コメディ・ライト小説(新)
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.164 )
- 日時: 2017/10/08 19:55
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: IWueDQqG)
116話「アンナと呼んで」
——翌朝。
とてもよく晴れている日だった。
降り注ぐ太陽の光は目を細めざるをえないくらいに眩しい。体がポカポカと暖かくなり、眠くなりそうな心地よさ。風はあまり吹いていないが不快なベタつき感はなく、比較的過ごしやすい気温と湿度である。
起床して簡単に身支度すると、すぐにエリアスのところへ向かうことにした。今日彼をディルク王に会わせなくてはならないのだ。
本当なら昨夜のうちに話しておくべきだったのだが、眠すぎてあの後すぐに寝てしまった。だから、エリアスに話をしに行かなくてはならないのだ。
ディルク王に会って話せ、などといきなり言えばエリアスは驚くに違いない。少し申し訳ない気もするが……彼のことだ、きっと上手くやってのけてくれるはず。
「おはよう、エリアス。調子はどう?」
救護所へ行き、ベッドの上でぼんやりしているエリアスに声をかける。彼は私の声に素早く反応し上半身を起こした。そのくらいの動作なら一人でも可能なようだ。
おはようございます、と丁寧に返してきた彼の表情に曇りはない。思っていたよりか元気そうで、私は内心胸を撫で下ろす。
「心配して下さったのですか?ありがとうございます。聖気が回復してくれば、傷の治癒はさらに早まることと思います」
聖気は天使の生存に必要不可欠なものだ。それがまだ回復していないというのは心配ではあるが、意識も動作もしっかりしているところを見ると、生命の危機というほどではなさそうである。
気にしすぎも良くない。私が気にすることで、それを察した彼が逆に不安になるかもしれないから。
「王女はお優しいですね」
エリアスは柔らかな笑みを浮かべる。まばたきする度、羽のような長い睫が軽く上下する。
私とエリアスはそれからしばらくたわいない会話を続けた。本題を切り出す勇気がなかなか出なかったのだ。
——そして三十分くらいが経過しただろうか。
唐突にエリアスが言った。
「ところで王女。今日の本題は何です?」
エリアスは私が本題を切り出せずにいることを察しているようである。
それでも勇気が出ない。こんなところで立ち止まっている場合ではないと分かってはいるのだが、余計なことを考えてしまって一歩を踏み出せずにいる。
私の独りよがりなのではないだろうか、とも思えてくる。私の勝手な行動でまたエリアスを巻き込んでしまったら……。
「王女。どうなさいました?」
考え込む私の顔を、彼は心配そうに覗いていた。
……そうだ。私がクヨクヨしていたら、それこそ彼に迷惑をかけることになってしまう。勇気を出して言わなくては。私たちの未来のためにも。
「あのね、実は——」
私は、ディルク王に言われたことを、包み隠さずエリアスに伝えた。ディルク王がエリアスの忠誠を試そうとしていることも。
一通り話し終えてから彼に目をやると、彼はいつもと何も変わらず穏やかに微笑んでいた。
「王女への忠誠を試す、とは実に興味深い。臨むところです」
エリアスは私が予想していたよりやる気になっているようだ。みるみるうちに表情が生き生きしてきた。今にも動き出しそうな勢いである。
「何だか乗り気ね」
「もちろんです!王女への忠誠でなら誰にも負けません!」
負傷者とは思えないほど元気そうな声で宣言するエリアスの瞳には一片の曇りもない。彼も変わったな、と内心思う。かつての彼は、笑っている時でも、どこか寂しげな空気を漂わせていた。しかし、いつの間にかこんな風に純粋な表情を浮かべるようになっていた。忙しい間は気づかなかったが、これはかなり大きな良い変化だと思う。
いつか私もこんな綺麗な瞳で話せるようになりたいものだ。今はまだ無理かもしれないが。
「では、本日の正午、王の間へ行って参ります。ちなみに王女はどのような予定で……」
「エリアス、ちょっといい?」
私は彼が喋るのを遮る。彼はキョトンとした顔でこちらを向き、首を傾げながら、「何ですか?」と尋ねてくる。
磨かれた宝玉のような瑠璃色の瞳が私をじっと見つめている。さすがに気恥ずかしくなり、少し目を逸らしてしまう。
「何でしょうか?」
こんなではダメだ、と自分に言い聞かせ、エリアスに視線を戻す。彼は少し不安げな表情をしていた。
「その……私、もうすぐ王女じゃなくなるでしょ?」
「はい」
「だからこれからはアンナって呼んでもらえないかな。ほら、女王になって呼び方が王女のままっていうのも変でしょ」
もう王女と護衛隊長ではないのだから、名前呼びでも構わないはずだ。それに、アンナと呼んでもらえば、もっと距離が縮まるような気がする。
エリアスは少し黙り、しばらくして返してくる。
「女王ではいけないのですか?お名前でなくとも構わないのではと思うのですが」
そう簡単に呼んではもらえそうにないが、ここで諦める私ではない。
「名前で呼んでほしいわ。エリアスは名前呼びするの嫌?」
すると彼は困った顔になる。何やら迷っているように見える。
「嫌なら今のままでも構わないけど」
彼を困らせるつもりで言ったわけではないので、一応付け足しておく。真面目に悩ませてしまっても悪いからだ。
「……分かりました。ではこれからはお名前で呼ばせていただこうと思います。ただ、少しだけ時間をいただけませんか?……練習が必要です」
エリアスの頬はほんのり赤みを帯びている。整った大人らしい顔に似合わない、初々しい表情を浮かべる。普段の余裕を感じさせる柔らかな表情とは異なり、とてもぎこちない表情だ。
彼は男性だからかっこいいと言うべきなのだろうが、今の彼の様子には、どちらかというと「可愛い」が似合うなと思う。そして私は彼のそういう部分に魅力を感じるのである。
「じゃあ試しに呼んでみてちょうだい。アンナ、って」
何事も実際に試してみることが大切だろう。
「は、はい。では」
エリアスは落ち着かない様子だ。ぎこちなく頷き、息を吸う。
「……アンナ」
いつになく真っ赤になりながら頑張るエリアスが可愛らしく思えて仕方ない。私以外の前ではしないような表情を見ることができ、満足な気分になる。とても不思議な感覚だ。
「すみません。少し違和感があります」
「ずっと王女呼びだったから、仕方ないわね」
エリアスは恥ずかしそうに頷き、笑みを浮かべる。
「アンナ」
