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コメディ・ライト小説(新)
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.132 )
- 日時: 2023/05/28 14:06
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第120次元 前進
施設の案内役を任されていたコルドが急な呼び出しで外してしまったので、キールアは言い渡された通り、資料室の中で彼の帰りを待っていた。資料室には本棚が所狭しと並んでおり、棚と棚の間は1人の人がやっと通れるほどの狭さである。キールアは長机の上に、次元の力に関する資料を広げてそれらを読み耽っていた。
紙面に集中していたためか、扉が開いた音に気がつかなかった。ふらりと人影が長机に寄ってきて、キールアの正面の椅子に腰をかけると、彼女が必死に読み込んでいる本を覗き込んだ。
「なに読んでんの」
「ひゃあっ!」
突然、声をかけられてキールアが顔を上げると、目の前には金色の睫毛を伏せているレトヴェールの姿があった。彼はキールアの声にぎょっとして目を瞬いた。
「……。悪い、そんな驚かせるつもりはなかった」
「ううん、ご、ごめん大きな声出して。なにか用事?」
「コルド副班が廊下を急いでったのが見えたから、お前が1人なんじゃないかと思って。近くを通りかかったついで。……それ、基本資料じゃん」
机上に置かれている本の表紙や紙面に目をやってからレトがそう指摘する。本の題目には「次元の力」やら「元力」やらの文字が並んでいた。
驚くついでに両手で掲げてしまった1冊の本をゆっくりと下ろしながら、キールアは「うん」と答えた。
「わたしは、次元の力を持ってはいるけど、詳しくはなかったんだよね……。『癒楽』のことしか知らないから、ほかにはどんな力があるんだろうとか、そもそも元力の扱い方って定義があるのかな、とか。知っておく必要があるかなって」
「熱心だな」
「……だって、そういう班なんでしょう? この戦闘部班って」
「まあ。組織の説明受けたならもう教わっただろうけど、この部班の立ち上げには政会が絡んでる。「次元師の育成および次元の力の正しい知識を与えるのが目的」ってことで成り立ってるからな。勉強しとけば、政会から妙な絡み方されることもない。まだ詳しく明かされてない部分のほうが多いから、大した資料はないけどな」
「そうなんだ……。言われてみればたしかに、本棚をいろいろ探したけど、資料は少なかったな。レトヴェールくんは、いろいろ知ってる? たとえば元力って詳しくいうと、どういうものなの? 精神力……? でも体内にある感覚はするんだよね……。どう思うかな」
キールアは本を胸に抱えて、ずいっと身を乗り出した。
しかしレトはそれには応えず、急に黙りこんで、キールアの目をじいっと見つめていた。
「……」
「レトヴェールくん?」
「長いだろ。ロクみたいに呼んでいい」
「え?」
「名前」
キールアは指摘されて、目をぱちくりさせた。一瞬、なんの話だかわからなかったのだが、レトの言葉の意図に気がつくと、冷や汗を飛ばしながら返答した。
「でもずっと、「レトヴェールくん」って呼んできたから……急に、ロクみたいに呼んだら、変じゃないかな」
「ここの連中はほとんどそう呼ぶし、慣れた。面倒じゃないならいいけど」
「……」
キールアは黙りこむ。真剣に葛藤をしていた。友人になりたいと返事をした以上は歩み寄りの精神が必要不可欠なのではないだろうかとか、しかしいきなり愛称で呼び捨てるなんて気安すぎるのではないだろうかとか、だがわかりやすく呼び名から変えてみるというのは仲を深める一つの手段として……と云々考えているうちに、思考の沼にはまりかけて、慌てて彼女は口を開いていた。
「……れ、レト、くん」
「……」
「……」
「ん。それでいい」
そう言ったレトの口元は、ほんのわずかに笑っているように見えた。さすがに「レト」と愛称で呼び捨てる勇気はなく、キールアは視線を逸らしてしまう。どちらからともなく黙りこんで、しばらくして、ふとした折に「なんの話だっけ」とレトが本を覗きこんできた。
そんなときだった。資料室の扉のほうからどたどたと慌ただしい足音が近づいてきた。同時に、頭にきんと響くような甲高い声が飛んでくる。
「ああ〜〜!! こんなところにっ、え!? レトいるじゃん! あたし抜きで2人でいたの! ひどい! 呼んでよーっ!」
「……うるせえのが来たな……」
レトとキールアの前に現れるなり、ロクアンズは机をばんばんっと激しく叩いて、若草色の長髪を揺らした。不満げに頬を膨らませるロクは、キールアの入隊の報せを耳にして左目が飛び出るほどに驚いていた。また、もっとも喜んだのも彼女だった。
興奮しきっているロクを、キールアが「まあまあ」と嗜める。
「ロク、もしかして探してくれたの?」
「そうだよー! あたしだって、あたしだって、キールアにここの案内したかったのに……コルド副班に横から取られたんだもんっ」
「いやお前、たしか任務で東方に発つんじゃなかったか? こんなところで道草食ってないでさっさと行けよ。フィラ副班に怒られるぞ」
「ひど! ひっさしぶりにキールアに会えたんだよ!? 冷たすぎない!?」
「俺はしばらく本部に滞在するから」
「薄情〜〜者〜〜!」
ロクはレトの胸ぐらに掴みかかる勢いで彼に迫った。義兄妹のやりとりを目の当たりにして、キールアが苦笑をこぼす。
第一班はしばらくエントリアに滞在するようにと、セブンより言い渡されている。大きな理由はコルドの療養のためだ。セブンの意向により、キールアはまだどの班にも属しておらず、コルドの左肩が完治するまで彼女は本部に滞在する見込みだ。レトがキールアを連れて独断で逃走した件については、こっぴどく叱られたものの、十数日間の自室謹慎後に解放された。
ロクとレトの応酬は一向に止まず、むしろ加速していき、いよいよレトが分厚い本を手に取ってロクの頭に下してやろうかと掲げたところで、フィラが資料室に入ってきた。ロクが「げ」と眉をひくつかせたが抵抗も虚しく、出発の準備のためにと回収されるまでは速かった。
フィラに首根っこを掴まれて資料室から引きずり出されようとしたとき、ロクはキールアに向かってぶんぶんと両手を振って、声をかけた。
「キールア〜! 任務から戻ってきたら遊びに出かけようねっ! ぜったいだよ〜!」
「うん、またね」
キールアもひらひらとロクに手を振って、笑顔で見送った。
3年前。家族を亡くし、エポール宅で一晩を過ごしたあと、突然出て行ったものだから心配をかけただろう。キールアは引け目に感じていたのだが、ロクは深く追求してくることはなく、変わらずに接してくれた。もしロクが本部に帰還したら、エントリアの街をいっしょに散策するのを提案してみようか、なんてキールアはふと考えついて、想像して、口元を緩ませた。
「相変わらず元気だね、ロク。ぜんぜん変わってない」
「ああ。悪い方向でな。いつもどこでもあの調子」
「悪い、って。あれがロクの良いところだよ」
