コメディ・ライト小説(新)
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.227 )
- 日時: 2018/04/27 04:32
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: 4mXaqJWJ)
157話「追憶」
旅館を出た私たちは、レンタルの自動車のトランクに荷物を積み、行きと同じ座席に座る。武田と隣だ、今度こそうたた寝しないように気をつけなくては。
——そう思っていたのだが。
よく見ると、エリナとモルテリアの席が入れ替わっていた。
「あれっ、エリナさん後ろなんですか?」
運転席に座っていたレイが、背後を振り返り言う。
「ナギが暴れないよう、私が見張っておくわ」
エリナは柔らかな声でそう返した。
すかさず反応するナギ。
「ちょっ……なんすか、それ!俺は子どもじゃないっす!」
「別に子どもだなんて言っていないわよ」
「た、確かに……って、そうじゃなく!」
直後、ゴン、とぶつかる音。
発言しようと勢いよく立ち上がったナギが、車の天井に頭をぶつけたようだ。
「いったぁー……」
ナギは頭を抱えて、身を縮める。素で痛がっているところを見ると、そこそこ痛かったのだろう。
それに対しエリナは呆れ顔。
「まったくもう。そんなだから目が離せないのよ」
すると、急激に元気な顔つきになるナギ。
「目が離せないっ?目が離せないって、どういう意味っすか?もしかして俺にときめいて目が離せ——」
「止めて。気持ち悪い」
「ううっ!傷つくっす!」
冷ややかな声でばっさり言われ、ナギは両手で顔を覆った。
大袈裟な動作が少し笑える。
「武田さんー!助けてほしいっす!女の子との接し方、教えて!」
「私のことを散々モテないモテないと言ってきたのは誰だ」
「うっ」
「モテない男に女との接し方を習うなど、嫌だろう」
「ううっ」
どうも、以前やられたことの仕返しをしているらしい。今の武田は妙に攻撃的だ。もしかしたら、結構根に持っていたのかもしれない。
「それじゃあ、出ます!」
レイが出発を告げる。
二泊三日過ごした旅館とも、もうこれでお別れ。そう思うと少し寂しい気もする。食事に入浴、襲撃、足湯カフェ。色々なことがあったなぁ、と改めて思った。
瑞穂の墓へと向かう途中、花屋に寄った。
そこでエリナが買ったのは、白いスイートピーの小さな花束。瑞穂の墓に備える用だと彼女は言う。
可憐で、しかし華やかさもある、白色のスイートピー。瑞穂にぴったりの花だ、と私は思った。
「綺麗な花束ですね」
花屋から車へ戻る時、私は勇気を出してエリナに話しかけてみた。今なら話しかけられる。彼女の顔を見ていたらそう思ったからだ。
すると彼女は、少し寂しそうに笑う。
「スイートピーね、瑞穂が好きだった花なのよ」
エリナの声は静かで柔らかい。以前のように棘はない。
私は車へ戻るまでの間、彼女の背中を眺めていた。特に深い意味はなく、なんとなくぼんやり眺めていたのだ。そして、彼女は変わろうとしているのだな、と改めて思った。
エリナは今まで囚われていた過去に別れを告げようとしているのだろう。だが、それは容易いことではない。過去に別れを告げるということは、これまでずっと抱いてきた負の感情を捨てるということでもあるからだ。
けれども、彼女ならやってのけるだろう。いつかは必ず。
どんな長雨にも終わりが来るように。そして虹が現れるように。彼女にまとわりつく雲はいずれ消え、その先にはきっと大きな幸福がある。
そして、そこへたどり着いた時、初めて気づくのだ。
歩んできた長い道のりは辛かったけれど、無意味な苦しみではなかったのだ、と。