彼はもう一度私の名を呼ぶ。
「改めて気づきました。とても素敵なお名前ですね」
アンナ。名前を呼んでもらうと、少しは距離が縮まったような気がした。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.165 )
- 日時: 2017/10/09 18:07
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 50PasCpc)
117話「幸福な戯れ」
しばらくのんびりと話していたら、いつの間にかお昼時になっていたらしく、看護師がエリアスに昼食を運んできた。もう二、三時間も経っていたのか、と言葉には出さず驚く。一時間も経っていないような感覚だったのだ。楽しい時間は早く過ぎるものだと言うが、その通りだと思った。
運ばれてきた昼食は少なかった。具が何も入っておらず真っ白であっさりしていそうなお粥と、小さなカップに入った少量のヨーグルト。お盆も器も白なものだから、白ばかりの昼食になっている。ある意味エリアスに似合っているとも言えるが……それにしても見た目が地味だ。
看護師はエリアスの近くにいた私にも昼食をくれた。まさかのエリアスと同じメニューだ。
お粥といえば、風邪を引いた時、ヴァネッサによく作ってもらった記憶がある。彼女の作るお粥は色々な工夫が施されていて美味しかったが、今出されたこの真っ白なお粥はあまり美味しそうとは思えない。
しかし、何でも決めつけてはいけないと思い、スプーンでお粥をすくう。そして口に入れた瞬間、思わず言葉を失った。
米粒は芯があって固く、しかもパサついていて、喉をスムーズに通っていかない。味はほとんどしないと言っても過言でないくらい薄く、微かな塩味すら感じられない。お湯に固い米粒を入れただけのような状態だ。傷病者向けに作られたものだとはいえ、かなり美味しくない。
「……これ、味薄くない?」
こんな薄味で辛くないのだろうかと思い、お粥を黙々と食べているエリアスに尋ねてみる。
「はい、確かにそうですね。王女はお気に召しませんでしたか?」
「アンナと呼んでちょうだいね」
「あ。失礼しました。つい、いつもの癖で……」
数時間の間でこのやり取りをするのは既に五回目くらいだ。エリアスは名前呼びにまだ慣れていないらしい。
彼なりに努力はしているようだが。まぁ、数年間ずっと王女と呼んできたのだから、急に変えられないのも仕方ないわね。慣れるのを気長に待つとしましょうか。
「では……アンナ。このお粥、お気に召しませんでしたか?」
そうだ、そんな話をしていたわね。話が逸れてうっかり忘れてしまっていた。
「これはちょっと味が薄すぎると思うわ」
「えぇ、私もそう思います」
エリアスはとても幸せそうに、ふふっと頬を緩める。
柔らかな笑みが浮かぶ整った顔はこの世のものとは思えない。まるで天使のようだ。……いや、実際に天使なのだが。
「食べ終わり次第私は王の間へ行って参ります。おう……あ、アンナは……どちらへ?」
アンナと発した後にいちいち恥ずかしそうな表情をするのが面白い。そんなに恥ずかしがることもないと思うのだが、彼には彼の気持ちがあるのだろう。それに、初々しい感じは嫌いじゃない。
「私はノアさんのお見舞いにでも行ってこようかなと思っているわ」
「なるほど。そうでしたか」
私は軽く頷き、それから少し真剣な表情を作る。
「エリアス……何とかお願いね。任せっきりみたいになって悪いけど」
自分にできることは一応すべてしてきたつもりだ。だがそれだけではいけない。
ディルク王に結婚を認めてもらうためには、彼がエリアスを信頼する必要がある。そのためには、エリアスに任せるしかない部分も大きい。心苦しいが仕方ないことだ。
「任せっきりだなんて。頼っていただけるのはとても光栄なことです」
彼はなにかんだ笑みを浮かべつつ、優しい声でそんなことを言った。
聖気はまともに回復しておらず、一人で歩けるかどうかも怪しいような状態なのに、彼は嫌がるような素振りは見せない。
「そういえばエリアス、一人で立ったり歩いたりできる?」
彼は暫し考えてから、いいえと言うように首を左右に動かす。視線が少し下向いている。
エリアスのことだ。情けない、とでも思っているのだろう。彼は私にはとても優しいが、それと同じぐらい自分には厳しい。だからちょっとのことですぐに自分を責めるのだ。
「そんな顔しないで。私が送っていくわ。それと、お父様と話してる途中でも、もししんどくなったら言うのよ」
いくらエリアスとはいえ無理するのは良くない。我慢しそうなだけに心配だ。
「……はい。ありがとうございます」
エリアスを王の間まで連れていった後、私は一人で救護所へ向かった。近くに誰もいない状態で歩くというのはかなり珍しい。吸い込む空気さえ新鮮に感じられる。目が覚めるような感覚、弾む足取り。とにかく楽しい気分だ。
エリアスは大丈夫かな——などと心配になるかと思ったが、案外平気だった。私は彼を信頼している。だから不安ではないのかもしれない。
「こんにちは!ジェシカさん、いる?」
ノアが寝ているらしいベッドのところまで行くと、カーテンを開ける前に声をかけてみる。いきなり入ったら驚かせてしまうだろう。
するとカーテンがシャッと開いて、ジェシカが首を出した。彼女は私を見ると、驚いたように目をパチパチさせる。
「えっ。王女様?」
いきなり訪ねてしまい悪かったかと思ったが、彼女は快くカーテンの中へ入れてくれた。
中にあるベッドには、スヤスヤと穏やかな寝息を立てながらノアが寝ている。体には薄手の布がかけられているが、少々寒そうだ。
ノアの様子を尋ねると、ジェシカは明るい調子で「ずっとこんな感じで寝てる!」と教えてくれた。
パイプ椅子に腰かけて両足をパタパタ上下させながら話すジェシカは、普段通りの、向日葵のような華やかな笑みを浮かべている。表情を見る限り、ノアを心配しているとは思えない。
「意識が戻らないの?」
「うん。でも大丈夫だよっ。多分、聖気が足りてないだけだと思うから!」
リラックスした様子でニッコリ笑うジェシカ。無理して明るく振る舞っているという感じはしない。純粋に落ち着いた心理状態なのだろう。
看病で疲れているのでは、と思っていただけに、彼女の元気な様子は意外だった。まさかここまで活気に満ちているとは。
「王女様せっかく来てくれたし、ちょっと起こしてみよっか?」
ジェシカが提案してくれる。
「そんなのいいわ。せっかく気持ちよく寝ているんだし……」
