コメディ・ライト小説(新)

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.129 )
日時: 2018/01/30 15:07
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SUkZz.Kh)

71話「幻想の街」

 目が覚めると暗い場所にいた。見覚えのない場所だ。
 真っ暗な空が見える。私はどうやら横たわっているらしい。背中にはひんやりとした感触がある。地面は石畳だろうか、そんな気がする。
 私はゆっくりと上半身を起こし、辺りを見回してみた。道の左右には飲み屋や飲食店が並んでいる。繁華街のような場所だと分かった。
 飲み会帰りらしき社会人の集団が通りすぎていく。しかし、道のど真ん中に倒れていたにもかかわらず、私に声をかけてくる者はいない。
 人通りはわりと多い。なのに誰も私の方を見ない。関わりたくなくて見ないふりなら理解できるが、そういう雰囲気ではなく、本当に見えていない感じだ。
 この感じはやはり——あの時と一緒だ。
 つまりこれは、武田かナギの記憶を利用した吹蓮の術だということなのだろう。
「……ナギさん?」
 直後、十メートルほど離れたところでキョロキョロしているナギの姿を発見する。根元だけ黒い金髪、一本の緩い三つ編み。間違いなくナギだ。
 私は速やかに立ち上がり、彼のもとへと駆け寄る。
「ナギさん!」
「おっ!沙羅ちゃんじゃないっすか!」
 彼はすぐに気づいてくれた。
「いやー、会えて良かったっす。何なんすか、これは」
「多分あのお婆さんの術みたいなのだと思います。ナギさんはこの場所を知っていますか?」
「来たことないっすよ、こんな繁華街」
「そうですか。じゃあきっと武田さんの記憶ですね」
 だとしたら武田もどこかにいるはずだ。そして、彼が精神的ダメージを受けるようなことが起こる。……恐らくは。
「武田さんの記憶?え、ちょ、待って。どういう意味すか?」
「あのお婆さん、吹蓮は、不思議な術を使うんです。人の記憶を、その人が精神的ダメージを受けるよう改変して、見せてきます」
 ナギはきょとんとした顔になる。それは多分、私の発言があまりに現実らしくないものだったからだろう。
 確かに、すぐには理解し難い内容である。もし実際に経験していなかったとしたら、私だって理解できなかったと思う。世の中には経験しなくては分からないこともある。吹蓮の術は、その典型的な例だ。
「じゃ、武田さんが精神攻撃やられるってことっすか?」
「分かりませんけど、その可能性が高いですね」
 絶対、とは言えない。あくまで私の想像だ。しかし、私の時のことを思えば、次武田がやられても不思議ではない。
「そりゃヤバいっすわ!あの人意外とメンタル弱いし。探しに行った方が良さそうっすね!」
 ナギの目はやる気に満ちて輝いている。ソファの上で怠惰に過ごしている時とは大違いだ。
 それから私とナギは、武田を探しにいくことに決めた。

 武田を探していると、ナギが唐突に話しかけてくる。
「そういや、沙羅ちゃんのお父さんって何の仕事してはるんすか?」
 あまりに唐突なものだから、私は即座には答えられなかった。彼が私の父親の職業について尋ねる理由がまったく理解できない。
 私が訝しんだ顔をしていることに気がついたのか、ナギは慌てたように「あ、別に詮索したいわけじゃないっすよ!?」と言う。せっかく話題を振ってくれたのに申し訳ない気がして、「いえいえ」と返す。
「私の父は新日本銀行で働いています」
「え、マジすか!?バリバリのエリートじゃないっすか!ここら辺っすか?」
「いえ、遠いところです。だから家にはあまり帰ってきません」
 するとナギは、「聞かない方が良かったかも」というような、非常に気まずそうな顔をした。彼は、私が寂しい思いをしているだろうと想像して、気まずそうな顔をしたのだろう。
 しかし、父親が家にいないのはずっと前からだ。小さな頃からだから慣れている。父親と一緒にいられないことを寂しいと思ったことはない。
 正直に真実を述べるとしたら……ナギが質問してくるまで父親の存在を忘れていたくらいだ。エリミナーレに入ってからというもの、色々ありすぎて、家族のことなんてすっかり忘れてしまっていた。
「じゃあ沙羅ちゃんは、大体お母さんと二人で暮らしてたんすね」
「そんな感じです」
「……寂しくないっすか?」
 常日頃騒々しい彼にしては珍しく、落ち着いた静かな声である。いつもの鼓膜を貫くような大きい声でなく助かった。
「はい。私にはお母さんがいますし、今はエリミナーレのみんなもいます。だから寂しいと思ったことはありません」
 ナギはくしゅっと顔を縮めて笑う。
「やっぱ強いっすね!さすが沙羅ちゃ……」
 ——そこまで言った時、ナギの顔つきが変わった。彼は光の速さで拳銃を抜き、路地の方へ銃口を向ける。
「な、ナギさん?」
 私は思わず漏らしてしまう。
 いつもはお調子者の彼が真剣な顔をしていることが驚きだった。
「一体何者っすか!隠れてないで出てきていいんすよ!」
 ナギは真剣な表情で路地に向かって叫ぶ。緩い三つ編みが、夜の風に揺れている。
 彼がこんなに男らしく見える日が来るなんて驚きだ。
「出てこいって言ってるんっすよ!!」
 ナギは口調を強め、引き金を引く。乾いた破裂音が夜の街に響いた。もちろん、道行く人は誰も気づかないけれど。
 すると路地から黒い人影が現れる。人影は銃弾を避け、目にもとまらぬスピードでこちらへ駆け寄ってくる。
「ちょ、速っ……」
 普段は呑気なナギだが、さすがに焦りの色が浮かんでいる。
「止めて下さいっ!」
 私は半ば反射的に叫んだ。その瞬間、黒い人影はぴたっと動きを止める。
「……武田さん?」
 その黒い人影は武田だった。黒いスーツを身にまとい、背は高く、スリムでありながら逞しい体つき。間違いない。髪が焦げ茶色なところを見ると、過去の彼、ということもなさそうである。
「沙羅とナギか。警戒するあまり、つい手を出しそうになってしまった……すまなかった」

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.130 )
日時: 2018/01/31 16:07
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: GTJkb1BT)

72話「私は何も恐れない」

 顔色や言動を見ている感じだと、武田はまだ何もされていなさそうだ。精神的なダメージを受けた跡は見当たらない。
 何もされていないうちに合流できて本当に良かった。
「武田さんはこの場所を知っていますか?」
 念のため確認してみる。恐らく武田の記憶だろうが、もしかしたら違うという可能性もあるからだ。
 すると武田は「知っている」と言うように真剣な顔つきで頷いた。やはり私の予想は当たっていたようである。
 武田の表情は固く厳しいものだ。だが私へ向けられる視線はどこか優しい。私が自分に都合のいいように解釈してしまっているだけかもしれないが、そんな気がした。
「じゃあ、この場所は武田さんの思い出の場所なんすか?」
 ナギが珍しくまともな質問をする。
 からかうでもなく、嫌みでもない。ナギが武田に対して、そんなまともな問いを投げかけることがあるとは、正直驚いた。
「そうだな。思い出という言葉が相応しいかは分からないが」
 武田は躊躇いの色を見せ、言葉を少し詰まらせた。数秒の沈黙を挟み、彼は再び口を開く。
「忘れられるはずもない。ここは、瑞穂さんが殺された繁華街だ」
 ——なるほど。
 なんとなく分かってきた気がする。
 吹蓮の術は、恐らく、対象者の人生における大きな分岐点となった出来事を利用するのだろう。これといった確実な根拠があるわけではない。だが、私があの立て籠もり事件の光景を見せられたこともあり、吹蓮が使う術について漠然と推測することはできた。
「マジっすか。なんかヤバい感じっすね」
 ナギは困ったような顔をする。彼の顔が明るくないと、辺りが暗い雰囲気になってしまう。
「沙羅、経験者のお前に聞きたい。どうすればここから抜け出せる?」
 武田の真っ直ぐな視線が、私の瞳に注がれる。
 心まで射止められてしまいそうな視線に、頬が熱くなる。このような状況下でなければ、胸の高鳴りが止まらなかったことだろう。
「抜け出す方法、ですか?」
「そうだ。いつまでもこんなよく分からない場所にいるわけにはいかない。小さなことでもいい、教えてくれ」
 私は「そうですね……」と暫し考える。
 あの時はレイが現れて、悪夢を終わらせてくれた。しかしあれがどのような仕組みだったのかは分からない。そもそも術をかけられただけの私に分かるはずがないではないか。
 とはいえ、せっかく武田が聞いてくれているのだ。彼に頼られる機会など滅多にない。その極めて貴重な機会に、「分かるわけがない」とキッパリ答えるのも惜しい気がする。
「私にも仕組みはよく分かりません。ただ、あの時は、急にレイさんが現れて終わらせてくれました」
 結局この程度。彼のためになるようなたいしたことは言えなかった。しかし武田は嫌な顔はせず、淡々とした声で「情報提供感謝する」とだけ述べた。
 それにしても、このタイミングで「情報提供」などという言葉を使うとは、ある意味新鮮だ。武田の言葉選びのセンスは実に興味深い。
「これからどうするんすか?武田さん。このままじっとしてても何も進まないっすよ」
「その通りだな」
「いやいや!その通りだな、じゃないっしょ!早く、どうするか決めて下さいよ!」
 ナギは動きたくてうずうずしているようだ。じっとしているのは退屈なのだろう。
「では、瑞穂さんが殺された場所へ向かうか?」
「いいっすね!瑞穂ちゃんに酷いことをしたやつは許さないっす。この機会にとっちめてやりましょう!」
 武田の提案を受け、急激に張り切りだすナギ。
「女の子を傷つける奴はフルボッコの刑っす!」
「……何だ、それは」
「とにかく行きましょう!瑞穂ちゃんの敵を倒しに!」
「……瑞穂さんは私より年上だが、ちゃんづけなのか」
「うるさいっす!そんなことは今どうでもいいっしょ!」
 ナギと武田のやり取りを見ていると、テンションに差がありすぎて愉快だった。
 しかし、あまりのんびりしてもいられない。なんせここは吹蓮の術による幻の世界。半ば夢のような世界だ。つまり、何が起こってもおかしくはないのである。極端に言えば、道行く人たちが突然暴徒化しても、巨大なクラゲが大量に降ってきても、文句は言えない。私たちが今いるのはそんな世界だ。
「沙羅、どうした?」
 武田の言葉で正気に戻る。
 考えることに夢中になり、つい自分の世界に入り込んでしまっていた。
「あっ、いえ。すみません」
 慌てて謝る。それでなくとも無力な私がぼんやりしていては、武田やナギの足を引っ張ってしまうことは必至だ。無力なりに、もっとしっかりしなくては。
「……怖いのか?」
 武田は心配そうに尋ねてきた。
「い、いえ」
「違うのか。ならなぜじっとしている?何か不安があるのなら言ってくれ」
「大丈夫です。足を引っ張らないよう頑張りますね」
 怖い、なんて言えるわけがなかった。
 何が起きるか分からない場所にいるのだ、怖くないと言えば嘘になる。無力な人間がこんなところへ放り込まれて恐怖感を抱かないはずがない。
 けれど、今一番怖いのは武田のはずだ。大切な先輩を失った場所へ向かうのだから。
 彼は決して弱みを見せない。だから今も平気な顔している。だが、まったく平気ということは考え難い。本当は少し怖かったりするはずだ。
「あの……武田さん」
「何だ」
「怖くないんですか。瑞穂さんを失った場所へ行くなんて」
 私だったら行けないと思う。
 大切な人を失った記憶を思い出して、また悲しい気持ちになるに違いないから。せっかく止めた涙を、またこぼしてしまいそうだから。
 しかし、私の問いに対し、武田は迷いのない表情で答える。
「怖くなどない」
 感情のこもっていない、淡々とした声である。
「私は何も恐れない」
 二度目は、彼自身に言い聞かせているような口ぶりだった。
 弱い部分を掻き消すように。襲いかかる不安を払うように。彼は敢えて二度言った。
 彼は「怖くない」といった趣旨の言葉を何度か繰り返し口にする。それは多分、「怖い」という気持ちを少なからず抱いているからであろう。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.131 )
日時: 2018/02/01 15:14
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J1W6A8bP)

