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Re: 臆病な人たちの幸福論【罪と罰】 ( No.586 )
日時: 2015/08/05 10:56
名前: 火矢 八重 ◆USIWdhRmqk (ID: FInALmFh)


「そうだ、ダメナコに電話——」


 一度立ち止まって、ケータイのボタンを必死に押す。
 ……けれど、すぐにそれも止めた。




 ジリジリと、灯油ストーブが燃える音が、鮮明に思い出される。
古い紙と、古いインクの匂い。
 親しみある司書は、たった二人しかいない部屋に、顔を覗かせていた。
 そしてその人は、こういったんだ。


『こんな暗いところに一人でいないで、早く帰りなさい』




 あの日、俺を夢から覚ましたのは、ダメナコだった。
 また、ダメナコに現実を突きつけられるのではないか?
『元々からフウは居ない』と、もう一度言われたら、俺は平気か?


「……」


 自然と、ケータイを持っていた腕が下がる。鉛のように、重く感じた。
 わき腹が、全身の筋肉が痙攣しながら痛む。明日には筋肉痛に悩まされるだろう。心臓と脈が、内臓を圧迫するように激しく脈打って、汗がにじみ、頭が揺れて、気持ち悪い。胃液が上がって、食道が焼き付く。多分これはストレスのせいだ。

 だけど、俺は、走らなくちゃいけなかった。
 もう、幻と思いこむには、随分フウに酔っていたから。


                 ■


 結局わたしは、朔君に絞殺されることはなかった。
 突然、わたしの首を掴んだ指の力が緩んだのが判って、覚悟して閉じた目を開けると、とても不安げな表情をした朔君が居た。

 捨て犬のように、目を潤ませて。
 何かに、必死に縋りつきたい一心の目が、わたしの顔を映す。
 その目に映ったわたしの顔というのも、そりゃあ情けない顔でした。


 どちらも、覚悟がなかったのです。朔君はわたしを殺す覚悟が、わたしは朔君に殺される覚悟が。互いの気の迷いが、互いの心に通じ合って、行動に及ぶことはなかった。ただ、それだけの話。

 だけど、だからといってわたしも朔君も後には引けないものですから、わたしと朔君は直接殺すのではなく、間接的に殺すことにしましょう、ということになりました。
 というわけで、朔君は即、掘立小屋を作り、そこにわたしが入ってから火を放つことに。


「……なんで殺される側と殺す側がこんな話をしてるんだろーね」
「滑稽ですね。本当に」


 どちらも、本気じゃないのにね。
 殺されたくも、殺したくもない人間が、どうしてこんな馬鹿げたことをしているんだろう。


「掘立小屋、あっという間に出来ましたね」
「うん。この空間は僕が作っているから、僕が念じれば何でも作れるよ」


 どうしてこんなにも、親しげに話すようになったのか、わからない。
 わたしはあんなにも、この子が怖かったのに。この子はあんなにも、わたしと千代ちゃんに殺意を抱いていたのに。毒気が抜かれて、爪も牙も無くなって、どうしてこんな、普通に話せられるんだろう。


 ……なんて、判っていますけどね。
 わたしたちは、互いの立場を知ってしまった。知ってしまった上に、その立場に立たされている互いの気持ちが判ってしまった。故に、このまま自分のことだけ考えていいのかを悩んでしまった。
 目を背ければよかった。そんなこと構わず、互いに敵として対立してしまえば、迷わなかったのに。


 話して、思わず同情して、——朔君とケンちゃんの顔が重なった瞬間に、死にたくないと思った。


 このままなら、何もかもが中途半端で終わる。誰もが望まない展開で終わる。でもどうしていいかわからない。
 わたしは、千代ちゃんに死んで欲しくない。瀬戸君を一人にさせたくない。この思いは変わってない。

 朔君もきっと同じだろう。
 死にたくないけれど、殺したくもない。——そんな思いから目を離して、どれだけ心を擦り減らしていったんだろう。