コメディ・ライト小説(新)
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.141 )
- 日時: 2018/02/11 23:26
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: e/CUjWVK)
83話「役割分担」
吹蓮の訪問、偽瑞穂との戦闘、そして李湖の裏切り。とにかく色々ありすぎた日はようやく終わった。
李湖はともかく、エリミナーレのメンバーに重傷者が出なかったのは、運が良かったと思う。いくら強い人でも、男女どちらでも、仲間が傷つくというのは嫌なものだ。
心身共に疲れきっていたからか、私は部屋に戻って布団に入るなり眠りについた。掛け布団を被った瞬間の温もりは覚えているのだが、その先の記憶が一切ない。
そして、気づけば朝になっていた。
窓から差し込む朝日の眩しさに目を細める。太陽の光は、浴びると穏やかな気持ちになれるので、嫌いではない。
しかし、目が覚めるなり全力で照らすのは、できれば止めてほしいものだ。……もっとも、太陽に意見を言うなど無駄の極みだが。
リビングへ向かうと、既に全員集まっていた。どうやら私が最後だったようだ。
エリナはいつもの席で足を組み、普段通り女王の風格を漂わせている。桜色の長い髪が朝日を浴びて輝いていた。時に赤くも見える茶色い瞳には、瑞々しさと華やかさが共存している。
「さて。これで全員揃ったわね」
エリナが話し始めると、全員が彼女の方を向く。日頃の自由な雰囲気とは一変、引き締まった空気になる。それから彼女は、それぞれに今日の仕事を命じていった。
「レイは李湖を任せるわ。様子を見ておいてちょうだい」
「分かりました!」
曇りのない笑み、はっきりした声、それにピンと伸びた背筋。今日もレイは爽やかだ。
「体調を見つつカウンセリングしておきますね」
レイは速やかに移動する。
青く長い髪は後頭部の高い位置で結われていた。今日も変わらず、シャンプーのCMのようにサラリとした毛質だ。
「ありがとう。で、ナギは茜と紫苑に聞き取りだったかしら?」
「そうっすよ!二人とも無事退院したみたいなんで、退院祝い持って行っとくっす!」
茜と紫苑。
二人の名は凄く懐かしい気がする。
彼女たちと最後に会った日からまだそれほど経っていない。しかし、もう数年も前のことのように感じられる。恐らく短期間に色々なことがありすぎたせいだろう。
「別に構わないけれど、本人に渡してもらえるかは知らないわよ」
「えっ。そうなんすか?」
「一応は新日本警察で保護ということになっているみたいだけど、二人は罪を犯した人間だもの。退院祝いなんて持っていっても、本人へ渡してもらえるとは到底思えないわ」
するとナギは肩を落とし、残念そうに「マジっすか……」と漏らす。
それにしても、敵である二人に対して退院祝いを渡そうだなんて、並の人間に思いつくことではない。
これも女好きゆえなのか、否か……。
「ま、一応持っていっとくっすわ。それじゃ行ってきまっす!」
「気をつけなさいよ」
「もちろん!無理はしないようにするっすよ!」
ナギは親指をグッと立て、エリナに向ける。
いきなりくだらないことをされたエリナは眉をひそめた。少々苛ついているようにも見える顔つきである。ナギの呑気さにイラッときたのかもしれない。それは若干分かる気もした。
しかしナギはというと、エリナの顔つきはお構い無しに歩み寄っていく。
「気をつけなさい、なんて優しいっすね。いやー、強い母性を感じるっすわ」
そんなことを言いながら、ナギはエリナの手を取った。優しくそっと手を取る様は、ナギとは思えないくらい紳士的である。
対するエリナは、大人びた顔に困惑の色を浮かべていた。警戒したように「何のつもり?」と尋ねる。
すると、ナギは突然、エリナを抱き締めた。
……何この奇行。
「エリナさんが李湖にやられたらどうしよーって、俺、結構心配してたんすよ?」
「意味が分からないわ」
戸惑いと呆れの混じった表情を浮かべるエリナ。急に抱き締められ、状況が理解できていないようだ。彼女は「離しなさいよ」と身を揺するが、ナギは強く抱き締めたままで、決して離さない。
「離せって言ってるでしょ!!」
ドスッ、と低く痛々しい音が響く。
「ぐ、ぐはっ……ちょっ、な、何すんすか!いきなり!」
涙目になりエリナから離れるナギ。
エリナはしばらく堪えていたが、ナギがあまりにしつこいので堪えきれなくなったらしい。ついにナギの腹へ膝蹴りを入れた。強烈な一撃である。
さすがに本気ではないだろうが、彼女の膝蹴りは安定の破壊力だ。
「ひ、酷いっすわ……。さすがにこれは痛いって」
ナギは泣き出しそうな表情になっていた。どうやらかなり痛かったらしい。
音からだけでも察することができたが、彼の表情を目にすることで、改めて確信を持てた。エリナの膝蹴りは凄まじい、ということに関して。
「ね、モルちゃんも酷いと思うっすよね?」