73話「躊躇いは要らない」

 私は武田の後ろを歩く。瑞穂が殺害されたという路地へ向かうことになったからだ。
 人が殺害された場所へ行くのは気が進まない。しかし、一人だけ別行動をするわけにはいかないので、私は歩いた。恐れるな、と小心者の自分にひたすら命じながら。

「確か、ここだ」
 武田が足を止めたのは、一本の路地の前だった。
 横幅は目測で五メートルもない。路地だから当然かもしれないが、非常に狭い。何か恐ろしいものが出てきそうな不気味な雰囲気だ。
「うわー、いかにもヤバそうっすね」
 若干顔を強張らせながら言うナギ。口調は普段通り軽いが、どこか緊張感のある声だった。ただならぬ空気が漂っているので彼が緊張するのも無理はない。実際、今私も同じ気持ちだ。
 真っ暗な路地を暫し凝視していた武田が唐突に振り返る。
「沙羅、大丈夫か?」
 彼は私のことを気にかけてくれているようだ。こんなことを思っている暇はないのだろうが、正直嬉しい。
「あ、はい。平気です」
「ならいいが、くれぐれも無理はしないように」
 淡々とした声で言う武田。私は一度頷き、「分かりました」とだけ返した。このような時に色々言うのもどうかと思ったからだ。
 それにしても、暗い路地はやはり不気味だ。どうも吸い込まれてしまいそうな気がしてならない。自然と不安が込み上げてきてしまう。私は首を左右に動かし、湧いてくる不安を振り払おうと試みる。恐れている場合ではない。

 その時だった。
 突然、白い霧が地を這うように発生し、辺りの風景が白く染まる。
 やがて、闇の向こう側から一人の女性が現れた。
 真っ白な髪を揺らしこちらへ近づいてくる彼女が瑞穂だと気づくのに、それほど時間はかからなかった。歓迎会の準備の時に現れた幽霊のような姿も、写真に写る生前の姿も、私は覚えていたからだ。
「久しぶりですね。こうしてまた会えたこと、嬉しく思います」
 瑞穂は、小さく滑らかな曲線を描く唇に穏やかな笑みを湛えながら、余裕を感じさせる静かな声で言う。柔らかな言動は淑やかな女性のようで、けれど自然な表情は少女のようにどこかあどけない。
「……瑞穂さん?」
 武田は警戒したように目を細める。
「不思議ですね。久々の再会、もっと喜んでくれるものと思っていたのですが」
「……いや、違うな。瑞穂さんは十年以上前に亡くなった。この世に存在するわけがない」
 武田が低い声で返しても、瑞穂は穏やかな微笑みを崩さない。女神のごとき微笑みである。
 しかし、彼女も所詮は吹蓮が作り出した幻に過ぎない。それは武田も理解しているようだ。自分で言うのもなんだが、私の体験を伝えておいたのは正解だったと思う。
「寂しいことを言いますね。せっかく再会できたというのに……残念です」
 言い終わるや否や、彼女は私に接近してくる。それはもう光のような速さで、彼女が目の前まで来るまで十秒もかからなかった。結構離れていたにもかかわらず、である。
 そんな瑞穂の手には鉄扇が持たれていた。金属光沢のある、黒い鉄扇である。見るからに結構な重量がありそう。叩かれると怪我するだろうなと思った。
 彼女は鉄扇の開いた面で私を薙ぎ払うように叩こうとする。本格的にまずい、と思ったが、彼女の狙いを察した武田が間に入ってくれた。武田は鉄扇の開いた面を片腕で受け止める。
「恩人の邪魔をするなんて酷いですね。裏切り者」
「何とでも言えばいい」
 武田は冷淡に返し、受け止めていた鉄扇を払う。そして瑞穂の腹部へ蹴りを加えた。一撃で大ダメージを与える破壊力のありそうな蹴りだ。
 だが瑞穂は武田の足が届く直前に一歩退く。先ほどまでの淑やかな言動とは対照的に俊敏な動きである。
「偽者に何を言われようが、痛くも痒くもない」
 武田は固い表情で言い放つ。鋭い瞳は瑞穂を捉えていた。
 それに対し瑞穂は、ふふっ、と余裕のある笑みをこぼす。
「武田くん、もしかして後ろの娘は彼女さんなのですか?」
 瑞穂はどうやら私のことを言っているらしい。なるべく巻き込まないでほしいのだが……。
「それは違う。仲間だ」
「では、なぜそこまで護ろうとしているのですか?」
「彼女は戦えない。だから私が代表として護る。それだけのことだ」
 瑞穂は、五十センチほどの長さの開いた鉄扇を、自分を扇ぐように動かしている。余裕があることを主張しているかのような、わざとらしいくらいゆったりとした動かし方だ。
 淑女のような瑞穂は、純白の髪を夜風に揺らしながら、静かに口を開く。
「ならこう聞きましょう。エリミナーレに戦えない人間を置いておくのはなぜなのですか?」
「エリミナーレは原則、終身雇用制を採用している」
 彼女は武田の答えに呆れた顔をした。
 それから、ほんの数秒だけ間を空けて言い放つ。
「無力な者は必要ないはずです。足を引っ張る者など捨てるべきではありませんか?」
「彼女を捨てるなどできるわけがない……!」
 瑞穂はまた、ふふっ、と笑う。
「ナイフで刺され、バットで殴られ、痛かったでしょう?その娘を手放せば、もう苦しまなくて済みますよ」
 彼女はとうに亡くなった人間だ。武田がナイフで刺されたりバットで殴られたりしたことをなぜ知っているのだろう、と一瞬考えた。
 だが、よく考えてみれば、彼女がそれらを知っているのは当たり前のことだ。なぜって、今見ている瑞穂は吹蓮が作り出したものなのだから。
 吹蓮はすべての元凶、知らないはずがない。
「安心して下さい、武田くんに殺せなんて残酷なことは言いません。この保科瑞穂が殺してあげます」
 今、彼女の殺意は私に向けられている——。
 そう考えると背筋が凍りつきそうだった。
「さぁ、彼女を渡しなさい」
 穏やかな笑みは変わらない。けれども、彼女は恐ろしい殺気を漂わせている。
「断る。それはできない」
 武田は淡々とした調子で、瑞穂の命令を拒んだ。
「そうっすよ!」
 直後、鼓膜を貫きそうな乾いた破裂音が数回響く。どうやらナギが発砲したらしい。銃弾は一直線に瑞穂のこめかみへ向かっていく。確実に命中しそうな見事な位置。
 しかし、瑞穂は鉄扇ですべての銃弾を防ぐ。
「ひゃー、まさか防がれるとは。さすがっすわ!」
 ナギは相変わらずノリが軽い。だが軽い口調とは裏腹に、表情は普段の彼と異なっている。頬の緩みが少ない。
「この程度の不意打ちでさすがなどと言われたくありません」
「意外と冷たいっすねー……」
 冗談風に言いながら頭を掻くナギを無視し、瑞穂は視線を再び武田へ戻す。
「さぁ、武田くん。彼女を渡しなさい」
「それはできないと言ったはずだ」
 武田が言い終わった瞬間、瑞穂は彼に襲いかかった。瑞穂の強烈なパンチを、武田は咄嗟に腕で防ぐ。
「では二人揃って地獄へ送ってあげますね」
 彼女は微笑みを浮かべたまま連続でパンチを繰り出す。奇妙な光景だ。
 対する武田は、時に受け流し時に防ぎ、一撃一撃確実に対応していく。瑞穂の速度に負けていないのは凄いと思う。
 しかし彼の顔には疲労の色が浮かんでいる。額には汗の粒がいくつもついていた。瑞穂と互角にやり合うのは厳しい部分があるのかもしれない。
 少しして、疲労ゆえかほんの僅かに遅れた武田は、開いた鉄扇で右肩を叩かれた。強い衝撃を与えられた彼はよろめくように数歩下がってくる。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ、このくらいならすぐに立て直せる」
 左手で右肩を押さえ苦痛に耐えている。だが表情は鋭い。不利な状況ではあるが、心はまだ折れていないようだ。
「現実ではないですけど……くれぐれも無理はしないで下さい」
「分かっている。沙羅は何も案ずるな」
 彼は肩で息をしながら宣言する。
「……今のは躊躇ったせいだ。そんなものはもう捨てる」
 不利な状況、緊迫した空気。小心者の私は逃げ出したくなるものと思っていた。それが当然だと。でも違った。理由は分からないが逃げ出したいと思っていないことは確かだ。
 それよりも、ときめきがとまらない——彼の黒い背中を見つめていると。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.132 )
日時: 2018/02/02 12:57
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: hVaFVRO5)

