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- Re: 甘美な果実〜微かな吐息〜【短編集】 ( No.100 )
- 日時: 2015/01/06 19:20
- 名前: 朔良 ◆oqxZavNTdI (ID: 2IhC5/Vi)
「血染めのドレスもよく似合い、」
その紅い瞳に、その鋭い牙に、惹かれてしまったの。
私の純白のドレスも真っ赤な血で汚してほしいの。
広い広い洋館の大学の中の鍵のかかった一室。グランドピアノが置かれているスタジオの中に響く不協和音。奏でているのではなく、ただ鳴らしているだけの幾つもの音が意味もない羅列を並べる。
不協和音の終幕はストレス発散しきったような勢いで迎える。それでも長年ピアノをやっているからか自然に上手く閉めてしまうことが逆に腹を立たせる。
「……どうして、綺麗に終わっちゃうの」
感覚で覚えた指が、どの和音が綺麗になるのかを知っている。それなのに汚い音楽を生み出すことができないもどかしさにイライラした。
溜息をついたと同時にやる気がない拍手が聞こえた。私は反射的に扉の方を見る。そこには半分ほど開いた扉にもたれかかっている見知らぬ一人のやたらと顔の整った青年が立っていた。
「……不協和音を奏でるんだな」
「……貴方、どうやって入ってきたの? 鍵は閉めていたはずだけど」
「どうやってでもいいだろ」
青年はゆっくりとピアノに近づいてくる。私は椅子から立ち上がって身構えた。
彼の紅い瞳はまるで血のようだった。獲物を狩る前の威嚇を感じさせて恐ろしくさせる。彼の手がこちらに伸びてくる。私は震える身体を悟られないように右手を左腕に回し、全身を守るようにした。
彼はそんな私を見て笑い、左手で鍵盤を鳴らした。そこから両手を伸ばし、かろやかに指を動かす。氷のように冷たくて静寂を感じさせる音楽だった。とても綺麗なのに時々耳を抉るような不協和音が奏でられる。どこかグロテスクな薫を漂わせる音だった。
「不協和音の旋律なんて、心が汚れている人じゃないと弾けないよ」
彼はそう言って自嘲するように笑い、真っ直ぐに私の瞳を射抜いた。魂を持っていかれたように動けなくなった。
その瞬間、首筋に冷たい何かが触れた。その感触で身体の自由を得たが、目の前に彼はいない。そして首筋に感じる冷たいものを背中に回った彼の指先なのだと気付いた。いつの間に私の背中に回ったのだろうか。一瞬気を取られた隙に後ろに回るなんてほぼ不可能だ。
「……何をしたの?」
「別に何も? ただ、触れているだけさ」
そう言いながら彼の細い指が私の首筋を這っていく。ゆっくり、ゆっくりと人差指で上に這っていくのだ。私は戸惑いと恐ろしさで呼吸がままならなかった。彼の冷たい指が私の唇に触れる。一瞬動きが止まるが、すぐにそのまま彼の人差指ではなく右手が私の唇を覆った。
「ふうっ……うー!」
「もっと色気ある声出せないわけ? ああ、でもお前の香りは誘われるな……」
彼の吐息が首筋にかかる。身体全身が震え上げる。この人に喰われてしまうのではないか、という感覚に襲われて。
瞬間、首筋に熱い濡れたものを感じた。彼の舌が触れているのだと感じると顔が真っ赤に染まった。
「甘くてとろける香りがする……」
彼の艶めいた声がスタジオに響く。口と身体を抑えつけている手も、首に触れる熱い舌と吐息も私を捕えたように動かせなくさせる。
このままどこか知らない場所へ連れて行かれるのではないかと思った時、扉を思い切り叩く音がした。それに気付いて彼は私の身体から離れた。
「澄香お嬢様! もうピアノを弾く時間は終わりましたよ。次は英会話の先生の元へ行って下さい!」
私のお世話をしてくれているメイドの声だと気付き、慌てて「今行きます」と声をかけた。
「ちっ……邪魔が入ったか」
彼はピアノの先にある窓に近寄った。
「な、何して……!」
「またな、澄香」
そう彼は私の名を呼んで——窓から外へと飛び降りた。
驚きで声が出なかった。ワンテンポ遅れて窓に近寄ると、下にはもう誰もいなかった。ここは3階。飛び下りれば大怪我、いや運が悪ければ死だってあり得る。
「どういうこと……?」
彼は「またな」と言って去って行った。
彼に触れられると甘くてとろけるような感覚に陥る。触れてほしくないのに触れてほしい——私にそんな想いを残して行ってしまった。触れられたところが火傷したように熱い。身体中が疼くのは何故なのだろう。あんな得体も知れない男に触られて、どうして私は「またな」の意味を期待しているのだろう。