「思わない……」
モルテリアに話を振るも冷たくあしらわれたナギは、真顔で「味方してくれないんすね」とぼやく。
モルテリアが彼に冷たいのはいつものことだ。しかし、もう少し構ってあげてもいいのでは、という気もする。もちろんモルテリアの気持ちも分からないではないが。
「それじゃ、気を取り直して、行ってくるっす!」
——こうして、嵐が去るようにナギが出ていった後、エリナが口を開く。
「さて、あまりは……モルと沙羅と武田ね」
あまりは、ということは、することがまだ決まっていないのかもしれない。
「どうしようかしら……」
「提案があります」
軽く手を挙げ、口を挟んだのは武田。
「少しばかり調べものをさせていただきたい」
「あら。何を調べるつもり?」
「吹蓮にエリミナーレ殲滅を依頼した者について、です」
暫し言葉を失うエリナだったが、やがて答える。
「分かったわ」
そして問う。
「沙羅も連れていく?」
武田は真剣な顔で頷き、「はい。それとモルも」とエリナの問いに答える。
するとエリナは意外にも快諾した。
私と武田とモルテリア——これはまた、ある意味心配な組み合わせである。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.142 )
- 日時: 2018/02/12 21:58
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: KqRHiSU0)
84話「調べものをするために」
武田の提案で出掛けることになった私は、速やかに鞄の用意をし、玄関へ向かう。
武田とモルテリアは既に準備を終えていたらしく、二人とも靴を履いているところだった。いや、身軽な二人にはそもそも準備するものがないのかもしれない。
「沙羅、用意はちゃんとできたのか。忘れ物のないように」
そんなことを言いながら、靴箱から私の靴を取り出してくれる武田。私は軽く礼を述べ、彼が取り出してくれた靴を履く。
「特に携帯電話。くれぐれも忘れないようにな」
「あっ、はい!ちゃんと持ってます」
武田はいちいち細かなところまで確認してくる。ありがたいことではあるのだが、本音を言うなら、少し面倒臭いと感じてしまう時もある。
だが携帯電話を忘れたらどうしようもないことは事実だ。
それから武田は、視線を私からモルテリアへ移す。
「モル、今日はしっかり頼む」
「……何を?」
「今日は沙羅がいる。緊急時には彼女を護るように」
無表情な武田は、話が理解できていないモルテリアに対し、淡々とした声で告げた。そこまで説明を受け、モルテリアはようやく納得したように頷く。
「……うん。霧吹き、ちゃんとある……」
あれか。
彼女が言う「霧吹き」とは、恐らく昨日の「酢プラッシュ」なる技に使っていた、あの霧吹きだろう。ということは、またあの技を使う予定なのか。なかなか恐ろしい。
だが、逆に心強くもある。なんせ吹蓮さえ怯ませることのできた技だ、一般人にでも効果はあるはずである。……酢、だが。
「ところで武田さん。今日はどちらへ?」
事務所を出てから、気を取り直して尋ねてみる。
行き先も分からず歩き続けるのはどうも性に合わない。私は目的地を把握していないと心配になるタイプなのだ。
そんな私の問いに、彼は嫌な顔一つせず答えてくれる。
「図書館だ」
しかし、その答えには首を傾げてしまった。
調べものをするために図書館へ行くのは分かる。至って普通の行為だ。だが今日調べるのは、吹蓮にエリミナーレ殲滅を依頼した者について。それを調べるために図書館が役立つのだろうか。
「え、図書館……ですか?」
「あぁ。今日は沙羅、お前の存在が役に立つ」
「私の存在?」
「そうだ。行けば意味が分かる」
行けば分かる、か。
前以て教えておいてほしい気もするが、武田がそう言うのなら仕方ない。私はもうそれ以上聞かないことにした。敢えて深入りする必要もないだろうから。
図書館へはすぐに着いた。
特別急ぐこともなく、普通の速度で歩いたのだが、到着するまで三十分もかかっていない。予想していたよりかはずっと近かった。
「す、凄いっ!」
図書館の外観を目にし、私は思わず漏らしてしまう。
というのも、図書館がこれほど立派だとは考えてもみなかったのである。
白と銀を基調とした、ほどよくシンプルでありながらも安っぽさのない建物。それは、周囲の住宅とは印象がかなり異なる。漫画や映画で見かける近未来の世界に建っていそうな雰囲気すら感じさせる建物だ。
「沙羅はここへ来るのは初めてか」
始終先頭を歩いていた武田が、足を止めて尋ねてくる。
「はい。図書館へ来ることなんてほとんどなかったので」
それは事実だ。
私の暮らしには「図書館へ行く」という行為が定着していなかった。
「武田さんはよくここへ来られるんですか?」
「日頃は私もあまり来ないな。用事がある時だけだ」
少し離れて後ろにいるモルテリアが、ててて、と駆け寄ってくる。相変わらず小股の走り方だ。小鳥のようで可愛らしい。