74話「可能性があるならば」

 鉄扇を閉じ、その先端を武田へ向ける瑞穂。彼女はその時になり初めて嘲笑うような表情を浮かべた。どこかあどけなさの残る顔に、他人を見下すような表情は似合わない。
「いい年してヒーロー気取りはかっこ悪いですよ。大人しく従って下さい。そうすれば酷いことはしませんから」
 控えめな大きさと整ったラインが特徴的な唇を、彼女はゆっくりと動かす。
「そんな力なき娘のために、これ以上痛い目に遭いたくは……っ!?」
 いつの間にか瑞穂の背後へ回り込んでいたナギが、彼女のこめかみに銃口を当てていた。瑞穂ですらたった今まで気づかなかったようだ。忍者のごとき気配のなさである。
 ナギは片側の口角を僅かに持ち上げた。
「勝ち誇ってらっしゃるとこ悪いんすけど」
 いつでも撃てるよう、引き金に指を当てている。
「そろそろ消えてもらっていいっすか?」
 気づいた瞬間には驚きの表情を浮かべていた瑞穂だが、すぐに落ち着いた表情へ戻る。しかし、その顔に笑みはない。
「残念ながらそれはできません。エリミナーレを一人残さず消し去ることが仕事ですから」
「偽者瑞穂ちゃんはいろんな意味で理解力ないっすね」
 瑞穂は不愉快そうな顔をする。嫌みを言われ不愉快に思うのは当然といえば当然だ。
 だが、今までずっと笑みを崩さなかった瑞穂が不愉快そうな顔をしたのは、正直意外だった。彼女なら嫌みを言われても笑顔で流すと考えていたのだ。
「にしても、エリミナーレを一人残さず消し去るとか、そんなことできるわけないっしょ。偽者瑞穂ちゃんって、実はちょっとお馬鹿系なんすか?」
 ナギは冗談めかしつつ述べた。
 怒らせると怖そうな相手にでも、一切躊躇うことなくずけずけ物を言う。微塵の遠慮もないストレートな言葉選びは、さすがナギといったところか。凡人には真似できない。
「ナギ!お前はあまり接近しすぎるな!」
 私を庇うように立ってくれていた武田が、いつもより少し大きめの声で口出しする。
 ナギの武器は拳銃。接近戦には明らかに適していない。それなのに瑞穂に近づいている彼を心配して言ったのだと思う。
 実際、武田でも苦戦する彼女にナギが勝てるとは到底考えられない。それに、同じ一撃を食らったとしても、肉体が頑丈でないぶん武田よりもダメージが大きくなることは避けられないだろう。ナギが瑞穂とまともにやり合うのは危険だ。
「杞憂っすよ!銃口当ててりゃよゆ……ちょっ!?」
 瑞穂は油断して喋っている隙を見逃すほど甘い人間ではなかった。彼女はナギの髪——三つ編みを掴み、彼の体を彼女自身に引き寄せる。女性が男性に対してしているとは思えないくらい、軽い引き寄せ方だ。
 思わぬ強い力だったのか、ナギは動揺した顔をしている。
「これ以上、苛立たせないで下さいね」
 瑞穂はナギを地面に叩きつけた。顔面からで痛々しい。アスファルトに顔面から叩きつけられたのはかなり痛かっただろう。随分酷いことをするものだ。
 しかし、心の中で「私でなくて良かった」と安堵している自分がいた。人によっては嫌なやつだと思うかもしれない……。
「ちょ、偽者瑞穂ちゃん!いくらなんでも酷いっすよ!」
 ナギはむくりと起き上がると怒りを露わにする。女好きの彼が年上の女性に対して怒るのは珍しい気がした。
「怪我したらどうしてくれるんっすか!武田さんじゃないんすよ!?」
 武田ならいいのか、と心の中でつい呟いてしまった。それはそれで酷い気もする。だがナギが意外と元気そうで安心した。
 一方瑞穂はというと、まだ不愉快そうな顔をしている。彼女がナギへ注ぐ視線は、不快感と憎しみが混ざったような刺々しいものだった。
 たったの一度だけ地面に叩きつけるくらいでは、彼女の中にある苛立ちは解消されないようだ。今まで余程耐えていたのだと察することができる。
「まずは一人目」
 瑞穂の、可愛らしさがあるアーモンド型の瞳は、茨のような視線をナギへ向ける。それからナギの髪を乱暴に掴み、鉄扇を開く。そしてナギの顔面を強く叩いた。
 顔面への攻撃が妙に多いが……大丈夫だろうか。
 ナギに特別興味はない。だがそれでもエリミナーレのメンバーだ。骨折したり脳がダメージを受けたりしていないか、少々心配である。
 顔面を鉄扇で強打されたナギは地面に倒れ込む。
「覚悟してもらいます」
「待って!時間ほしいっす!」
「それは無理です」
 瑞穂は鉄扇を振り下ろし、ナギを攻撃する。儚い容姿とは真逆の様子だ。
 彼女は本物の瑞穂ではない。それは分かっている。けれど、武田から「優しい」と聞いていただけに、今の彼女の行いは衝撃的だった。イメージとかけ離れていたからであろう。
「沙羅ちゃん!」
 鉄扇による猛攻から逃れようと必死になっているナギが、突如叫ぶ。切羽詰まった声色だ。
 何だろう、と思い彼を見る。すると奇跡的に視線がぴったりと合った。
 ——次の瞬間。彼は持っていた拳銃をこちらへ放り投げる。
「使って!」
 ナギは強く言った。
 黒い拳銃が宙を舞い、私へ向かってくる。これほど上手に投げられるものか、と感心する。
 しかし、大きな問題があった。私はキャッチボールが苦手なのだ。運動は全般的に苦手なのだが、特にキャッチボールはまともにできたことがない。
 投げれば壊滅的なコントロールのせいでおかしなところへ飛ぶ。受けようとすれば絶対落とす。ボールですらそのような状態の私が、球形でない物をキャッチできるわけがない。
 どうしよう、と思っていると武田がキャッチした。武田は「よし、これを」と言いながら、拳銃を私へ渡してくる。
「ナギさん……?」
「それ使っていいっすよ!」
 使っていい、と言われても。
 訓練もしていない私が撃つなど危険なばかりである。
 だが、執拗に攻撃されるナギを助けなくてはと思う気持ちはあった。彼はアスファルトの上を転がるようにして、瑞穂の鉄扇攻撃を避けている。背が低いぶん武田より身軽な気はするが、動きが危なっかしい。
「沙羅、撃てるのか?」
「分かりません……。でも」
「でも?」
 同じ言葉を繰り返し、首を傾げる武田。
「私にできるかもしれないなら、やります」
 幸い瑞穂は私を見ていない。ナギが逃げ回っているおかげである。今はチャンスだ。
 私は覚悟を決める。ここで逃げたらあまりに情けない。今まではずっと護られるばかりだったけれど、いつまでもそれでは駄目だ。
 できる——だから私は、そう自分に言い聞かせ、引き金を引いた。
 偽者の瑞穂を消し去り、この夢から覚めるために。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.133 )
日時: 2018/02/03 14:22
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: VHEhwa99)

75話「祈り」

 銃口から放たれた銃弾は、宙を駆け抜け、瑞穂の首を掠める。
 残念ながら一撃で仕留めることは叶わなかった。しかし、素人の私がまともに狙いを定めることもせず撃ったのだから、掠っただけでも上出来である。
「……そちらから仕掛けてくるとは。貴女も完全に無力ではないということですか」
 それまでナギに気を取られて瑞穂は、銃弾を受けてようやくこちらへ意識を向けたようだ。僅かに振り返り私を睨む。
 銃弾が掠ったところからは血が流れていた。溢れ出すような大量出血ではないが、それでも見ていて痛々しい。赤い液体が真っ白な髪を濡らしている様子は、私には少し刺激が強かった。
 少ししてから、彼女は、口元に笑みを浮かべる。
「面白いですね」
 その言葉を発するとほぼ同時に、辺りに霧が立ち込めだした。みるみるうちに視界が悪くなっていく。
「……どうやら目的は達成されたようですね」
「目的、だと?」
 武田は怪訝な顔で尋ねる。それに対し瑞穂は、ふふっと控えめに笑って言葉を返す。
「任務中の方々がどうなっていることか。ぜひ楽しみにしていて下さい」
 彼女は意味深な言葉を最後に、すうっと姿を消した。あまりにあっさりと消えてしまったので少々戸惑う。
 残されたのは、ただ暗闇だけであった。

