コメディ・ライト小説 ※倉庫ログ
- 日常の変化【39】 ( No.104 )
- 日時: 2013/08/06 17:30
- 名前: ゴマ猫 (ID: S9l7KOjJ)
保健室に着くと、橘さんは消毒液と絆創膏を棚から出してくれた。
どうやら保健の先生は不在らしい。
「はい。桜井君」
橘さんは、脱脂綿に染み込ませた消毒液を俺の顔につけてくれる。
——い、痛い。
蹴られた時に口元も少し切ったみたいだ。
「そういえば、橘さんはどうしてあんな所に居るのがわかったの?」
「えっとね、よっちゃんから桜井君が三山君に連れてかれたって聞いて……それで慌てて見に行ったらあんな事になってて」
そうだったんだ。
しかし、よっちゃんって誰だ? 三山はあの男の事なんだろうけど。
上を向き、鼻をおさえながら手当てをしてもらっていると、保健室の扉が開き誰かが入ってきた。
「あちゃー、洋くんその様子じゃ大失敗だったみたいだね」
その人物は先ほどの女の子。サイドポニーを揺らしながら、こちらに近づいてくる。
「俺は青山さんに来てくれって頼まれたんだよ」
葉田と呼ばれる男はクールな表情でサイドポニーの女の子と俺を交互に見ながら淡々と話す。あの子、青山さんっていうのか。
「はじめまして……になるのかな? 青山美晴です。よっちんから噂は色々聞いてるよ。うーん、菜々ちゃん災難だったね。モテる女もつらいもんだ〜」
『青山』さんという女の子は、茶化すような口調で、橘さんに簡潔すぎるというか、やや適当さがまじった自己紹介をして、肩を両手でポンポンと叩く。
「え、えっと、はじめまして。青山さんがよっちゃんの仲の良い友達だったんですね」
橘さんは合点がいったように頷いた。
よっちゃんって誰だ?
人の名前が思い出せなさ過ぎて、名札とかつけてほしいと真剣に考えてしまった……。
橘さんは青山さんを見ながら、「……可愛い」と小さい声で呟いていた。
「桜井がここに来るのは2回目か。前回は急に倒れたんだよな」
葉田がそう言うと橘さんが頷き、青山さんは首を傾げる。
……全然思い出せない。思い出せないが、怪しまれないように「そうだな」とだけ返事をした。
————
自宅へ帰ってくると、焦燥感からかベッドに身を投げ出して、頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。
……俺、ほとんど人の名前が思い出せなくなっていた。それどころか、その人との関係性まで。
唯一覚えていたのは橘さんだけ。
彼女の……彼女との記憶だけは覚えていた。逆に言えば、その他の事はほぼ忘れているんだと思う。周りに合わせて取り繕うのもそろそろ限界だ。
「……どうしたらいい……」
羊の言葉、『本当の意味での笑顔』『橘さんの内側』……人の内側なんてそう簡単にわかるもんじゃない。
「へへっ」
思わず自嘲するような笑いが出てしまう。
自分のために橘さんを利用するような事や、無理に聞き出したりは絶対したくない。
たとえ俺の記憶が全てなくなったとしても。
俺にとって橘さんはとっても大事な人で、いつの間にか、かけがえのない人になっていた。
薄々、気付いてたんだ。この気持ちは————俺は彼女を、橘さんの事を好きなんだ。
「……もしかしたら、ちょっと遅かったかもしれないな」
俺は羊と約束をしていた『橘さん』の事は忘れないと勝手に思いこんでいたけど、なんとなく、本当になんとなくだけど、橘さんの事もその内忘れてしまうような、そんな予感がしていた。