コメディ・ライト小説(新)

Enjoy Club 第5話『不確かなもの』(10) ( No.371 )
日時: 2010/09/29 16:28
名前: 友桃 ◆NsLg9LxcnY (ID: KnqGOOT/)


 後ろ姿が見えなくなっても尚、彼女が去っていった方向、つまり風也と逆側を振り返ったまま、私は動けずにいた。ここで前を向けば、確実に彼と視線がぶつかる。私達2人しかいない状況で、それは耐えられない。

 このよくわからない心境に、私自身酷く戸惑っていた。
 だってもう、彼を避ける理由なんて何もないはずなのだ。あの美女が彼女の恋人だなんて私の単なる誤解で、つまりは元の状態に戻っただけのことなのである。以前みたいに2人並んで歩いて、他愛のない話で盛り上がって、一緒に勉強して、何でもないことで笑いあって。そういう関係に戻っていいのだ。大好きな彼の優しさに触れても、いいのである。


 ――本当に?

     本当に元の状況に戻ったと言える――?


 彼に裏切られたと勝手に激しく傷ついて、メールも返す気にはなれず、その上久し振りに顔を合わせていつも通り接してくれた彼から、私は逃げた。怖くて、彼と目を合わせるのが怖くて、つらくて、胸が震えて、何も言わずに逃げ出してしまった。彼がまだギリギリのところでつないでおいてくれたはずの何かを、私は浅はかにも断ち切ってしまったのである。
 何の事情も知らない彼を心配させて、不安にさせて、そしてきっと深く傷つけた。前みたいに私のことをあたたかく迎えてくれるなんてこと、あるはずがないのだ。それだけのことを、私はした。

 唇を噛み、体の脇の両手で強くこぶしを握る。
 ひんやりと冷気が包む私の体を、ますます大降りになっていく雨が追い打ちをかけるように冷やしていく。顔から血の気が引いていくのは、果たして何が原因なのだろうか。

 パシャ、と水たまりを踏む音がして、私は肩を震わせた。1歩、また1歩と気配が近付いてくる。彼の、気配が。
 あと2、3歩という距離まで近付いたところで、私はスローモーションのようにゆっくりと視線を前に戻した。雨に全身を濡らした風也が目の前に立ち、じっとこちらを見つめていた。

 彼の瞳を見た瞬間、何かが激しく私の心を揺さぶり、冷え切っていた体が一気に熱を帯びていった。胸が、熱い。


「――亜弓」


 望んでいた、心の隅でもしかしたらと期待していた、優しくてあたたかい声。以前と同じ、大好きな甘い声。

 一筋の涙が雨粒に混じって頬を伝っていく。
 心の中を覆い尽くしていた濃密な不安が、霧散して消えた。

「まぎらわしいことして、ごめん」

 心の底から悔やむ声。彼は何も悪くないのに、こんな顔をさせて本当に最低だ。

 私はせめて少しでも安心させようと、涙をこらえて無理矢理微笑む。口元が震えた。
 それを見て、風也もようやく表情を緩めた。そして私が口を開こうとした瞬間。

 ふっと一瞬体が持ち上がる感覚とともに、全身がぽかぽかとあたたかくなった。雨の冷たさを感じない。感じるのは、じんわりと体に染み入る優しいぬくもりだけ。

 抱きしめられている、と気が付くまでにやや時間がかかった。背中に回されている腕に、頬を押しつけている彼の体に気が付いて、瞬間全身が硬直する。自分の心臓がものすごい速さで音を立てるのが分かって、さらに頬が火照った。

 背中にある彼の手に、力がこもるのが分かった。

「失ったかと思った、本当に……」

 至極近くで聞こえる彼の声が、わずかに震えている。耳元で囁かれているような声に私は心が震えて、ギュッと彼の服をつかんだ。

「いつの間に、こんなに大事になっていたんだろうな。……いつの間に――」

 抱きしめる腕に、力がこもる。

「こんなに好きに、なっていたんだろうな」

 私は彼の胸に頬を押しつけたまま、目を見開いた。周囲の雨音がサー…と頭の中から引いていく。無音の世界で、私は身動きが取れずに固まってしまった。

 ――……今……何、て……?

 不意に彼の体が離れ、両肩に手が置かれる。呆然としている私の目を、彼は真正面から見据えた。その眼差しは今までのどの時よりも真剣で、まっすぐで、とても綺麗だった。

 一呼吸置いて、風也はこう言い放った。


「好きだ、亜弓……!」


 絞り出すように、しかしはっきりと。
 彼から目がそらせない。否、そらしたく、ない。

「お前との時間大切にしたい。もう、今回みたいなことは二度とごめんだ」

 一拍、間をおいて、

「受け取って、くれるか……?」

 時が、止まる。

 直後、一気に彼への愛情が胸の内からあふれ出てきて、全身を満たしていった。涙が、止まらない。

「私、も……」

 滴に濡れた顔で、めいいっぱいの笑顔を見せる。

「私も大好きです、風也のこと……!」

 彼の顔が喜びに包まれるのを見て、私は最上級の幸せを味わっていた。
 最後にもう一度抱きしめてくれた時の彼のぬくもりを、私は一生忘れない……。