こんな小さなことで眠りを妨げるのは申し訳ない気がする。一度目覚めてしまうと次眠れなくなることもある。今のノアは気持ちよさそうに寝ている。私としては、なるべく良い眠りの邪魔をしたくない。
しかしそんな私の意見をジェシカが聞くはずもなく。
「ノア!起きてっ。王女様来てるから、起きてってば!」
彼女はベッドに横たわるノアの体を、叩いたり揺さぶったり。かなり激しく動かす。
そんなにしなくても……と内心思うのであった。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.166 )
- 日時: 2017/10/10 18:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: iXLvOGMO)
118話「戴冠式を知らない天使たち」
ジェシカがノアを起こすべく色々なことを試し始めて数分後、ノアはむにゃむにゃ言いながら目を開けた。トロンとした目つきで気だるそうな様子。しんどいからなのか、ただ単に寝起きが悪いいつものパターンなのか、判別しにくい。
しばらく様子を静観していると、やがて彼は口を開いた。
「……あれー?王女様ー……?」
語尾を若干伸ばす喋り方は健在みたいだ。
意識はあまりはっきりしていないように感じられるが、私を認識するくらいの力はあるらしい。
「見えてるの?」
ジェシカはベッドに張り付き、目を大きく開いて驚いた声で尋ねた。
「……ううん、微妙ー。でも聖気で分かるよー」
ノアはベッドに横たわったまま片手で目を擦り、それから、やっと開いてきた目をゆっくりとパチパチ動かす。瞳だけが辺りを見回している。
その様子は、とてつもなく長い眠りから覚めた眠り姫のよう。
「起きたのね、ノアさん。体の調子はどう?」
短く聞いてみると、彼は視線をこちらへ向ける。柔らかな眼差しから、切羽詰まった状況でないことは分かった。
しかし、うーん、と答えに悩んでいる。
純粋にどう答えるか迷っているのか、あるいは、私に気を遣って本当のことが言えないのでどう答えるべきか考えているのか。前者であった場合自意識過剰のようで恥ずかしいし、私がそこを質問するのもおかしな話なので聞けない。なので、気になるところではあるが敢えて気にしないことにした。
するとちょうどその時ノアが口を開く。
「動けないけど元気だよー」
さっきまで全力で眠っていた者とは思えない答えが返ってきて一瞬困惑した。動けないというのはその通りだが、元気だとは思えない。
だがそれを言うのは無粋だと思い、話題を変えることにした。
「そうなのね。あ、そうだ」
一応、今閃いたかのような演技をしておいた。私は演技が下手なので演技だとバレバレだろうがそれでも構わない。そこはたいして大事なことではないのだから。
「ジェシカさんとノアさんに話しておかなくちゃならないことがあるの」
二人の視線が私に集まる。
ジェシカは座っていたパイプ椅子をこちらへ近付け、そのうえ、身を乗り出すようにして待っている。その瞳は明るく輝いていた。ノアも「なになにー」と興味を示している。
「二週間後に建国記念祭を開催するらしいのだけど、そこで戴冠式を行うことになったの」
すると、ジェシカとノアはキョトンとした顔になり、お互いに顔を見合わせる。そして二人同時にこちらを向く。「何の話?」とでも言いたげな表情だ。
最初は驚いているのかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。驚きというより困惑に近い色が浮かんでいる。
「王女様、あのさ……」
ジェシカが気まずそうに言いかけたのに、重ねるように、ノアが口を開く。
「戴冠式って何ー?」
——え?今、何て言った?
私はしばらく、ノアの質問の意味が分からなかった。
エンジェリカの王子や王女が王位に就く時に開催される戴冠式。王国中の天使がお祝いに集まるこの式典は、建国記念祭に並ぶくらい有名なものだ。だから、エンジェリカで暮らしてきた天使が知らないはずがない。
それなのにノアは「戴冠式とは何か」と尋ねてきた。突っ込みを入れない辺りを見ると、ジェシカも戴冠式を知らないのだろうか。
「戴冠式を知らないの?」
ジェシカに目をやると、彼女は少し申し訳なさそうな顔つきになった。肩を内に寄せ、苦笑いする。
「うん。式典だってことは分かるんだけど……」
「聞いたことないよねー」
「知らないあたしたちが変なんだと思うけど、王女様、もし良かったら教えてくれない?」
エンジェリカで暮らす天使なら誰もが当たり前に知っているものと思っていた。しかしそれは私の思い込みだったのかもしれない。私が考えているより世界は広くて、だから、エンジェリカで暮らしていても戴冠式を知らない者もいるということか。
言葉探しに迷うくらい驚いたが、一つ学ぶことができたのは良かったわ。
「戴冠式っていうのはね、王子や王女が王様になりますよってみんなに伝える、大事な式典なの。王国中から天使が集まるらしいわ。と言っても、私も実際に見たことはないのだけれど」
一番最後に開催された戴冠式はディルクが王子から王様になった時。だから、ヴァネッサやエリアスは知っているのだろうが、私はまだ生まれていない。ジェシカとノアも生まれていなかった可能性が高いわね。
「えっ、じゃあ王女様が王様になるの!?」
頭の回転が早いジェシカは一歩先のことを言った。ノアはのんびりと「へー、そっかー」などと言いつつ、落ち着いた表情を保っている。二人の反応は対照的だ。
私が小さく頷いて「そうなの」と返すと、ジェシカの表情がパアッと明るくなる。パイプ椅子から立ち上がり強く抱き締めてきた。
「おめでとうっ!」
く、苦しい……。
ジェシカがあまりに強く抱き締めるものだから、胸元が締めつけられて呼吸しにくい。彼女は感情が高ぶりすぎて力の制御ができていないのだろうが、「こんなに強く抱き締めなくても……」というのが本音だ。
いや、もちろん嬉しいことは嬉しいのだけれど。
「ジェシカ、力加減考えてー」
ノアはのんびりとした口調のまま注意する。
ナイス!と密かに思う。私がジェシカに「止めて」と言うのは、申し訳ない気がして無理そうだったから。
ノアの忠告を受け、ジェシカは私に絡めていた腕をパッと離す。
「あっ、ごめん。もしかして痛かった?」
「大丈夫。ちょっとだけよ」
するとジェシカは少し顔を赤らめてはにかむ。
「ごめん。あたし、力加減苦手なところあるんだよね。前エリアスにも注意されちゃった」
彼女は本当に良い天使だと思う。
貧しい環境で育ちながら、ずっと裕福な暮らしをしてきた私に嫉妬することもなく、いつも応援してくれる。純粋に、曇りのない笑顔で。
