コメディ・ライト小説(新)

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.137 )
日時: 2023/08/06 12:10
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)

  
 第125次元 時の止む都Ⅰ

 戦闘部班第二班班員、ロクアンズ・エポールは窮地に立たされていた。東方のセースダースへの遠征を言い渡されて早十数日と経つのだが、重大な任務のために足腰に厳しい荷馬車での長旅を経て、ようやく足を踏み入れたかの地で、さらなる試練が彼女を待ち受けていたのである。
 石壁に囲まれた食堂内では客たちの歓談の声がこだましている。そんな中、大きな左目を鋭くさせて、料理名がずらりと書き連ねられた木板をぎゅうと両手で掴んでいるロクは、絞り出すような声で独りごちた。

「二つに一つ。どちらを選ぶべきか……」
「ろくちゃん……」
「う〜〜〜〜〜〜〜〜んこれいかに」
「早く注文を済ませてください、ロクさん」
「だって! 大鶏の丸焼き串も、あんかけ海老の大包みも、どっちも捨てがたいんだもん──!」

 ロクは渾身の叫び声をあげながら、だあんと机を叩いた。
 同席している第三班はそれぞれ、ルイルがくりくりとした目を瞬かせていたり、ガネストがその横で静観を決め込んでいたり、我関せずといった様子で熱いお茶を啜っていたメッセルがロクの癇癪に咽せていたりしていた。
 隣接した席の客たちが、なんだなんだとざわめき立てば、それを収めるのはフィラの役目だった。周囲が落ち着いてくると、細い葉のついた茎を噛みながら、メッセルがため息混じりに口を開いた。

「どっちにしたってデケエのが食いたそうだなぁ」
「もしかしたら、どちらが大きいのかを真剣に考えていたのかもしれませんね」
「そんな悩むなら、どっちも食っちまったらいい」
「だ、だめですよ、メッセル副班長。ただでさえ、今回の遠征では、遠征費がかつかつなんです。ロクちゃんには食費を抑えてもらわないと……!」
「ハア。大変だねぇ、アンタも」

 メッセルの一言に、フィラは苦笑いで応えた。遠征費が厳しいのにはれっきとしたわけがある。
 ノーラの討伐戦でウーヴァンニーフが大打撃を受けた事実は、国をあげて受け止めなければならなかった。政会はウーヴァンニーフへの支援として復興費や人手を大幅に回している。月例の代表会議に出席したラッドウールは、来年度、此花隊に下ろす支援金を削るとの打診に頷いた。
 そう繰り返し説明しようとも、腹を空かせたロクはもはや別の生き物である。物分かりはいいはずだが、食事が絡むとまるで飢餓寸前の獣のような執着心を見せてくるから困りものだ。たまに手作りのおやつなどを口に含ませて、フィラはたびたび窮地を凌いでいるのである。

 しばらく談笑して待っていれば、ロクたちの食卓に、注文した料理が運ばれてくる。といた卵で蓋をされたスープ、分厚い生地で包まれた蒸し料理がたんと積まれて、くたくたになった色鮮やかな野菜の和え物も添えられている。
 ガネスト真っ先に、スープに口をつけた。しばらく舌の上でたしかめて、嚥下してから、ルイルに「熱いのでお気をつけて」と促す。お行儀よく待っていたルイルは、いざ匙を手にとると、そわそわとそれを彷徨わせる。匙で掬ったスープはごく薄い肌色をしていた。透明なのをじっくりと見て、ふうふうと息を吹きかけ、ルイルも口に運んだ。

「あーん。……んふぅ、あふ、あつっ」
「! だから言いましたのに。火傷はされてませんか?」

 ルイルは首をぶんぶんと横に振って、おそるおそる飲み下してから、目を輝かせて言った。

「これおいしいね、ガネスト! 口にしたことない味がする」
「お気に召したのでございましたら、帰国した折には、宮廷料理人に作らせましょうか。香辛料は、買って帰らねばなりませんが」
「うんっ」
 
 膳が用意されてから、毒味役を挟んだりすると、ルイルの口に運ばれる頃には食事が冷め切っていることがほとんどだった。だから熱さには不慣れで、すこしばかり舌を火傷したような感触がしたが、ルイルはガネストには言わなかった。痛みがじわじわと引いてくると、このまま隠してしまいたくなった。
 ロクは、2人の様子を微笑ましく見ており、やがて身を乗り出して、口を挟んだ。
 
「ルイル、もうメルギースには慣れた?」
「うん、すこしずつね、なれてきたの。ろくちゃんたちのおかげだよ」
「そっか〜。でも、"帰国"なんて言葉聞いちゃうと、寂しいなあ」
「だいじょうぶだよ! るいる、次元師として、ろくちゃんたちのお手伝いがちゃんとできるまで、この国にいるの!」

 ルイルは誇らしげに笑って、匙に乗せたスープにふうふうと息を吹きかけてから、そっと口に含んだ。しかし見れば、ガネストは静かに匙を下ろしていて、彼の顔には一瞬影が差していた。
 ロクは気づいたか気づいていないか、どちらともつかない変わらない調子で笑みを向けた。

「ありがとね! そいえばさ、そっちはどこ行くんだっけ? セースダースより〜、ちょっと北?」
「そうです。こちらは、ホークガン街の周辺に出現していると聞く……"宙に蠢く赤い光"を追います」

 ガネストが答えると、フィラは和え物を嚥下してから続けた。

「私とロクちゃんが追うのは、ここセースダースで目撃されている……おなじく"赤い光"、ね。近辺で目撃証言が多かったから、調査に乗り出すことになったみたい。ただの心霊現象とかなら専門家に引き継けばよし。町民の見間違いならそれまで。でもその赤い影の正体がもし……"神族の瞳"だったなら、私たち此花隊の戦闘部班が早急に対処しなくちゃいけないわ。ウーヴァンニーフでのコルド副班たちみたいにね」

 フィラはロクに向けて視線を送り、ロクはこくんと頷いた。

 神族の特徴として、いま共通して言えることは、"瞳が赤いこと"である。
 神族【DESNY】と邂逅したレトヴェールとロクは、此花隊への入隊時に、デスニーの外見的特徴を──瞳が血に濡れたように赤かった、と証言している。また、神族【NAURE】にしても赤い瞳を持っていたのを、コルドと義兄妹は確認している。これらの報告を受けてセブンは、「赤い瞳」またはそれに近しいものの目撃がされた暁には、此花隊の次元師たちをすみやかに調査に向かわせるよう手配する方針を取った。

 第三班が向かうのは、ホークガン街より南で、山々の連なる山岳地帯だ。東に向けて流れている河川に沿ってひとつ山を越える。街で商いをしている隊商や、現地の隊員からの証言によれば、最近、山中に奇妙な赤い光を見かけるようになったというのだ。
 第二班が目指す赤い光は、温泉街セースダースで日夜問わずたびたび出没している。第一班が療養で訪れていた時期には赤い光の報告はなく、ごく最近の現象と見られる。

 匙を指先でぶらぶらと揺らし、メッセルはため息まじりに告げた。

「なぁんでここんとこ、神族のヤツらが出てくるようになったのかねぇ。おかげで上の連中がピリピリしちまってよ。緊張が抜けやしねぇ」
「謎……ですよね。班長も言っていました。研究部班に情報収集を急がせているようで。調査班総員、誠意調査中と聞きました」
「目撃証言ってヤツも、調査班からの報告が含まれてるだの、なんだの、言ってたような気ぃすんなぁ」

 ガネストはスープに口をつけながら、アルタナ王国からメルギースに渡ってきたときに聞いた話を思い返した。

「ロクさんたちのお話ではたしか、200年前に現れたときに……『罪を知れ』だとか『永劫の時を以て償え』などと伝えたそうですね。その数年後には忽然と姿を消した……。初めて姿を現したときと、おなじような状況が起こってしまった、と考えるべきでしょうか? 我々の与かり知らぬところで」
「う〜ん。案外、どこかから、戻ってきたとかなんじゃない?」
「もどってきた?」
「急にいなくなってさ、それからずっと現れなかったんだから、きっとどこかで隠れてたんだよ。そこから戻ってきたんだって!」

 ロクの言葉を最後に、一同は腕を組み、うんうんと首をひねった。それからは任務での動きの確認や、たわいもない世間話など、あちこちと話題が飛びながら、昼餉の時間を過ごした。

 第三班はホークガン領に入るために、北へと進路を変える。それぞれの班は飯屋を出たところで解散した。
 第二班のロクとフィラは腹ごなしも兼ねて街の中を散策した。目撃者は、セースダースの住民それから調査班の班員であり、どちらの証言も目撃した時間はばらばらで、見かけたのも街の一角だとか、散歩中に視界の端に映った、だとか、かなり曖昧だった。調査班の班員に、どのあたりで見かけたかを聞き出してみれば団子屋の傍だというので、周辺を小一時間ほど徘徊してみた。が、赤い光らしきものは見つかる気配もない。

 団子屋の店主をしている老夫婦から団子を買うと、店の横につけてある長椅子に2人して腰をかけた。ロクはあっと口を広げて、串に刺さった団子のひとつを食んだ。

「こないだ、この街の温泉入ったんだって? コルド副班とレト! 本部に戻ったときに聞いたんだけどっ。いいな〜! あたしたちも温泉行こうよフィラ副班!」
「そういえばコルド副班が言っていたわね……。でも私たち、支部でお湯いただくことになってるし、その……費用がね」
「ええー! だめかあ〜……ガッカリ」

 ロクはわかりやすくがっくりと肩を落とした。温泉なんてめったに入る機会がないし、若い女性隊員たちの間でも温泉の湯は肌に良いと噂になっているのを聞くので、フィラも声には出さずとも静かに同情していた。セースダースは地盤のあちこちから質のいい湯が沸いていて、富裕層でなくても温泉を楽しめるという売り文句が出回っている。温泉の湯面に、はらりと落ちてきた葉が浮かび、ゆったりと極楽へ浸かる自分の姿を一瞬想像しかけて、フィラはかぶりを振った。暇を出されて慰安にやってきたのではないのだ。目的は、謎の赤い光の解明だ。
 
 しかし、調査は順調とはほど遠く、日中歩き続けてみてもたいして手掛かりを掴みきれないもどかしい日々が続いた。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.138 )
日時: 2023/08/06 14:46
名前: りゅ (ID: miRX51tZ)

ストーリー性がとても抜群で尊敬します(⋈◍>◡<◍)。✧♡
更新頑張って下さい♪

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.139 )
日時: 2023/08/20 12:46
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)

 
 >>りゅさん
 コメントありがとうございます。
 今後も細々と更新して参りますので、宜しくお願いいたします(*´`)

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.140 )
日時: 2024/03/24 23:27
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第126次元 時の止む都Ⅱ

 調査が本格化してから、数日が経過した、ある日の晩。
 この日の調査を終えたロクアンズとフィラは、日が沈むと、セースダースの此花隊支部に向かう。支部といっても作りは宿屋に似ていて、扉から入ってすぐのところには食事をとるための円状の卓が転々と並んでおり、奥の階段から上へと視線を移すと、二階は班員用の休憩室や、資料室、会議室などの扉が構えていた。
 この支部には研究部班の班員と警備部班の班員が十数名ずつ常駐しているが、夜間に見回りをする警備班員が出払っていたり、研究部班の班員らも日夜会議で離席していたりと人の気配は少なく、初日の挨拶回りもほどほどに済ませられた。
 手配されている空き部屋は2人用だった。室内には、左右の壁にぴったりと寄り添っている2台の寝台と、机や棚などの最低限の家具が揃っている。ロクは部屋に入るなり、ため息をもらしながら片方の寝台に沈んだ。

「うはあ、今日も情報ゼロだよ〜……! 何日目!? こんなに捕まんないんじゃ、見間違いだったのかなあ〜……?」
「そうよねえ……街の中は一通り回ったし、大きい施設にも聞き込みが済んじゃったのよね。でもこれといって有益な情報はなし。かといって街の外れにも、怪しい物質はなかったみたい。……ごめんね、巳梅。疲れちゃったでしょう」

 フィラの肩で遊んでいた『巳梅』が、彼女の耳の下からにゅるりと紅色の頭を出した。セースダースの街の近辺には『巳梅』を放っておき、怪しい生命体を感知するか観察させてみたがそれも失敗に終わった。硬質な下顎を指の腹で撫でて、フィラは『巳梅』を労った。

「あーあ。コルド副班とレトはこんな夜に毎日、温泉入って、ゴクラクしてたのかなあ〜〜いいな〜〜」
「まだ諦めていなかったのね……」

 苦笑をこぼしてフィラも寝台に腰を下ろした。腰の装具を外しながらそういえば、とフィラが口を開く。

「幼馴染のキールアちゃん? あの子のおかげもあって、コルド副班、腕がだんだん治ってきてるって言っていたわ。すごいのね、キールアちゃんって」

 キールアの名前が出ると、ロクはぱっと上半身を起こして、表情を明るくした。

「そっか! よかったね〜、コルド副班! キールアは、シーホリー一族ならぜったいに使える『癒楽』の次元の力の持ち主だから、神族から受けた傷にも効いちゃうんだって。あたしね、それでキールアのお母さんに治療してもらったこともあって……あっ! キールアがシーホリー一族っていうのは、ええっと、えっとっ、秘密なんだけど……!」
「ふふ。大丈夫よ、聞いているわ。セブン班長も、キールアちゃんを本物の生き残りだと思っているって。戦闘部班の班員だけの内緒になるんだけど」
「ならよかった!」
「幼馴染思いなのね」
「幼馴染、って、それだけじゃないんだよ。友だち!」
「友達?」
「そ! あたしにとって、初めてできた友だち。任務が終わったら、エントリアに戻って、遊びに行こうって、約束してるんだ」

 ロクは寝台から立ち上がると、備え付けの窓まで跳ねるように近づいた。窓硝子は四角く夜の街を切り取っていて、黒と紺に染まっている。表面にはほんのりと橙の灯が滲んでいた。無邪気な横顔をするロクは、まだまだ遊び盛りの年頃だ。故郷を離れているロクにとって、旧友との再会はさぞ喜ばしい出来事だっただろう。次元師としての責務に駆られていなければ、任務などについていなければ、こんな夜にはきっと朝まで友人と語り明かしていたのだ。
 フィラも腰を上げてロクに歩み寄ると、窓の奥を一瞥して、またロクの横顔を見た。

「さて、と。ロクちゃん、すこし休憩したら、また外へ出てみない? 今度は、夜に探しに出てみましょう。もしかしたら夜のほうが捕まりやすいのかも」
「おーっ、いいね! 昼間はいっくら探しても、ぜんぜん見つからないもんね。らーじゃっ!」

 びしっと此花隊の敬礼をしてみせて、ロクは口角を吊り上げた。
 軽く湯を浴びたあと、ロクとフィラは寝室でしばし仮眠をとった。目を覚ませばせっせと支度をして部屋を出る。門の番をしている警備班に声をかけ、真っ暗な夜闇に包まれている街道に足を踏み入れた。
 日中の往来の人の多さ、騒がしさに比べて、随分と寝静まった街中には、ひやりとする風がしきりに吹き抜けていた。目の端では、野鼠やらも通り過ぎていく。
 手元から提げた角灯で、足元と周囲を、注意深く照らした。大通りはまだ、表で橙色の灯りを灯している店が多く、街道はそれなりに明るかった。だが道を外れて路地裏に忍びこんでしまえば、もう華やかな街灯も届かない。2人はそんな、どんよりと暗く湿った、街の裏側のような道をくまなく歩いていた。

 それは、突然だった。街の端にある街道に出たところで、フィラの肩の上で『巳梅』が身じろぎをした。
 『巳梅』は鱗で覆われた身体を立て、暗闇の中のある一点を、じっと睨んだ。

 フィラは眉をひそめて、ロクに合図を送る。ロクははっとしたように左目を見開き、闇の奥の、そのまた奥を注視した。
 暗闇の先にぼんやりと光る、赤いなにかを見た。
 足音を殺しながら2人はゆっくりと暗闇に近づいた。その光も気がついたのか、真っ向から向かってくる気配がした。そして赤い光の輪郭が浮かび上がった、刹那。間髪入れずロクの右腕に──電気が迸る。

「次元の扉、発動──ッ!!」

 飛び出してきた輪郭に向かってロクは大きく右腕を振りかぶった。まさに放電しかけたその寸前、ロクは、輪郭の正体を知って目をぱちくりと瞬かせた。

「へっ? と、鳥っ!?」
「き、気をつけて、ロクちゃん!」

 慌てて腕を上げて、大きく開いたロクの胸元に、一羽の大きな鳥が突進してくる。わっ、とびっくりしながらもその鳥を抱え込んでしまえば、鳥はあっけなく捕まって、ばさばさと腕の中で翼を仰いだ
 その鳥は、ロクの胴ほどはある大きさで、鮮やかな赤や青色で彩られた綺麗な翼を持っていた。嘴は先端でぐにゃりと曲がっている。メルギースでは見かけない種類の鳥だった。もっとも目立つのは、充血したように赤い2つの目だった。
 ロクの腕の中から逃れようと、きーっ、と高く鳴いたり、必死に暴れているのだが、それだけだった。ロクが困ったように眉を下げていると、遠くから男の声がした。

「あ〜! すみません、すみません! その子を逃がさないように、捕まえててくれませんか?」

 現れたのは若い商人で、頭には端の切れた真っ青な布を巻いた、変わった格好をしていた。ロクとフィラの傍までやってくると足を止めて、息を整えている。フィラは男を警戒して、ロクの前に立ち塞がった。

「こんな夜中に、いったいなにを?」
「ああっ! 怪しい者ではないんです。ええと、その、最近来るようになったんです、この街には。前来たときよりもすこし到着が遅れましたが、そう。異国の商品を仕入れていて。ここより遥か南東の、シンカンバーク大陸から、はるばると」

 シンカンバークといえば、メルドルギース大陸よりも南東に位置している巨大な大陸だ。古来からメルギースとの外交は薄く、移民族もほとんどいないため、情報の出入りが乏しい。とりわけて技術進歩がめざましい土地でもない。一部の商会や、個人商売主の中には、そんな遠方からわざわざ商品を仕入れる物好きがいるのだ。
 フィラは眉根を寄せたまま、警戒を解かずに、さらに言及した。

「事情はわかりました。ですが、このような夜中に移動するなんて」
「ですから、別の街で商売を終えて、それから出立が遅れてしまったのです」
「はあ」

 遅れてしまったのなら、なにもすぐに飛び立たずともよいのに、とフィラは心の中で独りごちた。ロクは両腕で鳥を抱きかかえたまま、男のほうに向き直った。

「ねえねえ、この鳥、お兄さんの?」
「ああ、そうだ、そうだ! 返してくれませんか? 大事な商品なんです」
「商品?」
「そうですとも。ほら、ご覧ください。瞳がとても赤くて、綺麗でしょう? ランガーという鳥でね、あっちの大陸で生息しているんですが、とても珍しいことに赤い瞳をしてたのですよ。ほかの子たちはそんなことはない。この子は特別。ほら、言うではないですか、まれに生物の中では遺伝子の問題で赤い瞳の個体が生まれることがあるんだとか! そういう特別性には値がつくものなんでさ」

 フィラは男の話を聞いて、すぐにあることに気がついた。それからわなわなと彼女の肩が震えだした。

「……あのですね、ひとつ言わせていただけるのでしたら、その子は白皮症ではありませんよ」
「白皮? いいえ、ご覧の通りでさ、身体は鮮やかなものでしょう」

 ぎろりと鋭い視線を男に送ったあと、フィラはため息をつく。そして意識していないのに低くなった声で告げた。

「ですから、あなたの言う"遺伝子の問題で赤い瞳の個体が生まれる"という事象は病気のことを指し、白皮症と呼ばれます。そういった個体には特徴があって、全身の色素が欠落しているので白い皮膚や羽毛を持っているんです。でもご覧ください、その子は、瞳の色以外は普通の個体と変わらずに鮮やかでしょう? だからその瞳が赤いのは別の要因によるもので、決して特殊な個体ではありません」
「ええっ!? そんな! では、ではなぜ赤いのですか!? それこそ、あなたも知らないような、特殊な個体なのでは!?」 
「……あの……それくらい、ちょっとこの子を見たらわかるでしょうがっ!!」
 
 フィラの口からは聞いたこともないような怒号が降ってきて、ロクと男の肩はびくびくと震え上がった。興奮冷めやらぬまま、フィラはランガーの目の当たりを指さして、言い募った。
 
「おおむね、シンカンバークで暮らしていたときに、ほかの個体と喧嘩をしてしまったのでは? ほら、目の周囲に傷ついた痕が見えるでしょう。眼球が傷ついているもしくは目の周囲の傷から菌が入り込んでしまっていると考えられます。つまり、特殊な個体でもなんでもなくて、この子は傷ついていて、いますぐにでも治療をしてあげないと最悪目が見えなくなるんです! おわかりですかっ!?」
「ひーっ!! すみません、すみません……っ!」
「これだから生き物のことをよく知りもせずに売り物にしようとする人が私は、私はー……!」
「お、落ち着いてっ、フィラ副班〜〜!!」

 ロクは、暴れかけたフィラの服の裾を掴んで、どうどう、と制した。ベルク村で白蛇の皮が売買されていた当初、村でもっとも憤っていたのがフィラだったと話には聞いていたが、なるほど合点がいった。村民たちがフィラを止められなかった理由のひとつだろう。
 フィラは、言いたいことを言ってすっきりすると、肩をいからせたまま、2人に断りもせずに街の外へと消えていってしまった。それから帰ってきたと思えば、その手には見たこともないような果実と薬草を握っており、街灯の下で腰を下ろすやいなや、人間用にと持ち歩いていた油と混ぜて調薬を始めてしまった。それからあとは、慣れたようにロクからランガーを預かって、できあがった薬を新品の布の先に浸し、眼球に触れないようランガーの目の周りにだけ塗布していく。
 ロクと男はもはや感激する以外になにも触れられず、ただただフィラのことを感心の眼差しで見つめていた。

「それにしても詳しいねえ、フィラ副班。動物の病気も知ってるんだ」
「ベルク村はいろんな動物と暮らしていたから。昔はいまよりたくさんいたのよ。いちばんはもちろん、蛇だけど。それに白皮症は人間にも起こりうるの。実際に見かけたことはないんだけどね」
「へえ〜」

 ロクは訊ねなかったが、ベルク村の周辺に生息していた白蛇の真白の皮は、それとは異なる。あの地域は昔から自然が豊かで、あまり日光が当たらなかったせいもあるだろうが、白蛇たちはもとより白い鱗を持っていた。それに鱗には、紅色の斑点があった点から、一般的な白皮ではないのだ。
 フィラから薬とランガーを受け渡された男は、毎日薬を塗布してあげるようにと口すっぱく言いつけられ、それを彼女に固く誓った。もう売り物にしようとも考えません、と男が意気消沈をして背中を丸めていたのが、なんだかロクにはおかしかった。
 
 男からさらに詳しい話を聞きだせば、この街へ足を運んでいた時期と、赤い光が目撃された時期とが見事に一致した。それから、男に団子が好きかどうかフィラが訊ねれば、彼は頷き、以前団子屋に立ち寄っていただいていた、と話してくれた。
 ランガーの首周りを優しく撫でてやりながら、フィラは深く嘆息する。

「これでこっちの噂の正体は、突き止められたわね」
「うん。向こうは大丈夫かなあ?」

 ロクは夜空を見上げて、ぐるりと首を倒し、ホークガン領の方角を見つめた。セースダースに出没していた赤い光の正体は商人の連れていたランガーだったと知れたが、さらに東へと向かった第三班も赤い光とは遭遇できているのだろうか。

 夜が明けて、ロクとフィラが商人の男と別れを告げるその一方で、ホークガン領の山麓にて第三班が動き出していた。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.141 )
日時: 2023/09/03 17:31
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)

 
第127次元 時の止む都Ⅲ

 脈々と険しくそそり立っているホークガンの山の麓、広々とした扇状地で慎ましやかな人の営みに迎えられ、第三班は数日ぶりに荷を下ろした。視界いっぱいの草原の端を埋め尽くす果樹園に、上流から流れ着いた緩やかな川の水が太陽の光を反射して、この地で生活する人々にかすかな潤いを与えている。サンノと呼ばれる集落だった。
 煉瓦のような立派な物資で拵えられた建物は、この集落にはなく、ほとんどの家屋や店が、組み木でできていたり、石を積み立てて布を被せるのみで成り立っていた。
 第三班の面々を一晩泊めてくれるような民家もあったりと、サンノの住民はよそ者の来訪には好意的だった。
 
 もう数日、馬を走らせて山なりに北上すれば、目的の地点に到着できる。が、旅が続くので、食料や必要物質の買い足しに出なければならなかった。
 一泊した民家で朝食をいただいてから、ガネスト、ルイル、メッセルの一行は商店へと足を運んだ。ガネストが店主らと交渉しているのを遠目にしながら、石壁を背もたれにメッセルは感心していた。

「ハァ。あいつぁ、利口だな。なーんも言わなくても買い物が済んじまう」
「めっせる副班は、買い物きらいなの?」
「俺ぁ、売るのは得意だったが、買うのはちとな。すぐ余計なもんがほしくなんだよ」
「そうなの」
「おうそうだ姫さん、飴いるか? 喉渇いたろ」
「いるっ! いいの? いいの?」
「あいつにはナイショな。お前さんを甘やかしすぎっと怒るんだ、あのガキゃ」

 メッセルは無邪気に歯を剥き出しにして、しーっと口の前で指を立てた。ルイルが嬉しそうに受け取った大粒の飴玉は、セースダースの菓子屋でこっそり買い込んだものだった。
 買い物を終えたのか、ガネストは手に革の袋を提げてメッセルたちのもとへと帰ってくる。

「お待たせしました」
「お、済んだか?」
「ええ。滞りなく。それと、ついでに何人か捕まえて訊ねてみましたが……赤い光の噂について知っている人はいませんでした。人の出入りが少ない集落のようですから無理もありませんが」
「おつかえさま、がねふとっ」
「……。なにか与えましたか」
「ギク」

 祖国を離れメルギースの地に足を踏み入れたとあらば出自は一切もらしてはならず、此花隊の関係者以外に勘づかれてもならず、王女殿下の口に入るものはたとえ飴玉一粒であっても把握しておかなければならなかった。それが側近ガネストの仕事の一つでもあるのだ。第三班の顔合わせの際に、ガネストは次元師である以前に王女殿下の側近であると身分を説明し、メッセルにも細心の注意を払うよう協力を仰いでいたはずだった。はずだったのに、釘を刺しても刺しても隙あらばルイルを甘やかそうとする、このいかにも島育ち風の信用を置きかねる大男の耳は飾りなのではなかろうか、と疑いたくなる日もあった。
 軽くメッセルに小言の二つや三つ投げていると、ルイルの姿を見失った。すかさず周囲を見渡して、ガネストははっとした。

「ルイル? ……あ」

 商店の店主やら、集落の人間たちに囲まれて、ルイルは手遊びを披露していた。芸術の国アルタナでは細い綿糸一本でも、立派に芸が披露できて、アルタナの子ならだれでも遊び方を心得ている。指と指の間に綿糸を通して見事な模様を作り出すルイルに、人々は関心の声を寄せていた。子どもに教えてやってくれなんて言われて、また彼女の周りに人が増えていく。
 危なげはなさそうだと、ガネストは息をついた。

「……」
「いいじゃねえの、騒ぎ立てんのは、よくねぇんだろ? 異国の王女様ってぇのは、秘密なんだからよ」
「わかっています」

 輪の中心から、それとなくルイルを引き抜いて、3人は厩舎まで馬を迎えに行った。荷物をまとめ始めてからほどなくして、サンノの緩やかな空気に別れを告げた。

 山川に沿って余裕を持たせながら馬を歩かせていけば、豊潤な緑の地肌に出迎えられる。ときおり、ルイルが前のめりになって大自然を仰ぐのを、ガネストがやんわりと支えながらの旅になった。地面の傾きが緩やかになってきた頃には夕陽が落ちかけており、あたりに害のありそうな獣の気配がしないのを念入りに確認したあとで、天幕を張る準備に取りかかった。

 かすかに響いてくる虫の鳴き声を遠くにして、先に体力の尽きたルイルを寝かしつけた。寝心地のよさは、アルタナの宮廷にある私室の寝台とはまるで比べ物にならないだろうが、彼女がとっぷりと寝入るまでにそう時間はかからなかった。
 天幕の外で焚いた火を囲み、メッセルは道中に採集した山菜の選別に手を忙しくさせていて、ガネストは見慣れない書物に目を通していた。
 メッセルは天幕を振り返って、言った。

「すっかり慣れちまったなぁ〜。最初の頃なんかは、野宿なんてしたこともねぇ箱入りだからよ、イヤイヤって騒いじまって大変だったよなぁ」
「ルイル殿下はご立派です。次元師である運命を受け入れて、この国の力になろうとしておられますから」
「お前さんは、あんましそういう風には見えねぇな」

 ガネストは虚をつかれたものの、紙面に注いだ視線は外さずに、一拍を置いてからしっかりと問答した。

「僕にとって最重要の任務は、ルイル王女殿下がお役目を果たしたあと、無事に我らの国へお連れすること……ですから。そのためには、次元の力を振るうことも厭いません」
「そのためねぇ〜。まいろいろあるわな。どうだぃ、俺と酒でも交わすか」
「いいえ。任務に支障をきたします」
「あっそう。……ところで、さっきからなぁに読んでんだぁ?」

 メッセルは手を止めて、大きな体をさらに屈むとガネストの手元に視線を落とした。

「これは、定期連絡です」
「てーきれんらくぅ?」
「アルタナ王国からこちらへ送られている使者を介して、報告を受送信しています」

 メッセルは豆粒ほどの目をぱっちりと開いて、あんぐりと開けた口元から、噛み遊んでいた草花が落ちたのにも気づかずに、さらに前のめりになった。

「お前さん……えぇ? いつからだ、そいつは」
「もちろん、こちらへ渡ってきてから……初めからですよ。この国でなにかあってからでは遅いですから。先んじて、優秀な者を何人かこちらへ手配し、此花隊の活動範囲内で待機させています。サンノの使者に会ったのは初めてでしたね」
「どいつがどこにいんのか、わかんのか!?」
「い、いいえ。まだ、この国の地理には、把握しきれていないところもあるので……方角と、範囲をある程度、頭に入れているだけです」
「すげぇ〜なぁ。ま、この国でなんかあっちゃ、国際問題に発展しちまうわな」

 がはは、とメッセルは大口で笑っているが、なにかあってからではまったく笑い事にならない。ガネストはそれを十二分に理解していた。友好国なのだからなにも秘密裏に使者を送らずとも、メルギースの政会上層部に話を通せばよいのだが、ライラ子帝殿下の御心とあっては首肯せざるを得なかった。話を通せば、もしかすると使者に紛れて、政会の人間が守護を大義名分に過剰に接触してくるとも限らない。ライラがそれを懸念したのでは、とガネストは推察していた。
 ガネストを含め、この国にはルイルを守護するよう動いている人間は極端に少ないのだ。

「僕は次元師である以前に、ルイル王女殿下の側近です。なんとしても、彼女を守る義務がある」
「……ヒュ〜。若ぇのに、大層なこったな。そら、お姫さんを守るにゃ、必死にならねぇとなぁ。気ぃ張りすぎんなよ」

 大きな手指を広げて、メッセルはガネストの背中を力いっぱい叩く。小さくガネストが悲鳴を上げるのも構わず、メッセルは夜空に向かって豪快に笑い飛ばした。この男とはことごとく調子が合わないのだが、悪い気がしないのだから不思議だ。

「……承知の上です」

 メッセルは満足そうににっと笑い、ひとつ伸びをして、番をガネストに任せると外に敷いてある布の上にさっさと寝転んだ。横に広い体が布の端からはみ出ているのを見やってから、ガネストは焚き火に視線を戻す。使者から受け取った伝書の、最後の一文にまでじっくり目を通し終えると、それをたたんで、火にくべた。
 紙は、端からじんわりと火に食われていく。黙々と考え耽るにはちょうどいい夜だった。

 さらに幾日かかけて、緩やかな傾斜になっている山道を登っていくと、道が開けた。周辺は、ようやく商隊が抜けられるに叶う平坦な地面の広がりを見せてくれるようになった。しかし同時に、異様な白い霧と冷気が、全身を絡め取らんと立ち込めていて、緊張を辞さなかった。
 行き先を迷わなかったのは舗装された道を運よく見つけられたからだったが、人の気配は一切せず、こんこんとした静けさに招かれるままその地に辿り着いた。

 霧の立ち込める中、建物らしき輪郭を視界の先に捉えて、道なりに歩を急がせる。いの一番に足を踏み入れたガネストは、目に映る光景を前にして、息を呑んだ。
 
「ここは……」

 建物の上半身が崩れ落ち、横たわっては、街路だったと思わしき道を豪快に塞いでいる。そのような瓦礫と化した石材や煉瓦、木片の山がそこかしこで無造作に積み上がり、それらが建物の一部だったであろうこと以外には、もはやなんの情報も持っていなかった。建物だけではない。立派な太い街路樹も、幹の表面は灰色で、水の味を覚えてはいなさそうだ。

 正気のない、すでに十何年も昔に死に絶えたような荒廃都市はこの日、時久しく来訪者を迎え入れた。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.142 )
日時: 2023/09/27 08:08
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)

 
 第128次元 時の止む都Ⅳ

 ガネストは膝をたたんでしゃがみこむと、石畳の表面を撫でた。立ち上がって、霧に覆われた街をぐるりと見渡す。言葉を失っているガネストの隣で、メッセルが大きな声をあげた。

「ここ……そうかぁ、こいつは驚いた! ここに着いちまうのか」
「ここは? どこなの、めっせる副班?」
「あぁ。東で一番でけぇ都市だった。水と霧の都、サオーリオ。いまじゃ見る影もねぇなぁ」

 ホークガン領の東の一角にはかつて、サオーリオという都市が存在していた。街中の至るところに水路が引かれ、北側から吹き込んでくる冷風によって霧が立ち込める"水と霧の都"。先の戦争で受けた被害がもっとも甚大な地域で、すでに街としての機能は完全に失われている。いまとなっては住居を持たない浮浪者たちの溜まり場だ。当時サオーリオで暮らしていた者たちのほとんどは死亡し、生存者はホークガン街で受け入れられた。領主のディオッドレイ・ギルクスは、戦後から一度もこの廃都を訪れておらず、手つかずの状態が続いているのだという。

 サオーリオの壊滅によって難民となった者たちの中でも、ホークガンへの引き入れを拒否した者がごく一部存在した。喧騒の街とは肌が合わなかった。のどかに暮らせる土地を見つけだして細々と暮らし始めた人々がいるそこは、彼らによってサンノと名づけられた。
 物々しい景観と、寒々しさに気圧されたルイルが、ガネストの服の裾をぎゅっと掴んで、彼の背後に身をひそめた。
 
「ジメジメしてる……ひとのこえもしないよ、ガネスト。ちょっとこわい……」 
「離れないでくださいね」
「うん」

 廃材の山肌に細い脚をした蜘蛛が、這っていた。家の中はどこも、戦火に呑まれた日からそのまま時間が経過していて、倒れた家具を正したり、潰れた果実を棄てる人間はいない。三人はサオーリオの街の中を歩き始めた。視界が悪いので、目を凝らしながら慎重に赤い光を探してみるが、明かりらしい明かりは灯っていない。
 過去、食糧庫として扱われていた倉庫の戸から、メッセルが鼻をつまみながら顔を出して、言った。

「だめだ、だめだ。動物の死骸しかねぇや。っかしなぁ〜。いまじゃ、浮浪者どもが溜まってると聞いてたんだが。人っ子ひとりいやしねぇじゃねぇか」
「この街にはもう食糧はありませんし、雨風を凌ぐ家屋があるだけのようです。気温も一段と低いですから、この時期には寄りつかないのかもしれません。上等な糸を使った織物もありましたが、ほとんど虫に食われています」
「昔はもっと華やかで、活気のある街だったけどなぁ」
「赤い光……この街でも出現するのでしょうか。見る影もありませんが」
「それに、ヤな空気だな」

 赤い光どころか、人工物の灯りさえなく、吐き出した呼気は冷やされて白く煙った。ぎらりと視界の端でなにかが光って見えて、ガネストは路地裏に視線を送った。外套の裾を静かに揺らしながらそこへ近づけば、硝子瓶の破片が、路地裏の影からはき出されていた。
 目を逸らして、街路へ視線を戻したときだった。
 白い霧は一層深まって見えていたはずの二人の姿を覆い隠してしまっていた。

「──。ルイル、そこにいますか?」

 眉をひそめるガネストの頬を白い霧が掠めていく。彼を取り巻く景色はすっかり霧に呑みこまれ、前後の判別がつかなくなった。ルイルを見失った焦りからかガネストは額に汗を滲ませ、力任せに喉を締め上げた。

「ルイル! ルイル王女殿下っ!」

 返事がない。地を這う風の声に嘲笑われているような、嫌な感覚が肌に纏いつく。ガネストはいてもたってもいられず駆け出して、白い霧に覆われた視界の中をひた走った。何度もルイルの名前を呼んだが、返ってくるのは風の声だけだった。
 この白い世界から抜け出せないのではないか、そんな出口の見えない恐怖と主人の安否がわからない焦燥感とに苛まれていたガネストにとって、ついぞ視界の奥からぼんやりと浮き出した縦長の輪郭は、まさしく唐突に現れた異物だった。はたと足を止めた彼は、肩で息を整える。緩やかな足取りでその輪郭の正体を確かめにいった。

 霧が晴れてくる。すると明瞭になっていく景色が真っ先に教えてくれたのは、サオーリオ街の石の門から首を伸ばしている建造物の外壁だった。
 草木の匂いが鼻腔を掠める。
 ぬかるんだ土を踏み締めている。
 頭上から鳥や虫の合唱が遅れてやってくる。
 ガネストは死人のように数歩、足を運んで、街に踏み入ってから、項垂れるがまま地面を見た。乾いた石畳の表面を凝視してそれから、眼前に広がる街の景観を見渡す。すぐ傍でだれかが足を揃える靴音を聞いて、はっとして顔を上げれば隣には、メッセルとルイルが立っていた。
 言葉を失っているガネストの隣で、メッセルが大きな声をあげた。

「ここ……そうかぁ、こいつは驚いた! ここに着いちまうのか」
「ここは? どこなの、めっせる副班?」
「あぁ。東で一番でけぇ都市だった。水と霧の都、サオーリオ。いまじゃ見る影もねぇなぁ」

 ──既視感、だ。

「え?」

 ガネストは目眩を起こしてしまいそうになり、正気を保つのに必死だった。たった数十分前にも行われたやりとりをメッセルとルイルが繰り返し口にした。無邪気にもルイルは、メッセルやガネストの傍を離れて、きょろきょろと首を回している。ガネストの傍に戻ってくると、彼の服の裾をぎゅうと掴んだ。

「ジメジメしてる……ひとのこえもしないよ、ガネスト。ちょっとこわい……」 

 つい先刻にはなんて返していただろう。いや、そもそもなぜまったくおなじ表情で、まったくおなじ言葉をかけてくるのだろうか。ガネストはいったいなにが起こっているのか皆目見当もつかず、白く霞んでいる現実に一人戸惑っていた。

「離れんなよー、嬢ちゃん」
「うん」

 ガネストが、ルイルの声に返答をせずにいると、メッセルがやれやれと肩を竦めて代わりを務めた。明らかに様子のおかしいガネストを見て、メッセルが言った。

「やっと気づいたか」

 メッセルは長めに息を吐き出した。打たれたように顔を上げたガネストは、戸惑いを隠せず、メッセルの言葉に食いついた。

「……え? 気づいた、って」
「気づいたんだろ。この街の異変」
「め……メッセル副班、あなたは」

 ガネストの問いかけに、メッセルは何拍かの間、答えなかった。しけった髪の毛を乱暴に掻きながらまた息を吐いた。

「50回くれぇか。正確には53度目。もうそうしてずっとやってるぜ。つっても俺が気づいたのが何回目なんだかなぁ……本当のところは何回繰り返してるか知らねぇ」
「繰り返し……」
「あぁ。おなじ時間を、延々と繰り返してる」

 食んでいた葉の茎を雑に吐き出して、メッセルはそれを踏みつけた。ガネストはその真剣極まりない横顔を見て息を呑んだ。

「気ぃつけろよ。いるぜ、ここ。なにかが」


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.143 )
日時: 2023/10/08 16:39
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: YYcYgE9A)

 
 第129次元 時の止む都Ⅴ

 時間が、進んでは巻き戻っている──。半信半疑だったガネストは、メッセルから東の方角にある一軒家に行くように言い渡されて、そこで見た。床にぶちまけられた腐ったスープを、舌先で舐めている一匹の猫だ。体は痩せ細り、いまにも手足が折れそうなその野良猫はついぞ床の上に倒れると、事切れた。小さな命が果てるのを見ていれば彼の周囲を白い霧が包み込んで、ガネストは気がつけばまた、サオーリオ街の入り口で突っ立っていた。
 街の景観に興味津々なルイルをメッセルに任せて、ガネストは脇目もふらず東の一軒家に足を運んだ。そこには、さきほど命を落としたはずの痩せた猫が短い舌を伸ばして、腐ったスープの水面を舐めとっていた。
 一度時間を止めた生命が、ふたたび動き出すなんてのは夢物語だ。メッセルの言った通り、時間が巻き戻っていると納得するほうが早かった。

 原因を探るため、警戒を解かずに街を歩き回ること、4回。ガネストが街の異変に気がついてから4回、時間の巻き戻りを経験したが、街にはなんの音沙汰も訪れず、一定の時間が経過すると霧に包まれてしまう。その繰り返しだ。5度目にして、ガネストはかなり参ってしまっていた。
 ルイルはというと、一向に気がつく気配がなかった。次元師としての力量の違いだろうと、彼女に聞こえないように、メッセルはぼやいていた。

(次元師としての、力量の違い……)

 ガネストが街道に立ち尽くして考えに耽っていると、厩舎だったであろう崩れかけた小屋からメッセルが顔を振りながら出てきた。

「だめだ、ここもハズレだ。……あぁ〜、見れるとこは、あらかた見て回ったぜ! けどよ、怪しいモンはねぇし、ただつまんねぇ街並みがあるだけだ。何回繰り返したって変化ひとつありゃしねぇ」
「変化……?」
「特異点、つぅやつだ。どんだけみてくれが完璧にできたもんでもよ、弱いとこはあんだよ。そこを突かれたら簡単に崩れちまう。俺の壺はそういう弱ぇとこが、若ぇ頃はよくあって……」

 関係のない話題へと移り変わってから、ガネストはもう一度考え込んだ。周囲をぐるりと見渡してみても、変化はない。この街に変化がないのだとしたら、いったいどこに出口があるというのだろう。街から出ようと試みたこともあったが、すぐに白い霧に包まれてしまって、どう歩こうとも街の門前に辿り着くだけだった。
 頭の片隅で、なにかがちかちかと明滅している。思いつきそうなのに、それを手に掴むことができない──もどかしさに苦しんでいれば景色はまた白一色に包まれて、それが晴れてくる頃には、3人はサオーリオの街門前に立っていた。
 6回目、だ。ガネストはもう外壁を見上げる力もなく、街の中へと足を踏み入れた。

(……いけない。顔を上げなくては。視野が狭まっては本末転倒だ。もっと広い目で状況を見据えないと……)

