コメディ・ライト小説(新)

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.79 )
日時: 2017/12/26 19:55
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: AwgGnLCM)

41話「動き出す」

 その夜、私は突然の凄まじい爆音によって目を覚ました。
 床が揺れたので最初は地震かと思った。しかしそれ以降は揺れなかったので、どうやら地震ではないな、と判断する。また、揺れる前の音も、地震というより爆発と受け取る方が相応しい。
 最初私は一人で確認しに行こうと思ったが。だがもし敵の襲撃だったりしたら危険だ。なので取り敢えず横で寝ているレイを起こす。
「……え、沙羅ちゃん?こんな真夜中にどうしたの?」
 レイは寝惚け眼をこすりながら言った。あの大きな爆音で目を覚まさないとは、よほど深く眠っていたようだ。
「さっき爆発みたいな音が」
「え!?」
 レイの目が大きく開かれる。驚きで眠気が吹き飛んだのか、一気に目が覚めたような表情になった。
「何だろう、よく分からないね。とにかく様子を見てくるよ」
「あの、私も行きます!」
「沙羅ちゃんは止めておいた方がいいと思うけど……」
 止められるのも当然だ。
 私が出ると余計にややこしいことに発展する可能性が高い。みんなの仕事を増やしてしまうことは目に見えている。
 大人しくしているのがみんなのため。出ていかないことが一番みんなのためになる。
 でもそれは、私がエリミナーレにいる必要はないということで——そんなに切ないことはない。
「一緒に行かせて下さい。私はもう、エリミナーレのお荷物ではいたくないんです」
 どうしていきなりこんなことを言ったのか、自分でもよく分からない部分が大きい。私が出たところで何も変えられはしない。それどころか周囲に迷惑をかけるばかり。
 ただ、なぜか、今なら変われる気がした。
 具体的な根拠はない。本当に変われるという保証もない。寝起きでテンションがおかしいだけの可能性もある。
「沙羅ちゃんは今のままでもお荷物なんかじゃないよ。だから無理することは……」
「お願いします!」
 それでも私は、この機会を逃したくないと思った。
 レイの瞳を真っ直ぐに見つめる。決して視線を逸らしてはならない。
 数秒間があり、やがてレイは少し呆れたように頬を緩める。
「沙羅ちゃんは言い出したら聞かないし、仕方ないね」
 やれやれ、といった声色だ。
 私の自分勝手な要求を受け入れてくれたレイは、とても心の広い人だと思う。
 足を引っ張ることは許されない——。
 私は自身に強く言い聞かせ、レイと共に部屋を出た。