「……何の話、してるの……?」
彼女が自ら参加してくるのは珍しい。非常に新鮮に感じられる。
「日頃図書館に来るかどうか、という話だ」
「……図書館、に?」
モルテリアは愛らしく首を傾げた。
「モルさんは図書館、初めてですか?」
彼女だけ話に参加できないというのも少し可哀想なので、私は彼女に質問してみる。
すると彼女は首を左右に振り、「たまに来る……」と言った。食べ物にしか興味のなさそうな彼女が、図書館に来たことがあるとは驚きだ。
私がモルテリアと話していると、武田が唐突に言う。
「よし。ではそろそろ行くとしようか」
その言葉によって私は思い出した。今日は遊びにやって来たのではないのだ、と。
これも仕事の一環だ。
一応危険な仕事ではないが、だからといって気は抜けない。いつ何が起こるのか分からないのがエリミナーレである。
「ここからしばらくは沙羅と二人で行動する。モル、お前は喫茶店に入っていて構わん」
「……いいの?」
「あぁ。どのみちお前は入れないからな。だが、緊急時には駆けつけてくれ」
「……嬉しい。ケーキ、パン、食べ放題……」
モルテリアは丸い頬を赤く染め喜びを露わにした。
喫茶店へ行けば色々な物を食べられる。それは彼女にとってかなり嬉しいことなのだろう。ケーキやパンを食べられることは、至上の喜びなのかもしれない。
「……行ってきまーす……」
モルテリアは蝶のようにふわりふわりと、喫茶店の方へ歩いていく。完全に気を取られている。
それにしても、モルテリアは喫茶店で私は武田と一緒に行動。この差は不自然だ。
「モルさんは入れない場所へ行くんですか?」
「あぁ。重要なことの書かれた書物がある書庫だからな、モルは入れない」
「じゃあ私も無理なんじゃ……」
「いや、沙羅は恐らく入れる。お前の父親は確か新日本銀行に勤めていただろう」
「それ関係あります?」
今まったく関係のない話のように思えるが、どうやらそうでもないらしい。このタイミングで無関係な話を始めたりはしないだろうから、なにかしら関係あるに違いない。
「あぁ、関係ある。その肩書きはかなり大きいからな」
彼は一度だけ首を縦に振り、それから私に手を差し出す。私のより大きな手だ。
「では、行こうか」
その手を取らずにはいられない。それが私である。
「よく分かりませんが、力になれるよう努めます」
「……固いな」
怪訝な顔をされてしまった。
元気な声を出しても、真面目な言葉を選んでも、結局違和感を感じられてしまうようだ。
「気にしないで下さい」
「そうか。すまない」
「悪くはないので、謝らないで下さい」
「……そうか。色々すまない」
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.143 )
- 日時: 2018/02/13 18:47
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: V7PQ7NeQ)
85話「花咲く心」
モルテリアは喫茶店へ吸い寄せられるこの場を去った。残された私と武田は、話を終えた後、係員のいる場所へ歩き出す。私はよく分からぬまま彼についていった。
書庫の鍵を開けてくれ、と女性係員にストレートに頼む武田。もちろん普通の書庫ではなく、先ほど言っていた重要な書物があるという書庫の方だ。
約束も何もしていなかったようで、突然のことに女性係員は戸惑っていた。
私は武田の後ろからその様子を眺めていたのだが、初めは断られたようだった。重要な書物が収納されているだけあって、やはり、誰でも入れるわけではないらしい。
しかし、武田が色々と説明すると、意外にもすんなり入れてもらえることとなった。武田はともかく私は無理かと思っていたので驚きである。
「では、こちらへ」
鍵を取ってきた女性係員は、淡々とした調子で言いながら、書庫まで案内してくれる。この世から離れたかのような静かな通路を歩いていく。先頭を行く女性係員はもちろん、武田も、そして私も、口を開くことはなかった。
やがて、一つの扉が視界に入る。女性係員はその前で足を止めた。彼女は静かな声で「開けますね」とだけ言い、鍵で扉を開ける。
鍵穴は二ヶ所あり、それぞれ別の鍵のようだった。重要な書物が収納されているというだけのことはある。しかし、外からの鍵だけというのは、若干不思議に思うところもあるが。
「お帰りになる際には一言よろしくお願いします」
女性係員は相変わらず愛想のない口調で言い残し、静かに扉を閉めた。
「こんなにすんなり入れるなんて、驚きですね」
二人きりになると気まずい。だが負けていては駄目だ。だから私は、気まずさに押し潰されないよう、話を振る。
「そうだな」
武田はあっさりと返す。もはや会話が終わってしまった……。
しばらく沈黙があり、武田は口を開く。
「では始めよう」
「え。何をすればいいんですか?」
いきなり始めようと言われても。今から行うことを説明してもらわなくては、何をしたらいいのか分からない。