 自分を鼓舞するつもりで、空を見上げた。そのときだった。ガネストは、はっと、息を吐く。
 街の空に浮かぶ太陽と月が赤く染まっていた。
 太陽と月は空の上で臨場し、赤々と燃えているではないか。ありえない。それらは代わる代わる上空に現れるのであって、仲良く隣り合う天体ではない。そしてどちらも不気味な赤色をして瞬いているのだ。

 どんどんと、突然胸の内側で心臓が暴れだす。ガネストは空を見上げたまま硬直し、自然と声をもらしていた。

「まさか……」
「どうしたぁ? なんか見つけたか」

 『扉』はとっくに解錠してある。ガネストは震える手で革の拳銃嚢から二丁の『蒼銃』を引き抜くと、それの銃口を、まっすぐ空へと向けた。

「ガネスト?」

 ルイルがこちらを振り向いて、不思議そうに小首を傾げた。それとほぼ同時だった。

「──四元解錠、"真弾"!」

 引き金は引かれ、同時に発砲された二つの弾筋が、瞬く間に空を突き抜けていった。発砲音が響くとともに街を覆っていた白い霧も一気にかき消される。晴れ渡った空を見上げ、弾丸の目指す先へと釘付けになった3人は、2つの赤い光が砕け散るのを目の当たりにした。
 赤い光の粒子がはらり、はらりと、空から落ちてきて、3人の頭上に降り注ぐ。しばしの静寂があたりを包みこんだ。心臓の音が収まってくると、ガネストは結んでいた口元から小さく息を吐きだした。

「霧が……晴れた、ようです」
「な、なん、だったんだぁ……? あの赤い星はよ。どうなってんだ」
「わかりません。でもきっと、これで……」
「ガネスト」

 背筋が凍るような感覚。ぞっと、それは足元から這い上がってきて、ガネストは即座に、ルイルの声がしたほうへと振り返った。すると彼女は棒きれのように立ち尽くしていて、彼女の体より何倍も大きな影に包み込まれていた。

「……この人、だあ、れ」
 
 聳え立っていた。十尺はある長躯、全身が長い裾の布織物で覆われた、悍ましい何か、が。
 ルイルの頭上から濃い影を落とし、息づいている。
 人ではない。


 目深に被った頭巾の下に、二つの赤い目玉が浮かんで見えた。
 
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.144 )
日時: 2024/12/04 23:12
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第130次元 時の止む都Ⅵ

 神族。
 全身の血に混じった次元師としての本質が、"そう"だと、内側で荒波を起こしている。

 天地の神と謳われた【NAURE】を討伐したコルド、そこへ臨場したロクアンズとレトヴェールらの目を通して記された報告書の文字列をなぞるだけでは、まるで御伽噺を読み聞かされているかのように実感がなく、今日この日を迎えるまで、ガネストは神話を信じ崇める者の心情を知り得なかった。
 首筋に電流が走り、血流が激しく波打つ。
 強すぎる光に眼球が焼かれ、頭蓋に激音が響き渡る。
 濁流のごとき激しさで感情の渦に呑まれて、呑まれて、正気でいる、などと──。
 ガネストは無我夢中で引き金を引いた。目の前のそれを破壊したかったのか、魅入られるのではと恐れたのか、真実は弾丸の飛び出す破裂音に、掻き消された。
 
 十尺はあるその化け物は、撃たれた衝撃で上半身を仰け反らせた。と同時──。

「──馬、鹿野郎がッ! 伏せろッ!」
「!」
「六元解錠──"絶豪ぜつごう"!!」

 メッセルの鋭い声が脳みそに響き渡り、刹那。化け物を隔てるように『盾円じゅんえん』が地面の下から飛び出した。幅のある大きな盾は、両端のへりを伸ばし、瞬く間に、化け物の視界から三人の姿を覆い隠していく。
 盾を半球形に婉曲させ、対象から自身らを隔絶する次元技、"絶豪"。次第に完全な半球形となると、あたりは闇に包みこまれた。呼吸音だけが静かにこだまする。
 襲撃に備えて身構える。心臓が早鐘を打つ。汗が顎の先から落ちる。身構える。脚が震える。身構える。
 そうして緊張が頂点に達したまま、闇の中で息を殺していると、頭上からふいに、声がした。
 小さく啜り泣くような、声だ。わずかだが声が降ってくる。

「……え?」

 ガネストは顔を見上げた。"絶豪"の天井の部分を越して声は聞こえてくる。男とも女とも、若人とも老人ともいえない奇妙な声色で、わずらわしく涙声を降らし続けているのは、神族だというのだろうか。
 決して騙されてなるものか。
 ガネストが固く決意し、じっと身を潜めている傍ら、忽然と姿を消している者がいた。彼は頭上にばかり注意していて主人の足音に気がつかなかった。

「ガネスト、めっせる副班」

 だから"絶豪"の外側からルイルの声が飛んできて、二人は激しく肩を震わせた。想像したくない光景が物凄い速さで脳裏をよぎる。ガネストはがちがちと奥歯を鳴らし、返事さえままらなかった。

「出てきて、ねえ」

 心臓の音が大きくてうまく聞き取れなかったガネストは、壁越しのくぐもったルイルの声がわずかに困惑しているのにも気づかなかった。

「泣いてるの……この、おっきなひとね、ずっと、泣いてる。……おそってこないよ」

 ガネストの頬の上を、一筋の汗がつう、と滑り落ちた。そのとき、だれかに肩を叩かれてびくりと身を震わせた。暗がりに慣れてきた目がメッセルの表情を映し出して、彼が黙って頷いたのが見えた。ガネストもゆっくりと頷き返して、二人は緊張の中、息を顰めた。
 "絶豪"を解除し、溶け出した盾の壁の向こうに現れたのは空を見上げているルイルと、彼女の目の前で首を垂れて、さめざめと泣き続けている十尺の化け物の姿だった。
 ガネストとメッセルの姿を認めると、ルイルはくるりと顔をこちらへと向け、ほっと安堵の息をついた。
 目深に被った頭巾の下から漏れ出ている小さな泣き声にうんざりとしながらメッセルがいっとう低い声で告げた。

「……何のつもりだ、なぁ、お前さん神族だろう。騙そうったってそうはいかねぇ。俺の血がそう言ってんだよ。悪ぃが警戒は解かねぇぜ。その嬢ちゃんからいますぐ離れろ」

 腹の底から響く低音が、あたりにぴんと緊張の糸を張る。十尺の化け物は緩慢な動きでルイルを見下ろして、じっくりと間を置いてから、ようやく言葉のようなものをこぼした。

「ああ、その……妾は……嬉しいのです……なにぶん……二百年ぶりに、こうしてお外に……人間様にも……お会いできたのでございますから……」
「あなたは……だあれ?」

 ルイルはこわごわとしながらも、はっきりとした口調で目の前の存在に問いかけた。
 化け物の顔にかかっている頭巾の陰の下から吐き出された声は想像よりもずっと美しく、声色だけで絆されてしまいそうだった。

「我が名は【IME】(アイム)……創造神ヘデンエーラよりめいと肉体を賜った、"時間"を司る神にございます」

 ガネストは、はっと目を見開いて、声にしていた。

「時間……──」
「ははあ。お前さんがやってたっつうわけだな。この街の、時間の繰り返しをよ。……なんだって、んなことをした」

 緊張の糸はまだぴんと張っている。つゆ知らずアイムと名乗った神族はゆったりとした動作で、霧の晴れた夜空を見上げて、長い腕をまっすぐ空へ向けて伸ばした。長らく眠っていた動物が、目覚めて体を起こすように、無防備な動きだった。

「失っていた力が……戻って参りました……二百年ぶりですから……どうにも制御がきかなかったのです……」

 冷たい風が吹いて、アイムの顔を覆っていた頭巾が首の後ろへとなだれ落ちた。アイムはそれから、三人を見下ろした。白い肌に、広い額、極端に低い鼻、それに口のような穴が眉間のあたりに開いていた。人間とはまったく異なる、まさに化け物と呼ぶに相応しい相貌だ。そして二つの赤い瞳に、白い虹彩がぎらぎらと輝いていたのだった。ふいにガネストは、その魅惑的な白い虹彩に釘付けになった。
 ノーラの瞳は十字の形で、虹彩もまたおなじ形をしていたと報告書には上がっていた。しかしアイムの瞳には、"白い円"が描かれている。ちょうど真ん中を、さらに小さな丸でくり抜いたような模様だ。

(おなじ神族でも、姿形はだいぶ異なる……。ノーラは襲いかかってきたがこの神は……)

 ガネストは問いかけながら、指の先で引き金に触れていた。

「二百年前に……貴方がた神族が現れ、この国の民と戦争を始めたとお聞きしています。間違っていませんか?」

 アイムはそれを聞くと、十尺ある体を屈めてガネストに顔を近づけ、穏やかな声色で答えた。

「はい」
「……と、当時のことを覚えているのですか? なぜこの国の人々は、貴方がた神族に憎まれなければならなかったのです? そしてなぜ、戦時中に忽然と姿を消してしまったのですか」

 果たしてどこまで答えるのか──。ガネストはもはや、茨の道を素手素足で突き進んでいるかの如く心地だった。メッセルは黙って警戒していた。

「それが……妾は……覚えて……おりません……【信仰】様より、命が下ったのです……そのあとはどうしたのか……目を覚ましたかと思えば……このような土地におりました……」
「【信仰】様……とは?」

 聞き覚えがある。ガネストの脳裏ではまた、報告書の紙面が捲られていき、行き着いたのはノーラが消滅する寸前の発言の記録だった。「【信仰】を殺せ」とは、どんな思惑があって、コルドらに伝えられたのだろう。その真意を掴めるやもと、ガネストは前のめりになった。

「教えてください、神族アイム」
「その……我々を統べるのは……はい……【信仰】様でございます……秩序を持ちこの世を統治する人間様を守護するため……我々六柱の神族は……母なる創造神ヘデンエーラ様より……生み出されました……ですが【信仰】様が……ひどく……お怒りになられて……それから……記憶しているものがないのです……人間様と戦を起こしたことは……ええ……存じ上げて」

 微細に話の筋が逸れている、とガネストは奥歯を噛み締めた。【信仰】の正体とはいったい何なのか。かの神族の怒りの原因はどこからやってきたのか。なぜノーラは、神族を統べるその【信仰】とやらを殺せと言ったのか。ガネストはさらに問い詰めたい気持ちが逸っているのに、アイムはまるでそれには気がついておらず、何気なく話を続けた。

「六柱……ああ、いいえ……七……」

 そう思いついたように口にした、次の瞬間だった。

「ぁ、ぁ、あ、ぁ」

 アイムの様子が急変する。体を小刻みに震わせ始めたかと思えば、嗚咽のような醜い声を短くもらし、頭を振りながら不安定な足取りで揺れ動いた。
 白い肌膚の一部が変色する。

 次第に、日向が影に飲み込まれていくみたいに、真白の肌を灰色の闇が覆い尽くした。
 
「信仰しろ」

 まるで、呪いの言葉。
 機械的でしかなかった報告書の文字列が現実に映し出される。ガネスト、ルイル、メッセルは悟った。逃れられない高波が眼前に、唐突に、聳え立ったのだ。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.145 )
日時: 2024/04/07 12:57
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第131次元 時の止む都Ⅶ

 激しい警鐘が頭の中に鳴り響いた。動きだしたのは、メッセルがだれよりも早かった。いの一番に、五元級の巨大な盾を惜しみなく展開し、アイムが振り下ろした大腕の襲撃に受けて立つ。直後、鋼のごとく硬い盾の表面に、激しい衝突音が叩きつけられた。

「備えろガキども! ガネスト、常に構えてろ! おめぇが攻撃の要だ! 時間を操ってくるってんだ一秒も気抜くんじゃねぇ! 一瞬で持ってかれるぜ!!」
「は、はい!」
「チ……! 俺ぁよ、コルドほどやれる自信ねぇってんだ……!」

 衝撃の余波で、噛み潰していた葉茎がちぎれて舞い上がった。  
 『盾円じゅんえん』。たとえ槍が降ろうとも、鉄の塊が降ろうとも、何人たりとも侵入を許さない、防護に絶対特化した"盾"。それがメッセルの有する次元の力だった。守護に長けている反面、攻撃手段をほとんど持たず、だからこの班で主力に置くべきは銃撃を得意とするガネスト・クァピットだとメッセルは班編成を言い渡された日からわかってはいたものの、深慮していなかった。メッセルもコルドとほぼ同時期に声をかけられ戦闘部班へ異動してきたとはいえ、先述の通り防御に特化し、戦闘能力の劣る次元師だ。次元師だからという理由ひとつで、同期のよしみで、セブンが買い被っているだけだ。
 だというのに、まさか天下の神族──その一柱に遭遇してしまうとは。メッセルの頭の中はとっくに冷え切っていた。

(こいつぁ、心臓タマぁあんのか……!? なけりゃマトモに闘っても適わねぇぜ。──だがやらねぇわけにもいかねぇ。無力化、が最善手だ!)
 
 ドン──と、さらに足元が激震する。ただもう一発腕を叩きつけられただけだ。だのに、地面が、空気が、震え立つ。何度も何度も繰り返し大腕が振り下ろされ、次第に、頭上に展開した『盾円』から嫌な音が降り落ちた。

「クッソ、重いな……チクショウ! 能力なしでこの威力かよ! さすがに図体でけぇだけあんなぁ!」

 口の中に残った茎の根を雑に吐き捨てて、メッセルは額に汗を滲ませながら、叫んだ。

「ガネスト! こいつぁもうもたねぇ、一旦解くぜ! イイ感じに奴のドタマぶち抜いて、隙を作れ!!」
「……わ、かりました! メッセル副班長、解いてください!」

 照準。合わせて一瞬の、後。視界を埋め尽くす盾の裏面が火をあてられた鉄のようにどろりと溶け出して、いびつな穴が開く。その穴は敵にとっても絶好の急所になるだろう。そこを穿てば盾は一瞬にして粉砕できてしまう。大腕は即座に空へ向かって掲げられ、そして、急速落下した。
 引き金を引く音が立つ。

「──四元解錠! "真弾"!!」

 刹那。細い穴を通り抜けた二発の弾丸が、アイムの頭部を穿つ。頭部が後ろへのけぞり、巨大な体がわずかに傾いた。
 瞬きをした。
 次の瞬間だった。

「え?」

 ガネストの視界が翳る。視界は開けたはずだったのに。傾いたと見えた巨大な腕が、ガネストの眼前を黒に染めあげて、その向こう。わずかに見えた。いいや、見えなかった。アイムの頭部に撃ち込んだはずのその二つの弾痕がなくなっていたのだ。

「──っ!」
(時間を……巻き戻された──!?)

 声を出すことさえ阻まれて、ガネストは神の大腕に薙ぎ飛ばされる。小さなごみを払うような緩慢な動きだったそれで、しかし彼の身体は横跳びし、崩れかけた家屋の壁に突き刺さった。石造の壁は脆くも、彼とともに崩れ落ちた。

「ガネストっ!」

 ルイルが悲痛な叫び声をあげ、大きな音が立ったほうへと顔を向ける。すぐに、ガネストは瓦礫をのけて顔を出し、額から流れ落ちた血の一筋を拭うよりも先に、メッセルに向かって声を張った。

「ぼ、くに……構わず! それよりも、ルイル王女を……!」
「わあってるよっ!」

 手早くルイルのことを抱き上げて、雑に脇元に抱え込むと、メッセルは彼女の顔を見下ろして言った。

「いまだけ許してくれや、お姫さん。ちゃぁ〜んと捕まってろよ!」
「う、うん」

 メッセルは、次に十尺の体から生える巨腕の大振りが投下されるだろうと、予感していた。そして予感は命中し、神の巨腕はすぐにメッセルとルイルに襲いかかった。間一髪。出力大の打撃が降り注ぐより前に、メッセルはルイルの頭部を腕で覆いながら横跳びして、撤退した。
 爆風のような余波がメッセルの背中を押し出して、地面の上を勢いよく転がっていく。アイムは手応えのなかったのをすぐに感じ取ったのか、体の方向をゆったりと正して、立ち上がろうとするメッセルとルイルの頭上を目がけてふたたび巨腕を振り上げた。

「こっちだ、アイム! 四元解錠──、"真弾"!!」

 二発、弾丸が放たれる。アイムの背後から飛んできたそれは肩を撃ち抜いた。だが浅い。ぐるり、と頭部をひねって、アイムは頭巾の下で輝く赤い眼でガネストを凝視した。巨腕は簡単に持ち上がって、また、ガネストの頭上に濃い影を落とした。ごう、と風を叩き切る音がしたかと思うと、強烈な一打が石畳の地面に突き刺さった。
 土埃を纏いながらガネストは危機を脱し、訓練で身につけた通りに受け身を取った。すかさず『蒼銃』を構える。しかし息つく間もなく巨大な影が迫ってきた。撃つが早いか、打たれるが早いか、一瞬の迷いのあと、ガネストは銃身を下げて後方に飛び退いた。巨腕はまたも標的のいない地面を殴打した。しかし、よほど頑丈な体なのだろう、まるで動きが鈍くなる気配がない。
 
 神族の体の頑丈さは、人間はもちろん、元魔をも凌ぐ。この神族【IME】も例外ではないが、しかし、アイムの一挙一動は操り人形がごとく単調だ。注意すべきは時間の巻き戻しだけといっていい。
 その過剰な警戒が仇となる。ガネストは、アイムの動きを注視するあまり周囲が見えていなかった。荒れ果て、立派な道のない街中は、折り重なって横たわる木々や、無造作に転がる瓦礫の山で溢れており、戦闘を妨げるのに十分だった。回避の傍らで射撃を続けるガネストは、地面を這う蔦に足を取られ、がくりと視界が急降下した。頭上に濃い影が落ちる。神の巨腕がいままさに振りかかろうとする。そうした、矢先。
 ガネストの眼前に巨大な黒い"盾"が展開された。
 巨腕の一撃を巨大な盾が受ける。打撃音が轟き、響き、重なり、続き、連続して、神は、盾の壁を殴打する。

「六元解錠、"巌兜いわかぶと"。ちっとやそっとで壊れる盾じゃぁねぇぞ」

 築かれた鉄壁巨郭の盾。形容しがたい異国風の模様が掘られたその真っ黒な盾の表面をアイムが幾度となく叩く。しかし、"巌兜"は傷もつけられなければ、微動だにもしない。
 ガネストは目を丸くして、巨大な黒い盾の内側で息をして、地面にべたついていた腰を持ち上げた。メッセルはとうに立て直していて、傍らのルイルを庇い、術を展開してくれている。

(これが『盾円』──)

 守護に特化した次元の力。見上げればその盾の背はうんと高く、十尺はあるアイムがすっかり隠れてしまっている。事実、アイムの攻撃はまったく貫通せず、だだをこねて腕を振り回す子どもの姿そのものだった。
 そのとき、アイムの攻撃が、ふっと止む。単純な殴打をやめて、アイムは長い腕を伸ばし、盾の両端を掴んだ。"巌兜"をどかすつもりなのだろう。
 ガネストは、はっとして、走り出していた。
 アイムから遠ざかっていくガネストは、かろうじて根を張っている太い木の幹にしがみついた。太さのある枝の根元まで登りきると彼はそこへ腰かけ、すかさず『蒼銃』を構える。

(顔を出したら、その瞬間に射撃する。集中するんだ!)

 が。
 黒い盾の端を掴んでいる、長く歪な、灰色の指。そしてついに顔を覗かせた。ぞわりとガネストの背中が震え上がる。赤い目が、深い真紅の眼が、遠くにいるガネストの視線をたしかに貫いた。
 ガネストは引き金に指をかけたまま静止した。
 ぎらぎらと瞬く赤い、目元から皺が走る。
 途端景色が一変した。ガネストのすぐ目の前にアイムが迫っていた。そして無意識に一歩引き下がる。と、蔦に足元をとられた。瞬間、巨大な腕が風を薙ぐ轟音がして、ガネストはその横薙ぎの手刀に弾き飛ばされた。
 
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.146 )
日時: 2024/04/07 19:01
名前: りゅ (ID: vHHAQ2w4)

凄い文章力ですね!
ファンなので応援していますね!(⋈◍>◡<◍)。✧♡

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.147 )
日時: 2024/05/05 20:55
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第132次元 時の止む都Ⅷ

 "巌兜"を発動させる直前の時間まで巻き戻ったのだ。メッセルは怒りで震える拳を固く握りしめた。

「……クッソ! また時間が巻き戻りやがった!」

 時間の巻き戻しが行われると、状況把握に一瞬気を取られる。よって、発動できていたはずの次元技の再発動に遅れを取る。いくら的確に盾を展開できたとしても、なかったことにされてしまうのだから厄介このうえなかった。自身の扱える次元技の中でも、"巌兜"は、一方向からの防御にもっとも優れているが、破られてしまった以上、再考しなければならない。メッセルには早急な対処が求められていた。

 瓦礫の山に突き刺さったガネストの体はぴくりとも動かない。しかし彼はまだ意識を保っていた。
 恐ろしかった。あの赤い目がまっすぐこちらを捉えている、と認識した途端、身動きが一切とれなくなった。ロクアンズやレトヴェールは、あんな化け物と二度も相まみえて、そのうえでまだ探し続け、戦おうとしている。神族どころか、元魔との戦闘経験すら両手の指で足りてしまうガネストは、圧倒的な力の存在を前に、圧倒的な経験値不足を嘆き、戦意を喪失しかけていた。
 けれど、息をするのもやっとなその口で、呼吸以上の嘆きを吐けないのには理由がある。ガネストは一度首をたれて主人に誓った忠誠を覆せない。だから言えない。ここで果てられない。「恐い」も、「相手にならない」も、それから──「守れない」だなんて、一瞬考えてしまうだけで、口の中に広がる鉄のような罪の味が濃くなった。

「まだ、だ……。こっちを狙え、神族、僕がお前の……相手だ!」

 思考する脳を置き去りにして、ガネストは感情任せに引き金を引く。

「──四元解錠、"挟弾雨さみだれ"!!」

 照準が合わないままに弾丸はたて続けに二つの銃口から吐き出されて空気中を駆け抜ける。アイムの顔面を穿つそれはさながら、大粒の雨が地面を叩くようにけたたましい音を降らせた。巨大な腕で顔を覆い隠し、縮こまっているが、弾丸の雨が止めばアイムはきっと意にも介さず、動きだすだろう。
 ルイルは、困惑していた。彼女は神族【IME】の能力による時間の巻き戻しをいまだ感知していなかった。だんだんと焦りが深くなっていくメッセルの表情も、らしくない戦い方をしているガネストも、考えれば考えるほど奇妙で、幼いながらにルイルはぼんやりと察していた。寂しさ、そして難しい言葉をさらに並べるのなら、疎外感だ。

「じかんが、まきもどり……?」
「……せ、説明はあとだ、嬢ちゃん! おめぇさんは、俺にしっかり捕まっててなぁ」

 さっきまで怖い顔をしていたメッセルが、目尻にしわを寄せて、にかっとルイルに笑いかける。ルイルにはまだ、人の表情の機微が読み取れなかった。母国で生き別れた姉のライラ子帝殿下ならば、上手に言葉を切りこめるだろうが、ルイルはまだ小さすぎて、なにが正しいのかもどう言えば正解なのかもわからない。ルイルは不安げな表情を隠しきれずに、ふいとメッセルから視線を外して、俯いた。

(めっせる副班もガネストも、たくさん動いてるのに……ルイルは、いま、なにをしたらいいか、わかんない)

 元魔だって自分の背丈より遥かに大きくてまだ戦うのは怖いのに、神族はもっと恐ろしい存在だとメッセルやガネストが教えてくれた。だから下手に動いて二人の邪魔をしたくなかったり、"もっと恐ろしい存在"への得体のしれない恐怖心に襲われて、メッセルの袖元に匿われているのが精一杯だった。
 側近のガネストには再三、危険だと思ったら身の安全を第一に考えろ、と口酸っぱく言いつけられている。
 次元師としてこの国のためにいる、と友人の前では言えたはずなのに、いざ戦場ここに立つと、足元がぐらついて仕方ない。
 でも、言いつけの通り、素直に身の安全ばかりを考えてしまうのだから、まだ一国の王女としての自覚が勝っているのだろう。そのうえ王宮で暮らしていた頃とは違って、たった一人だけ側近を連れ立って、海を渡ってきてしまった。心だけでも何重と警戒していなければ、いまの身の上は無防備極まりない。
 ルイルは気疲れからか、だんだんと頭が重くなってくるように感じた。視界がぐらり、ぐらり、と右へ左へ傾いて、不安定になる。
 そんなときだった。俯くルイルの頭の上に、大きくて粗忽な手が乗りかかった。ぐわんと頭が持っていかれそうになり、ルイルは袖を掴む力を強めた。
 メッセルが、すぼめた口先から細い息を、熱く吐いた。

 瓦礫の山から身を乗り出して、横殴りの鉛の雨を降らすガネストは、いよいよ集中を切らしつつあった。"挟弾雨"は、術者の元力と意思の許す限り、半永久的に弾を射出する。絶え間なく撃ちだせばそれだけ元力は激しく消耗する。ガネストは撃ち続ける間にも、どうにか策を練ろうとしたが、かえって思考はまとまらず焦りだけが格段に募っていった。

『ガネスト、攻撃を止めろ!』

 ふいに耳元でがなり声がした。元力を結晶化し、人工的に生み出された"元力石"を用いて発明されたこの研究物から聞こえてくる意思の声にまだ馴染みがなく、一瞬、ガネストは反応に遅れた。

「止めればあの腕が飛んできます! この距離じゃ、止めたあとに回避しようとしても間に合いません。……さすがにもう一度受けてしまえば、どうなるかわかりません。策を講じてからでないと止めるのは無理です!」
『その前に、おめぇさんがぶっ倒れるだろうが! だぁから止めろって言ってんだドぁアホ。しばらくこっちでなんとかする!』

 焦りと苛立ち、そりの合わない口汚なな罵倒、身に降りかかるあらゆる嫌悪感に、沸騰しかけていた全身の血がついに臨界点を超えた。

「さきほどの黒い盾ではおなじことの繰り返しです! それに守るだけでは、この戦闘は終われません。神族やつの心臓の有無がわからない以上、優先するべきは無力化。そのために僅かでも攻撃を与え、消耗させなければなりません。我々の中で僕が攻撃の要だと言ったのはあなたでしょう、副班長! だから早く、攻撃の指示を!」
『……だぁ~~~~! 言うこと聞かねぇガキだなおめぇも! その攻撃を立て直せっつぅ話をだな……あぁクソ、子守りはしねぇっつったのに、まったくよ!』

 その矢先だった。銃把を握る手の内に溜まってきた汗で、ガネストははっとした。握りが甘くなっている。残る力を振り絞り、持ち直そうとした、が、手の中でそれは変に滑ってしまった。
 ガネストは、右手に携えていた『蒼銃』を取り落とした。

(しまった!)

 一丁の『蒼銃』が瓦礫の上で跳ねながら、落ちる。白む景色がゆっくりと流れる。
 もう一丁手元に残る銃を引き続ければよかったのに、ガネストは手を止めてしまった。
 自身を取り巻く景色、風の音、耳元で名前を呼ぶ声、それらを遮断し孤独になった世界を叩き割ったのは、耳をつんざくように鳴った衝撃音だった。

 しかしガネストの身に降りかかったのは、痛みでも衝撃でもなく、──巨大な影だった。
 
 ガネストは閉じかけた瞼を持ち上げる。膨大な質量をしたその音が、目の前で弾け飛んでいた。
 否、音だけではない。自身を目掛けて飛んできた神族の二本の腕が、"なにか"に切断されて空を舞ったのだ。

「六元解錠──、"絶豪"!」

 巨腕を叩き割ったのは、相手と自身らを隔てるようにして発動する盾、"絶豪"。
 アイムの腕の軌道上に生み出され、上腕と、肘から下を絶した。ガネストはただ目を見開いて、空を飛び、視界の端に消える巨腕を見送った。
 "絶豪"の特性、完全に空間を分つその力を利用した、防御であり攻撃の一手。
 メッセルは、余裕の消えた頬に汗を滲ませて、乾いた笑みをこぼした。

「……クソ、付け焼刃になっちまったが、運がいいぜ」

 アイムの短くなった腕が、がくりと崩れ落ちる。神は四つん這いになり、ぴたりと静止した。銃声が止んでしんと静まり返った街の中に、三人の呼吸が落ちる。
 ガネストは揺れる体で立ち上がった。瓦礫の山に突き刺さっている一丁の拳銃を取り上げようとして、すぐに、滑り落とした。

(──……)

 ぐっと奥歯を噛み締める。今度こそ拳銃を拾い上げ、通信具からメッセルの呼吸音が聞こえているのを確認すると、口を開いた。

「メッセル副班長。あの……」

 ドシン。大地が、揺れた。
 足元が踊った。視界がブレた。声が途切れた。息を、止めた。
 それを凝視した。
 
 巨躯が激しく震動している。残された短い腕ががたがたと小刻みに動き出して、次の瞬間だった。

「厳戒態勢だ!」

 その声は通信具の奥からだったのか、街の中からだったのか。
 直接脳みそを揺さぶられるほどに、深くガネストの意識に突き刺さった。

 腕の切断口から、太い腕が"再生"した。末端までしかと伸び切った新しい手指はアイムの両端に聳え立っていた建物の上に降り立ち、平らな脳天を崩落させた。そして。脇の下。肋骨の横。腰の上。腿の端。それらの両端から二本ずつ新たな腕が芽吹く。アイムの周囲を取り囲んでいた建造物の天井が、十本もの手指の末端と衝突しただけでいとも容易く弾け飛んだ。周囲の建造物に、触れ、壊し、触れ、弾き、触れ、崩し、を悪夢のように繰り返す。

「ア゛ア゛アア ア゛アアア゛!!」

 巨躯に十本の腕を携え、不愉快な哭き声を発信し続ける"それ"は、もはや神聖な生き物ではなく、醜悪極めた化け物だった。
 
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.148 )
日時: 2024/06/03 22:14
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第133次元 時の止む都Ⅸ

 十本の巨腕を縦横無尽に振り乱し、アイムは、周囲の建造物を手当たり次第に破壊していく。その魔の手は、メッセル、ルイル、ガネストにも届こうとしていた。

『メッセル副班!』
「わぁってるよ! その場を動くな、ガネスト! ──クソ神野郎が、何遍なんべんでも防いでやる!!」

 メッセルは固く握っていた手を広げる。分厚い手のひらから瞬く間に溢れだした光が、『異次元への扉』を開く。

「六元解錠──"展陣"!!」

 宙に出現する、人の身の丈ほどの"盾"──それは数十にも連なって、複腕の化け物を完全包囲にした。化け物、アイムはゆうるりと首を回しただけで、意に介さず、巨腕を振り乱そうと動き出した。一本、太い腕が風を切るだけで重低音が響き、"展陣"に向かって墜落するとそれはたちまちに砕け散る。が、『展陣』は複数の盾を自在に生み出して操作する次元技だ。すかさずメッセルは、また新たに盾を、アイムの腕の軌道上に生み出して、文字通り"陣形"を整える。
 アイムは十本の巨腕を、なんの脈絡も意図もなく、ただ激しいばかりに振り回し、盾と衝突すればそれを叩き割った。されど盾は延々と空中に湧いて出る。アイムの腕の軌道や、盾が破壊されればその余波を懸念し、数十に貼り巡らせた盾を見事に操作し続けるメッセルは、頭の隅で次の一手を講じていた。

「おいガネスト! 聞こえてっかぁ!」
『は、はい』
「このままじゃ埒が明かねぇ。おめぇさんよ、最初に俺がぶっ飛ばした腕、わかるよな!? そいつの根元を狙い撃て! 勘だが新しく生えやがった八本よりか強度は低いはずだぜ。一本二本飛ばしゃまたバランスを崩すだろ。そこを突く! 頼むぜ!」

 ガネストは、すぐに返事ができなかった。初めの二本の狙い撃ちが、容易ではないと、頭で理解したのが先だったからだ。十本の腕はどれも休まず元気に動き続けている。それに根元から波打っており縦横無尽で、軌道も読みにくい。理由はもうひとつあって、メッセルの"展陣"もまた、盾であると同時に、弾の障壁になっているのだ。
 特定の腕の、特定の部位を、正確に狙ったうえで、それを弾丸で切断する力も伴っていなければならないなんて、課題が多くて頭が痛くなりそうだった。

(千載一遇の機会を狙うような余裕のある戦況では、ない。ほかの腕に仕掛けてみてはだめなのか? ……いいや、やっぱり、よそう。それにしても、そこを突くと言っていたけども、メッセル副班長はなにか策を考えている……?)

 なかば身のないような声で、承知しました、と、ガネストがようやくメッセルに返事をしかけたときだった。
 通信具越しに、ルイルの甲高い悲鳴が聞こえてきた。
 
『! ルイル!!』
 
 ほんの数瞬、前。メッセルとルイルの目の前に展開していた『展陣』に巨腕が衝突した。すぐさま新しい盾を生み出そうとしたメッセルだったが、それよりも早く、死角からもう一本の腕が迫っていた。盾を貼るのは間に合わないと察したメッセルはルイルを抱きかかえ、身をよじって力任せに飛びのいた。
 目の前まで接近した腕の、平べったい手の先に、爪のような鋭利なものが伸びていた。メッセルはそれによって衣服ごと背中を裂かれた。傷はまだ浅い。態勢を立て直し、次の襲撃に備えるまで余裕があった。盾を空中に展開。した途端、心配そうな表情で、ルイルがメッセルの服の裾にしがみついた。

「安心しな、嬢ちゃん」

 ルイルの頭の上をまたメッセルが撫でた。彼の顔は汗まみれで、背中の切り傷からはどくどくと赤い血があふれ出ているのに、声はつとめて明るかった。

「俺ぁ……優秀な術師じゃねぇからよ。カッケー感じで敵さん倒せねぇんだわ。さっきの"絶豪"は運がよかっただけだしな! けどよ、おまえさんだけは守らなくちゃあな」

 守る、と言ってくれるメッセルもガネストも、苦しそうだ。傍で血を流されて、遠くで鳴っている銃声を耳にしていれば、幼いルイルにもそのくらいはわかる。まるで安心ができない。ずっと心臓がうるさいままだ。そのせいか、メッセルの声がいっとう静かに感じられた。大人の声だ、と当たり前のことを思った。

守護まもりは、俺の専売特許だぜ」

 メッセルはルイルの目線の高さに合わせてしゃがみこむ。それから彼の手元が明るく瞬いた。詠唱が聞こえてきたのだが、ルイルにはその強い瞬きのほうに意識を捕えられていて、メッセルがなんと唱えたかまではわからなかった。しかし、手のひらに収まった鶏の卵ほどの大きさの球体を見せながら、メッセルは答えてくれた。

「こいつは"封蛹ふさなぎ"。携帯型の盾でな、持ってるやつが望みゃ発動して、そいつを守ってくれるもんだ。強度はあるがあいにくと小さいもんでよ、一人を覆うので精一杯だが、ほれ、持っときな」
「な、なんで……?」
「お守りだ」

 聞きたかったのは、「なんでそんなものをいま渡すのか?」だった。このままメッセルや、彼の盾が守ってくれるのではないのか。ルイルは突然不安に感じたが、口にしたらことさら心が縮まりそうで、言えなかった。だからそのお守りを、なかば押しつけられる形でメッセルから受け取った。
 アイムの複腕は休止の二文字を知らず、極限の激しさを保ったまま周囲の建物を、木々を、『盾』を片っ端から薙ぎ倒していくが、よくよく観察していると、腕の何本かに傷跡が刻まれているのが見えた。防御に徹しているメッセルにも、その足元にひっついているルイルにも、機会を伺い続けているガネストにも、あのような細い切り傷や、ぶつけたようなへこみはつけられない。アイム自身が、傷つけているのだ。建物の一角や、木枝の切っ先、盾の破片に爪痕を残されて。しかしアイムに自覚はないだろう。なぜならばとっくに自我はなく、自身を省みるなんて意識もない。ガネストは、まじまじと腕の動きを観察していたためか、アイムの腕の傷にいち早く気がついた。

(いまならば、僕の次元の力でもアイムの腕を二本……いや、一本だけでも、なんとか破壊できるか?)

 そのときだった。左側の上腕が真上に弾けて、脇が開く。続けてその下の腕もくねりと舞い上がったので、左側は狙うのが厳しいが、その向こう。右側の上腕が無防備に持ち上がった。くっきりと腕の根元が視界に映った。

(いまだ!)

 引き金にかける指に力を込めた。次の瞬間。

「あ」

 ほぼ同時だった。ガネストは見てしまった。手元から、なにかを滑り落としたらしいルイルが、小さく悲鳴をあげて、それを追いかける。まるで手元で遊んでいた毬を落としてしまったかのように、けつまずきそうな足取りで走り出していた。
 アイムの腕の一本、低い位置から生えている左腕がぐんと急に曲がった。その軌道上に、ルイルは飛び出していた。
 ばかやろうの声に、迫りくる巨腕に、気がついたときには、目前にまで脅威は迫っていた。

 ガネストは迷わず引き金を引いた。激しい銃声が響いた。

 ──が、誤算だった、とあとになって理解した。ガネストもまた、頭が真っ白で、視野が狭まっていて、見えていなかったのである。
 『蒼銃』が撃ち抜いたのはアイムの巨腕ではなくメッセルの胸元だった。そのはずだ。ガネストが狙いを変更して発砲するよりも先に、メッセルが動いていたのだ。彼はばかやろうと叫ぶ間にも大きく一歩を踏み出していて、二歩ほどでルイルに追いついた。彼女の腕を手早く引き寄せながら『展陣』を貼り、巨腕と衝突させた。その瞬間だったのだ。メッセルの肩口と胸のちょうど間を、一発の弾丸が貫いていったのは。

 視界の奥で、メッセルの体から赤い血液が飛び出して、ガネストは息を詰めた。
 途端に心臓が暴れだす。全身の血が忙しなく巡っている。引き金を引いた指先にすべての意識と熱が集まっているんじゃないかと疑うほどに、その指は痛く軋んで、動かすことができなかった。代わりに、大きく見開いた瞳を、瞬かせた。

「メ……メッセル副班長!!」

 頼むから無事だと返事をしてほしい。だぁいじょうぶだといつもの調子で声を返してほしい。その一心で叫んでいた。また手元から銃が落ちそうになるのを気にも留めずに、ガネストはメッセルの名前を呼び続けた。

「信じてるぜ」

 意思の声がガネストの耳元で反響し、そう聞こえてきた。口元は笑っているのだろうが、息も絶え絶えで、いまにも掠れて消えそうで、まったく取り繕えていなかった。

「俺ぁ、おめぇさんをよ」

 途切れた。苦しそうに掠れた語尾が、その後訪れた静寂に尾を引いた。
 だらりと落ちた腕の重みで、そのまま崩れ落ちてしまいそうになるのを、意志だけで引き上げたのは、ルイルのもとへ向かうためだった。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.149 )
日時: 2024/06/30 19:19
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第134次元 時の止む都Ⅹ

 ガネストは瓦礫の山のてっぺんから飛び出して、巨大なアイムの脇を駆け抜けた。暴れ回る腕の波間を縫い、遮蔽物を越えて、一心不乱にルイルとメッセルの居場所を目指した。鮮やかな桃色の頭が見えてくると、それは小刻みに揺れていた。血だまりの中で倒れているメッセルに縋りついて、ルイルが声をあげて泣いているのだ。

「めっせ、る、ふくはん。ねえ、ねっ、おきて、めっせ」

 彼を血だまりに沈めたのが、その胸元を撃ち抜いたのが、自分の射出した弾であると、ルイルは気づいてしまっただろうか──。その懸念はすぐに霧散することとなる。
 ルイルは瞳にいっぱいの涙を溜めて、近づいてきたガネストの顔を、その潤んだ双眸で見上げた。

「……! ぁ、ガネスト! ガネスト、めっせる副班がね、おきないの。どうしよう、どうしよう……! ルイルが、お守り、落としちゃって、ひろいにいったからぁ……!」

 ガネストはぐっと拳を作った。爪先で手のひらを裂いて出血してしまうのじゃないかというほどに、固く、握りこんでいた。ルイルは気が動転しているのもあって、メッセルが倒れた本当の理由を知らずに、ただひたすらガネストに助けを求めた。

「ガネスト……!」
「ルイル、一度離れましょう」

 掠れた声で静かに言い放って、ガネストはルイルから視線をそらし、メッセルの傍でしゃがみこんだ。そして自身より一回りも二回りも大きいメッセルの体を背負うと、足をぐらつかせながら歩き出した。ばらばらと、背後で数多のなにかが一斉に崩れ落ちる、大きな音がした。振り返れば、メッセルの『展陣』が主人の声をなくし、次々と死に絶えていた。アイムの十本の腕がもし、"周囲にあるものを破壊しようとしていた"なら、『展陣』を失ったこの戦況に留まるのは自殺行為に等しい。盾なきいま、真っ先にガネストとルイルが標的にされる。だからこそガネストは、一刻も早くこの場を離れようと急いだのだ。
 縦横無尽に荒れ狂っているアイムの複腕にはまだ捉えていない。この隙にと、二人はなんとか形を保っている建物の影の下に入りこんだ。
 
(勝機はない)

 応急処置を施したメッセルを建物の壁に寄りかからせながら、ガネストは冷静に状況を理解をしていた。
 まだメッセルが動けているうちでも、戦況は防戦一方だった。その"防戦"すら封じられてしまったガネストとルイルの二人に打つ手はない。一時撤退を図り、応援を呼ぶのが最善手だろうが、忘れてはならない事実がある。アイムの最大の能力は、時間の巻き戻しだ。下手に動いて、認知をされれば、時間は後退し、かえって相手に隙を与えてしまう。考えるのと武器を取るのとを同時にしなければならない。こうしている間にも、アイムは標的を探して、巨体を引きずりながら動き回っているのだ。
 そうしていると、ふいにガネストは、ルイルが両手で大事そうに抱えている白い球体に視線を吸い寄せられた。

「ルイル……それは?」

 ルイルは、蕾を膨らませるように、ゆったりとした動作で両手を開いた。その手のひらには複雑な金細工が施された白い球体──"封蛹ふさなぎ"が収まっており、それをガネストにもよく見えるようにすこし持ち上げた。

「これ……メッセルふくはんから、もらったの。ルイルのこと、守ってくれるんだって。ひとり分なんだって……。さなぎ? みたいな……名前だったよ」
「……」

 ガネストはしばし考え込んだ。口ではガキのお守りは面倒だのと、大声で文句をたれるような男だが、甘やかし方も一丁前で、なんだかんだと異国からきた二人の子供の面倒を見てくれていた。ルイルに飴を与える傍らで、ガネストの任務を応援するように背中を押してくれたのだってつい最近の出来事だ。正確には叩いた、なのだが。
 ──信じてる、とは、僕のなにを信じているのだろう?
 一つの球体をじっくりと眺めていたガネストの脳裏に、ある答えがよぎった。メッセルは、これをルイル一人の分だけ作って彼女に渡した。まさかガネストの性格が気に食わないから、なんて意地悪はしないだろう。考えられる理由としては、一つ、この次元技は同時に複数作ることができない。もしくは複数作ってしまうと一つ分の効力が落ちていく代物である。そしてもう一つある。意地悪ではなく、意図して、"わざとガネストの分を作らなかった"としたら。

『信じてるぜ』
『俺ぁ、おめぇさんをよ』
(まったく、自分勝手で、いい加減で、一方的な……無茶ぶりだ)
 