 ——気づけば事務所の玄関にいた。
 なんとか戻ってこれたようである。実際にどのくらいの時間が経過したのかは分からないが、とても長い夢を見ていた気分だ。
 ドアはあのまま開いていた。しかし吹蓮の姿は見当たらない。水族館の時も目が覚めると彼女はいなかったので、今回も同じなのかもしれない。
 だが、ほんの少しの疑問が心の片隅に残った。わざわざ事務所を訪ねて一体何をしたかったのだろう、と。もっとも、当人がいないので知りようもないのだが。
 それから私は、まだ倒れている武田とナギに声をかける。何度か声をかけていると二人は意識を取り戻した。
「……終わったのか」
「どうもそうみたいっすね」
 武田は暫しぼんやりしていたが、ナギはすぐに立ち上がる。
「あ。そういや、任務中の方々がどうのって言ってたっすけど、レイちゃんたちに何か起こったんすかね?」
 私はたまたまポケットに入れていた携帯電話を取り出してみる。メールや電話を受けると光るライトが点滅していた。急いで開く。
 すると、画面にはレイから電話がかかったことが表示されていた。何度もかかっているようだ。やはり何かあったのだろうか、と不安になる。
「取り敢えずかけてみます」
「そうっすね」
 しばらく呼び出し音が続く。私は気長に待った。
 どのくらい経っただろうか。ついに呼び出し音は終わる。
『……はい』
 いつもより疲れたような声のレイが電話に出た。彼女の特徴でもある爽やかさはなく、声はどこか曇っている。
「レイさん。ごめんなさい、しばらく電話出れなくて」
『いいよ、気にしないで』
 テンションがかなり低い。レイはわりと安定している質なので、こんなことは珍しい気がする。
『沙羅ちゃんは事務所?』
 私は頷きながら「はい」と返す。
 電話なので頷くことに意味はない。普通に話すような感覚で自然と動いていたのである。
『武田とかナギとかも事務所にいる?』
「揃ってます」
『じゃあちょっと応援頼みたいんだ。今ちょっとまずい状況だから……』
 その瞬間、ガタンと音がした。
『沙羅?エリナよ』
 どうやら、レイからエリナに代わったらしい。エリナが話したいことがあるようだ。
『武田はいる?』
「はい。代わりましょうか」
『えぇ。よろしく』
 エリナにそう言われたので、私は武田へ視線をやる。彼はちょうどドアを閉めているところだった。事情を説明し、携帯電話を武田に渡す。
「武田です。何でしょうか」
 彼は立ったまま私の携帯電話を耳に当て、話し始める。最近はこういうパターンが多いな、と何げなく思った。
 だが、私の携帯電話を武田が使っているということが、どことなく嬉しかったりする。
「やっぱ何かあったんっすかね?」
「雰囲気が少し違ったので、もしかしたらそうかもしれません……」
 レイとエリナは李湖を護る任務の途中のはずだ。もしかしたら李湖を狙う何者かが現れたのかもしれない——大丈夫だろうか。足首のこともあり、エリナは特に心配である。悪化していなければいいが。
「はい、分かりました。では」
 武田は電話を切る。携帯電話を私に返してくれた。
「どんな感じっすか?」
「泊まっていた旅館で襲われているらしい。李湖というあの女、初めからそれが目的だったようだ」
「マジすか!?じゃあどうし……」
「私が迎えに行ってくる」
 慌てるナギに対し、武田は冷静だ。二人の様子は対照的である。
「武田さん、一人で行かれるんですか?」
 私は一応尋ねてみた。
 すると彼は「ゆっくりしているといい」と返してくる。彼なりの気遣いなのだろうが、足手まといと言われている気がして、若干複雑な気持ちになった。
「ナギ、沙羅を頼む」
「オッケー!何かあったら、ちゃんと護るっす!」
 最後に武田は、腰を屈めて私の顔を覗き込む。
「沙羅、くれぐれも無理はしないように」
 私を心配してくれているのか、彼はそう言った。表情は柔らかく、穏やかな声色だ。
「よし。では、また後ほど」
 私は、事務所から出ていく黒い背中を、見えなくなるまで見つめ続けた。
 ——どうか彼が、無事に帰ってきますように。
 そんなことを心の内側で密かに祈りながら。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.134 )
日時: 2018/02/04 03:54
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SsbgW4eU)

76話「憂鬱な時こそ作業をしよう」

 武田は一人で行ってしまった。
 ナギと二人きりのリビングは静寂に包まれている。モルテリアはまだ起きてこない。これといったすべきこともないので、ただ時が過ぎるのを待つのみだ。
 パソコンの傍に置かれたカニのピンバッジを見つめていると、なぜか少し切なくなっている自分がいることに気がつく。残していかれたそれが、どこか悲しそうな雰囲気を漂わせていたからかもしれない。
 こんな風に——いつか私も置いていかれるのだろうか。
 この時、私は、今まで考えてもみなかったことを考えた。思考がなぜそこへ至ったのかはよく分からない。
 けれど、確かに考えてしまったのだ。いつの日か武田が傍にいなくなったら私はどうして生きていけばいいのだろう、と。
 何のために、何を求めて、生きていけばいいのか。そもそも、彼がいない世界で私は普通に生きられるのか。
「……どうしよう」
 私は半ば無意識に溜め息を漏らしていた。溜め息は幸せを逃がすと言うから、なるべく避けたいところなのだが。
 余計なことを考えるあまり憂鬱になっていると、つい先ほどまでファッション雑誌を読んでいたナギが声をかけてくる。
「沙羅ちゃん、なんでそんな暗い顔してるんすか?」
 特に何も言わずとも私の気持ちを察してくれていたようだ。私は分かりやすい人間なのかもしれない。
「あ、いえ……」
「元気ないっすね。武田さんが行ったからっすか?」
「ごめんなさい、少し考え事をしていただけです」
 ナギは「そうっすか」とだけ返し、何か考えているような顔をする。それからしばらくして、彼は唐突に顔を上げた。
「そうだ!ちょっと手伝ってもらいたいことあるんすけど、頼んでいいっすか?」
「私にできることですか」
「大丈夫大丈夫!ただ単に本棚の整理だけなんすけど、一人じゃどうも続かなくて」
 頭を掻きながら苦笑いするナギはまるで小学生のようだ。二十歳を過ぎているとはどうしても考えられない。
「分かりました。手伝いますね」
 私は微笑んで答えた。
 自然な笑みになっていればいいのだが……。

 それから私は、ナギと二人で、リビングにある本棚の整理を始めた。
「それにしても、さっきのは何だったんすかねー」
「さっきの、とは?」
「なんか術?みたいなやつっすよ。せっかく会えた瑞穂ちゃんは偽者だし、俺らに酷いことするし、そのわりにあっさり消えて。意味不明っすよ、本当に」
「確かに、よく分かりませんでした」
 文庫本や雑誌、そして丁寧にファイリングされた書類。本棚にはそれらが無造作に詰め込まれてごちゃごちゃしている。せめて種類ごとに入れるくらいはしておいてほしかった。というのも、雑誌の中に書類が挟まっていたり、文庫本が奥に押し込まれていたりするのだ。滅茶苦茶である。
 取り敢えず本棚から全部取り出すことにした。今のまま整理するのでは収拾がつかないし、時間がかかりすぎるからだ。
 ナギが取り出し、私が種類ごとに分ける。慣れてくるにつれ、餅つきのようにテンポよく作業ができるようになった。これは二人だからこそできること。なかなか効率的だと思う。
「ん?これ何すか」
 最後の数冊を取り出そうとした時、ナギが急に呟いた。
「どうかしましたか」
「奥から見たことのないファイルが出てきたんすけど……超古そうっす」
 彼は言いながら、ピンクのファイルを私に渡してくれる。
 そのファイルは端が波のように歪み、何ヵ所か僅かに折れていた。他のファイルがとても綺麗だっただけに、確かに違和感を感じる。
「昔の書類とかですかね」
「もしかして、お宝!?ちょっと中身見てみたいっす!」
 ナギは期待に目を輝かせ、私にファイルの中身を取り出すよう促す。私は仕方なく、ファイルに挟まれている紙を取り出した。黄ばんだ紙だ。
「……これは?」
 履歴書のような紙があった。恐らくコピーだと思われるその紙には、畠山宰次、という名前が書かれている。すぐ横に顔写真が添付されていて、他には生年月日や出身校などが書いてあった。
「なんか謎っすね」
 ナギは書類を舐めるように見ながら呟く。そして、何か気がついたらしく続ける。
「あ。この人、新日本銀行に勤めてたみたいっすよ。沙羅ちゃんのお父さん、もしかしたら知ってるんじゃないっすか?」
「畠山さんなんて聞いたことないですけど……」
「今度ちょこっと聞いてみたらどうっすか?何か分かるかもしれないっすよ」
 ナギはとにかく気になっているようだ。なぜこの畠山という人間をそこまで気にするのか、私にはよく分からない。
 だが、敢えて尋ねる必要はないと思った。それほど大きなことではない。
「確かに。今度父に聞いてみます。何か分かったら伝えますね」
 そう約束した。