明るくて優しくて、とても温かな天使。小さくて華奢なのに、勇気があって誰よりも強い。
「じゃあ王女様が女王様になるってことー?」
「えぇ、そうなの」
「女王様とかすっごいよね!」
「おめでとー」
——そしてエリアスと結婚するの。
それは言えなかった。
ジェシカが恋心を抱いていたエリアスと結婚するなんて言えるはずがない。
そんなことを言ってしまったら彼女を傷つけてしまう。だが黙っていても最終的に傷つけてしまうと思う。
だから勇気を出さなくては。
「それでね……私、その、エリアスと結婚する予定なの」
思い切って言うと、ジェシカの表情が硬直した。ノアも呆気に取られて固まっている。
——時が止まった。
私にはそんな風に感じられた。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.167 )
- 日時: 2017/10/11 20:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: LdHPPNYW)
119話「彼女の強さ」
深海のような沈黙——。
月の光もない暗い夜のような、静かで冷たい空気。
緊張で呼吸が浅く速くなるのを感じる。背中をひんやりした汗がツウッと伝う。ジェシカの顔色を窺おうと彼女を一瞥すると、彼女は瞳を揺らしながら硬直していた。
「……結婚?エリアスと?」
その声は震えていた。視線は宙をさまよい、落ち着かないように足を動かしたりキョロキョロしたりしている。ついには、動揺を隠すようにぎこちなく笑う。
肌を撫でる風が一気に冷えた気がした。
「えぇ。今エリアスが、お父様を説得しに行っているところなの」
相応しい言葉を探してみるも見つけられず、そんなことしか言えなかった。もっと言うべきことがあるはずなのに。
ジェシカはどんな顔をするだろう——と恐る恐る彼女に視線を向ける。すると彼女はニコッと明るい笑みを浮かべた。
「へぇー、そっか!そうなんだ!びっくりしたーっ」
頭を掻くような動作をしながら大きな声を出す。だが顔がひきつっていて、無理しているのが丸出しだ。
「おめでたいおめでたい!王女様とエリアスなら、きっとエンジェリカを良い国にできるよっ」
「ジェシカ、無理しないでー」
横たわったままノアが口を挟む。それに対しジェシカはビクッと身を震わせる。
「は?ノア何言ってんの?」
「隊長より僕の方が良い男だよー。モテモテだしねー」
「ちょ、何それ。意味分かんない」
「ジェシカは隊長の結婚なんて気にしなくていいってことだよー。可愛いジェシカは僕のものだからねー」
「キモッ!止めて!」
ノアはジェシカを励まそうとしているのだと思う。本当はまだエリアスへの思いが微かに残っているのに、無理して祝おうとするジェシカのことを、彼は多分心配しているのだ。だがジェシカはそれを察していないように見える。
「……幸せになってね」
ジェシカは私の手をそっと握り、少し寂しそうな笑みを浮かべた。
そんな風に言えるの彼女は強い。私が彼女の立場だったら、「幸せになってね」なんて、きっと言えないと思う。たまに、私は彼女に対してとても残酷なことをしているのではないか、と感じることがある。
「ちょ、王女様ったら。そんな顔しないでよっ」
手を握ったまま私の顔を覗き込んだジェシカが、焦った表情で言いながら笑う。晴れやかな笑みが私の心まで明るくする。まるで氷を溶かす日差しのような、温かくて穏やかな笑顔だ。
それにしても、私はどんな顔をしてしまっていたのだろう……。
無意識とはいえ、暗い顔をしてしまっていたとすれば何だか申し訳ない。辛いはずのジェシカが頑張って明るく振る舞っているのに、幸せな私が暗い顔をするなんて、ちょっとずるいと思う。
だから私は笑顔を作るよう努めることにした。
「ありがとう、ジェシカさん。絶対に幸せになるわ」
ジェシカにはノアがいる。彼はジェシカをきっと幸せにするはず。だから彼女も不幸にはならないはずだ。
ジェシカは「初めて笑ってくれたね」と冗談混じりに言う。とても嬉しそうな表情で。
「あたしこれから護衛隊長目指そっかな!王女様とエリアスには楽しく暮らしてほしいし!」
彼女は握った拳を上に突き上げ、目を輝かせながら言う。
「女王様になった王女様を護るなら、親衛隊じゃないのー?」
そこへいきなりノアが口を挟む。思いの外、正しいことを言っている。
それにしても、彼が会話に参加してくるのは何だか久々な気がする。実際にはそれほど久々ではなく——本当にそんな気がするだけだが。
「……あ、そっか。じゃあ親衛隊長目指すよっ!」
なかなかレベルの高い目標を掲げたものだ。
親衛隊長になるには、王国中から集められた強者たちの中で最も強くならなければならない。親衛隊長というのは、エリアスがずっと親衛隊員を続けていたらなっていたかもしれない、というくらいのレベルである。
並大抵の天使が就ける地位ではない。王を護る親衛隊のトップに立つわけだから当然とも言えるが、周囲に圧倒的な力の差を見せつけるくらいでなくてはならないのだろう。
だが、もちろん私にはまったく想像のつかない世界だ。
「結婚したらエリアスは家事しなくちゃだもんねっ。えーと、……花嫁修行?」
「どちらかというと花婿修行だねー」
エリアスは男だもの、花嫁ではない。まぁ本当なら家事とかは私がしなくちゃならないのだけど……今の私にはまだ家事なんてできそうにないものね。
その時になってふと気づく。とても静かに感じられた周囲に音が戻ってきていることに。天使が行き交う音や話し声。普段はそれほど好きでない騒々しさも、今は心を癒やしてくれる。
「だから護衛はあたしに任せてよねっ」
張り切った様子のジェシカは親指を立てた握り拳をこちらへ向ける。やる気満々だ。
「えー、僕らの結婚はー?」
ベッドに横たわったまま言い放つノア。それに対してジェシカは、彼に目もくれず、素っ気ない声色で「それは別」と返す。
その様子を見ていると、前にノアがジェシカにプロポーズらしきことを言っていたことを思い出した。あれは確か、ジェシカが堕ちそうになった時だった。
幼い頃からずっと一緒にいた二人だ。凄く強い絆で結ばれていることだろう。だからジェシカは、エリアスよりノアと結ばれる方が良いような気がする。 ノアとの方が似合っているような気がするの。もちろん良い意味で。
「王女様、これからもあたしを傍に置いてくれる?」
「えぇ!それはもちろんよ!」
「ありがとっ。これからはバトル好きをもっと活かせるようにするからね!」