 絡まっていた思考の糸が、驚くほど単純な一本の線になった。その糸は、メッセルと自身の魂の部分を繋いでくれているような、急にそんな心地がしてきた。ぐったりと壁に背中を預けるメッセルと、その傍らで立ち尽くす自分との間にはもちろん、糸なんてものは張られていなくて、ただメッセルの胸元に巻かれた包帯をじんわりと濡らしている赤色だけが鮮明だった。

 ──次元の力は、大切な人を守る力なんだ。
 ロクアンズの口癖が身に鋭く染み入ってくる。ガネストは、メッセルの隣で小さくなっているルイルに向かうと、意を決して、口を開いた。

「ルイル、その次元技を発動させてください。そして、ここでじっとして、絶対に動かないでください。声もあげないで。奴に標的にされてしまいますから」
「ガネスト……? どこか行くの?」

 ルイルの声色は不安そうで、本人の意志とは関係なく、核心的だった。彼女からすれば「そうなってほしくない」とでも言いたいのだろう、また大きな桃色の瞳に涙の膜が張って、ガネストを見つめている。
 ガネストは『蒼銃』を銃嚢から取り出し、滑りがないかを確認し、返答した。

「はい」
「……や、やだ! やだよ、ガネスト、るいるのちかくにいてよ! そうしてくれるって、はなれないって、ガネスト言ったのに!」

 ルイルは勢いのまま立ち上がる。そして、ガネストの外套にしがみついた。その拍子に、"封蛹"がルイルの手元から落ちて、からんと地面の上を跳ねた。ガネストは『蒼銃』を銃嚢にしまい直すと、失礼のない仕草でルイルの手をやんわりのけて、彼女の瞳を見つめ返した。

「お聞き入れください。貴方の御命は、僕よりもずっと重く、尊い。だからなにがあっても守り抜かなければなりません。そのために僕は、貴方の命にも背きましょう」
「…………」
「どうか、守らせてください、ルイル王女殿下。ご安心を。貴方のことは、この僕が……。"僕たち"が、必ず無事に、アルタナ王国に帰します」

 ガネストは静かにそう告げると、地面の上にぽつりと転がる"封蛹"を拾いあげて、ルイルに向き直った。ルイルはなされるがまま小さな両手を引き寄せられて、その手にまた、ガネストは球体を包ませた。
 ルイルの両手ごと包み込み、ガネストは祈るように目を閉じていた。
 それからすぐに手を離した。『蒼銃』を構えて路地に飛び出す。思わずルイルは、その背中に呼びかけていた。

「ガネス……っ!」

 しかし。すぐにはっとして、ルイルは小さな手で口元を覆った。ここでじっとして。動かないでいて。声もあげないで。言いつけが、もうなにも考えたくなくなっている自分の足の先までも締めつけた。わがままの振り方を忘れてしまった王女殿下は、ただくしゃくしゃに顔をゆがませて、とめどなく涙をこぼした。

 月明りの下、一人で街道に飛び出したガネストは、ふたたび十尺の化け物を視界に据えた。

(彼が……わざと、僕に"さなぎ"を作らなかった理由を汲むとしたら、まずルイルのことだろう。彼女の蛹を守らせようとしたんだ、きっと。二人とも隠れてしまったら、万が一見つかってしまったときに対処できる者がいなくなる。だから)

 ガネストは視線を落とし、手元に携えてある『蒼銃』をじっと見つめた。次に顔を上げて、アイムの腕のうち、ある二本の腕を見据えた。腕の根元にいびつな線が走っており、腕の外周をぐるりと回っている。一度切断された二本の古株だ。
 交戦中だというのに余計な感情に左右された。異国にやってきてからずっと、周囲のすべてを警戒をしていたのが、あだとなった。上官の性行にいちいち角を立て、命じられた動きを躊躇し、ついには判断が出遅れた。いまさら後悔に及んだところで遅いのだが、たった一人で戦場に立つのは、いささか──あるいは大分だろうが、自覚のないうちに心の隅で押し潰し──緊張して、この先に起こりうる絶望を頭の中で想像しては、無理やりにそれを払いのけた。メッセル・トーニオが抜けた穴は大きく、一歩誤れば、そこへ真っ逆さまに落ちるだろう。彼が、ガネストの胸中に置いていってしまった、いまやもう透明になった安心感を、ひしと感じてしまう。

 出てきたからには腹を括らなければならない。ガネストは片手を持ち上げ、黒い空に向かって一発の"真弾"を放った。
 ぱん、と乾いた発砲音が、薄い宵闇あたり一帯に、響く。
 アイムの頭部がゆらりとひねられて、血のように赤い両目がガネストを認識した。

(いつまで生きていられるかはわからない。だけど、彼女には指一本でも触れさせるわけにいかない)
「そのための次元ぼくの力だ」

 ゆっくりと銃口が下りる。ガネストはアイムを標的に据え、構え直した。
 大切な者を守る力は、この扉の先にしかない。

「来るなら来い、神族。もう守り方は教わった! 僕は、死んでも彼女を守るために、"ここ"にきたんだ!」


Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.150 )
日時: 2024/07/13 12:58
名前: りゅ (ID: 07JeHVNw)

とても面白いので更新頑張って下さい!(⋈◍>◡<◍)。✧♡

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.151 )
日時: 2024/07/28 18:36
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
第135次元 時の止む都ⅩⅠ

 同時、標的を捕捉した複腕の化け物──アイムの白い身体から、木の幹より二回りも三回りも太い十本の腕が一斉に飛びかかってくる。しかし巨大に膨らんだその触手をうねらせてしまえば、かえって幾本かが視界を遮って、ガネストという小さな標的を捉えきれない。一本だ。自身に届くと予測できたその一本にだけ的を絞って、"真弾"で迎え撃った。
 真正面からの射撃の衝撃に怯んだか、一本の腕が大きくのけ反ったのと同時に、ガネストは走り出した。残りの九本が、続けざまに襲いかかってこようとする。アイムがあたり一帯を破壊し尽くしてくれたおかげで、文字通り山のように遮蔽物が積み重なっており、幸運にもそのほとんどから逃れられた。しかし、ほとんどから、だ。偶然にもガネストの背中に届いた一、二本は、背中に当たっただけでも強い衝撃を伴って、吹き飛ばされたガネストは遮蔽物の山に頭から突っ込んだ。額の薄皮が切れ、鼻の片穴から出血しても、足を止められなかった。
 幸い、九本のうち多くは遮蔽物に自ら突っ込んで、動きを鈍らせている。ガネストはルイルとメッセルが隠れている場所からどんどんと離れていき、まだ無事な建物が多い場所へ、それもできるだけ背丈のある建物を目指した。アイムはまんまと誘導されて、遮蔽物の山を踏み越え、木々を踏み倒し、四肢を引きずりながら、とにかくガネストの背中を追いかけた。
 アイムの全長を超えるほどの高い建物を見つけると、迷わずガネストは路地裏へ滑り込んだ。そこへアイムが、闇に紛れようとするガネストを目掛けて、十本の腕を束ね、それを薙ぎ払った。腰を折られた建物は、割れるような大きな衝撃音とともに、大破した。ぐらり、と建物が胴体を傾かせる。
 瞬間、倒れこんできた建物が、束になったアイムの腕に乗りかかり、そのまま十本もの腕がすべて建物の下敷となった。
 余波に巻き込まれたガネストは、宙に浮きながら銃を構えた。すると、次の瞬間、脳みそがかき混ぜられるような不快感と、わずかな浮遊感が一気に打ち寄せてきた。ばち、と目の前で光が爆ぜる。と、視界が一瞬にして切り替わった。
 ガネストは背の高い建物の壁際で影と相成っていて、路地の奥へ足を向けている。アイムは腕をひっこめて建物と建物の隙間に顔を突っ込んだ。大きな赤い目が闇の中で光り、それと目が合うと、ガネストはどきりと心臓を跳ねらせた。ガネストは曲がり角へと滑り込んで、赤い視線から逃れようとした。

(また使い始めた)

 時間の巻き戻しだ。戦闘が開始したあとしばらくは使っていたのに、そういえば、随分と長らく時間を巻き戻されていなかった気がする。単純に、使う必要がないから使わなかっただけなのか──いや。妙に、頭に引っかかる。ガネストは肩で息をしながら、思考を巡らせ始めた。

 傾向をかえりみると、アイムは自分が不利になったと判断した行動の直前の時間まで巻き戻しを行うようだ。もしかすると時間の巻き戻しには、恐ろしいことに時間の際限がないのかもしれない──その気になればどの時間にも、数億年と昔まで巻き戻せてしまう──が、その懸念はいまは、横に置いておくとする。
 だとすれば、メッセルの"絶豪"に腕を切り落とされたときに時間の巻き戻しを行わなかったのは、不自然だ。

負荷リスクを伴う……?)
 
 単に使わなかった、と考えるのではなく、使えなかった、とガネストは仮定することにした。
 二本の腕を切断された直前の時間に戻ればよかったものを、戦闘を続行させたのも、『展陣』との戦闘時に一度も時間を巻き戻さなかったのも、それならば納得がいく。
 
(巻き戻しの回数に上限があった? いいや……いまの正気ではないアイムが、上限を気にして動いているようには到底見えない。なら……──疲労、や、消耗? 神族にもあるのだろうか……そんな、僕たち人間みたいなことが。人間が運動すれば体力を消耗していくように、)

 次元師が、扉を開けば、元力を失っていくように。
 そこまで思い至ったガネストは、このとき、神族の真理のひとつを掴みかけていた。しかし当の本人は知る由もなく、ただそれを、頭の隅にひっかけておいた。
 メッセルがそう察しをつけていたのかどうか、いますぐに知りたくなった。しかし言葉を交わそうにも、作戦をすり合わせようにも、もう遅い。できない。ならば、ガネストにできるのは、戦場に残された彼の思考の痕跡を拾い集め、それを弾丸とともに『蒼銃』へと込めることだけだ。
 
 ガネストの手によって持ち上げられた『蒼銃』は、空に向かってひときわ甲高く、咆えた。
 口元ではなにかを口ずさんでいた。
 そのとき、ガネストは巨大な敵意が塊となって差し迫っていることに早く感づいた。灰色の巨腕が路地の隙間に無理やりにねじこまれ轟音が響く。颯爽と、銃を構えて曲がり角から飛び出した。
 飛び出した、と同時に、ガネストは銃を構えた片腕をぴんと伸ばし、銃口を、腕の先端と接触させた。

「四元解錠、"真弾"」

 接射。
 音が響く。うずもれた銃撃音が神の腕の中を駆け抜けて瞬く間に、銃口との接触部から肘にかけてすばやく亀裂が走り灰色の皮膚がぶくりと膨れる。しかしこれでも、浅い。アイムが怯んだのは一瞬だった。すぐに切り替えて、ガネストは狭い路地のさらに奥へ駆け入った。
 だが灰色の巨腕がごうと鋭い音を立て、物凄い速さで追跡してきた。
 気がつけば、ガネストの背中にあともう少しで触れるところまで、その悪魔のような巨塊は迫っていた。
 
 激しい衝撃音がガネストの耳をつんざいた。否、もしかしたら鼓膜は耳もろとも、"そのとき"に潰されていて、無音だったのかもしれない。
 背中に喰らいつくように灰色の手で少年の身体を乱暴に捕まえて、ところかまわず、狭い路地にもかかわらずアイムはためらいなく腕を上下に振り乱してついには、建物の壁に少年の身体を叩きつけた。周囲一帯を震わせるような、空も割れそうなほどの激しい衝撃音が響き渡って、巨大な瓦礫片が宙を舞った。
 ガネストの半身が潰れていた。人の形はもう保てなかった。否応なしに変形した彼の輪郭は一瞬にして破裂した。
 
「五元、かいじょ」

 真上の夜闇に、白いなにかが、瞬いた。
 
 静かに彼は口ずさんでいた。
 心のまま、意志の赴くままに、打ち寄せられた詠唱うたが──"星"のように降り落ちる。

「降らせ──ッ! "挟弾雨さみだれ"!!」

 それは流星だった。
 深い夜闇の中で数多の白い光が瞬く。まさに流れ星。刹那。白い光──不定形の光の弾丸たちは目にも止まらぬ速さで地上を目掛けて夜の中を滑り落ち、やがてアイムの頭上から激しく降り注いだ。

「──巻き戻せっ、アイム!!」
 
 ガネストは残った口の端を大きくかっ開いて、唾と血の混じった液体を吐き散らしながら、決死の怒号を響かせた。アイムは、篠を束ねた弾丸の雨から逃れることができずに激しく頭を揺らし、そして、赤い瞳が一層強く瞬いた。
 視界が歪む。現在と過去が綯い交ぜになる。頭の後ろのほうを強い力で引っ張られているのにふわりと浮くような不快感が襲い掛かった。
 瞬きをすると、そこは影が落ちる路地裏で、ガネストは両肩を上下させていた。胸に手を当てるまでもなく肺が呼吸で膨らんでいた。
 間髪入れずに、巨大な敵意が塊となってガネストの頭上に影を落としていた。

 ガネストは振り仰ぐと、思わず笑みをこぼした。

「狙い通り、"ここ"に戻ったな」

 巨腕が風を切って振り下ろされる。ガネストの手によって持ち上げられた『蒼銃』は、空に向かってひときわ甲高く、咆えた。

「五元解錠──"真弾"!!」

 一つ前の過去をなぞろうと腕が、銃口が、寸分違わない動きで素早く弾丸を放つ。しかしガネストが唱えたのは、ひとつ前の過去とは違う。雨のような弾丸を放つ"挟弾雨"ではなく、"真弾"。同時に放たれる二発に力を集約させた単純強化系の次元技だ。弾丸はアイムの腕に二つの風穴を開け、夜空の向こうへと突き抜けた。
 アイムが胸を反らして、ゆっくり街道の上に倒れようとする。そのときぶちり、と嫌な音が響いた。二つの風穴が開いている腕が、根元からぱっくりと割れたのだ。どしん、と一際大きな音をさせて倒れたアイムのすぐ隣に、その太い腕が寝転がった。根元に歪な線が走っている二本の腕のうち一本だった。

 ガネストの脳内は緊張と恐怖とでいっぱいに満たされていたが、ゆっくりと、足先だけは路地裏から街道へと出た。まだ胸の内側では激しく心臓が運動している。それでもじっとしていられなかった。
 アイムは荷馬車などが通る車道を挟んで、向こう岸に見える街道に頭部を倒して、足元はガネストのすぐ傍で横になっていた。身体から伸びている九本の太い腕もまばらに伸びている。

(……静かになった……。やはり、時間の巻き戻しを過剰に行ったからこその、疲労……?)

 まだ気を抜いてはいけない。ガネストは固く銃身を捕まえていた。一定の距離を保ちながら、静かに倒れ伏しているアイムをまじまじと観察する。まったく動く気配がないように見えたが、眉間に開いた小さな穴のような口が、わずかに動いた。

「……ああ、ど……して」

 ガネストはすばやく銃を構えて、アイムの顔面を射程内に捉えた。だがアイムは起き上がるような素振りはなく、ただ小さな口をぱくぱくと開いたり閉じたりしている。

「人間、様。どうか。どうか……」

 泣いているのだろうか。
 ガネストは緊張した面持ちで、けっして銃身は下げずに身構えていた。だけど、アイムの声があまりにもか細く、弱々しく、気が抜けそうになった。


「【信仰】……ベルイヴ様を……──」


 ──"ベルイヴ"…………?
 ガネストがその名前をたしかに聞き取った、そのときだった。


 突然、アイムの胸元が激しく脈動した。まるで地面に弾かれたかのように、灰色の大きな背中が仰け反ったのだ。


Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.152 )
日時: 2024/11/20 20:47
名前: 瑚雲 ◆6leuycUnLw (ID: 82jPDi/1)

 
 第136次元 時の止む都ⅩII

 いや、"地面の下から無数の木の根が槍のように鋭く飛び出して"、その力に弾かれて巨体が浮いたのだ。地面からまっすぐ伸びて、アイムの身体を貫通している無数の木の根は、それだけでアイムの上体を起こしてしまった。まるで操り人形のようにぐらぐらと頭部を揺らすアイムよりももっと高い場所から声がする。声の主は、崩れかけた建物の屋上に腰をかけていた。

「なに寝そべってんだ? オイ、困るぜ。オマエも付き合ってくんねーと。ノーラを殺したヤツ探すんだよ」

 声の主はそう言うと、建物の屋上から軽やかに跳躍した。次の瞬間には、たっ、とアイムの広い肩の上に到着する。そこでガネストの存在に気がつき、目が合った。

「あ?」

 ガネストはだらしなく口を開け、刮目していた。灰色に染まり上がった筋肉質な細い四肢。はためく外套から覗く、人間ではありえない極端に細い腰。膝まである白い髪が風に嬲られ、激しく靡いてる様は、それだけで粗暴な性質を助長する。長い髪の波間から血濡れた赤い瞳が見えた。
 見た目よりもずっと人間の男に近い声で、それはガネストに言った。

「オイ、オマエ。コルド・ヘイナーってヤツはどこにいる」

 ガネストの背後から絶望が足音を立てて駆けてきた。
 心臓が激しく暴れ回って、すぐにでも止まってしまいだった。神族だ。また新しい神族が現れたのだ。当然、見たことも聞いたこともない風貌をしている。銃口はとっくに地面を向いていて、腕は力なく垂れ下がってしまっている。指一本も動すことができない。そうすればたちまちに命を奪われてしまうのではないかと恐怖していた。身をこわばらせてしまうのは、あの神族が現れた瞬間から、周囲の空気をまるごと支配されているような気がしてならないからだ。
 ガネストが黙りこみ、氷のように固まっていると、長髪の人型の神族は片眉を上げた。

「聞いてンの? 言えよ。コルド・ヘイナーはどこだよ。なあ。オイ。言えって」
「…………」
「名前違ったか? まあいいや。ほかの人間(やつ)に訊く」

 長髪の神族はゆらりと立ち上がって、長いかぎ爪を持った指先を宙に置いた。すると、アイムの身体を貫いているのとおなじような木の枝が地面の下から飛び出した。枝の矛先はなんの初動も見せず、静かに、ガネストの左胸に到達した。

(あ。死──)

 予感した、瞬間。
 雷光。

 視界を焼き尽くす、白く眩しい光がかっと瞬いた。同時に重低音が耳を劈き、大地を激しく殴打する。
 吹き荒れる風を全身に浴び、ガネストは、額のあたりがくらくらとして、意識ごと吹き飛ばされそうだったがなんとか、小刻みに揺れる足元を視界に映した。
 舞い上がった土埃が晴れる。
 頭の芯を貫いていくような、よくよく響く少女の怒号が聞こえた。

「あたしの仲間になにしようとしてんだ、──お前っ!!」

 若草色の長髪が風に嬲られ、踊る。少女が一人、電気を纏った手を突き出して、道の上に立っていた。
 ロクアンズ・エポールは左目を鋭く光らせて、風の壁の向こう、雷を落としたあたりの一点を睨んでいた。
 聞き覚えのある声を捉えてようやくガネストは、そちらに目を向けた。ふと顔を振った拍子に、ガネストと目が合ったロクは、表情を崩した。
 急いで駆け寄ってくる彼女の顔を見て初めて、ガネストはずっと歯を食いしばっていたのだと気づいた。

「ガネストっ! 大丈夫!?」

 ガネストの姿は、一目見ただけでも、虚勢を張れるような状態ではなかった。身体のあちこちに打撲痕があり、頭部からは出血の痕が残っていた。衣類はただのぼろ布を被っているのとそう変わらない。それに、近くにはルイルもメッセルも見当たらない。心配そうな表情をして顔を覗き込んでくるロクの問いかけには、ガネストはぎこちなく答えた。

「は、はい」
「……ルイルとメッセル副班は?」
「この近くにはいません。街道を一つ挟んで、向こう側の建物の近くに、います」

 ガネストが視線を投げかけて、それをロクは追いかける。緊迫した状況下で、ルイルを安全な場所に避難させていたのは流石だ。だが、メッセルがガネストの傍にいない。
 ロクはぐっと奥歯を噛み締める。そうしていると、ロクの隣にたっと降り立つ人影があった。

「ロクちゃん……いまのって」
「……」

 フィラが険しい表情でロクに訊ねた。ロクは、ほとんど確信したような顔で、雷を落としたその地点へと視線を注いだ。
 ガネストと相対しているように見えたのは、灰色の肌をした何者かだった。それに、姿が見えた途端に、正体不明のおぞましさが襲いかかってきて、全身の肌が粟立った。気がつけば"雷撃"を放っていたロクだったが、結果的に彼女の直感は当たっていたらしい。

「赤い光の正体……。こっちがビンゴだったんだ」
「はい。それも、二体います」
「に、二体!? もしかして、あの倒れている大きいのも神族なの?」

 ロクは視線を動かして、地面の上に座り込んでいる巨大な灰色の塊を見た。ガネストは頷く。まだ震えている自身の手を見下ろし、固く握りこんでから言った。

「メッセル副班長が善戦し、ついさっき……ようやく気絶しました。また動き出す可能性があります。注意してください」

 神族が一体以上臨戦する現場を、ロクは初めて見た。あの長髪の神族はほんのさっき、突然現れたのだとガネストは付け足して説明した。ロクはそれを静かに聞き入れながら、臨戦態勢をとり直した。

「ガネストが教えてくれたんだよね。セースダースでの調査が終わって、ガネストたちと合流しようってフィラさんと相談して、それで向かう途中だったかな。数日前に、空に光が見えたんだ。赤い星が砕けるみたいな……。なんか胸騒ぎがしてさ、超特急で来たんだよ」

 それで来てくれたのか、とガネストは納得した。サオーリオの街に足を踏み入れてから、何十回と、時間の繰り返しが行われたとき、ガネストは『蒼銃』で空に浮かぶ赤い太陽と月に向けて発砲した。そのときの光をロクたちが目撃していたらしい。
 運がよかった。しかし幸運というのは長くは続かない。
 土埃の中から、生き物の動く気配がする。細い影がぼんやりと浮かび上がってきて、やがてその薄膜の帳を押しのけて神族は顔を出した。

「随分なアイサツだぜ。せっかく目ぇ覚ませたと思ったら、途端にコレだ。なんだよ、オマエ? だれ?」

 ロクはすでに射程を捉えていた。

 ぴんと張った指先から金色の火花が散り、ロクは暇もなく口ずさんだ。
 
「六元解錠」

 主人の意思こえに呼応して、次元の力は、惜しみなく扉を開け拡げる。

「──"雷砲"!」

 指先一点。集約された電気の塊が最高速度で放射される。雷の砲弾を真正面から受けた神族が、太い声を上げながら転げていった。
 ガネストは、眩しい雷光に一瞬目を瞑るも、煙を上げながら転がっていった神族の姿を、息を呑んで見ていた。
  
「あなたは神族でしょ? 名前は? 答えて!」

 一歩、片足を踏み出して、ロクは問い詰めるように叫んだ。指先には雷光の糸が絡まっている。
 ガネストは喉を鳴らした。つい数刻前まで、どれほど願っていただろう、"力"の象徴がいま目の前で煌めいているのだ。
 街を覆う曇り空から、一筋、稲妻が降り落ちる。鋭い光は、起き上がりかけた神族の頭に向かい走るが、神族はそれを軽い跳躍で回避した。神族は鳥のような軽さで瓦礫の山を飛び越えて、倒壊した建物の上に降り立つ。
 
「何度も食らうかよ、バ~カ」
「さっきの質問に答えて! あなたの名前はなに? なんでここに来たの!」
「コルドってヤツはどこだ?」

 ぴく、とロクの眉が動く。
 なぜコルドの名前があの神族の口から出てくるのか、なぜ探しているのか、すぐには思いつかなかったロクは、声に動揺の色を混ぜたまま返答した。

「……ど、どうしてその人を探しているの?」
「知ってるな、その顔」

 神族は、白い髪が風で暴れ回るのを意に介さず、ロクの顔を捉えて離さないような鋭い視線をしていた。

「オマエたちが思ってるほど、薄情じゃあねえんだぜ、神様はよ! 仲間が殺されたんだ、悲しむだろ? 怒るだろ? 仇討ちってやつだよ! オマエたちも好きだろ、それだよ!」
「そんなふうには、見えない!」
「へえ、どう見えるワケ?」

 神族は顎を煽って、長いかぎ爪の根元を鳴らしている。
 ロクはふと、視線を外して、地面の上で鎮座している巨大な灰色の怪物を見やった。ガネストは、あれも神族だという。盛り上がった地面の下から無数の植物が伸びて、怪物の身体を無理矢理に座らせていた。貫通口からはわずかに真っ黒い液体が滴り落ちているのを、ロクは凝視していた。

 瀕死の身体に無数の穴を開け、無理矢理起こさせておいて、同族の死を悼む心があるようにロクは見えなかった。

「仲間のことなんて考えてないんだ。だから、自分のことばかり考えてる。あなたからは、自尊、嗜虐、闘志、そんな心だけがばかみたいに伝わってくるよ」

 腰を落としたロクの全身から金色の火花が散った。電気の糸が彼女の周囲を包み込む。
 白髪の神族が口角を上げた。
 はっとロクは左目を見開いた。地面の下から鋭い気配がせり上がってきたのだ。間髪入れずにロクは、足元の地面を蹴って後方に跳ねた。しかし次の瞬間、地面を割って出現した木の根の矛先がロクの視界を、脇腹を貫いた。
 赤い鮮血が咲き乱れる。一瞬でも動き出すのが遅かったら左胸に穴が空いていただろう。ロクは、空中でわずかに体勢を崩しながら、白髪の神族を睨みつけた。

「アハハ。鈍くてしょうがねえや」

 地面に着地する。雷光が足元から激しく発散し、若草色の髪が明るく照らしだされた。
 ロクの頭の天辺、指の先、腹の底、足の先へ、余すことなく電熱が迸った。
 
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.153 )
日時: 2024/10/05 21:55
名前: りゅ (ID: 6HmQD9.i)

閲覧17000突破!!おめでとうございます!
更新頑張って下さい❣

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.154 )
日時: 2025/01/19 19:33
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第137次元 時の止む都ⅩⅢ

 地面を踏みしめ、いざ踵が弾ける。と、電気が迸った。ロクアンズの爪先が、白髪の神族の喉笛を捉える、が神族は羽虫にするように手の甲でそれを払った、そして反対の腕を鋭くさせて、ロクアンズの脇腹を貫きにかかった。間一髪のところでロクは神族の腕を踏み台にし、身軽くさっと頭上に跳びあがると、空中で回転する。
 手のひらを突き出せば、指の隙間に神族の姿を捕まえる。神族の足元に猛烈な電気が奔るやいなや、神族を中心に、雷光が眩く沸き立った。
 轟音とともに、雷の柱が噴出された。
 "雷柱"は煌々とした光の塊となって天上を貫く。だが、見れば、神族は星空の中を高く舞っていて、すたっ、と瓦礫の山に降り立っていた。

「フィラ副班!」
「ええ、わかっているわ!」
 
 ロクも地面の上に着地して、神族から目を離すまいと、フィラの姿も見ずに叫んだ。フィラは頷いて、ガネストの腕を自身の肩に回すと、早々に戦場から離れようと走り出した。
 神族は、去っていく二人の背中を視界に据えていた。口の端を上げて、灰色の腕を颯爽と持ち上げる。
 広い街道を走り続けるフィラのすぐ背後で、地面が小刻みに揺れ始めた。またあの木の槍を隆起させるつもりなのか──予想は当たり、地面の下から木の根の軍勢が乱暴に出現した。すると、間髪入れずに、雷鳴が轟く。電気の塊が降り落ちて、先鋒が焼き切られた木の槍たちは、煙を上げながらばたばたと地面に伏していく。
 白髪の神族は、わざとらしく舌打ちを鳴らした。

「ツマンネーことすんなよ」
「あたしが相手だ! 邪魔されて悔しいなら……あたしを止めてみなよ!」
 
 神族とロクの会話を背にして、フィラは一度も足を止めずに走り続けた。一刻も早くガネストを安全な場所に連れていって、怪我の治療をしなければならなかった。ガネストから、ルイルとメッセルが潜んでいる場所を案内してもらったフィラは、その建物の路地に滑りこんだ。
 建物に辿り着いてすぐに、止血から取りかかろうとガネストに触れようとしたフィラだったが、しかしガネストは、治療を受けて安心しきってしまう前にと、伸ばされた腕を力強く掴んで止めた。

「なりません、いくらロクさんでも、神族を一人で相手するだなんて。無茶です。早く戻らないと……」

 出血は止まらず、呼吸もままならないなかで、ガネストは言い切った。彼の言い分は正しい。ガネストのいまにも落ちそうな瞼と、傷だらけの顔をフィラはきちんと見つめていた。それから、壁に寄りかかって動かないメッセルの姿を見やった。彼は戦闘不能だろう。おそらくメッセルの次元の力の中で守られているのだろう、ルイルも気絶しているようだった。
 フィラはすぐにガネストに視線を戻すと、掴まれた手を上からさらに強い力で掴んで、なかば無理やりに引きはがした。そして、今度は優しくその手を握りしめた。反対の手で、ガネストの額の傷跡に布をあてがってからフィラは言った。
 
「大丈夫。ロクちゃんのことをどうか信じて。それにあなたたちの治療を終えたら、すぐに私もロクちゃんのもとへ向かうわ」
「……」
 
 ガネストには、すごんで言い返すまでの気力はもうなかった。そうして五体を投げ出して、なされるがまま治療を受ける。働かない頭をゆったりと動かした彼は、瞼の隙間からかろうじて見える街路を眺めた。
 電光が走る。地面が抉れる音がする。神族が挑発的ながなり声で叫んで、ロクも負けじと詠唱を突き返して、またあたりが眩い光に満ちる。

 白髪をざっくばらんに靡かせる神族の四肢はまるでそれ自体が生き物であるみたいに縦横無尽、変幻自在で、地上を跳び回る様は水を得た魚のように自由だった。そして野生的な鋭い眼をして、獲物の心臓をしつこく狙おうとする。ロクは、まさしく人に似た形をしているだけの獰猛な獣を相手にしている気分だった。
 気分、だけで済めばよかった。
 神族が地上高く跳び上がるのを逃さず、ロクは暗雲から雷を呼ぶ。

「五元解錠──雷撃!」

 雷の鉄槌が降り落ちたのは、神族の頭上。だったが、神族の影が空中で身をひるがえす。ひらり、と雷の鉄槌を紙一重で躱したその影は、瞬きをした次の瞬間、形を変えていた。

(……っ、つ、翼──!?)

 神族の背にたくわえられた立派な翼は鳥類のそれらしく見えた。灰色の翼を左右に広げ、余裕たっぷりに空中浮遊を楽しんだあと、神族は地面に向かって急降下した。
 ぶわりと土煙が立って、ロクは顔を覆った。慎重に腕を下ろしていくと、砂で覆われた視界の先で、神族の影が揺らめいていた。しかしあれほど立派に生えていた翼の影がどこにもないではないか。さきほど見た光景は、幻覚だったのだろうか?
 ロクはかぶりを振って、すぐに考えを改めた。幻覚なんかじゃない。それでは、空中で雷撃を避けたことに説明がつかない。おそらくこの白髪で痩身の神族は、あらゆる野生生物の姿かたちを自由に再現する能力を持っているのだ。

(それに、野生生物だけじゃなくて、植物なんかも操れる。この神が司るものは、たぶん──!)

 分析をしていると、土煙の向こう側で、神族が大きく吠えた。はっと我に返って、ロクは警戒した。
 土煙はだんだんと薄らいで、晴れていく。すると、華奢な神族の身体の影が、むくむくと膨らみ上がるのが見えた。腕や脚の筋肉が、隆々と盛り上がり、背丈も見る見るうちに高くなっていく。

「オイオイ、オマエの芸はカユい電気だけかよ! ツマンネーな!」

 一段と低くなった声で神族がまたひとつ吠える。次の瞬間、土煙の幕を破って、白く厚い毛に覆われた太い腕が突き出された。一瞬のうちにロクの眼前にまで拳が迫り、彼女が息を詰めるのと、その豪腕に首を掴まれたのはほぼ同時だった。
 がっしりとした大きな体躯で悠々とロクの身体を持ち上げ、彼女は宙ぶらりんになった。変貌を遂げた神族の姿は、熊にも虎にも見える獰猛な獣になっていた。

「ぅ、ぐ──っ」
  
 太い腕にしがみついて、ロクはそれを剥がそうと奥歯を噛み締めた。しかし、神族はまったく意に介さず、じたばたと暴れるロクの姿を愉しんだあと、瓦礫の山に向かって乱暴に放り投げた。ロクは長い距離を水平に飛んで、頭から瓦礫の山に突っ込んでしまった。重く激しい音が、あたりに響き渡る。
 余韻もないうちに、神族は瓦礫の山に突進した。しかしそのとき、瓦礫の山の底から、雷の塊が噴き出した。
 電子の糸を纏いながら飛び出したロクに、かまわず獰猛な前肢が伸びる。神族は太いそれでロクをわし掴みにかかった。
 すんでのところでロクは身体をねじり、躱した。
 だが、猛攻は止まらなかった。二本だけだとは信じられないほど次から次へと前肢が伸ばされて、そのうちに、獣の手先の爪がより鋭利に尖った。
 鋭い一点、二点の切っ先がロクの首元を狙う。狙う。狙い続ける。 
 ロクはぶつぶつとなにごとかを呟きながら、頭部を揺らし、身体をねじり、肩を引き、脚を畳み、避ける。鋭利で断続的なそれらの猛攻から必死に逃れていた。
  
「逃げてばっかかよ、オイ! 撃ってこいよオマエのでんきをさあ!」
 
 真っ先に勢いが死んでいく手先からいなす。脇腹に迫るもう片方の前肢が爪の先を鋭くさせても、その"一点"の到達する地点を読んで、避ける。ロクはそれから、神族の呼吸を捉えようとしていた。この神族は、人の形であったときには、呼吸の音がしなかった。しかしいまは獣の姿をとっている。ロクは精神を研ぎ澄まして、獣としての神族の呼吸を聴こうとしていた。しばらく格闘していると、独特だったが、呼吸音が聞こえ始めた。そうして掴んだ神族の呼吸音がロクの鼓膜から脳に送られる頃には、彼女は体勢を整えていた。猛烈な攻撃を躱し、反撃の機会を探るための体勢を、だ。

「……右、突き。左、横薙ぎ。次に殴打。足払い。振り上げ。左、突き。右……」

 ロクはずっと、ぶつぶつと呟きながら、矢継ぎ早に繰り出される乱暴な戯れと相対していた。
 ガネストは、息をするのも忘れて、ロクの動きを目で追いかけていた。遠くて細かな動作までは見えなくとも、変貌した神族相手に防戦一方ながら、一撃もまともに食らっていないのがわかった。彼女は上手に"受けている"。遠距離での戦法の印象が強い彼女が、長い時間、肉弾戦で敵と格闘しているのを初めて見たのだった。

 「クッソおまえ……ムっカつくな! ちょこまかしやがって、ウザッテエ野郎!!」
 
 一方的で手ごたえのない攻防に、苛立ちが隠せなくなったか、神族は表情をぐわりと歪ませて勢いよく飛びかかった。両腕を振り上げたので、正面から掴みかかってくるのだろうと予測していたロクだったが、二秒と経たないうちに予測が外れた。がくり、とロクの膝が折れた。体勢を崩したのは、途端に地面が隆起したからだった。
 地面の下から、無数の腐った木の根たちが一斉に産声をあげた。そしてロクの左足を掴まえると、それをかわきりに彼女の右足、胴、右腕、左腕、そして細い首に絡みつき一気に締めあげた。
 目の前に立ちはだかる神族が、堅く握りこんだ手先を振り上げる。

「ほらよ、避けてみな──!」

 丸太ほどある太い前肢から繰り出される渾身の一撃が、ロクの頬に叩き込まれた。何度も。何度も、何度も叩き込まれた。嫌な鈍い音があたり一帯に響き渡って止まない。殴打を繰り返した神族は、より一層力をこめると、大きく身を振るった。無数の木の根に締めあげられていたにもかかわらず、ロクの身体はいともたやすく吹き飛んで、宙を舞った。軽い身体はよく打ち上がって、空に弧を描いたのち、右肩から雑に落下した。何度か地面の上を跳ねた彼女は、しまいにはくったりと静止した。
 重力に逆らえず地面にべったり貼りついていたそのとき、どん、どんと身体が跳ね始めた。
 跳ねていたのは、地面だ。さらに一回りも二回りも大きく成長した神族が一歩ずつ、地面を踏みしめるたびに、小刻みに震動した。

 「ノーラにトドメ刺したヤツにしかキョーミねえんだよ、ザコ! とっととコルド・ヘイナーの居場所を言え!!」

 獰猛な獣は、歯茎を剥き出しにしてけたたましく咆哮する。一歩、また一歩、無防備に伸びているロクに近付いた。
 そのときだった。神族の足元から、金色の光がわっと湧きあがった。
 黄金の魔法陣が地面の上に広がった。外円の淵から、ばちりと、電気の糸が飛散する。
 ロクは、右側の拳を高く振り上げていた。

「──ご、元解錠っ! "雷柱"!!」

 "雷柱"が生み出される瞬間、神族は、もう一度翼をたくわえて飛翔する体勢をとった。しかし、地面から湧きあがった、猛烈な雷撃の塊が、飛び立った瞬間の鳥の片翼を焼き切った。
 片翼を失い、一瞬、がくりと肩から落ちた神族だったが、激しい舌打ちをしながらもすかさず翼を再生させる。この間にも神族は、空を飛ぶために余計な肉を取り払って、機能的な細身へと変化していた。
 
「だァ! オイ! どうしたどうした! もっとちゃんと当ててこい! いまのが全力」
 
 左手の指先をぴんと張り、ロクは息を止めていた。
 
 "雷柱"を繰り出すために地面に振り下ろした右の拳はそのままに、彼女はとっくに、次なる攻撃の姿勢に入っていた。しっかりと地面に片膝をついて、自身の軸を揺らがないものにしていた。
 神族の挑発の声が聞こえていなかった。
 ただ、緩やかな風にまつ毛が揺れたのも、額から流れ落ちるぬるい血液が歪んだ頬を伝ったのも、わからなくなっただけだ。

「ちゃんと当てるよ」

 まるで、一本の糸のように細い息を吐く。殺気に似たたしかな攻撃性を孕んでいた。彼女はそして、しごく冷静な声色で言うと、極限まで指先にこめた黄金の電熱を撃ち放った。

「────"雷砲"!!」

 開いたのは、六元の扉だった。
 彼女の深層心理だけがそれをわかっていて、本人は、"前唱"──次元技を発動する前に行う、強度の段階の定義──を唱えなくとも次元技が発動した事実にさえ気がつかなかった。
 雷の光線は落星のように空を駆け、次の瞬間、神族の身体の真ん中を撃ち抜いた。
 くの字に折れ曲がった細い肢体が空中で回転しながら、急速に落下する。ロクはまだ、電気の絡まった腕を下ろさず、ずっと神族の姿を睨んでいた。

「言わないよ……絶対に! たとえなにをされても、教えてなんかやるか!!」

 ぶたれた頬が歪んで、目を閉じそうになっても、そうするわけにはいかず視線を外さなかった。
 ロクはぐらつきながらも立ち上がり、重い右腕のほうに力を入れると、拳を握りこんだ。


 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.155 )
日時: 2025/01/26 21:29
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第138次元 時の止む都ⅩⅣ

 ──『逃げろ』、と言い渡されてしまったときの底知れない無力感が、ずっとロクアンズの記憶の最前列に並んでいて、いつでも鮮明に思い出せた。

 右腕は完治していたのに、また負傷してしまったようだった。肩がかっと熱を持ち始め、どうにも腕が重たく感じる。しかしロクはそれを忘れてしまおうと、一層集中力を高めた。
 二枚の翼を背に生やした神族が、雷の光線に射抜かれて急速落下した。どごん、と、神族が地面と衝突する激しい音がしても、ロクは警戒を解かずにいた。
 衝撃の余波の風を受け、若草色の長髪が靡く。
 
 フィラが、メッセルの胸元の銃痕のまわりに慎重に治療薬を塗布していたのだが、音につられて視線を上げた。
 ロクの横顔を遠くに眺めて、彼女はふいに口を開いた。

「ロクちゃん、とても悔しがっているように見えたわ。コルド副班長から諫められたときのこと……。私は、当時の戦場がどうだったのかを知らないけれど……いつもだったら、嫌なことは『イヤ!』ってはっきり言って、したいことはどんなに難しくても挑戦して、食べたいものは『食べたい』って本能のままに言っちゃうあの子が、あのときのことは、なにも言わないの」

 フィラはすこし笑みを交えながら、ガネストにそう言った。
 義母が亡くなったときのことでさえ話してくれたロクだったが、ノーラとの戦場から一時撤退を強いられたときの話は、フィラは一度も聞いたことがなかった。あれから何日も経過している。すっかり気持ちを切り替えていて、もう落ち込んでいないのであればよいのだが、なんとなくフィラは気楽な心地になれなかった。
 ロクがその話題には触れず、日々ひたすらに研鑽を積み重ねている。たったそれだけのことに、妙な焦燥を抱くまであった。

 ──もっと、もっと自分に力があったなら、コルドが重症を負うことはなかった。
 また、上流階級の貴人たちの居住区だったウーヴァンニーフもいまや機能不全だ。死者が出ていないのは奇跡でも功労でもなく、ノーラが"そう"巧みに操作をしたからにほかならない。もし、ノーラが、人間に対して敵意のある神だったなら被害の規模はこの程度では収まっていないだろう。コルドとて命を落としていたかもしれない。
 思い出して、最悪の事態を妄想して、あたかもそれが起きてしまったかのように苦い心地になった日が、何日も何日もあって、ロクはいわれようもなく苦しかった。
 神族を目の前にして、仲間を置いて逃げた事実に耐えられなかったロクはあのとき、レトヴェールを必死に説得したのだ。

『やっぱりだめだ、レト、止まって! あたしこのまま逃げたくないよ。戻りたい! コルド副班が死んじゃうよ……! あたし、そうなったら、悔しくて悔しくて、やりきれない……!』

 ロクは、真に迫った表情で何度も叫んだ。レトは深く悩んだ末に、二つの条件を出した。一つは決して無茶をしないこと。二つめは、コルドの邪魔をしないことだった。それから、戻るなら自分も一緒に、とレトは付け加えた。それらの条件を守ると約束して、ロクとレトはともに踵を返したのだった。

 夜空の上から降ってきた神族の、その落下地点の付近では、緊張が走っていた。ロクはまだ息を止めていた。そのうちに、神族の影が、ゆらりと身を起こした。両肩にあった翼は、どちらも雷撃に触れて焼き切れて、灰になった羽や骨がぼろぼろと、風にさらわれていく。
 ざっくばらんに伸びた白い長髪が、ゆらりと動いてから、神族は身体を左右に揺らしながら、しかしたしかな足取りでロクに近づいてきた。
 やはり、致命傷は与えられなかったみたいだ。
 神族は、あー、と汚い声で発声してから、面倒くさそうに外套の内側に手を差し入れて、懐をがりがりと掻いた。

「……だから言ってンだろ、カユいだけだ。オマエの電気なんてさ。いくらそいつをぶっ放そうが、足掻こうが、なにもかも無意味だ!」

 風にはためく外套をばさりと開いて、神族は上半身を露わにした。首のすぐ下から腰の上までの胴部が"なくなっている"。正確には、胸を中心に大きな空洞がぽっかりと開いていて、暖簾のように黒い血がたえず空洞に幕を張っている。ロクにそれを見せつけるだけでは満足できず、神族は畳みかけた。

「見てみろ! オマエが必死になって、どてっ腹に穴を空けたって死にゃしねーんだよ、"神"は! オマエたち人間と違って……心臓がねえんだからさァ!」

 神は心臓を持たない──ノーラが死に際に放った言葉が、脳裏に蘇る。またノーラは、「神に心臓を与える術がある」とも言っていたが、いま目の前にいる神族の態度は余裕に満ちている。おそらくまだ心臓を与えられておらず、斃す手段のない状態なのだ、というのがロクにもなんとなく察せられた。
 ロクはこのとき、気落ちしそうになるのをなんとか保とうとした。
 ──なにを隠そう、神族に心臓を与える方法が、いまだわかっていない。
 それを判明させるにしろ、ほかの方法を探るにしろ、いまは目の前に立ちはだかる神族との終わりの見えない戦闘を続行しなければならなかった。
 
「ノーラの阿呆、わざわざ心臓をもらってやっておっ死んだらしいな。とんだ阿呆だ! なにが面白くてそんなクソほど意味のねえことをしたんだ? あいつは昔から意味わかんねえんだよな。サッパリだ」

 大きな声で、満足がいくまでべらべらと独り言をしていた神族が、突然赤い瞳をぎらつかせて、ロクに向かって舐めるような視線をくれた。

「まあいいや。オイ、ザコ! ようやく、身体ぁ、あったまってきたんだ! 準備運動の礼に名乗ってやってもいいぜ。なあ、知りてえんだろ!?」

 神族は、大仰に片腕を天に突き上げた。
 途端のことだった。あたり一帯、無造作に倒れ、折り重なっている木々の幹や枝葉、それら断片や、虫の死骸、獣の骨片が、風も吹いていないのに蠢き始める。
 ロクが目を見開いて、警戒を身に纏っていると、視界の端に映ったある虫の死骸が、一瞬にして炭と化したように黒ずんだ。それは地面の上をのたうち回ると、縮小を繰り返しながらどんどん膨らんでいく。歪な形状をしたその黒い塊は、見る見るうちにロクの背丈よりも大きくなり──。
 
 顔、と思われる外郭の一部に、血濡れたように赤い目を、宿した。
 ロクは、信じられないものを見る目で"それら"の相貌に釘付けとなり、一瞬の間完全に静止した。

「我が名は【CRETE】(クレッタ)。創造神ヘデンエーラよりめいと肉体を賜った、"生命"を司る神だ!」

 ──それらが"元魔"であると、感情よりも先に頭が理解してしまったからだった。

「……げ、元魔────」

 謎に包まれた存在といわれてきた、"元魔"。
 それは神の使者とも、悪魔ともされて、世界中の人々を苦しめてきた悪しき存在を指す。
 
 二百年前、神族がこの国から消え去った当初から、まるで入れ替わるように世界各地で出現するようになった謎の生命体がこの元魔だ。元魔という呼び名も人間が定めた。神族となんらかの関わりがあると判断されて研究も進められてきたが、生態も出生もいまだ解明されていない。次元の力でのみ排除できるがゆえに、政会も次元研究所も次元師を雇っているのだ。

(元魔は、神族が……クレッタが、生み出していたものだったんだ!)

