに暗かった。

居間の中は廊下と同じく殺風景だった。部屋の中央にビールやチューハイの缶が散らばっていること以外は何もない。居間の隣は小さな和室になっているようで、畳の上に布団が一式グチャグチャに放置してあった。
その、グチャグチャの布団の中に男の人がいた。


さらに鈴木もいた。
布団の傍らに立って、じっと見下ろしている。一方、その男の人は全く気が付いていないようだった。一定のリズムを刻む、静かな寝息だけが聞こえる。
覗き見ると、年齢は四十代くらいで額には皺が深く刻み込まれていた。髭もきちんと剃っていない。少し目じりが吊り上っているところが鈴木に似ていて、昔は美青年だったであろう面影が少しだけ残っている。しかし、それは不幸な雰囲気を醸し出しているだけだった。


『随分と変わっちゃってるけど……やっぱり、お父さんだ。こんなところに居たんだ。』時木の静かな声がした。

しばらくして、ゆっくりと、鈴木はその男の人に覆いかぶさった。首を絞めかねない仕草だ。
とっさに止めに入ろうとしたが駄目だった。足と床が強力なボンドで張り付けられたようにぴたりとくっついて離れない。足だけではない、全身が凍ったようにぴくりとも動かない。金縛りってやつか。


「お父さん、」
鈴木が時木の声で語りかけた。

ゆっくりとまぶたが開かれた。
しかしこれといって驚いた様子はない。乾いた瞳で、疲れたように見つめ返すだけだった。その落ち着いた様子は、まるで前々からこうなることを知っていたかのようだった。

「私ね、どうしてもあなたのことが許せない。でも、憎むこともできない。わかるかなぁ?分からないよね。憎むことしか知らなかったあなたには。この気持ちはあなたにしか理解できないものなのに、あなたは理解してくれなかった。だから私はこんなふうになってしまった。こんなふうに、汚れた魂のカタマリになってしまった。」
今まで無機質だった時木の声にわずかながら熱みがこもった。

「……おまえ、国由か。」 時木のお父さんは右の手を鈴木の頬に添えながら言った。「大きくなったな。」
「そうだね、あなたが家庭を捨てて蒸発してから国由は大人になった。心も体もぐんと大人になった。でも、私はずっと中学一年生の子どものまま。心だけは子どものままどんどん老けていってさ。」時木はクククッと皮肉っぽく嗤った。「酷いもんだろ、これ。もう分ったろ、私は殺しに来た。このまま、永遠と悪霊として朽ちていくのが私の運命なら、あなたが悪霊となった娘に、あなたに苦しめられた息子の手によって絞め殺されるのもあなたの運命。これが、私が死んでから六年間迷って下した結論。あなたに下されるべき罰。」

ゆっくりと、鈴木の腕に力が籠る。でも、時木の父親はその行為自体には全く関心はなかった。

……娘は悪霊、息子は人殺し、か。

視界が、ぼうっと揺らいでいく。暗くなっていく。
急速に遠ざかる意識の中で、ただそれだけ思った。