ジェシカは弾けている。体が軽そうだ。
「ねー、僕らの結婚はー?」
「しつこいっ!それはまだずっと先!」
「僕はずっとなんて我慢できないよー」
「じゃあ無しにする!?」
「……ごめんなさいー」
ジェシカとノアがこんな風に呑気なやり取りをしているところを見るのは久しぶりだ。二人と出会ってまもない頃を思い出し、懐かしい気分になる。旧友に会ったような感覚である。
平和になったのだな——。改めてそう思った。
これからも乗り越えていかなくてはならない試練がたくさんあるだろう。けれども、私は前よりずっと強くなったはず。それに大切な仲間も増えた。
だからきっと乗り越えていける。
——今はそう信じて疑わない。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.168 )
- 日時: 2017/10/12 20:29
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: npB6/xR8)
120話「今は分かる、言葉の意味」
麗らかな午後、私はジェシカやノアとたわいない会話をしながら、まったりと時間を過ごした。
途中でジェシカがくれたお菓子を食べたり、トランプやすごろくといった地上界の遊具を使うゲームを楽しんだり……とにかく様々なことをした。起き上がれないノアもカードくらいは持てるのでトランプには参加したが、非常に楽しそうな様子だった。
ジョーカーのカードを最後に持っていたら負けというゲームをした時には、ノアばかりが連続で負けて驚きだった。
カーテンで周囲から隔離された狭い空間にいると他者との距離が自然に縮まる。その感じが私は好きだ。普段外ですごしている時には味わえない、連帯感のようなものが勝手に生まれていく感覚。大切な者とこうして一緒にいられることは、とても幸せなことだと思った。
『王女様の場合は、恵まれた環境にいるって気づくことが未来を開いていくのかもねー』
以前ノアが私にかけた言葉が脳裏に蘇る。あの時、私は彼が言う言葉の意味がよく分からなかった。自分が恵まれていなかったことを訴えたいのかな、くらいにしか捉えていなかった。
だが今なら分かる気がする。
私は幸せであることを当たり前のように思っていた。正しく言うならば、生まれた時からずっと良い環境にいたので自分がどれだけ恵まれた環境にいるのか気づけていなかった、だろうか。かつての私は幸せを感じることがあまりなかったな、と振り返ってみて思う。
窓の外を眺め、空を飛ぶ鳥に憧れ、自由な彼らを羨んで。
王宮から出られないことをただ嘆くことしかせず、いつも悲劇のヒロイン気取りをしていた。自ら動こうともせず境遇に嘆くばかりだなんて、今思えば笑い話だ。なんて未熟なのだったのだろうと恥ずかしくなる。
そんな風に色々と考えながらも、とても楽しい時間を過ごし、私は「また来るわ」と言って二人と別れた。
もうじき夕方になる。エリアスとディルク王の話も、そろそろ終わっていることだろう。迎えに行かなくては。
こうして私は一人、王の間へと向かった。
王の間へ着くと、扉の前に鴬色の髪の男性天使が立っていて、彼がレクシフだとすぐに分かった。
生真面目な彼のことは少し苦手なのであまり喋りたくないが、この状況で声をかけないわけにはいかず、仕方がないので、「話はまだ続いていますか?」と尋ねる。私の声に気づいたレクシフは振り返り、「まだ続いているようです」と教えてくれた。
随分遅いなと思いながら、私はその場で話が終わるまで待つことにした。
レクシフは軽く会釈して去っていく。二人でいるというのはなんとなく気まずかったので、こんな言い方は問題があるかもしれないが、彼がどこかへ行ってくれて少しホッとした。
それから一時間くらい経っただろうか。王の間の扉がいきなり開いた。思わずビクッと身を震わせてしまったほどいきなりだ。私は慌てて背筋をピンと伸ばし、正しい姿勢を作る。
ディルク王とエリアスが王の間から出てきた。
私は脈拍が速くなるのを感じる。どうなったのだろう、と不安と期待が入り交じった感情が湧いてきて、その感情がますます脈拍を速める。気を逸らそうと試みるが、逸らそうとすればするほど気になる。これはもう一刻も早く結果を聞くしかあるまい。
「待っていたのか、アンナ」
すぐに私の存在に気づいたディルク王が重厚感のある声で言った。
その隣にいるエリアスも、少し遅れてこちらへ視線を向ける。疲れたような顔つきをしている。彼の体調が心配になるが、それより先に結果を聞かなくては。
「ちょっと前に来たところよ。それよりお父様、話し合いの結果はどうなったの?」
勇気を出して尋ねると、ディルク王は頷きながら答える。
「お前らが築いてきた信頼関係は分かった。結婚を認める」
「本当!……良かった」
あまりの嬉しさに視界が揺らぐ。安堵の溜め息をつくと共に体から力が抜けていき、つい座り込んでしまう。
エリアスがいつものように速やかに寄ってきて、心配そうに覗き込んでくる。
「貧血ですか?」
「……いいえ。ちょっと気が緩んだだけよ」
不安げに揺れている瑠璃色の瞳を見つめて逆に聞く。
「貴方は体調大丈夫なの?」
エリアスの体はまだ本調子でない。その状態で何時間も話していたとなると、きっと凄く疲れただろう。それなのに私の心配ばかりして……。彼らしいけれど、あまり無理してはほしくない。
「はい。問題ありません」
そう言って微笑みながら私の背をさするエリアス。その手はとても優しくて、自然と穏やかな気持ちになる。しばらくしてからディルク王の存在を思い出し、慌てて顔を上げる。こんなことをしていては怒られるかもしれない、と思ったのだ。
しかし私たちを見下ろすディルク王は落ち着いた表情を浮かべていた。
「良い相手に出会えたな、アンナ」
ディルク王からかけられた優しい言葉に視界がますますぼやけてくる。目の奥が熱い。
「婚約はこちらで取り消ししておく。お前は迷わずエリアスと準備を進めるといい。まずは……」
途中からディルク王の声が聞こえなくなった。感情が高ぶり、ついに目から涙が溢れ出る。
嬉しくて言葉が見つからない。
「あの、どうなさいました?大丈夫ですか。どこか痛むのですか?」
エリアスが焦り顔になって声をかけてくる。大丈夫だとまともに言うこともできず、ただ首を左右に振ることしかできない。
ディルク王が王の間へ戻ったのか、扉を閉める音が聞こえた。途端に静かになる。
「……なぜ泣いているのか、理由を教えて下さい。可能な限り改善しますので」
