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Enjoy Club 2章 第4話『知る者、知らぬ者』(5) ( No.259 )
日時: 2012/09/04 06:25
名前: 友桃 ◆NsLg9LxcnY (ID: KZXdVVzS)

 冷たい汗がつうっとこめかみのあたりを滑り落ちる。「あ」の口のまま固まってしまった私の前で、男はみるみるうちに顔を紅潮させていった。だけでなく、私の手首をつかむ手に一気に力が入った。

「痛っ」

 思わず声が漏れる。痛みに顔をしかめながらもつかんでくる手を振りほどこうとしたが、当然男の手はびくともしない。それどころかこちらを見下ろす顔には薄笑いが浮かんでいて、それに気付いた瞬間全身に悪寒が走った。怖いというより、単純に拒否反応。さらに必死に彼の手から逃れようともがくが外れる気配はなく、危機感だけがどんどん膨らんでいった。じわりと、目じりに涙がにじんだ。

「こんな弱っちいやつが紫苑の彼女ねぇ」

 突然、私の背後でニタニタと嫌な笑いを浮かべていた男が鼻で笑ってそう言った。それが無性に悔しくて、ぎりっと歯をかみしめとにかくもがく。すると、相変わらず余裕面で正面に立っていた男が、嘲笑うかのような調子で言ったのだ。

「アイツはどうせ、自分の居場所を用意してくれるお優しい奴が欲しかっただけだろ。俺たちの居場所を奪って自分好みの場所に変えちまったみてぇになっ」

 最後は憎々しげにそう吐き捨て、男はいきなり手を離すと私の肩を強く押した。声をあげる間もなく地面に激しく尻餅をついた私は、顔をしかめつつ片肘をつき、上半身を起こそうとして——

 そこで、突然だった。まるで部屋の蛍光灯を消したかのように、辺りが一気に暗闇に包まれたのだ。しかもその暗さは、雲が太陽を隠したなんてレベルのものではなかった。一気に顔から血の気が引いた。

「おいっ、な、なんだこれは!」

 大の男2人が理性を失って震え声を上げる一方、私は地面に尻餅をついたまま呆然と眼前の闇を見つめていた。……何も、見えない。黒の絵の具で塗りつぶしたかのような、本物の漆黒。人や建物の気配すら薄れ、この闇にたった1人取り残されてしまったのではないかという錯覚に陥りそうになる。それでも私はなぜかその不安や孤独感に完全にのまれることはなかった。視界を埋める黒を、肌に感じる冷気を、体が知っているような気がしたのだ。

 それだけではない。もうひとつ、私を突然の闇から救い出したものがあった。地面に倒れたままどうすることもできない私の真横に突如人の気配が生じ、その人物が小さく何事かを呟いた直後、ふわりと体が浮く感覚と共に周囲の景色が一変していたのである。それは実に一瞬の出来事だった。
 さびたシャッター。汚れと落書きと、細いツタに覆われた壁。割れたガラス。人の住む気配のない、浅い空気。そこに並んでいたのは、明らかに廃屋だった。廃屋が両脇に並ぶ細い道に私は尻餅をついて倒れていたのだ。もちろん道は整備されているはずもなく、大小さまざまな石が無造作に転がっている。本来ならこんなところに倒れていたら非常に痛いだろうが、今は状況の変化についていけていないせいか痛みなど全く気にならなかった。それよりも、眼前の景色の変化にひたすら唖然として声も出なかった。

 不意に、この場にそぐわない美しい銀色が視界をよぎり、私は目を見張った。先程の男2人の代わりに、私の目の前には銀髪で小柄な人物が手の平を地に向け片膝をついていたのだ。顔を伏せているせいで長い銀髪がすだれのように目や頬を隠している。私はわけもわからず辺りの景色とその人物とをものすごい勢いで交互に見やった。
 すぐにその人物は顔を上げこちらを見た。印象的な銀のすだれの向こうに現れたのは、ぱっちりとしたこれまた印象的な蒼い瞳(め)だった。海のように澄んだ色だ。おそらく外国人の血が流れているだろう少年は、あんぐりと口を開けたまま目しか動かせない私に、にっこりと優しく微笑んだ。

「ケガ、してない?」

 日本語喋れるんだ、などという疑問が沸くよりも早く、こくこくと人形のように頷く。彼はもう一度微笑むと、唐突感もなく立ち上がりそのままくるりとこちらに背を向け歩きだしてしまった。それを少しの間呆然と見つめていた私は、彼が5メートルほど先の角を曲がったところでさすがに正気に返って、

「ちょっ、ちょっと待ってください!」

声をあげて慌てて後を追いかけた。しかし私が同じく角をまがった時には、彼の姿は忽然と消えてなくなってしまっていたのである……。

 すぐ横の建物に手をついてしばらくその場に立ちすくんでいると、何やら遠くから大人数の子供の声が聞こえてきた。随分とにぎやかな声だ。時折ボールの弾む音も聞こえてくる。私はゆっくりと声のする方を振り返り、そしてもう一度周囲の景色を見まわして、
 深い安堵感に思わずその場にへなへなと膝をついた。そこは紛れもなく、下橋だったのだ。緋桜の家とは広場をはさんで反対側にある、寂れた昔のままになっている場所。体が温まるのと同時に噴き出してきた涙を手でぬぐって、私はすぐに携帯を耳にあてた。