 "生命を司る神"、と自称した神族──クレッタの周囲に、黒き魔物"元魔"が出現する。十体や二十体では収まらないほど数多く、ひしめき合い、不快な叫び声で彼らは輪唱した。

 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.156 )
日時: 2025/02/02 19:42
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第139次元 時の止む都ⅩⅤ
 
 目の前に広がる光景に気を取られていると、クレッタがロクアンズを指し示して叫んだ。

「オイ、食事だ! ヤツを食らい尽くせ!」
 
 有象無象の黒い塊──元魔らが、クレッタの声に応じる。それらは束になって地面から跳ね上がり、ロクを目がけて落下してくる。
 しかしそのとき、視界の端から飛んできた大蛇の頭が、数体の元魔に食らいかかった。
 紅色の鱗をした大蛇、『巳梅』は頭を大きく振り乱して、食らった元魔を嚙み砕く。取り逃がした元魔は、太く長い肢体で鞭打って、跳ね返した。
 ロクの傍らまでフィラが駆け寄ってくると、彼女もまた驚きを隠せないといったように、強張った表情をしていた。

「フィラ副班! ガネストたちは?」
「もう平気よ。治療をして、全員の無事を確認したわ。それよりも、ロクちゃん、これって……! 元魔よね!? 私にはなんだか、いま、神族の傍から湧いてきたように見えるのだけど……!」
「……"生命を司る神"、【CRETE】(クレッタ)って名乗ってたよ。予感はきっと当たってる! あいつが、元魔を生み出してる張本人なんだ……!」
「そんな……」

 二人で息を呑んでいると、『巳梅』がらしくもなく唸った。ロクとフィラが同時に振り返り、眼前まで元魔が距離を詰めていることに遅れて気がついた。地面から跳ね上がった元魔の数体を、ロクが"雷撃"で焼き払う。反対に地面を這って突進してきた元魔らを、『巳梅』が肢体で鞭打ち、撃破した。
 両翼を持つ、竜の姿に似た小型の元魔の背に乗って高見から見物をしていたクレッタが、ハッと鼻を鳴らした。

「べらべらしゃべる余裕があるんだな! それになんだよ、さっきから。そのゲンマっつーのは。名前なんか与えてねえよ、勝手につけやがって」
「あなたがこれを生み出して、この世界に放ってたの? いったいどこから、どうやって……!」

 ロクは声を張り上げて、問いかける。クレッタはしごく面倒くさそうな顔をして、それには答えず、緩慢な動きであたりを見渡した。視界の先に、猫の死骸を見つけたクレッタが、それに向かって手を伸ばした。するど死骸は、まるで粘土のごとくぐにゃりといびつに変形し、見る見るうちに姿かたちを変えていく。そして腐った皮膚がより黒く変色して、やがて完全に真っ黒の塊となってしまうと、塊から奇怪な手足を生やす。こうして、元魔は造り出されていく。
 盤面に駒を並べるみたいに、ロクとフィラにやられてしまった数をあっという間に取り戻すと、クレッタは口を開いた。
 
「力の感覚を取り戻すための練習で造ってたんだ、これは。つーか、それしかやることなかったんだよな。ぼこぼこ、ぼこぼこ造って。でも、造ったら消えるんだよな。まあどうでもいいんだけど。それで、やっと目ェ覚めた! 最高の気分だ!」

 かっと頭にきて、ロクはたったいま生み出されたばかりの元魔に激しい"雷撃"を振るった。元魔の身が粉砕し、黒い破片が飛散するのをクレッタはたいして感情のこもっていない目で見過ごした。
 ロクはきつく眉を吊り上げて言い募った。

「練習……? 元魔のせいで何人もの人が、大切な人を失って、傷ついて、いままで生きてきたんだ! それをわかってるの!?」

 ロクの身体から高圧の電気が飛散する。宙を飛んでいるクレッタのちょうど真下にあたる地面に、円を描くように眩い光が走った。クレッタを目がけて"雷柱"が立つと、しかし、クレッタは小型の竜の元魔を踏み台にして跳躍し、回避した。クレッタの眼下では、踏み台にされた元魔が炭と化して、はらはらと消滅しだした。

「うるせえな」

 怪訝そうにクレッタが眉をひそめたとき、殺気を嗅ぎつけた鼻がぴくりと動いた。人間のそれよりも長く尖った耳が立つとクレッタは真横を向いた。大口を開けた『巳梅』が、獲物を丸呑みにせんと飛んでくるが、クレッタは両腕をぶらぶらさせながら身を反らして、それを躱した。
 『巳梅』の傍でクレッタを睨んでいるフィラも、憤った声で続いた。

「『うるさい』で、済まされる話じゃないのよ」
「ハハ。怒った、怒った」

 悪童のようにわざと神経を逆撫でするような物言いで、ころころと笑い、クレッタはまた気分次第で元魔を創造する。
 そうはさせるかと意気込んで、ロクとフィラは互いに連携をとりながらクレッタに攻撃を仕掛け続けるも、動きに変化が訪れていることにロクは気がついた。一対一で相対していたときとは、元魔が戦場にいることや、またフィラが参戦していることなど違いはあるが、そうではない。時間を追うごとに、クレッタ自身の動きが洗練されたものになっていく。
 雷を振るい、撃ち、落とし。蛇身がしなり、噛みつき、咆哮を浴びせても、クレッタは見事な軽快さで踊るようにくるくると立ち回り、難なくそれらをいなす。ときおり元魔を盾にして棄て置けば、次元師たちの攻撃を回避する片手間に、いくらでもあたりに転がっている木片や死骸を使って元魔の創造を繰り返す。
 これでは分が悪い。ロクたちの体力が消耗する一方だ。

「……」

 ロクは思考を巡らせて、すかさずフィラのもとへと向かった。合流してすぐ、「フィラ副班、耳貸して!」と彼女は言うと、相手の返事も聞かずに"雷円"を発動した。ロクとフィラを覆い隠すように、半円状の雷の幕が張られると、その幕に触れた元魔の身体が電気にあてられ跳ねかえった。しゅうしゅうと煙をあげながら転げ回っていった元魔を、呆然と見つめていたフィラが我に返ったのは、ロクが息を潜めて声をかけてきたからだった。

「このままじゃ埒が明かないよ。だから、作戦を聞いてほしいんだけど……」

 ロクは、頭の中で考えた策をフィラに耳打ちした。フィラはそれを静かに聞き終えると、笑って一言返したあと、すぐに頷いた。
 それから間もなく、"雷円"に大きな負荷がかかり、あたりが震動した。はっとして、二人が頭上を見上げると、クレッタが大股を開いて幕の上に座り込んでいた。

「なにをコソコソしてる。出てこいよ、なあ!」

 クレッタが拳を振り下ろしたと同時に、強い衝撃で"雷円"が破られると、ロクとフィラは左右に散って回避した。
 そして至近距離からクレッタに仕掛ける、かと思えば──否、二人ともクレッタの真横をすばやく通り抜けて、周囲に集っていた元魔に襲いかかった。

「何度避けてもおなじだ!」

 細い脚で飛びあがり、クレッタはフィラの頭上から踵を振り下ろした。だが間一髪のところで、『巳梅』が間に割って入り、甲高く啼き喚く。真向から咆哮を浴びたクレッタは眉根を寄せ、空中で一回転すると、宙に浮いている元魔を足場に着地した。
 間を置かずにクレッタは、次に目に入ったロクを標的に据える。飛び跳ねる。長く尖ったかぎ爪は鋭い光を降らして、ロクは頭上を仰いだ。しかしクレッタの姿を視認するとすぐに目を逸らして、脱兎のごとく駆けだした先で、元魔の一体に電撃を見舞った。
 クレッタは、だん、と地面を鳴らして、獲物が逃げたばかりの地点に着地する。苦々しい表情で一瞬、黙ったあと、不機嫌そうな声色で喚いた。

「……なんだ? オマエたちも、ノーラみたいなことするんだな。あいつも、阿呆だと思ってコケにしやがってよ! 無視すりゃイキり立つとでも思ったか!? バーカ! なんべんでも生み出せるんだよ、こっちは!」

 叫んでから、クレッタは手のうちに捕まえた腐った魚鱗を、乱暴に握りこんだ。
 そのとき。
 クレッタは、ロクが視界から消えていることに気がついた。

「──隙、見つけた!」

 あたり一帯に蔓延る元魔の影に隠れたロクが、指をまっすぐにクレッタへ向けた。
 指の先一点に、激しい電気が纏いつく。
 瞬間。六元級の"雷砲"が──クレッタ目がけて一直線に奔走した。

 クレッタの短絡的な性質を利用する、と見せかけて元魔を生み出すその隙を狙う作戦を実行してみたい、とロクは提案した。元魔の相手を続けたところで、クレッタはどうやら無尽蔵にそれを生み出せてしまうらしいし、それに反してロクとフィラは技を行使した分だけ元力を消費し続けてしまう。それならばやはり標的にするべきはクレッタであり、元魔を生み出す、という作業をさせることでより多く隙をつける戦況に持ち込んだ。そこに加えて、あえてクレッタを相手にしないでいれば、きっとクレッタは短絡的な思考で「わざと相手にしないのは神経を逆撫でしたいからではないか」と誤った思考をしてくれるはずだ。それは、元魔を生み出す隙を作らせる、という真の目的を意識させないための布石の役目を果たしたのだ。
 フィラはこれを聞いて真っ先に、「レトくんが考える作戦みたいね」と笑みをこぼしたのだった。

 雷の砲撃が空間を真一文字に焼き切って、刹那のうちに、クレッタの赤い眼前に差し迫った。
 電気の糸が眼球に触れる。
 ──はずだった。

 後頭部をがつんと強い力で殴られたような感覚がロクとフィラを襲う。
 脳の裏側から意識が引っ張られる。一瞬、不快な浮遊感で胃の中がぐるりと回って、そして──。

 ぱちりと瞬きをして、次に目を開いたとき、ロクは電気を纏っただけの指先を見つめ、呆然としていた。その隙に、いつの間にか眼前に現れたいびつな鱗を貼りつけた黒い奇形が大口を開けて、鋭い歯でロクの肩口に食らいついた。

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.157 )
日時: 2025/02/09 21:27
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第140次元 時の止む都ⅩⅥ

「──ッ!」
「ロクちゃんっ!」

 ロクアンズの首筋から血潮が噴き出した。表情を歪めると、彼女はすぐに身体中から電熱を放った。

「五元解錠──雷撃!!」

 猛烈な電撃を間近で浴びせられた元魔は奇声をあげながら天を仰いだ。黒い皮膚がはらはらと剥がれ落ち、元魔がゆっくり倒れゆく間に、ロクの胸は激しく脈打っていた。首元を噛まれたことではない。"雷砲"を撃ち放ったはずがまるで跡形もなくなっているし、六元級の力を放ったあとの手ごたえも一切手元に残っていない。意気込んだのにそれがぱっと消えてしまったようななんとも言えない徒労感や、肩透かしを食らったような気分とでもいうべきか──。
 フィラのほうを見やれば、彼女もまた不思議そうな顔をしていた。ロクは自身の手を見下ろした。
 
(いまのは──)

 地面がゆったりと震動し始めて、ロクははっと顔を上げる。
 するといままで地面の上でぐったりとしていたアイムの身体が小刻みに揺れだしていた。
 アイムの赤い瞳が、痛いほどぎらぎらと輝いている。
 アイムの全身に絡まり、纏わりついていた木々の根もふっと力を失って、アイムを解放する。肩を鳴らしながらクレッタは、起き上がったアイムに向かって声を飛ばした。
 
 「もう十分休んだだろ。こいつらをまとめて始末するぞ」

 ロクとフィラは固唾を吞みながら、この十尺はある灰肌の化け物を、否、時間の神を凝視した。
 アイムはうわごとのように、ただ「信仰しろ」「信仰しろ」と繰り返して、巨躯をゆったりと揺らしていた。
 
 これがガネストの言っていた、"時間を司る神【IME】(アイム)"だ、とフィラは心の中で呟いた。
 
 ガネストが力を振り絞って話してくれたことには、アイムは致命傷となりうる襲撃を受けた際に、それを受ける直前まで"時間"を巻き戻し、相手が戸惑ってまごついている隙に反撃を仕掛けてくるのだという。だが、どうやら時間の巻き戻しは体力を消耗するようで、疲労すると時間の巻き戻しをしなくなる。また、アイムは肌が灰色に変色している間は、決して理性的ではない。「信仰しろ」という言葉を一辺倒に呟いていて、なりふり構わずに攻撃的な姿勢をとる。
 通信具を介して、フィラは、アイムについてガネストから聞いたことをロクに端的に説明した。
 
 ロクは話を聞きながら、コルドから聞いた話を思い出していた。「信仰しろ」という言葉はたしかノーラも口ずさんでいたらしいのだ。それに、その攻撃的な姿勢になる直前に、全身の皮膚が灰色に変色してしまうことなども、ノーラの状況と一致していた。
 少しの間それを思い出しただけで、ロクは改まってアイムの様相を見据え直した。
 
 フィラは、ロクへの共有を済ませたあと、思案した。
 
(時間を巻き戻す能力はとても厄介だわ。強い攻撃を当てようとしても、巻き戻されて、その隙を狙われる。ガネストくんもなんとか対応したという話だったし、きっととても大変だっただろうけど……もう一度気絶させて、戦闘不能にするしかないわね)

 ロクがちょうどこちらを振り返って、互いに頷き合う。ロクは飛び跳ねて、次から次へと立ちはだかる元魔を退けながらまっすぐアイムを目指して直進した。その導線を観察しながらフィラも『巳梅』を放つ。ロクが轟音を鳴らし、雷光を散らし、派手に立ち回る影に潜んで、『巳梅』は頭部から勢いよく飛んだ。
 フィラは声を張り上げて詠唱する。

「五元解錠──"咬餓こうが"!」
 
 鋭い牙の根元まで剥き出しにし、『巳梅』は大口を縦に開けた。狙った獲物を確実に仕留めんとする獰猛な蛇がごとく敵意を孕んだ襲撃は、しかし、ぱちりと瞬きをした瞬間に"まだ起きていない"ことにされた。時間の巻き戻しをされた、とフィラが気がついたときには、『巳梅』の頬に巨大な灰色の腕が叩き込まれていた。

「巳梅!」

 巨腕から繰り出された殴打が、いともたやすく大蛇たる『巳梅』を弾き飛ばした。宙を跳んで、『巳梅』は肢体をうねらせながら崩れた建物の一角に真っ逆さまに落下した。
 より重量のある轟音があたりに鳴り響く。フィラはすかさず耳を塞いで、すぐに、薄目を開きながら『巳梅』の落下地点に視線をやった。
 しかしすぐに、背筋がぞくりと震え上がる。
 背後に獰猛な生き物の気配を感じ取って、フィラは目を見開いたが、振り返る暇はなかった。

「ヘビの心配をしてるのか?」

 見た目から想像するよりもずっと人間の男じみた低い声で、口を薄く開いて笑ったクレッタが、フィラの臙脂色の髪を乱暴に掴みあげた。小さく呻き声をあげたフィラの足先が、ふっと地面から離れ、宙に浮く。足はどんどん地面から離れて、高く高く吊り上がっていく。驚くのと、頭部が痛いのとで思考が支配されていると、いつの間にかクレッタの様相が変貌していた。それはまた熊にも虎にも見える、筋肉の発達した巨大な二足歩行の生き物だった。
 クレッタは掴みあげたフィラの頭を、身体ごと地面に叩きつけた。フィラは、あばら骨がぐきりと歪み、さらに臓器が圧し潰される嫌な音を聞いた。そして咽喉が圧迫されたせいか、呻き声よりも先に唾液が吐き出されて、必死に頭を上げようとすると、それが地面の上から細く糸を引いた。

(なんて……強い力なの)

 『巳梅』のもとに駆けつけてあげたいのに、全身が硬直してしまったように動かない。絶えず頭上から降り注ぐ獰猛な生物の威圧感を受けて、生物としての本能から「抗いたくない」と身体が叫んでいるかのようだった。それならば意識を手放したほうがまだ人間的であるのに、次元師としての「抗いたい」本能が、それを許可せず、二つの意志が拮抗している。
 遠くでロクが叫んでいる、その声が聞こえてくる気がした。
 
「フィラ副班!」

 ロクは焦った表情で叫ぶと、フィラもとへ向かおうと駆けだした。しかしそのとき、ロクは視界の端で灰色の残像を捉えた。アイムの全身から奇妙に伸びている複腕のうちの一本が、ロクを目がけて猛威を振るった。

「邪魔だっ!! ──五元解錠、"雷撃"!」

 激しい電撃が放たれて、巨腕はのけぞり天を仰いだ。急いで、ふたたび駆けだした、途端。眼前に灰色の影が迫る。ロクが瞠目するのもつかの間、小さな身体とそれが正面から衝突した。
 灰色の巨腕だった。べつの一本がすでに放たれていたことに気づかず、ロクは対処が間に合わなかった。
 頭の前のほうが激しく揺れて、視界もはっきりしないうちに、ロクは宙を飛んでいた。それから朽ちた街路樹の幹に背中からぶつかって、ぐしゃりと崩れ落ちた。
 ──はやく助けに行かないと。そう思うばかりで身体が思うように動かない。
 どく……どくと、心臓が、全身に流れる血潮が、高揚している。

(……──なに? なんだか、おかしい)

 クレッタに痛めつけられた頬が、アイムに痛めつけられた腹が、痛みを通り越して、熱を帯びていく。皮膚が悲鳴をあげているような熱じゃなかった。もっと、違う──いうなれば、昂ぶりだった。戦場だからこその感覚なのか、追い詰められているからなのか、ロクにはわからなかった。ただ身体は、激しく心臓を鳴らし、酸素を回し、内側からロクの意思を渇望している。

 動け、と。体内に蔓延する元力粒子が、ロクの意識を鮮明にせんと活性化する。
 ロクは木の根にぐったりと凭れかかり、ひどい姿勢のまま、なにかに突き動かされるように手のひらを地面につけた。

「六元解錠」

 霞む視界の奥で、クレッタがフィラの頭部を掴みあげて、ぶらりと彼女の身体を揺らした。
 新緑の瞳に、雷光が宿る。

 クレッタ、そしてアイム──"両方"の足元に、雷が円となって迸った。間髪入れずに、二本の轟雷の柱が立つ。噴出する雷の渦に飲み込まれたクレッタとアイムは、激しく輪郭をぶれさせながら、天を仰いだ。
 途端に手を離されて、フィラは地面の上に落ちた。激しく咳きこんだのち、電気の糸を浴びてフィラはぎゅっと目を瞑った。ぱっと顔を逸らし、おそるおそる見上げると、電撃に焼かれ続けるクレッタの姿が目に入った。
 ロクが雷柱を放ってくれたのだ、とわかってすぐに、フィラはクレッタから離れた。そして身体を引きずるように駆けだすと、一心不乱に『巳梅』のもとへ向かった。

「巳梅っ!」
 
 『巳梅』は、建物を下敷きにして、とぐろを巻きながらぐったりと横たわっていた。だが、フィラが近づいてきて、何度も声をかけると、目を覚ました。次元の力は頑丈だ。それに本物の生き物ではないから、『巳梅』が死ぬことはないのだが、それでもフィラは『巳梅』が無事に起きあがったことに深く安堵した。

「巳梅……ごめんなさい」

『巳梅』は、頭を持ち上げて、フィラのほうへもたげると、「キュルル」と元気そうに聞こえる声で鳴いた。

 二体の神族を目の前にして、フィラは、底知れない不安を抱えていた。
 とにかくアイムを戦闘不能にしなければ。そればかり考えていて、肝心の戦闘は詰めが甘かったし、なによりもまずクレッタの存在を無視できないのだ。どんな戦況に持ちこむにせよアイムの能力と、クレッタの動きをどちらも最優先で考えなければならなかった。
 
 強い意思があればどれほど困難でも立ち向かえると思っていた。過去を振り払い、『巳梅』と向き合うことを決意できた自分と、それを導いてくれたロクが力を貸してくれるなら、きっとどこまでも意思を高められる。しかし、生命の神クレッタに組み敷かれ、意識を投げ出したい自分が顔を出して、次元師としての自分と鎬を削ってしまった。
 フィラは恥ずかしくて『巳梅』に顔向けができず、俯いた。
 そして下唇を噛みながら、心の中で自分を叱責して、すぐに顔を上げる。
 
 思考を止めてはいけない。考えがないのなら、生み出さなければならない。クレッタを凌ぎながら、アイムの能力を封じる方法を。

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.158 )
日時: 2025/02/16 21:49
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)


 第141次元 時の止む都ⅩⅦ

 フィラはきつく眉根を寄せ、真剣な表情で戦場を振り返った。ロクアンズが生み出した二本の雷の柱はふっと立ち消えて、二体の神族──クレッタとアイムが、ぐらりと身体を揺らしていた。
  
(山奥でのどかに生活していた私は、もともと頭を使うことはそんなに得意じゃないのよね。それなら……)
 
 またロクに策を講じてもらって──いや。フィラはかぶりを振った。戦闘部班第二班の副班長を任された以上、自分は現場で指示を出す立場でなければならない。
 それにどうしても、クレッタを許せない気持ちが大きかった。
 
 しかし、ガネストが行ったように、アイムが致命的だと感じた攻撃に対して巻き戻しを行う地点を逆算しわざと巻き戻させて消耗させる──という作戦は、聞くだけでもフィラには向いていなさそうだった。

(私とロクちゃんにならできること……──)
 
 フィラは握りこんだ拳を見つめて、顔を上げた。『巳梅』を"幻化"によって小さくさせたあと、手のひらに抱えて走り出す。
 戦場に戻っていきながら、フィラは片耳に指を添えて、ロクと通信を図った。

「ロクちゃん、意識はある!? 聞いてほしいことがあるの。あんまり自信はないんだけど……。耳を貸してくれるかしら……!」

 耳元からフィラの声が聞こえてきて、ロクは意識を取り戻した。どうやら、半分気を失っていたようで、変わり映えのしない荒れたサオーリオの街並みが視界にうっすらと浮かび上がってくる。
 そのとき、突然、頭が痛くなって、ロクは咄嗟に左目を細めた。

(っ、なんだ……?)
 
 傷の痛みとも違う、覚えのない頭痛が、寄せては返す波のように断続的に、ロクの頭を締めつける。
 ずきずきと増していく痛みに耐えていると、耳元から「ロクちゃん?」と、返事をしないロクを案ずる声が聞こえてきた。
 痛みが引く気配はなく、「うん」と小さく返したロクは、フィラの作戦を頭に流しこむと、よろけた身体で立ち上がった。

 かっ、と赤い目を開く──すると、眼前に、臙脂色の短髪を靡かせる人間の女がいた。フィラは、唐突に目を開いたアイムの視界に入って息を呑む。
 フィラを視界に捉えたアイムは反射的に太い腕を薙いだ。そのとき。アイムは遠くから鋭い気配を察知した。しかし気がついたときには遅く、瞬間、太い腕の中腹に風穴が開いた。
 稲妻だ。高い枯れ木の枝に腰を下ろしているロクが、アイムに向かって雷砲を放っていた。しかしロクは直後、何者かが背後に立つのを感じ取った。獣の気配。どこからともなく接近していたクレッタの鋭い爪が容赦なく脇腹を貫通した。

「──っ!」
「さっきのは熱かったな。なあ」
 
 ロクは苦悶の表情を浮かべ、クレッタを睨み返す。そして、全身から猛烈な電気を放出した。"雷撃"が、ロクごとクレッタを黄金の光に包み込む。電撃の放出は止まらない。もっと、もっとだ。フィラが危険に陥ったときにやってみせたように、もっと強く、自在に、雷の力を使うことができれば──!
 がんがんと頭に響く痛みが、秒を追うごとに増しているのさえ焼き切ろうとするように、ロクはさらに電熱を上げ続けた。
 歯を食いしばっていると、はた、とロクは唐突な浮遊感に襲われた。我に返ったときには、ロクの近くにクレッタの姿がなかった。その代わりに、フィラと対峙しているアイムが太い腕をフィラに振るおうとしているのが見えた。時間の巻き戻りが起こった。ふたたび"雷砲"を放とうとすごんだが──後ろから、その背中を強い力で蹴り飛ばされて、ロクは木の上から飛び出した。ロクがさっきまで立っていた場所には、片足をあげたクレッタが立っていた。
 
「イライラすんなぁ! オマエ!」
「そ……れは! こっちの台詞だ!」

 落下していきながら、ロクは電撃を身に纏った。両腕を広げて準備を始めたロクを見下ろして、クレッタの縦に伸びた耳がぴんと動いた。あの雷の柱をまた二つ生み出そうとしている。そう本能的に察知したクレッタは、奥歯まで剥き出しにして「アイム!」と乱暴にがなった。

「時間を戻せ!!」
 
 ──アイムの赤い両の瞳が、強く瞬いた。後頭部を引っ張られる感覚とともに、ロクとフィラは、たった数刻前の時間軸にまた連れ戻された。アイムの巨腕が、クレッタの猛攻が、二人に襲いかかる。しかしロクもフィラも、必死でそれらに食らいついた。
 次元師としての元力を、人間としての体力を、どんどん奪われていく。それらがもはや底を尽きつつある二人だったが、ロクはしきりにあたりを見渡し、着実に"確認"を進めていた。
 ロクは、何度目かの時間の巻き戻しを経て、クレッタの蹴りを回避し、街中に蔓延る元魔の群れの中へ飛びこんだ。無数の元魔から襲撃を受けるがそれも躱していく。疲労しているはずなのに、ついてきてくれる限り身体を酷使した。ロクは息を切らして走りながら、視界の先に見えたアイムとフィラの姿を観察する。それから、片耳に指を添えて言った。

「フィラ副班! こっちはもう大丈夫! あとは運次第だけど……できるだけ、やってみる!」

 加えてロクは、なにかをフィラに指示した。
 途端、アイムの大振りな殴打が、フィラに襲いかかろうとした。しかしフィラは慣れてきたといわんばかりの素早さで、身を屈んで回避した。フィラが退場するのと入れ替わって、ロクがアイムの背中に向かって手を翳す。
 ロクの右腕に、猛烈な電気が迸る。

「背中がガラ空きだ。とびきりの穴を開けてやる──!」
 
 身に纏う電気が、一層強く光を放つ。かっ、と眩い光があたり一帯を焼き尽くしたとき、その光に負けじとアイムの赤い瞳がぎらついた。
 が、しかし。瞬いたのはほんの一瞬で、アイムの瞳の光はゆっくりと勢いをなくしていった。
 雷光が明滅して、街中を照らしだすさなか、煩わしそうに表情を歪めているクレッタが、アイムの様子がおかしいことに気がついた。時間が巻き戻らない。クレッタは、口の端を吊りあげて叫んだ。

「オイ! もうへばったのかよ! 使えねえな!」

 雷光が、晴れる。
 クレッタは、次に目に飛び込んできた街の風景に、違和感を覚えた。

「あ?」

 光に充てられた、大小さまざまな元魔たちが、ぐわんぐわんと身体を左右に揺らしていて、行動不能だ。
 くん、とクレッタの鼻先が疼く。
 なにかの匂いが、足りない。
 クレッタが勢いよく振り返ると背後から、ロクに指をさされていた。
 ロクはなにも声に出さず、ただ口をはくと動かして、「残念」とでも告げたようだった。

 がぱ、と開いたのは、巨大な蛇顎だった。
 
 途端に視界が暗くなってクレッタは首を真上に向ける。次の瞬間、猛烈に剥き出しになった"生物の殺意"が、生命の神を頭から丸ごと吞み込んだ。

(こいつ、の殺意、さっきの光に紛れ──)

 数多に蔓延る元魔たちを全身で圧し潰した『巳梅』の頭と顎が勢いよく嚙み合った。その口内では、上顎に立つ牙が生み出す聞くもおぞましい不快な咀嚼音と、"液体"とが溢れて、外に漏れ出していた。

「──六元解錠、"芯毒しんどく"……!」

 伸ばした腕が震えていたが、フィラは、クレッタを確実に嚙み潰したと確信を得るまでは、気が抜けなかった。しかし、心音をうるさくさせていると、風とともに時間も刻一刻と経過する。指先からふっと力を抜いて、フィラはようやく、深く息を吸った。
 
 ロクはフィラから作戦を聞いて真っ先に、「途中でへばらないようにしないと」と思った。これは真に、体力が結果に繋がる──なんとも単純で誤魔化しが利かない作戦だった。
 
 "雷柱"を食らったアイムが意識を取り戻す直前、フィラは小さくしておいた『巳梅』でアイムに"芯毒"──つまり、毒を注入した。
 アイムはその後すぐに目を覚ましたが、作戦の一段階はこのときすでに達成していた。あとはアイムにあらゆる次元技を仕掛け続け、何度も時間を巻き戻させることで、アイムの体力を削っていくだけだ。毒で神経を狂わせ、早めに体力が尽きるように操作したのが、この作戦の肝だ。
 ではクレッタはどうするかというと、フィラは、あえてクレッタの攻撃は受けても避けてもどちらでもいいとロクに告げた。時間の巻き戻しをさせてしまえば受けた傷はその時間軸の状態に戻る。早めに攻撃の種を撒いておいて、できるだけ多くの時間を巻き戻しさせる──これさえ守れば、最終的には、怪我も少なく、アイムも気絶させられるからだ。
 もちろんクレッタの存在を完全に放置していても意味はない。だからフィラは、作戦の終盤でクレッタにも"芯毒"を与えられるよう、ロクに協力を頼んだ。ロクは、派手な動きと次元技で戦場を掻き乱しながら、フィラと『巳梅』の姿がクレッタの視界から外れるような位置を探し回っていたのだ。大小さまざまな元魔が大量に蔓延ってくれたおかげで、隠れ蓑候補が多く、助かった。
 雷光に紛れ、牙を光らせた蛇が素早く獲物をしとめる瞬間を、ロクはその目にしたのだった。

 フィラは瓦礫の山の上に立ち、風に吹かれる。眼下では大蛇の下敷きとなった無数の元魔たちが黒い粒子状になり、さらさらと砂に還ったり、息も絶え絶えなのか無様な歩き方をしたりしていた。
 いまや『巳梅』の口内で咀嚼され、姿の見えないクレッタに向けて、フィラは燻っていた感情を吐露した。
 
 「生命の神だとあなたは言っていたけれど……草木を傷つけ、生物の命を愚弄するあなたには相応しくないわ」

 震える手で拳を作って、握りこむ。ロクの無事を確認しに行こうと足を踏み出した、そのときだった。
 『巳梅』の口ががぱりと縦に大きく開いた。低い唸り声をあげたのも、すぐに掻き消える。灰色の両腕を伸ばしたクレッタが、無理やりに口を開かせて姿を現したのだ。その姿は巨大化した『巳梅』の大きな顎を開かせられるほどに大きく膨れ上がっていて、またしても筋肉の発達した野生の獣だった。『巳梅』は顎を震わせ、なおも噛み潰そうと抵抗していたが、びくともしなかった。
 毒の影響なのか、震えだした灰色の太い腕でしかしがっちりと『巳梅』を制し、クレッタは、奇妙な笑い声をあげた。

 「ああ、戻ってきた」

 それから、破裂音のような笑い声が空気一帯を振るわせて、どこまでも高らかに響き渡った。

「力が、だんだん戻ってきて……これだ。アハハ! ハハ! 気持ちがイイ! 最高だ!」
 
 クレッタの四肢がさらに太く膨らんだ。そしてついに『巳梅』は力尽きて、拮抗していた力がふいに、緩み始める。瞬間。クレッタは巳梅の毒牙を掴んでへし折った。『巳梅』がぐらりと後方にのけぞるのがわかって、フィラはさあっと顔を青くさせた。

「巳梅!」

 フィラの悲痛の叫びも虚しく、『巳梅』が地面の上に首を倒した。大きな音が鳴り響いて、激しく舞い上がった土埃がフィラの視界を覆った。フィラは咄嗟に『巳梅』の身体を小さくさせようと手を伸ばした。
 が。フィラは思うように術が発動できず、ぴくと指先を弾いただけだった。

「え?」

 『巳梅』の身体に、異変が訪れる。地面にべったりと突っ伏す巳梅が、薄く両目を開いていた。その目は血濡れたように真っ赤だった。
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.159 )
日時: 2025/02/23 19:08
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第142次元 時の止む都ⅩⅧ

 『巳梅』は、倒れたばかりだというのに、ゆっくりと首を持ち上げて、けたたましい雄叫びをあげた。するとどうしたことか、『巳梅』は突然、四肢を乱暴に振り回し、我が身も顧みずに建物や木々に衝突しだした。
 クレッタが喉を鳴らして、愉しそうにまた高い笑い声をあげた。

「そうだ! そうだ! 暴れろ! 壊せ! 全部壊していい! 壊せ!」

 神の声に呼応するかの如く、次元の力の大蛇──『巳梅』は、我を失ったように慟哭し、巨大な肢体を振り乱し、赤い血の雨を降らせた。
 フィラは肩を震わせて、開いた口が塞がらないまま、必死に声を絞り出した。

「う、嘘……どうして!? 巳梅! やめなさい! どうしたの!? ねえ……どうして、どうして……私の声を聴いてよ、巳梅ッ!」

 声が枯れるまで呼びかけても、『巳梅』はフィラに一切の反応を示さない。ただ身体の動く限り、街の建造物を瓦礫の山に変えていく。空を掻くような鳴き声と、頭上に障る高笑いの声と、鼓膜を叩く崩壊音とか混ざり合って、目の前に繰り広げられる光景は混沌を極めた。
 ロクアンズも大きく左目を開け、動揺を隠せずにいた。飛んでくる瓦礫を身体が勝手に避けてくれるだけで、頭ではまったく状況が呑み込めていなかった。
 まず二人にわかるのは、いますぐに『巳梅』を止めなければならない、ということだった。
 フィラは開いた口が塞がらなかったが、はっと思い立つことがあり、唇を噛み締めた。次元の扉を閉じるしかない。そうと決めればフィラは片手を固く握りしめ、『巳梅』に向かってそれを翳した。
 意思のままに閉じるだけだ。次元の力は主の意志に呼応する。それだけのはずだった。

「──っ……!?」

 フィラは、意思を固め、強く念じたにも関わらず、まるで手ごたえのない片手を震わせた。

(私の、"意思"が──通じない!?)

 ──『巳梅』は、いまもなお鋭利な毒牙を剥き出しにして、激しく咆哮する。
 
 次元の扉を閉じることが、できない。
 
 『巳梅』がフィラの声を無視するだけでなく、次元の扉さえフィラの意思の外へ追いやられてしまったかのようだった。衝撃のあまり、フィラは完全に言葉を失ってしまった。
 ロクは、フィラの様子がおかしいと気がついたが、気を取られているうちに『巳梅』の肢体が飛んできていて、衝撃の余波で耳たぶを裂いてしまった。その拍子に後退したロクの目に、耳元から離脱した通信具が、路上に転がっているのが見えた。だがそれは、飛んできた瓦礫によって木っ端みじんに砕け散ってしまった。
 ロクは、ぐっと奥歯を噛み締めて、走り出すと、息を切らしながら叫び続けた。

「フィラ副班ッ! ……フィラさんッ! 聞こえる!? ねえ! あたし、いまそっちに行くから!!」 

 瓦礫が倒れ合ってできた隙間をくぐり抜け、折り重なる木々の幹を踏み越えて、手足がちぎれそうになってもロクは走り続けた。視界の先に見えるフィラは、放心していた。すぐに彼女のもとへ向かわなければ──逸る心を無理やりに気力に替えて、ロクはフィラのもとまで急いだ。

「フィラさんっ!」

 フィラの真っ青な顔色がはっきりと見えてくるようになると、ロクはもう一度彼女の名前を呼んだ。声に気がついたフィラが、不安げに揺れる瞳を歪めて、口を開こうとしたときだった。
 フィラが瞠目する。彼女の視線がロクの背後に釘付けになったとわかるや否や、ロクは咄嗟に振り返った。
 大蛇の毒牙が視界を刺す。暗い影が落ちる。
 赤い咽喉に視線が吸い込まれそうになってロクは、はっと身構えた。

(──いや、違う!)