 部屋出ると、廊下には既に武田とナギがいた。武田は落ち着いた表情だが、ナギは青くなっている。
「レイ、ちょうど良かった。起こそうと思っていたところだ。モルは?」
「まだ寝てるよ」
「そうか」
「起こしてこよっか?」
「いや、問題ない。モルは戦闘要員ではないからな」
 武田は極めて落ち着いた調子でレイと会話する。二人の会話は必要最低限の言葉だけであっさりと終わった。
「何があったんですか?」
 勇気を出して尋ねてみると、ナギが答えてくれる。
「エリナさんの自室で爆発があったみたいなんすよ。多分茜が紫苑を助けに来たんだと思うっすけど」
 エリナの自室の方へ視線を移す。扉の隙間から灰色の煙が漏れ出てきているのが見えた。
 辺りにエリナの姿はない。ということは、まだ室内にいるのだろう。茜らと戦っているか、あるいは爆発に巻き込まれて動けないか。いずれにしても心配だ。
 エリミナーレのリーダーである彼女がやられるのはまずい。
「ナギ、紫苑はちゃんと確保しているの?」
「エリナさんの部屋にいたはずなんすけどね……見当たらないっす」
「じゃあ、もしかしたらもう逃げたかもってこと!?」
 ナギは降参というように両手を上げ、「分からないんすよ」と何度も繰り返す。恐らく怒られる気がしたのだろう。レイはナギに対してだけはとても厳しいので、怒られるような気がするのも分からないことはないが。
「いや。それはないだろう」
 武田は低い声で言い、一呼吸空けて続ける。
「まだ気配がする」
 直後、背後で空気が動くのを感じた。素人の私にも分かるような空気の揺れ。
 素早く反応した武田は振り返る。
 つられて振り返った私の視界に、ぼけた写真のような人影が入る。私の目には顔をはっきりと捉えることはできない。だが、恐らく紫苑だろうということはなんとなく予想がついた。
 繰り出された蹴りを即座に片腕で防ぐ武田。
「……やはりな」
 地面に着地したのは、やはり紫苑だった。
 クリーム色のベリーショートヘア、華奢で小さな体。紫の瞳から放たれる鋭い視線は健在で、腕の拘束は解かれている。
「とすると、さきほどの爆発は茜か」
 紫苑は一言も答えない。彼女は沈黙を貫く気のようだ。
 しかしその数秒後、後ろから甘ったるい声が聞こえてきた。
「そうだよぉ」
 後ろに立っていたのは紫苑と瓜二つの茜。その真っ赤な瞳を見れば、すぐに紫苑と識別できた。
 茜の子どものような顔には、不気味さを感じるくらい純粋な笑みが浮かんでいる。彼女が茜でなければ、笑顔が素敵な可愛い少女だと好感を持ったに違いない。それほどに曇りのない笑みである。
「まずは紫苑を返してもらうねぇ」
 余裕のある表情でそう告げる茜に対し、銀の棒を取り出したレイは鋭く叫ぶ。
「一体どこから入ったの!」
 すると茜は、「そんなことも分からないのぉ?」とでも言いたげな顔になる。レイを愚かだとバカにしているようにも見える顔つきだ。
「簡単なことだよっ!わたしの爆薬で窓を破壊して中へ入ったんだ。あのリーダーみたいなおばさん、想像してたよりたいしたことなかったなぁ!」
 その発言によって、空気が一気に凍りつく。
 リーダーみたいなおばさん、というのは恐らくエリナのことだ。茜の話を聞くに、やはりエリナはやられたのか——いや、気の強い彼女がそう容易くやられるわけがない。
 私はエリナが戦う場面を見たことはない。だが、武田を従えているくらいだからそれなりに強いはずだ。
「そもそも気配に気づくのが遅いし、しかも足下ががら空きなんだよねぇ。やっぱり加齢のせ——」
「よくもボロクソ言ってくれたわね」
 饒舌な茜の言葉を、大人の女性らしい声が遮る。声の主は、部屋から出てきたエリナ本人だった。
「「エリナさん!」」
 彼女の名前をほぼ同時に叫んだのはレイとナギ。息がぴったりである。
「……まだ動けるとはねぇ」
 エリナの姿を目にした茜は、不愉快そうに顔を歪める。茜らしからぬ表情だ。
 よく見ると、エリナの右足首は赤く濡れていた。茜らにやられたのだろう。一応歩けてはいるものの、非常に歩きにくそうである。
 怪我を心配してか、ナギがすぐにエリナに駆け寄る。
「残念。相手が悪かったわね」
 口元にうっすらと笑みを浮かべ、強気に言い放つエリナ。ナギが手を貸そうとしたが、彼女はそれを断る。
「エリミナーレのリーダーたる私をこの程度で止められると?随分甘いお嬢ちゃんね」
 今までエリナをこれほど頼もしいと思ったことはない。
 嫌みを言う、不機嫌になる、武田絡みでは妙に競ってくる。私の中でのエリナ像は、どちらかといえば『面倒臭い上司』だった。
 しかし不思議なことに、今は彼女が『頼もしい上司』に思える。
「舐めた真似をしたこと、後悔させてあげるわ。覚悟なさい」

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.80 )
日時: 2017/12/27 18:52
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: zbxAunUZ)

42話「心なき紫刃」

 空気がピンと張り詰める。
 言葉を発するどころか、ただ呼吸をするだけでも緊張するほどの、引き締まった空気。
 しかし茜の表情は柔らかいままだ。動揺の色は欠片も見当たらない。
 彼女がどのような人生を生きてきたのかは知らないが、恐らくこのような空気には慣れているのだろう。そうでなければ、平静を保てるわけがない。
「えへへっ、返り討ちにしてあげるよ」
 余裕たっぷりにそんなことを言っている。目を凝らすと、彼女の手に金属製の小さな筒が握られているのが僅かに見えた。茜の手のひらにほとんどが収まる大きさなのでかなり小さい筒だ。
 爆薬だろうか……いや、他の危険な薬品か何かの可能性もある。知識のない私には見ただけで中身を判断することはできない。だが、いずれにせよ、注意が必要だということは同じである。
「返り討ちですって?笑わせてくれるじゃない」
 唇をしっとりと動かし、挑発的な言葉を吐くエリナ。
 その隣にいるナギは、怪我していながら敵を挑発する彼女を、心配そうに見つめている。
 既に一度、手を貸そうとして断られているので、ナギはエリナに触れられない状態だ。しかし、それでナギの心の中にある不安が消えるはずもない。心配しながらも行動に移すことを許されないというのは、きっととてもモヤモヤすることだろう。

 ——直後。
 エリナは茜の顔面へ膝蹴りを放つ。確実に命中したと思う速度だったが、茜はギリギリのところで飛び退いてかわした。
 軽い身のこなしを目にして改めて思う。やはり茜も普通の少女ではない、と。
「あら、避けられちゃうとはね」
「ふふーん。おばさんなんかには負けないよぉ」
 茜の冗談めかした言葉に、エリナの顔つきが一気に険しくなる。
「うるさいわね」
 おばさん、はエリナを一番怒らせる単語だ。
 相手が悪意のない幼児でも怒ったのだから、敵の少女に言われれば激怒するに違いない。彼女がおばさんと言われて笑っていたとしたら、天変地異の前兆かと周囲が慄くくらいだ。
 エリナは大きく一歩を踏み出し、茜に急接近した。そして何発も膝蹴りを繰り出す。女性とは思えぬ勢いと迫力だ。対する茜は軽く受け流しながら後ろへ下がっていく。
 二人は徐々にリビングへと進んでいった。ナギは金の三つ編みを軽く揺らして二人の後を追う。