 それから私たちは、再び本棚の整理に戻る。
種類ごとに分けた物を丁寧に棚へ戻す作業は二人で行った。背が低めの私は下の方の段を担当する。
 同じ大きさの物が揃うように、またなるべく斜めになったり倒れたりしないように、一つ一つ棚へ入れていく。正直少し面倒臭い作業だが、一人でないのでなんとかできた。
 途中からは、たまたま起きてきたモルテリアも手伝ってくれ、本棚はちゃんと整理整頓された。これで外観もだいぶ綺麗になったはずだ。
 久々に汗をかいてしまった。
 しかし、たくさん動いたおかげで憂鬱な気分を払拭することができたのは、良かったと思う。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.135 )
日時: 2018/02/04 19:08
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: exZtdiuL)

77話「もはや懐かしい顔」

 本棚の整理を終えた頃には、心はすっかり落ち着いていた。
 軽い運動には疲労回復効果がある。大学時代、授業でそんなことを聞いた記憶がある。当時は「横になる方が休まるに違いない」と考え、話半分に聞いていたが、あながち間違いでもないようだ。
「……お疲れ様。抹茶ラテ……と、若狭さんの無農薬イチゴ……」
 キッチンからやって来たモルテリアは、コップ三つと一枚の皿が乗ったお盆を持っていた。皿には小さなイチゴが五つほど乗っている。
「俺のはやっぱなしっすか?」
「今日は……ある」
 どうやら今回はナギも働いていたと認められたようだ。良かった良かった。
「……イチゴ、昨日の残り……。我慢した……」
 我慢して残して五粒。
 若狭さんの無農薬イチゴはそんなに美味しいのだろうか……。
 イチゴをつまみ、モルテリアが淹れてくれた抹茶ラテを飲みながら、私たちはひと休みした。

 数分くらい経っただろうか。玄関の方から唐突に、鍵を開ける音がした。
 扉が開く気配と同時に、春の暖かい風とエリミナーレらしい喧騒が戻ってくる。たまに疲れることはあり、けれど、なければないで心が空っぽになる——そんな騒々しさがようやく帰ってきたようだ。
 もしかしたらレイやエリナもいるかもしれない。
 少しでも早くみんなの顔を見たくて、私は急いで玄関へ向かう。このような胸の高鳴りを、武田関連以外で感じるのは久々だ。
「あら、沙羅がお出迎え?」
 一番に遭遇したのは、先頭を歩いてきていたエリナだった。
 彼女は私を目にするなり、「今日は随分張り切っているのね」と冗談めかす。出会うなりこれとはさすがだ。ただ、今は、その彼女らしさに触れられたことが嬉しく感じられる。
 懐かしいこの感じ、嫌いじゃない。
「エリナさん、帰ってこられたんっすね!」
 私の後ろから現れたのはナギ。
 明るく振る舞っていた彼も、内心仲間の身を案じていたのだろう。非常に嬉しそうな顔をしている。
「ナギ、留守番お疲れ様」
 エリナは微笑しつつ、あっさりした調子でナギをねぎらう。言葉だけのねぎらいだが、ナギが不満を漏らすことはなかった。
「いやいや!たいしたことしてないっすよ!」
 頭に手を当てながらはにかむナギ。その頬は林檎のように赤みを帯びている。女性と接することには慣れていそうな彼が「お疲れ様」の一言だけで赤くなるとは少しばかり意外だ。予想外に初々しい。
「怪我とかないっすか?」
「ないわね」
「色々あって疲れてないっすか?」
「それほど弱くないわ」
 ナギは、淡々とした足取りでリビングへ向かうエリナに、質問を繰り返す。エリナは面倒臭そうな表情を浮かべ、適当にあしらっていた。
「もし良かったら、マッサージして差し上げるっすよ!」
「結構。ただ触りたいだけでしょ」
「ちょ、酷っ。俺は女性を体だけで見たりしてないっすよ!確かに美人は好きっすけど、でも内面も重視して……」
「もういいわ。黙りなさい」
 エリナとナギはそんな珍妙なやり取りをしながら、リビングへと歩いていった。
 素直でないエリナとかなり素直なナギ。こんなことを言うのもなんだが、二人はなんだかんだでお似合いな気がする。人間は真逆の性格の方が上手くいく。二人の様子を見ていると、その説も理解できる気がした。

「離してちょうだいよぉっ!」
 二人を見送った直後、いきなりそんな叫び声が耳に入った。
 私は驚いて、声が聞こえた玄関の方に視線を向ける。そこには、武田とレイに両側から身柄を拘束された李湖の姿があった。李湖は両脇に腕を挟まれ、まるで犯罪者のようである。
「武田さん!レイさん!」
 私は思わず二人の名を呼んだ。
 ほんの数日離れていただけなのに、レイの凛々しい顔が物凄く懐かしい。男性的な雰囲気を醸し出す端整な顔立ちと、それとは逆に女性らしさのある長くて青い髪。本当に懐かしく、旧友に会ったような気分だ。
「沙羅ちゃん、大丈夫だった?心配かけてごめんね」
 爽やかな笑みを浮かべたレイはどこまでも魅力的である。私にこのような表情を向けてくれる女性なんてもうずっといなかった。それだけに印象的だ。
 同級生や知り合い、先生も——誰もが私を「少し変わっている子」という目で見ていた。エリミナーレに入るなどと不可能に近いことを抜かし勉強ばかりしている変わり者、と思われていたのだろう。
「ちょっとちょっと!マジ離しなさいよぉっ!」
 身をよじり激しく抵抗する李湖。しかし、武田とレイに二人がかりの拘束からは、そう容易く逃れられない。
「暴れるな。大人しくしろ」
「話はこれからちゃんと聞かせてもらうからね」
 武田とレイは李湖に対してそれぞれ言う。二人とも冷ややかな声だった。
 李湖は濃い化粧の顔を歪め、拘束から必死に逃れようとしている。腕を脚を激しく動かし、振り払うように体をねじる。それでも拘束は解けない。
 素人には無理だろう、と内心思った。
「酷いぃっ!李湖はなんにも悪くないのにぃっ!」
 李湖の額は汗でびっしょり濡れている。こちらが恥ずかしくなるほど塗りたくられたファンデーションが一部落ちていた。
 汗のせいだろうか……。
「沙羅、鍵を頼んでも構わないか」
 武田が私に直接頼んでくれた。嬉しい。
「はいっ!もちろん!」
 勢いに乗り、つい張り切った声を出してしまった。心の底から沸き上がる喜びが溢れてしまったのである。
「ありがたい。感謝する」
 彼は僅かに頬を緩めた。
 そして、武田とレイは、抵抗する李湖を引きずりながらリビングの方へと向かう。
 諦めの悪い李湖は、その間もずっと「離して!」などと繰り返していた。ここはエリミナーレの事務所、いくら叫んだところで離してもらえるはずがない。彼女を助けようとする者もいない。
 それでも彼女は叫んでいた。完全に騒音である。迷惑でしかない。
 玄関に一人残った私は、武田に頼まれた通り鍵を閉める。そして、武田に「感謝する」と微笑んでもらえたことを噛み締めつつ、リビングへと足を進めた。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.136 )
日時: 2018/02/06 00:57
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: bOxz4n6K)