 途端。『巳梅』の背後から"違う殺気"が猛烈に枝葉を伸ばした。まるで『巳梅』の背中から歪な翼が生えるように、枯れた木々の根の群れが顔を出す。
 息を呑む間もなかった。『巳梅』の身体を太い木々が幾本と貫通する。立て続けに、ロクとフィラの身体にもそれらの先端が突き刺さった。二人の頬には赤い血の雨が、ぼつぼつ降って、二人と一匹は串刺しにされたまま後方へと押し返された。
 大蛇の身体、無数の木々の根、そして周囲の瓦礫とにもみくちゃに巻き込まれて、ロクとフィラは厚い土埃の中で倒れこんだ。
 紅色の鱗の上を軽快に跳んでやってきたクレッタが、素知らぬ顔で『巳梅』の頭を見下ろして、言った。

「オマエさ、コルド・ヘイナー知ってるか。そいつのところまで連れていけ」

 『巳梅』はもたげていた頭をゆっくりと起こす。鱗に引っ掛かり、絡まっていた、木々の枝や根たちがぶつり、ぶつりとちぎれる。
 クレッタは『巳梅』の鱗の上に立ち、疲労のためか静止しているアイムのほうを向いた。くるりと宙で指を回すと、またしても、息絶えた無数の生き物の破片が地面の上から、下から、どこからともなく浮上する。"元魔"になった生き物たちは、アイムの周りに集結すると、太い腕や脚の下に潜り込んで、十尺はある巨体をゆっくりと持ち上げた。
 クレッタと、ぐったりと身体を揺らすアイムと、そして無数の元魔たちとともに立ち去ろうとする『巳梅』の姿が、薄く開いた視界の先にぼんやりと映って、フィラはか細い声を出した。

「まって……行かないで」

 フィラは力を振り絞って、身体を起こし、歩きだす。身体は不安定によろめいて、すぐに彼女は膝から崩れた。それでも、がたがた震える脚を立てて、立ち上がる。視界が定まらない。頭痛が鳴りやまない。もはや紅色の鱗もぼんやりと景色に滲んでしまって、すぐに消えそうなのに、近くにいるみたいに独りよがりな声で、フィラは喉を締めた。

「いかないで、巳梅……!」
 
 頭に血が昇ってきて、耐えきれずフィラはまた倒れこんだ。なにが起こってしまったのか、どうして『巳梅』が言うことを聞いてくれなかったのか、その恐怖と悔しさと、そして次元の力と離れ離れになってしまった虚無感に、頭だけでなく身体も戸惑っていた。
 だからフィラは、ロクの安否を確認するのが遅れた。我に返ったフィラは心臓を逸らせ、急いでロクのもとへと駆け寄った。
 大きな瓦礫の下から細い腕と、若草色の髪の毛が伸びているのが見える。フィラはぎょっとして、ロクの身体に覆い被さった大きな瓦礫をどけようと、手をかけた。
 
「フィラ副班、行って!」

 ばちり、と電子の糸がフィラの足元を這う。ぐぐと瓦礫が浮いて、その下からロクの声が聞こえた。ロクは、びっしょりと汗に濡れた頬を引き攣らせ、声を力ませた。
 
「早く追いつかなくちゃ、多くの人やものが犠牲になる……! あいつを絶対に止めるんだ!」
「わかっているわ! でも私、次元の力を扱えなくなっちゃったの……! どうしてかはわからない。これじゃあ巳梅も、神族も止められないのよ。だから、私が行くよりも、あなたのほうが、」
「それならなおのこと、『巳梅』が望まない破壊を続けるのを、だれより、フィラさんが許しちゃだめだ……っ!」

 フィラは押し黙った。口を閉じたのは、追いつきたいのも、『巳梅』を止めたいのも、ロクが思う以上にフィラは望んでいて、本当はすぐにでも駆け出したかったからだ。
 胸が苦しくなって、フィラは自身の胸元のあたりを強く握った。
 ロクの背中が浮いてくると、大きな瓦礫も同時に押し上げられて、やがて重い音を立てて崩れ落ちた。ロクは膝と手をついたまま、数回咳き込んだあと、申し訳なさそうに言った。
 
「あたし、ごめん、すぐに動けそうにないから、だから……」

 ロクがそう言いかけて、フィラの顔を仰ぐと、彼女は考えるようにぎゅっと目を瞑り、下唇を噛んでいた。
 それからゆっくりと口元を解いた。
 
「……わかった。私、先に行くわ。ロクちゃん、必ず安全第一で、あの三人を道中の支部に預けるの。神族たちはコルド副班長を狙っていたから、きっとエントリアへ向かうはず。それまでに本部と連絡をとれるといいけれど……。どの道、セースダースで落ち合うことになりそうね。あとからでいいから、そこで合流よ」

 臙脂色の瞳を開く。フィラは決意を新たにすると、ロクにそう指示をした。
 ロクは強きな笑みを口元にたたえて、了承した。
 
「うん。わかった、任せてよ。副班長」
 
 フィラは、後ろ髪を引かれる思いだったが、ロクに背を向けて、街の外へと駆けていった。
 臙脂色の髪が見えなくなると、ロクは全身に力を入れた。ばちばち、と猛烈に、ロクを包み込むように電気の波が立って、彼女は力の入らない四肢を無理やりに焚きつけた。
 身体が左右に揺れて、ロクは立ち上がる。電気の糸が小麦色の肌を這う。息が整う前に彼女も動きだした。
 
 嵐が去ったあとのような、道という道が塞がれた街の中を、ロクは二回半往復した。第三班の三人を一人ずつ街の外に運びだすためだった。しかしサオーリオ街の外で待機させていた馬は、フィラが跨っていたのを除いても三頭はいたはずだが、激しい戦闘音で驚かせてしまったらしい。外壁の付近には動物の気配がまったくと言っていいほどに感じられなかった。
 さすがに三人を背負って山を下りられるほど体格に恵まれていない。行き詰っていたロクだったが、そこへ運よく、ラジオスタンの狩猟人が通りかかった。大きな音に驚いた動物たちが一斉に下山してきたので様子を見にきたとその人物が言ったので、ロクは、事情を説明して下山を手伝ってもらえないか頼みこんだ。
 大量の元魔が出現し、山を下りたので急いでほしい、と念を押したためか、四人を乗せた荷馬車は思ったよりも早く麓の町に辿り着いた。
 ロクは狩猟人に礼を言うとすぐに、町の中で改めて荷馬車を調達し、セースダースへと急いだ。セースダースに辿り着きさえすれば、あとは此花隊の支部に駆けこんで、メッセルとガネストとルイルの身柄を預けるだけだ。
 しかしロクは、セースダースが近づくにつれて、全身から血の気が引いていくのがわかった。
 ──神族らの軍団は、セースダースを通過したのだ。その光景を遠目に、馬に跨りながらロクは、大きな左の瞳をさらに見開いた。
 
 街を包むように燃え盛る戦火が、重なり合って響く人々の阿鼻叫喚が、あたり一帯の空気を震撼させていた。

 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.160 )
日時: 2025/04/05 14:03
名前: 瑚雲 (ID: 57S6xAsa)

 
 第143次元 時の止む都ⅩⅨ

 一頭の早馬が高らかに蹄を鳴らし、野畑を駆け、エントリアの城門へと急いでいた。馬に跨っている灰色の隊服に身を包んだ男は、手綱とともに大量の汗を握りこみ、早々に門を抜けると街の中心部──此花隊本部へと脇目もふらず向かっていった。街の住民や、警備中の此花隊隊員らが、ただならぬ表情をしたその男を一目見て、ざわめき立つ。

「隊長ッ! ラッドウール隊長! お戻りですか! 緊急事態にございます! どうかお返事を!」

 その男の隊員は、本部の門を抜けるや否や、額から滝のような汗を流しながら、人目も憚らず叫んだ。廊下を突っ切っていく彼を見て、なにごとかと注目が集まった頃、廊下の曲がり角から怪訝な顔をした老齢の女性が顔を覗かせた。
 チェシアは、副隊長らしく赤い外套を身に纏い、しゃんと背筋を伸ばした立ち姿で、慌てふためく男を制止するように彼の前に立ちはだかった。

「何です、騒々しい。あなたは……本部の隊員ではありませんね。隊長は現在、ウーヴァンニーフに滞在中です。急用ならば私に言いなさい」

 男はチェシアの姿を見ると、慌てつつも、恭しく首を垂れて、矢継ぎ早に告げた。
 
「大蛇が、紅い大蛇がセースダースに現れたのです、副隊長!」
「大蛇? それはたしか……フィラ・クリストンの次元の力では」
「それが、見たこともない数の元魔と、謎の異形らとともに街で暴動を起こし、セースダースはいま、壊滅の危機に瀕しています!」

 隊員が、唾を散らすほどの勢いでチェシアに告げると、彼女の目の色が変わった。

「とにかく一刻も早く住民の避難と、東門の封鎖を! 赤い大蛇が一体、謎の異形二体、元魔複数体──それらが群れを成し、この街に向かってきております!」

 間もなく、緊急事態を知らせる大鐘の音が何度も、何度も、エントリア上空に鳴り響いた。

 
 本部の廊下では灰色や白色の隊服が忙しなく行き交って、その一部の隊員たちは門の外へと飛び出していく。隊員たちの怒号が飛び交う中、チェシアは鍛錬場で汗を流していたレトヴェールと医務室で養生をしていたコルドを引き連れて、だれよりも機敏な足取りで正門を目指していた。
 その表情はいつにも増して固く強張っている。チェシアは颯爽と廊下を歩きながら、後ろをついてくる二人に告げた。

「端的に説明をいたします。おそらく神族と思われる個体が二体、元魔複数体、それから原因は不明ですがフィラ・クリストンの次元の力『巳梅』のような大蛇が、ともに北東の方角よりこのエントリアに向かっています。東門の警備班員にはすでに事実確認も取らせています。フィリチア付近で謎の軍勢が確認できていると。事は一刻を争います。お二人は急ぎ東門へ向かい、彼らを迎え討ちなさい」
「了解」

 レトとコルドは声を揃えて返事をした。此花隊本部の正門前でチェシアと別れると、二人は指示通り東門へ向けて出動した。

 
 援助部班班長、医療部班班長らとともに、人員の配置指示を含む各所への伝令を早々に終え、セブンは一度班長室に戻ってきた。それまでは平静を保っていたが、ふと一人になると、耳の奥から心音が聞こえだして、何度も息を吐いた。本部中に、そして街中に緊張の糸が張り巡らされていて、部屋の中は静かなのに、頭の奥がずっと騒がしいままだった。
 資料や紙束の山で散らかった長机の端をとんとんと指で叩きながら、セブンは思考をまとめていた。

(神族が二体出現……。その事実だけで卒倒しそうだったが、隊員たちが思うよりも動揺していないのが救いだ。先の神族ノーラの出現が大きいだろう。私も調整を終えたらただちに、避難誘導を行っている西門へ向かわなければ)
 
 東方へと戦闘部班の二班を向かわせたが、二つあった宛のうちどちらかの見当が当たったらしい。それも『己梅』の姿が確認されている以上、フィラの身になにかあったのは間違いない。しかしセースダースからやってきた支部の隊員は、戦闘部班の班員については「姿を見かけていない」と報告してきた。
 セブンはさらに眉間を深めた。
 
(……『巳梅』が神族と行動をともにしているのは、なぜだ?)

 セブンはすぐにかぶりを振った。考えても仕方がない。研究者でもなければ、次元師でもない自分には、想像もできない力の働きがきっとあるのだ。
 そのとき。班長室前の廊下がなにやら騒がしく、セブンは顔を上げた。扉に近づくにつれて、声は大きくなり聞き取れるようになった。

「だから、お、俺だって、戦いに行きたいんだよ……! 止めないでよ!」
「だめよナトニくんっ。キミが次元師かもしれないっていうのはコッソリ聞いたけど……でもまだ使えないんでしょ? エントリアに残ってたら危険だわ……。私たちと一緒にカナラへ向かって、現地の態勢を整えましょ? ね?」
「そんなこと言って、エントリアでカミサマとかを食い止められなかったらどうすんだよ! 二体もいるって! こないだなんか一体だったのにあの戦闘部班の……マジメそうな男の人! 強そうだったのに、腕怪我して休んでるじゃんか! じゃあ一人でも多く次元師がいたほうがいいだろ!」

 ウーヴァンニーフの此花隊第一支部からナトニ・マリーンを引き取り、本部の援助部班手配班へと所属させた。当班のモッカに面倒を見させているが、ナトニの旺盛さに手を焼いているらしいのがこの会話からも伺える。扉越しでも、モッカが眉を下げている表情が目に浮かぶようだった。

「安心したまえ。コルド副班長は回復しつつあるし、さきほど神族らが到着すると思われる東門に向かわせた。同じ方角からは別班の副班長と、君の友だちのロクアンズも向かっているよ」

 セブンは班長室の扉を開けて、廊下で立ち往生をしている二人の前に姿を現した。ナトニを安心させるために、フィラやロクが問題なく向かっているような嘘までついてしまったが、これでナトニが諦めて従ってくれるのなら、嘘も真実も大差ない。
 ナトニは、首をぐるりと回して、セブンの顔を見上げた。

「あ! アンタ……班長の人!」
「君には君の仕事があるだろう? 急ぎカナラへ向かい、先に現地へ向かったほかの援助部班の班員と連携をとってくれ。カナラの街も混乱しているはずだからね」
「なあ! 俺も、俺も戦地に出動させてくれよ! 次元師なんだったら、きっと役に立つから!」
「だめだ。次元の力を発現していない以上、危険な場所に送ることはできないよ」
「じゃあ力がねえ俺たちは、次元師のみんなが勝つのを遠くから祈って、じっさいなにもできないっていうのかよ……!」

 セブンは間を置いたが、表情を崩さずに鋭い声を降らせた。

「なにもできないわけがないだろう。だから指示をしたんだよ。カナラに向かって、君は君ができることをやってほしいんだ」
「で、でもそれじゃあ……みんな戦ってるのに!」
「戦う場所が違うだけだよ、ナトニくん。僕たちは僕たちの戦いをしよう。一人でも多くの人の命を守り、そして一秒でも早く安全を確保する。これが、かっこ悪い仕事だと思うかい?」
「……」

 セブンが片膝を折って、ナトニにそう言葉をかける。まっすぐに視線が重なって、ナトニはなにも言えなくなった。
 しばらく二人の様子を見てはらはらしていたモッカだったが、セブンの言葉を聞くとふいに口元を緩めて、ナトニの背中を優しく撫でた。

「行きましょ、ナトニくん。私たちだって力になれるわよ。……そして、いざってときは、私たちを守ってね。未来の次元師サマ」

 ナトニは、悔しそうに下唇を噛み、ぐっと眉を寄せていたが、すぐに「うん」と頷いた。モッカがもう一度背中を押したので、自然と歩き出していて、二人は正門へと向かった。彼らを見送ったセブンにもまだ本部内の調整、各所への指令、西門の確認──やるべき仕事は多く残っている。

 東の城門塔に配属された警備班の班員たちは、目尻までかっ開いて、城壁の外の景色を睨んでいた。揺らめく影がだんだんと輪郭を大きくして確実に近づいてきているのがわかっていた。それらの軍勢を警戒して、東門を閉じる準備を進めている。城壁の外を出歩いていた街人たちは一人と残さず中へと誘導し、人気がなくなったことを確認した。塔内の班員たちを取りまとめている副班長の男の声に合わせて、鉄製の落とし扉がゆっくりと下ろされていく。

「よーし! そのまま! ゆっくりと下ろせ! 焦らずとも間に合う!」

 副班長の男が、そのときふいに目を見開いた。

「ま、待て! 一時中断! 城門の外に子どもを確認! 一時中断!」

 男が焦ったように叫ぶと、落とし扉がびたりと動きを止める。男たちの視線の先には、草陰から飛び出してきた一人の少年がいた。少年は注目されると、びくりと肩を震わせて、きょろきょろとあたりを見渡したあと、閉じかけた門を見て、焦ったように走り出した。
 ぱたぱたと細い足を振って、少年が門をくぐり抜けようとした、そのときだった。
 少年の背後の空間が不自然に歪んだのだ。

「げ、元魔……っ!!」

 歪みの中心から、黒い塊のようななにかがまろび出てくる。それは赤い粒ような両目を持ち、口らしい部分をがぱりと縦に大きく開いた。奇声が聞こえてきて、やっと振り返った少年だったが、目前にまで元魔の口が迫り、驚きで息を呑んだ。
 動かなくなった手をだれかが引いた。
 そのまま抱き寄せられた少年は、その何者かの腕に抱かれながら宙を跳んで、ガチンと虚空を噛み潰す元魔の姿を見る。
 少年は、頭上から凛とした冷静な声が降ってくるのを聞いた。

「──四元解錠、"真斬"!」

 レトヴェールは『双斬』を持つ片腕を横向きに大きく振って、鋭い真空波を放った。それは空中を跳んで、元魔の身体を真っ二つに切り裂いた。
 ぽかんと口を開ける少年を抱えて走り、レトは東門の前まですばやくやってくると、警備班の班員たちに向けて力強く叫んだ。

「こいつを入れて早く門を閉じろ!」

 しかし、次の瞬間だった。背筋が、ぞっと粟立ち、レトは数多の生き物の息遣いを感じ取った。
 振り返ると、空中にいくつもいくつも歪みが生じていた。それらの歪みの中心から黒い頭が、黒い四肢が、黒い胴が飛び出し、そうして数えきれないほどの元魔がレトを取り囲んだ。
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.161 )
日時: 2025/03/09 20:51
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
第144次元 時の止む都20

 中空に浮かぶもの、地面の上を這うもの、それらは十何体にもなり、レトヴェールに嫌な視線を浴びせた。元魔の群れを前にして、レトはすばやく『双斬』を握り直し、姿勢を低くする。重心を身体の前面に据える。たっぷりと時間を使って構えると、目を閉じた。まるで、彼の周囲だけ時間が止まっているかのようだった。
 ふいに雑音が途絶えて、レトは小さく息を吸った。

「五元解錠」

 黄金の美しい相貌が開いて、瞬間レトは跳び上がった。

「──"裂星閃れつせいせん"」

 目にも止まらぬ速さで斬撃が飛んだ。否、"飛び交った"。あたりに蔓延る無数の元魔たちが、ほぼ一斉に断末魔をあげ、身体の表面をぱっくりと切り裂かれたのだ。まさに瞬きをする間に、幾度となく斬撃を繰り出したレトがやっと地面に着地すると、元魔たちは一匹残らず霧散していった。
 しかし安堵するにはまだ早い。
 撃退した元魔の塵の幕が開けていくと、紅色の鱗を持った大蛇の姿が、レトの視界の先に迫っていた。

「ア゛アア! ギ、イアアアッ!」
「──」

 『巳梅』の口からはとても聞いたことのない奇声が響き渡り、レトは全身がびりびりと痺れるように感じた──そして『巳梅』が巨体をしならせて、怒涛の勢いでこちらに突進してくる!
 レトはこめかみに汗を滲ませ、固く身構えた。『巳梅』の鱗の上には何者かが搭乗していて、さらに、大きな灰色の化け物が無数の元魔に囲まれながら運ばれているのが見えるのだ。
 心構えを新たにして、レトはさらに鋭く目を細める。

(間違いない──……あいつらは、どちらも神族!)

 『巳梅』の鱗の上に乗りかかった何者かが、すうと腹を膨らませ、高らかに雄叫びをあげた。
  
「コルド・ヘイナーはどこだア──!」

 レトは下半身に力をためて、片方の短剣を力強く薙いだ。繰り出された斬撃は一直線に空を切り、『巳梅』の顎を目がけて飛翔する。

「五元解錠、"真斬"!」

 飛んでくるのを察知したか、『巳梅』はぐるりと頭を回して、向かってくる術の波動に激しい奇声を浴びせた。奇声は空気を殴打し、波動は空中で砕けた。あまりにもわずらわしくて大きな鳴き声に、レトは唇を噛み締め、両耳を塞いでしまう。加えて足元を踏ん張っていないと、咆哮の余波に身体が浮きそうにもなった。やがて『巳梅』は、けたたましく絶叫したまま、巨大な頭部を城壁へと叩きつけた。

「ギイアアアッ!」

 大蛇の頭を叩きつけられると城門の一角が凄まじい音を立てて崩壊した。たちまちに悲鳴が聞こえてきてレトは絶句する。半信半疑だったのだ。『巳梅』が神族とともに行動し、挙句に人に危害を加えようとは、到底考えられなかった。
 やめろと叫ぼうとしてレトが前のめりになったそのとき。崩壊した東門の付近から数本の鎖が飛び出して、『巳梅』の頭から胴体にかけて巻きついた。『巳梅』が頭から尾まで激しくしならせているうちに、城門の塀の上に乗りあがったコルドが、鎖を束にして力一杯握りこんでいた。

「俺が……コルド・ヘイナーだ! お前たちは、神族だな!」

 『巳梅』はがむしゃらに頭を振り乱すも、鎖の拘束が解けず、のたうち回った。悲痛そうな鳴き声がコルドの耳に刺さる。彼は表情を歪めた。すでに『巳梅』は全身に怪我を負っていて、血だらけだった。
 苦しそうにもがく『巳梅』をまったく意に介さず、人間の姿をしたクレッタは灰色の頬を紅潮させて、真っ赤な目を輝かせた。

「コルド・ヘイナー……オマエが、コルド! 会いたかったぜ、なア! ノーラを殺した男!! コルド!!」

 興奮の色を剥き出しにしたクレッタは、感情の昂ぶりに合わせて、その身体を変化させた。首や手足がぐっと太く膨れて、隆々とした筋肉に発達していく。瞬く間に、背丈はもとの十倍以上にまで高くなって、全身は硬い皮膚で覆われ、頬の周りには立派なたてがみを生やし、上顎には鋭い牙をたくわえた。巨大な野獣は、大口を開け、空に向かって吠えた。すると、周囲の草木がざわついて、途端に黒い靄が出現した。レトはその目でしかと見てしまった。草陰の下で息絶えている虫や小動物たちから黒い靄が噴き出して、見る見るうちに姿を変えていくのを。
 "元魔"が生み出されたのは、東門の周辺だけではなかった。野獣クレッタの雄叫びが高らかに響き渡ると、エントリアの街中から、暗雲のような黒い靄が立ち昇った。
 間もなかった。街中の全方位から人々の絶叫がこだまする。レトはさらに、元魔の誕生を目前にして混乱もしていたが、すぐに意識が引き戻された。

 巨大な野獣へと変化を遂げたクレッタは、コルドの手元から『巳梅』へと繋がっている鎖の束を一纏めにして、むんずと掴んだ。そして、まるで『巳梅』を槌にでもするように、いきなり鎖ごと振り回した。コルドは、驚愕のあまり咄嗟に回避できなかった。前動作は一切なかったのに、ごう、と風を切る音は凄まじく、すでに半壊している城壁も巻き込まれた。

「コルド副班!」

 レトは急いで、コルドのもとへ向かった。クレッタはコルドの名前を口にしていたし、ノーラを討伐したことも耳に入れているようだった。仲間を殺されたことで因縁をつけてやってきたのだろう。運命の神【DESNY】の姿は見えない。
 城壁の近くから逃げていく者、崩壊に巻き込まれて息絶えている者らを眼下にして、クレッタは咆哮のごとく唸った。

「コルド! コルド・ヘイナー! カンタンに死ぬなよ! なア!!」

 城壁の傍では、これまた巨大な蛇が、ぐったりと横たわっている。鎖に絡まったまま『巳梅』は完全に静止していた。舌を伸ばし、白目を剥いた『巳梅』の傍らで、一人の男が瓦礫を押しのけて姿を見せた。コルドが、クレッタをひどく睨みつけて、眉間に皺を寄せる。

「誰が死ぬか……!」

 『巳梅』に絡まった鎖が、解ける。ばらばらになったそれらは、もう一度空中で渦を巻いて、一つになっていく。
 竜巻が起きる。数えきれないほど無数の鎖の破片が寄り集まって、黒い影がどんどんと膨らみ、形を成していく。コルドは詠唱した。

「──七元解錠、"浪咬なみかみ"!」
 
 渦巻く無数の鎖たちは、巨大な蛇のように竜巻の中をぐるりと遊泳する。見る見るうちに肥大化した鎖の大蛇は、クレッタの喉笛に噛みつきかかった。クレッタの巨大な身体は、勢いに喰われて後方へと傾いた。
 ちょうど城壁に辿り着いたレトは、コルドを見つけて、彼のもとへ駆け寄った。

「コルド副班、街中も危ない! ここは別れた方が……」

 街中からは住民の悲鳴が響き続けている。コルドは百も承知の上で、鋭く切り返した。
 
「いや、いい! 俺たちはここで神族を足止めする。どの道、俺を狙っているようだから、俺がここにいる限り、奴が動くことはないだろうが……万が一、もう一体のあの、いまは動いていないほうの化け物が動きだしたら、一人では対処しきれない」
「そしたら、街のほうは……」
「不安だろうが、あの方に任せておけ。それが最善手だ」

 コルドは、転倒したクレッタから目を離さず、レトに告げた。次第に、クレッタが起きあがってくる。足はしっかりと地に着き、ギラギラと光る赤い両目が、獲物を狙うように、こちらを強く睨みつけている。
 「承知」と、レトは短く了承し、息を荒げている巨大な野獣──クレッタに、意識を集中させた。
 

 エントリアではいま、混乱の渦が巻き起こっている。
 神族の来襲を告げられた街の住民たちのうち、まず怪我人と医師と高齢の者が、西門から外へ逃がされた。しかし想定よりも早く神族が到着し、そしてほどなくして、無数の元魔が街中で発生した。地面の下から、街角から、屋根の上から、あらゆる場所から元魔は姿を現し、退避が間に合っていない街の住民はさらなる混乱を余儀なくされ、一刻も早く街を出ようと西門へと急いでいた。しかし、襲撃から逃れることができなかった者は、西門に行きつくまでに息絶えた。絶望と不安が、一瞬のうちに街中を包み込んだ。

「早く、急いで! 西門で我々此花隊隊員が待機しています! 誘導をしますから、早く退避を!」

 避難誘導に忙しなくしている警備班の班員たちが、切羽詰まった表情で、必死に呼びかけている。街中に残っている住民は若い男が多いが、それでも元魔を初めて目にする者も多く、緊張で走れなかったり、腰を抜かしてしまう者が相次いだ。
 
「……っ、ひ、ああ!」
「ギイイイ」

 中央広場で、足をもつれさせ、派手に転げた住民の男の目の前に、元魔が立ちはだかる。奇怪な鳴き声で男を威圧し、男は完全に委縮してしまった。男は目を大きく見開いて、声を枯らしながら必死に助けを乞う。

「だ、だれか! だれか!」
 
 ついに元魔は大口を開けて、男を丸呑みにしようと覆い被さった。
 ──しかし、そのときだった。
 男が悲痛の叫び声をあげ、腕で顔を覆う。だが、いくつ数えても、死にもしなければ痛くもない。混乱して、顔を上げた男は目にした。
 背後から鋭い一閃を浴びた元魔が、目の前で真っ二つに斬り捨てられた。
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.162 )
日時: 2025/04/05 13:36
名前: 瑚雲 (ID: 57S6xAsa)

 
 第145次元 時の止む都21

 尻餅をつく男は唖然として、いま目の前で、真っ二つに切り裂かれた元魔に釘づけになっていた。残骸が地面の上に落下する。ざり、と靴の裏面で地面を擦った人物を認めて、男はさらに驚いた。

「あ、あなたは……!」

 男の声を置き去りに、彼女は彼の脇をすり抜ける。つられて男が振り向くと、複数体の元魔が次から次へと迫っていた。華奢な彼女は、軽々しく跳びあがり、"刀身"を輝かせる。

「──五元解錠、"疾千しっせん"」

 凛とした妙齢の女性の声が、ゆっくり紡がれるのとは裏腹に、瞬きひとつするのも遅いほどの烈閃が迸った。幾重もの軌跡が宙空を切り刻む。美しい刀捌きですべての元魔の赤い核を叩き割ると、女性は、音もなく地面に降り立った。
 彼女は静かな所作で、鞘に刀を収めた。それから赤い外套をはためかせて振り返った。

「なにをしているのです。早くお行きなさい。この近くに、我が隊の警備班が待機していますのでそちらへ」

 イルバーナ侯爵家の前当主であり、此花隊現副隊長の位置に座するチェシア・イルバーナが、鋭い声で男に告げる。
 チェシアは"刀"と呼ばれる、剣とは形の異なる刃物を扱う次元師であった。刀は、遥か遠くの国に由来し、メルギースとドルギースの連なるこの大陸ではほとんど見かけない。しかし彼女は、メルギース人でありながら遥か遠い大地の刀術の腕を磨き、ムジナド・ギルクスに次ぐ優れた刀剣士としても名が知れている。
 周囲に元魔の気配がないことはわかっていても、すっかり腰を抜かしてしまった男を前にしてチェシアは眉間を深めて嘆息し、さらに語気を強めて恫喝した。

「早くしなさい! 死にたいのですか!」
「あっ、あ! すみません!」

 男は、鋭い一喝を浴びると反射的に身体を跳ねさせて、慌ててその場から逃げ去った。エントリアを領地とするイルバーナ家の前侯爵という肩書きは案外役に立ち、とっくに席を退いていても、この街の住民は、いまだに自分を見て萎縮する。しかし、元魔との遭遇で動けなくなる者の尻を叩いて立たせてやれるならまだいいが、それに間に合わず手遅れになった者も、この短い間に多く目にした。

(街中の至る場所から元魔が発生している。私一人では御しきれないでしょう。かといって、コルド・ヘイナーとレトヴェール・エポールを街に呼び戻すことは不可能。東の方角から聞こえる激しい争いの音は、読み通り、神族が出現した証拠。第二班ならびに第三班は、エントリアへの道中で戦闘不能になっている可能性が高い。警備班の者たちが、持ち堪えてくれればよいのだけれど……)

 チェシアは、元魔の禍々しい気配を察知して、息つく間もなく駆け出した。

 エントリア南西部。気さくな主人が経営している狭い酒場の前には、酔っ払いではなく緊張の面持ちで元魔と対峙する数人の警備班員たちがいた。路上で数体の元魔を取り囲んだ警備班の班員たちは、槍の穂先を元魔たちへ向けて、じりじりと一箇所に集める。その間にも、一般市民を逃がし、西門へと向かわせた。元魔がひとたび奇声をあげれば班員たちはみな、息を呑んで槍を取り落としそうになった。しかし逃げようとする班員は一人もいない。
 近くに次元師がいないときには元魔の注意を惹きつけ、一般市民を現場から離れさせる。これは警備班班長、ひいては隊長ラッドウール・ボキシスより下されている、警備班員が守るべき最重要の鉄則である。
 副班長の男は、胸につけた隊章の前で拳を握ると、その手を掲げて班員たちに言い渡した。
 
「瞬きをするな! 一匹とて逃してはならない!!」

 元魔の唸り声が大きく膨らんでいく。一回り大きな元魔が、激しく奇声をあげて、群れの中から飛び出した。

「ガ、ィアア!」
「おおおッ!」

 大柄な男の班員が、槍を強く握りこんで、飛び出した元魔の脳天を突く。続けて弓兵の班員二人が、高所から元魔らの足元に向かって矢を放った。ただちに矢の檻を乱立させ、元魔らが一瞬、身動きに詰まる。しかし、地面に突き立った矢を噛みちぎって、元魔らは矢の檻にのしかかった。
 元魔らは一斉に動きだした。勢いよく突進し、班員たちの身体に覆い被さる。班員たちは、腕を食われても、脚を貫かれても、元魔を離すまいと喰らいついていた。

「必ず、ここで止めろっ!!」
「この先へは……行かせない! 行かせないぞ、元魔ども!!」

 一回り大きな元魔が身体を起こした。そして、歪な腕を振って乱暴に風を切り、大柄な男に掴みかかった。鋭い爪を男の腕に突き刺し地面に縫いつける。男は絶叫しそうになったが耐え忍んでいた。
 意識の糸が切れる直前、なにかが空を切る、音がした。
 後方から鋭い斬撃が一陣飛来、景色を裁断する。男に覆い被さっていた元魔の顔半分が"斬り飛ばされた"。

「よく耐えました」

 胡蝶のごとく軽やかさで飛翔する、人影──チェシアは、切先まで顕になった刀身を天に翳し、凛とした声で詠唱した。

「──七元解錠。"囲駄斬いだぎり"」

 目では捉えられぬ、"美技"だった。
 術が口遊まれるや否や、格子状に成った斬撃がくうを裂いた。瞬間、十数体の元魔が瞬く間に細切れにされ、黒い肉片が空を舞う。
 が、空中から落下するチェシアに、それは迫っていた。彼女の右側の肩口から赤い血潮が噴き出した。先刻、顔半分を斬り飛ばされた大きな元魔がチェシアの身体に密着し、長い爪で彼女の肩を刺し貫いていた。
 チェシアの顔面に、自身の血が降り注ぐ。細い骨が砕ける音が鳴った。しかしチェシアは声ひとつ上げずに、代わりに一層眉間に皺を集めた。

「副隊長!!」

 大柄な男の班員が力の限り叫んだ声とは打って変わって、底冷えするような低い声でチェシアは言った。

「これ以上、此の街を侵すことは断じて許しません」

 右手から、ふっと刀が立ち消える。しかし。一瞬で、刀は左手の中に現れた。彼女は左肩を後ろへ引かせ、刹那、力強く刀身を振るった。

「七元解錠──、"真斬しんざん"!」

 切先が眩い光を帯びた。刀身は元魔の頬を真一文字に斬り払い、顎の下にあった赤い宝石のような核を砕く。チェシアの何倍もあった大きな元魔の身体が黒い粒子となり飛び散って、霧散した。チェシアは空中から落下し、直後、地面に身体を叩きつけたが、彼女は丁寧に受け身を取った。
 副班長の男が、元魔に噛まれた足を引き摺りながら、慌ててチェシアのもとへと駆け寄った。

「ふ、副隊長……! お怪我を!」

 チェシアは班員の助けを借りずに立ち上がり、頬についた血を軽く拭った。
 ことが済んだのに、班員たちはまだ目を丸くして、呆然としていた。そのうちの一人が喉を鳴らし、思わず笑みをこぼす。

「う、噂には聞いていたが……」
「ああ。あれが、チェシア・イルバーナ副隊長の次元の力──『希刀きとう』だ……!」

 チェシアは動かなくなった右腕の代わりに、左腕で『希刀』を一振りするとそれを鞘に収めた。チェシアの傍まで寄ってきた副班長の男の情けない表情を見ると、チェシアは眉根をひそめ、一蹴した。

「この程度のことで騒ぐんじゃありません。周辺の元魔は撃退していますから、いまのうちに、残った住民を逃がし、体制を立て直しなさい」

 冷然とした声でチェシアは告げる。元魔に襲われたものの一命を取り留めた班員たちが、表情を引き締めてチェシアの周囲に集まり、整列する。班員たちの目からはまだ闘志の色が消えていない。チェシアは全員の顔を順番に見てから、厳しく言い渡した。

「一般市民を南門から退避させることが最優先です。この周辺をくまなく捜索し、逃げ遅れた者がいないと確認が取れましたら、ただちにここを離れ、別班と合流しなさい。よいですか、元魔と遭遇しても、近くに一般市民がいなければ無駄な戦闘は避けること。自らの命を重んじられない者に他者の命を守ることはできません。この先一層、気を引き締めて行動しなさい。これ以上奴らの好き勝手にさせてはなりません。この事態の収束は、我々此花隊隊員の手に懸かっています」

 班員たちは声を揃えて返事をする。彼らの目を見て、チェシアはひとまず安堵した。各所に配置した警備班員たちが持ち堪えてくれなければ、とてもチェシア一人では被害を最小限に抑えられないのだ。
 そのとき、チェシアは急に右肩を痛めて、耳につけた紅色の飾りを揺らした。簡単に骨を砕かせてしまうとは、歳を言い訳にしたくはないが、しごく情けない。すぐに固定しなければならないので、添え木になるものを班員から譲ってもらうと、やむをえず救護用の天幕の中で腰を下ろした。
 剣士として鍛錬を積んでいるチェシアにとっては、右で振ろうが左で振ろうが大した差はないが、老体の腕一本で守るにはこの街は広すぎる。

(肝心なときに不在とは。まったく、役に立たない男だこと)

 チェシアは愚痴を振り払うようにさっさと処置を済ませると、赤い外套を肩にかけた。悠長に腰を落ち着かせている暇はない。彼女は班員たちから敬礼を受け、すぐさまその場をあとにした。
 

 エントリア北部。赤や、浅葱色の屋根を被った家々の前の通りでは、街灯が横薙ぎに倒され、割れた表札の破片が飛び散っていた。足場の悪い戦場に立ち、警備班の班員たちは元魔の群れと睨み合いをしていた。元魔は三体で、数は少ないが、どれも運悪く身体の大きい個体ばかりだ。そのうちの一体が、班員の腰からもぎとった片脚をがりがりと咀嚼して、飲み込んだ。

「ぐ、うぅ……!」
「おい、カラッド立てるか!? 退がるぞ! ここにいれば食われちまう!」

 カラッドと呼ばれた男は苦悶の表情を浮かべて、腰から下の、脚があったはずのところを凝視していたが、それに従って顔を上げる。肩を差し出してきた班員の一人にもたれかかって、そして立ちあがったとき、足元に異変が訪れた。地面がぼこぼこと波打って、二人で咄嗟に後退すると、地面の下から新たに一体の元魔が飛びあがった。

「うわああ!」
「ガアア!」

 男たちの頭上をめがけて元魔ががぱりと口を開く。そのとき、小さな人影が男たちの前に飛び出して、元魔に向かって両腕を伸ばした。元魔はその細い腕に食いついて、鋭い歯で噛みちぎろうとした。しかし、横から飛んできた槍の石突が元魔の頬を叩いた。不意を突かれた元魔は口を開けてのけぞると、奇怪な鳴き声をあげて、うごうごと地面を這う。そして、三体の元魔の群れの中に混ざった。
 槍を握った男は、振り返って、声を荒げた。

「お、おい! 大丈夫なのかお嬢さん!」

 耳の上で二つに結い上げた小麦色の髪を揺らす少女の両腕から、新鮮な血が滴り落ちる。彼女は返事の代わりに詠唱を繰り出した。
 
「四元解錠」

 穴の空いた両腕から球体状の薄い膜が膨らみ、傷口を包み込む。槍を持った男はあんぐりと口を開け、その光景を見ていた。

「──"治傷ちしょう"」

 少女、キールアは薄く唇を開き、口遊む。球体状の薄い膜の内側に柔らかな光が満ちた。
 
  

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.163 )
日時: 2025/03/30 21:41
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第146次元 時の止む都22

 眩い光が、花開くように芽吹き、キールアの細い両腕を包みこむ。腕の傷口から絶え間なく流れ出る新鮮な血液に、その光の粒子が降りかかった。すると血は、みるみるうちに凝固していき、やがて傷口も縮まって閉じていく。生々しい傷痕はあっという間に、跡形もなくなって、すぐ傍らで傷が癒えていくのを見ていた男が手に持った槍を取り落としそうになった。男の口から、感嘆の声がついて出た。
 
「き、傷が……!」
「私は大丈夫です。奇跡の子……いいえ。……次元師、なので」

 キールアは控えめに笑って、視線を下げた。怪我や病気などがわざわいして身動きがとれなくなっている住民を一人でも多く、支援するのが、彼女に与えられた任務だ。診療所や、薬屋にも片っ端から向かっては、街中を駆け回り、避難の手助けをしていた。だがしかし、この民家に辿り着いたとき近くで元魔が発生し、足止めを食らってしまった。どうやら元魔の発生は、周辺各地で起こっているらしい。どこからともなく悲鳴する声が聞こえてきて、キールアは一層不安になった。
 次元師だと言ってみせたものの、キールアは攻撃の手段を持たず、どちらかといえば戦場の後方で待機しているような次元師だ。
 ロクアンズやレトヴェール、ほかの次元師たちのように元魔を撃退する力がないキールアは、あまり深く意識していなかった歯がゆさに直面していた。

(さっきみたいに、攻撃を庇って、自分で自分を治すことでしか……街の人たちを守れない)

 傷口は閉じても、痛みはすこしの間、尾を引いた。無意識のうちに腕をさすったそのとき、前方から鳴き声が聞こえてきて、キールアは顔を上げた。
 声は人間から発せられたものではなかった。寄り集まった四体の元魔がいびつな輪唱を空に捧げて、不協和音を奏でている。

「な……なんだ?」

 キールアは本能的に、心臓をうるさく鳴らし、ひどい緊張を覚えた。
 背後から、翼のはためく音が聞こえた。
 咄嗟に振り返ったキールアは瞠目する。上空で一体の元魔が立派な両翼を扇ぎ、こちらに向かってきて降下していたのだ。

「……! あ、危ない! 気をつけてっ!」

 翼竜の元魔が翼を広げ、猛烈な勢いで飛来する。警備班員たちは悲鳴をあげ狼狽えた。しかし翼竜の元魔は一目散に、元魔の群れに頭から突っ込むと、元魔らを貪り共食いを始めた。不快な咀嚼音が響くたびに、翼竜の元魔の身体がどんどん膨れあがっていく。
 キールアは息を呑んだ。
 食われた元魔らの残骸が、煙に巻かれて、消える。そして食事を──否、"一体化"を済ませた翼竜の元魔がゆっくりとこちらに振り返った。手足はよりたくましく発達し、鼻を膨らませて息を吹く。一つの大きな赤い核が広い額の上で輝いていた。翼竜の元魔は、大きな翼を扇いでひと風起こすと、空気を割らんばかりにけたたましく喚いた。

 キールアはぞっとして、口の端を噛んだ。過去に、レイチェル村に翼竜の元魔が現れたときの恐ろしさと緊張感を思い出したのだ。ロクが次元の力を目覚めさせたきっかけにもなったあの日の出来事は、キールアにとっては恐ろしい経験として記憶に根づいている。
 キールアが動けないでいると、警備班員たちが突撃しようと武器を構え直した。

「怯むな! キールア隊員を守り、この場を切り抜ける!」

 班員たちは、副班長の男のかけ声に応じて、果敢に飛び出した。しかし、キールアはすぐにでも止めたかった。恐怖で震えあがっていた彼女は、一拍遅れて、声の限り叫んだ。

「だ……だめ! その元魔は……ほかの元魔とは違うの……!」

 だが声はすぐにかき消されることとなった。翼竜の元魔がもう一度空に向かって咆哮する。すると長い首をしっかりと据えて、突進してくる班員たちを追い払うように、大きな翼で風を薙ぎ払った。ひとたび翼を扇げば、強風が巻き起こって、班員たちは厚い風の壁と衝突した。身体の大きい男たちが軽々と弾け飛んで、宙を舞う。落下し、地面に身体を打ちつけた者のうち、何人かは負けじと己を奮い立たせて、翼竜の元魔に突進していく。
 当たりどころが悪く、地面の上で悶える男たちに向かって、キールアはすかさず、"治傷"を展開した。術を展開しながら彼女は、到底敵わない、と察していた。男たちの持つ槍の穂先では、あの元魔の硬い皮膚は貫けないだろうし、赤い核を砕けるのは強烈な意思を宿した次元の力だけだ。

(どうしたら……どうしたらいいの……!?)