私が尋ねると、彼は気がついたような顔をした。そして、「忘れていた。すまない」と、素直に謝る。
「二○三五年に発生した事件のことが記された書物——いや、正しくは書類の方が多いが、それらを集める」
「それって、吹蓮のことと関係あるんですか?」
十年以上前の事件記録と吹蓮の件。二つはまったく無関係に思えるのだが。
「吹蓮にエリミナーレ殲滅を依頼したと思われる人物に関係がある」
「もう答えが分かっているんですか!?」
「いや、まだ推測だ。その推測を一歩答えに近づけるための調べものをするところだ」
武田はそう軽く説明すると、早速本棚に手を伸ばす。
灰色の無機質な本棚は背が高いが、背の高い彼はかなり上の段まで見られるようだ。さすがに一番上の段までは届かない。しかし、手を伸ばせばほとんどの段の物を取れそうだ。
一方私は下の方しか見られない。だが、背の高い彼からすれば一番下は見辛いだろう。お互いに補いつつ頑張れば上手くいくに違いない。そう信じ、私は下の数段をチェックしていく……。
それから三十分ほどが経過しただろうか、私は一冊の分厚いクリアファイルを発見した。
ページがあるタイプのクリアファイルだが、分厚くしっかりした表紙のため、まるでハードカバーの本みたいになっている。
「武田さん!これ、【二○三四〜七】って書いてあります」
厚い表紙に太い黒ペンで【二○三四〜七】と書かれている。試しに開いてみると、中には色々な書類や紙が入っていた。文字が多くてごちゃごちゃしている。見にくい。
「何かあったか」
隣の本棚を見ていた武田がゆっくりとこちらへ戻ってきた。重いクリアファイルを両手でなんとか持ち上げ、武田に差し出す。
「これはどうでしょうか」
「なるほど。少し見てみる」
武田は受け取るとパラパラとページを捲る。
少しでも役立ちそうならいいな。そんな風に思いつつ、私は彼を眺める。
しばらくして彼は顔を上げた。私を真っ直ぐに見つめ、数秒してから頬を緩める。自然な微笑みだ。
「沙羅、さすがだ。これは参考になる」
彼は急に片手を伸ばし、私の手を握ってくる。
「この調子で続けよう」
どうやら気に入ってもらえたようだ。的外れな物を渡していたら、と心配していたがその必要はなかったらしい。
私は半ば無意識に、ほっと安堵の溜め息を漏らす。
静かな環境のせいもあってかずっと気まずい空気だったが、ようやく穏やかな雰囲気になってくる。かじかんだ手に温かな湯をかけた時のように、緊張が解れていく。
「はい。まだまだ頑張ります」
「頼もしいな」
言葉を交わすたび心が温かくなるのを感じる。
大袈裟な言葉なんて要らない。特別な言葉も要らない。ただ少し、ほんの些細な言葉だけで、私の心には幸せの花が咲く。
「続きを見ていきますね。また何かあれば言います」
「よろしく頼む。私は上の方を見ていくことにしよう」
これは吹蓮に依頼した人間について調べるため。たまたまこの二人になっただけで、武田と私でなくてはできないことではない。単なるエリミナーレの仕事の一環である。
だが、それでも構わない。
同じ時を過ごし、同じ作業に取りかかる。こんな幸福はない。こんな幸せなことは、滅多にない。今この時が永遠になってしまえばいいのに、と思うような時間だ。
けれども、今が永遠になることなどありはしない。
「少し、失礼しても構いませんかな?」
突然の声とともに、扉がキィと音を立てて開く。こんなところへ人が来るなんて、と少し驚きつつ、声の主に目をやる。
声の主は男性だった。大体四十代くらいだろうか。
黒い髪に若干白髪が交じっているところはもう少し年配のようにも見える。しかし毛質の感じから推測すると四十代くらいだと思う。じっくり見ると肌もわりと綺麗だ。
笑みもあり、人の良さそうな男性である。
だが、男性を目にした武田は、顔を強張らせていた。
顔だけではない。全身を固くしている。
「実に久しぶりですな。武田くん」
「……宰次さん」
彼らの間に漂うただならぬ雰囲気。到底知人同士とは思えぬ、歪さのある視線。
この二人には恐らく何か大きな因縁がある——私はそれを肌で感じた。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.144 )
- 日時: 2018/02/14 18:28
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: gK3tU2qa)
86話「忍び寄る牙」
宰次さん——それを聞き、私はふと思い出す。昨日、事務所の本棚を整理していた時のことを。
ピンクのファイルに入っていた紙に、確か、「畠山宰次」という名が書いてあった。長時間じっくり見たわけではないので顔までは記憶していない。だが、その名前だけは間違いなく覚えている。
昨日見たばかりで今日出会う。こんな偶然があるのだろうか。
「なぜ君がここにいるのか。実に気になるところですな」
ダブルボタンのかっちりしたスーツを着ている宰次は、そんなことを言いながら、こちらへゆっくりと歩み寄ってくる。
