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Re: 甘美な果実〜微かな吐息〜【短編集】 ( No.68 )
日時: 2014/08/03 15:27
名前: 朔良 ◆oqxZavNTdI (ID: 2IhC5/Vi)

「海底のエレジー」

 こんなに「好き」と伝えたいのに。
 想いばかりが溢れるけれど、私には何も出来ない。


 そこに美しく流れているのは少女の声だった。美しく、繊細な歌声を聴いた少年は、すぐさま駆け出す。その声に向かって。
 草を掻き分け、一心不乱に走る。遠くに海が見える。そして、海を見つめて声を出す少女がいた。
 腰まである黒髪に白いワンピース。夏の暑い日なのに、彼女の周りは清潔感を伴い、とても涼しげだった。
 その口から清らかに流れ出した音は止まり、少女は溜息をつく。少年はそれを見計らったように飛び出した。

「綺麗な声だ……! なあ、お前の名前何て言うの?」
「えっ……」

 少女は突然声をかけられ、少し驚いた。顔が真っ赤に染まっていく。見知らぬ人に自分の声を聞かれていた、ということが恥ずかしかったのだろう。

「俺は中原京汰! 夏休みだからばあちゃんちに来てるんだ」
「わ、私は海月美亜です。伯父が経営している海の家が近くにあるので……遊びに来ているんです」

 美亜と名乗った少女はたどたどしく美しい声で言葉を紡ぐ。口下手なのだろう、俯きがちに口を開いた。京汰はそんなことに気付くわけもなく、美亜の両肩を強く握った。

「俺、夏休みの間はこっちにいるからさ、明日の午後にまたここで歌ってよ! 美亜の声、俺すごい好きだ!」

 美亜は真っ直ぐに「好きだ」という京汰に戸惑いながらも、頷いた。そして、顔を上げて京汰の顔を真っ直ぐに見た。

「——ありがとう」

 京汰は美亜の温かい笑顔に照れながらも「ああ」と返事をした。

 ——しかし、京汰の前に美亜が姿を現すことはなかった。






「……暑い」
「京汰、余計暑くなるから声に出さないで」

 京汰は熱い光を発する太陽を見上げながら呟いた。母は暑苦しい、と京汰を一喝する。
 高校生活も2年目になり、落ち着いてきた頃。7年ぶりに祖母の家に来た。あれ以来、何となく遠ざかっていた町だ。

「ああ、京汰。久しぶりだねえ」
「久しぶり、ばあちゃん」

 相変わらずの優しい笑顔で京汰たちを迎える。
 しばらくスイカを頬張りながら雑談を交わしていたが、もう夕食の時間になる。

「……あ、京汰、近くのスーパーに卵買いに行ってくれない? 買い忘れちゃって」
「近くのスーパーってどこ」
「ここから歩いて20分くらいのところ」
「近くじゃねえよ、それ……」

 文句を言いながら京汰は立ち上がる。何だかんだで行ってくれるのだから、母は満足なことだろう。

 ゆっくりとした足取りで歩く。外は暑すぎて、一歩進むことさえ億劫だった。
 つい下を向きながら歩いていたからだろう。前から来る人に気付かず、衝突してしまった。
 京汰はよろけるだけだったが、衝突した水色のワンピース姿に長い黒髪をサイドに三つ編みしている女の子は尻もちをついていた。麦わら帽子を深くかぶっているため顔はよく見えなかった。

「ごめん! 大丈夫?」

 そう言いながら京汰は彼女に手を伸ばす。彼女は何も言わずその手を取った。立ち上がった反動で麦わら帽子が落ちる。その時、京汰の目に女の子の顔が映る。その顔は忘れようとしても忘れられないあの少女の顔だった。

「……美亜?」

 彼女も名前を呼ばれ京汰に気がついたようで、目を見開く。しかし、一瞬動揺を見せただけで、すぐさま落ちていた帽子を拾い、京汰に頭を下げて立ち去ろうとした。

「待てよっ、美亜!」

 走り出そうとした美亜より一瞬早く動いた京汰は美亜の腕を強く握る。背を向けていたが、振り返る。その美亜の表情は苦虫を握りつぶしたような表情で、けして再会を喜んでいるものではなかった。

「どうして、何も言わないんだよ……」

 そう問うと、美亜は一層悲しそうな表情をして、唇の動きだけで京汰に4文字の言葉を伝えた。それはありふれた謝罪の言葉だったけれど、美亜の唇で描かれたそれはとても重く感じた。

 思わず、握った腕の力を弱めた。美亜は一瞬の隙を無駄にせず、京汰の腕を振り払って駆け出した。

「何だよそれ……!」

 会いたかった。昔も、今も。どうしてあの日、美亜は約束した場所に来ることがなかったのか。
 一日待ち続けた京汰を今はどう思っているのか。