 一部始終を見ていた紫苑は、茜の身を案じてリビングへ向かおうとする。
 だが武田がその前に立ち塞がった。近くにはいつでも動ける状態のレイもいる。私は数に入れないが、それでも完璧な一対二。紫苑が不利なことは誰の目にも一目瞭然だ。
 そんな明らかに不利な状況にあっても、紫苑は表情を崩さず冷静さを失わない。紫の瞳は、波ひとつたたない湖のような、静かな色をしている。表情が読めない。雰囲気が始めて出会った時の彼女に戻っている。
 そんな紫苑に、レイが銀の細い棒を向ける。そして冷ややかな声色で言い放つ。
「向こうには行かせないからね」
 レイの表情は固かった。その表情は、私を慰めてくれる時とも、ナギを叱っている時とも異なる。凛々しくどこか男性的な顔立ちに似合った、「かかってくるなら容赦はしない」と言っているかのような表情だ。
「……それでも退くわけにはいかないんだ」
 紫苑は独り言のように呟く。小さな声だが弱々しくはない、強い意思のこもった声だった。
 直後、紫の静かな瞳は確かに私を捉えていた。「これはまずいやつだ」とすぐに想像がつく。こういう雰囲気の時は一刻も早く逃げなくてはならないのだろうが、視線を逸らすのも怖い。
「どんな手段を使ってでも目的は達成させてもらうよ」
 紫苑は一瞬にして目の前まで接近してきていた。
 私の目には彼女の素早い動きを捉えることはできない。真正面から飛びかかられ、私は抵抗する間もなく地面に押し倒される。
 床はフローリングなので倒されてもそこまで酷い痛みはない。もちろん打ちどころが悪ければ重傷になる可能性もあったわけだが、今の場合は「軽く打ったな」くらいのもので済んだ。
 だが、それよりも大きな問題が起こった。
 喉元にナイフの刃を突きつけられていたのだ。これではまたしても、迷惑をかけるコースではないか。形勢逆転される危機である。
「沙羅ちゃん!?今助けて——」
「レイ、落ち着け」
 慌ててこちらへ駆け寄ろうとしたレイを、武田が速やかに制止する。
 その間も私の喉元には刃が食い込んだままだ。金属光沢のある刃のひんやりとした感触はあまりに非日常的で、怖いはずなのに怖いのかどうか分からない。頭がなかなか追い付いてこないのだ。
 これ以上迷惑をかけるわけにはいかない——でもどうするのが正しいか判断することもできない。
「この女の身が大切なら動かないことだね。君たちが少しでも動いたら、犠牲者が出てしまうよ?」
 紫苑はほんの僅かに口角を持ち上げた。
 レイは歯を食いしばり、紫苑を睨みつけながら言う。
「卑怯者……!」
「何とでも言えばいいさ」
 言い返す紫苑の顔はあまりに無表情で、私は背筋が凍るのを感じた。
 作り物のような丸みのある顔には、感情などというものは微塵も存在しない。ロボットのような、陶器人形のような——到底生きた人間とは思えない顔つきをしている。
 だが、今はそんなことよりも、紫苑から逃れる方法を考えなくてはならない。これ以上レイらに迷惑をかけないためにも、自力で何とかしなくては。しかし逃れられる気がしない。
 一体、どうすれば……。
 私はひたすら思考を巡らせるのだった。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.81 )
日時: 2017/12/28 18:44
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: a4Z8mItP)