レトは嘆息した。それからふいに、周囲を見渡した。
完全に人の気配がしないのを確認してからレトは、上着の懐から小さな布袋を取り出した。
「……あのさ、お前に頼み事があって」
「え?」
キールアは目を瞬いて、取り出されたその布袋に視線をやった。外見はただの布袋で、なんの変哲もない。キールアがまじまじと見つめていると、レトはその布袋の紐を解いて、中を開いてみせた。
布袋の内側には細い葉が何枚か重ねて敷かれていて、それらがまたさらに、黒い粉末状のものを包んでいた。
「……な、なに……? この黒い粉は……?」
「俺もわからない。だからお前に調べてほしいんだ。……これが、いったいなんなのか。ただし周囲には言わないでくれ。あくまでも、俺とお前の秘密で」
「どうして?」
レトは、眉を顰めた。この話をすると決めていたのに、言葉に詰まって、間を置いてしまう。話しにくそうに、彼は重い口を開いた。
「……母さんが亡くなった。お前が俺たちの家から出ていって、そのあと。カウリアさんが薬を処方してくれてたけど、そもそも、病じゃなかったことがあとからわかった。神族と関わりがあったらしくて、神族にかけられた"呪い"で死んだんだ。遺体から呪いを受けた痕跡も見つかってる。……けど、神族のやつは、『自害』だと言っていた。俺は信じてない。だけど母さんの部屋の、鍵のかかった机の引き出しからこの黒い粉末が出てきた。俺はどうしても、これがなんなのかを知りたい。なんで神族と関わりがあったのか、呪いをかけられたのか、その答えが、ここにある気がする。俺は、この手のことはまったく詳しくないから……お前に頼みたいんだ」
「……」
キールアはおそるおそる手を出して、布袋の縁を指先でなぞった。
エアリスには随分よくしてもらっていたし、家族を喪った日からあとも、優しく励ましてくれた。美しく、貞淑で、女の憧れのような人だった。キールアは、結局、母の薬でも助けられなかった事実を受けて悲しんだが、目尻に力を入れて我慢をした。
「病気じゃなくて、その……呪いでずっと体調が悪かったの……?」
「ああ」
「……そう、亡くなっちゃったんだね、エアリスさん……。すごく良くしてもらったのに、なにもできなかった……」
「お前が気にすることはない。死期は、決まってたんだ。……じつをいうと、言いにくいんだけど、お前に言っておきたいことがもう一つあって……」
「なに? もう一つ調べ事?」
「いや。その呪いの話だ。母さんが亡くなったときに俺も、その神族から……呪いを受けた」
「えっ? うそ、そんな! それも……死んじゃう呪いなの!?」
キールアは椅子の音を立てて、思わず立ち上がった。レトは彼女の顔を見上げながら、宥めるように言った。
「すぐにじゃない。──『5年で命を落とす』と奴は言ってた。……あれからもう3年半くらい経つが、5年が経過する前になんとかしたいと思ってるところだ。あとこの話を知ってるのは、ロクと、お前だけ。隊の人間に話せば、最悪班から外されるから話してない。だから俺の身になんかあったときは、できるだけお前に任せたいんだ。極力、隊の人間にバレたくないからな」
「……」
衝撃の告白にキールアが目を白黒させて、返答しかねていると、そのとき部屋の扉が開かれる音がした。だれか入ってきたのかもしれない、と2人は身を強張らせる。室内に足音が響きだして、レトは声をひそめてキールアに念押しした。
「とにかく、任せてもいいか?」
「わ、わかった」
キールアが懐に布袋をしまいこむとすぐに、足音の主が顔を出した。本棚の間を縫うようにして現れたのはコルドだった。彼は、静かに椅子に腰かけているキールアを目にすると、眉を八の字に曲げた。
「待たせてしまってすまない。……なんだレト、お前もいたのか」
「……暇潰し」
「とんでもないです、コルド副班長さん」
レトは椅子を引くと、立っているコルドのほうに身体を向けた。
「副班、今日の案内ってどのくらいで終わんの」
「このあと鍛錬場を案内して、あとは西棟がまだだったか。一度にすべて回っても頭に入らないだろうからな。今日はそのくらいだ」
「……ふーん。そのあとでもいいから、頼みたいことがあるんだけど」
「頼み? もし急ぎなら、言ってくれればすぐに対応するが」
レトは緩く首を横に振って「いや」と断ると、真剣味を帯びた表情をして、コルドに言った。
「手が空いたときでいい。ギルクス邸に紹介状を送ってくれないか。数日……いや、1日でいい。剣術の指南を受けたい」
コルドは目を瞬いた。
ギルクス侯爵家は現代では、政会お抱えの軍部に在籍している者が大半で、また当主は剣術の指南役に就任している。もとはエポール王家に仕える王国騎士団を台頭していたのだが、王政廃止後、騎士団は政会に帰属するようになったのだ。
たしかにギルクス邸には武術や馬術の訓練場が備わっている。とくに現当主の息子で次男にあたるシェイドは幼い頃から武術に秀でていた。コルドはぼんやりと思い出しながら、頷いた。
「……それは、構わないが。以前にも言った通りだ。期待はしないでくれ」
「ああ。勘当されてるんだったな」
「もうすこし言葉を選んでほしかったな。俺の柔らかいところに刺さる……。しかしまあ、その件は母上に相談してみよう」
この日のうちにコルドはギルクス邸に向けて紹介状を送った。数日後、コルドの母親らしき人物から色の良い返事が返ってきたので、第一班の2人はセブンに十数日間の外出許可を申請した。
此花隊では、ある程度の期間、勤務をすると隊員それぞれに休暇日を与えられ、各班長に申請する形で取得する。だがレトもコルドも、どちらかといえば休暇日を持て余す部類の人間だったので、これまでろくに休暇日を取得したことがなかったのである。それも加味して、鍛錬のためならとセブンから了承が下りた翌日に、2人はエントリアを発った。
道中、レトとコルドを乗せた荷馬車の中で、コルドがため息をつきながらこんなことを吐いた。
「しかし……少々不安だな。母上からすぐに返事がきたのもそうだが、まさかあっさり受け入れられるとは思わなかった」
「母親には敬遠されてないんだろ。姓をもらったくらいだし」
「……母上にはな。これは悪い予感というやつなんだが……母上、俺が送った紹介状を、父上には見せたんだろうか……」
「……」
一抹の不安を残しながら、2人を乗せた荷馬車は、北東に位置するホークガン領──その領地を治めるギルクス邸を目指して北上していったのだった。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.133 )
- 日時: 2023/06/11 12:26
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第121次元 門前
メルギース国において五大領地と呼ばれている各領地の名称は、領内でもっとも発展している街町の名から取られている。北東を占めるホークガン領も、喧騒の街ホークガンが中心街とされている。
喧騒の街、というのは読んで字の如く、ホークガンは古代に建設された闘技場をはじめとして多くの賭場や武器屋、そのほか娯楽施設が立ち並んでおり、日夜ともに賑わいが絶えない。