 不安と焦りで、キールアは苦しい顔をしていた。翼竜の元魔は素知らぬような黒い目で人間を見下ろすと、鋭い爪を生やした腕をまっすぐ振り下ろした。
 一人の男にその矛先が向くと、キールアは、思わず飛び出していて、虚をついて男の上半身を押し除ける。太い爪がキールアの肩から腰までを一直線に掻き裂く。赤い血が横っ飛びに噴き出した。
 庇われた男が狼狽する傍らで、キールアは間を置かずに詠唱した。

「四元解錠、"治傷"……!」

 光の球体がキールアの背中を包むように膨らんで、傷口を覆う。が、間髪入れずに、翼竜の元魔の腕がふたたびキールアたちに迫った。逃げられない、キールアは判断して、治ったばかりの腕をわざと頭上に掲げた。太い竜爪が腕を貫通する。頭を鈍器で殴られたみたいに、意識が飛びそうになる、それを無理やりに捕まえてキールアは叫んだ。

「──五元、解錠……!」

 キールアの顔の前で光の球体がふわりと立ち昇って、彼女の表情を照らし出す。眉をきつく寄せて、瞳を鋭く尖らせた彼女を眼前にした翼竜の元魔は爪を引き抜いた。
 両腕を覆う光が強くなるさなかに、キールアは続けて紡ぐ。

「"治傷"……っ!」

 傷口から、血と混じった水泡が次から次へと立ち昇る。何度、傷ついても、その傷は恐ろしいほど"綺麗"に治っていく。奇跡の力、と称賛されたのは傷がすぐに治るからだけではない。痛み以外の痕跡をまったく残さず、まさしく"完治"させてしまう御業みわざを、奇跡と呼ぶほかなかったのだ。
 男は驚いていたが、すぐに切り替えて、キールアに下がるよう促した。
 
「キールア隊員、ここは、我々が……! ですから、どうかご無理は……!」
「無理じゃ、ないんです。怖くても、逃げだしたくても、飛び出さなきゃいけないときが、わたしたちには、あるから……っ」

 かつて元魔から守ってくれた幼馴染二人の姿を、いまでもお守りのように記憶の隅に置いている。キールアはこのとき、戦いへの恐ろしさを隠しきれずに不安にまみれた表情をしていたに違いないが、男はさらにかけようとした言葉を飲みこんでしまった。
 しかし、いくら自身らに降りかかる負傷を取り払っても、元魔本体には傷一つつけられていない。翼竜の元魔は、大きな翼を扇ぎ、飛び立つ。そしてキールアではなく、男たちを標的に据えると、翼を畳んで急降下した。
 庇おうにも距離がありすぎる。間に合わない、とキールアはわかっていても前のめりになった。
 
「に、逃げてっ!」

 翼竜の元魔は口を大きく開け拡げ、男たちに喰いかかろうとした。が、なにかと衝突して元魔の頭部が弾けた。中空に突然壁が現れたのではない。突然、現れたのは、一人の大柄の男だった。
 男は赤い外套を靡かせて、まっすぐに突き出した手に"扇子"を掴んでいた。

「六元、解錠」

 腹の底に直接響くような低い声色と、そして臙脂色に燃える鋭い眼光。男は、ぱちりと音を立てて扇子を閉じた。

「"打烙だらく"」

 翼竜の元魔が額を打たれてぐらついて、地面に倒れれば、激しい砂ぼこりが舞って、あたりを包みこんだ。此花隊隊員の男たちはいましがた目にした光景と、そして砂煙の中に紛れる男の広い背中姿と、赤い外套に唖然としていた。

「あ、た、隊……──」

 竜が、吼える。ひとたび撃ち放たれた咆哮が、砂煙を払い飛ばして、家屋、看板、樹木、石畳──あらゆるものを震わせる。激しい咆哮に隊員たちがひっくり返っている中、赤い外套を身に纏った男だけが微動だにせず、翼竜の元魔から視線を外さなかった。
 翼竜の元魔は爪を振り下ろした。が、赤い男が扇子の先でいなした。次いで足をあげて踏みつけにしようとする。赤い男は素早く身をねじり、扇子の尾で元魔の腹部を鋭く刺すと、元魔が悲鳴をあげて、顎を天に向けた。一歩。歩み出ただけで、翼竜の懐へと静かに踏みこんだ男の手元で、扇子が鮮やかに開く。

「六元解錠、"嵐舞らんぶ"」

 赤い男が口遊み、扇子を煽ればたちまち竜巻が巻き起こった。巨大な風の渦が男と翼竜の元魔を飲みこんで、瞬間、元魔は遥か上空へと突き上げられた。
 竜巻は溶け、霧消する。すると、上空から、翼竜の元魔が真っ逆さまに落下してくる。だが男は顔色ひとつ変えずに、その真下で、緩慢に扇子を掲げた。
 ぴったりと閉じられた扇子の先と、落ちてくる翼竜の元魔の額に輝く真っ赤な核とが、接触する。

 「七元解錠──"打烙"!」

 ──、一触即発。扇子の先と衝突した真っ赤な核が、粉砕する。途端、元魔は口を開けたまま黒い靄と化して、中空で激しく霧散し、消えてしまった。
 赤い外套を靡かせて立つ、臙脂色の瞳の男は、静かに扇子を閉じた。ぱちり、という音が鳴ると、それを皮切りに隊員の男たちが彼のもとへ駆け寄った。
 此花隊の副隊長以下全隊員、全部班を統括するその男の名は、ラッドウール・ボキシス。
 軍人なみの体格と、臙脂色の鋭い眼光を併せ持った彼に、気安く近づくことはそうそうないのだが、隊員の男たちは興奮を抑えきれず、次々に声をかけた。
 
「ら……ラッドウール隊長……!」
「た、隊長! お戻りで……!?」

 副隊長のチェシアと顔を合わせることは何度かあったが、隊長のラッドウールにお目にかかったことのないキールアは、しばらくぼんやりとして、彼の姿を遠目に眺めていた。フィラの祖父という話だが、瞳の色がおなじなので、血縁だとわかるくらいにはほとんど似ていないように見えた。
 ラッドウールは、赤い外套の中で両腕を組むと、隊員の男たちに告げた。

「指示だ。この場にいる住民を連れて退避しろ。残党は請け負う」
「……は、はっ!」

 男たちは一斉に敬礼をし、持ち場へと戻っていく。
 いまだ呆然と立ち尽くしているキールアだったが、突然ラッドウールがこちらに振り向いて、目を見開いた。

「キールア・シーホリー、会うのは初めてだな」

 苗字まで呼ばれるとは思わず、キールアは変に委縮して、返事の声をひっこめてしまった。こめかみから一粒の汗が伝うのが、妙にゆっくり感じられた。
 
「……」
「俺は血筋のことなど毛ほども興味はない。恐れるな」

 そう言うと、ラッドウールはゆっくりとキールアのほうへと歩み寄り、目の前で立ち止まった。そして臙脂色の瞳でまっすぐキールアを見下ろして続けた。

「お前の持つ、治癒の力が必要だ。休んでいる暇はない。早急にここを発ち、己の責務を完遂せよ」
「は……はい。承知しました」

 キールアに言えたのは、そのたった一言だけだった。ラッドウールもまた、それだけを告げると、ほかにはほとんど指示もなく、隊員たちを鼓舞するような言葉もなかった。だが、短い言葉の中に、上に立つ者としての威厳や強さを感じ取れる。だから彼は、此花隊の隊長に就任した日から、隊員たちの憧れの的であり続けている。
 ──己の責務を完遂せよ。キールアは、かけられたその言葉を、重く受け止めた。
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.164 )
日時: 2025/04/10 07:16
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第147次元 時の止む都23

 エントリアの街はどこを見渡してもひどい有り様で、人の声もなければ秩序もなく、理不尽と緊張感ばかりが街中から漂っている。最後に戻ったのは数月も前の話だが、この街は、王国時代から変わらず、活気に溢れたメルギース最大の都市であったはずだ。
 倒壊した家の石柱に運悪く捕まった一人の女が、意識を取り落とすまいと、息を荒げていた。しかし呼吸がしづらく、まともに声が出ない。
 女は息も絶え絶えになりながら、必死に周囲に呼びかけていた。

「だ……れか! だれか……」

 身動きひとつとれず、泣くことしかできない女がなかば諦めかけたとき、突然、背中がふわりと浮いた気がした。浮いたのは、背中を押し潰していた石柱のほうで、女は見開いた目に光を浴びる。
 女は仏頂面の大男に見下ろされていた。

「息は」

 男、ラッドウールが臙脂色の瞳を鋭くさせて問いかけると、女ははくはくと、乾いた口を動かした。そして目にためた涙をぼろぼろとこぼしながら伝えた。

「わた、私はもう、死にます。この子を、この子を……」
「……」

 見ると、女は下腹部から足の先まで潰れており、血の海がいまも広がり続けていた。間もなく死に絶えるだろうと、ラッドウールにも予測できた。
 女の腕に抱かれた赤子が、突然、わあわあと泣きだす。赤子は頬に擦り傷があるのみで、ほかに目立った外傷はない。
 ラッドウールは女の上に乗りかかっているいくつかの石柱をひとつひとつ持ちあげてはどかしていく。やがて、女の身が自由になると、血の赤にべったりと染まった布に包まれたその赤子を手渡された。

「おねがい、します。お優しい方……」

 女は言うと静かに目を閉じた。
 ラッドウールの腕の中で、赤子はより激しく泣きわめきだした。たしか、近くに見える機織りの店を左折してしばらく行くと、警備班が配置されている待機所を見かけたはずだ。班員に赤子を引き渡し、あとを任せようとラッドウールが振り返ると、視線の先に刀を握ったチェシアが立っていた。

「隊長、お戻りになられていたのですね」
「つい先刻だ。もとより近々戻る予定だった」
「左様でございますか。……して、そちらの赤子は?」

 ラッドウールが答えるより先に、チェシアは視線を動かして倒れている女の姿を認めると、事の顛末をすぐに理解した。
 このラッドウール・ボキシスという男は、滅多にエントリアへは戻ってこない。此花隊の隊長であるわりには、本部に滞在している時間が極端に短く、本部の管理はほとんどチェシアが行なっているといっても過言ではない。彼は各地へ視察のために飛び回っているのがほとんどだが、政会の上層部と頻繁に会合の席をともに、情報を集めている。ウーヴァンニーフに向かっていたのは、現地の此花隊隊員の様子を見に行ったのもあるだろうが、おそらく体制立て直しに口出ししているのだろうと、チェシアは推測していた。ラッドウールは山奥の辺鄙な村の出身と聞くから、食糧問題には鼻が利くだろうし、口を挟むなんてしていたのだろう。
 彼は、意見介入の機会を逃さず奪い取り、政会の上層部に価値と権威を示すことで、「政会と此花隊はあくまで対等な協力関係である」という意識づけを常に実行する。口数が極端に少ないせいで隊内での交流はまったく上手くいっていないが、その手腕を買っているから、チェシアは文句をたれつつも本部の門を従順に守っているのだ。

 チェシアは女のほうに歩み寄って、腰を落とすと、すでに息絶えている女の身体を起こして、石柱にもたれさせる。そのうちにもラッドウールに報告をしようと口を開いたが、まだ赤子が割れんばかりに泣いているので、チェシアはいつもより声を張った。

「ご存じかもしれませんが、念のためご報告を。二体の神族、ならびに街の各地に元魔が出現しております。神族らが到着する前に情報を得ておりましたので、市民はおおむね、西門よりカナラ街へ退避が完了しております。元魔は、神族が生み出しているものと判断しております。戦闘部班第一班のコルド・ヘイナー、レトヴェール・エポールの二名が現在神族と交戦中です。現状は上手く持ちこたえているようで、街の中へ進行してくる様子はございません。よって警備班ならびに第一班以外の次元師は、街内に残る市民の退避の支援、そして出現し続けている元魔の対処に動員しております」
「では、引き続き元魔の掃討にあたる。南へ向かえ。北半分は俺が受け持つ」
「は」

 続けてチェシアは、援助部班と医療部班の詳しい配置を、時間をかけずに報告した。ラッドウールはその間、一度も相槌を打たなかった。聞いているのかいないのかもわからない、態度の悪い男の横顔を見てもチェシアは、気にとめずに一方的に報告を終える。その何の変哲もない横顔からわずかな憤りを感じ取れるくらいには、付き合いが短くないのだ。
 チェシアは、視線を女に戻し、女の閉じた瞼を見つめると、左手で『希刀』の鍔に触れた。

「この老体で、また戦線に立つことになろうとは。まったく隠居の隙がございませんね」

 ラッドウールは、チェシアの右腕を一瞥して、それから口を開いた。

「エントリアを守るのは死ぬまで貴様の責務だろう」
「……」

 チェシアは一瞬黙ったが、すぐに、凛とした表情が崩れて代わりに苦い悪態が口をついて出た。

「女を捕まえて"貴様"とは。相も変わらず、口の悪いガキが」
「口の悪さは互い様だ。それに枯れた枝を女とは言わん」
「……」

 チェシアはまた、眉の上がぴくりと動くのを感じたが、嘆息しただけで言い返さなかった。この男は、引退したとはいえ侯爵家一族の人間に向かってまるで口の利き方がなっていない。それも、出会った当初から一片も態度が変わっていないのだ。チェシアはそのたびに、口うるさく苦言を呈してきたつもりだが、どうやら改める気はさらさらないらしい。
 チェシアは、ラッドウールの顔をひと睨みすると、すっくと立ち上がった。まだなにか言いたげな顔をしているが口喧嘩を長引かせるだけだ。チェシアは口調を整えて言った。

「そのようなこと、言われずとも……」

 そこまでチェシアが言って、二人は、同時に元魔の気配を感じ取った。
 チェシアが気配の出所を探るつもりで素早く振り返ると、一体の元魔が死んだ女のもたれかかった石柱にしがみついていた。元魔は丸く大きな口を開けて、黒い汚泥をこぼし、女を頭から喰らおうと前のめりになった。
 真一文字に一太刀が走る。
 元魔は顎の下の赤い核ごと身体を一瞬で真っ二つに斬り裂かれた。

 チェシアは藍色の眼光を鋭くさせた。たとえ腰下ろす席が変わろうと、歳をいくらくったとしても、彼女の為すべきは変わらずこの街を守護し続けることだ。

「塵も残らず排除致します」

 間を置かず、地面の下から新たな元魔が飛び出した。しかしすでにラッドウールが扇を片手に構えていた。チェシアが振り返ったときには、扇の要が元魔の核を突いていて、要から伸びる美しい房が揺れていた。
 屋根の上から、柱の裏から、街路を這いながら、数多の元魔らが二人を取り囲んだ。二人の顔がまったく動揺の色を見せず、平常を伴っているのとは裏腹に、ラッドウールの腕の中ではまだ赤子が泣いていた。

「向こうからやってくるとは、願ってもいない」
「盛況なことだ」
「そちらの赤子を、私が預かりたいところでございましたが」
「いい。貴様は片腕で剣を握るので一杯だろう」

 ラッドウールは、赤子をあやす素ぶりはなかったのに、片腕でしっかりと抱きかかえるのは慣れたようだった。
 元魔らが固まっている地点へとチェシアは視線を定める。ラッドウールは逆方向に顔を向けた。特別な合図はなかった。二人はそれぞれに動き出して、"扉の鍵"を開ける。

「六元解錠」

 詠唱が重なる──瞬く、間もなく。刀身が輝けば、扇子が開けば彼らは意思のままに扉の向こうから、異界の術を解き放つ。

「"囲駄斬り"」
「"嵐舞"」

 格子状の斬撃が中空を乱暴に掻き切って、細切れになった元魔たちは風の縁に捕まる。刹那、風は肥大化して数多の元魔らを一体も、いや一欠片も残さずに天上へと突き上げた。
 風の渦の中で、元魔らが次から次へと黒く霧散していく。

 だが、次の瞬間、二人が見ていたはずの景色が一変した。
 
 二人は街道の真ん中に並んで立ち、数多の元魔らから、一斉に、赤い視線を浴びせられていた。
 既視感。そして、後頭部を引っ張られるような奇妙な感覚が身体中にまとわりついた。


 つい、たったの数瞬前、縦横無尽に跳ねるクレッタの太い足首にレトヴェールが"二対の斬撃"を食らわせてやった隙をついて、コルドは"鎖"で手足を捉えた。そして空高く投げ飛ばした。だが、はっと気がついたときには、クレッタは鎖に繋がれていなかった。それどころか、足首に斬り傷もなく、二人が驚いている間にも太い腕を振り上げ、クレッタは握り拳を下した。

「──……!?」
「ウラアアアッ!」

 崩れた城壁──いまや瓦礫の積み上がる山となったそれをさらに殴り飛ばした衝撃で、レトとコルドはまとめて宙へ投げ出された。理解が追いつかないうちに、クレッタは激しく腕を振り回して、がむしゃらに殴打を、踏みつけを、雄叫びを、繰り返した。
 アイムが能力を使って、時間が巻き戻したのだが、まだ知らない二人は事態が飲みこめていなかった。
 しかしレトが、崩れかけの城壁の影から飛び出すと、彼は迷いのない目をしていた。

 巨獣のクレッタの影に隠れて呆然と聳えている、アイムの赤い目を目がけてレトは、『双斬』を構え、その刀身から鋭く斬撃を飛ばした。

「五元解錠──"真斬"!」
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.165 )
日時: 2025/04/13 20:28
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第148次元 時の止む都24
 
 斬撃は一直線に飛んで、アイムの赤い目に突き刺さった。するとアイムはクレッタの雄叫びとも違う、甲高くて奇妙な声で苦悶した。
 短く丸い脚が、九本の触手の下から見えた。アイムはまわりを囲う元魔を踏みつけにして、右往左往と蠢いた。
 ついにあの、灰色の皮膚をした十尺の化け物──もう一体の神族が動きだした。
 クレッタはいまだに城壁付近で暴れており、降り注ぐ瓦礫の雨に打たれながらもレトヴェールはコルドのもとへと急いだ。通信具はとうに壊れてしまっているから、話をするなら近くまで寄らなければならない。
 クレッタを挟んで反対側の城壁付近でコルドを見つけると、彼の表情は固く、困惑を拭いきれていないようだった。
 二人は死角になっている瓦礫の山の隅に隠れて、声をかけ合った。
 
「いまのは、なんだ? たしかにおまえが『双斬』で獣の神族の足を叩いて、俺が投げ飛ばした、はず……。あのいままで動かなかったほうの神族がなにかしたのか? レト、おまえいま、奴を真っ先に狙ったな」
「違和感を覚える直前、奴の赤い目が光るのを見た。一瞬だけだったけど……。だから、あっちの仕業な気がした」

 二人が顔を出して、あらためて十尺の神族を見やると、ぼろぼろになった頭巾のようなものが向かい風に煽られて、ひらひらとはためいていた。口の位置も鼻の形もおかしいなんとも珍妙な顔をした、まさに化け物と呼ぶに相応しい相貌に、鮮やかな赤色の瞳がぎらぎらと光っている。二つの瞳の光彩は白く、美しい丸の図形が描かれていた。
 レトは思案をする顔で、考えていたことを口にした。

「俺たちの攻撃は、なかったことになった。幻覚を見せられていたのか、あるいは……攻撃をする前の時間に戻されたか、だと思う」
「時間……」

 二人は殺気を察知して、すかさず、その場から退避した。瞬間、瓦礫の山は激しい殴打を受けて、宙に咲くように飛散する。やがて硬い石の雨が、地面に向かって次々に降り注いだ。曇り空の下に出た二人が、大きな瓦礫を中心にその雨を凌いでいると、今度は、アイムの腕が一本、ぐんと伸びてきて二人を追い詰めた。コルドが、鎖を束ねて盾のようなものを築くと、アイムの腕はその鎖の盾にぶつかって、軌道を逸らした。
 獣の目をしたクレッタの顔の周りの毛が、ぐんぐんと伸びて、豊かなたてがみが広がった。クレッタはたてがみの毛先を逆立てながら野太い声で吠えた。

「人間は、コソコソするのが好きだな! なあ、コルド! 戦おう! どっちが強いか証明だ!」
「信仰しろ、信仰しろ」

 アイムはうわごとのようにそう、何度も繰り返していた。
 コルドは、眉間に皺を寄せ、アイムを注視した。

「レト。獣の神族は【レータ】、そしていま動きだした能力がよくわからない神族は【イム】と仮に呼ぶ。おまえは【イム】の観察をしろ。攻撃が向かってきたら回避に専念していい」
「了解。……副班、耳貸して」

 コルドは言われると、前屈みになって、レトのほうへと頭を傾かせた。レトは、コルドに何事かを耳打ちした。
 そのあと、すぐに二人は二手に別れた。ぐるぐると動き回る、小さな人間の影をクレッタは目で追った。そしてふと、コルドを見失ったとき、金属の擦れる音を耳で捉えた。しかし背後を振り返ればたちまち、津波のごとく立ち上がった鎖の巨壁がクレッタに覆いかぶさった。
 瓦礫の山の頂上に足をかけたコルドが、力強く鎖の根元を引いて、クレッタの巨躯をまるごときつく縛りあげた。コルドはクレッタを見上げて言った。

「力比べなんてものに興味はないが……いいだろう。最後まで立っていられたほうが強者だ」
「ああ、イイな! そうだ、強いヤツっていうのは、そういうものだ!」

 クレッタは肩をいからせて、むくむくと筋肉を膨らませる。鎖が一本、弾け飛んだのを皮切りに、まだまだ膨らんでいくクレッタの筋肉に圧されて、立て続けに鎖が弾ける。クレッタは我慢できず、すべての鎖を解ききるまえにコルドに襲いかかった。だがコルドは冷静に構えていて、跳んで引き下がった。
 アイムは人間二人の動きがてんで見えていないようで、九本の巨腕を鞭のようにしならせて、がむしゃらに暴れだした。不規則な動きを捉えきれず、レトは激しい殴打を頬にくらった。が、しかし、運良く直撃は免れた。レトは軽く横転しただけで、すぐに起き上がった。

 灰色の皮膚に覆われており、全長はおよそ十尺ほどある。首と思われる部位から下には柱のように太い腕、あるいは脚が九本伸びている。一本はどこかで失ってきたか、その根元が不自然な傷跡だけを残していた。顔の造形は、珍妙と呼ぶほかはなく、目鼻口はおかしな位置に並んでいた。そして血濡れたような赤い瞳と白い虹彩が、もっとも存在感を放っていて、じっくりと見る者には不安と恐怖を与えてくる。
 レトは、頭のてっぺんから足元までアイムを観察し、分析に入っていた。

(さっきの幻覚、あるいは時間の巻き戻しを、なんでいままで使わなかった? どうしていま動きだした?)
 
 アイムは、全身の至るところに傷を負っている。しかしそのほとんどの傷口は塞ぎかかっている。傷は、つけられた箇所も、形状もばらばらだが、レトはしっかりと見極めていた。

(複数の弾痕。火傷、焼き切れた肉体の断面。これらはおそらく、『蒼銃』と『雷皇』による負傷だ。つまりガネストとロク、どちらの班とも戦闘した。五人の次元師と戦闘しておきながら、まだ動けてる理由はなんだ。決定打を受けてないからか? 攻撃を受けたそばから回復するのか? ……それなら合点がいくな。断続的に戦闘が続いたとしてもそのひとつひとつの攻撃が浅く、すぐに回復しちまうなら、むしろそれによる負傷はたいして蓄積されない)

 傷は治りかけているだけで、完治はしていない。時間が経過したので回復したと見るのが自然だろう。しかし時間の経過に任せているということは、たとえばキールアの『癒楽』のような治癒を施せる術は、おそらく持っていないのだ。

(それなら……)
 
 そのとき、レトの瞼がぴくりと跳ねた。アイムの赤い目がじんわりと光を帯びはじめたのだ。急いで周囲を見渡すと、コルドの放った"浪咬"が、クレッタの喉笛に食らいつこうとしていた。
 ──が、頭蓋骨の後ろを、強い力で引っ張られるような心地悪い感覚を覚えて、すぐに、見えていた景色が変転した。

 時間が巻き戻る。直後。クレッタがけたたましい咆哮を空に放ちながら、太い両腕を地面に叩きつけた。弾け飛ぶ瓦礫に混じってコルドの身体が宙に放り出される。
 逃げ遅れた彼は、受け身をとって着地したが、瓦礫がぶつかったのか額からは塊のような血液をとぷりとこぼしていた。
 
「は……厄介な、力だな」

 "浪咬"となるはずだった鎖の一片を握りしめながら、コルドは立ち上がって独りごちた。

「悪いな、レト。次は上手くやってみせる」

 コルドは息つく間もなく駆けだした。地面に無数に落ちている鎖の破片が踏みつけられて、音が立つ。クレッタの腕から繰り出される殴打を身をねじって回避して、ぐんぐん走っていくコルドは、クレッタの背後に回った。
 そしてクレッタがコルドの走る姿を目で追いかけて、振り向くときには、手の中に収まった鎖の一片をコルドは強く握りこんでいた。

「五元解錠──円郭!」

 何百何千もの鎖の破片が、コルドの一声でどこからともなく一斉に浮上する。それらはクレッタをめがけて槍のように降り注いだ。
 しかしクレッタは、向かってくる鎖の雨を強引に殴り返した。一度ならず、幾度となく向かってくるそれを片っ端から弾いては飛ばし、飛ばしては弾き、腕を存分に振り回す。

「ガアッ!! わずらわしい鉄屑だ!!」

 弾け飛んだ鎖の一片を刃で受けて、レトはいなした。土を踏み締めて颯爽と駆けてきた彼は、半身振り返って、小さく言った。

「ドンピシャ」

 クレッタの顔面に、太い柱のような灰色の巨腕が突き刺さったのは、すぐのことだった。
 獣の目の端で捉えなくとも、アイムの匂いが強烈に鼻を刺した。クレッタは目の端まで赤くしたが、それも潰れて、宙で一回転をした。その刹那のうちに、クレッタは獰猛な獣のような鋭い目をして、宙の上から、アイムをきつく睨みつけた。
 赤い二つの瞳が、瞬く。
 しっかりしていた自意識がないまぜになる。なにかの力に強引に引っ張られる。そうしてまた、時間が巻き戻る。
 
 ときは数刻前、鎖の海の真ん中で、クレッタが聳え立っていた。
 クレッタは躊躇なく、コルドがいるであろう方向に向かって拳を振り薙いだ。しかし、瓦礫や木々が豪快に弾き飛ばされたそこに、コルドだけがいなかった。
 くん、とクレッタの鼻先が立つ。コルドの匂いが遠のいていくのと入れ替わって、レトの匂いが近づいてきていた。
 コルドは、まるで初めからわかっていたかのようにとっくにその場を脱していて、走り寄ってくるレトとすれ違うと、二人はほとんど同時に詠唱をした。

「六元解錠──"浪咬"!」
「五元解錠──"烈星閃"!」

 鎖が寄り集まって形成された"鉄の大蛇"が、縦に口を開けて、アイムを顔面から飲みこんだ。そして双剣から放たれた無数の斬撃は中空を奔り、交差する。昼の空を駆ける星々はクレッタを目がけて一直線に降り注いだ。
 コルドが、レトに背中を預けながら、思わず笑みをこぼした。

「はは、おまえの言った通りにしたら、上手くいったな。しかしこれは、けっこう気を張るぞ」
「しょうがないだろ。頭を使わないからまだましだ」

 "後頭部が引っ張られる感覚がしたら、なにも考えずにすぐにその場所から離れろ"。
 幻覚あるいは時間の巻き戻りに対してなにか策を練ることも、思考をすることも無意味だと、レトはそうばっさりと切り捨てた。"いつの時点から幻覚なのか"あるいは"いつの時点に戻る"のか、がわからない以上、無駄な対策は捨てるべきだ。だから、確実に実感として残る「後頭部を引っ張られる感覚」があれば次の行動は「ひとまず退避を行う」と決め打ちしてしまうのがいい、とレトはコルドに提案していた。

 だからといって、アイムの力を放っておくのは危険だ、とレトも例にもれずそう思っていた。第二班と第三班もそう判断したから、アイムの負傷が目立つのだ。
 クレッタとアイムが再起するまえにと、レトは話を続けた。

「コルド副班、【イム】を狙ってくれ。奴を完全に行動不能にしたい」
「捕縛か」
「いいや、もっと単純。いま副班が出せる最大限の力を【イム】にぶつける、それでいい。たぶん、これはあんたじゃなきゃダメだ。完封できる強力な一手を奴に食らわせない限り、何度やっても起きてくる。だから」

 コルドは考えるように目を伏せた。より強力な次元技を放とうとすると、元力の消耗も激しい。クレッタが控えている手前、ひとつでも判断を誤るのは命取りになる。けれどコルドは、レトの判断を信頼していた。
 顔を上げると、コルドは頷いた。そして、ゆっくりと、鎖の海から顔を出したアイムに視線を定めた。

「わかった」

 鎖の一片を右手で握りしめて、コルドは集中を高めた。彼は見たことのない顔をしていて、レトは一瞬、視線を動かせなかった。
 そしてさらに拳を握る力を強めると、彼は詠唱した。

「六元解錠」

 あたりに広がる鎖の海が、破片が、次から次へと浮き上がる。

「"嵩重かさねとく"」

 それは、感覚、だった。空気が変わったような、否、"重くなったような感覚"がして、レトは無意識に、周囲を確認してしまった。
 すると、崩れた城壁にもたれかかったクレッタが余裕そうな動きで起き上がった。そして前足を地面につけるとこちらに向かって猛烈な勢いで駆けてきた。

「ガアア! 弱いんだよ、なんだいまのは!? 弱い!! コルドと戦わせろ!!」

 コルドはレトの肩を掴んで、自分の後ろへ下がらせると、すかさず詠唱を繰り出した。

「五元解錠、"伸軌しんき"!」

 無数の鎖が集まって一本の鉄の槍となり、それが、跳び上がったクレッタの胸元を目がけて跳ぶ。"伸軌"は、真正面からクレッタの胸を貫通した。
 五元級の次元技だ、クレッタならばすぐに引き抜いてしまい、たいした足どめには──そう思われたが、レトは驚いた。胸を貫かれたクレッタが、不自然なほど垂直に地面に叩きつけられたのだ。ただ一本に伸びた鎖が刺さっただけなのに、想像以上に重苦しい音を伴って、クレッタが地面に倒れ伏す。
 レトが唖然としていると、一心不乱に向かってくるアイムの奇声があたりに響き渡った。急いで振り返ったレトの目には、コルドが間髪入れずに詠唱を繰り出す姿が映った。

「八元解錠──"浪咬"!」

 鎖が広がり、海のようになったその鉛色の海面から、どぷんと大蛇が顔を出す。一つではなかった。頭部は八又に枝分かれし、瞬く間に顕現する。すると"浪咬"はたちまちに、巨躯のアイムがまるで子どもに見えてしまうほど、それを凌ぐ巨大な肢体をうねらせて、アイムの頭、胴、九肢を余すことなく喰らいかかった。耳を塞いだのが無意味なくらいに凄まじい轟音があたり一帯に響き渡る。身体を食い散らかされたアイムは、ぐったりと地面に倒れこんだ。
 
 コルドの目はまだ鋭かった。
 鎖が、浮く。
 アイムを取り囲んで、無数の鎖の破片が舞いあがる。コルドは、腕の筋肉がびきりと音を立てても、一切気を緩めず、体内に残る元力を極限まで練り上げ──そして力の限り叫んだ。

「──八元解錠、"円郭えんかく"!!」

 無数の鎖が、アイムを取り囲み、寄り集まって、球状を形成する。それらは内側にいる標的に向かって一斉に撃ち放たれた。甲高い絶叫がアイムの口から飛び出して、鎖の球体の隙間から真っ黒い液体が飛散する。瞬く間に、鎖の球体はアイムを完全に閉じ込めてしまった。
 息を呑んで見ていたレトが、やっと呼吸をすると、見上げたコルドの表情はまだ張り詰めていた。
 
 腕が動かないと、いままでのようには戦えないと、悔しそうな顔をしていた彼は、もう過去の存在だ。
 キールアの次元の力は、神の術を取り払っただけでなく、どうやら彼の心を巣食っていた不の感情さえどこかへやってくれたらしい。

 コルドが彼らしい、気を緩めない固い顔をしてアイムを観察していると、巨大な鎖の球体の一部が、ばらりと剥がれ落ちた。それから徐々に球体の外郭が崩れていく。
 ようやく現れたアイムの皮膚の色が、灰色から白へと変化していた。そして鮮やかだった瞳の赤色が、ゆっくりと彩度を失って、しだいに濁っていった。

 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.167 )
日時: 2025/04/20 18:40
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

   
 第149次元 時の止む都25

 アイムはもう動きだすことはないだろうと、レトヴェールとコルドは、そう肌で感じ取った。鎖の海面に浸った、ぼこぼこと歪んだ白い巨体は微動だにせず、起きあがってくる気配はない。
 『鎖縛』の"円郭"は、標的を鎖の玉の中に閉じ込め圧迫する。コルドはこれを捕縛の目的で発動することがほとんどだが、圧力をかければかけるほど、細かな鎖は肉体に食いこんで、しまいには破裂させるほどの力を発揮する。
 コルドがこれを発動したのは、アイムが"心臓"を持っているかどうか、確かめるためでもあった。
 肉体には、無数の鎖が突き刺さり、強く圧迫して破裂をさせたにもかかわらず、アイムは、ノーラのときのように消滅しない。コルドは、なかばわかっていたような顔をしていた。

(アイムの体内に、"心臓"はない……。薄々わかっていたが、ノーラのときのようにはいかないわけだな)

 ふと、コルドの脳裏にある疑問がよぎった。"心臓"を持たない神族を斃すことは不可能なのだろうか──と。

 周囲の空気が重くなったように錯覚した原因を、レトはすぐに理解した。
 アイムの顔面に、まばらにかかっている鎖の破片が、ぼとぼとと音を立てて雪崩落ちる。見ると、アイムの顔面は歪んでいて、元に戻りそうになかった。

(……鎖の重さを変える次元技か……?)

 "嵩重・特"と聞こえた次元技には聞き覚えがなかった。レトは興味をそそられたが、後方で、重い鎖を引きずるような音が聞こえてきて、注意がそちらに向いた。

「ガアア、なんだ、これは……? 重てエな、なア! クソ!」

 胸に刺さった鎖の槍──鎖を一本の束にする次元技"伸軌"──を、クレッタは無理やりに引き抜いた。そして肩を膨らませ、それを振りかぶり、二人に向かって投擲した。
 しかしコルドが"伸軌"を解除して、鎖の槍は空中でばらばらに解体された。クレッタは、低く唸りながら頭を振ったあと、猛突進してきた。
 コルドからの合図を受けて、レトが走りだしたとき、城壁付近の惨状が目に入って、レトははっと気がついた。

(巳梅がいない? どこに行った)

 ──城壁付近でぐったりとしていたはずの『巳梅』の姿がない。



 チェシアと別れたあと、道すがら警備班員たちの拠点に寄って赤子を預けたラッドウールは、北門の城壁塔の最上階に登った。鋭い目元をたたえて、街を一望している。住民の避難はおおむね済んでいると、チェシアから報告を受けた通り、街の中からは、人の気配はほとんど薄れていた。

(だが、煩わしい元魔ねずみの匂いは、まだ鼻につく)

 ラッドウールは懐から、一本の扇子──さしあたって、次元の力『仙扇せんせん』を取り出し、面を開いた。
 そして美しい所作で、街並みをなぞるように頭の先をゆっくり泳がせると、口ずさんだ。

「四元解錠、"鳴手なぎて"」

 どこからも、だれからも、楽器を奏でるような音はしていないのに、空気が震えて風は鳴いた。
 扇子はひらりと宙を滑る。房が揺れ、美しい玉の光が、軌跡を残す。ラッドウールの手元は厳かながらにつつましやかで、足音もせず、翻える外套の赤さは、いまは舞を彩る飾りのひとつみたいだった。
 だれも観ていない、静かな舞台の中で、ラッドウールは扇子を主役にして舞い踊る。
 だが彼が、"鳴手"という次元技が惹きつけたいのは、人ではない。

 眼下では、黒い影が数体、数十体、北門の塔に吸い寄せられるようにして集まっていた。気配が強くなってくると、ラッドウールは舞をやめて、塔の下を見下ろした。
 そのとき、塔の外壁を猛烈な勢いで登ってくる元魔が一体、ラッドウールの前に飛び出してきた。
 ラッドウールは扇子の面を閉じる。そして、すばやく持ち手を変えて、要で元魔の目玉を突き刺した。元魔は丸い身体を傾かせ、空中からまっさかさまに落下する。
 扇子の面をふたたび広げて、ラッドウールはそれで空を切るように薙いだ。

「七元解錠──、"嵐舞"」

 塔の下から、凄まじい強風が立ちのぼり、渦巻き状になって空を突き抜けた。寄り集まった数十体の元魔らは風に嬲られ、巻きあげられ、空高く跳んだ。
 次から次へと、元魔らの赤い核が砕け散る。風の渦はどんどん肥大化していき、撹拌された元魔らからなる黒い砂状のものと、赤い核の破片とが混ざり合って、濁っていく。やがて周囲の家屋が音を立てて、渦の端に捕まりそうになったとき、ラッドウールは扇子の面を閉じた。
 それを合図に風の渦は立ち消え、あとには、元魔は一体も残っていなかった。
 しかしラッドウールの表情はまだ厳しいままだった。

(元魔らの発生は際限なく、時間稼ぎにしかならん。次元師以外の撤退が完了し、合流するが先か。若いのが、神族らを退けるが先か)

 ラッドウールは、ゆっくりと思考をしたのち、ふいに視線を移動させた。
 やがて近づいてきたのは、家々の屋根に乗りかかっては崩して、街路樹を踏んで倒し、太くて長い肢体をしならせる紅色の鱗を持った大蛇だった。
 塔の上からとっくに観測していたラッドウールには察しがついていた。書面上で報告を受けたその次元の力は、『巳梅』という名をしていた。

 『巳梅』は頭部から尾の先に至るまで、さまざまな傷を負っていた。いまにも倒れそうだったが、なにかに無理やり動かされているのか、またはなにかから逃れようとしているのか、苦しみにもがくような動きで、ぐねぐねと身体をしならせてとぐろを巻いていた。

「主人はどうした」

 答えるはずもなく、『巳梅』は真っ赤に染まった眼球の端から、涙のような液体を流していた。

「とうに覚悟はしてきたのだろう、ミウメ」

 ラッドウールは、塔の上から飛び降りた。そして、落下のさなかに『仙扇』の面を閉じる。
 『巳梅』が頭上を見上げた。ラッドウールは『巳梅』の目と目の間、目がけたその一点を扇子の天で突いた。

「──五元解錠、"打烙だらく"」

 天と眉間が触れると、『巳梅』は大きくしなって、肢体を逸らした。口を大きく縦に開いて一度だけ悲痛そうな鳴き声もあげたが、『巳梅』は気を失っていくようにゆっくりと倒れこんだ。
 『巳梅』の鱗の上に着地して、ラッドウールはしばらく観察していた。しかし、『巳梅』の次元の扉は開いたままなのか、消える様子はなかった。

 見ていると、また肌の上をなぞる厭な気配が、一つ、二つと、現れる。いくら破壊しても、元魔の気配は際限なく、どこからともなく湧いてきて、街の中を跋扈する。観察を切り上げ、ラッドウールは『巳梅』から離れると、ふたたび塔に登った。
 
 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.168 )
日時: 2025/04/27 21:08
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第150次元 時の止む都26

 拍車をかけて興奮しているクレッタは、とにかく手あたり次第に、城壁だったものの瓦礫や大木を掴んでは乱暴に投げる。不満を募らせているのか、クレッタは鼻の皺を寄せて、低く唸っていた。

「グ、ルアア。また寝やがった。根性のねえヤツだ! ノーラもそうだ。もういい! いらねエ!」

 口を開けば牙が見えて、隙間から荒い息を吐きだした。
 回避はたやすいが、それが続けばもちろんレトヴェールとコルドの体力は奪われていく一方だ。とくにコルドは、強力な次元技を立て続けに発動したせいでまだ息があがっていた。
 しかしクレッタはまったく疲れていないのか、動きが鈍る様子がない。むしろ、興奮状態に入っていて、さきの"伸軌しんき"による胸の貫通もものともせず、元気に動き回っているのだ。観察してみればクレッタにも噛み痕や、焦げ痕が見受けられたから、第二班と戦闘をしたのは間違いないのだが、それも嘘のように思えてきてしまう。

「ヴヴゥグ」

 クレッタの前足が下りて、どしんと地面が揺れた。すると、四足歩行になったクレッタの様相が変化し始めた。
 四足の筋肉が、ぶくぶくと収縮を繰り返し、足の付け根は太く、足先にかけて鋭くなる。後ろ脚で地面の砂を掻くと、光沢を帯びた蹄が光った。下顎には豊かなたてがみはそのままに、加えて、肉垂がぶら下がった。そして頭部から立派な"赤い角"が二本、先に向かって枝分かれに伸びて、思わず見とれてしまうほど巨大に成長する。
 それは、灰色の体毛に覆われ、大きな赤い角と、赤い瞳を輝かせた。
 獅子や熊に似た獣の姿から、"鹿"のような姿へと変化すると、クレッタは頭を低くしながら猛突進してきた。
 
(また姿を変えたのか……!)

 巨大な鹿角の接近を目前にして、コルドは元力をかき集め、詠唱した。

「五元解錠、"伸軌"!」

 一本に連なった鎖、"伸軌"がクレッタの前足の爪先を目がけて飛びだした。危険を察知したクレッタはすかさずにそれを飛び越え、コルドの頭上に、自身の大きな影を落とした。コルドは回避の暇を与えられず、やむなく、傍らに佇んでいた石柱の街灯とともに薙ぎ倒される。
 クレッタは石柱の街灯をいともたやすく折ってしまうと、その上に前足を乗り上げて、コルドもろとも踏みつけにした。

「五元解錠、"交輪斬まじわぎり"!」

 レトは、『双斬』を交差させ、十字を切るように刀身を薙いだ。十字形の斬撃が飛び、クレッタの前足の関節部へと突き刺さったが、しかしクレッタは体勢を崩すどころか膝も曲げずに悠々と胸を張った。傷ひとつつかない。やがて石柱が盛り上がり、下敷きとなったコルドが再起した。間髪入れずに、一本の連鎖を鞭のようにしならせてクレッタを捕まえようとするが、クレッタは助走もなしに高く跳びあがってをそれを躱した。

「ヴヴゥル、ウラララ!」

 クレッタは、凛とした響きの奥から雑な唸り声をひねり出すように鳴いて、巨体を大きく反らして勢いをつけ、突進する。巨大な角がコルドに迫った。今度は避けてみせたが、クレッタはすぐに前足を振り上げて、そして、蹄で地面を殴打した。どしん──と地響きがした。レトとコルドは体勢が傾いた。巨大な角は荒々しく振り乱され、太い脚がいまにも二人を蹴り上げようと迫る。避ける。その繰り返しだった。
 あの角と、脚から繰り出される蹴りを一度でも食らってしまえば、ひとたまりもないだろう。二人は慎重になって、防戦一方を余儀なくされ、なかなか手が出せずにいた。
 
「オイオイ、どうした? さっきあいつをやったみたいに、デカイのを撃ってこいよ。なあ。なア、コルド!」
 
 コルドはまだ顔がびっしょりと濡れていて、たえず胸を収縮させていた。彼の表情からは明らかな疲労が見てとれる。まともに動けるのは自分のほうだと頭ではわかっていても、このときレトの身体はひどく強張っていた。もし『双斬』を握り直そうとしても、それも叶わない。

(──緊張か? 畏怖か? ……身体が思うように動かない)

 それとも、不安なのか。レトは奥歯を強く噛み締めた。次の瞬間だった。
 なかなか動きださないコルドに、クレッタは業を煮やして、わざと蹄の音を大きくしながら猛突進した。舗装された道の端に建っている石柱は、次から次へと薙ぎ倒され、弾き飛ばされていく。まだ距離があるうちに、回避をするか迎え撃つかで考えあぐねた、そのたった一瞬の間だった。
 コルドの足元から、地面の下から、"無数の木の根"が飛び出した。

「なに!?」

 先端の尖った木の根たちが、コルドの身体を貫いた。血潮が噴き出し地面を濡らす。レトが、声を出すよりも先に、二人を目がけて突進してきたクレッタの前足が視界に突き刺さった。強い衝撃とともにレトは弾き飛ばされて、宙を舞った。
 コルドは、木の根から離れたが、クレッタの前足を受けて吹き飛んでいた。コルドが、すかさず立ち上がろうとしたとき、遠目にうっすらと見えるレトの後ろ髪が、クレッタが振り下ろした巨大な角によって圧し潰された。

「レト!」
 
 コルドが血と汗にまみれた顔で叫ぶ。
 至近距離だったが小回りが利くレトは、角の鉄槌から逃れられたつもりでいた。しかし、咄嗟が利かなかった。全身を圧迫され、臓器が破裂しそうなほどの痛みに、声も出せない。だが『双斬』は固く握ったままだ。なんとか声を絞り出して、レトは握りこんだ『双斬』の片割れに、意思を通す。

「──四、元解錠……! 裂星閃!」

 一太刀。たったそれだけの軌跡が、無数の星が瞬くほどの光を放った。否、それは刀身が一瞬のうちに何十回と振るわれたからこそ、太陽の光を何度も照り返した結晶だった。クレッタは目を焼かれると、前足を大きく振り上げて、レトの上から退いた。
 クレッタは不満そうに頭を振って、低く唸っていた。レトは立ち上がり、けほけほと、数回咳をする。しかし咳をするたびに、砕けたあばら骨が痛みだすので、呼吸もほどほどに、頭だけを回そうとした。
 頭は冷え切っていた。一夜だけ、剣術を見せてくれたムジナド・ギルクスは、日が昇るまで、いや出会った瞬間からずっと冷静だった。彼は、どれだけ自由な剣の振り方をしようが、次元技を放とうが、動揺しなかった。目の前にあるものを捌く。ただそれだけだった。
 レトは『双斬』を握り直して、手元に一層集中をした。
 
「すこしの間、俺が相手をする」
 
 クレッタは視界が元通りになったのか、しきりに瞬きをしていたのがようやく落ち着いて、ゆっくりとした動作でレトを見下ろした。
 きっと頭に血が昇っていて、すぐにでも襲いかかってくるかと思えたが、それに反してクレッタはレトの顔をじっくりと眺めたあと、首を傾げた。

「オマエ、見覚えあるな」
「は?」

 不意を突かれ、レトは思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.169 )
日時: 2025/05/04 21:59
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)


 第151次元 時の止む都27

 レトヴェールには覚えがない。クレッタは姿を自在に変えられるようだから、もしかするとどこかで見かけたのかもしれないが、しかし赤い瞳をした──元魔以外の──存在と遭遇すれば、レトの脳裏にしっかりと刻まれるはずだ。

「……」

(見覚えか)

 ただそれを告げてきただけで、クレッタはすぐに頭の位置を下げようとした。
 クレッタが角を地面に突き刺す直前に、レトは身軽に跳んで躱した。間髪入れずに、角が地中を縫って土をめくりあげた。土砂の津波が立ち、レトの視界が、土一色に覆われた。
 躱しきれない、と悟ったレトは、『双斬』の刀身を輝かせた。

「五元解錠、"真斬しんざん"!」
 
 右手に持った剣を真一文字に振るい、そうして刀身から飛び出した一迅の斬撃で津波を裂く。しかし、切り開いた視界の先には、縦に大きく開かれた赤黒い口蓋が待ち構えていた。レトは舌打ちをして、咄嗟に走った。否応なく、上と下の歯が噛み合い、がちんという激しい音とともに口が閉ざされる。
 一秒と経たずにクレッタの頬が、破裂した。
 内側から頬が破かれる。鋭いもので切り裂かれた感触がした。クレッタは、レトが剣で斬ったのだと感じ取って、頭を振るった。
 見れば破けた穴から、レトが脱出していた。その目に余裕の色はなく、彼は奥歯を強く噛み締めながら跳んでいて、転がるようにして着地した。
 クレッタは、すでに血濡れたよう真っ赤な目をさらに充血させて、レトを踏み潰さんと前足を振り下ろした。

「!」

 避ける、だけで十分に動けたほうだった。しかし、次いでクレッタは暴れるように地団駄をして、その後ろ足によってレトは蹴り飛ばされた。それから止まる気配がなかった。クレッタは、レトを追いかけて、たった二歩で追いついて、前足でまた蹴り上げようとする。その前足が浮いた隙をついて、レトは足の真下をすばやく潜り抜けるのでやっとだった。
 頭で考える時間はてんで与えられない。レトはほとんど本能で動くしかなかった。後ろ足が迫るのも、身をねじって躱して、けたたましく鳴くのも奥歯を噛んで耐え忍んだ。

(視界が回る)

 自分で思っているよりもずっと、レトの脈は早まっていた。
 走り続けていると、進行方向の先で、振り乱れた角の先端が襲いかかった。ぶつかるか、否か、しごく絶妙な位置にいたレトは早々に、わざと足を止めた。直撃は免れる。だが、急に足を止めたせいか、途端に身体中から気持ち悪さが込み上げてきて、吐き気がした。
 胃液を飲みくだすように息を止めて、レトはきつく眉間を寄せながらも、そのまま思考を回していた。

(右から抜けて、奴の頬をもう一度狙い、隙を作る)

 駆け出す。が、頭に、身体が追いつかなくなったのは、すぐのことだった。
 ふと足元の感覚が抜け落ちて、レトは思考を止めた。何手先も考えていた、それも足の感覚とともに霧散する。違う。膝ががくりと折れて、足が棒のように傾いたのだ。一瞬の出来事だったので、すぐに体勢を持ち直せた。
 驚愕している間もなく。クレッタの前足の蹄がぐんと迫って、レトの視界に突き刺さった。

(間に合え!)