私は懸命に首を左右に動かした。違う、と言うだけで精一杯。流れ落ちる涙のせいで、それ以上の長文を話すのは無理だ。
しばらくするとエリアスはそれを理解してくれたらしく、そっと抱き締めてくれる。全身にじんわりと温もりが広がっていく。
「しばらくこうしていますね」
涙を拭いて顔を上げ、エリアスを見る。彼は目を閉じてとても幸せそうにしていた。
「……エリアス?」
試しに名前を呼んでみると、彼はハッと目を開ける。何やら意識が別世界へ行ってしまっていたような感じだった。
彼は長い睫をパチパチ動かしながらこちらへ目をやる。
「あ、失礼しました。もう泣き止まれましたか?」
私は目もとに残っていた涙の粒を指で拭い取り、もう泣かないと小さな決意をして彼の顔を見上げる。幸福そうに微笑んだ彼を見ると、私も自然と頬が緩んだ。幸せの伝播といった感じだ。
「では……アンナ。早速明日からの準備活動に備えましょうか。ふつつか者ですが、どうかこれからよろしくお願いします」
「なんだかエリアスがお嫁さんみたいね」
「そうでしょうか。間違えていますかね?」
「私もよく分からないわ。間違えていたって、べつにいいんじゃない」
そんなどうでもいいような会話を交わしながら、私はエリアスと一緒に部屋へ戻ることにした。まずはヴァネッサに報告しなくてはならないからだ。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.169 )
- 日時: 2017/10/13 20:45
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3z0HolQZ)
121話「慌ただしい準備期間」
翌日、早速、戴冠式と結婚式用の衣装の採寸が行われた。
エリアスも採寸はあるようだが、私は二着分なので特に忙しい日程だ。今回は特別な衣装なので、衣装専門の天使に来てもらっているらしい。よく知らないが、なんでもエンジェリカで有名な者らしい。
巻き尺で体の距離を測ったり、色々な種類の布を肌に当ててみたり。思っていたよりもずっと長い時間がかかった。戴冠式の衣装はとても繊細で凝った作りらしいので、私の体型にピッタリになるよう仕上げるには、かなり細かな調整が必要なのだと思われる。戴冠式の時には羽を出すらしく、それも考慮した衣装作りをしなくてはならないそうだ。実質十日ほどで作り上げなくてはならないというのもあり、あらゆることがかなり駆け足である。
パパッとサイズチェックをして終了、くらいの楽さに考えていたので少々意外だ。ここまで本格的な採寸を行うとは。
それと、私では難しいことが分からないのでヴァネッサについてきてもらったが、正解だった。細かな部分のサイズや形など何やら難しそうな話題がよく出ていた。ヴァネッサは難なく話を進めていたが、私一人だったら何一つ分からず混乱するところである。危ない危ない。
しっかりしているヴァネッサがいてくれると、お節介だと鬱陶しく思うこともあるが、このような場面で心強い。
「お疲れ様でした、アンナ王女。後半も王族として恥ずかしくない振る舞いをよろしく頼みますよ」
一着目である戴冠式用衣装の採寸を終えた後、少し休憩していると、ヴァネッサが声をかけてきた。いつも通りの淡々とした口調だ。私は「任せて」と軽く返す。
ヴァネッサは何やら色々な書類を手に持っている。
「ねぇヴァネッサ。その書類は何?」
ふと気になったので尋ねてみると、彼女は波のない声で教えてくれる。
「貴女の衣装に関する書類です。布地のチェックや必要な費用など色々と書かれていますが、アンナ王女には難しい内容でしょうね」
「見てもいい?」
特にこれというすることもなく退屈な休憩時間を潰すにはもってこいだ。仮にまったく意味が理解できなかったとしても暇つぶしくらいにはなるはず。
それに、女王になったら私も、難しい書類に触れる機会が増えるだろう。今のうちに見慣れておくというのも悪くない。目を通すだけの経験でも、近い将来役立つはずだ。
一石二鳥というやつである。
「それは構いませんが……理解できないと思います」
「いいのいいの。見るだけよ」
「はぁ、そうですか。珍しいこともありますね。どうぞ」
ヴァネッサから書類を渡してもらい眺めてみたが、予想していた通りよく分からなかった。
私とて王女だ、十分な教育を受けている。読み書きは満足にできるし、基礎的な勉強は一通り習った後だ。一般の天使よりはいくらか多くのことを学んでいると思う。
だが、このような実際の書類となると、いまいち理解しづらいのが現実だ。書類の管理などはヴァネッサがしてくれていたので、私は今までずっと、そういったことにはあまり関心を持たずにきた。分からないのはそのせいもあるだろう。
「これはどうなっているの?」
「仕方ありませんね、説明します。まずこちらの列には、使用する物の名称とその量が——」
「え、じゃあこっちは?」
「そちらはこの物のかかる金額が書かれていまして——」
ヴァネッサは私の疑問に的確に答えてくれる。彼女の簡潔な説明を聞くと、なんだかよく分かったような気になる。私にでも理解できるように教えてくれるところは、彼女の凄いところだと思う。尊敬する。
「二着目の採寸に入ります!よろしくお願いします!」
書類を夢中になって見ていると、使用人がやって来て呼びかけてくる。参りましょう、と淡々とした口調でヴァネッサが言ったので、私はすぐに書類を彼女へ返す。それから「はーい」と使用人へ返事をした。
するとヴァネッサは少し顔をしかめる。
「はーい、ではなく、はい、にして下さい。貴女はもうすぐ女王になられる身です。いつまでも子どもではないのですよ」
まったく、相変わらず固いわね。そんな些細なことまで気にしなくていいじゃない。
だが、こんな細かいところまで気が回る彼女だから、侍女として有能であるということも事実である。だからあまり文句は言えない。
彼女が大雑把でいいかげんな性格になってしまったら、私の生活もまともなものではなくなってしまうだろう。今まで王女として私がやってこれたのは、ひとえにヴァネッサの綿密さゆえである。
それから私は、本日二着目である、結婚式で着るドレスの採寸に挑んだ。
建国記念祭まであと十日と少し。私はたくさんの用事をこなさなくてはならなず、毎日が戦いのようだった。
使用人たちは雑用や買い出しなどの準備に追われて忙しそうにしている。王宮の再建はまだ途中だが、賑わいはかつてと何も変わらない。
私は一度エンジェリカを破壊してしまった——。
そのことがわだかまりとなって残っている私にとって、活気を感じられる騒々しさは大きな救いだった。