人の行き交いが激しいので、はぐれないようにとコルドはレトヴェールに言って聞かせた。そんなコルドも、到着して早々に闘技場の観戦客に絡まれ、厄介を被っていた。
「おぅいそこの黒髪のニイちゃん! いいガタイしてんじゃあねえか。どうだい、腕に自信があるんなら会場に上がんな! ちょうどいまどこぞの若い農夫が連勝中でさあ。アンタに賭けてやるから、な。悪い気はしねえだろう」
「申し訳ありませんが、ガタイばかりで、腕には自信がないもので」
「チッ。性根のねえ男だなあ」
絡んできた男はわざとらしく舌打ちを鳴らして、足を放り出しながら離れていった。どうせ勝てれば花でも吹雪かせて胴上げ、負ければ好き勝手に罵詈雑言を浴びせれるのだろう。コルドは生まれ育った街をよく理解しているからか特別困った顔はしなかった。レトはというと、どこからともなく聞こえてくる罵声や歓声に気圧され、人ごみにも揉まれ、住民の男とのすれ違いざまに大振りな武器に背中を打たれなどし、ホークガンの洗礼を受けていた。
街の中央から離れた土地にギルクス邸は建っていた。背の高い鉄城門の前に、屈強な男が2人、門番として立っている。門番の目の前にコルドが歩み寄ると、門番は持っている鉄槍をお互いに交差させて、鋭い声で訊ねてきた。
「何用でございますでしょうか。名を」
「コルド・ヘイナーと申します。数日前に、リランテス夫人に書状を送っております。用事がありまして、一時帰宅いたしました」
「は? ……ああっ、も、申し訳ありません、コルド様。本日ご帰宅されるとは伺っておりましたが、何分、本日は人の出入りが多いもので」
「いいえ。お気になさらないでください」
「ど、どうぞ、中にお入りください」
門番は慌てて鉄槍を退いて、門の錠を解くと、レトとコルドを庭園の中へと促した。
ギルクス邸の庭園は、広いながらも庭師の手入れが申し分なく行き届いており、足を踏み入れた瞬間からため息が漏れそうだった。植えられた草花は、色も形もさまざまに咲き乱れ、花弁に乗った朝露が太陽の光を受け、宝石のようにきらめいている。来客があれば、さぞ喜ばれる景観だろう。ギルクス家といえば元を辿れば王国騎士団団長の血統であるため、武術に秀いで、国のために命を惜しまないという厳格な印象が色濃い。だからこの庭園の美しい景観はそれこそ、夫人の好みなのだろう。
レトとコルドは、門番に付き添われながら屋敷の門前まで辿り着く。ウーヴァンニーフのツォーケン家の屋敷とは違い、上の階層はなく、惜しみなく敷地面積を利用した幅のある平屋の造りになっていた。訓練場は屋敷よりもさらに奥に建てられているらしく、庭からちらりと塀の高い建物が見えた。
門番が屋敷の扉から奥へと消えて、しばらく待機していると、ぎぃと重い扉の開く音が立った。
扉の奥から、壮年の男が1人、現れる。男はコルドの顔を見つけるなりつかつかと足早に近づいてくると、問答無用で鞘ごと剣を引き抜いた。次の瞬間には、柄頭でコルドの脳天を強打し、その拍子に彼は地面に倒れ伏した。
引き抜いた鞘を腰元に納めると、身の毛がよだつような深い低音があたりに響いた。
「どの面を下げて帰ってきた、木偶の坊め。いまさら一族の姓が惜しくなったか」
「……」
ギルクス侯爵家の現当主、ディオッドレイ・ギルクスは、武道家の長に恥じない高い背丈といかった肩、鋭い眼光を併せ持っていた。なによりも、肌色を曝け出した丸い頭部には大きな傷跡が刻まれており、余計に威圧さを感じさせた。
左腕を庇ったために、コルドは変な姿勢で転がってしまったが、起き上がるのは素早かった。さっと地面に膝を立てると、彼は首を垂れた。
「滅相もございません、ギルクス侯爵様。本日は、リランテス夫人にご協力賜りまして、ある部下の剣術指南……いえ、訓練場の見学でも構いません。どうかお引き受けいただけないかと申し……」
「俺に隠れてこそこそと、なにをあいつに泣きついた。身体ばかりで中身は大して変わらぬようだ。一族の主は誰だ。この家に用があるのなら俺を通せ。軟弱なお前のことだ、どうせ俺には物一つとして言えぬのだろう」
話の途中で切り込んでくる悪癖は健在だ。声色も物言いもかなり高圧的ゆえに、屋敷に出入りする従者や訓練兵たちの悲鳴も絶えない。ディオッドレイを前に怯まずにいられるのは息子の中でも長男と、それから妻であるリランテスだけだ。
例に漏れず、コルドも口を結んでいた。
「神の一柱を崩しただなんだと、それで鼻高に褒賞でも受けにきたつもりか。自惚れるな。口惜しくもお前にも一族の血が流れている。ならば、そのような布を下げてくるな。だから軟弱だと言っているのが、まだ理解らないか」
ディオッドレイは、コルドが首から下げている三角巾を睨みつけて言った。白い三角巾はいまだ動かないコルドの左腕を支えている。手指は自在に動くようになったとはいえ、ここで握り拳を作ってみても、めざとい父には「情けない」と一蹴されてしまうだろう。コルドは頭をもたげたまま、静かにしていた。
そのとき。玄関の扉の奥からもう1人、幾重にも衣を纏った女が現れた。女は数歩、歩み出てくると、目を丸くして口元で両手を重ねた。慌てたように薄桜色の豊かな髪を揺らしながら、女はディオッドレイの服の袖にしがみついた。
「あらっ。いやですわ、あなた。愛しい我が子が、せっかくお顔を見せに帰ってきてくれたのに、そんなひどいことを仰らなくたって。コルド、着いていたのね。帰ってきてくれて母は嬉しいですわ。お顔を上げて頂戴」
「お前がそのように甘やかすから、こやつは逃げ道ばかり覚えたのだ。なぜ門を通した。敷居は跨がせないと、お前の前でも誓わせただろう」
「まあ、そんな。いったいいつのお話? また追い出しちゃ、コルドがかわいそうですわ。それに今日はわたくしの客人ですのよ。あなたが相手をして、コルドに嫌味ばかり言うなら、わたくし黙っていられませんわ。我が子の顔も見たくないのなら、お仕事でもなさっていて」
袖を掴まれた手をのけないのは、彼女がディオッドレイの妻、リランテスだからにほかならない。リランテスは愛くるしく垂れた目元で、じっ、とディオッドレイを睨んでみせた。もちろん怖さの欠片もないのだが、ディオッドレイは妻にまで怒号を浴びせたりはしなかった。
ディオッドレイは妻をひと睨みし、それからコルドにまた視線をやったときに初めて、レトの姿を認識した。
尖っていた目が、ふと丸みを帯びる。
ディオッドレイは一拍黙ったのち、レトに訊ねた。
「……。そなたは」
「お初にお目にかかります。さきほど、ご紹介に預かりました。此花隊ではコルド・ヘイナー副班長の下についております」
傍から呆然と親子喧嘩を見守っていたレトは、声をかけられると、姿勢を正して礼をした。一つに結んだ金色の髪が肩口からさらりと垂れる。コルドに倣って膝をつこうとしたレトに、ディオッドレイが手を挙げた。レトは膝をつかずに、たたみかけた背筋を伸ばした。
ディオッドレイはレトから視線を外すと、踵を返した。
「また俺の目に入ってみろ。お前が何と喚こうと叩き出すぞ」
そう言葉を吐きながらディオッドレイは屋敷の中に入ってしまった。