43話「それは私が変わるため」

 床に押さえつけられ、喉元には刃をあてがわれるという、極めて危険な体勢のまま、ただ時が流れていく。このままではレイらも紫苑に手を出せない。私のせいで。
 この状況を打破するには、私が紫苑から逃れるしかない。覚悟を決めて仕掛ける——これが私に与えられた唯一の選択肢だ。
「まずはその銀の棒を置いてもらおうかな」
 紫苑はレイに冷ややかな視線を向けて命じる。「何を……!」と食ってかかりかけたレイを、武田は淡々とした態度で落ち着かせる。レイは不満げな顔をしながらも、仕方なく銀の棒を床に置いた。
「これで満足?」
「そうだね、お姉さんはそれでいいよ」
 紫苑は視線をレイから武田へ移す。
「でもそっちの怪物はそれじゃ駄目だね。動けなくなってもらわないと」
「断る」
 武田は即座に拒否する。信じられないくらいの素早い返しだった。
「人を勝手に怪物よばわりするような者の指示には従わない」
 どうもそこを気にしているらしい。
 分かっていないような顔をしながら実は結構気にしていたりするところは可愛げがある。本当は繊細なのかも、となんとなく思った。
「そんなこと言っていいのかな」
 紫苑がナイフを持つ手に力を加えたのを感じる。視界の端の刃が威嚇するようにギラリと光った。
 今まで何度も危険な目に遭ってはきたが、今回の状況は危ない気がする。というのも、今の紫苑は必死なので何をするか分からないからだ。私の命は彼女に握られているといっても過言ではない。
「……沙羅を離せ」
「お断りだよ。そもそもそちらには命令する権限がないことを、忘れないようにね」
「こちらは既に一度従った。次はそちらが従う番だ」
 武田と紫苑は真っ向から対立し、火花を散らしながら睨みあっている。両者が自身の意見を貫きほんの僅かも妥協しないため、対立は永遠に続きそうだ。やはり二人はなんとなく似ている気がする。
「ふぅん、そんなことを言うんだ。なら見せしめに天月沙羅を消すとするよ」
「片割れが死んでもいいのか」
 その言葉に紫苑の眉がピクッと動く。
 紫苑の表情を動かせるのは、彼女が誰より大切に思っている茜のことだけだ。
 逃れるなら今がチャンスかもしれない。
 今、紫苑の意識は完全に武田の方へ向いている。抵抗しないと思っているのもあってか、私はほぼ意識外だ。私の体を床に押さえつける力も若干緩んでいる。
「茜はぼくが護る。絶対に死なせたりしない」
「あちらにはエリナさんがいる。その茜とやらに勝ち目はないと思うが」
「嘘だね!ぼくが寝込みを襲った時、あの女はまともに抵抗できていなかった。その程度の女に茜が負けるわけ……ぐっ!」
 私は横たわった姿勢のまま、片足を勢いよく振り上げる。蹴りが紫苑の脇腹に命中したのは、つま先の感覚ですぐに分かった。金属光沢のある刃が喉元から離れた隙に紫苑の下から抜け出す。
「させるか!」
 慌てて再び捕らえようとする紫苑。
 つい先ほどまでの人形のように無表情な顔とは正反対の、とても人間らしい動揺した表情だった。大きく見開かれた目には驚きと焦りの混じったような色が
 すぐに上衣の裾を掴まれる。このまま引き寄せられれば、また床に押し倒されるかもしれない。もう同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
 これ以上レイたちに迷惑をかけないためにも——いや、そうじゃない。
 私が変わるため!
「離して!」
 肘を曲げ、腕を肩から後ろへ振る。
 ほんの少しでも怯ませればそれでいい。服の裾を掴む紫苑の手が一瞬離れてくれれば逃れられる。あわよくば倒そうだとか、そんな大袈裟なことは考えない。あくまで保身のため——そのつもりだったのだが。
 私の肩肘は紫苑の顔面に激突した。
 上衣の裾を掴む紫苑の手から力が抜ける。それどころか、彼女の全身から力が抜けていた。
 何がどうなったのか理解できぬまま、私は全力でその場を離れる。その時は「紫苑から逃れる」ということしか考えられなかった。それが最優先事項だったのだ。
 半ば転がるようにして、なんとか無事武田のところまでたどり着く。
「すみません。私、また迷惑を……」
「謝罪など必要ない。上出来だ」
「でも……」
「上出来だと言ったはずだ。何度も言わせないでもらいたい」
 武田はどことなく気恥ずかしそうにしていた。日頃は堂々としている質なだけに不思議な感じがする。
 それから視線を横へやると、爽やかな笑顔のレイが、明るい調子で「後は任せて」と声をかけてくれた。胸の奥がほんのり温かくなったように感じる。
 その時になって初めて、これで良かったのだと思えた。私の選択は間違いではなかったのだ、と。
「肘鉄を顔面に食らわせるとは驚いた。沙羅は瓶がなくとも強かったのだな」
 レイが紫苑の後始末をしている間に武田が話しかけてくる。このような状況下で彼から話しかけてくるとは意外だ。
 それにしても、まだ瓶のイメージなのか……。
 一度深く刻み込まれたイメージは、なかなか変わらないものなのかもしれない。
「瓶があってもなくても、私は弱いです。武田さんやレイさんみたいに戦えませんし」
「本気を出した沙羅には敵う気がしないがな」
 私が抵抗する時はいつも衝動的だ。そして、運良く奇跡的な力が出せるというパターンが多い。火事場の馬鹿力に近い感じだろうか。
「面白い冗談ですね」
「冗談?いや、本気なのだが」
「それは完全に冗談に聞こえますよ」
 まだすべてが終わったわけではない。茜は残っているし、リビングのエリナやナギが傷ついていないか気になる。
 エリナはそもそも足首を怪我していたし、ナギは他のメンバーに比べてあまり強くない。さすがに一対二で負けることはないだろうが、気掛かりでないと言えば嘘になる。
 だが、ほんの一〜二分くらいはほっとしても良いのかなと、そう思ったりした。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.82 )
日時: 2017/12/29 19:18
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: REqfEapt)

