コメディ・ライト小説(新)
- Enjoy Club 2章 第1話『愛しき日常』(7) ( No.76 )
- 日時: 2011/08/13 18:16
- 名前: 友桃 ◆NsLg9LxcnY (ID: AEu.ecsA)
- 参照: 女の子が3階から飛び降りたのに何も言わない警備員ww(今さらか……)
辺り一面に落ちた闇。そこにポツンと浮かぶ欠けた月だけが白い光を散らし、低い建物の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。建物の周囲の空気は、冷えた印象の月とは逆に、湿っていて生暖かい。立っているだけでじんわりと汗がにじみでてくる。肌をなでる程度の風すら吹いていない。
今日は熱帯夜だ。恵玲は頬をつたう汗に顔をしかめつつ、勢いよく3階の窓枠を蹴った。
「あっちに逃げたぞ!」
窓から外に飛び出した恵玲を、警備員の声が追いかける。すぐにライトがその付近を照らしたが、恵玲の姿はすでにそこにはなかった。
常人にはありえないスピードで、まさに風を切って走る。スカートがパタパタと音を立てているが構わない。恵玲は建物の間の細い道を駆け抜けながら、今回任務をおこなった場所から急速に遠ざかっていた。その右手には盗ってこいと指示されたディスクがしっかりと握られている。これさえ持って帰れば、今回の任務は成功だ。
後ろには足音もしなければ人の気配もない。どうやら追手は来ていないようだ。仮に来ていたとしても、能力を使っている恵玲に追いつけるわけはないのだが。恵玲は口元に余裕の笑みを浮かべ、徐々に走るスピードを落としていった。
“アクション”の能力は正直本当に気持ちがいい。体の重みなんかほとんど感じずに駿足で駆け抜け、ちょっと弾みをつけるだけで宙を飛び、アクロバットだって楽々こなせる。普通の人間が持っているような身体能力の制限の多くから、彼女は能力を使うことで解放される。人外の能力をもったこと自体はやっぱり気味が悪いと思うし、人には知られたくないという気持ちも強いが、その能力が“アクション”であったことは不幸中の幸いだと思っていた。
任務地からかなり遠ざかったところで立ち止まり、ゆっくりと後ろを振り返る。やはり人の気配はない。今回の獲物も、ちゃんとこの手に握られている。恵玲は予定通り任務を終えたことに得意げな表情を浮かべながらも、内心ではもう少しスリルがほしかったなぁと物足りない気持ちだった。
そこにじっと立っていると、一度走っている最中に引いた汗が再びにじみ出てくる。恵玲はポケットから取り出したハンカチを、息をつきながら頬にあてた。もうひとっ走りした方が風に当たれて気持ちがいいかもしれない、と前方に視線を向ける。視線の先に広がるのは人通りの少なそうな道で、もうちょっとくらい能力を使っても大丈夫そうだった。どちらにしろ、時間帯が時間帯だ。一般人は今頃深い深い夢の中だろう。
恵玲はきゅっと眉をひそめ、印象的な黒い瞳で虚空を見すえた。自分はやはり一般人とは程遠い存在なんだと、改めて感じてしまったのだ。胸が締め付けられるようだった。一瞬目頭が熱くなったが、空を見上げてどうにかやり過ごす。
――……どうしてあたしは亜弓に言えないんだろう
あの日以来、主の屋敷での出来事以来、ふとした瞬間にどうしても考えてしまう。
亜弓は、恵玲の自慢の親友だった。大好きだった、もちろん今も。でも、彼女に自分が能力者であることを告げるのは、そう簡単なことではなかったのだ。きっとそれは、恵玲自身の母親との出来事が心の根底に残っているからだろう。恵玲の運動神経が異常な域にあると知ったときの、母親の反応。何か得体の知れないものを見る目で恵玲を見、そのままどこかに行ってしまった母親のことが、心の奥深くで未だに恵玲を引きとめるのだ。誰かに話したら、また見捨てられるぞ、と。元の関係に二度と戻れなくなるぞ、と。恵玲自身の母親然り、水希の両親もまた然り。
――……パパがいても、逃げちゃったかな
いつも思う。小さいころ事故死した父親があのとき生きていたら、どうしただろうか、と。母親と逃げてしまったか、それとも……。
「恵玲」
不意に聞こえた耳慣れた声に、恵玲は驚いて後ろを振り返った。ウィル=ロイファーが、心配そうな顔で少し離れた位置に立っていた。彼の長い銀髪が、月の光を受けて白く煌めいていた。
「ウィルくん……」
「大丈夫? 恵玲にしては遅いから心配しちゃったよ」
呆けたまま呟く恵玲に、ウィルがほっとしたような笑みを向ける。そういえばいつも任務を終えたらメールで知らせるという約束だったのに、今回は珍しく忘れてしまっていた。忘れて……哀しくなるようなことを考えてしまっていた。母親のことは、もう終わってしまったことだ。まして亡くなった父親だったらどうしたかだなんて、今さら考えても仕方がない。亜弓のことも、いくら考えたってやっぱり言えそうになかった。大好きだった母親のように見放されたら、裏切られたら――そう、考えてしまうから。恵玲は、水希ほどの勇気をまだ持ててはいなかった。
いつの間にかウィルが正面まで歩いてきて、恵玲の顔を覗き込んでいた。覗き込むと言ったって、彼も恵玲と大して身長が変わらないのでちょっと目線を下げる程度だったが。
「恵玲、なんか元気ない……?」
ウィルに言われ、恵玲はようやく我に返った。幾度か目を瞬いたのち、つとめていつも通りの笑顔を浮かべる。そのまま獲物のディスクを両手で彼に差し出した。自分自身を元気づけるように、声を弾ませる。
「これっ、今回もかなり楽に盗れちゃった」
にこっと笑ってわずかに首を傾けると、ウィルも優しい微笑を浮かべる。きっと、彼は気付いている。恵玲がここでずっと何を考えていたのか、何を思い出していたのか。全部とまではいかなくとも、だいたいのことは予想が付いているだろう。でも、恵玲は笑うのだ。いつも通り、力強く言うのだ。そしてウィルも、それに微笑んで答えてくれる。
「ほんと恵玲は頼もしいよ」
辺りの暗闇にもかかわらず、彼の蒼瞳がじんわりと光っていて、恵玲はついちょっとだけ目を細めて魅入ってしまった。こんなに穏やかに優しく微笑んでくれる人は、他に見たことがない。
「あたし……信じるよ。E・Cのことも、影晴さまのことも」
唐突に、囁くような声でそう言って、恵玲は真正面からウィルの目を見つめた。なんで急にこんなことを言い出したのかはわからない。でも、言わずにはいられなかった。
「ウィルくんが信じている限りは、あたしも信じる」
言葉に、力がこもる。ウィルがうれしそうに目を細めた。
このときはまだ、何も知らなかった。自分達の周りで今何が起きているのかも、この先何が起こっていくのかも――……