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Re: 浅葱の夢見し ( No.9 )
日時: 2014/04/05 14:08
名前: いろはうた (ID: DYDcOtQz)

あと少しで触れられるというところで、たくましいが、

自分の腰のあたりをまわって、ぐいっと後ろにひぱた。

一気に髪結い紐との距離があく。

背後にいるのは男のようだ。

だがホムラではない。

もっと静かな、水のような気配。

髪結い紐を取ろうと必死で、背後に何者かが近づいてきていたことに、

気づけなかったらしい。

だが、カエデも分家とはいえ影水月の巫女。

修行をつんでいるカエデでも気づけないとなると、

背後にいる男は只者ではないということだ。


「な、なにやつ——もがが」


声を出そうとすると、素早く大きな手の平が口を覆った。


「騒ぐな。

 ……あと、これ以上奥に行けば地に足がつかなくなる。

 やめておいたほうがいい」


低く耳に心地よい声が静かに囁いた。

背中がぞわぞわする。

無理に首をねじり、背後にいる男を見てカエデは目を見開いた。

つややかに光るくせのある長い黒髪。

どこか憂いを含んでいる青を帯びた瞳。

すっとすじのとおった鼻筋。

薄く形のよい唇。

滑らかな頬。

そんな顔が目の前にある。

まったく非の打ちどころがない顔をもつ男を、

カエデは生まれて初めて見た。

この声といい、容姿といい、とても生身の人間とは思えなかった。

もしかしたら人ではなく、この湖の精霊か守り神なのかもしれない。

そうに違いないと思ったカエデは、男の腕の中から抜け出すと、

彼にむかって言い放った。


「湖の精霊様かなにか知らないけど、私は髪結い紐を
取らねばならないの。

 行かせてくださいな」

「湖の・・・精霊?」


男は怪訝そうに片眉をあげた。

よく見ると、先程は容姿の端麗さばかりに目が行って、

気が付かなかったが、ずいぶんと若い男だ。

二十かそこに届かないくらいだろう。

彼は不思議そうにカエデが向かおうとしていた、水面上の満月を見た。


「髪結い紐などないが」

「え?」


見れば確かに元からなかったかのように、浅葱色はな
くなっていた。

ただ月が揺れているだけだ。

己を縛る責任のようなものから解放されて、カエデは息を吐いた。

安心したせいか力が抜け、足元がふらつく。

ぐらりと傾いた彼女の体を再びたくましい腕が抱きなおした。

「あっ・・・」

急に恥ずかしくなり、あわてて離れようとするが腰にまわる腕はびくともしない。


「あの・・・?」


どういうつもりなのだろうかと青年の顔を見上げたカエデの額に滴が落ちた。


「ひゃっ」


冷たいそれはさらに落ちてくる。

みるみるうちにどしゃぶりになった。

青年は一瞬空に視線をやった後、腕の中にいるカエデをじっと見つめた。


「な、なに?」


やや顔をひきつらせながらたずねると、青年は唇の端をつり上げた。

顔の造形が整っているだけに、妙な迫力がある。

一体なんだというのだろう。

カエデは笑われたことに文句を言おうとしたが、視界と体が大きく揺れたので悲鳴をあげた。

青年がカエデを抱き上げたのだ。

その腕はすらりとして見えるのに、カエデを抱えても少しも揺らがない。

じっとりと濡れた衣が肌にはりついて、青年の熱を直接的に伝えてくる。


「なっ、なななななにをするの!!

