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空白の時間【桜井 洋一編】 ( No.135 )
日時: 2013/08/27 22:31
名前: ゴマ猫 (ID: RohPBV9Z)


お賽銭箱の所まで着くと、橘さんは俺から手を離し、目を閉じて両手を合わせ、祈りはじめた。

すると、まもなくして急速に意識が落ちていく。意識が戻り、ゆっくりと目を開けると、あたり一面が真っ暗な空間に俺と橘さんは居た。
夜の暗さとはあきらかに違う異質さを感じる暗闇、ただ橘さんと俺だけはぼんやりと見える。
例えるなら、俺達にだけ弱めのスポットライトでもあたっているような感じだろうか。

「……あっ」

橘さんが呟くような小さな声をあげた。
俺は橘さんの視線の先を見てみると、そこには真っ白な毛皮におおわれた羊が居た。
……これは夢なのか?
そんな疑問が頭に浮かぶ中、橘さんと羊は会話を始めた。

「……今日はお願いがあってここまで来ました」

「そなたの言いたい事はわかっている。その少年の記憶を戻せと言うのだろう?」

「はい」

羊が喋る事にも驚きだが、橘さんが羊と普通に会話をしている事にさらに驚いた。
事態がいまいち理解できないまま、俺は橘さんと羊の会話を聞く。

「それはできない。その少年は約束を果たせなかった。……いや、というより果たす事ができなくなったという方が正しいのか」

「ど、どういう意味ですか……?」

訝しむような視線を羊に向ける橘さん。

「そなたの願いはすでにかなえられたからだ。離ればなれになった、そなたの父は戻ってきて、そなたは心からの笑顔を取り戻した」

重く低音の声で、淡々と話す羊。

「偶然ではあるが、少年が約束を果たした訳ではない。……それに、自らにかかわった全ての人物の記憶を消してほしいと、その少年が望んだ事なのだ」

……よくわからないが、この『羊』は他人の記憶操作ができるという事か? 
たちの悪い冗談だ。
羊が喋るってだけでも驚きなのに、人の記憶操作までできるなんてもはや漫画や映画の世界だ。
——それと、いくつか疑問もある。
『かかわった全ての人物の記憶を消してほしい』と『俺』が願ったのなら、なぜ橘さんは『俺』の事を覚えているんだ?

——それに、その約束だと、まるで羊が橘さんのためにした事のようだ。

「……その約束は、私のためにしたものなんですか?」

橘さんはかすれるような声で羊に尋ねる。
俺が疑問に思った事と一緒だ。

「そうだ。そなたが幼い頃に私は一度助けてもらった。あの時から、私はずっと思っていたのだ……いつかそなたを心からの笑顔にしたいと」

「……じゃない」

羊が話し終えると同時に橘さんが聞こえないぐらい小さな声で何か呟いた。

「そんなの私が望んだ事じゃない……。お父さんも、桜井君も居るから私は笑顔でいられる。どっちが居なくなっても、私は笑顔になれないよ」

橘さんは、今度はハッキリと聞こえるように話した。
……橘さん。
以前の記憶はないけれど、俺は橘さんに笑っていてほしいと思う。

「……橘さん。大丈夫……大丈夫だから。俺、前の記憶はないけど、もうどこにも行かないから」

「……さ、桜井……くん」

俺を見つめたまま、橘さんの瞳から決壊したダムのようにとめどなく流れ落ちる涙。
きっと、記憶があってもなくても、橘さんの事は好きになったと思う。

もう一度、そう、最初から始めればいい。
何度だって、やり直せばいい。
迷ったら一緒に考えればいい。

——俺のこの気持ちがあるかぎり、何度だって。