 すばしっこさには自信があり、これまでにも、持ち前の身軽さで幾度となく危機を回避してきた。それにレトは判断にかける時間が極端に短いので、動き出しも早かった。だからクレッタの蹄が、自身のもとへ到達するまでの時間を計測し、周囲の状況も鑑みて、もっとも安全な回避経路を選ぶのに躊躇はなかったはずだ。しかし、レトは、危機的状況下に置かれたことで思考を切り替えてしまい、先刻に感じた足元の違和感を度外視していた。
 このとき、動かそうとした下半身が鉛のように重たく感じた。
 瞬間。まるで、両足を泥沼に囚われてしまったかのようにレトの動きが静止する。そして間もなく、それは到達した。巨大な鹿足、その蹄から繰り出される激しい蹴りがレトの右半身にめりこんだ。
 身体が高く打ち上げられる。空中で何度も旋回して、視界はもうぐちゃぐちゃに歪んで、次に思考できたのは、地面の上だった。
 なされるがまま転がって、きわめて細い息を吐いて、そうして混濁する意識の中で、レトは真っ先にある事実に気がついてしまった。

(違う)

 結わいていた髪紐がほどけ、美しい金色の髪がばらばらに広がる。
 揺れる視界の中、空中で手放してしまったのか、『双斬』を失った手元を見つめた。

 指先が小刻みに震えた。

(呪いが進んでるんだ。とっくに表れてた。だから、ずっと上手く動けなかったんじゃないか)

 まるで吹雪の中で凍えているみたいだった。
 身軽といえども、身体能力はロクアンズに劣っていた。体力も彼女ほどはなかった。咄嗟が利かない瞬間があった。剣を重たく感じていたのは常だった。
 戦闘において不足しているすべてが、鍛錬が足りていなくて、甘えなのだと思い込んでいた。
 それらの理由の一つに隠れ潜み、ようやく芽を出した実感が、じわじわとレトの身体を締めつける。
 かつて母、エアリスがどのように実感を覚えて、苦しんでいたのかを、レトはもちろん教えてもらってなどいない。彼女は、できるだけ子どもたちに見苦しい姿を見せないように日々を過ごしていたに違いないのだ。だからレトは今日、ようやく、母が辿った"神の呪い"という名前をした道の出発地点に立つ。

 言うことを聞かない身体は、自分のものではないみたいで、レトは傷だらけの手足を無防備に投げ出した。

 蹄に感触があったので、蹴り飛ばしたらしいことはわかるが、手応えはほとんどない。だからクレッタはすぐに視界の中を探索して、金色の髪をしたあの人間を見つけだした。
 ゆらりと首を下ろして、すぐに、蹄の音が高らかに鳴った。
 跳びあがって、──たったの二歩。一気に距離を詰めたクレッタは、ぼろ雑巾のように転がる金の髪を目がけて、前足をぐんとまっすぐに伸ばした。
 そのときだった。
 クレッタの角の真上から鎖の雨が降り注ぐ。前足の蹄がレトに突き刺さるかと思えた、その直前に、無数の鎖はクレッタの巨大な身体に巻きついて、真横に強く引かれ、クレッタは勢い余って横転した。

 鎖の根元を握るその手の中から、血が滴り落ちた。皮膚が裂けるまで強く握りこんで、コルドは、額に浮かぶ青筋がいまにもはちきれそうな形相でクレッタを睨みつけていた。クレッタに向かって一直線に伸びていく"伸軌しんき"をさらに引き寄せると、クレッタはわずらわしい声で鳴き叫んだ。 

「俺を殺しにきたんじゃないのか……! 目の悪い奴だな! お前の獲物はこっちだろう!!」 

 コルドはもっと手に力をこめて鎖を引き寄せる。クレッタは悲痛なのか、威嚇なのか、甲高い声で喚いて、のたうち回った。

「コルド……ッ、コルドォ!!」

 神聖な風体とは裏腹に、聞くに耐えないがなり声を轟かせながらクレッタは立ち上がり、直進した。本能が戻ってきた。ふたたびコルド・ヘイナーを標的に据え、牙を剥きだしにし、地上を駆け、咆哮する。
 刻一刻と迫るクレッタを眼前にし、コルドのこめかみから一筋の汗が流れた。

(次元技を発動してる時間はない! 一か八か、この身一つで凌ぐ!)

 コルドが固く鎖を握りこんだ──次の瞬間だった。
 聞き覚えのある声が、飛んでくる。彼の意識はすぐさま声のしたほうへと引っ張られた。

「コルド副班、鎖から手を離して!」

 思わずそちらへ視線を向ければ、右手に雷光を纏わせたロクアンズが目を瞠るような速さで駆けてきていた。
 彼女は、たんと爪先で土を蹴って、跳んで、雷光をより強く瞬かせる。
 
「六元解錠──、"雷柱らいちゅう"!!」

 コルドは握っていた鎖から手を離した。
 瞬間、ロクが振りあげた拳を地面に叩きつける、と途端に──轟雷が、一本の柱のように地表から噴き出して、クレッタの巨躯を貫いた。


Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.170 )
日時: 2025/05/11 21:27
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第152次元 時の止む都28
 
 胴部の毛先に、細い電気の糸が纏いつき、クレッタはぐらりと傾きかけた。次いで、素早く飛んできた斬撃がクレッタの片足の関節部に突き刺さった。するとクレッタは激しい音とともに転倒した。
 レトヴェールは持ち直しており、到着したロクアンズと遠目ながらに視線を交わし合うと、二人はコルドのもとへと向かった。
 倒れ伏すクレッタが、もぞもぞと動きだすのを見据え、コルドは詠唱した。

「五元解錠──、"額洛がくらく"!」

 地面の上に散らばった鎖の破片たちが、ばらばらと浮上して組み合わさっていく。そうしてできあがった鎖の壁の内側へと、ロクとレトが滑りこんだ。

「ロク!」
「──五元解錠、"雷円らいえん"!」

 コルドの呼び声に応えるようにして、ロクも立て続けに詠唱を繰り出した。ロクは、"雷円"という名の半円状の電気の膜を生み出し、それを"額洛"とぴったり重ね合わせる。
 横たわっていたクレッタはとっくに体勢を立て直し、怒り心頭といった形相ですかさず駆けてくると、鎖と雷の壁に突撃した。が、二つの次元技によって築かれた壁は、歪みこそしても崩れはせず、また電気の鋭い痺れによって、クレッタは弾かれてしまった。
 負けじと、クレッタががつん、がつん、と角をぶつけてくる音が、頭上から聞こえてくる。そのうちに、レトはロクへと問いかけた。
 
「ロク、こいつと戦ったか」
「うん、サオーリオっていう東の都で遭ったんだ! 名前は【CRETE】(クレッタ)。生命を司どる神族だって言ってたよ。クレッタは、あらゆる生物の姿に変化できるし、植物も操れる。それと、元魔を生み出していたのもクレッタだったみたい。その瞬間もちゃんと見たよ」
「クレッタ……」

 ロクは矢継ぎ早にそう説明した。レトが、ほかにもわかっていることをロクに訊こうとすると、コルドが壁に注意を注ぎながら、口を挟んだ。

「二人とも、まだ戦えるか」

 コルドは二人の顔を振り返った。頭上からは、絶え間なく、激しい衝突の音が降り注いでいる。
 ロクとレトは、示し合わせたわけでもないのに、声を揃えて答えた。

「戦うよ」

 コルドは、そう答えるだろうとわかっていたが、その返事を聞いてわずかに口角を上げた。返事を口にした二人の表情は引き締まっていた。
 レトは、目の前にいるロクとコルドからは見えないように、震える手先を固く握りこんでいた。

 あらためて、コルドはロクに問いかけた。

「俺もレトも、もう元力が底を尽きかけている。ロクはどうだ?」
「……あたしもあんまり自信ない。ここにたどりつくまでにだいぶ回復したけど、最初にクレッタたちと戦闘したときの消耗が激しかったんだ」

 コルドは頷いた。それに、とロクは付け加えて、エントリアに戻ってくるまでの道中、クレッタがいたずらに生み出したのであろう数多くの元魔にも遭遇し、対処に追われていたと言った。
 ロクが二体の神族と遭遇してからの経緯をかいつまんで説明し、それを聞き終える頃には、コルドはさらに表情を険しくしていた。

「わかった。さっきも言った通り、俺たちの元力は残りわずかだ。だから連携を取り、反撃の隙を与えず、奴を討つ。いいな、二人とも」
「うん!」
「了解」

 遥か頭上では、躍起になったクレッタが、意地になって鎖と雷の壁を壊そうと衝突を続けている。ロクは、頭上を見上げて、壁から飛び出しているクレッタの顔を睨んでいた。そのうちにコルドが口を開いた。

「まず心臓の有無がわからないからな。心臓があると仮定して動きを……」
「いいや、コルド副班、たぶんクレッタに心臓はないよ。一度胸からお腹にかけて大きな穴を開けたし、何度も雷で焼いてみてるけど、ずっと余裕そうなんだ。見てるとわかると思うけど、クレッタはかなり野生動物っぽくて、直情的だから、嘘をついて余裕に見せてるってこともないと思うんだよね」
「そうか。なら、あの大きな白い神族にやったみたいに、再起不能にするしかないのか……」

 二人が話をしている間、睫毛を伏せ、レトはしばらく考えこんでいた。
 ふと顔をあげると、彼は口を挟んだ。

「ロク、さっきぐらいの等級の次元技をあと何回発動できる?」
「えっと、六元なら三回かな。五元とか四元にするなら撃てる回数は増えるけど……」
「クレッタ相手に四元以下は通用しないな」
「うん、そうだね」
「コルド副班は?」
「……七元、六元が一度ずつで限界だな。お前が寝かせてくれたおかげで多少、戻ってきたよ」

 コルドが冗談まじりに言って、拳を握ったり開いたりした。それほど時間は稼げなかった、と返そうとしたが、レトは言葉を飲み込んで、ロクとコルドの目を見つめ直した。

「耳を貸してくれ。考えがある。コルド副班、俺が最後に合図をする。そしたら──やってほしいことがある」

 低い唸り声が、だんだんと凄みを増して、クレッタの苛立ちは最高潮に達していた。クレッタは、筋肉の膨らんだ前足を跳ね上げた。そして胴を立たせると、鎖と雷の壁に向かって前足からのしかかった。
 クレッタの全体重がかかった壁は、途端に崩れだし、瞬く間にばらばらに砕け散って、陥落した。
 鎖の破片の雨が降り注ぐ中、飛び出したレトが、『双斬』を薙いだ。

「四元解錠、"真斬"!」

 飛んでいった斬撃はクレッタの巨大な角の根元に衝突した。だが、角は傷ひとつつかず、悠々と持ち上げられて、レトを目がけて振り下ろされた。すぐに逃げる準備をしていたレトは、角の追撃から免れた。

「弱い。コルドォ!」
「六元解錠──、"雷撃"!」

 次いで、雷光が瞬く。"雷撃"は、ロクの手元を中心に飛散して、そのままクレッタの全身を包みこんだ。クレッタが前足を振り上げ、地団駄を踏むと、そこらじゅうに散乱している鎖の破片が高く跳ねた。クレッタはたたらを踏んだあと、頭を振って、そして地面の上に立っているロクの姿をみとめた。

「電気のガキ。おっ死んでなかったのかよ」
「まだ死ねないよ……! あなたたちを斃すまでは!」
「言ったぜ。何度やっても殺せねエよ。心臓はねエんだからよ!」

 クレッタは、ロクを目がけて猛突進した。すかさずロクは拳を握りしめ、電光を纏う。

「──これならどうだ! 六元解錠、"雷柱"!」

 握った拳を振り上げて、地面に叩きつけると、駆けだしたばかりのクレッタの足元から猛烈な勢いで、雷の柱が放出した。"雷柱"はクレッタの胴を貫く。同時に無数の鎖の破片を天上へと突きあげた。
 だが、大きな雷の柱が胴を貫通しているまま、クレッタは、激しく鳴き喚いた。

「グラアア! 邪魔だ! 邪魔をするな! どいつもこいつも! 殺させろ! コルドォ! オマエじゃないと話にならない!」
「なら、登場させてあげる!」

 ロクはそう言って振り返る。その拍子に、こめかみに滲んだ汗の粒が跳ねて、彼女は声を投げかけた。

「コルド副班!」

 すでに体勢を整えて待機していたコルドが、クレッタを遠くに見据え、鎖の破片を握りしめた。

「動くなよ、生命の神【CRETE】」

 雷の柱が、立ち消える。
 しかし、遥か高く天上に打ち上げられた鎖は消えない。まるで大粒の雨のように、クレッタの頭上からそれらが降り注ごうとする、直前に、コルドは力の限り詠唱した。

「七元解錠──、"鸞業区らんごく"!!」

 天上天下に散乱した鎖の破片が、主人の声に呼応して、形を成す。
 鎖の破片は寄り集まって、太い鉄柱へと姿を変える。天上で形成された無数の鉄柱は、すぐさま、クレッタの角から頭を、背中から腹部を貫通して地表に突き刺さった。そして地表に咲いた無数の柱は逆に、腹部、顎の下、腿を突き上げ空に向かって幹を伸ばした。
 神族ノーラを屠った、逃げ場のない鎖の監獄。"鸞業区"がふたたび神族の身に突き刺さる。

 ふいに静寂が訪れる。三人の息遣いが、地上に吹く風に混ざって、流れる。
 全身を鎖の柱によって串刺しにされ、静止したクレッタだったが、口は免れたようで、やがて喚きだした。

「知ってるぜ。こいつでノーラを殺ったんだろ。身体中にこいつを突き刺して……アハハ! ハハ! 死ぬなんてもったいねえなあ、ノーラ! 目が冴えてたまらねえよ! 永遠だ。永遠にこうして戦おう! ずっとずっとずっとずっと!」

 そのとき、まるで横槍を入れるかのように鋭い斬撃が飛んだ。大きく開いた口内にそれが突き刺さって、クレッタの顎が跳ねあがった。

「しゃべってるとこ悪いな」

 合図だ、とレトは続けて言った。
 鎖の柱が振動する。呼吸を整えるのと、身体中に流れる残りわずかの元力を極限まで掴みきるのに、数秒、時間がかかったものの、コルドは合図を受けてからすぐに詠唱した。

「七元解錠」

 ──七元、六元が一度ずつで限界だ、と言っていたのに、彼は昂っていく意思に正真正銘の全力を賭けて、前言を覆した。

「"嵩重かさねとく"!」

 周辺一帯の気圧が変化した、と錯覚させるような重苦しい衝撃が走った瞬間、クレッタの背が中心からがくりと割れ、顎と四つ脚が跳ねあがり、全身がくの字に折れ曲がった。"鸞業区"、そのすべての鎖の柱が重みを増して、さらに地面の下へとめりこむと、巨大なクレッタの身体があらぬ形に歪曲した。
 そして、間髪入れずに、ロクの手元から電気が飛散する。彼女も、頭に血が昇っていくのを、心臓がうるさく跳ねあがっているのを差し置いて、コルドに続いた。

「六元解錠──"雷円"!!」

 眩い光があたりを覆い、そして鋭い轟音が鳴り響くと、いびつな形のまま白目を剥いているクレッタの周囲に雷の膜が張った。それは球体状で、文字通り、クレッタを包囲する。

「ァ、ヴ……ッ、グガガ……」

 声を発する余力はあるようだった。だが、クレッタの頬には大量の汗が噴き出していて、開きっぱなしの口をはくはくと動すのみだった。

「形を変えたければ変えてみろ。できないだろうけどな」

 レトは、額に滲んだ汗を拭って、息を整えてから言った。手元の集中を切らさないように、ロクは注意を払いながら、レトに訊ねた。

「ほ、本当に身動きとれてない……! でも、なんで? もっと大きくならないの?」
「なれるならとっくになってるんだよ。おそらく、あの体積が最大なんだ。だからあいつにはもう、いまのままの大きさでいるか、小さくなるかの二択しかない。だが小さくなるのはかえって状況が悪化する。体積が縮小すれば、体内に入れこんだ鎖も集約されるからな。つまり、いまの筋肉量でも受け止めきれていない重量を、小さい身体で支える羽目になり、余計に身動きがとれなくなる。もしいま以上の大きさになったとしても、お前の"雷円"に引っかかって自滅する」

 もがくこともできず荒い呼吸ばかりしているクレッタを見上げながら、レトはロクにそう返した。

「でかい図体は的も同然だ。さっさと小さくなっておけば免れただろうけど……それを利用させてもらった」

 連携のさきがけが、レトによる四元級の攻撃だったのは、クレッタを追い詰めないためだった。追い詰めてしまえば状況の悪化を恐れて、戦闘の最中に身体を変化させてしまう──現状より小さい身体に変わる──可能性があった。そのあとロクが続いたのもほとんど同様の役割で、ロクとレトは、クレッタに決定打を与えず「現状のままで戦える」と丁寧に擦りこんでから、コルドに手番を渡したのだ。

 緊張が走る。クレッタの目はさらに赤く血走り、いまにも歯を剥き出しにして噛みついてきそうな形相で、三人を見下ろしていた。すると、クレッタがガタガタと縦に揺れ始めた。三人が警戒を強めたとき、クレッタは高らかに吼えた。

「グァッ──ガガア!!」

 次の瞬間、三人は、地面の下から異様な殺気が迫り上がってくるのを察知した。しかし、間に合わない。回避しようとしたとき、突然地面が隆起し、無数の木の根が産声をあげた。

「まずい、避けろッ!」

 木の根の切先が三人を目がけて伸びる──しかし、襲いかかってきた木の根の切先がすべて、速やかに斬り落とされた。

 ぼとぼとと音を立て、木の根の残骸が次々に転がり落ちた。咄嗟のことで驚く三人だったが、唯一ひとつだけ、一陣の風が横切った気がしていた。だがそれは気のせいではなかった。一人の老齢の女が、半壊した東門を通り抜け、近づいてきた。
 
「なるほど。これも神族の力ですね」

 左手に刀を携えたチェシアがゆっくりと歩み寄ってくる。その出で立ちには一分の隙もなかった。険しい表情でクレッタを見上げるチェシアの姿をみとめると、コルドが目をしばたいた。

「チェシア副隊長」
「そのまま、注意を逸らさずお聞きなさい。住民の退避は完了しています。また、元魔の再発生に備えて、街の中には次元師を残してきていますから、ご安心を」

 チェシアの言う次元師は、ラッドウールを指しているのだが、三人は彼が到着していることを知らされていない。そもそも、チェシアが次元師であることを知っているのはコルドだけで、ロクとレトはしばし呆気にとられていた。ロクが、チェシアにそれを訊ねようと口を開きかけたが、言葉は続かなかった。

「信仰しろ」

 頭上から聞こえてきたその声に、意識が取りあげられた。


Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.171 )
日時: 2025/05/19 00:34
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第153次元 時の止む都29

 チェシアは『それ』をじかに耳にするのが初めてだったが、ロクアンズ、レトヴェール、コルドの三人の目に強い警戒の色が灯ったのを見て、臨戦態勢をとった。
 すばやく"希刀"の柄に左手を翳し、チェシアは叫んだ。

「下がりなさい!」

 地面の下からせりあがってきた無数の木の根が断ち切られた。
 クレッタの様子が、見る見るうちに変化していく。灰色の体毛がより一層濃くなって、四肢にはどす黒い血管が浮き上がった。そしてクレッタの身体は、これ以上大きくならないと考えていたのに、また見る見るうちに成長していき、"雷円"の膜を破った。
 瞳の赤色は、まるで噴き出したばかりの血潮のように、磨きをかけて鮮やかになった。
 雄々しく高鳴きをするクレッタの鼻先も見えなくなって、四人は絶句した。
 クレッタが頭の位置を下げ、勢いをつけて巨大な角を振り仰ぐ。それとともに地面を割って跳ねあがった無数の木の根が四人に襲いかかった。
 刀身が鮮やかに空を薙ぎ、軌跡が走る。チェシアは、満身創痍な三人の姿から、激闘を終えたばかりだとわかっていて、己が最前に立つべきと自負していた。
 木の根の大群は、一本も余すことなく断頭され、弾け飛ぶ。しかし、豹変したクレッタの巨角は凌ぐに及ばなかった。
 クレッタが動き出す。

("嵩重かさね"で重くした"鸞業区らんごく"を身体中に抱えたまま……動けるのか!?)

 コルドは顔から血の気が引いていくのがわかった。クレッタは、角を地面に突き刺したまま、ぐぐと地中を泳がせて、そして地面を割って角を突き上げた。

「回避に集中しなさい!」

 振り返らずにチェシアは言い渡して、すばやく腰の位置を落とした。
 
(元力は残り僅か)

 であるなら、最大出力で、最速で片をつけるしかない。チェシアは刀の柄を握る手に力をこめ、闘志を燃やす。

「七元解錠──、"井駄斬いだぎり"!」

 刹那、格子状の烈閃が迸る。それは刀身から解き放たれると、クレッタの頭部を捉えて切り刻んだ。
 だが。クレッタはまるで微動だにせず、首を仰け反らせもしない。
 目をしばたく、間もなく、クレッタは大口を開けてチェシアを丸呑みにした。雑に数回咀嚼したのち口の端から彼女は吐き捨てられた。五体を投げ出し、空中を飛んだ彼女は城壁だった瓦礫の山の天辺に落ちた。それを目で追っていたロクは、たまらずに叫んだ。

「副隊長さん!!」

 コルドは鎖の破片を握りしめた拳を震わせ、疾走していた。
 そのとき、首を伸ばしてどこかを見据えたかと思うと、クレッタはわずかに呼気を吐き、すぐに身体の向きを変えた。そしていきなり駆け出して、エントリアの街の中へと入っていった。
 否、街の中ではない。クレッタの視線は街の端、西門に注がれていた。

「早く追いかけなさい! 私はあとに続きます!」

 チェシアは瓦礫の山から這い出てきて、怒号をあげた。額から絶え間なく流血している彼女は、そうでなくとも顔を真っ赤にして、きつく目の端を吊りあげていた。
 ロクは、チェシアの姿を見て胸が押し潰される思いだったが、それを振り切って自身を奮い立たせた。

「副たいちょ……っ、ごめんなさい! ──行こう、レト、コルド副班! 絶対に止めるんだ!」

 レトとコルドが頷き、三人は、足元がもつれながらもクレッタのあとを追う。元力はもう底を尽きかけている。彼らの顔にはひどい疲労の色が滲んでいて、いますぐに倒れてもおかしくなかったが、駆ける両足を止めてはならないと心臓がずっと言っていた。
 
 変わり果てた街中を三人の影が疾走する。さきがけを務めたのはレトだった。ほかの二人に比べればまだ元力に余裕があったのだ。だがレトはもうずっと歯を食いしばっていて、一秒が経つたびに、いつ息を切らして倒れるのだろうと不安を抱えていた。
 レトはクレッタの脛に焦点を合わせる。残りわずかな元力を燃焼して、叫ぶように詠唱した。

「五元解錠──"真斬"ッ!」

 振り薙いだ銀の刃から鋭い斬撃が飛ぶ。狙ったままに、一直線上に空を掻き切って、斬撃はクレッタの左足に突き刺さった。
 しかし、足を止めるどころか振り向きもせず、まったく意に介していない素振りで、クレッタはぐんぐん遠ざかろうとする。

「っ、硬すぎる、だろ……!」

 直後、レトの身体の重心がぐらついた。そのまま意識が吹き飛びかけて、彼はさらに強く奥歯を噛みしめた。
 そのとき後ろを走っていたロクが、咄嗟にレトを抱きとめた。

「レト!」

 レトと義母にかけられた呪いを知っているロクは、それを察したのか、一瞬の間、心配そうな目を彼に向けた。
 だがレトと目を合わせるとすぐに前を向いて、足元に電気を纏わせる。そして、早く行けと言わんばかりの顔をしている彼をその場に残して駆け出し、加速した。
 巨大な屋根のような腹の下をくぐり抜け、ロクはクレッタの正面に躍り出ると、格子状の傷がついた顔面に向かって手を翳した。

「これ以上先には行かせない──!」

 細い電気の糸が、ロクの全身から噴出する。びっしょりと頬を濡らす汗を雷光が照り返した。これまで、今日ほど元力を消耗した戦いはなかった。血液ではないそれがからからに渇いていくのが手に取るようにわかる。けれどもかき集めて、集めて、小さな手のひらにそれを託そうと全身全霊で足掻く。
 そしてロクは手のひらに眩い光を蓄えて、口を開いた。

「六元か」
 
 しかし紡げなかった。
 ロクの手からさあっと雷光が飛散して、消える。身体の内側から激しい警鐘が鳴り響いていた。
 "これ以上は本当に底を尽きてしまう"、と。
 
「──」

 ロクは大きな左目をさらに見開いて、硬直した。発動できない。その事実に打ちひしがれ激しく動揺したせいなのか、身体が先に限界を迎えたのか、そのどちらも要因になってしまったのかもしれない。ロクは、ふいに全身から力が抜けて、踏ん張ることもできずに、倒れこんだ。
 薄目を開けて突っ伏すロクの頭上にそのとき、影が降りかかった。クレッタの頭部が、屋根のようになって、沈みかけた太陽の光を遮ろうとしていた。

 踏み潰される。

 なかば意識を失ったロクがそうぼんやりと肌で感じ取ったとき、事態はまたしても唐突に変化した。クレッタの首が、がくんと激しく折れ曲がって、瞬間地面に頭を叩きつけた。頭だけではない。角も胴も足もすべて沈んで、その衝撃で激しい音が立った。
 目を光らせたコルドがその手に鎖の欠片を固く握りしめていた。血が滴り落ちていた。彼は、クレッタが轢き潰したのであろう、逃げ遅れた人間の無残な死体の一片を踏まないように立って、鋭い眼差しをくれる。

「止まれ……!!」

 クレッタの全身に突き刺さっている何本もの大きな鎖の柱が、かの神をふたたび地面に縫い留める。コルドは、新しく次元技を発動できるほどの余裕がなかったし、"嵩重"や"鸞業区"を解除したところでほかに引き留める策を持ち合わせてもいなかった。だが偶然にも、無意識にも、高めた"意思"をさらに注がれた次元技は力を増して、ようやくクレッタは足を止めた。
 だが。それもつかの間だった。クレッタの足の関節が伸びる。背が浮きあがる。角がまっすぐ空を向く。そして目が赤く赤く光ったとき、クレッタは我を失ったようにがむしゃらにがなった。

「信仰しろ! 信仰しろ! 信仰しろ! 信仰しろ! 信仰しろ!」

 咆哮しながら、クレッタは前足を振りあげて立ち、背中を仰け反らせた。そのままぐるんと身をねじった。前足の影が、コルドの頭上に落ちた。
 前足が地面を殴打すると、街路樹や石畳が粉々になって飛散し、土煙があたりを覆い尽くした。

 一人街路の真ん中に突っ立って、呼吸をするので精一杯になっていたレトは、土煙のせいで顔を伏せていたのだが、やがて視界が晴れてくると、倒れているコルドの姿を目のあたりにした。

「コ、ルド、副班」

 口をはくと動かして、レトは眉を寄せた。
 そのときだった。レトは、荒々しい視線を全身に浴びて、打たれたように顔をあげた。
 クレッタの赤い視線がレトの瞳に突き刺さる。クレッタはぴたと進行をやめて、立ち止まり、レトを注視していた。

(──なんだ?)

 だれかに見られている。それも、クレッタではないだれかが、クレッタの視界を介してレトを見ている。そんな気がした。
 そして次の瞬間、クレッタは頭の位置を低くすると、いきなり猛突進した。

「グル、ア。アガ、ルアアア゛!」
  
 巨大な角が怒涛の勢いで迫ってきてレトは成す術がなかった。真正面から角の激突を受け横跳びに吹き飛んだ。崩れかけた家屋の石壁に背中から衝突する。ぐしゃりと倒れこみ、ひゅうと細い息を吸いこむと、すぐにまた角の鋭い先端が降った。降り注いだ。何度も、家屋の屋根を叩いては角を引き抜き、叩いては引き抜いて、ぐちゃぐちゃになるまで押し潰した。
 そして、ゆらりと頭部が持ちあがったかと思うと、クレッタは空を仰いで雄叫びをあげた。

「ヒオオオオ」

 ヒオオオ。ヒオオオオ。クレッタが咆えるたびに街路の石畳はめくれ、草木は傾いて、街中に咲いていた国花の花弁が散り散りに舞う。
 
 しばらくすると、クレッタの身体がだんだんと小さく、縮んでいった。
 やがて人間の姿へと変化すると、ぶらりと首を垂れて、クレッタはじっと立ち尽くした。そして、ぱちぱちと目をしばたいたのち、素っ頓狂な声をあげながら顔をあげた。

「ア? ……。ああ、クソ。あいつ、干渉しやがったな」

 ごきりと首の骨を鳴らして、クレッタは独り言ちた。
 それからクレッタは二本足で歩きだして、倒れ伏しているコルドの前で立ち止まった。片手でコルドの頭を鷲掴みにして乱暴に持ちあげる。コルドが呻き声をあげるのを、つまらなさそう目でクレッタは見た。

「こんなもんか。飽きた」

 雑にコルドの頭を放り投げたあと、視線を滑らせたクレッタはあるものを見つけた。それは金色の髪だった。近づいて、瓦礫に埋もれたそれを引っ張りだしたクレッタは、昏倒しているレトの顔を見つめた。
 呆けた表情のまま、クレッタは「ああ」と声をあげ、そして徐々に口角をあげた。

「見たことある、あれだ。オマエ……エポールだ! ダイキライな、この国の王ども!」

 クレッタはそう言うと、金の髪を掴みあげたその腕を乱暴に振って、レトを街路に放り投げた。

「そうだ、そうだよな! ダイキライな! 憎い! 忌々しい! 敬愛すべき! 称えるべき! ダイキライな、ダイキライな、ダイキライなキライなキライなキライな王ども!!」

 裂けんばかりに口の端を曲げたクレッタは矢継ぎ早にそうわめいて、レトの首を掴み、振り回し、投げては、蹴り飛ばし、笑って、笑って笑いながら殴った。すでにレトに意識はなかった。でもクレッタは目の前の金の髪にただひたすら手を伸ばし、突き放した。それを繰り返していた。
 クレッタの笑い声だけがあたりに響きはじめた頃、うっすらと開いていたロクの瞳に光が灯った。
 細くぼんやりとした視界の奥では、二足歩行の影が手足を存分に振り回して、金色の髪がそのたびに乱れていた。

「れ」

 景色がだんだんと鮮明に映し出されていって、レトが危険だと悟ったロクだったが、彼女はうまく動けなかった。手を地面につけ、身体を寄せるようにして起きあがろうとした。しかし力が入らなかった。動きたいのに、飛び出していきたいのに、いつでもできたはずなのに、できなかった。
 潰れかけた喉がひゅうと音を鳴らした。
 
「ぇ、……」

 左目の端に滲んだ涙が、零れて落ち、つうと鼻の上を滑って、地面を濡らす。
 
「レト……!」

 喉のずっと下からこみ上げてきた声を、吐き出したそのときだった。
 
 激しく心臓が跳ねて、ロクアンズは締めつけられるような頭痛に襲われた。

 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.172 )
日時: 2025/06/01 18:14
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第154次元 時の止む都30

 これまでに感じたことのない痛みだった。
 ロクアンズの頭の中では断続的に、鈍痛が響いている。心臓は激しく脈打ち、元力の枯渇した血液がすさまじい速さで体内の隅々まで巡っている。重心を支えていなければ、地面の下に沈んでしまうのではないかと不安に駆られるほど、身体全体が重たくなった。

(なにが、起こっ……)

 サオーリオにいたときからどうも、ずっと、調子がおかしい。知らない頭痛がしている。まるで胃から逆流したものをすかさず喉から下へ押し戻すように、静かに寄せては返す暗い海の波のように、頭の中心にとどまり続けている不安感が、緩やかにロクを締めつけている。
 思い当たる節はないはずだった。

『さようならね』

 ふいに、だれかの声が頭の中で響く。

『あなたと私は、もう二度と会うことはないでしょう。幸せだったわ。私のもとへ来てくれて、ありがとう』

 だれかが目の前にいて、自分に声をかけている、そんな光景だった。頭のてっぺんから、足の爪先まで、しっとりと雨水に濡れていくような寒気が肌を撫でた。

『あなたの幸せを願っています、』
 
 ──"ロクアンズ"。声の主が、そう言ったように聞こえた。

 雷鳴。

 エントリアを覆う暗雲に一筋の雷光が迸り、広い街路の上を、その光の大塊が穿った。落雷だ。落ちたのは、クレッタの立っている位置から近く、無防備にしていたクレッタは咄嗟に飛びのいた。
 半円状の大きな穴が地面に空いて、黒い煙が逆立った。

 ぽつりと、空から落ちてきた雨粒が、ロクの頬を濡らす。途端に、篠突くような雨が降りだした。
 ロクは左目をいっぱいに見開き、驚愕と困惑の色をその目に浮かべていた。

(あれ、いまの、あたしの力じゃ、)

 ない。鼓動が逸る。
 元力はもうわずかにしか残っていなかったはずだ。だって術は発動できなかった。なのに、ロクの心臓はどくどくとうるさくて、血が巡って、なにかを強く主張しているみたいだった。

(──だれの力……?)

 ロクの瞳が揺らぐ。
 クレッタのため息が聞こえてきて、ロクははっと我に返った。

「驚かせンなよ」

 クレッタは口を尖らせて、そう言いながら、レトヴェールの首根っこを掴む。彼はされるがまま、ぶらりと頭を垂れた。また彼に暴力を振るわれるかと恐怖したロクの喉はぐっと締まったが、彼女は反射的に口を開いていた。

「待って!」

 ロクが、目尻をきつく釣りあげて叫んだそのときだった。彼女の全身から猛烈な電気が飛散し、地上をすばやく滑走してクレッタの脚元を焼き払った。クレッタはまたしても反応が遅れた。ついレトの首を離し、跳びあがったあとに、大きく舌打ちを鳴らした。

 身体中に電気の糸を纏わせる。四肢に鞭打って、ロクは立ちあがった。
 どこから湧いているのか、ロクにはまったくわからなかった。しかし間違いなく元力だった。拳を握り締めれば、雷光が飛散するのを、彼女はぼうっとした目で見下ろした。

 長い耳に小指を突っこんで、クレッタはけだるげに言った。

「もう用はない。そいつを殺したら帰──」

 頬が裂け、黒い血潮が跳んだ。緩慢に首をねじったクレッタは、ロクが距離を詰めてきていて、電気を纏った腕で殴りかかってきたのだとわかった。
 クレッタはすかさずロクの腕を強い力で掴んだ。しかし空いたほうの腕でロクは今度こそ、クレッタの頬を殴りつけた。すると、電気の力で勢いづいたのか、クレッタの身体がねじれて飛んだ。横転したクレッタだったが、指先がぴくりと跳ねた。一瞬にして爪が長く伸びて、クレッタは前動作もなしに、筋力だけで跳びあがった。そしてまるで獣の鉤爪のような鋭利な光を放つそれを振りかぶり、ロクに襲いかかった。
 ロクは、肉薄したクレッタの爪の矛先をすんでのところで躱し、手首を掴んだ。なにも口にしなかった。彼女の手からは、烈火のごとく、雷撃が噴出した。

「ヴアアア」

 クレッタは顎を天に突きあげ、絶叫する。顔の輪郭がぶれ、首が左右にがくがくと揺れて、クレッタは絶えず鳴き喚いた。

「オマエ! オマエ゛! なンだ!!」

 鼻の先がつくほどの至近距離で、クレッタはロクに怒号を浴びせる。すると、クレッタの両肩がぼこりと音を立てていかった。ぼこり、ぼこりと、骨が膨らんで、ずらして、徐々に身体の形を変えていく。クレッタは熊のような太い胴と手足、牛の角を頭に据え、そして背中にはたくましい竜翼を広げた。荒息を吐き、眼下のロクに向かって腕を振り下ろす! ロクが飛び退くと、拳が地面に叩き込まれて陥没した。
 矢継ぎ早に、強烈な殴打が目にも止まらぬ速さで降り注ぐ。電気の糸が、残光を引く。踊るように躱す。いなす。喰らう。けれど倒れず、鋭い眼光でクレッタを睨みつけると、燦燦とした雷光が放たれた。
 クレッタと格闘を繰り広げるロクの動きは、電気で筋肉を刺激しているのか、目で捉えられない瞬間があるくらいに俊敏だった。
 地面に伏しているコルドは、起きあがろうとしていたが、ロクの姿に釘づけになっていた。正確には、まるで彼女らしくない動きを目の当たりにして、驚いていた。

(ロク、なのか……?)