「ただ調べものに来ていただけです」
武田は身を固めつつ、淡々とした声色で言い返す。
すると宰次は、その顔を武田の顔へ近づけた。かなり至近距離まで接近している。彼は武田よりも背が低い。なので下から覗き込むような形だ。
「調べもの?一体何の調べものを?」
「たいしたことではありません。敢えて説明するほどの価値もないことです」
武田は愛想なく返した。
直後、宰次は突然、武田の片手を掴む。手首を強くひねり、そのまま武田の体を本棚に押し付けた。
そして、再び顔面を近づけ、柔らかな声色で言う。
「たいしたことでなくとも説明していただきたいのですよ」
「お断りします」
「では、説明できないことをしていたと見なすとしますな」
宰次は柔らかな表情だが、告げる口調はキッパリしていた。
武田は眉をぴくりと動かす。しかし視線は決して逸らさない。それからしばらく、二人は視線を合わせていた。半ば睨み合うように。
「私は嘘つきに見えますか」
武田は本棚に押しつけられたまま低い声で言い放つ。感情のこもっていない、静寂のような声だった。先ほどまでとは大違いである。恐らく無意識なのだろうが、ここまで声質を変えられるというのは凄いと思う。
「……ふふ。無駄な疑いのようですな」
宰次は呟くように言い、武田から離れた。
それからくるりと身を返す。彼の視線が私に注がれる。畠山宰次——非常に不思議な男だ。
「それで君、お名前は?」
唐突に尋ねられ、私はついきょとんとしてしまう。先ほどまでの緊迫した空気とは打って変わって、のんびりした空気が流れ始める。
「天月沙羅です」
「沙羅さん、か。素敵な名前ですな」
「ありがとうございます」
いきなり握手を求められた。漠然とした不安を感じる。しかし、一方的に拒否するのもどうかと思うので、私は仕方なく手を差し出す。
それにしても、このような流れになるとは予想していなかった。
「初めまして、僕は畠山宰次。こう見えても新日本警察の人間です。よろしく」
「あ、はい。よろしくお願いします……」
握手を交わしつつ挨拶している時、ふと気になって武田を一瞥する。ほんの一瞬視界に入った彼は、信じられないくらい不愉快そうな顔をしていた。驚いて思わず言葉を発しそうになったほどの分かりやすい表情である。
武田がこれほど不愉快そうな顔をするのは珍しい。感情が顔に出るのも人間らしさが感じられるので、時には良いと思う。ただ、このタイミングでというのは、正直意外だった。
「沙羅さん、ここの喫茶店はパンが美味しいのですよ。せっかくですし、ちょっぴりお茶でもいかがですかな?」
宰次は妙に積極的だ。
しかし、自然な笑顔で接してくれるから、嫌な感じはほとんどない。むしろ好印象なくらいだ——あのピンクのファイルを見てさえいなければ。
もちろん今だって、彼に悪いイメージを抱いてはいない。笑顔もあり、口調も丁寧。そんな彼を嫌う理由は何もない。ただ、あのピンクのファイルに宰次だけの紙が入っていたことが、今私の心に暗い影を落としている。本当にこの男性を信頼して良いのだろうか、と思ってしまうのだ。
それと気になるところはもう一つ。武田の宰次に対する態度が明らかに普通ではなかったことである。
宰次が書庫に現れてからのことしか私には分からない。過去のことなどは知らないからだ。ただ、武田が宰次を見る視線には、常に何か闇のようなものが付きまとっていた。
「沙羅さん?」
「……あっ」
思考が勝手に広がっていってしまうのは私の悪い癖だ。また悪い癖が出てしまっていた。初対面の相手にこれは少しまずい。
「すみません。何でしたっけ」
「喫茶店でお茶をするのはどうですかな?武田くんも一緒に、三人で」
「えっと……武田さん。どうします?」
武田に委ねることにした。
こんな人に絡まれていては調べものが進まない。今日は調べものをしにわざわざ図書館まで来たのだ、邪魔されたくはない。それが私の正直なところだ。
だが、武田がどう考えているかは分からない。私は彼の選択に従うことに決めた。
「どうですかな?武田くん」
宰次はやや白髪混じりの髪を、整えるようにわざとらしく触っている。
「ぜひ三人で」
「それはお断りします。付き合う時間はありません」
誘いをきっぱりと断る武田。やはり彼も、喫茶店でお茶をするのは嫌なようだ。同じ意見で安心する。
「……では仕方ありませんな」
直後。
宰次が片腕を乱暴に掴んできた。悲鳴をあげる暇もない。そのうちにもう片方の腕も握られる。
強制的に、両腕を背中側に回された。
「こ、これは!?」
「……すみませんね」
いつの間にか宰次の顔から笑みが消えていた。真顔だ。今の彼の顔には穏やかさなど微塵も存在しない。
「沙羅に触るな!」
声を荒げ、一歩踏み出しかける武田。
——しかし。
次の瞬間、彼はその足をぴたりと止めた。
それはなぜか?答えは簡単だ。私のこめかみに、銃口が押し当てられていたからである。その銃口は、宰次が持つ拳銃のものだった。
