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悪意と不思議な出来事【36】 ( No.100 )
日時: 2014/10/05 22:11
名前: ゴマ猫 ◆js8UTVrmmA (ID: 2CRfeSIt)

 この広い部屋の中に、時計が時を刻む音だけが静かに鳴り響いている。それは永遠なのではないかと感じるように、ほんの数秒のはずなのに、おそらく俺の人生の中でもっとも長い時間だった。

「……と、とにかく、少し落ち着いてください」

 既にゼロ距離になっていた先輩の肩に、手を置いてやんわりと距離を取ろうとする。

「い、嫌です……今離れてしまったら、清川くんは、もう二度と私と会ってくれないかもしれません。……そんなのは、嫌です」

 先輩は俯きながら、少し拗ねたように唇を尖らせて、俺の服の裾をギュッと掴んでくる。やっとの事で絞り出した言葉さえ、そんな表情の前では、俺の理性が簡単に崩壊させられてしまいそうになってしまう。
——でも、このまま勢いに流されるのはダメだ。

「先輩、俺は——」

 ——ガチャン

 意を決して、次の言葉を紡ぎ出そうとした瞬間、俺の右手首に違和感が走った。視線をやると、鈍く光る銀色の輪。よくテレビなどでは見るが、実際に目にするのは初めてだ。……って、手錠?

「……せ、先輩? これはなんですか?」

「……て、手錠です」

 うん、知ってました。ですよね。

「そうではなくてですね、なぜ、俺の手にかけられてるのかが、知りたいんですが」

「……き、清川くんが、逃げてしまわないようにです」

「…………はい?」

 ちょっと待て、落ち着こう俺。
 さっきまでの俺は、とても大事な事を言おうとしていた。その途中で、右手首に違和感、確認すると手錠。どうやら、もう片方の輪は先輩の手首にかけられている。なに、もしかして俺、無意識に何が起こるかわからない不思議呪文でも唱えたのか? 

「い、意味がわからないんですが?」

「そのままの意味です。清川くんに離れてほしくないから、て、手錠をかけました」

 ……なるほど。俺に手錠をかけておけば、逃げられる心配がなくなる。なかなか面白い発想だよな——って、んな訳あるか。 

「先輩、はずしてください」

「い、嫌です」

「鍵、持ってますよね? 貸してください」

 俺は、淡々とした口調のまま、先輩に詰め寄る。だが先輩は、俯いたまま俺の顔を見ようとしない。
 どうしたもんか。このまま押し問答を続けてもキリがない。どうやら手錠といっても本物ではなく、パーティーなどで使うジョークグッズのようだ。(鍵穴が付いているタイプだが)材質はプラスチックだし、少々手荒だが、叩き壊す事もできなくはない。ただ、2つほど問題がある。1つは、そんな事をして、先輩を怖がらせたり、傷つけたくないという事。2つ目は、俺の右手は負傷中であり、正直なところ破壊するほどの衝撃を与えたら、俺が悶絶するような痛みがもれなく返ってくるという事。(もちろん、ニッパーやペンチがあれば容易いが、どこにあるかわからないし、この状態では探せないだろう)以上のような事から、ここはなるべく穏便に先輩から鍵をもらうのが最善かと思う。

「先輩」

「……い、嫌です。鍵をはずしたら、清川くんは二度と私に話しかけてくれません」

 鍵を渡して下さいと、促すように視線を送るが、先輩は俯いたまま、子どものように拗ねた口調で拒否をする。どうしたものかと考えていると、ポケットに入れてある携帯が振動した。ちなみに、俺の携帯は通話とメールだけができる簡素な物で、たまに時代を逆行しているんじゃないかと言われる事もある。

「……げっ」

「どうしました?」

 着信のディスプレイを見て、大事な事をすっかり失念していたと気づく。
 ——そう、バイトの事すっかり頭から抜け落ちていた。遅れると連絡はしたものの、休むとは当然伝えてないわけで……つまり、時間になっても来ないから電話がかかってきた、と。しかも、電話の相手はマスターではなく、渚。でない訳にいかないので、通話ボタンを押して携帯を耳に近づける。

「もしもし」

『あっ、やっとでた。準一、今どこに居るの? 時間になっても来ないから、マスター心配してるよ』

「……すまん。それが、その、なんていうか、説明しにくいんだが」

 どうやって説明したもんか、手紙のあれこれはいいとして、今先輩の家に居るとか言いにくい。

『どうしたの? なんかあった?』

「いや、お店はどんな感じだ? 忙しいか?」

『ううん、今日は芽生ちゃんも手伝ってくれてるし。って、準一質問に答えてない』

 芽生ちゃんって誰だ? あそこのバイトにそんな名前のやついたっけ? とにかく、また渚に変な誤解をされたら俺が困る。ここは、なるべく丁寧な説明を心がけたい。

「あぁ、悪い。とにかく、店に行くよ。説明はそれか、ら!?」

 通話してるすぐ横で、先輩が俺の携帯に耳をくっつけて会話を聞いている。何してんだ、この人は。ってか、近い近い。

『どうしたの?』

「いや、なんでもない。とりあえず今から行くから、マスターにも伝えてもらえるとありがたい」

『うん、わかった』

 通話終了ボタンを押して、俺は先輩に向き直る。

「先輩、何してるんですか?」

「……準一くんが、お店に行くって言うから気になったんです」

 俯きながら唇を尖らせる、そんな仕草が妙に子どもっぽい。はぁ、本当にどうしたもんか。

「……先輩、俺はこれからバイト先に行かなくちゃいけなくなったので、これをはずしてもらえますか?」

「……はずして用が済んだら、また戻ってきてくれますか?」

 正直なところ、戻ってきたくはない。何が悲しくて、手錠をかけられに戻ってこなければいけないんだ。俺にはそういう趣味はない。しかし、傷の手当てをしてもらった訳だし、何より、「うん」と言わなければ、解放してくれそうにない。
 それに、今の先輩はきっと混乱しているだけだ……と信じたい。

「わかりました。戻ってきますので、はずしてください」

「……ぜ、絶対ですよ? 約束ですからね」

 先輩は、おそるおそるといった感じで、俺の手錠をはずしてくれた。痛む足を引きずりながら、俺はそのまま玄関へと向かった。