44話「女王の風格」

「大丈夫っすか!?」
 ちょうどその時、ドアがバァンと音をたてて開いた。勢いよくナギが出てくる。様子がまったく分からず心配だったが、無事なようで私は安堵した。
「ナギ!そっちは!?」
 レイが素早く聞き返す。
「こっちはエリナさんが余裕で拘束したっすよ!そっちも楽勝っぽいっすね。レイちゃんが仕留めたんすか?」
「沙羅だ」
 ナギの問いに答えが返ってくるより早く、武田が口を挟む。意味が分からない、といった顔をするナギ。
 当然の反応だ。エリミナーレでも一番弱い私が紫苑を仕留めたなど、いきなり言われて理解できる話ではない。当人である私さえ、いまだによく理解できていないのだから。
 そもそも私は紫苑を倒そうと思って動いたわけではない。それどころか、攻撃してやろうという気持ちすら抱いていなかった。ただほんの少し、数秒くらいでも怯ませることができればいい。そう思い、腕を動かして抵抗しただけだ。
 それがまさか紫苑の顔面に命中するなんて、微塵も考えてみなかったことである。
「え。さ、沙羅ちゃん……っすか?なにかの間違いじゃ」
「沙羅ちゃんの肘鉄が紫苑の顔面にヒットしたんだよ」
「ひ、肘鉄っすか……怖っ」
 こちらを一度見てから後ずさるナギ。こんな風に接されるなんて、ある意味新鮮だ。
 だが、「肘鉄する人」みたいなイメージがついてしまわないかどうか、少々不安だったりはする。
 五年以上も前のたった一度のことで「瓶で殴る人」扱いされているのだ。今変なイメージがつけば、三十手前ぐらいまでそのイメージでいくことになってしまう。
 それだけは勘弁してほしい。
「ただ必死で何も考えてなくて……、完全に紛れですよ」
 結局私は苦笑いでごまかすしかなかった。過剰に期待されても困るので、紛れだということは強調しておく。

「ナギ!いつまで喋っているの!」
 突如、リビングからエリナが現れた。その手には黒く光る鞭が握られている。一体どこで手に入れたのか……不思議で仕方ない。
 敗北したと思われる茜は、首に、エリナが持つ黒光りした鞭を巻き付けられている。
 茜の生命は既にエリナの手中にある。もしエリナの機嫌を損ねれば、茜は鞭に首を絞められることとなるだろう。
「後片付けを私一人にさせるつもり?」
「いやいや!俺もやるっすよ!」
「ならいつまでも喋っていないで。思考は行動で表しなさ——くっ!」
 ナギに対して上から目線で話していたエリナだったが、突如顔をしかめる。私は暫し何が起こったのか分からなかった。
 しばらくしてから私はようやく気がつく。茜がエリナの右足首を踏みつけていたのだ。赤く濡れた足首を強く踏まれ、エリナもさすがに辛そうである。
「捕まえたくらいで調子に乗ってるんじゃないよぉ」
 茜は首に鞭を絡められていても、いつもと変わらないゆとりのある甘ったるい声を発する。片側の口角が僅かに持ち上がっていた。
 彼女はそれからも、エリナの傷ついた右足首を、踏みつけたり蹴ったりと痛めつける。
「やってくれるじゃない……!」
 エリナは鞭を持つ手の力を強めた。
 ミシミシと軋むような音が鳴る。しかし茜は、エリナの右足首を攻撃し続ける。
 もはや我慢対決だ。
「せ、せめて足首くらい……確実に潰してやるもんねぇ……」
 茜は茜で苦しそうだ。
 細い首に鞭が食い込み、満足に呼吸できていないのだろう。まだ声を発せているのが不思議なぐらいである。
 だが彼女は信じられないほどの精神力で、エリナの右足首に攻撃を浴びせる。
「すぐに黙らせます」
 茜に止めの一撃を入れようと二人へ歩み寄るのは武田。しかしエリナは、「必要ないわ」と、彼の助力をきっぱり断った。
「ですが」
 武田は困惑した顔でエリナを見る。
「必要ないと言ったはずよ」
「なぜですか」
「なぜって……『仲間に助けを求めた』なんて言われたら癪じゃない」
 他者の力を借りると、茜に負けたみたいで嫌。
 エリナは多分こういうことを考えているのだろう。いかにも気の強い彼女らしい考え方だ。私などにはまったくない発想である。
 彼女は自力で茜をくたばらせたいのだろう。
「武田は救急にだけ電話しておいてちょうだい」
「はい。分かりました」
 エリナの付け加えが微妙に恐ろしい。
 しかし命じられた武田はほんの僅かも動揺していなかった。携帯電話を取り出し、慣れた手つきで操作を始める。
「おばさん……なんかに……」
 茜は朦朧としてきていた。気力だけで意識を保っているというような状態だ。
「どうやらこちらの方が我慢強いみたいね。せっかくだから、最後に一つ教えてあげるわ」
 エリナは冷ややかな声で告げる。
「私はまだ、三十代よ。……おばさんと呼ぶには早いわ」
 エリナが腹を立てているのは、最後までそこだったようだ。おばさんと呼ばれるのがよほど嫌らしい。
 糸が切れたマリオネットのようにパタンと倒れた茜を、エリナは武田へ渡す。これで茜も紫苑も二人とも身動きの取れない状態になった。
「救急は何分くらいかかるのかしら?」
「電話して六分程度と思われます」
「そう。なら問題はなさそうね」
 足首には血がこびりつき、腕や体には小さな傷がいくつかできている。一般人なら慌てるレベルの負傷だ。
 しかし、エリナはいつになく涼しい顔をしている。
 そこには、エリミナーレのリーダーと呼ぶに相応しい風格が、確かに存在した。