78話「借金アイドル」

「さて。それじゃあ話を聞かせてもらおうかしら」
 お馴染みの席につき、足を組んで、エリナは言った。鋭い目つきとは対照的に、紅の塗られた口には笑みが浮かんでいる。
 レイと武田に拘束された李湖は、そのままエリナの前に立たされた。
 エリミナーレ全員がリビングに集まっているにもかかわらず、室内は静まり返っている。ぴんと張り詰めた空気が全身を硬直させるようである。
「庵堂李湖。貴女は護衛を頼んでおきながら、私たちを倒そうとした。理由を説明しなさい」
 落ち着いた調子で言い放つエリナの声は、氷のごとき冷たさだった。背筋が凍るような恐ろしさのある声色。私が言われているのでなくて良かった、と思うほどだ。
「バァーカ!説明なんてするわけな……ひぃっ!?」
 反抗的な態度をとりかけた李湖だったが、首もとにレイの銀の棒を近づけられると、一気に怯えたような顔つきになる。声も上ずっていた。
「……い、言うから!話すってー!ちゃんと言うから止めてぇ!」
 銀の棒を首に突きつけられた李湖は震えている。余程怖いのだろう。厚化粧した顔面は青ざめ、歯はガチガチ鳴っていた。
 それでもレイは銀の棒を戻さない。彼女は李湖を微塵も信頼していないということだろう。
 だが、それは正しい。李湖が到底信頼できるような人間でないことは、わりと疎い私ですら分かっている。
「り、李湖は……李湖は悪くないんだよぉ……」
「そういうのは要らないわ」
 話し出す李湖に対し、エリナが鋭く言った。結構苛ついているように見える。
「……李湖はもともとアイドルだったんですぅ。それなりにファンもいましたぁ」
 この顔と性格で?と思ってしまったことは秘密。
 ようやく事情を語り始めた李湖。これさえも偽りということは考えられるが——エリナに見つめられながら嘘を述べるのは難しいだろう。
 なんせ彼女の瞳は独特だ。じっと見つめられるだけで、心を見透かされているような錯覚に陥る。そんな不思議な力を持っているのである。
「何年も続けてぇ、やっと全国ツアーが決まったんですー。なのに、そんな矢先に……!」
 李湖はらしくなく声を震わせていた。
 それにしても、全国ツアー。
 今までずっと芸能関連には縁がなかったので、それがどのくらい凄いことなのかはよく分からない。だが、全国を回るからには、新日本各地にファンがいるということだろう。そう考えればわりと凄い気もする。
 もっとも、私は一生関わることのない世界だと思うが。
「矢先に、ですって?全国ツアーが中止になるような何かが起こったというの?」
 怪訝な顔をして尋ねるエリナ。
 レイと武田に両側から拘束されている李湖は、そのまま俯き黙り込んでしまう。俯いているせいで顔全体は見えないが、悔しそうな表情であることは分かった。
「親の事業が失敗して、ツアーどころじゃなくなったんですよぉ……。家からは追い出され、李湖に残されたものは借金だけ……」
「それはおかしな話だわ。借金だらけの娘が護衛を頼むなんて、何か特別な人脈がない限り不可能じゃない」
 護衛をエリミナーレに頼むとなると、そこそこのお金が必要になるだろう。借金のある李湖が、お金を、果たしてそんなに持っているだろうか。
「……実は、人脈的なのがー……」
 李湖は遠慮がちに言う。今までのような激しい自己主張はしない。
「吹蓮さんって人にー声をかけてもらったんですぅ。事業の失敗を知ってぇ、途方に暮れて街を歩いていた時のことでした」
「えっ!ちょ、マジっすか!?」
 李湖の口から出た吹蓮の名に驚いたナギが大きな声を出した。エリナは彼に鋭い視線を向け、速やかに黙らせる。
「続けてちょうだい」
 エリナの顔つきが徐々に険しくなっていく。もちろん、レイや武田も。
 リビング内の空気が冷えていくのを感じた。
「吹蓮さんは占い師らしくってぇ、李湖が借金でヤバいことを知ってくれてたんですぅ。借金をなくせる良い仕事があるって聞いてぇー」
「それがエリミナーレの殲滅というわけ?」
 エリナの問いに李湖は頷く。本当に主張のない、小さな頷き方だった。
 李湖の小さな頷きを目にしたエリナは、ふぅと息を吐き出し、ゆっくり足を組み換える。
 それから怒りに満ちたような目つきになり、「エリミナーレもなめられたものね」と漏らす。その声は低く、彼女が不機嫌になりつつあることがよく分かった。
「依頼人のふりをして何人かを引き離すだけって言われたからぁ……全国ツアーやりたくてつい……」
 李湖も吹蓮に利用されたのだと、私はそう思った。
 楽しみにしていた全国ツアーの直前に親の事業が失敗するという事態に絶望していた李湖。吹蓮は、そんな彼女の弱った心を、上手く利用できると考えたのだろう。
 手駒を増やしたいがために、無関係の者にまで声をかけたのだ。世の中善人ばかりではないな、と思った。
「吹蓮って、武田がさっき言ってたお婆さんだよね」
「あぁ、厄介な老婆だ。おかしな術を使ってきて迷惑この上ない」
 レイと武田が小声で言葉を交わす。二人は話が始まってからずっと黙っていたので、久々に声を聞く気がする。
 その時。
 エリナが突然、椅子から立ち上がった。
「分かったわ」
 その一言に、リビングにいた全員が彼女を見る。視線が一点に集結した。
 もちろん私も吸い寄せられるように彼女へ視線を向けた。マイペースでいつもぼんやりしているモルテリアですら、今は、エリナをじっと見つめている。
「庵堂李湖、一つ頼まれてくれるかしら」
「えっ。り、李湖ぉ?」
 濃いファンデーションのせいで重苦しい顔に、今までで一番派手な驚きの色を浮かべる李湖。
 エリナは片側の口角を持ち上げ、ニヤリと笑みを浮かべる。
「吹蓮を呼び出してちょうだい」
 彼女の意図が分からず、部屋中に動揺が広がった。
 唐突なことに驚き戸惑っているのは李湖だけではない。
「李湖。それができたなら……貴女の裏切り行為、許してあげてもいいわ」

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.137 )
日時: 2018/02/07 04:27
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 5VUvCs/q)

79話「衝撃の連続」

 吹蓮を呼び出せ、だなんて。エリナは一体何を考えているのだろう。
 もしかして、吹蓮と直接対決するつもりだろうか。
 しかし、それにはまだ情報が少なすぎる。強敵だからこそ、もっと詳しく調べてからにしなくてはならないというのが、私の個人的な意見だ。
 もっとも、そんな一般人的発想がエリナに通用するとは考え難いことも、また事実だが。
「吹蓮さんを、ここに呼び出したらいいんですかぁー?」
 李湖はまだよく分からないような顔をしていた。しかし、顔色は徐々に戻ってきている。
「そうよ。電話くらい持っているでしょ?」
「ポケットの中にねー……」
 両腕を固く拘束されているので、李湖は自分のポケットまで手を伸ばすことができない。
 その様子を見たエリナは、レイに「取り出して」と短く命じた。レイは「はい」と歯切れのよい返事をしてから、どこのポケットに入っているのか李湖に尋ねる。そしてレイは携帯電話を取り出した。指で操作するタッチパネルタイプの携帯電話である。
 李湖はエリナの指示に従い、吹蓮へ電話をかける。私としては、彼女が吹蓮の連絡先を知っていることが驚きだった。吹蓮が電話を使ったりするのか、という部分も驚きだ。
 誰もが緊張した面持ちで李湖を見つめていた。

 ——その時。
「わざわざ電話しなくとも、ちゃあんと見てたよ。李湖」
 突如、李湖の背後に吹蓮が現れた。
 悪い夢を見せる術はまだしも理解できる。だが、テレポートなど、もはやどう考えても人間業ではない。そもそも原理が理解できないのだ。
 私は愕然とするしかなかった。言葉も出てこない。
「吹蓮さん!?え、なんでなんでー!?もしかして、李湖を助けにー?」
 どこからともなく現れた吹蓮の姿を目にし、李湖はほんの一瞬顔筋を緩める。発した言葉の通り、ピンチに陥った自分を助けにきてくれたと思ったのだろう。
 しかし、現実はそれほど甘くなかった。
「いくら可愛い娘でも、役立たずは嫌いだよ」
 吹蓮は、冷たい言葉と共に、片手を李湖へ向ける。かざす、が相応しいかもしれない。
 すると、李湖の体が後ろ向きに吹き飛んだ。物凄い勢いで飛び、壁に激突して、ドサッと床へ落ちる。ほんの数秒のことだった。
 こればかりは、さすがの武田も驚いていた。
「いきなりなんてこと!」
 レイは眉を吊り上げ、牽制するように銀の棒を吹蓮へ向ける。
 何を仕掛けてくるか予測できない吹蓮をかなり警戒しているのだろう。先ほどまでの李湖に対してとは比べ物にならないほど、厳しく険しい顔つきだ。
「沙羅、李湖を任せるわ」
 衝撃的な流れに戸惑っていた私に、エリナが静かな声で指示を出してくれる。緊急時には彼女の存在が頼もしく感じた。
 私は指示に従い、すぐに李湖のところへ向かう。
「李湖さん。李湖さん?」
 床に倒れている李湖に声をかけてみるが返事はない。しかもぴくりとも動かない。完全に気を失っているようだ。
 素人が身構えもせず吹き飛ばされたのだから、こうなるのは当然だろう。
「……気絶してる」
 声を聞き顔を上げると、すぐ近くにモルテリアがいた。
 なぜかレモン色の液体が入った霧吹きを持っている。恐らく掃除かなにかに使うのだろう。柑橘類が良いというのは聞いたことがある。
「でも……当然の報い……」
 彼女は少しも動揺していない。さすがはエリミナーレのメンバー、といったところか。
 非常に動揺していた自分が恥ずかしい。
「当然の、報い?」
 ふと気になったので尋ねてみた。するとモルテリアはコクリと頷く。
「……卑怯者」
「えっ?」
「……李湖は卑怯。だから、嫌い……」
 モルテリアは李湖が嘘をついたことを怒っているようだった。彼女が怒るとはよっぽどだ。
「大嫌い……!」
 彼女の瞳は静かに燃えていた。絶対許さない、という目をしている。
「モルさん、落ち着いて下さい」
「……ごめん」
「いえいえ」
「……ありがとう。沙羅は好き……」
 モルテリアは私をじっと見つめて、それから微笑んだ。ほんのり赤らんだ頬が子どものようで愛らしい。
 それにしても、ストレートに「好き」と言われると、恥ずかしくなってしまう。同性に言われるのは、異性から言われるのとはまた異なった恥ずかしさを感じる。不思議なものだ。
「ありがとうございま……えっ」
 私は背後の気配に気づき振り返る。
 だが、既に遅い。
 深いしわが刻まれた吹蓮の顔が、目前まで迫っていた。これほどの近距離では、もはや逃げることすら叶わないだろう。
 一撃は仕方ない、と腹を括る。いや、実際には「腹を括る」なんてかっこいいことではなく、ただ諦めただけ。

 ——だが。
 私が吹蓮から攻撃されることはなかった。
「……させない」
 モルテリアの静かな声が耳に入る。小さく控えめで、けれどどこか強さを感じさせる、芯のある声だ。
「……お婆さんも、嫌い……!」
 彼女がそんなことを言うなんて、と私は驚く。そして彼女に視線を向けてから、さらに驚いた。
 モルテリアが、レモン色の液体が入った霧吹きを、吹蓮に向けていたからである。
「……酢プラッシュ……!」
 彼女はそう言いながら、レモン色の液体を吹蓮の顔面に吹きかけた。
 鼻をつく、ツンとした匂い——間違いない。これは酢だ。
 信じられない。
 私はただ、あんぐりと口を空けて、言葉を失うほかなかった。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.138 )
日時: 2018/02/08 17:26
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: SqYHSRj5)