リランテスは、コルドの傍らまでぱたぱたとやってくると、ゆったりとした幅のある袖の中から、白くて細い手指を伸ばした。コルドが差し出した手を、彼女は真綿にでも包むかのようにやわらかく握り、そうして彼を立ち上がらせる。
「大丈夫? かわいそうに。お顔をもっとよく見せて、コルド」
「ご心配には及びません。それよりも、ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。コルド・ヘイナー、ただいま帰宅いたしました」
「そんなにかしこまらないで。親子でしょう? それよりも……コルドったら、上背もあの人みたいにとっても立派になって。うんと男前になったみたい。あっ、そうだわ、コルド」
リランテスはコルドの手を握ったまま、少女のように目を輝かせながら、続けた。
「あなたが神族の一柱を討ったというのは、本当なの? その話題でもう、しばらくは持ちきりでしたのよ。我が一族から神族を討つ子が現れるだなんて、なんと名誉なことかしら。ねえ、コルド、数日泊まってゆくのでしょう。豪華な食事を用意させますから、あなたも出席して頂戴。皆、話を聞きたいでしょうし、兄たちもきっとあなたに会いたがっているはずよ」
「それは……本当でしたら、身に余る光栄ですが」
そう返しながらもコルドは、やんわりと母の手から逃れた。しかしリランテスはまったく気にしていない風で、べったりとコルドに寄り添ったまま、屋敷の中へ入るようにと急かした。
親子のあとについていけば、ふんわりとあたりを漂う甘い花の香りがレトの鼻についた。夫人が香水をつけているのだろう。厭らしくはないのだが、女気の強さに眩暈がしそうだった。
リランテスは身に纏う香水のみならず、とにかく話し方も性分も、あらゆる面で甘すぎるきらいがある。じつのところ、実母でありながらリランテスの相手をするのがコルドはやや苦手だった。嫌っているのではない。むしろ、幼い頃からコルドを過剰に甘やかしてきた主な人物が、リランテス夫人なのである。それを真っ向から享受してきたコルドはついぞ、父から堕落者の烙印を押されるに至ったのだが、母のせいにするのは気が引けた。だから彼女を否定こそしないが、距離も考えなければならないのだ。
コルドは、屋敷内の広い廊下に敷かれたカーペットの上を歩きながら、いたって穏便に断った。
「しかし、さきほど父上からも言われてしまった通り、夕餉にご一緒するわけには参りません。あの方はそうと決めたら実行される御方です。食事の席に俺がいたら、たとえ夜更けであろうと叩き出されるでしょう。……ご提案は大変嬉しゅうございますが、どうぞ俺にはお構いなく。夕食は適当な場所でとります。母上が、父上から睨まれてしまうのは、本意とするところではございません」
「まあ、コルド……あなたって子は。こんなに良い子に育っているのに、どうしてあの人はコルドを除け者にしてしまうのかしら。わたくし、とっても悲しいわ……。やっぱりあの人がわかってくれるまで、わたくしからきつく言うべきなのだわ。そうよね。そうなのだわ」
「い、いいえ、母上。本当に、構わないのです。それに今日は、休息のための里帰りではなく、部下に稽古をつけていただきたくて参った次第です。ええと……指南役はどなたか、引き受けてくださりましたでしょうか」
コルドは慌てて、それとなく話題を逸らす。すると廊下の奥から、かつかつと小気味のいい音がして、コルドもレトもそちらを向いた。
つられてリランテスも顔を向ければ、「まあ」と花が綻ぶように破顔した。
「シェイド。ちょうど良かったわ。もうじき、朝の鍛錬が終わる時間でしょう? コルドの頼みを聞いてあげてほしいのだけれど」
「……シェイド兄様」
コルドも思わず、慣れたように名前を口にした。シェイドと呼ばれた黒髪の男は、わかりやすく不機嫌そうに眉を顰めて、コルドを睨みつけた。
「……なんだ、破門にされた恥晒しが。いったいどういうつもりでここへ来た」
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.134 )
- 日時: 2023/06/25 20:15
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第122次元 ギルクスの血
視線の鋭さと容赦のない物言いは、父親譲りなのだろう。レトヴェールは一目で察しがついた。
シェイド・ギルクスは、ディオッドレイの息子であり次男にあたる。四兄弟の中でも群を抜いて武術に秀でており、まるで現当主の写し鏡のような男だ。父と似ていないのは頭髪くらいで、シェイドは胸元まで伸びた黒髪を一つに束ね、高めの位置で結い上げている。
リランテスからも言及されていたが、稽古の最中らしく、シェイドは鎧を着用していた。腰元から提がっている鞘は鮮やかな青の塗料やら、金細工やらで装飾され、ギルクス家の家紋が彫られている。
シェイドは、目元にきつい色を帯びると、コルドに向かって言い放った。
「それに兄と呼ばれる筋合いはない。俺の弟はただ1人。末の愚弟は十数年前からいないものとしている」
「……失礼しました。シェイド・ギルクス様。差し出がましいとは重々承知の上でございますが、あなた様に折り入って、頼みがあるのです」
「……頼みだと? 軟弱者のお前の頼みなど、聞くと思ったか。図々しい。いますぐ俺の視界から消えるんだな」
「おやめなさいっ、シェイド。あなたって子は。コルドが萎縮してしまいますわ」
「しかし、母上。この男は……」
「もう、だめよ、今日はわたくしの客人なの。みんなして、寄ってたかっていじめないであげて。頼みも聞いてあげて頂戴」
「……」
シェイドは眉をひそめて、リランテスと睨み合った。しばらく、次男と夫人との視線の間にはばちばちと火花が散っていたのだが、やがてシェイドのほうがふいっと顔を逸らした。
物言いたげたな目は相変わらずだが、シェイドは、コルドにこう問いかけた。
「だれのなにをしろと言った」
「聞いていただけるのでしょうか」
「用件による。早く話せ。くだらない内容だったら斬って捨てるぞ」
「シェイドったら」
母の甘い諫めも聞かずに、シェイドはぎっ、とコルドを睨んでいる。恥晒しやら軟弱者やらと罵っているシェイドだが、まだコルドが勘当されるより以前からこの態度は変わっていない。侯爵家の次男として生まれた以上、長男より前へ出ないよう、また下の三男や四男よりは必ず秀でていられるように緻密な努力が必要だったシェイドの立場からすれば、四男で末弟のコルドの存在は目に毒だった。母や従者たちから飴ばかり与えられ、道を歩くときでさえ先にある小石を丁寧に取り払われ、何の責任も努力も問われない、綺麗な衣を被っただけの食い扶持。そうとさえ思っていた。だから父であるディオッドレイがコルドを殴って門前までつまみ出し、姓さえ取り上げた瞬間には手を叩いて喜んだものだ。
そんな腑抜けの末弟が突然帰ってきたかと思えば、用があると頭を下げてきた。その用件の内容に、シェイドは眉間の皺を深める準備さえしていた。
「部下に剣術の指南をいただきたいのです」
「部下だと? 軟弱者が、一丁前に部下など……」