墓地へ到着し、車から降りると、涼しい風が吹いていた。晴れた明るい空の下、ひんやりとした乾いた風を浴びると、不思議と心が軽くなる。
エリナはスイートピーの白い花束を胸元に抱え、歩き出す。
その後ろ姿を見つめていると、いつの間にか出遅れていた。レイが「大丈夫?」と声をかけてくれたおかげで意識がこちらへ戻った私は、「はい」と答え、みんなの後を追うように足を進めた。
瑞穂の墓にたどり着く。
静寂が私たちを包む。
「……瑞穂。誓いは果たしたわ」
エリナは胸の前に抱えていた花束を、そっと墓前に備える。スイートピーの白い花弁が、風に揺れた。
真剣な顔で花束を見つめるエリナ。
静寂の中、その場にいた誰もが、エリナの姿を見守っていた。
「貴女は間違いなく、私の、一番の親友だった。それなのに救えなくて、ごめんなさい」
彼女はひざまずいて、静かに謝罪の言葉を述べる。その声は震えていた。
「……あの時、私は貴女のために泣けなかった。でもどうか、分かって。私が貴女を思っていたことは確かよ……」
弱々しい声は続く。
そしてついに、彼女の瞳から一滴の涙がこぼれ落ちた。
心配そうにエリナを見つめるナギ。
「本当に、本当なの……瑞穂、分かって……」
「エリナさん」
静寂を破ったのはナギだった。
彼はエリナに寄り添い、しっかりとした声色で彼女を励ます。
「瑞穂ちゃんはきっと分かってるっすよ」
「……そんなこと、どうして分かるのよ」
「だってほら、瑞穂ちゃんはエリナさんの親友だし?理解ない人なわけないっしょ」
いつもはおちょけてばかりのナギ。ふざけて叱られてばかりのナギ。だが、今の彼は、別人のようにしっかりしている。
「エリナさんは瑞穂ちゃんのこと、信じてないんすか?」
こんなことを言うのはおかしいかもしれないが——今の彼は、完全に、一人前の男だった。立派である。
「……信じているわ」
「瑞穂ちゃんのこと、好きなんっしょ?」
「好きよ……好き!誰より!」
するとナギは、顔を墓へ向け、ニヤッと笑う。
「らしいっすよ!瑞穂ちゃん!」
ナギのあっけらかんとした声が、澄んだ空に響く。
「良かったっすね!」
彼は、でも、と続ける。
「これからエリナさんの一番になるのは俺っすから!」
唖然とした顔になるエリナ。
いきなりのナギの宣言には、私も戸惑いを隠せない。
「その代わり、アンタの分もエリナさんを幸せにするっすよ!」
それは、もはやプロポーズだった。
亡き親友の前でプロポーズとは、ナギはよほど本気なのだろう。そうでなくては、こんな大胆なことはできないはずである。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.228 )
- 日時: 2018/04/27 16:50
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: xPtJmUl6)
158話「純白の花」
ナギの宣言から少しして、エリナは立ち上がる。瞳はかつての強い輝きを取り戻し、表情に迷いはもうなかった。
「武田。貴方の番よ」
「私ですか」
「えぇ。瑞穂に言いたいことがないわけじゃないでしょう?」
言われた武田は一度小さく頷き「はい」と返事をする。それから、私の肩をそっと抱き、瑞穂の墓の前へと、ほんの数歩足を進めた。
武田の心を察してか、エリナとナギはすっと退いてくれる。
「瑞穂さん。私は人の心を得ました。もう心配しないで下さい」
今は亡き先輩——瑞穂へ、語りかける武田。その口調はいつになく丁寧だった。それだけ尊敬しているということなのだろう。
「彼女、沙羅と幸せになります」
……なんだろう、この結婚報告会のような状況は。