たとえ王宮が壊れても、この王国は何も変わっていないということ。天使たちは生き生きと今を生きているのだということ。
その事実に、私は救われた。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.170 )
- 日時: 2017/10/14 22:31
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SUkZz.Kh)
122話「鳩とチキンの記憶」
建国記念祭前日。
いよいよ明日から開催される建国記念祭。戴冠式と結婚式も行われるこの一週間は、きっと今までにないくらい忙しくなると予想される。だがそれと同時に、とても素敵な、ずっと記憶に残る一週間になるに違いない。
挨拶や式典での動きの練習、衣装の最終チェックなど、朝から用事がみっちり詰まり、とても慌ただしい一日だ。
だがその慌ただしさが「いよいよ明日から建国記念祭なのだな」と気分を高めてくれる。ちゃんと振る舞えるのだろうかという不安や公の場に出る緊張もあるが、それ以上に楽しみが大きい。心が踊り、足取りも軽い。風をきって歩くことすら楽しく感じられる。
ウキウキしながら軽快に廊下を歩いていると、ラピスにバッタリ出会った。
いつも彼女は長い金髪を下ろしているが、今日は珍しくまとめ髪にしている。その三つ編みをねじり固めたようなヘアスタイルは、長い首がいつもよりスッキリと見える。上品さが漂い好印象だ。
よく見ると服装も今までとは違い、初めて見るパンツスタイル。裾広がりのオシャレなパンツなので脚の長さが強調されてスタイルが良く見える。……いや、もちろんラピスの脚が長いというのはあるのだろうが。
「アーッ!王女様ですネッ。こんにちはデス!」
何やら少しおかしい気がするがそこは流し、褒め言葉を添えつつ挨拶する。
「こんにちは。今日の髪型、素敵ですね」
すると彼女はポッと頬を赤く染める。
「そうデスカ!?勇気を出してミタので褒めていただけて嬉しいですヨ!」
「よく似合っています」
「嬉シイ!王女様の戴冠式の衣装チラッと見ましたケド、とっても綺麗だったデス。明日が楽しみにナッテきまシタ!」
まだ一部の者にしか公開されていないはずなのだが、どこで見かけたのだろう。ヴァネッサが見せたのかな。ルールを厳守する彼女がそんなことをするとも思えないが。
「戴冠式の衣装の一般公開はまだなはずですけど、ラピスさんはどこでご覧になったのですか?」
すると彼女はいたずらな笑みを浮かべながら人差し指を口元に添えて、「秘密デスヨ」と小さく言う。
「実は衣装係に知り合いがいるノデス。ダカラ、一足先に見セテもらえマシタ。持つべきものはトイウやつですネ!」
そんなところから流出していたとは衝撃だ。
衣装のことだからまだ良いものの、これが政治的に重要な情報だったりしたら、その天使は首を切られるだろうな……と思い少し身震いする。だが多くの天使が集まっている以上物事を完全に伏せるのは不可能だというのは誰にでも分かるようなことだ。
「……情報流出」
突如発された男性の声に驚き、反射的に後ろへ退く。
その勢いで転倒して腰を打った。痛い。腰をさすりながら顔を上げると、そこには黒いスーツに身を包んだ男性天使がいた。
えっと、誰だっけ?
「フロライト!急に出てきたらビックリヨー!」
ラピスが大袈裟に頬を膨らませて彼に注意する。
そうだ、フロライトだった。確か私の誕生日パーティーに来てくれた手品師だったかな。
誕生日パーティー以来会っていないうえ影が薄いので忘れかけてしまっていたが、鳩を焼きチキンに変えるという珍妙なマジックを披露してくれたことだけは記憶にある。あの時の後味が悪い感じはよく覚えている。
もう少しまともな思い出がないものか、という気はするが。
フロライトは転倒した私の前まで歩み寄り、手を差し出してくる。
「……すまない」
手を差し出してくれてはいるものの、視線はまったく合わせてくれない。それを見て、彼が照れ屋だったことを思い出す。黒ずくめのクールで厳つい外観に似合わない性格ね、と心の中で呟く。
「王女、こちらにいらっしゃいましたか」
突然エリアスの声がして振り返ると、背後から彼がやや駆け足でこちらへ来ていた。
結婚式の最終確認でもしていたのだろうか。黄金の糸で刺繍された詰め襟の白い上衣に、きっちり折り目をつけられた整った形のズボン。白よりの金髪は綺麗にセットされており、オールバックで額が出ているため、一瞬誰か分からなかった。
「エリアスじゃない。どうかしたの?」
私は立ち上がり服の裾を軽くはたくと、別人のようにも見えるエリアスに視線を移す。
オールバックというのは少し違和感があるが、いつもより大人の色気があるように思う。凛々しくも繊細な顔立ちとあいまってとても魅力的に仕上がっている。
彼の横に私が立つのが恥ずかしくなりそうなくらいだ。
「呼び出しがかかっています。お時間大丈夫でしょうか」
「そうなの?分かったわ」
私はラピスとフロライトに別れを告げるように手を振り、エリアスについていく。
ラピスと話していて、この後も用事がびっしり詰まっていることをすっかり忘れていた。もう大人になるのだからしっかりしなくては。いつまでも世話され甘やかされる王女でいてはならない。
私はエリアスの後ろについて歩きながら、「さっきはどうして王女と呼んだの?」と尋ねる。ここしばらくずっとアンナと呼んでくれていたから、先ほど王女と呼ばれたのが気になったのだ。何か心境の変化でもあったのだろうか、と。
しかし、彼の表情を見る感じ、そうではないようだ。
「他の天使がいる前で名前呼びは避けるようにとヴァネッサさんから注意を受けましたので、王女と呼ばせていただきました。事情の説明もせず申し訳ありません」
なんだ、そんなこと。
色々と厳しいヴァネッサが名前呼びを許してくれないであろうことは想像の範囲内。式を挙げて結婚してしまえば彼女は口出しできなくなるのだから、慌てふためくことはない。
「そういうことなら構わないわ。気にしないで。……それより、その髪型珍しいわね」
エリアスのオールバックを見るのは今日が初めてな気がする。
「あまり似合っていない気がします。アンナはこの髪型、どう思いますか」
「色気があっていいと思うわ」
「やはり、あまり適していないようですね……」
エリアスは歩きながら、少しがっかりしたような表情を浮かべる。
「待って、違うわ。かっこいいわよ」
「……そうですか?」