コルドが頭を下げたときだった。彼の背中に隠れていて見えなかったが、金髪の少年が傍に立っていた。
レトはシェイドの前まで出てくると、ここでも恭しく礼をした。
「……お初にお目にかかります。此花隊ではコルド・ヘイナー副班長の下についております」
「……」
シェイドは黙ると、頭の先から足先まで、じっくりとレトの姿を観察した。
それから、小さく息を吸って、おもむろに問いかけた。
「名は」
レトは瞼を持ち上げて、シェイドと向き合うと、名乗った。
「レトヴェール、と申します」
虚を突かれた顔で、シェイドはしばし呆然としていた。しかし気を取り直すと、くるりと踵を返し、この場から離れようとする。コルドが慌てて、シェイドの背中に声をかけた。
「シェイド様」
「気が変わった。ついてこい。遅れるな」
かしゃ、かしゃと鎧の鉄が擦れる音を立てながら、シェイドは廊下の奥へと向かっていった。レトはシェイドのあとを追うようにして歩きだす。ぽかんとしていたコルドだったが、彼もはっと我に返って、リランテスに一礼をすると、2人の後ろに続いた。
到着した訓練場は塀に囲まれており、日の当たる更地で、訓練生たちがまだ木刀の打ち合いに励んでいた。待機を言い渡されたレトとコルドは、場内でも端のほうに設置されている吹き抜けの通路の下で、太い柱に寄りかかりながら、訓練の様子を眺めていた。剣術の名門と謳われるギルクス家の敷地の半分以上を占める訓練場は広く、訓練生の数の多さも相まって、場内にはむわりとした熱気が立ち込めていた。訓練生たちは個人差こそあるものの、体格は鍛え上げられた者ばかりで、訓練の精度の高さが伺えた。
ややもすれば、訓練時間の終了を知らせる鐘が、あたり一帯に鳴り響いた。木刀を提げた訓練生たちが、疲れた身体を引きずりながら、まばらに退場していく。宿舎に戻る者もいれば、休息所で昼食を取ろうとしている者もいた。
「幼いときにはよく入り浸っていたものだ。剣はたいして振れなかったけどな。こうして大人になってから眺めてみると、よく統率が取れている」
「……」
「レト? どうかしたか」
「あ、いや。べつに」
「食い入るように見ていたな、お前も」
コルドは嬉しそうに笑った。朝早くから熱心に素振りをしているレトの姿を、コルドは何度か見かけている。もともと早起きが苦手だったレトに頭を悩ませた日もあったが、すっかり心配する必要がなくなった。
「ここに紹介状を出してほしいと言われたときも驚いたな」
「まあ、それは……」
「朝早くから稽古しているのも見かけるようになったし……。しかし、そういえば……お前が早起きするようになったのは、ロクと喧嘩をした直後からだったか……?」
レトは図星を突かれたように、一瞬、硬直すると、口を尖らせて顔を逸らした。
「……どれだよ。しょっちゅうあいつが突っかかってくるから、どれだか」
「はは。競い合える兄妹がいるのは、良いことだな」
訓練場からほとんどの訓練生がいなくなると、一足遅れて、シェイドが2人のもとに近づいてきた。彼は鎧は着ておらず、動くに不自由しない軽装だったが、しっかりと2本の木刀を手元に携えていた。
「始めるぞ」
「休息はよろしいのですか、シェイド殿」
「お前と一緒にするな、軟弱者。訓練の指揮など準備運動のうちにも入らん」
「……左様ですか」
指揮とは言うが、シェイド自身も訓練生たちの打ち合いに混じって、木刀を振るっていた姿は陽炎ではなかっただろう。とはいえ息も上がっていないし、平気を装っているような顔つきでもなかった。おそらく本当に疲弊していないのだろう。
シェイドが、早速レトに木刀を差し出そうとするが、レトはそれを断った。
「特殊なもので。真剣で頼みたい……んですけど」
「……その鞘は見間違いか。剣が差さっていないではないか」
「いや。ちょっと、失礼」
レトは、腰元から提げてある空の鞘に指先だけで触れると、シェイドから距離を取る。一瞬、空気は張り詰めて、ひんやりと冷えた。
軽く息を吸い込むと、レトは慣れたように詠唱し、『双斬』を呼ぶ。
「次元の扉、発動──『双斬』」
なにもない空間から一対の双剣が出現すれば、さすがのシェイドも目を丸くした。ただ、次元の力がどういった存在かは理解しているためか、それ以上驚くことはなかった。
「……。噂に聞く、次元師とやらだな。……こいつの部下というからには当然か。失礼した」
「いいえ」
シェイドはなかば乱雑に、コルドの胸元に2本の木刀を押しつけた。コルドはそれを受け取ると、レトとシェイドからは離れた位置に立っている柱に寄りかかった。
間もなく、シェイドが真剣な目をして切り出した。
「では、手並みを拝見といこう」
どちらからともなく剣の切っ先が浮くと、刹那。きんという甲高い金属音が鳴って、両者の刃がしのぎを削り合った。
刃と刃とが接近し、肉薄する。また金属音がして、どちらかが相手の刃を弾くと、空を切る音がしきりに立った。石畳の上では忙しなく靴底が音を鳴らす。
そうしてしばらく打ち合い、お互いの呼吸音のみに集中が高まってきた頃だった。ふとシェイドが口を開いた。
「つかぬことを訊いても」
「……? どうぞ」
「貴殿は、エポール一族の末裔なのでは?」
シェイドの顔は、思い切って口をしたように見えた。
けれども剣が振られる速度に変わりはなかった。レトの頭上から切りかかり、それを双剣が受け止めると、2人の剣にかかる力が鬩ぎ合った。重なり合った剣の隙間から、シェイドの真剣な顔が覗く。
「なぜ身の上を明かされなかったのです。貴殿がエポールの末裔だと知れれば、我らギルクス家の人間は、だれしもが貴殿の前で平伏し、貴殿の一言一句に余すことなく従いましょう」
「どうして、俺がそうだと」
「見紛うはずもございませぬ。その黄金が如き金の髪。金の瞳。珠玉の容貌とも称される、美しいお顔立ちは、まさにエポール王家の象徴。我々の一族は、幼い頃より、王制時代のエポール王家の肖像画を目に焼きつけるのです。貴方がたに仕えるべき、誇り高い騎士の血族なのだと、骨の髄まで叩き込まれる。そういう血が流れているのです。──我らが絶対の主、それはエポール王家以外には存在しない。政会の人間などではないのです……!」
ディオッドレイに挨拶をしたときのことが、ふとレトの脳裏に過ぎる。彼が自分の姿を見て目の色を変えたのも、エポール王家の血筋だと気がついたからだろう。
ギルクス一族の力も誇りも、王政廃止後、エポール一族から政会へと譲渡される形となった。150年という時間が経過しているが、驚くべきことに、ギルクス一族の忠誠心はどうやら政会に傾いていないらしい。
空席の王座の前で膝をつき、決して離れず、王を焦がれ続けているのだ。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.135 )
- 日時: 2023/07/09 12:39
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第123次元 業
("政会派"の国民は、俺たちを廃王家と揶揄するが……。このギルクス一族みたいな"反政派"も、いるにはいるらしい)