私の脳内が疑問符で満たされていく。
恋い焦がれ続けてきた武田が、私と幸せになると宣言してくれているのだ。嫌なはずはない。むしろ喜ばしいことのはずである。だが、みんながいる場で宣言されると、なんとも言えない気持ちになった。嬉しいは嬉しいのだが、やや恥ずかしい。
「良き家庭を築いていけるよう努めます」
するとそこへナギが口を挟んでくる。
「えっ!武田さん!?武田さんて、結婚前提でお付き合いしてるんすか!?」
顎が外れるくらいの勢いで口を開け、大きな声を出すナギ。彼のいかにも活発そうな若々しい声が、静かな墓地に響き渡る。
今は幸い誰もいないから良い。だが、もし近くにエリミナーレ以外の者がいたならば、驚かれたに違いないだろう。
「あぁ、そうだが」
「マジすか!?」
驚きを隠そうとは微塵もせず、むしろ大袈裟に反応するナギ。そんな彼を見て、武田は、ふっと穏やかな笑みをこぼす。
「お前はいつもそうだな」
するとナギは怪訝な顔になる。
「どういう意味っすか?」
一瞬険悪な空気が漂いかけた。だが、武田が微笑みを止めなかったため、喧嘩には発展せずに済みそうだ。
「感情を躊躇いなく外へ出せるお前が、少し羨ましい」
「どうしたんすか?いきなり」
「私もお前のように感情表現が上手ければ、沙羅への想いをもっと伝えられるのに。愛情をもっと注ぎ込めるのに。そう思ってな」
武田は少し寂しそうな顔をする。
彼の愛情表現が十分だと思うのは、私だけだろうか……。
するとナギは、呆れ顔で「既に愛情たっぷりじゃないすか」と、言い放つ。だが武田は「しかし……」と言って納得しない。その面倒臭さに少々苛立ったのか、ナギは口調を強めて「今のままで十分っすよ!」と言いきった。
「それに、そんなこと、ここで話す内容じゃないっしょ!」
確かに、と私は思う。
若干忘れてしまっていたが、ここは瑞穂の墓前。愛情表現について議論する場ではない。
きっと今瑞穂は戸惑っていることだろう。昔の仲間が久々に訪ねてきたと思えば、こんな話。戸惑わないはずがない。
「あら、ナギ。珍しくまともなことを言っているじゃない」
「珍しくって!その言い方は酷いっすよ!エリナさん!」
「私は口が悪いのよ」
「そんなの答えになってないっす!」
もはや定番化した言い合いが始まった。エリナとナギはすっかり普段通りである。ついさっきまでの暗い空気はどこへやら、といった感じだ。
「ナギ、落ち着きなよ。お墓の前で騒ぐなんて、迷惑この上ないからさ」
レイは、ギャーギャー騒ぐナギを、姉のように注意する。見慣れているからか、微塵も焦っておらず、表情からは余裕が感じられる。
一方モルテリアは、じゃがいもチップスを食みながら、小さく漏らす。
「迷惑……の、極み……」
さすがはモルテリア。
静かながらもバッサリいく言葉選びは相変わらず。これでこそモルテリア、といったところであろうか。
「レイちゃんモルちゃん、今日は妙に厳しいっすよ!何でっ!?」
ナギが半泣きのような声で叫ぶと、レイはやや冗談混じりの冷ややかな目つきで返す。
「エリナさんを幸せにするなら、もっと賢い男にならないとね」
モルテリアは、レイの発言に合わせて、コクコクと首を縦に動かしている。ぼんやりしがちなモルテリアだが、今のレイの発言には彼女なりに納得しているようだ。
「じゃないと、瑞穂さんに怒られるよ?」
「うっ……。それはありそうっす……」
「さっき、幸せにするーって、誓ってたもんねー?」
何度も繰り返し言うことで圧力をかけていくレイ。
その圧力についに耐えきれなくなったナギはエリナの背後へ逃げる。そして、あろうことか、エリナを盾のようにした。
だがエリナは嫌な顔をしない。ただ、呆れたように笑うだけである。
「女性を盾にするとか駄目だよ!」
