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Re: 臆病な人たちの幸福論【罪と罰】 ( No.581 )
日時: 2015/05/30 14:31
名前: 火矢 八重 ◆USIWdhRmqk (ID: FInALmFh)


「要」


 ワタシが呼びかけると、要はゆっくりと顔を上げた。
 もう一度、要の頬を撫でる。


「乾燥した肌。男もちゃんと気を付けないと、年取った時に大変だよ」



 そう言って。
 ワタシは彼に触れるキスをした。





 伝わる熱。山田さんとした時は、そんなことを考える余裕なんてなかった。
 思えば、ワタシからしたこともなかった。
 なのに、今度は、ワタシから要にキスしたいと思ったのだ。求められるより、求めたいと。


 ……口が裂けていると、キスしにくいなあ。
 こんなことになるなら、自分を傷つけることなんて、しなきゃよかった。後悔役に立たずだ、ホント。


 顔を遠ざける。
 要の瞳が、大きく開けられていた。
 ……その目が、好き。


 真っ直ぐ人を見る、その目が、大好き。



「要——」


 涙があふれ出しそう。
 幸せで、体中満たされて。
 あなたが、ワタシに言葉を与えてくれる。あなたの名前を呼べて、ワタシは幸せだった。
 あなたの目には、ちゃんとワタシが映っていた。


「必ず、あなたの元へ帰るわ。だから、それまで」


 待っていてくれるかしら。


「……いつまで?」


 要が尋ねる。


「いつまで、待てばいい?」


 ワタシは少し考える素振りを見せて、


「そうね。——あなたが、忘れたころに」


 矛盾している。
「忘れないで」と言ったのに。思わず笑った。
 でもきっと、それぐらいかかるだろう。

 会えるとしたらきっと、ワタシがちゃんと罪を償って、禊して。きっと要とは、地獄では会わないだろうから。



「だから、それまで」


 精一杯。
 華やかな笑顔を、大好きな人に贈る。



「バイバイ」


 その言葉が、口の中でホロホロ崩れる。
 それが引き金だった。

 ワタシは、自分の姿を『失くした』。
 跡形もなく、彼の前から姿を失くした。

              ■



「……千代っち」


 要は一人、観覧車の中。
 先ほどまでいた、美しい少女はもういない。
 蛍火のように、闇夜に溶けて、消えていった。
 それはあまりにも一瞬で、思わず悪夢を見ているのではないかと疑う。

 けれど、要はわかっていた。
 存在が突然消えていく。要にとって、それは日常にも等しいもの。


 両親が亡くなり、孤児院の弟妹たちが亡くなり。
 そして、今日は千代が消えた。
 たったそれだけのことだった。


 だが、そう簡単に割り切れるほど、要は大人ではない。
 例え大人であっても、きっと彼は苦しむだろう。



「嘘つき。ずっと一緒に居るっていった癖に」


 ごめんね。要の中に居る千代がいう。


「嘘つき……」


 要はそう言って、身を崩した。




 それでもまだ、千代は居る。
 要の中に、千代は消えていない。

 炎のように。その存在は燃え上がって、しずかに彼の胸を灯す。
 窓を見れば、煌々と照らす街の光が、そこにはあった。




           それはいわゆる、『詭弁』という奴で


(それでもこれは、ハッピーエンドなんだと)
(何時か思える日が、来るのだろうか)

(今はまだ、悲しみだけが横たわっている)