国を動かす権利が国王から国民に変遷すれば、大きく思想が別れることは、歴史上珍しい話ではない。メルギース国では政会陣を支持する"政会派"と、エポール王家復帰を支持する反政会派──"反政派"、それらの二翼に国民の思想は別れている。ただ現在は、神族や元魔の襲撃が相次ぐ時代の最中にいる。だから表立って王だの政会だのと騒ぎ立てるような事件が起こっていないのだ。相反する両思想も、神族の脅威の陰で、まだなりを顰めている。
(いまは、神族そのものが、メルギース国にとっての脅威だ。政会派であっても反政派であっても、神族は等しく敵。神を討つ、っていうたった一点において国民の思想が表向き一致している。……だから余計な内乱が起きてない、に過ぎないんだろうな)
たしかに反政派のギルクス一族の前で、己がエポール王家の血族であると声高に掲げれば、わざわざコルドに頼んで紹介状を書いてもらう必要などなかったかもしれない。
しかしレトヴェールは、シェイドに熱弁をされたところで、良い顔をしなかった。金色の長い睫毛を一度伏せて、しっかりと瞳を開くと、答えた。
「それじゃあ意味がない」
「意味? 意味とはなんでございましょうか。貴殿がエポールの血族であり、我々は貴殿に付き従うと、この血と魂に記憶されている。これ以上に説明の必要なことがよもやあるとは思えませぬ」
「俺はただ、剣術を学びにきた。それ以外の目的はない。……次元の力を使えるだけじゃ足りないんだ。使いこなすための術が必要だ。それを極めた人間から見て、認められるような、剣士にならなきゃいけない」
「……。剣士……? その力があるのに、なぜ、そこまで」
「いまは、強さがほしい。それだけなんだ」
レトが静かに告げると、シェイドはまだ納得がいっていないのか表情を歪ませた。
刀身は、徐々にレトの眼前に迫ってくる。身体の細いレトと比べると、シェイドはずいぶんと体格ががっしりとしていて、力もあった。ギルクス一族の中では、当主を除いて一番の剣の使い手だという。
気を抜けばたちまち押し負けてしまうだろう。気を抜かずとも、やがて隙を突かれて斬りこまれそうな気迫が迫っていた。レトはわずかに片足を引き、踏ん張ろうと息を止めた。しかしすんでのところでシェイドが仕掛けてきた。大きく剣を傾けて、力任せにレトの右腕を払ったのだ。
脇が空く。シェイドはすかさず、縦一文字に剣を振り下ろした。咄嗟に避けなければ、左肩から下がなくなっていただろう。幸い、髪のひとかけらを切り落とされただけで済んだ。
「レトヴェール殿。ここまでにいたしましょう。私と貴殿とでは──」
「まだだ!」
視界の左端。ぐん、と伸びてきたレトの短剣が、瞬く間に、シェイドの頬を浅く切り裂いた。
シェイドはよろめいた足元を支えるように一歩、下がった。
「……!」
「手を抜かないでくれ。頼む。あんたがここでもっとも強いと、副班から聞いた。それなら俺は、あんたに膝をつかせるまで死ねない」
「死……なにを。殺すおつもりなど!」
「次元師は、一瞬一秒が命取りだ。諦めも悪い。離されても食らいついて、食らいついて、──元魔の、神の心臓を狙う。それだけのために俺たちはいる」
「──」
「言ったはずだ。強さがほしい、それだけなんだ」
150年もの間、姿も現さず、謎に包まれていた神族の一柱を、愚弟が斃したと耳にしたときには、正直のところ、目が飛び出るほどに驚いたのだった。毎夜、祭にでも浮かれるように、ギルクス家では良い酒と食事が振る舞われ、そのほとんどは、政会やよその貴族から祝いにと持ちこまれたものだった。
当のコルドは、政会から褒賞が出るため遣わされる予定だったが、断ったと、耳には入ってきた。
いくら穏便で、謙遜家で、過剰に控えめな性格だったとはいえ、褒賞にも称賛にも目の眩まない人間が存在するだろうか。
コルドの性格からして考えられるとしたら、ただ一つ。興味がなかった──としか。
(この御方や、あいつ……コルドは、いったいなにと戦っているのだ──)
悶々と考え耽るシェイドの視界にはもはや、レトの姿などまったく映っていなかった。
は、と我に帰ったときレトは動き出す直前で、しかし、脱兎のごとく動き出してからの彼は目にも止まらぬ速さであった。
シェイドは即座に間合いを詰められた。柄に力を入れるほどささいな動きさえ、許されなかった。
文字通りたったの一瞬だったのである。
──キン、と甲高い音がした。次の瞬間、シェイドが握っていた長剣が、くるりと宙を舞って、しばし離れた場所に突き刺さった。
「……」
「考え事か? そんな気がする」
浅い呼吸を繰り返すレトの頬に、汗が一筋、したたった。まだ肩も休まらないうちに、シェイドは口を開いて、淡々と答えた。
「気を抜いていたのはたしかでございますが、これを言い訳にはしませぬ。軍人たるものいつ何時であっても、雑念に囚われてはならぬのです。ですからこれは……己の軟弱さが招いた結果の、敗北です」
苦々しい表情を浮かべるシェイドの頬にも汗は滲んでいたが、口調は乱れず、穏やかだった。
レトはわずかに首を傾げながら、こともなげにこんなことを口にした。
「……そうか。真面目で固そうなところは、副班にそっくりだな」
「あの愚弟と私とを、一緒にしないでいただきた……」
「だれかいるのか」
シェイドの背後から声がかかって、彼は後ろを振り向いた。通路の先に立っていた人物を認識すると、シェイドはぎょっとして目を見開いた。
「お祖父様」
さっとその場で膝をついて、シェイドは、つかつかと歩み寄ってくる1人の老人に向かって首を垂れた。その老人は、軽装だが質の良い羽織を着ており、一見では身分のわからない人物だった。レトもコルドもその人物の登場に呆気に取られていると、シェイドが、棒立ちになっているコルドをきつく睨みつけて言った。
「コルド、貴様! なにをそこで突っ立っている! ムジナドお祖父様の前だぞ、膝をつけ!」
「構わんでいい。シェイド坊。そっちは……コルド。末の弟だったか。豆粒ほどの大きさの頃には、抱いてやったような気がせんでもないが。悪い、あまり覚えておらんな」
「……失礼いたしました、ムジナド様。なにか、屋敷内でご不便ございましたでしょうか。このシェイドにお申し付けいただけたらと存じます」
ムジナドと呼ばれた老人の着ている羽織には、ギルクス家の家紋が入っていた。また、彼よりもずっと後ろには、2人の従者が控えていた。ふらふらと散歩でもしていたのかほとんど寝巻きのような格好をしているので、コルドはしばらく理解が遅れたのだが、理由はそれだけではなかった。
ムジナドの顔に見覚えがある。赤子のときの記憶ではない。もっと新しい記憶で、最近出先で会った気がしてならないのだ。
「おじい、……え? あなたはたしか、先日、エントリアの森で……」
頭の中でばらばらになっていた記憶のパズルがぴたりとはまると、コルドはさっと顔を青くした。それから急いで膝をつき、焦ったように謝罪をした。
「も……申し訳ございません、ムジナド・ギルクス様でいらっしゃいましたか。お顔を忘れてしまうなど、大変無礼を働きました。先日は、部下のレトヴェールの命を救っていただきましたとのこと、誠に感謝しております。あの、まさか……あのような森小屋に……お住みだったとは……噂には、聞き及んでいたのですが」