「武田くん。そこから一歩でも動いたらどうなるか……分かってますな?」
「……くっ」
武田は動かないことを選んだ。彼の整った顔には、いつになく悔しさが滲んでいる。
私は何度か抵抗を試みた。身をよじり、なかなか上手くいかずとも諦めず、逃れようと頑張る。こんな弱い女でも、エリミナーレの一員だ——そう自分を鼓舞しながら。
けれども、心だけでどうにかなる問題ではない。素人同然の私ではどうしようもなかった。
宰次は勝ち誇ったように、ふふ、と笑みをこぼす。
「彼女はしばらく借りますよ。もし助けたければ、ここへ来ることですな」
怒りに満ちた目をする武田に向かって、一枚の紙切れを投げる宰次。
「ふざけるな!」
「まさか。僕は至って真剣。真面目そのもの」
宰次は最後にそれだけ言い放った。そして、銃口を私のこめかみに密着させたまま、書庫の外へと歩き出す。
綱引きの時のように、進行方向とは逆の方に体重を乗せたりしてみる。しかし、私の体重では軽すぎた。ずるずると引きずられてしまう。
徐々に武田の姿が遠ざかっていく——まさか、こんなことになるなんて。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.145 )
- 日時: 2018/02/15 04:21
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: ZFLyzH3q)
87話「彼は彼女の彼氏」
引きずるようにして無理矢理連れていかれた先は車。黒い乗用車である。
私は鞄を没収され、強制的に助手席へ座らされる。
武田の隣に座ることができた時には凄く嬉しかったが、同じ助手席でも今はまったく嬉しくない。「嬉しい」の「う」の字もない、といった感じだ。
黒い乗用車の中には待機している一人の男性がいた。恐らく宰次の仲間か部下だと思われる。
その男性はまず、私の両腕を縄でくくった。それから、助手席のシートに私の体をくくりつける。またしても縄で、である。この時代に敢えて縄を使用する意味がよく分からない……。
「では沙羅さん、参りましょうかね。ふふ」
「一体どこへ?」
「それは着いてからのお楽しみですな。ふふ」
宰次は運転席に腰をかけ、慣れた手つきでシートベルトを締める。新日本警察の人間だけあって、交通ルールは一応守るようだ。
縄でくくる作業を終えた男性は、先ほど没収された私の鞄を抱えつつ、後部座席に座っていた。
勝ち誇った顔の宰次は何も言わない。彼は黙ったまま、すぐにアクセルを踏む。漆黒の乗用車は滑るように走り出す。
運転席に座る武田は常にかっこよかったが、宰次が運転席に座っていても欠片もかっこよくない。ただの中年男性だ。……もっとも、今はそんなことを考えているほど余裕のある状況ではないのだが。
——乗用車は走る。
車内は暗く静かだ。そこはまるで、絶望に染まった闇のよう。車内という狭い空間では息が詰まりそうだ。
「畠山さん、貴方は一体何者ですか。武田さんとは知り合いなのですか?」
シートに縄でくくりつけられているので常に息苦しい。呼吸がしづらい。そんな中でも、私は勇気を出して尋ねてみた。何事にも適度な思いきりは必要である、と思ったから。
宰次は「あ、宰次呼びでよろしく」と呼び方を指定した後、私の問いに答える。
「僕は至って普通の人間ですな。ちなみに、武田くんは僕の後輩にあたる」
宰次はハンドルを軽く握りつつ、さらりとした調子で返してくる。話すことに躊躇いはないようだ。
「京極エリナがエリミナーレを設立するまでは、ずっと仲良くしていたのだけれどね。エリミナーレ設立後は少々疎遠になってしまった、という話で」
自身の人間関係を話すとなれば、普通はなにかしら躊躇いがありそうなものだ。例えば、ここまでは人に言えるがこれ以上は明かせない、というように。
しかし、宰次にはそれがないように感じる。
「エリナさんともお知り合いなのですか?」
「その通り。僕は京極エリナの友人である保科瑞穂という女性の恋人でしたからね。京極エリナのこともよく知っているのですよ。ふふ」
「みっ、瑞穂さんの恋人!?」
半ば意識なく声を出してしまった。私は急な驚きを隠せるほど器用な人間ではない。
「どうやら瑞穂をご存じのようですな。では話が早い」
美人な瑞穂の付き合っていた相手が、こんな普通のおじさんだったとは、驚かずにはいられない。……いや、当時は宰次もおじさんではなかったのだろうが。それでも、極めてかっこいい容姿ではなかったはずだ。だとすれば、瑞穂が惹かれていたのは、性格だろうか。
くだらぬことで悶々としていたると、彼が口を開く。
「僕の狙いはただ一つ」
「狙い?」
思わず繰り返してしまった。
いきなり自分の狙いを明かすなど変だ。普通は隠すところだろう。考えられる可能性としては……若干頭が弱い、あるいは、よほど自信がある。この二つのうちどちらか。
「瑞穂の死の真相を知っている可能性がある者を、すべて葬り去ること。これに尽きますな」
——葬り去る?
