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- Re: 透明な愛を吐く【短編集】【白銀の小鳥リメイク中】 ( No.5 )
- 日時: 2016/11/18 19:50
- 名前: あんず ◆zaJDvpDzf6 (ID: MXjP8emX)
#3 『君の消えた世界で』
——好きだよ。
いつかの君の声が、聞こえた気がした。
海を見に行こうと言い出したのは君だった。春が来たら海に行こう、買ったばかりの車に乗って。なんて、ひどく嬉しそうに。
君は海が好きで、私達の思い出はいつだって潮の香りと波の中にある。喧嘩した時も、仲直りの時も、卒業の時も、出会いと別れも。全部、海が近くにあった。
押しては引く波の、貝殻を擦り合わせたようなさらさらとした音の中。君は泣いて、怒って、見慣れた笑顔で喜んで。私が君を思い出すなら、海がなくては語れないだろう。君を思えば、波の音があふれてくる。
だから、今こうして目の前に広がる遥かな水面を見て、私は君のことしか考えられない。夕焼けで赤く染まるこの景色は、何度も見たことがある。君とともに、見たことがある。
きっとそのせいだ、隣の空白に違和感しかないのは。君が座るはずだった隣のシートには、ぽつんとテディベアが座っている。小さなそのぬいぐるみをそっと抱き上げて、見つめた。
「……会いたい」
かすれる声で漏らした言葉は、私の全てだった。私の思いの、全て。
会いたい。会って話をして、ううん、違う。もっと、もっと単純なこと。
何だっていい。声が聞きたい。
夕日が沈んでゆく水平線。海に溶けていくように、その境界は曖昧になっていく。きらめく海が、一番美しい時間だ。
いつの間にかこぼれた涙が、小さなテディベアの頭を濡らした。顎を伝う透明な雫は、夕焼けの色に染まっているに違いない。
*
唐突な一本の電話。彼の母の震える声。戸惑うままに飛び出した外の空気の冷たさ。
体中にのしかかるように重く、息を吸うたびに詰まるような、重い潮の香り。絡みつくような夜の闇と、普段よりも格段に甲高く聞こえた波の音。
全てが「最悪」を示している気がして、手が震えそうになるたびに車が揺れた。自分の手元にあるハンドルを固く握りしめ、浅い呼吸を繰り返す。
辿り着いた病院の壁の白さを、今でも覚えている。
よほどひどい顔色だったのだろうか、面談のためにと向かった受付で看護師さんに呼び止められた。大丈夫ですか、そう気を遣うような彼女の声を押し切って無理に彼のことを聞いた。
その名前を告げた途端に、彼女は口をつぐんだ。そして努めて冷静な声で、ご案内します、とお辞儀したその背中に、一層恐怖が押し寄せる。最悪はすぐそこだと、誰かに言われた気がして。
それからのことは、もう私にもわからない。
病室のドアを開けたら、すぐに彼の母に抱きしめられた。昔からよく知るその人の、咽びなく声。震える足でたどり着いた彼の眠るベッドと、すでにリズムを刻まない心電計。崩れ落ちた、自分自身。
柔らかな笑顔で眠っていた最期の顔を、私はもう思い出せない。
*
もしも私が死を選べたなら、それはどんなに楽だっただろう。そんなことを思っては、自分を叱咤する。
私も好きだよ。震える舌が、あの日の言葉をもう何回も繰り返している。
海が見たいと笑った君はすでにいない。だから一緒に海を見る約束は、もう誰にも果たせないんだ。あの日の約束は永遠に約束のまま、私の中に残り続ける。
「綺麗……」
今まさに沈みきる夕日が、海を金色に溶かしていく。その上を包む、悲しいほどに美しい茜と紫に染まる空。
じわりと、涙が乾いた瞳から再び雫がこみ上げる。鼻をすすりながらそれを小さく指で拭う。
誰がいるわけでもないのに、その涙を誰にも知られたくなかった。
きっと君が知ったら、心配させてしまうから。
太陽が沈みきった空の下、しばらく波の音に耳を傾けた。寄せては返す、押しては引いて、何度も何度も繰り返す波。嘆くように、歌うように、静かな波音を奏でている。
温かな風が、スカートを優しくはためかせた。見上げた茜と紫の、いまにも溢れてきそうなほど星を湛えた夜空。透明な空気は、遥か宇宙を余すことなく映し出す。
君は今、この空の上にいるのかな。
そうだといい。そうあってほしい。美しい空の上で、ただ君が幸せであればいい。そう思うのは私の我儘なんだろうか。
「ありがとう、ずっと」
ありがとう、もう一度だけ口の中で呟く。小さなその声を聞いていたのは、柔らかな風と、腕の中のテディベアだけだろう。
キーを差し込んでエンジンをかける。耳慣れたその音と、小さく響くカーラジオ。窓を開けば、こもった空気が潮の香りに流されていく。
きっと、大丈夫。君が愛した海の香りを、私もまた、愛したい。
君がいなくても生きていけと、誰もが言う。私もそう思う。これから始めよう、何もかも。
全部抱えて、君がいつか思い出になる日が来るとは今は思えない。そんな日は来ないのかもしれない。君は今の私の全てで、これからも大切なままで。
けれどそれでも、光が差すなら。
忘れない思い出も、訪れる明日も。
全てを抱えて、歩けますように。
走り出した車内に、付けっぱなしのラジオから軽快な音楽が流れ出す。流行りの歌手の伸びる声と、吹き込む柔らかな風。
隣に座る、君がくれたテディベアは、きっといつまでも宝物のままだ。
坂道を曲がれば、いつしか海も小さくなって。
——やがて全て、見えなくなった。
***
『人生は、決して後戻りできません。
進めるのは前だけです。
人生は、一方通行なのですよ。』
《引用:アガサ・クリスティ》