80話「許されることではない」

 モルテリアの霧吹き攻撃を受けた吹蓮は動きを止めた。酢と思われる液体を顔面にかけられては、さすがの吹蓮も無視できなかったようだ。不快だったらしく、痩せ細った手で顔を拭いている。
「おぉっ!」
 スポーツを見ていて凄い技が出た時のように、突然大きな声をあげたのはナギ。
「酢プラッシュ!ついに決まったっすね!!」
「……うん。酢は体にいい……」
 ナギの言葉に頷くモルテリア。マイペースな彼女はいつもナギを無視していたが、今はまともに話している。口説くような発言でなければ、少しは反応するということなのかもしれない。
「まったく、最近の若いのは仕方ないねぇ……」
 酢にまみれた顔を一通り拭き終えた吹蓮は、しわだらけの顔を不愉快そうに歪めつつ言った。いつになく低い声だ。
「礼儀ってものを教えてあげるよ!」
 今度吹蓮が手をかざしたのはモルテリア。これは李湖の時と同じパターンだ。
 危ない!と言おうとした瞬間。ナギが駆け寄り、モルテリアを突き飛ばした。霧吹きを手にぼんやりしていたモルテリアは、押された勢いでぺたんと床に転んだ。
「……あ」
 しまった、という顔をするナギ。
 直後、彼は吹き飛ばされ、リビングの壁に激突した。痛々しい音が響く。吹き飛ぶナギの体は、まるで紙切れのようだった。
 吹蓮が夢のようなものをみせる嫌らしい術ができることは知っている。だが、それ意外の術もあるとは。手の内を一つ知ったがゆえに、少し油断していたかもしれない。
「痛いって!さすがにこれは遠慮なさすぎっしょ!」
 壁に当たり床へ落ちたナギは、痛みに顔をしかめていた。しかし、声を出せているあたり、壁に激突したわりには元気な様子だ。
 彼はすぐに立ち上がり、怒りをぶちまける。
「アンタさすがに酷いっすよ!絡んでくんのはいい加減にしてほしいっす!」
「こうもすぐに立てるとは。若いねぇ」
 吹蓮は感心したように笑う。不気味な笑みだ。
「そもそも、なんで俺らに絡んでくるんすか!エリミナーレが何か悪いことをしたっていうんっすか!?」
 確かに、と密かに思った。
 吹蓮がエリミナーレを殲滅しようとしていることは知っている。これまでに色々な者の口から何度も聞いたからだ。
 だが、彼女がなぜエリミナーレを殲滅しようとしているのかは、聞いたことがない。
「……頼まれたから、だよ」
 吹蓮はナギの問いに静かな声で答えた。
 それでなくとも緊迫していた空気が、さらに引き締まる。全員厳しい顔つきだ。私はやはりまだ少し場違いな気がする。
「あらそう。そんなこと、一体誰に頼まれたというのかしら」
 エリナは黒い鞭を片手に持ち、平静を装いつつ尋ねた。
 エリミナーレの殲滅を吹蓮に頼んだ人物がいる。そんなことを聞けば、いくら彼女でも心穏やかではないはずだ。
 しかしそんな中でも落ち着いた振る舞いをできる胆力は、さすがエリミナーレの長、といったところか。ぜひ見習いたいものである。
「言えるわけないねぇ。そりゃ秘密事項だよ」
「ならば吐かせるまでよ!」
 エリナは鞭を吹蓮に向かうよう振った。蛇のような黒い紐は軽くうねり、私の予想よりは直線的な動きで吹蓮に迫る。
 冬場の縄跳びでも足に当たると泣くほど痛いのだ。鞭で叩かれる痛みといったら……あまり考えたくない。
「そう上手くはいかないよぉ」
 しかし吹蓮は読んでいた。慣れていることはないはずなのに、彼女は鞭の動きを見切っている。素早く反応し、鞭を腕で防いだ。
 駄目か、と思ったが、エリナの表情にはまだ余裕がある。口元には笑みが浮かんでいる。
 何か仕掛けでもあるのだろうか——と考えていると、鞭が吹蓮の腕に巻き付いた。
「武田!レイ!」
 エリナが鋭く叫んだ。
 二人は「はい」と揃え、動きを制限されている吹蓮に向かっていく。
 私は床に座り込んだままのモルテリアの手を掴む。そして、邪魔にならないよう、速やかにその場を離れる。キッチンの方へ行き、そちらから様子を見守ることにした。
 リビングはそれなりに広い。しかし、それでも、大人二人が暴れるには狭い空間である。無関係の者が一人いるだけでも、動きをかなり制限することになってしまう。
 ここならそれは避けられる。しかも、安全でありながら様子はちゃんと見ることができる。私には最適な位置だ。
「ふっ!」
 レイは吹蓮に接近し、銀の棒を振り下ろした。
 残像が見えるほどの速度にはさすがの吹蓮も反応しきれない。片手をエリナの鞭に固定されているため、腕で防ぐことも難しいようだった。
 銀の棒は吹蓮の背中に命中する。バチッと音が鳴った。こんな静電気が発生したら嫌だな、と思うような刺々しい音である。
「少しはいたわってほしいものだねぇ」
 深いしわの刻み込まれた顔を縮め、低い声を出す吹蓮。彼女は銀の棒を乱暴に払い除ける。そして、拘束されていない方の手で、銀の棒を持つレイの腕を掴んだ。
 ——しかし、その背後に武田が迫っていることには気がついていない。
 彼は身をよじり反動をつけ、吹蓮の背に、強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「沙羅の分だ」
 続けてもう一撃。次は逆の足で吹蓮を蹴る。
 威力でいえば先ほどの回し蹴りよりは劣る。だが、それでもダメージを与えるには十分な威力だ。しっかりとした芯のある蹴り。普通の人間が受ければ数分は立ち上がれないだろう。
 今の彼は自分の持ち味を最大限に活かした戦闘を行えている。本領発揮、という言葉が相応しい。
 そんな武田の連続攻撃を食らった吹蓮はよろけている。
「……ふぅ。今日は妙にやる気だねぇ……」
「当然だ。人を弄ぶような者を放ってはおけない」
 武田は冷ややかな声で述べる。表情は鋭く、眉一つ動かさない。
「そりゃあなんのことだい……?」
「沙羅の心を傷つけ、関係ない者に襲わせ、何度も怖い目に遭うよう仕向けた。これはそう簡単に許される内容ではない」
 彼の表情は冷たく険しい。時折私に向けてくれる微笑みの顔と同一人物とは考え難いほどの、冷淡な顔をしている。
 隣にいたレイが眉を寄せて「武田?」と声をかける。武田が長文を話したので戸惑っているのだろう。
「おやおや、今日はやけに気合いが入っているねぇ。まぁ嫌いじゃないがねぇ……」
 吹蓮はしわだらけの顔を歪め、不気味な笑みを浮かべる。
「でも……今日のところは退くとしようかね。では、ばいばい」
 現れた時と同じように、吹蓮はふわっと姿を消した。術の中で出会った偽者の瑞穂が消えた時と同じような感じだ。またしてもあっさりとした去り方である。
 追い込まれると速やかに退く。それが吹蓮の特徴だ。だからこそ倒しづらい。追い詰めても術で逃げられてしまうので、どうしようもない。
「まったく。厄介なババアだわ」
 エリナは鞭を手元に戻しながら、愚痴のように漏らす。
 レイは乱れた髪を直しつつ、「なかなか強敵ですね」と言った。まっとうな意見だ。吹蓮は色々な意味で強敵である。
「…………」
 武田は俯き、言葉を失ったように黙り込む。
「……武田?どうかしたの」
 彼のおかしな様子に気づいたレイが尋ねる。だが彼は何も答えず、リビングから出ていってしまった。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.139 )
日時: 2018/02/09 23:21
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: npB6/xR8)

81話「今日は妙に長い日」

 一人そそくさとリビングを出ていった武田を見て、レイは怪訝な顔をする。同じく怪訝な顔をしていたエリナと顔を見合わせ、首を傾げていた。
「……武田、変」
 私の後ろにいるモルテリアが唐突に呟く。
「どうしたんでしょうか……」
 確かに、明らかに様子がおかしかった。モルテリアですら気づくほどだから、かなり不自然だったということだろう。
 私たちはキッチンからリビングへ戻り、エリナたちと合流する。ナギも普通に動けるらしく、集まってきていた。
「ナギ大丈夫?」
 レイはナギに尋ねる。あっさりとした口調だ。
「えっ!レイちゃん、俺のこと心配してくれるんっすか!?優しいっすね!!」
「優しいとかじゃないけど、気にするのは当然だよ」
「マジ優しいっす!!天使っすわ!!」
「そういうの止めてもらっていいかな。面倒臭いし」
 ううっ、と傷ついた顔をするナギ。少し前に壁に激突していたとは思えない元気さだ。
 しかし私としては武田の方が気になるところだ。
 少しして、そんな私に気がついたエリナが、声をかけてくる。
「沙羅、武田の様子を見てきてもいいのよ」
 心を見透かされているみたいだと思った。別に恥じることはないはずなのだが、なんとなく恥ずかしい。
 しかし、彼を一人にしておくのも不安だ。だから私は、「少し見てきます」と言い、リビングを出た。