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.83 )
日時: 2017/12/31 20:11
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: J85uaMhP)

45話「心が近づくきっかけなんて」

 それから数十秒くらいが過ぎただろうか。エリナは突如、一気に床へへたり込んでしまった。彼女は足首を怪我している。強がって平気なふりをしていたが、実際のところは普通に立っているだけでも辛かったのかもしれない。
「大丈夫っすか!?」
 へたり込むエリナに一番に声をかけたのはナギだった。彼の顔には不安という名の暗雲が立ち込めている。
「何よ、大袈裟ね……」
 エリナは座り込んだまま、呆れたように言い返す。
 しかしその大人びた顔には、明らかに疲れの色が浮かんでいる。夜中に起こされたうえ攻撃され、しかも戦闘にまで至ったのだ。疲れもするだろう。
「すぐ手当てした方が良さそうっすね。一旦リビングに移動させますよ」
「余計なお世話だわ。私はこう見えても……」
「エリナさんも女の子なんすから、無茶しちゃダメっす!」
 エリナの発言に言葉を重ねるナギ。
「俺は女の子が傷つくところなんて見たくないんですよ!」
 ナギの真剣な顔つきと訴えるような口調に、エリナは少し戸惑っているみたいだった。まさかナギが真剣に心配しているとは考えていなかったのだろう。
 端から見ればナギがエリナを気にしているのは丸分かりだった。だが、そういう感情というものは大抵、当人だけが気づかなかったりするものだ。エリナが気づいていなかった可能性は高い。
 戸惑いを隠せないエリナは、しばらくの間言葉を失っていた。彼女がようやく口を開いたのは、十秒以上後である。
「貴方、そんなだから続かないのよ」
 エリナは白けた顔で小さく吐き捨てた。
「さすがに酷……って、そうじゃなかった!手当てしないと。エリナさん、肩貸すっすよ。……って重っ!!」
 ナギはなにやら一人で騒いでいる。その様子は、まるで、空振りしている笑えないギャグ漫画のようだ。ドタバタという言葉がよく似合う。
「ちょっと誰か手伝って——」
「手伝いましょうか」
 私は速やかに挙手した。
 レイや武田は、まだ茜と紫苑のことがある。先ほど呼んだ救急隊もそろそろ着く頃だろう。しばらく忙しいに違いない。
 かといって、眠っているモルテリアを起こすのも気が進まない。
 そうなると、ナギの手伝いに一番適任なのは私だ。戦い以外なら私にもできることがあるはずである。
「沙羅ちゃん、いいんすか!?」
 落ち着きの「お」の字もないくらいせわしなく動いていたナギが、顔をクルッとこちらへ向けて言った。顔全体から嬉しさが滲み出ている。
 純粋な善意などではなく、手が空いているのが私しかいないので手を挙げたわけだが、ここまで素直に嬉しそうな顔をしてもらえると嬉しい気持ちになった。明るい表情を向けられると、こちらも自然と明るい気持ちになる。不思議なことだが、人間とはそういうものなのかもしれない。
「じゃあ、俺はエリナさんを支えるんで、沙羅ちゃんにはお湯とタオルお願いしていいっすか?」
「はい!あ、でも、タオルはどこに?」
 台所は歓迎会の準備の時に一通り見たのでポットの位置は把握している。お湯を汲むのはできそうだ。
「手洗い場のすぐ下の棚、一番上の段に新品があるわ」
 ナギの肩を借りてなんとか立っているエリナが、私の問いに素早く答えた。
 彼女は涼しい顔をして平気そうに装っている。だが、その額と頬は、汗に濡れていた。
「ありがとうございます。すぐに持ってきます」
「悪いわね」
「いえ。大丈夫です」
 エリナが「悪いわね」などと言ったのが、私には信じられなかった。常に上から目線な彼女のことだから、優しくとも「さっさとしなさいよ」くらいは言われるものと思っていたのだ。
 私は急いで手洗い場へと走った。上から一段目の引き出しを開け、その中から真っ白なタオルを取り出す。後から再び取りに走るのも面倒なので、一応二枚持っていくことにした。
 使わなかったら後でここへ返せばいいだけのこと。さすがに怒られたりはしないだろう。
 次は台所へ移動する。近くに偶然洗面器があったので、それをポットのところまで持っていく。洗面器に十分お湯を入れ、エリナとナギのもとへ急いだ。
 たまには役立たなくては。