疑うような目で私を見てくる。何もそんな顔しなくても——いや、彼も慣れないことをしなくてはならず不安なのかもしれない。それなら安心させてあげなくては。
「えぇ!好みよ」
笑顔でハッキリと答えた。彼の不安が少しでも解消されればいいな、と思いながら。
すると彼は、眉尻を下げ視線を逸らして、恥じらう様子を見せる。
「もったいないお言葉です。けれど貴女に褒めていただけるなんて……ドキドキします」
何だか女々しい。赤く濡れながら戦っていた彼とはかなり違う印象だ。ただ、私はそんなところも嫌いではない。
すべて合わせてエリアスだと思っているから。
- Re: 《最終章》 エンジェリカの王女 ( No.171 )
- 日時: 2017/10/15 22:20
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 96KXzMoT)
123話「きっと特別になる」
準備や用事に追われ続ける長距離走のような一日を終え、その日の晩。
私は不意に出かけたくなったので、ヴァネッサから特別に外出の許可を貰い、エリアスと二人で広場へ向かった。
街の中央にある広場は、昼間は大勢の天使で賑わっているのだが、夜はほとんど誰もおらず少し寂しい雰囲気に包まれている。だが、一国の王女が男性と夜空を眺めながら話すには、このくらいの静けさがちょうどいいのかもしれない。どさくさに紛れての暗殺や騒ぎになる危険性を考慮すれば、多くの天使がいる場所を歩かない方が懸命と言える。
ちなみに、私がエリアスに出かけようと提案した理由は、たいしたことではない。なんとなく夜空を眺めたくなっただけ。実にくだらない理由である。
広場の端に設置された木製の古そうなベンチに腰をかけ、夜空を見上げた。数多の星が競いあうように輝く暗い空を見て、ふと思う。
——私は星空が好き。
どんなに幸せな夜も、どんな悲しい夜も、星空は変わらず私たちを照らしてくれる。天界にも地上界にも、そして魔界にも。星の美しい煌めきは、すべての世界に平等に与えられている。
ただ、敢えて言うとしたら、私はエンジェリカで見る星空が一番好きだ。それはここが私の生まれ故郷だからだと思う。
真っ暗な夜空に煌めく満天の星。その光はあまりに眩しくて、心の奥底まで届きそうに思える……なんて、私は何を言っているのやら。
「エリアス。空、綺麗ね」
私が何げなく呟くと、エリアスはこっちを見て微笑する。そして優しい声で「貴女の方が綺麗です」などと返してくる。どこの色男のセリフだ、と複雑な心境になりつつ苦笑した。
「何か悪いことを申し上げましたか?」
エリアスは不思議そうに首を傾げている。
特に何の意識もせず、サラッと「貴女の方が綺麗です」などと言ってのける男性には、今まで出会ったことがない。かなり天然のノアであっても、さすがにここまでは言わないだろう。「可愛い」くらいが関の山のはず。
だがエリアスは私を褒めることに関してだけ非常に積極的だ。私から褒めたりすれば真っ赤になって照れるわりに、こちらに対しては恥ずかしげもなく正直な思いを伝えてくるものだから、度々驚かされる。
「いきなり意外なことを言われたから少しびっくりしただけよ」
「意外なこと、とは?」
そんな曇りのない純粋な目で見られたら答えざるを得ない。
「この星空より私が綺麗だなんて、明らかにおかしいでしょ?」
自分で言っても恥ずかしくなるくらいのことだ。他者から言われるのは戸惑うし、かなり恥ずかしいものがある。
しかしエリアスはまだ疑問を抱いているような表情をしている。
「もちろん空は幻想的で良いですが、私としてはアンナの方が綺麗だと思います。それがおかしいと仰るのですか?」
それはまぁ……個人の感覚だけれども。
正確に言うとすれば、私が違和感を感じるのはエリアスがそう思っているところではない。感覚はそれぞれだから一概には言えないもの。おかしいと思うのは、自分の思いを本人にハッキリと言うところだ。
褒めてもらっておいてこんなことを思うのはあまりよくないかもしれないが、いきなり大袈裟な褒め言葉を言われては困惑してしまう。どう反応すればいいのか分からない。
「……すみません、アンナ。私が迂闊でした。貴女の気持ちも考えず余計なことを……あぁ、前夜にまで私は……」
エリアスは背を丸め、頭を前に倒して手で支えるような体勢をとる。どうやら落ち込んでいるらしい。褒めてくれたというのに少々言いすぎたかもしれない。
重苦しい空気が漂い始めてしまったので、それを振り払うように明るい声を発する。
「そんな顔しないで。エリアス、貴方は悪くないのよ。褒めてくれるのは嬉しいの!」
せっかくの楽しい時間を台無しにするのは気が進まない。
「ありがとうございます。まだ距離感が掴めておらず今後も配慮不足が目立つかもしれませんが、どうかお許し下さい」
手を伸ばし、エリアスの手に触れてみる。すると彼は束の間困惑したような表情になったが、すぐに微笑んで握り返してくれた。
「気にしないでね。実は私もまだよく分かっていないの。エリアスは私にとって、ずっと護衛隊長だったから」
私も彼に微笑みかけた。
ひんやりとした静寂の中、私たちは見つめ合う。二人の瞳にはお互いの姿しか映っていなかった——なんてね。そんな詩的なことはない。
ただ、もうすぐ私たちは特別な二人になる。それは確かなことだ。
その日の夜、私は鏡台の前に座ってぼんやりしていた。明日が楽しみでまだ寝れそうになかったからだ。
一人幸せに浸っていると、ふと何かの気配を感じ、私は鏡の方に目をやる。そこには黒い女が映っていた。四百年前エンジェリカの王女だったというあの女性だ。
「……貴女は」
今はもう怖くはない。ただ彼女とはずっと会っていなかったので、まだいるのが不思議だった。とっくに消えてしまったものだと思っていたのだ。
「久々だなアンナ。お前が女王になる瞬間を見届けられること、嬉しく思う」
漆黒の瞳に宿る光は、夜空に瞬く一つの星のようにも思える。
「私のせいでお前を厳しい運命に巻き込んでしまったことを改めて謝りに来た。本当にすまなかった」
「……違うわ。貴女が作ったのはきっかけだけ」
彼女に出会ったことも、辛い思いをしたことも、今は悔やんでいない。困難な道を行く中でも私は多くの喜びに出会えたから。
「歩む道を決めたのは私よ」
自分が選んできた道を後悔することだけはしたくないと思う。だからいつだって笑顔でいたい。
「変わったな、お前は」
黒い女は、ふっと笑みを浮かべたが、気づけばすっかり消えていた。彼女は本当に不思議な女性だ。
私は心の中で彼女に小さくお礼を述べ、それからベッドに横たわった。