「ほう。それじゃ、それじゃ。子どもらを保護しておったら、あのあと政会のお偉いさんがわしの小屋まで来よって。事情を聞かせろだのなんだのとうるさくてな。しばらく北におったのだ。疲れたんで、帰るついでにこの屋敷で休んでおったところじゃ」
レトも目をぱちくりとさせた。納得するまでに少々時間がかかった。エントリアの森でレトとキールアの面倒を見てくれた小柄の老人は、ギルクス侯爵家の血筋の者だったのだ。なんだって森の奥で、質の悪い麻の衣を着て、生活しているのかレトには皆目見当もつかなかった。
しかし事情はどうであれ、レトは、世話になった礼の一つもしていなかったのだ。すこし考えて、レトはムジナドに声をかけた。
「……ここの家の人間だったんだな、じいさん。あ、いや、失礼」
「構うな、構うな。あまり好きでないのだ。ややこしい、身分というものが。わしには合わぬ。だから窮屈でやることもないここをとうの昔に出た。久方ぶりの里帰りじゃ。しかし家も前より広うて、飯も味濃くて、やはり好きでない」
「はあ……そうだったのか。あのときは、世話になった。とくに礼も言わず悪かったな。俺も、あのとき一緒にいたやつも感謝してる」
「ふむ。そうか」
ムジナドは緩慢な動きで首を回して、周辺を見渡すと、こんなことを言いだした。
「ときにお前さん、人の斬り方は、わかったのか」
「……まだ。よく、わからない」
「左様か」
レトからの返答を聞くと、ムジナドはゆっくりと歩きだした。シェイドの横をすり抜け、まっすぐ歩いた先には、彼がさきほど手放した真剣が突き立っていた。
ムジナドは剣を引き抜いて、その刀身を一度だけ眺めて言った。
「老人の運動に付き合うてくれるか。少年」
「え?」
「さあ。剣を抜きなさい」
急な申し出についていけず、ムジナドが牛歩ののろさで目の前までやってきても、レトはしばらく口が閉じられないでいた。レトがそうしているうちにもムジナドは、乾いた唇で続ける。
「あの常人では使えぬという、異術を使うのじゃろう。それを振るってよい」
「は? でも……」
「見てみたい。なに。死なんよ」
コルドとシェイドが腰を持ち上げ、目を見合わせて、端に避けていくのを横目に、レトは、ムジナドの全身を見た。殺気はないが、佇まいからは、わずかな覇気を感じ取った。甘さのない脇。どっしりと中央を捉えている重心。柄を握っている手も、しわがれているわりにはしっかりと力が入っている。
瞬時にレトは悟った。素人ではない。しかし力量までは計り知れず、考えた末に、すこしばかり息を吸った。
「四元解錠──、真斬!」
高々と双剣を構え、一気に空気を裂くように真下に振り下ろす。と、突風を纏った衝撃波が、石畳の上を駆け抜ける。"真斬"に特殊な動きはない。単純な軌道によって生み出される力の塊で、敵を真っ向から切り刻む術だ。
レトが驚きのあまり小さな声をもらしたのは、次の瞬間だった。
放たれた衝撃波は瞬く間にもムジナドの眼前に迫り、彼を食らいつかんと刃を剥いた。しかし、彼がまるで、獣の首元でも狙うように、躊躇いなく刀身を横に薙いだ。刀身の軌道は、衝撃波の軌道なき軌道をするりと解く。また一閃。薙いで、解く。もう一太刀。振るって、解く。解く。解く。それは目にも止まらぬ速さであった。ムジナドが何度剣を振るったか。それが見えた者は、この場にはだれ一人としていなかった。
渦巻く風を成していた糸はすべて断ち切られ、景色が晴れた、ほんの一瞬のあと。レトの目の前にムジナドの姿が映った。彼の、手に持った剣の切っ先が、視界に突き刺さったのだ。
金の目をしばたけば、剣の切っ先が、レトの首筋に寄り添っていた。
「──」
それだけではない。指の一本でも動かそうものなら首を刎ね飛ばされる──とさえ、レトは錯覚した。シェイドとの打ち合いでもこれほど汗は流れなかった。ムジナドの剣の刃が首と肉薄している。たったそれだけで額はびっしょりと濡れ、背中が異様なほどに震えあがった。
「手を抜かんでよかった」
「……。悪い」
「優しいな少年」
そう、ムジナドはたった二言呟いてから、剣を下ろした。ようやく緊張の糸が解けて、レトは焦るように肩で息を整えた。
「あんた……いったい、何者だ……?」
「人を斬っていた。それだけじゃ」
白い眉毛が分厚いばかりにわかりづらかったが、ムジナドの目元が笑ったように見えた。彼の目元には、笑い皺はほとんどなかった。けれども声に恐ろしさはなかったし、もう殺気立ってもいなかった。
- Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.136 )
- 日時: 2023/07/23 12:00
- 名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)
第124次元 強き剣士
剣を持ち主に返すと、ムジナドは砂埃が立つ訓練場も一瞥してから、踵を返してどこかへと去ってしまった。こめかみの下に冷や汗をかいたシェイドが、レトヴェールの傍まで寄ってきて、静かな声でこう耳打ちした。
ムジナド・ギルクスが、歴代のギルクス一族の人間の中でも最高峰と謳われる剣の使い手である、と。
「ムジナド祖父様は、これまでに現れたどのような剣士よりもはるかに秀でた、"天才の剣士"だと言われています。……惜しいのは、彼の代で起こった大きな戦争が一度きりでございました。その腕は間違いなく群を抜いており、他者の追随を許さぬほどに優秀であったのに、その力が活きたのは15年前の戦争ただ一度だけなのです。弟子もとっておりません。父上でさえ、剣を習ったことはないのだそうです。……祖父様は、昔、仰せになっていました。「人殺しの術を教える気はない」と。間違いはございませぬ。しかし、しかし……。祖父様の剣術は、いくら金があろうとも買えぬ財産だった。私は惜しんでしまうのです。せめて父上一人にでも、業を継承されればよかったのに……」
次元の力を真っ向から斬って解してしまった、その御業。シェイドや、その周囲の人間たちが惜しむのも無理はない。
例に漏れずレトも、しばらくは手の震えが収まらなかった。
午後になると、訓練場には、まばらに人の気配が集まってきた。もうしばらくすれば午後の訓練が始まるのだろう。レトは、コルドが炊事場からもらってきた麦飯をご馳走になった。シェイドに頼みこめば、また訓練場の隅に立たせてもらうどころか、一緒にどうかと提案もされた。
お言葉に甘えて、レトも場内に入っていった。シェイドや訓練生たちに混ざって、走り込みや体術、打ち合い、模擬試合などの訓練に励む時間が、あっという間に過ぎ去っていった。
夕餉の時間になって、コルドのもとにリランテスからの使いがやってきたが、頑としてコルドは首を横に振った。リランテスの目に涙が滲む様子が手に取るようにわかったが、彼の意思は固かった。日はすっかり暮れて、紺色の空が頭上に広がってくる。コルドとレトはしかたなく、ムジナドが住むという離れを訪ねた。