付き合っていた彼女の、死の真相を知っている可能性がある者を、一人残らず葬り去る。普通、そんなことを考えるだろうか。
噂のネタにされたくない、大勢に知られたくない、などという話なら理解できる。だが、真相を知っている可能性がある者を葬り去るだなんて——まるで、瑞穂を殺したのが宰次であるかのようではないか。
「真相を知っている可能性がある者……それは、武田さんとエリナさんのことですか?」
私は恐る恐る質問してみた。
この程度の問いなら、さすがに怒られることはないだろう。
「ふふ。確かに、彼らも含まれておりますな」
宰次は口元にうっすら笑みを浮かべながら返してくる。
機嫌を損ねている感じはない。助かった。
「じゃあ宰次さんは二人を殺すつもりで?」
「いずれは、ですな。物事というものはそうトントンとは進みませんからな」
心臓がバクンと大きく鳴った。胸の鼓動は徐々に加速する。冷や汗が額から頬に落ちていく。けれども、手はくくられているので拭えない。
武田やエリナに殺意を抱いている人間が目の前に——考えるだけで寒けがしてきた。一歩誤れば殺されるかもしれない。そんな風に思ってしまったからだ。
「二人がいなくなったら、エリミナーレは潰れてしまうかもしれません。そこはどうするおつもりで……」
「おや?沙羅さんは何か勘違いをなさっているようですな」
その間も車は走る。曲がりくねり、見たことのない道を行く。
「僕はエリミナーレ全員を始末するつもりですよ。ふふ」
「……そんなっ!」
「何を驚いてられるのですかな?」
宰次は本気で言っているのだろうか。こんな酷なことを。
「エリミナーレの人間は、武田くんたちから話を聞いている可能性があるでしょう?なので全員消えてもらわねばなりません。当然のこと」
彼は偽りのない真っ直ぐな目をしていた。どうやら冗談ではなさそうだ。
「……じゃあ、その一人目が私なんですね」
私もエリミナーレの一員だ。宰次が消したい人間に含まれている。
「なぶり殺しにでもするおつもりですか。それとも、みんなを呼び出して見せしめに殺すとかですか」
「沙羅さん……結構怖いことをおっしゃいますな……」
半ば呆れたように笑われてしまった。なんだか悔しい。
やがて、車は止まる。目的地に到着したようだ。後部座席に座っている男性が、私を拘束している縄を、ゆっくりとほどいていく。
その間に、宰次は言った。
「心配なさらずとも、沙羅さんは殺しませんよ」
「……死よりも辛いこと、ですか」
「ふふ、沙羅さんは発想が怖いですな。でもはずれです。沙羅さんだけ殺す予定でないのには理由がありまして……その理由とは」
私の発言が面白かったのか、宰次は少し笑みをこぼす。そして言い放つ。
「お父さんによくお世話になっているから、ということです」
「……は?」
私は思わず言ってしまった。あまりに想定外だったから。
そのうちに縄がすべて外される。やっと身動きできるようになった。
「では、後はあちらでお話するとしましょうかな」
車から降ろされる。
三階建てくらいだろうか、そこそこな大きさの建物の前だった。初めて目にする建物である。
私はよく分からぬまま、指示されるがままに歩み始める。だが、何がどうなっているのか、理解が追いつかない。ただ、唯一分かることは、ここが敵地であるということだけだ。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.146 )
- 日時: 2018/02/16 19:18
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: w93.1umH)
88話「変わりつつある中で」
——その頃、エリミナーレ事務所。
図書館から大急ぎで帰ってきた武田に事情を聞いたエリナ。予想を大きく越えた内容に、さすがの彼女も驚きを隠せない。
「何ですって!沙羅が宰次に連れていかれた!?」
「はい。書庫で調べものをしていたところ突然……申し訳ありません」
エリナに状況を報告する武田は、いつになく青い顔をしている。体調が悪そうだ。元気もない。
「あぁ、もう!どうしてこんなややこしいことになるのよ!」
苛立ちを露わにするエリナに対し、近くにいたモルテリアが謝罪を述べる。
「……ごめん、なさい……」
日頃は常にマイペースな彼女だが、今は珍しくしゅんとしている。沙羅が拐われるのを防げなかった、と彼女なりに悔やんでいるようだ。