 ナギはエリナをソファに座らせていた。
 私がタオルとお湯の入った洗面器を持っていくと、ナギは「助かったっす」と何度も繰り返してくれる。悪い気はしない。
 それからナギはエリナの足首を軽く拭き消毒する。負傷が多々あるエリミナーレという職業ゆえかもしれないが、ナギは手際よく処置を進めていっている。
「ナギさん、慣れた感じですね」
「そう?そんなこと言われたことないっすよ。まぁ普通よりかは慣れてるかもしれないっすけど」
「どこかで習ったとかですか?」
「いやいや。エリミナーレ入ってから自然にできるようになった感じっす」
 話しながらも淡々と作業を進めていく。先ほどまでのようなドタバタ感は微塵もない。
 途中エリナは何度か顔をしかめていた。
 私は自分がエリナを心配していることに今さら気づく。散々嫌みを言われてきたのだから、ほんの少しぐらい「ざまぁみろ」と思っても良さそうなものだ。しかし、そのような感情はまったくなかった。むしろ今までより心の距離が縮まったように感じるほどだ。
「エリナさん……大丈夫そうですか?」
 そのせいか、優しい言葉が自然と出ていた。
「貴女に心配されるような怪我じゃないわ」
 言葉こそ素っ気ないが、声色はいつもより柔らかい。
「でも痛そうです。きっと私だったら泣いてると思います」
「そうね。泣いて済むならまだ軽傷の範囲内よ」
「軽傷……じゃあ重傷なんて想像するのも怖いですね」
 そんな細やかでどうでもいいような会話をしていると、ふと、彼女の横に置いてある黒い鞭が視界に入る。茜の首に巻きつけていた鞭だ。
 この時代に鞭なんてどこで入手したのだろう。ネット通販でならあることはあるだろうが、それでもここまで本格的なものはないと思うのだが。
 色々と考えながらじっと見つめていると、エリナが声をかけてくる。
「これが気になるの?」
「すみません、つい……」
「謝る意味が分からないわ。沙羅はこういうのが好き?今日なら特別に触らせてあげてもいいのよ?」
 彼女は黒い鞭を手に取り、こちらへ差し出す。
「興味があるなら触っていいわ」
「そんな。結構です」
「何よ、つまらないわね。鞭を持った沙羅なんて、違和感ありすぎて面白そうだと思ったのに」
 結局彼女の暇潰しに使われているだけなのかもしれない——だが、それはそれで悪い気はしない。
「嫌なら別に構わないわ、無理を言う気はないもの。……ただ、一つだけ教えておいてあげるわ」
 エリナの茶色い瞳が真っ直ぐにこちらを見据える。彼女の瞳は吸い込まれそうな色をしていた。
「世の中には、一度逃すと二度と手に入らなくなるものもあるのよ」

Re: 新日本警察エリミナーレ ( No.84 )
日時: 2018/01/01 17:24
名前: 四季 ◆7ago4vfbe2 (ID: AwgGnLCM)

46話「この感情だけは」

 茜と紫苑はなんとか返り討ちにできた。返り討ちという表現が正しいのかは分からないが……。
 エリナの部屋は爆破によって窓が割れてしまっていた。思ったより小さな爆発だったのか、出火はしておらず安心する。しかしそれでも、修復が完了するまで、普通に暮らせる状態では到底ない。
 そこでエリナは、窓ガラスが直るまで、しばらく和室で暮らすことにした。リビングのすぐ隣、誰も使っていない、畳が敷かれた部屋だ。