 おろして!!」

「おとなしくしておけ。

 雨宿りをしに行くだけだ。

 案ずるな」


案ずるなと言われてはいそうですかと素直にうなづけるわけがない。

初対面の男にどこかに連れ去られそうになっているのだ。

しかも夜に。

カエデの顔から一気に血の気がひいた。

青年はそれにかまわず、カエデを腕に抱えたまま,

すたすたと湖から出て、歩き出した。


「おおおおろしてってば!!」


今はカエデだけでなく、カエデのたっぷり水を含んでいる衣もあるのだ。

かなり重いはずだ。

だから、自分で歩きたいのに、青年は彼女の発言をさらりと受け流し、無言で歩き続けた。

もがこうにも、濡れた衣がまとわりついて、うまく体を動かせない。

そして、青年は石灰岩でできた洞窟の前で立ち止まった。


「…ここでいいか」


青年は身をかがめて洞窟の中に入ると、静かにカエデ
をおろした。

意外にもあっさりおろしてくれたのでめんくらってしまう。

思わず青年の顔を見上げた彼女の顔に、布が降ってきた。


「わっ」


鼻腔ををくすぐる微かな香のしめやかな匂い。


「それで体を拭いておけ」


しんしんと身に染みる寒さ。

確かに髪や体が濡れたままだと風邪をひいてしまうかもしれない。

礼を言おうと青年の方を向き、カエデは固まった。

彼はちょうど火打石で、火を起こそうとしていた。


「ちょっ、だめ!

 だめだめだめ!

 やめなさい!」


男は手を止めて、怪訝そうにカエデを見た。


「何がいけないんだ」

「あなたは湖の精霊なんでしょう?

 火に近づきすぎると、消えちゃうわ!」


水の精霊は火に近づくと消えてしまうという言い伝えがある。

別に死のうとしたわけではないが、命の恩人が目の前で消えてしまうのは、いやだった。


「ほう・・・」


青年は片眉を上げると、火打石を地面に置き、カエデの方に身を乗り出してきた。


「な、なに?」


これでもか、というほどに整った顔が迫ってきたので、カエデは座ったままわずかにあとずさった。


「何故、おれを精霊だと思った」

「・・・え?」

「何故」

「そ・・・それは・・・」


あなたの容姿が人間のものとは思えないほど整っているから。

なんて口が裂けてもいえない。

恥ずかしさを隠すために、カエデはプイッと横を向いた。


「あっ、あなたに言う必要はないわ」

「命の恩人に対してずいぶんな口のききようだな。

 ・・・無理に言わせてもいいんだが?」


妙に色気たっぷりな視線にカエデはさらに後ろに後ず
さろうとした。


「・・・何か勘違いしているようだから、一つ言っておく」


楽しそうに青年は言った。


「おれは、精霊でも湖の主でもない」


え、とカエデは動きを止めた。


「おれはいたって普通の人間だ」


あたりに沈黙が満ちた。

ぽかんと口を開けて静止すること数秒。


「う、うそでしょ・・・」

「何故おれがうそをつかなければならない?」

「だって・・・ありえないわ」


呆然とつぶやいた。


「こんなに見目麗しい顔で・・・こんな・・・」

「ほう、そうか」


カエデは青年の声ではっと我にかえった。

本音がダダ漏れであったことに気づき、あわてて口を手で押さえたが、時すでに遅し。


「どうりで先程から熱烈な視線を感じていたわけだ」


実に、楽しそうに笑う青年を見て一気に顔が熱くなった。

口が裂けても言えないはずなのに、言ってしまった。


「だっ、だだだだだだだ誰がそんな風に見るものです
かっ!!」

「違ったのか?

 気のせいだとは思えないほどだったんだが・・・」


恥ずかしさのあまり顔から火をふいてしまいそうだ。


「おれにほれたのかと思った」

「ほっ、ほれっ!?」


青年があまりにも美しい顔立ちをしているので見とれ
たことは事実だ。


「ほ、ほれてなんかない!!」

「そうか。

 それは残念だ」


そう言うと、何事もなかったかのように、青年は元の場所に座り込むと、

再び火打石を手に取った。

乾いた音と共に、闇の中に紅い火花が散る。

やがてかすかな光が枯れ木の山にともった。

いつのまにか枯れ木を彼は集めていたらしい。

やがて光は大きくなり、夜の闇に青を垂らしたような、彼の瞳を鮮やかに照らし出した。