「いいのよ、仕方ないわ。モルが無事だったのは唯一の救いね」
はぁ、と溜め息を漏らすエリナ。
ちょうどそこへレイが現れる。何も知らないレイは、武田に対し、軽い調子で「意外と早かったね」と述べる。武田は黙って目を伏せた。
それからエリナが、レイに事情を説明する。沙羅が拐われてしまったこと、その場所を記した紙を渡されたこと。
順に説明していくうちに、レイの顔つきはみるみる変化していった。先ほどまでのような明るい表情はどこかへ消え去ってしまう。
「そ、そんなことって……」
レイもこれには動揺を隠せない。瞳が揺れている。
「武田!どうして助けなかったの!?」
彼女は武田に向かって叫んだ。
「一緒にいたんだよね?なのにどうして!」
「……すまない。沙羅に銃口を当てられては、もはや何も……」
「武田は沙羅ちゃんが怖い目に遭ってもいいの!?近くにいたのに助けないって、そういうことだよ!」
レイに激しく責められても、武田は俯いたまま何も言い返さない——いや、言い返せなかったのだろう。唇をきつく結び、拳をぎゅっと握り締めるだけだ。
「何か言ってよ!」
衝撃のせいか平静を保てず、武田に食ってかかるレイ。
それまで一言も発することをしなかった武田は、その時になってようやく口を開く。
「仮に怖い目に遭うとしても、撃たれて死ぬよりかはましだ」
その唇は震えていた。
しかし、平静を失ったレイがそんな小さなことに気づけるはずもない。彼女は武田の心理状態を考慮することなく、「酷すぎる!」と非常に鋭い調子で叫んだ。
——刹那。
ついに、武田の堪忍袋の緒が切れた。
「私が沙羅を心配していないと、そう思っているのか!」
レイはもちろん、エリナですら驚くような、激しい声を出す武田。その声には、沙羅を思い自身の力不足を悔やむ、そんな複雑な感情が滲んでいる。
「そんなわけがないだろう!私は沙羅を心配している!今だって、本当ならすぐに彼女を助けに行きたいくらいだ!!」
あまりの迫力にレイは言葉を詰まらせる。
「だが、私はエリミナーレの人間だ。報告せねばならないし、指示なしに勝手な行動をするわけにはいかない。だからこうしてここにいる……なのに!」
「落ち着きなさい、武田。取り乱さないで」
「酷すぎるだと!?本当に酷いのは、レイ、お前だ!!」
それを最後に、武田は口を閉ざした。気合いを入れるように黒のネクタイを整え、一言も発することなく事務所から出ていこうとする。
エリナが「待ちなさい」と制止しようとしても、武田の動きは止まらない。まるで聞こえていないかのように、武田はエリナを無視し続ける。
初めての体験に、さすがのエリナも戸惑っていた。彼女はらしくなく、玄関へ向かう武田の後を追う。そして、なんとか彼の手を掴んだ。
「待って。せめてどこへ行くのかくらい……」
だが彼は、心なく、エリナの手を払う。
「沙羅を助けに行きます」
感情のこもらない淡々とした声で武田は答えた。一応答えたことは答えたが、物凄く冷ややかな空気を漂わせている。
「一人でなんて駄目よ。何かあったらどうするつもり?」
「失敗の後片付けくらい自分でできます」
「そうじゃないわ。もし貴方まで捕まったりなんかしたら……」
「その時は初めからいなかったことにして下さい。永遠に忘れてくれて構わない。では」
スーツという名の黒い戦闘服を身にまとう彼は、迷いのない、それでいて冷たい、ある意味真っ直ぐな目をしていた。気の強いエリナすら「今の彼を従わせるのは難しい」と判断したほどである。
彼はそれから一度も振り返ることなく事務所を後にした。
「……何よ、もう」
玄関に一人残されたエリナは、溜め息をつきながら、らしくなく小さな声を漏らす。
「恋愛感情は抱かない、なんて言っていたくせに……何なのよ……」
エリナは哀愁を帯びた目つきで、武田が去った扉をしばらくじっと見つめていた。過去、出ていったきり帰らなかった大切な人のことを、静かに思い出していたのかもしれない。
「背中は嫌よね。永遠の別れみたいだもの」
誰かに語りかけるような独り言を呟くエリナの表情は暗かった。
彼女は暗い表情のまま、両の手のひらをそっと合わせる。そして、瞼を閉じた。この世のものではない何かに祈るような格好である。
「……瑞穂。どうか、武田と沙羅を護って」
エリナは呟く。そっと、見えない何かに向かって。
——それは、今は亡き親友への、たった一つの願いだった。