「あら、本当に来たのね。驚きだわ」
 呼び出されて和室へ行くと、第一声はそれだった。
 私はエリナの手当てを担当していたナギから、「エリナが呼んでいる」と聞いたため、和室へ向かったのだ。なのに来るなりこれだ。
 もし相手がエリナではなく同い年の者だったなら、「呼んでおいてそれはない!」と、怒りを露わにしていただろう。
「もしかして呼んでられませんでしたか?」
 ナギの勘違いだったという可能性も考慮し、落ち着いて返す。するとエリナは口角を持ち上げた。
「いいえ、呼んだわよ。ちょっとした冗談だから気にしないで」
 冗談のつもりらしい。言われる側としては、真顔で言われると冗談だとは思えない。だが、感じ方の差というはよくあることなので、あまり気にしないようにした。彼女が冗談のつもりだったのなら、たいして気にすることもないだろう。
「分かりました。それで、私に何か用ですか?」
「えぇ」
 それにしても、畳とエリナ、この組み合わせはしっくりこない。エリナはどちらかというと女王様な雰囲気が強いからだと思う。
「貴女、武田に告白しないの?」
 エリナは単刀直入に尋ねてきた。
 私は唖然として、暫し発する言葉を見つけられなかった。いくらなんでもこれはストレートすぎる。同じことを話すにしても、一言前置きくらいはしてほしかった。
 もっとも、今さらそんなことを言ったところで何の意味もないのだが。
「武田のこと、好きなのよね。どうして伝えないのかしら」
 私の恋愛事情なんてエリナには関係がないはずだ。それなのに、どうしてこうも踏み込んでくるのだろう。いつも不思議でならない。
「そんなすぐに伝えられるわけがありません。少しずつゆっくりでないと……」
「沙羅。貴女はただ逃げているだけではないの?」
 エリナの言葉が胸の奥をチクリと刺す。縫い物をしていて針が指に当たってしまった時のような、小さいけれどしばらく消えない痛み。
「拒否されるのが怖い。だから伝えないのね」
 まだ痛む胸の奥を、エリナの言葉がさらに抉った。これほど突き刺さるのは、彼女の発言が的を得ているからだろう。
 私は彼に拒まれることを恐れている——その通りだ。
 武田は私のことを仲間だと思ってくれていることだろう。最近はよく気にかけてくれるし、私が巻き込まれた時には心配もしてくれた。エリミナーレのメンバーとして彼が私を大切に思ってくれていることには気がついている。
 けれど、だからこそ本当のことを言うのが怖くなった。
 せっかく普通の会話ができるような親しさになったのに、気持ちを伝えることでそれが壊れてしまうかもしれない。もしも「恋愛として好き」だと伝えることですべてが壊れてしまったら。仲間であることすらできなくなってしまったら……私は終わりだ。
 そんな恐ろしいリスクを考えれば、この気持ちを隠して今のままでいる方がずっと幸せだと、私はいつからかそう考えるようになっていた。
「武田さんは恋なんてしませんよね。こんな身勝手な気持ちに彼を巻き込むのは、私、やっぱり嫌です」
「……何なのよ、まったく。沙羅の武田への想いは、そんなに小さくてつまらないものだったというの」
 エリナは呆れたように溜め息を漏らす。
「貴女は本当に根性なしね」
 吐き捨てるように言われた時、私の中に何かもやっとするものが現れた。
 悔しいような、悲しいような。今まで体験したことのない得体の知れない感情。それは私の中にある言葉では言い表せないような、名前のない感情だった。
「つまらないわ。結局貴女の想いも所詮はその程度だったということ……」
「違います!」
 私は半ば無意識に叫んでいた。
 所詮その程度。何年も胸に秘めてきたこの感情を、そんな風にだけは言われたくない。
「確かに私は、嫌われることを恐れています。前へ進む勇気のない根性なしかもしれません。……でも!」
 ずっと変わらなかった。
 彼に助けられたあの日から、この感情だけはずっと。
「中途半端な気持ちでここまで来たわけじゃないです!私の武田さんへの想い、この気持ちだけは、そんな風に言われたくない!」
 学生時代、迷うこともあった。「もう止めてしまおう」と思ったこともある。
 エリミナーレでなくともいい。就職先なんていくらでもあるのだから。なんならアルバイトでもいい。普通に働いて、普通に遊んで。誰かと結婚して家庭を築き、平凡な人生を歩む。それでいいじゃないか、と。
 けれども、あの日生まれた彼への感情が、それを許すことはなかった。
「私は武田さんのことが好き!これだけは誰にも傷つけさせない!」
 諦めかけるたび、彼の手の感触が鮮明に蘇った。
 ただ一度しかない天月沙羅という人生を、どこにでもあるような平凡な幸せで終えていいのか。せっかく手に入れた道標を簡単に手放していいのだろうか。
 そんなことを繰り返すうちに、私の心は固まっていった。そして、それは今も変わらない。
「だから、その程度だなんて言わないで!!」
 言い終えて数秒してから、私はハッと正気に戻る。目の前には驚き顔のエリナ。私はエリナになんてことを……。
 これは絶対怒られる。一歩誤ればクビになる可能性もある。
 私はあまりに恐ろしくて、エリナの方を見られなかった。前回は怒られなかったが、今回は話が違う。なんせ直接怒鳴ってしまったのだから。
「……面白いじゃない」
 一分ほどの沈黙の後、エリナが口を開いた。
「えっ?」
 予想外の言葉に驚いて顔を上げる。
「それが貴女の本性なのね。よく分かったわ」
「え?えっ?」
 エリナはその大人びた顔に、自然な笑みを浮かべていた。
 微笑む意味が理解できず、ただ「え?」しか言えない。ただひたすらに繰り返してしまう。その時の私は、きっと凄く情けない顔をしていたと思う。
「意外と言えるじゃない。日頃の大人しいのは被り物ってわけね」
「すみません……ついカッとなって……」
「気にすることはないわ、そっちの方がエリミナーレに合ってるわよ」
 結局怒られなかった。彼女の怒る基準はいまだに掴めない。
「貴女なら武田を変えられるかもしれないわね」
 エリナはそう言って楽しそうに微笑む。まるで、変えてほしい、と願っているかのように。