コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ
- Re: 臆病な人たちの幸福論 ( No.574 )
- 日時: 2015/03/27 18:01
- 名前: 火矢 八重 ◆USIWdhRmqk (ID: PboQKwPw)
汗のにおいがした。
不快な匂いじゃない。清涼な水と、あの部屋に漂う生活の匂い。それから、田んぼの土の匂いが混ざった。
荒い息が、耳元より少し上の方から聴こえた。逞しい胸から、心臓の音が、あらゆる身体の脈が激しく鳴る。
探し回ってくれたんだ。どんなに動いても疲れを感じない要が、こんなにもグッタリとした身体になるまで。
要の腕が、ワタシの腰や背中に回る。背中や腰は、山田さんに触れられて本当に怖くなった。なのに、今はなんとも思わない。ただ、少しだけ皮膚やその下にある筋肉や神経が強張っているだけ。こそばゆくて、なのに身体の芯からほんわりと、おだやかになるだけ。
ゆっくりと、ワタシも要の身体を抱きしめる。細身の身体といえど、相手は男で、大きな体だった。
……抱きしめてみると服が湿っていて、身体は震えていた。
「心配、したんだッ……!」
そういった要の声も、震えていた。
震えて、酷く、掠れていた。
「……ごめん」
そういうしかなかった。
だって他に、何がいえただろう。
大きな感情を抑え込んだこの人に、どんな言葉を掛ければいいんだろう。
「……あー」
走った要の勢いで弾き飛ばされた健治が気まずそうに尋ねる。
「俺じゃま?」
「邪魔……てわけじゃないけど」
頭を掻く健治の存在が、寧ろ救いというか何というか。
こんなにも感情的になっている要と二人っきりでいた場合、果たしてワタシは落ち着いていられただろうか。今だって呆気にとられてしまっている。数十秒前は色んな事が逡巡していたのに、全部夜空へ消えてしまった。
取りあえず、ポンポンと要の背中を叩いてみる。
「……俺、どっか行っとくな」叩いている間、健治はそういってワタシたちの視界から去っていった。
こんな風に、千歳をあやしていた時期があった。
体温もこれぐらい熱くて、身体は大きいけれど、赤ん坊のようだった。
どれほどそうしていただろうか。
要の震えは止まり、ワタシたちはただ抱き合っていた。
抱き合っていればいるほど、ワタシの心は穏やかになっていく。
見つめられたら、あんなにもドキドキして、落ち着かなかったのに。ソワソワして、こそばゆくて、嫌じゃないけど、身が持たなかったのに。
距離はなく、身体は熱で融けてしまいそう。
なのにワタシはワタシで、要は要だった。二つの身体は、一つにはならない。
「全部、何があったか話してもらうから」
要の声が、耳を掠る。
「関係なくないから、絶対話してもらうから。全部」
「……要」
「今日中に話してもらうから。逃がさないから」
「……もう逃げないよ」
これ以上、どう逃げるというの。何から。
本当に、ワタシは一体なにから逃げていたんだろう。
……ワタシは、迷走していたのね。
最初から気づいていたけれど、今は身体の芯から理解した。
何故ワタシがフウコを見捨てたのか。見捨てたことを恥じながらも逃げたのか。
理想だけ考えて、自分の感情を見据えなかった。思い通りに行かなくて当たり前だ。
「要……今からでも、遊園地ってあいているかしら」
「……何、突然」
話を逸らすな。
言外にある拗ねた気持ちが聴こえた気がした。
大きな弟を持った姉の気分で、ワタシは笑う。
「要と一緒に行きたいなあって、思ったのよ」
もう、ワタシは迷わない。
決めた。
ワタシは——ずっと、要の傍にいる。