「レイちゃんたまに怖いんすよ!エリナさんっ!助けて!」
「……ナギ。隠れても構わないけれど、さりげなく腹回りを触るのは止めなさい」
「うっ、バレたっすか」
腹回りを触るって……、と、私は武田と一緒に苦笑する。
墓地には似合わない騒々しさ。だが、これこそがエリミナーレの真の姿だ。不必要に飾ることはせず、みんなで楽しく盛り上がれる——こんなに幸せなことはない。
「ありがとう」
そんな時。
私の背後から、ほんの一言、小さな声が聞こえてきた。
よく知った声ではない。けれど、どこかで聞いたことのある女声だ。透き通った、ガラスのように繊細な声色が、なぜか妙に耳に残る。
急なことに驚き、振り返ると、背後に真っ白な女性が立っていた。
「貴女は……」
私は思わず呟く。
一目見て、彼女が瑞穂なのだと分かった。髪や肌、服も、すべてが白い。彼女は間違いなく瑞穂である。
「ありがとう」
彼女はもう一度そう言って、優しく微笑んだ。穢れのない、天使のような微笑みに、拍動が加速する。
「瑞穂、さん……?」
「沙羅ちゃん。貴女は、今も、私が見えるのね」
目を凝らしてみる。
すると、彼女の体が透き通っていることに気がついた。……いや、当然ではないか。実体があるわけがない。
瑞穂は亡き人なのだから。
「武田さん!瑞穂さんが!」
私はすぐ隣にいる武田へ声をかけてみる。もう一度会えたなら、伝えたいことがあるかもしれない。そう思ったから。
しかし武田は首を傾げるだけ。
「どうした?」
「そこに、瑞穂さんが!瑞穂さんがいます!」
「何を言っているんだ、沙羅」
もう一度視線を戻すと、瑞穂の姿は確かにあった。だが武田は、私が瑞穂の存在をいくら訴えても、首を傾げるだけ。彼には瑞穂が見えていないようだ。
「沙羅ちゃん、今はもう、貴女にしか見えないの。吹蓮の術がないから」
瑞穂の白い髪は風が吹いても揺れない。恐らく、肉体そのものはないからだろう。
「なるほど……」
吹蓮の術がなくても私には見えるということが謎だ。ただ、今はそこまで突っ込まないことにした。
「その代わり、何でも話せる。本当のことを」
瑞穂のアーモンド型の瞳がじっとこちらを見つめてくる。
「エリナに伝言を頼んでも構わない?」
「は、はい。私で良ければ」
「もちろん」
純白の彼女は、音もなくこちらへ近づき、私の耳元でそっと囁く。
「全部分かっているから、これからは笑って過ごして」
瑞穂は一度二度まばたきし、改めてこちらを見て微笑む。
「ありがとう」
強い風が吹き、私は思わず目を閉じる。少しして風が止み、瞼を開くと、瑞穂の姿はもうなかった。
その代わりに、地面のアスファルトの隙間から、一輪の花が咲いていた。
白い花弁の、小さな花が。
- Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.229 )
- 日時: 2018/04/27 20:01
- 名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: YohzdPX5)
159話「新日本警察エリミナーレ」
二○四六年、十一月。
エリミナーレが活動を再開してから、早いもので、もう五ヶ月が過ぎようとしている。
暑かった夏も終わり、季節は、徐々に冬へと向かっていく。ついこの間までは薄い上着一枚で出掛けられたというのに、ここ数日で一気に寒くなってきた。昨日の夜などは、ある程度分厚い上着が必要だったくらいである。
そんな秋の日。
私はいつもより早く起き、身支度を済ませ、事務所のリビングへ向かう。
「おはようございます」
挨拶をしながら入ったリビングには、エリナの姿があった。桜色の髪と大人びた顔立ちは、相変わらず魅力的だ。