 廊下にでもいるかと思ったが、武田はいなかった。となると、恐らく自室だろう。
 私は勇気を出して、彼の部屋の扉をノックしてみた。緊張は頂点に達し、心臓は暴れるように脈打つ。息が詰まりそうになりつつ、返答を待つ。
 しばらくすると、扉がゆっくり開いた。
「沙羅……!」
 武田は目をぱちぱちさせる。いきなりのことに驚いているようだ。
「どうかしたのか?」
「い、いえ。一人で出ていかれたので、どうしたのかなー、って。少し気になりまして」
「そうか。だが気遣いは不要。少し一人になりたかっただけだ」
 彼の微笑みはどこか寂しげであった。夕暮れ時に見上げる空のように、柔らかさの中に哀愁が漂っている。
 やはり少しおかしい気がする。上手く言葉にできないが……違和感を感じるのだ。
「まだ何かあるのか、沙羅」
 眉頭を寄せながら武田は言う。その顔にはどこか気まずそうな色が浮かんでいる。
 もしかしたら彼は何かを隠しているのかもしれない。そんな風に思った。彼は、体は頑丈だが、心は脆い。それを知っているからこそ、余計に心配なのだ。
「武田さん。今、何か悩んでられますか?」
 この際どうにでもなれ、くらいの勢いで質問してみた。
 すると彼は口を結び視線を逸らす。表情を見た感じ、やはり何か隠していることがあるようだ。だが、そう簡単に話してはくれなさそうである。
「一人で抱え込まないで下さいね。辛い時には頼ってもいいんですよ」
「頼る?だが、誰に」
 こんな返しがくるとは思っていなかった。まさか「誰に」なんて聞かれるとは。
 どう返せばいいのだろう。どんな答えが一番適当なのか。暫し考え、私はやがて口を開く。
「私でよければ力になりますよ」
「つまり沙羅に話せばいいということか?」
「あ、あくまで一例ですけどっ……」
 言ってしまってから凄まじい恥ずかしさに襲われる。
 わざわざ自室にまで押しかけて、しかも自分に頼れだなんて。とんでもなく厚かましい女だ、私は。引かれるかもしれない。
 私は逃げ出したい衝動に駆られる。しかし、彼の瞳が私を凝視しているので、逃げるに逃げられない。
「なんというか、すみません。出過ぎたことをすみません。それでは私はこれで……」
 一刻も早く場を離れようと身を返した、その時。
「待て!」
 武田が私の片腕を掴んだ。
 気づかなかったふりをして軽く払おうと思ったが、彼の握力は、軽く払えるようなものではなかった。大きな手は私の腕を離さない——彼が私の心を捉えて離さないのと同じように。
 これほど強く掴まれては、もはや気づかなかったふりなどできない。仕方がないので振り返ることにした。
「何でしょうか」
 気まずさのせいか、つい冷たいことを言ってしまう。後悔しても時既に遅し。
「あ、いや……いきなり掴んだりしてすまん」
 恐る恐る武田の顔に視線をやる。彼は気まずそうな顔をしていた。
「実は相談したいことがある」
「え?」
 まさか、本当にあるとは。
「沙羅がそう言ってくれるなら、ぜひ甘えさせてもらいたい。構わないだろうか」
 当然だ。武田に頼ってもらえているのだから、断る理由などあるわけがない。
「構いませんけど……でも、私でいいんですか?」
「あぁ、もちろん。むしろお前がいい。これは沙羅にしか相談できないことだ」
「は、はいっ。任せて下さい!」
 レイを見習って元気よく返事してみたところ、見事なまでに失敗した。
 冷静に考えれば、私がレイのように爽やかに振る舞えるはずがない。馬鹿げた試みであることは誰の目にも明らかだ。やってしまったな、と後悔した。今日はこんなことばかりである。
 そんな私を見て、武田はふっと笑みをこぼした。地味だが確かに笑っている。どうやら面白かったらしい。
「元気そうで何よりだ」
 彼はそんなことを言った。彼らしくない、柔らかな表情と声で。

 今日は妙に長い日だ。
 既に色々あったにもかかわらず、まだ終わりそうにない。今日は本当に色々なことが起こり続ける日である。とにかく巻き込まれる。
 でも、不思議なことに、嫌だとは微塵も思わなかった。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.140 )
日時: 2018/02/10 22:39
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 3KWbYKzL)

82話「コーヒーと酢と塩水」

「痛みを感じるようになってしまった?」
 相談の内容を聞いて正直驚いた。どちらかというとレイやエリナに尋ねるべき内容な気がするものだったからである。
「あぁ。実はな」
 武田は先ほど私を彼の部屋に招き入れてくれた。ゆっくり話せる方がいい、ということらしい。なので私は今、彼の部屋にいる。
 好きな人が生活している部屋、そしてその好きな人と二人きり。これほど胸の鼓動が速まりそうなシチュエーションは滅多にない。
 だが、そのわりに緊張はしていなかった。
 なぜなのかははっきりしている。ナギの所有物と思われる雑誌が部屋中に散らばっているからである。些細なことだが妙に気になって、どうも気分が盛り下がってしまう。
「前にも話したと思うが、私は元々、戦闘中にはほとんど痛みを感じない体質だった」
 武田は紙コップに粉末のコーヒーを入れ、近くに置いてあったポットのお湯を注ぐ。濃厚な香りが部屋中に広がった。大人の香りだ。
 彼はすぐに床に座る。そして、紙コップを私に差し出し、「飲むといい」と微笑みかけてくれる。
 本当のことを言えばコーヒーはあまり得意でない——しかし受け取ることにした。彼のものだけは例外だ。
「だが、最近痛みを感じるようになってきた。水族館の時、吹蓮の時、それに瑞穂さんの時も。私は間違いなく痛みを感じていた」
「困ることなんですか?」
 苦いコーヒーを口に含みつつ尋ねた。それに対し武田は、首を縦に振って述べる。
「痛みを感じないことは私の唯一の強みだった。痛みを感じなければ、傷を気にせず戦闘を継続できるからな」
 そこで一旦切り、続ける。
「強みはなるべく失いたくない……だが、誰にも相談できなかった。こんなことを言えば、情けないと笑われるに違いない」
 彼の表情を見れば、それが真剣な悩みなのだとすぐに分かった。本気で悩んでいるようだ。
 確かに、戦闘において痛覚は邪魔かもしれない。痛覚があるせいで動きが遅れることもあるのだから。ない方がずっと戦いやすいのだろう。
 ただ、痛覚は生命維持のために必要不可欠という気もする。身に迫る危機にいち早く気づくためには、痛みは必須だ。
「詳しくは分かりませんけど、戦闘時の集中力が以前より落ちているということはないですか?」
「どういう意味だ」
「周囲にも気を配りながら戦うようになったことで戦闘への集中力が落ちて、痛みを感じやすくなった……とかを考えてみたんです」
 真正面に座っている武田は、よく分からないとでも言いたげに首を傾げている。
「戦う時、前と何か変わったことはありませんか?」
 私は武田に問いを投げかけてみた。どんなことでも、それがヒントとなるかもしれないからだ。問題解決のためには、情報は少しでも多い方が良い。
 すると武田は「そうだな……」と考え始めた。私はコーヒーの苦みに耐えつつ、彼が答えを出すのを待つ。
 ——そのうちに数分が経過した。ちまちま飲んでいた紙コップの中のコーヒーも、そろそろなくなりそうだ。
「沙羅を護ろうとしていることだ」
 えっ、と漏らしてしまった。自分の名が挙がるとは予想していなかったからだ。
「先ほど挙げた三つの例に共通していて、以前にはなかったこと。そう考えてみると、これぐらいしか思い浮かばなかった」
「じゃあそのせいかもしれないですね……」
 私の存在が彼の悩みを増やしていたなんてショックだ。申し訳なくて彼を直視できず、自然と俯いてしまう。
 落ち込んだ顔をすれば、また武田に迷惑をかけてしまう。それは一応分かっているが、急激に込み上げてきた感情を隠すのは難しかった。
 そんな私を見てか、武田は口を開く。
「念のため言っておくが、沙羅、お前のせいではない。これは絶対だ」
 彼は迷いのない声で断言した。
 ……そうだ、私がくよくよしている暇はない。
 悩みがあるのは武田ではないか。私は彼に相談されている側なのだ。その私が暗い顔をしていれば、彼も暗い気持ちになってしまうことだろう。
「聞いてもらえただけで気が楽になった。感謝する」
「お気遣いありがとうございます。たいした解決法を見つけられなくてすみません」
 笑顔を作り、なるべく明るく振る舞うよう意識する。
「凄く助かった。こんなくだらないことに時間を取ってすまなかったな」
「いえ。またいつでも言って下さい」
 こうして武田からの相談は終わった。結局何も解決していない気がするが、彼が楽になったのならば少しは意味があったということなのだろう。

 リビングへ戻ると、エリナとモルテリアだけになっていた。珍しい組み合わせだ。
「結構かかったわね。武田はどうだった?」
 エリナは桜色の髪を掻き上げつつ尋ねてくる。
 すべてを話してしまうのもどうかと思ったので、私は「大丈夫そうでした」とだけ答えることにした。深く突っ込まれたらどうしようかと考えていたが、エリナはそれ以上何も聞いてこなかった。
「そういえば、レイさんとナギさんはどこに?」
「……李湖のところ」
 即座に答えるモルテリア。
 彼女が時折見せる素早さは一体何なのだろう、と思うことがたまにある。
「あ、そうでした。李湖さんは大丈夫なんですか?」
「酢では起きなかった……」
「えっ?酢!?」
「……うん。酢プラッシュ……」
 まさか李湖にまであの技を食らわせていたとは。確かにモルテリアは李湖を嫌っていたが、酢をかけるほどだとは思っていなかった。
「酢はさすがに酷くないですか……」
 するとモルテリアは子犬のように愛らしく首を傾げる。
「わざわざかけなくても」
「……みんなに、酷いことした。当然……」
 彼女の意思は固く揺るがないものだった。それにしても、なかなかシビアだ。彼女には勝てそうにない。
 そんな会話をしていると、エリナがモルテリアの頭をぽんと触った。緑みを帯びた短髪がふわっと揺れる。
「何でも構わないけれど、次から酢は止めてちょうだいね」
「……どうして?」
「酢の匂い、あまり好きじゃないのよ」
「……塩水も、試す……」
 霧吹きを利用した攻撃を変える気は更々ないようだ。
 それにしても、塩水は塩水でかなり効きそうな気がする。酢も強烈だが、塩水も怖い。傷口なんかに命中するとかなり痛そうだ。
 どちらにしても、食らいたくない。