事情を説明すればムジナドは嫌な顔ひとつせず、寝床も貸してくれると言った。もしかしたら、事情を説明しなくとも、すんなり入れてくれたのかもしれない。レトはそんな風に思った。ムジナドは良い意味でも、悪い意味でも、他人への関心が薄いのだ。離れの外も中も、使用人の姿をまったく見かけなかった。聞けば、完全に人払いをしているそうだ。
ムジナドの酒の相手をしたコルドが床の上で陥落しているのを横目にしながら、夕餉を口に運ぶレトもまた、考え事に耽っていた。
しばらく、そうしてゆったりと夜を過ごしていたのだが、ムジナドが急に席を立った。「夜風にあたりにいく」と言うので、レトもついていくことにした。
ムジナドはまた断らなかった。
離れの周辺には、建物は一つとしてなく、寂びしい風の吹く草原が広がっていた。ムジナドは星がよく見えそうな岩場によじ登って、腰をかけた。レトは岩場の根元に腰を下ろして、岩を背もたれに、星を見上げた。
「近いうちに帰るのか、あの森に」
「そうじゃな」
「あんたがあんな森の中で暮らしてるのは、ただ身分が似合わないからか? それとも……感覚を失わないためか」
初めてムジナドは、なにも返してこなかった。次元師の術でさえ剣一つで断ち切ってしまった彼のことだ。鍛錬を積み、極限まで鍛え上げたに違いない。しかし戦がなければ感覚は失われていくし、動かなければ肉体は腐っていく。そうでなくとも、人間は老いればどちらも勝手に衰えていくのに、ムジナドはそれを許したくなかったように思えた。彼には、値の良い装いよりも、麻で拵えた衣のほうがよほど似合っていた。
「シェイドさんが言ってた。あんたが昔、『人殺しの術を教える気はない』と言ったって。それはあんたの信念か?」
シェイドはどこからかムジナドの噂を聞きつけ、積極的に教えを乞おうとしたことだろう。当の本人からは上の一言で一蹴されてしまったらしいが、レトはそんなムジナドの言葉が気になっていた。
「そんなことを、言ったかのう。覚えとらんな」
「……。はあ、覚えてないなら、大した意味はないのか」
「ないじゃろうな。しかし、わざわざ己の命を脅かすかもしれん術を、他人に教える気はない。敵を増やすだけじゃ」
血の繋がった家族さえも"他人"と切り捨てられてしまうのは、極端に他人への興味が薄いからというのもあるだろうが、言葉の通り、命を狙われた経験が少なくないせいだろう。レトは、ムジナドの言葉の説得力に、納得することしかできなかった。
ムジナドは、手元にぶら下げていた酒入りの瓢箪をぐいと煽って、言った。
「お前さんはなんで戦う。なぜ、あんなことができる」
レトの持っている次元の力を指して言っているのだろう。レトは、空の鞘に指先で触れ、こう答えた。
「次元の力を得たのは……たまたまだ。これは、努力で手に入るものじゃない。生まれながらに持ってる人間と、持ってない人間がいる」
「ほう。どうりで、いくら剣を振っても、それが手に入らぬわけじゃ」
「剣を振るだけじゃ手に入らない代物でもある」
「なぜ」
ムジナドが、前のめりに訊ねてくるので、レトは説明した。次元の力は、どういうわけか、持ち主の意思に呼応する。激しく感情が昂ったときに初めて、発現するのだ。もしもその経験がなければ、たとえ生まれながら次元の力を持っていても、出会うことがない。
持つ者、持たざる者。それらを分かつのは、すべて運だ。レトからは見えなかったが、ムジナドは納得したのかしていないのか、わかりづらく、浅く頷いていた。
「欲しかったのか?」
「ああ。欲しかった」
「……そうか」
次元の力が、どんな人間の手に渡るかは、だれも知り得ない。善人の手か、悪人の手か。次元の力は持ち主を選ばない。
また、適任な人間──たとえば、猛き力を持つ戦士の手に渡るとも限らない。レトは、あんたの手に渡ればよかったとは、口が裂けても言えなかった。言っても仕様がない。
頭上に広がる濃紺の夜空に視線を移せば、そこへ散らしたかのような爛々と輝く星々があった。
ムジナドはまた、瓢箪を口につけて喉を鳴らした。持ち手を下ろすと、手首からぶら下がった瓢箪が、からからと水音を立てた。
「コルドの奴が羨ましかったのう。神は、強いのか。どれほど。どのような業を用いる?」
「一緒にコルド副班と戦ったけど、それはもう、手強かった。一つの街が、いまじゃ見る影もない。壊滅状態だ。【天地】の神だと名乗ったそいつは、風も自然も、思いのままのようだった」
「よいな! それは! 相見えてみたかったのう。コルドの奴はぁ、強いのか」
はは、とムジナドは高らかに声をあげて笑った。星を嗤うような大きな声は、静かな野原にうんと気持ちよく響き渡った。
「剣か、異界の術か、違いはない。高みにゆけるのなら、悪魔に魂を売ろうともよかった。神を退けたというのだ、なにが悪いのか! わしは、コルドが神を下したと耳にし、心地が良かった。力のある者が生きて残る。それは、明らかじゃ」
ムジナドは瓢箪のくびれを掴んで、豪快に煽った。しかし、瓢箪の口から垂れてきた酒はかなりの少量で、彼は自身の口を開けたまま瓢箪を上下に揺らしたりなどした。諦めて、瓢箪を下ろすと、愉しそうな声色とは打って変わって、夜闇のようにしんとした声で言った。
「その力がお前さんにあるのなら、思うまま、振るってしまいなさい。お前さんは、持っているのじゃから」
見抜かれたような気がして、レトは目を丸くし、体をねじりながらムジナドの顔を仰いだ。膨らんだ瞼から覗いた小さな目は、まっすぐ前方を向いていた。
彼の視線の先にはなにが映っているのだろう──それをレトは、無性に知りたくなった。同じ方角を眺めたって、暗闇に包まれた野原が続いているだけだった。
酒が底を尽いたので、ほどなくしてムジナドが大岩から腰を下ろした。レトもそれに続いて腰を上げた。ムジナドは背中を向けて、屋敷に帰ろうと歩き始めた。
声をかけるならいましかない。レトは腰元の鞘に震えた手で触れながら、ムジナドを引き止めるように声を上げた。
「今日一晩でいい。夜が明けるまで、俺と手合わせしてくれないか」
ムジナドは立ち止まってゆっくりと振り返った。
「老人を寝かせないつもりか」
「できるのか、できないのか。どっちだ」
「良いだろう。言った通り、一晩だ」
言うと、ムジナドは足の向きをそのままに、屋敷に向かった。レトは自分で言っておきながら目を丸くして、しばらく待っていたら、ムジナドが片手から鞘を提げて戻ってきた。
たいした会話はないままに、どちらからともなく仕掛けた。2人が静かに剣を振るう音が、閑静な真夜の中を縫う。忙しなく移動をすれば草の絨毯が擦れて、ざわと揺れる。この夜の星ははっきりと明るかったのだが、それにしてもムジナドはまるで明かりさえ必要ないといったような見事な剣捌きを見せてくれた。
夜明けが訪れるまで永遠のように思えたのに、ひとたび日が顔を出してしまえば、なんと早いものだろうか。薄青い空が連れてきた透明な空気は、すうと澄みきっていた。
このときはまだ、翌年にムジナドが病に罹って没するなどと、だれも知り得なかった。
そして稀代の剣豪ムジナド・ギルクスの最後の一太刀を受けた人物が──廃王家の末裔、レトヴェール・エポールとなることもまた、予想できなかったのである。
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