「あら、沙羅。朝早いわね」
「はい」
「そういえば、今日、打ち合わせの日だったかしら?」
私は迷いなく頷く。
エリナの言う通り、今日は打ち合わせの日だ。しかし、これだけでは、何の?と思われるかもしれないので説明を付け足しておく。
打ち合わせというのは、武田との結婚式の打ち合わせである。
「ゆっくり楽しんでくるといいわ」
「お気遣い、ありがとうございます」
「礼を言われるほどじゃないわよ。貴女はどのみち戦えないもの、いてもいなくても同じだわ」
何げに酷い。
しかし、これはエリナの優しさだ。数ヵ月一緒に過ごしてきた私にはそれが分かる。
彼女は案外恥ずかしがり屋だ。だから、礼を言われ恥ずかしいのを隠すために、こんな風な発言をすることも珍しくはない。
エリナはそれから、手元の書類を触りつつ、キッチンに向かってナギの名を呼ぶ。すると、キッチンからナギがやって来た。
「何か用事っすか?」
「飲み物。注いでちょうだい」
「あ、またブドウジュースっすね?」
「そうよ。さっさとしなさい」
近くに置いていた透明のグラスを、エリナはナギへと差し出す。
「すぐ入れてくるっす!」
ナギはグラスを受け取ると、キッチンの方へ駆け戻っていく。若さゆえか、すべての動作が素早い。
ちょうどそのタイミングで、リビングと廊下を繋ぐ扉が開く。誰かと思い振り返ると、そこには、綺麗にスーツを着たモルテリアが立っていた。
タイトスカートのスーツ、薄い緑色のブラウス。シンプルできりりとした服を身にまとっていると、モルテリアでさえクールビューティーに見えるのだから、人の目とは不思議なものだ。
「……お腹、空いた……」
しかし、モルテリアはモルテリア。発言は普段通りだった。
そこへ、レイもやって来る。
今日もパンツスーツがよく似合っている。毛量は多くないが長さはある青い髪は、動くたびさらりと揺れ、女性的な魅力を高めていた。
「沙羅ちゃん、今日は早いね」
「打ち合わせなので」
「あ、そうか!結婚式の、だっけ?」
彼女の確認に私は「はい」と首を縦に動かす。するとレイは微笑んで「楽しみだなぁ、沙羅ちゃんの結婚式」と笑う。
「だから早起きなんだね……って、あれ?武田は?一緒に行かないの?」
そういえば、今日に限って、武田はなかなか起きてこない。彼は時間を守るタイプなのに、珍しい。
まだ寝ているのだろうか……。
そんなことを考えていた時だ。突如、ドスドスと激しい足音が聞こえてきた。地響きのような、低く大きな音である。
リビングにいた私たちは、戸惑いに包まれた。
刹那、凄まじい早さで扉が開く。開けた勢いで扉が壁に激突する。
「沙羅!いるかっ!?」
息を乱しながらリビングへ飛び込んできたのは武田だった。
寝癖のついた髪、よれたパジャマ。武田らしからぬ格好だ。いつも気づけばスーツに着替えている武田が、このような状態でリビングへ駆け込んでくるとは、驚き以外の何物でもない。
「た、武田さん……?」
「沙羅!すまん、少しだけ待ってくれ!すぐに用意する!」
彼は顔面蒼白だった。
予定より寝坊したくらいで大袈裟だと思うのだが——日頃あまり寝坊しない武田にしてみれば大事件なのかもしれない。
「沙羅、怒っているか!?」
「いえ。別に」
「やはり怒っているんだな!?」
「そんなこと言ってな……」
「いや。沙羅が怒るのも当然だ。二人の大切な打ち合わせだというのに、よりによって寝坊とは……!情けない!」
頭を抱え、自身に怒りを向ける武田。
いつも冷静な彼があたふたしていると物珍しい感じがする。しかし嫌な感じではない。むしろ、人間らしさを感じられて、愛着が湧くぐらいだ。
だが、武田が自分を責めると可哀想なので、私は一応言う。
「落ち着いて下さい、武田さん。時間はまだありますから。というより、まったく遅れてませんから。ゆっくり準備して下さい」
すると彼は「そ、そうか」と短く言い、コクリと頷く。モルテリアみたいな頷き方だ。
その頃になってようやく落ち着いてきたらしい武田は、「では準備をしてくる」と言い、素早く洗面所へと向かった。
「まったく。朝から騒々しいわね」
「ホントホント。武田さんダサいっすねー」
溜め息を漏らすエリナと、ブドウジュースを注いだグラスを運んでくるナギ。二人はもうすっかりお似合いだ。
「エリナさん、俺にして良かったっしょ?」
「そういうのはいいから。それより、グラスをさっさと渡してちょうだい。喉が渇いて、もう死んでしまいそう」
「マジっすか!?遅くてすいません!」
「……冗談よ」
エリナとナギが仲良く話している光景を見ると、私はなぜか、少し嬉しい気持ちになった。幸せそうな人を見ているとこちらまで幸せになってくるから、人の心とは面白いものだと思う。
十分後。
再びリビングへ現れた武田は、いつも通り、完璧な姿だった。黒いスーツをきっちり着こなし、髪や顔も清潔そのもので、隙がない。
これぞ、できる男。
そう言っても過言ではない。
「待たせてしまってすまなかったな、沙羅」
「いえ、大丈夫です。十分くらいしか待っていません」
「……優しいな、お前は。こちらのミスを責めず、優しく受け止めてくれる……そういうところが好きだ」
好きだ、なんて、みんなのいる場でははっきり言わない方が良い気がする。
だが、この妙な積極性は、武田の美点の一つだ。普通は恥ずかしくて言えないようなことを、躊躇なく言えてしまう——それは、ある意味才能かもしれない。
「ではエリナさん。打ち合わせへ行ってきます」
「そうね。行ってらっしゃい」
「抜けてしまいすみません」
「いいわよ、心配しなくて。エリミナーレの務めは私たちがちゃんと果たしておくわ」
「ありがとうございます」
珍しく親切なエリナに礼を述べ、軽くお辞儀をしてから、武田は私へと視線を向ける。
そして、その手をこちらへ差し出してきた。
「よし、行こう」
差し出された手のひらに、私は手を重ねる。
これまで幾度も握ってきた武田の手。けれども、今日は今日の、特別な良さがあった。
事務所を出て、道を歩いている時、武田が唐突に尋ねてきた。
「さらぼっくり。新たな道へ歩み出す今、お前は何を望む?」
私の望みは武田の大切な人になること。そして、それはもう叶った。しかも非常に良い形で叶ったのだ。
これ以上何かを望むなど贅沢だろう。
そう思っていたけれど。
「私はエリミナーレの一員だが、その前に、さらぼっくりの一番の理解者でありたい。そして、お前の望みを叶えられる男でありたいと、そう思う。お前は私に幸せを教えてくれた。だから、これから長い時間をかけて恩返しをしたい」
彼は言ってから微笑んだ。
今の私にはまだ、彼のような、はっきりとした目標はない。そして、それを大きな声で述べる勇気も、恐らくない。
ただ、一つだけ、忘れたくないことはある。
「……私は」
たいしたことではないけれど。
他者からは笑われるようなことかもしれないけれど。
「いつも前を向いていられる人でありたいです」
どんな小さな光も見つけられる、そんな人間でありたいと思う。
困難にぶつかった時、悲しくても辛くても、真っ直ぐに前を向いていられる人。希望を探すことを諦めない人。
それが私の理想だ。
そんな人になれるように、私はこれから先の人生を生きたい。
こんなことを言えば、良い子ぶっていると思われるかもしれない。理想は所詮理想で現実にはならない、と言われるかもしれない。
それでも私は、理想を信じる。信じて、歩むのだ。