 妙に、視界が広い。左目だけのロクの視界は常に、右側が不明瞭だったのに、長年付き合ってきた不利な景色を忘れてしまいそうなほどに、徐々に鮮明になる。
 けれど、頭の痛みは増すばかりで、一向に引く気配がないのだ。それどころか、痛みは収束して、塊みたいになって、頭の中心に寄り集まってくる。ずっとずっと、そこでなにかが響いていた。

 目の前の人間の目の色が変わったことには、クレッタは気づいていた。そしてなぜだか、この人間に喰われそうだ、という野生の勘が働いていた。にじり寄ってくる本能的なそれは恐怖とは違っていた。まるで、得体の知れない生き物と遭遇したときに湧いてくるような警戒心だ。
 判然としない。気味が悪い。むしゃくしゃする。クレッタは底知れない心地悪さに、無意識のうちに低く唸っていた。
 そして、ぷつりと目尻の血管を切らし、白目を剥くと、クレッタは腹の底にためていた渾身の力を振るった。

「アア──! ヴアア゛ッ!」

 太い腕が存分に振るわれる。ついにロクは、反応ができなかった。咄嗟に、腕で顔を覆ったものの、襲いかかってきた猛威に身体が弾けた。ロクは高く飛びあがり、弧を描いて空を舞うと、地面の上にぐしゃりと落下した。
 クレッタは鼻の穴も、口も広げて、呼吸を荒くしていた。
 
「ハア、ハア」 
 
 ロクはすかさず、雷を焚いて、四肢を叱咤する。立て。起きあがれ、と。命令は一瞬にして全身を巡り、頭に、腕に、胸に、脚に、意思を点火する。彼女はふたたび立ちあがろうとしていた。
 しかしぴたりと動きが止まってしまう。ロクは飛びこんできた光景に瞠目した。
 見ればクレッタが、倒れているレトを目がけて、怒涛の勢いで地の上を走っていた。

「オマエがいるから、この国のヤツらは、喚き立つ。また殺してやるよ! ヒトリ残さず! 跡形もなく! 殴って引き裂いてちぎってブザマに、殺してやるんだ!!」

 心臓が跳ねる。見開いた左の目は、瞬きができず、逸らせず、義兄の潰れてでこぼこになった顔を直視した。
 口だけが動いた。

「だめだ」

 電気の糸が舞う。 

「──、レトっ!!」

 力で無理やりに動かした棒のような手足よりも、ずっと痛いままの頭よりも、高鳴る心臓を真っ先に連れて、ロクは走った。

 そのとき。
 目の前で雷光が爆ぜた。
 光に包まれたロクは、この一瞬。
 白い世界の中で一人だった。


 痛かったのは頭ではなく右の目だったのだと、ようやく気がついた。


 眩い光が天上から一直線に落ちて地を穿つ。残光が空を真っ二つに裂いた。一本の光の大槍は、クレッタの脳天を突くとただちに爆発するように膨張した。天から下された巨雷の鉄槌がクレッタを殴打する。人間より遥かに大きな身体を持つクレッタがまるで豆粒かのように圧倒的な質量で、雷撃は神の身を塵芥にせんと燃え盛る。

 若草色の前髪が、風に弄ばれて揺れた。
 雷を呼んだ少女は瞳孔をかっ開き、硬直していた。
 
 視界が、広い。
 星を数えられるほどに鮮明で、本当の景色を映し出していて、けれど彼女の意識は内側にあった。


「────」


 このとき、ロクアンズは失っていたすべての記憶を思い出した。


「………………──え……?」


 巨雷の渦の中、クレッタは、全身の輪郭が消し飛ばされるかと錯覚するほどの激痛に耐えていた。猛火のごとく盛る電撃が、皮を焼き、肉を焦がし、骨を溶かすのだ。雷の勢力はとどまるところを知らず、拍車をかけて激しくなっていく。

「、ォ、ォ、ォ゛!」

 しかしロクは、クレッタには目もくれず、立ち尽くしたまま、俯いていた。
 片手は右目を覆っていて、その腕ごと小刻みに震えていた。頭も脚もがたがたと揺れだしていた。それは、雨粒と冷や汗の混ざったものが肌を濡らしたせいではなかった。

「……あ、ああ。あ……っ」

 彼女の口元が、はく、はくと、開閉する。衣服をぐしゃりと掴んで胸を抑える。なにか吐き出したがっていた。けれど出てきたのは、言葉にならない声ばかりだった。どこにも焦点が合っていない左の瞳も曇っている。呆然としているのか、動揺しているのかもわからないような彼女の表情には、ただ暗い影が落ちていた。

「うそ。わたし、私は」

 そう呟く声が雨の音にかき消された。
 
 すると突如、彼女の足元が陥没して地面の下から十数本もの木の根の群れが飛び出した。
 彼女は、咄嗟を利かせて高く跳びあがり、回避した。その拍子に巨雷の柱がふっと収束し、細い電気の糸を残して、瞬く間に立ち消えた。雷の渦中からようやく解放されるや否や、クレッタはけたたましく喚き散らした。それから歯茎まで剥き出しにして、脱兎のごとく地上を疾走し、猛烈な速度をもって彼女に迫った。

 しかし、視界の先ではすでに、雷を生み出すあの手のひらが待ち構えていた。

「オイ、その目」

 クレッタの口から想像もできないほどの静かな声が、ふいにこぼれ落ちた。
 金色の光が彼女の顔を照らしだす。轟く雷鳴が耳に差す。横殴りの雨風が、ごうと吹き荒れる、まさにそのときだった。

「オマエ、いたのかよ」
 
 若草色の前髪がめくれあがってそれが見えた。

 
裏切者うらぎりもんの……──【心情神(ハルエール)】ッ!」


 開かれた右の瞳は、血に濡れたような鮮やかな赤色だった。

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.173 )
日時: 2025/06/01 18:22
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第155次元 時の止む都31

 赤い瞳が光る。
 その艶やかで、いたく鋭い眼光は、いくら雨足が強くなっていこうとも、月明りが曇ってしまっても、なおも煌々と輝いて、迫りくる生命の神を真っ向から射抜いた。
 激しい雨が地面を叩く。暗雲の間をやみくもに駆けた雷光が、街中のいたる場所に次から次へと降り落ちる。
 高く跳びあがって八重歯を見せつけてきたクレッタを仰ぎ見て、ロクアンズは片手を掲げた。
 
「八元解錠」

 彼女は扉を開く。

「──"雷撃らいげき"!」

 巨大に膨張した雷電の塊が解き放たれ、光を浴びたクレッタが燃え盛った。クレッタは口を縦一杯に開けて絶叫する。その質量の余力をいったいどこに隠し持っていたのだろうか。彼女だけではない。天候さえ豹変し、嵐のように強い雨風が吹き荒れている。
 一瞬のうちに、クレッタの外皮は真っ黒焦げになる。灰塵も同然の肉体は、ただの黒い塊に変えられて、ぼろ雑巾のように落っこちた。直後だった。黒い塊がうごうごと身動ぎをしだす。そして何度も地面の上を跳ね、焦げた皮膚を剥がす。ぼこぼこと音を立てながら伸び縮みしていると、やがて頭が膨らみ、手足も伸びてくる。
 しかし赤い眼差しは看過しなかった。
 眩い一閃。力を圧縮させた細い雷の砲撃がまっすぐに飛んで、いびつな黒い塊のままのクレッタに突き刺さった。そのまま、地面と並行に、クレッタは中空を横っ飛びする。その速さは凄まじかった。あっという間に、クレッタは東門の城壁と衝突した。

 左右で長さの違う手で、積み上がった瓦礫の山肌を掴むクレッタが、のっそりと這い出てくる。
 かろうじて二足歩行の生物の外形をとっていた。が、すぐに背骨が柔らかく曲がって、身体と脚の長さが変形する。より速く、より遠くまで走れる肉体に替える。しかし走り出せなかった。ぴりっとした鋭い気配を感じ取り、耳が立つ。視界を動かすと、その奥から、目に痛いような光を纏った人影が、人間には出せない速度で地面を蹴って迫ってきた。雷光だ。雷を纏ったロクが、地面を踏みこんで、跳躍する。残光が斜線を描いて空を裂き、その脚を張って彼女はクレッタを蹴り飛ばした。

 ごうと低く唸る雷鳴が、一向に止まずにあたりに轟いていて、チェシアは失いかけていた意識を明らかにした。
 瓦礫の山の中から下半身を引き抜いて、彼女はようやく地に足をつけたのだが、その目に映ったのはロクがクレッタらしき生物と差し向かいになって、そして攻撃の手を緩めず果敢に戦っている様だった。状況を読み取るのに困難したチェシアは、唖然としてしまった。
 北門から視線を捧げるラッドウールも、巨大な鹿の姿をしていたクレッタが街を横断して疾走しているのを目にしてから合流を目指していたが、その道中で、天気がおかしくなったことに気がついていた。
 
「……ロク──……?」

 落雷が、すぐ近くの地点を強打して、キールアは高い声をあげて身体を逸らした。この場を離れてようとしても意味はないのだろう。まるで突然嵐が訪れたかのような、横殴りの豪雨と降りしきる落雷が、街中を襲っているのだ。
 キールアは遠くの空に、幾度となく瞬く雷光を、不安げな瞳で見つめていた。


 ──危険信号はとっくに鳴りだしていた。


 神が、外皮を焦がされ、骨を痺れさせ、胴を貫かれ、頭を殴られ、再生も変形も許されず一方的な暴力を許容しているなどと、天地がひっくり返っても認められるはずがなかった。クレッタは、はらわたが煮えくりかえるほどの憎しみを育てていたが、それを吐き出す隙さえなく電撃は降った。
 赤い視線がかち合う。

 このままでは、"殺される"。クレッタの憎しみとは裏腹に、全細胞が危険を知らせるように沸き立っていた。

 クレッタはすばやく思考を巡らせた。走ろうとすれば脚を焼かれて、叫ぼうと口を開けば喉を焼かれる。無論、植物を操ろうとするものならば、火を灯したような熱い切っ先をした電撃で斬り捨てられるだろう。
 高い空を見つめ、クレッタは逃走の手を決めた。雷撃を受ける、それが捨て身になってでも、クレッタは背中に小さな翼をたくわえた。そして彼女の一挙手一投足を眼と耳で観察する。彼女が片腕を突き出したそのとき、もう片腕が後ろへ振り切るのを目で見て、身体の重心がもっとも地面に負荷をかけた瞬間を足のつま先で感じ取って、両目で瞬きをする音を聞き分けた。野生の勘が"ここだ"と告げる。すかさず、クレッタは翼を大きく広げて、飛び立った。

 身体の形は飛行しながら操作するしかなく、クレッタは急いで鳥本来の体格へと変形した。そして暗雲に紛れてしまえるまで高く、疾く、ぐんぐんと高度を上げて飛翔した。
 しかし。ロクの赤い目に映る景色は恐ろしく鮮明だった。彼女は空に手を翳す。豆粒大にまで小さくなったクレッタの目頭に眩い光が降る。雷鳴。激しい爆音を伴った落雷が飛ぶ鳥を叩き落とした。

 黒い煙をあげる消し炭のような小さな塊が、真っ逆さまに落下する。

 ロクは赤い目をぎらつかせて、ゆっくり足を動かした。一歩、また一歩と、しっかりとした足どりで向かった先はクレッタの落下地点だ。
 しかしロクは、道中でぴたと足を止めた。そしてまだ空中にいるクレッタを視界の真ん中に捉えてから、自身の腕を見下ろした。
 纏っていた電気がふいに立ち消える。
 彼女が小さな口でわずかに息を吸う。すると、右目の赤色はより濃密に、より色鮮やかに光を放った。

 落下するクレッタに焦点を合わせ、詠唱する。


「────"呪記じゅき零条れいじょう"」


 黒い消し炭と化したクレッタは"それ"の気配を感じ取って我が身をがたがたと震わせた。
 "それ"がどのような呪いであるかを知っているのだ。
 鳴り続けている危険信号が一層激しくがなる。クレッタは、ふたたび鳥の姿に戻ってゆきながら、空の上からロクを睨みつけて号哭した。

「クソクソクソクソッ、オマエェ──ッ!!」

 突然、クレッタの落下地点から、無数の木の根、あらゆる植物が地面を割って噴き出した。怒涛の勢いで急成長し、それらは東門の方角に向かって幹や茎を伸ばす。そして気絶しているアイムを乱暴に捕まえると、ばねのように反動を利かせて、巨体のアイムを投げ飛ばした。
 旋回しながら宙を飛んだアイムはついに、クレッタの落下地点──ロクの視界の中央に到達した。
 
 次の瞬間。
 ──異様な紋様が、アイムの白い皮膚の上に刻みこまれる。紋様は崩した文字の羅列のようだったが、現代語ではなかった。紋様は徐々に、不安を誘うような赤黒い色合いに変色して、まるでアイムを侵食するかのように幾重にも折り重なって滲んでいく。
 最後に、赤い目が覆い隠されて、やがて完全に赤黒色の薄膜にアイムが包みこまれると──
 
 四散。

 衝撃的な光景だった。アイムの身体が酷く凄惨に、しかし花開くようにも大きく弾け飛んで、散る。撒かれた肉体はもはや雨粒と相違ないほどに細切れだった。十尺はあった胴体も、九本の触手も、おかしく並んだ目鼻立ちも、なにもかもばらばらになって飛び散った。
 降る雨粒に、黒い血潮が覆い被さった。

 ばたばと降る雨音だけが、街中を包みこむ。あとに残った黒い液体の水溜りはすぐに、雨水に流されて、消えてしまった。しかしぼんやりと地面を見つめていれば、その液体は雨水とは混ざらずに、ひとりでに蒸発したようにも見えた。
 気がつくと、クレッタの姿はもうどこにもなかった。おそらく暗雲の向こうに消えていったのだろう、目で追える距離にはもういなくて、街の中へと視線を戻した。

 ロクは踵を返し、ゆっくりと歩きだした。
 足どりは覚束ない、だから小石に躓いただけで、簡単に膝を崩した。息も絶え絶えで、指の一本も動かせそうにないほど疲れた横顔をしているのに、身体を起こして、荒れ果てた街の中を、一心不乱に歩き続けた。

 しかし、やがてぷつりと糸が切れたみたいに、彼女は道の途中で倒れた。

 さあさあと、耳のすぐ傍で雨音が響いている。そうしてようやく、彼女は瞼を閉じた。


Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.174 )
日時: 2025/06/08 23:03
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

 
 第156次元 時の止む都32

 瞼を持ちあげる。目に飛びこんできたのは、知らない色をした天井だった。
 起きあがろうとすると身体の節々が痛んだ。よく見れば、痣だらけで、顔も腫れているようでまだ熱を持っている。

 戦いはどうなっただろう。エントリアの街の様子は。クレッタとアイムはどこに──?
 レトヴェールが、次々と頭に浮かんでくる不安や疑問と格闘していると、藪から棒に声がかかった。

「レトヴェールさん、起きたんですね。よかった。具合はいかがですか?」

 レトははっとして、意識を引っ張られた。見知らぬ部屋の中に、見知った医療部班の班員が立っていて、こちらの顔色を窺っている。部屋の壁や時計、机なんかの調度品は見慣れないが、室内にいる人物や、薬品の匂い、道具の類はごくごく慣れ親しんだもので、此花隊本部の医務室を想起させる。
 しかし、医務室でもなければ、本部の一室でもなさそうだった。内装は、まるで貴族が住まう屋敷の客室のような様相を呈している。
 しばらく部屋の中を見渡してから、レトは班員の女の質問に答えた。

「……悪くない。まだ、傷は痛むけど」
「そうですか。食べられそうなものをお持ちしますね。すこしお待ちください」
「待て。戦いはどうなった? 収束したのか? エントリアの街は? 神族たちはどこに行った。ここは」

 レトは、矢継ぎ早に訊ねた。女は、急にたくさん問いかけられて、思わず手に持っている布巾をくしゃりと潰してしまったが、やがて手の緊張を解いた。
 彼女は次のようにレトに伝えた。

 神族【CRETE】と神族【IME】のエントリアへの襲撃事件は、つい数日前に幕を閉じた。エントリアは、街中に生存者がいないことを入念に確認されたあとですべての門を封鎖した。街の住民たちは、隣町のカナラと最西の港町トンターバにそれぞれ身柄を置いている。国でもっとも栄えた都市に住む住民の数だ。カナラだけでは、エントリアからの避難民を賄いきれず、此花隊隊長ラッドウールが西部の領主であるバスランド・ツォーケンに協力を要請した。ラッドウールが直近までウーヴァンニーフを気にかけていた経緯もあり、バスランドは快く避難民の受け入れを承諾した。
 カナラはエントリア領の一部であるから、領主のイルバーナ家にチェシアが都合を利かせて、避難民の受け入れ体制を整え、また彼らがの所有する別邸を借りられるよう話を通した。別邸は使用人以外の出入りがなくほとんど使われていなかったが、十分な広さがあり、手入れも行き届いていて清潔な状態だった。
 この邸宅が現在、此花隊本部の仮の拠点となっている。
 此花隊隊員たちは、かつてないほど多忙の日々を送っている。エントリアからの避難民の支援にはじまって、怪我人の治療、神族の再出現への厳戒警備、死亡者の確認とエントリア街内の巡回、やることは多岐にわたり、あげればきりがなかった。

 一通り答えたあと、彼女は「あとは」とレトの質問を順番に思い出していって、ふいに眉を下げた。

「……すみません、現場にいなかったもので、これは医療部班の班長から伝え聞いたお話になるのですが……神族は、エントリアの街から消えた、と」
「消えた?」
「はい」

 女は頷いた。
 レトは戦いの途中で意識を失い、ことの顛末を知らない。消えた、と一口に告げられても、どうにも頭の中では整理がつかない。戦闘部班の班員に訊ねたほうが話が早いだろう。

「……わかった。たくさん聞いて悪い。あと、班長たちはいまどうしてる?」
「ええと、それが……」

 彼女はそれを聞くと、今度は歯切れが悪そうに、口元を結んだ。レトが不思議に思っていると、彼女はすこし小声になって答えた。

「……今日は、副班長以上の方が全員で、なにやら会議をしているみたいで……それが、どうにもただならない雰囲気というか。隊のこれからのお話についてかとも思ったんですが、なんだか違うようなんです……。朝から、皆さん、ぴりついていました。まだ、私たち一端の班員には降りてきていないお話みたいです」

 女の頬には汗が滲んでいた。邸内のどこかですれ違った上層部の人間たちの緊張を宿した目を見て、萎縮したのかもしれない。
 レトにはぴんときていなかったが、次に彼女が口にした言葉を聞いて、目の色を変えた。

「ああ、でも。戦闘部班の方々は、なぜだか班員も出席されているみたいですよ。レトヴェールさんはお怪我がまだひどいので、このまま欠席されたほうがいいかと……」

 戦闘部班の班員だけは出席を許可されているのなら、議題は、組織のこれからでもなければエントリアに関わる話でもないのだろう。
 次元師もしくは神族にまつわる重大な議題が掲げられている可能性がある。
 レトはなんだか嫌な予感がして、毛布を剥がして寝台を降りた。
 
「会議はどこでやってる」
「え? ええと、二階で……」
「わかった」
「待ってください! まだ、安静に」

 女の制止する声も聞かずに、レトは扉に向けて歩き出した。歩くたびに筋肉の軋む音がして、眉をひそめたが、痛い素振りを見せれば強く止められる。だからレトは堂々と歩いてやって、部屋を出た。扉を閉めてすぐに、頭のてっぺんから足の爪先まで、そこかしこが痛んでどっと汗が噴き出した。
 壁に手をついてでも、廊下を歩き進めた。やはり、訪れた覚えのない施設だったが、階さえわかれば辿り着くのに時間はかからないだろう。できるだけ人目につかないよう注意を払いながら、レトは会議室を探して回った。




「神族ならば、殺してしまえ!」

 木目調の机を叩き、顔を真っ赤にして男が叫ぶ。胴も手足も丸太のように太いその浅黒の男、ニダンタフ・ジーセンは、金の肩章を提げる援助部班の班長である。机を叩いた腕には血管が浮き出ていて震えている。
 会議が執り行われているのは、もとは書斎だったようで、壁沿いに本棚が立ち並んでいる。壁紙も絨毯も落ち着いたくすんだ赤色で揃えられていて、調度品は一流の品ばかりだった。隅々まで控えめな煌びやかさを放ち、閑静だったはずの室内はいま人で溢れ、もうずっと騒然としている。鋭い声をあげたのはニダンタフだけではなかった。研究部班、医療部班が腰かけている席の周辺からも、不安の声は相次いで放たれている。黙りこんでいるのはラッドウール、チェシアと並んで、戦闘部班の班員だけであるほどに、ざわめきは嵩んでいく一方だった。

「たかが処分に時間をかけすぎではないか、セブン・ルーカー班長。情報を引き摺り出すならさっさとしろ。お前のことだ、吐かせるのは得意なはず。いったい、収束して何日経ったと思っているんだ? この事実が、万が一外部に漏れたらどうする。そうなれば隊の沽券に関わる事態。『我々が神族を飼っていた』と国中から反感を買う前に、処分しなければならないのは自明の理! これは断じて、譲ってはならない!」 
「ニダンタフ班長。言いたいことは理解できますが、冷静に話をさせていただきたい。皆、貴方の大きな声に感化され、興奮してしまっています。これでは話が進まない」
「その娘の目が毒々しいほどに赤いことをしかと目に焼きつけ、神族だとわかっていながら、なぜさっさと殺さないのかと訊いているのだ!」

 室内はさらに、ざわめきの声に満ちていく。
 その娘、と指をさされたロクアンズが、部屋の中央でまるで見せ物みたいに立たされていた。顔の半分は、右目を覆い隠すように白い布が巻かれている。首から下は鎖で縛られていて、身動きひとつとらせないつもりだ。鎖は、コルドの次元の力によって生み出したもので、彼がロクの隣に控えている。
 コルドは、自身の横に立つ、ロクの横顔を見やった。だが、前髪から落ちる影の暗さが深くて、表情が読み取れなかった。そんなコルドもまた、いつにも増して深刻な顔をして、困惑を隠しきれていなかった。

 ──ロクアンズ・エポールが神族である。

 先の戦いで、その事実を目のあたりにしたのはコルドとチェシアの二名だった。彼らは、ロクの右目がほかの神族とおなじように真っ赤であるのを目視し、そして神族が所有する特別な力、"呪記"を行使する瞬間を目撃した。さらにエントリアの街中を襲った雷雨が彼女の力によるものだとわかると、隊員たちはなおのこと納得せざるを得なかった。
 二人の証言によって、戦いのあとしばらく昏倒していたロクは目を覚ますや否や、厳重な拘束と監視を受けた。そして、全班の副班長以上の隊員と、戦闘部班の班員の目の前で、つい先刻に、右の瞳の色を明らかにされた。即刻、協議にかけられる運びとなり、現在に至る。
 ロクはもうすでに、数多くの尋問と忌避の視線を浴びている。
 けれども口を閉ざしていた。

 目の端を鋭く尖らせたセブンが、語調を固くして、言い返した。

「まず、神族に関する情報の連携をいたしました。神族は心臓を持たず、肉体の損壊だけで討伐することは不可能。神族に心臓を与える方法もあるようですが、即時の実行は現実的ではありません」
「それも神族【NAURE】の虚言という可能性は?」

 白い隊服に身を包み、セブンやニダンタフとおなじく肩章に金の飾りをつけた一人の女が、片手をあげていた。医療部班の班長を務めるミツナイ・マランは、しっかりと結いまとめて崩れそうにない団子状の髪を左右に揺らして、淡々と意見した。

「ノーラの討伐時、ノーラはある機を境に正気を失ったような状態になり、その直後、神族の心臓について発言をし、消滅に至ったと聞きました。正気でなかったのなら、発言の信憑性は低いように感じますが。なににせよ、一度ロクアンズ・エポールの肉体を解体し、検証するのも手だと思います」
「ああ、そうだ、ロクアンズ・エポールをひき潰せば、すぐにわかること」

 加勢の声に調子をあげたニダンタフが、セブンがなにかを答える前に、睨みをきかせた。
 頬杖をついていたチェシアが、ニダンタフの態度になかば苛立っているような声色で、すかさず切りこんだ。

「神族が心臓を持たないのは、真実でしょう。神族【CRETE】、神族【IME】ともに、我が隊の戦闘部班が総員でかかりましたが、いくら肉体に損傷を加えようとも討伐は叶いませんでした。神族【NAURE】との戦いのあと、報告があがった"歪な結晶のような赤い心臓"を持っていなかった、そうですね?」

 チェシアは、コルドに視線を投げた。
 戦闘部班の班員は、メッセルとレトを除いて頭を揃えていた。中でもフィラの顔色はひどく、考えこむようにずっと眉根を寄せており、俯いている。
 視線のいどころに迷う者が多い中、しきりに瞬きをしながらでも、キールアだけがロクの顔を見つめて、手元を握っていた。
 
 緊張した面持ちで頷いて、コルドがチェシアの発言を肯定する。

「はい。左様でございます、副隊長」
「ひとえに攻撃の手が緩かったのでは? それに子どもばかりが戦線に立っていたのですから」

 ついに、チェシアは沸点に達して、右の拳で机を強く叩いた。そして目に角を立て、矢継ぎ早に言い募る。

「口を慎みなさい。先の戦いで、我が隊の次元師がどれほど危険な戦況に立ち、前線を張っていたと知っておいでですか。サオーリオではメッセル・トーニオ副班長が、エントリアではレトヴェール・エポールが善戦し、現在も意識不明です。二人だけではありません。次元師総員、肉体と精神を捧げ戦いに臨みました。それを、我々の軟弱さが招いた結果と? その子どもたちがいなければ、戦況は酷烈を極めていたと断言します」
「であれば! その犠牲を払って得た、ロクアンズ・エポールという大きな餌を前にして悠長に構えていないで、一刻も早く情報を引き摺り出し、心臓を持たせ、抹消する。これ以外のいったいなにが最善だと!? この国の宿敵が目の前にいて、それが豹変するかもしれぬ可能性を秘めているだなんて、我々は巨大な雷雲の真下にいるのと変わらないのですよ!」

 だから早く殺してしまわなければならない。ニダンタフの発言の強さに、周囲の雰囲気が徐々に呑まれていく。此花隊に所属する隊員の多くは、神族や元魔に怨恨を抱く。それにメルギース国の民としての矜持もある。二百年も国の敵とされている神族を目の前にして、興奮しやすいのは火を見るよりも明らかだった。だから一つ大きな旗を掲げてしまえば簡単に引き寄せられる。

「ともかく、神族ロクアンズに厳重な処分を」
「彼女はこの次元研究所を壊滅させる目的で紛れこんだに違いない」
「ノーラやクレッタのように豹変してしまう前に、早く!」
「まったく、すこし静かになさい。室外に話が漏れてしまいます。情報の取り扱いに注意を」

 チェシアは、室内にこもっていく熱を鎮めようとしたが、とても治まりきらなかった。ニダンタフの激昂を皮切りにして隊員たちが好き好きに発言を放ち、声が飛び交う。どうしたものかと収束にあえいでいると、部屋の奥の窓際にあるもっとも豪奢な長机からたん、と大きな音が立った。
 その席に腰をかけたラッドウールが、片手に持った扇子を机に突き立てていた。大きな音の正体は、扇子の親骨の先端が、机をついて出たものだった。

「静かにしろ。まだ、ロクアンズ・エポールがなにも発言していない」

 騒然としていたのが嘘のように、室内は、しんと静まり返った。
 そして、立ち尽くしているロクに部屋中の視線が集中したときだった。

 部屋の扉が開かれる。病衣に身を包んだレトが、室内に足を踏み入れた。

 

Re: 最強次元師!! 《第一幕》 -完全版- ( No.175 )
日時: 2025/06/15 19:11
名前: 瑚雲 (ID: 82jPDi/1)

  
 
 何年も一緒にいたのに、君の瞳は、知らない色をしていた。

 
 第157次元 時の止む都33(最終)
 
 いっとう豪奢な扉の向こうから、飛び交う人の声と、それを鎮めた大きな物音が聞こえてきて、レトヴェールは足を止めた。そして部屋に入るならいましかないと踏み切ったのだった。
 案の定、室内にはラッドウールをはじめとした上層部の面々と、戦闘部班の班員たちの顔が揃っていた。 
 突然扉を開けて部屋に入ってきたのがレトだとわかると、コルドは驚いて、真っ先に声をかけた。
 
「レト、起きたのか。動いて平気なのか?」

 頷き返そうとしたが、しかしレトは、部屋の中央に立たされ、鎖で拘束されているロクアンズと目が合った。
 それからゆっくりと室内の様子を見渡して、隊員たちのほとんどが、怪訝な目つきで彼女を見ていたのだとわかると、眉間に皺を寄せた。

「どういう状況だ」

 レトが低い声で呟くように言うや否や、しばらく閉口していたセブンが、仕切り直した。

「隊長が仰せになられた通り、ロクアンズ・エポールからは、まだなんの証言も得られていません。レトヴェールも来てくれたことですし、彼女も多少は、話がしやすくなったかもしれない。まずは必要なことを訊きましょう。レトヴェール、そこから動かなくてもいい、大変だろう。だれか彼に椅子を」

 セブンが言うと、扉の付近に座っていた男の隊員が、壁に立てかけていた椅子をレトに薦めた。レトは、淡々と話を進めようとするセブンを訝しげに見たが、ひとまずは、素直に着席した。レトが腰を下ろしたのを確認してから、セブンはロクの顔を見つめ直した。

 「君に、我々と会話をする意思はあるか。なければ、黙ったままでいい」

 どこか他人行儀で、尋問でもされているかのような声色でそう尋ねられたロクは、新緑色の左目でセブンを見つめ返し、こわごわと口を開いた。

「……ある。話は、できる」

 ようやくロクが声を発したので、それだけで周囲がまたすこし、ざわめきだした。セブンが片手をあげてすぐに制する。

「わかった。まず、君は入隊当初、「五歳以前の記憶を失っている」と我々に申し出た。その記憶を思い出した、それで間違いないだろうか?」
「……」

 そう問われると、ロクはまた黙りこんでしまった。わざと黙っているというよりは、しごく言いにくそうに、眉根を寄せているのだ。セブンはそれをしかし、回答の拒否にとらえて、冷たく嘆息した。

「話す意思があるとはいっても、答えられないことも多いようだ。では、切り口を変えさせてもらう」

 セブンの視線が動くのに合わせて、室内にいる人間の視線も動く。セブンと目が合ったレトは、確信した。セブンはこれまでに見たことのない、正しく言えば、他者を寄せつける気のない冷徹な面持ちをしていたのだ。
 真意の読み取れない視線をレトに投げかけ、セブンは指を組んで前かがみになった。

「レトヴェール、君はエントリアでのことを、どこまで記憶している? コルド副班長から聞いた話では、戦闘中に意識を失ったとのことだが」

 目を覚ましてからあまり時間が経っていなかったが、頭はすっきりと冴えていた。レトは丁寧に記憶を辿り、答えた。

「……俺が最後に見たクレッタは、巨大な鹿の姿だった。クレッタが、エントリアの西門に向かって走りだしたあと、コルド副班、ロクとともにそれを追いかけて街の中へ入った。コルド副班がクレッタの進行を止めようとしたけど、クレッタが暴れだして、副班に襲いかかった。そのとき突然、クレッタが俺のことを見つめてきて……。標的は俺に移った。躱せなくて、一方的に攻撃を受けた。気を失ったのはおそらくそのときだ」

 セブンが満足したように軽く頷く。それから、背中をまっすぐに正し、深刻な声で彼は告げた。

「君にいまから残酷な事実を告げなければならない」

 セブンは、視線を滑らせて、ロクを一瞥した。
 なにを言われるのか、ロクはすぐに察しがついたが、口を開く頃にはすでに遅かった。

「君の義妹いもうとのロクアンズ・エポールは、神族だ」

 ──レトが目を見開いて、硬直する。瞬きひとつせずに、できずに、彼は呆然とセブンの顔を見つめ返した。
 それからロクに視線を移した。
 ロクとレトは言葉を交わさなかった。
 室内は、急に重苦しい空気に包まれて、わずかな物音も響きそうなくらいに静まり返った。
 レトが言葉を失っていると、セブンは沈黙を破って、 続けた。

「先日の戦いにおいて、その証明となる二つの事象を、チェシア副隊長とコルド副班長が目撃した。ひとつは、彼女の右目がほかの神族と同様に真っ赤な色であること。これは両者から証言があったあと、この場にいる全員が確認をとった。そしてもうひとつが、神族が使うとされる呪いの力の行使だ。彼女の呪いの力によって、神族【IME】が消滅をしたとのことだが、直後に神族【CRETE】も追跡不可能となり、彼女が使用した呪いの力の詳細はまだ不明だ。しかし、ここまでの情報は得られても、まだ彼女の本当の名前すら、我々は知らない。義兄あにである君から訊けば、彼女は答えるかもしれない。いま君は混乱しているだろうが、君の口から……」
「待って。私、ちゃんと、言う」

 ロクがたえかねたように口を挟んだ。
 室内にいる一人ひとりの隊員と目を合わせ、最後にレトの顔をまっすぐに見つめると、ロクはぎゅっと目を閉じた。
 瞼をゆっくりと開いて、彼女は名乗った。
 
「私は……私の名前は、【HAREAR(ハルエール)】──"心情"を司る神族」

 張り詰めた空気に、その響きが、静かに染みわたる。部屋にいるだれもが、いまこの瞬間に、彼女の名前を脳に深く刻みこんだ。
 神族【HAREAR】。またひとつ神族の名が明らかとなって、興奮しているとか、おなじ旗の下で戦ってきた仲間が神族だったことが現実味を帯びてしまい、困惑しているとか、さまざまな思惑が入り混じっているはずなのに、だれも彼も口を閉ざしてしまい、依然として室内は静かなままだった。
 しばし目をしばたき、間を置いたのちに、ようやくセブンが口を開いた。
 
「……心情を司る? 心情とは、心を指すのか」

 ロクは頷いた。

「つまり、ロクア……いや、ハルエールは、人の心を操ることができるのか?」

 ふいにだれかが口をついて、ロクは、はっとして口を噤んだ。
 それを皮切りに、またしてもざわめきの声がふつふつと湧き立ち、徐々に膨れあがっていった。
 セブンが、眉間の皺をより一層深くして、慎重になってロクに問い質した。

「まさかその力を利用して、我々の感情を」
「ち、違う! そんなことはしていないし、できない!」
「どのように証明する? 君に抱いていた好意、期待、信頼、あらゆる肯定的な感情を、自らが我々に植えつけたうえで、いつ本性を露わそうかと機を伺っていたのか?」

 ロクは切羽詰まったように、首を横に振り、否定の意思を絞り出した。しかし隊員たちのほとんどはすっかり疑心暗鬼になってしまい、ロクへの不信感を募らせた。
 セブンの厳しい視線がロクに突き刺さる。

「ちがう、そうじゃないんだ。心情は……」

 掠れたようなロクの声が、周囲の雑音に掻き消される。
 ──心を操る力を持つのなら、隊員たちの感情をいいように操作し、組織に溶けこむなど造作もないだろう。
 ──彼女への心象は紛いものだったのだ。
 ──騙されていた。

 隊員たちが口々にこぼす。募る。そうやって収集もつけられないほどに飛び交い、昂り、溢れていく声を、ばん! という一発の激しい音が堰き止めた。
 レトが、背後の壁に拳を叩きつけていた。
 不審と動揺の色に染まった視線が彼に集中すると、彼はたまらずに口火を切った。

「いい加減にしろ! ロクが否定してるだろ! ただの憶測で好き勝手に言うな!」

 レトの口から勢い任せの怒号が飛ぶ。しかし、すかさずにセブンが、わざと椅子の音を立てて立ち上がった。そして、顔を真っ赤にし、目元をいからせているレトを諭した。

「君とて騙されていた可能性が高く、影響力でいえば私たち以上かもしれない。……いや、もしかして君は、この期に及んでまだ、彼女が神族だと認めていないのか? だれでもいい、レトヴェールにも見せてやりなさい、彼女の目を暴き、その瞳の色を」

 ロクの傍にいるコルドが躊躇している間に、ほかの隊員が動きだそうとしたが、レトが彼らを鋭く睨みつけた。睨まれた隊員たちは思わず、びくりとして動きを止める。レトは、間髪入れずに、セブンに突き返した。

「必要ない。騙されてなんかねえよ」
「なにを根拠に」
「俺は最初からロクが神族だと知ってる」

 衝撃的な一言が放たれて、セブンも、ほかの隊員たちも言葉を失った。

「……え?」

 ロクだけが小さく、意表をつかれたような声をもらした。
 
 セブンは片手で側頭部を抑えた。頭が痛くなるような告白だ。机の上を、しきりに指先でとんとん叩きながら、彼は真っ先に指摘する。
 "ロクアンズが神族だととっくに知っていた"、──などと。妄言だ。

「……苦し紛れに彼女を庇おうとしても無駄だ。そんなことはありえない」
「真実だ。俺は、ロクが神族だってことを、ずっと前から知ってる。だから疑ってもなけりゃ、騙されてもねえよ」
「ではそれが仮に真実だとして、どのように証明する。いい加減な発言は、時間の無駄だ」

 レトは、扉の近くにいたがおもむろに歩きだして、部屋の中央までやってくると、ロクとコルドと肩を並べた。そしてもうとっくに啖呵を切っている彼は、セブンと視線をかち合わせたまま、矢継ぎ早になって続けた。

「証明する方法ならある。ロクの右目の光彩だ。神族は、個々によって、瞳の虹彩の形が異なる。これはもう此花隊の隊員たちには周知されてる。そしてロクも例外じゃない。俺がいまから、ロクの右目の虹彩の形を言い当ててやる。俺は先日の戦いで、ロクが右目を開ける前に気絶し、そのときには目を見ていない。だからそれ以前に確認していなけりゃ、知る由もないはずだ」

 神族の瞳の虹彩は、特殊な形をしていて、個体によってもその形はばらばらだ。
 デスニーなら頂点の尖った菱形を、ノーラなら十字を、アイムなら円形を、クレッタなら三角形をそれぞれ模していた。
 戦闘部班の班員たちから報告が上がっているので、当然ながら熟知しているセブンは、一瞬だけ間を置いて、レトとの睨み合いは断ち切らずに、コルドに話だけを振った。

「コルド副班長。彼は本当に、さきほど彼が告げたように、クレッタが鹿の形態であるときに気絶したのか」
「……は、はい。それは、相違ありません。私が、この目で確認しています」
「では、教えてもらおうか。ハルエールの右目の虹彩が、どのような形であるかを」

 室内に緊張の糸が張る。レトは小さく息を吸って、答えた。

「五芒星だ。ロクの右目の光彩は、五つの点をもった星の形をしてる」

 真っ先に声をもらしたのはロクだった。

「嘘だ」

 そして動揺が隠しきれず、濡れた瞳を揺らして、呟くように言ったのだった。

「なんで……知ってるの」

 顔に巻かれた包帯に触れる。すると、包帯ははらりと解かれて、床に落ちた。ロクの右目が顕になる。雷が走ったよう切り傷がある瞼の下、その赤い瞳の中では、"五芒星"が輝いていた。
 ロクは興奮のあまり、身を乗り出そうとして、コルドが慌ててそれを差し止めた。ロクは、拘束されていることも忘れて不格好にもがきながら、声を張りあげた。

「どうして、レト、──あなたが知ってるはず、ないのに……!」

 まっすぐにレトの横顔を見ていた、しかし彼は振り返る素振りもなく、つかつかとセブンの目の前まで歩いていった。

「神族だからってなんだ。根拠のない憶測を掲げて、寄ってたかって責め立てて、そっちこそなんのつもりだ」

 そしてセブンの襟元を乱暴に掴んで引っ張り、額がつきそうな至近距離まで寄こすと、憤怒を抑えきれない剣幕で口早に言った。

「"心を操ってない"ってロクは言ってるだろ。第一、いま俺たちが対立してるのが、心を操ってないなによりの証拠だ! 俺がロクの立場で、もしも人間が憎いなら、まず心情の神だと明かさない。思い出した記憶は一部だけと嘘をついて、ひそかに全員の心を「自分への好意」にすり替え、操りやすくするほうがよほど賢明だ。ここで隊の人間同士を対立させることに利はない! そんなくだらねえことに時間を使ってねえで、もっとほかにやるべきことがあるだろ!」

 セブンは、自身の襟元を捕まえているレトの手首を一瞥し、それから強く圧迫し返して、乱暴に引き剥がした。すぐに、悠長に襟元を整えて、なかば呆れたような息を吐いたのちに、冷たく言い放った。

「そうか。君はすでに洗脳されているようだな。心の神に」

 それを聞くや否や、レトの目頭はさらにかっと熱くなった。そして前のめりになって、セブンに近づこうとしたとき、彼の剣幕が一層鋭くなったのを見たニダンタフが、レトが次元の力を発動させる気ではないかと恐れて、周囲に言い渡した。

「だれでもいい! 彼を止めろ! 危険だ!」

 懸念は伝播し、援助部班の男隊員たちが颯爽と動きだした。レトの腕や胴を捕まえて、必死に抑え込む。しかしレトは止まらなかった。捕まえてきた隊員たちを引き剥がそうともがき、そして荒々しく殴りつけ、肘を打ちこみ、暴れ、ついにはより強い力で押さえつけられてしまった。彼は、病み上がりで、すでに身体中が汗でびっしょりと濡れていた。けれど、なにもかもを押しのけてでもセブンに掴みかかろうと必死だった。セブンだけではない。手あたり次第に、視界に入る人間すべてに、言ってやりたいことが山ほどもあった。
 
「なんでロクのことを信じてやらない! この中のだれかを傷つけたことがいままであったか? 突然降って湧いた薄っぺらい事実だけを見て、裏目ばかり気にして、なんでロク自身を、あいつがいままでしてきたことをだれも見ないんだよ。ちゃんと見ろよ! ロクはちゃんとあんたたちに向き合おうとしてるだろ! 話をする気がねえのはあんたたちだ!」

 こうなってはもはや、事態の収拾はつけられそうもなかった。動揺と困惑、不安などの感情が、声にもれずとも部屋に充満している。ふたたびの仕切り直しも利かないだろうと、セブンは早々に判断していた。
 セブンは、区切りをつけるために、レトを取り押さえている男たちに向かって言い渡した。

「レトヴェール・エポールを部屋の外へ。彼は心情の神ハルエールによって気が狂わされている可能性が高く、正常な会話は不可能と判断する。上官命令により彼を自室にて軟禁処分とする。ニダンタフ班長、少々班員をお借りします」
「構わない。ハルエールは地下だ」
「はい」
 
 強引に部屋から締め出されたレトが、その去り際までも、まだ言い足りないような不満な顔つきをして、セブンを睨んでいた。
 続いて、コルドの先導のもとロクが退室したのだが、ロクは、義兄とは反対に大人しくなっていた。でもそれは、ただ呆然としていただけにすぎなかったかもしれない。

 義兄妹が二人とも部屋から退室すると、室内にはまた、しんとした静寂が帰ってきた。だれも口を割らないうちは、空気の重さが嵩んでいくような心地だった。
 窓の外からは、しとしとという雨の音が聞こえてきていた。数日が経っても、エントリア近隣の空には暗雲がたちこめていた。
 
「雷雲が去ってもまだ、雨は降り続いているな」

 セブンは長机に腰かけていたのだが、ラッドウールと目が合うと、合図を受けた。彼の目つきは解散の意を告げている。セブンが頷いて、浅く息をつくと、研究部班の班員が着ている白い制服が視界の端に映った。セブンもラッドウールもそちらに顔を向ける。
 
「あのう、今日はもう、解散、でしょうか……」

 おずおずとやってきたのは、髪が短く天然で縮れていて、鼻の先から頬までそばかすを散らした、長身の女だった。背が高いわりに腰の低い彼女は、会議中もまったく発言をしておらず、置き物のように座っていただけだった。見慣れた顔ではないが、セブンは彼女のことを知っていた。
 先の次元師増加実験の事件で、各班の副班長が全員席を明けたので、新しい副班長が選任された。此花隊が次元研究所と呼ばれていた時代から組織の顔となってきた花形の部門、開発班の副班長となったのが、彼女だった。
 
「ああ、そうだね。また後日、招集をかけると思うけれど。今日は解散だ。くれぐれも、会議の内容は他言しないように。改めて隊長の口から周知をされるだろう。ご苦労様、開発班のユーリ・ファンオット副班長。ときに、ハルシオ・カーデン班長殿は、こんな大事なときにも不在にして、いったいどこにいるんだい。なにか聞いている?」
「す、すす、すみません。班長はいま、南東部の、離島に足を運んでいると聞き及んでいます。手紙を送ってみたところ、近々本部に帰還すると返事がありました。あと数日もすれば、帰ってくると、思うのですが……」
「へえ。さすがの彼も、事態の深刻さは受け止めてくれるようだ。隊の内情には一切興味がなくとも、神族の話には食いついてくれるといいのだけどね」

 セブンはそう言ってから、片手をあげた。ユーリはぺこぺこと、余計なくらいに礼をしてから、及び腰で、すこしずつ扉のほうへと向かった。ほかの隊員たちもお互いに目を合わせて、ぞろぞろと部屋を出て行く。
 
「隊長、すこしよろしいですか」

 セブンがラッドウールを引き留めているのを横目にしながら、チェシアも退室した。
 やがて、室内から人がはけると、セブンは口を開いた。彼は、会議中に見せた厳しい口調に戻っていた。

「引き続き、ロクアンズ……。いいえ、神族【HAREAR】の監視と、情報収集を急ぎます。これまで彼女は一切口を開きませんでしたが、今日の様子から、会話は可能と判断します。ただし、彼女への心象操作が行われている懸念を拭う手段はありませんので、彼女から得られた情報の正否の判断は慎重に行うつもりです」
「今日のお前はらしくもなく、直情的だったな」

 指摘を受け、セブンは言葉に詰まった。そして強張っていた肩の力をいくらか抜くと、静かに息をついた。

「……。自分で思っている以上に、ハルエールという存在に、動揺したのかもしれません。しかし、班の長の動揺は、班員にも影響しかねない。戦闘部班の面々が、もっとも困惑しているはず。私がしっかりと監督し、隊の内部が荒れて取り返しがつかなくなるような事態とならないよう、細心の注意を払っていきます。……隊長は、彼女に対して、どのようにお考えで」

 ラッドウールは、思い返せば、まともに顔を合わせたのも入隊時の挨拶が最初で最後だった。しかし外では、よく義兄妹の噂を耳にした。お転婆で自由奔放、行く先々で問題を起こす、世話のかかる二人の次元師がいるらしい、と。とくにロクの行動は突拍子もなく、海を渡った隣国アルタナでまさか国王の面前で啖呵を切ってきたと報告を受けたときには、さすがのラッドウールも関心を覚えた。そんな彼女の表情が、今日は、記憶していたよりもずっと変わっていたが、ラッドウールは、彼女の顔が別人のようだとは思えていなかった。

「彼女が、なにかを言いたそうであったのは、間違いない。機会を見計らい、対話をしろ」
「……は」
「ここも長くは滞在しない。一時、イルバーナ侯爵の好意に甘んじているのみ。すぐにでも撤退しなければならない。考えはあるか」

 本部を構えていた旧王都エントリアは、都としての機能を完全に失い、時を止めたように沈黙してしまった。
 もちろん本部も、元魔の襲撃や、周辺の建物の倒壊に巻きこまれ、いまや見る影もない。その本部と遜色のない規模で、長期にわたって滞在が許される新たな拠点を探そうとしているが、なかなかすぐには見つからなかった。そのうえ、エントリアの復興作業や、街からの避難民の支援を引き続き行なっていくとなると、そう遠くへは移動できない。新たな拠点の調査は長期戦が見込まれている。
 セブンは顎に手を当て、考えこむような仕草をした。
 
「一応……あるにはありますが、少々手強い相手と、交渉が必要です」

 セブンはそう言って、肩を竦めた。ラッドウールは一言、「任せる」とだけ言い渡すと、部屋をあとにした。新たな拠点の調査ははたして戦闘部班班長の仕事だろうかと一度文句を言うべきか考えたが、やめた。セブンは幼少の時分から、故郷のベルク村で散々ラッドウールの小間使いをしてきた経験が根強いうえに、隊長補佐として飛び回っていた感覚も抜け切っていない。よって、言いつけられればたいていの命令には反射的に頷いてしまうのだった。

 一人になると、つい先刻までの喧騒がまるで嘘みたいに、窓を叩く雨の音が鮮明だった。
 並べられた長机の一端に腰をかけて、セブンは独り言ちた。

「あの二人は近いうちに、僕どころか、国中を驚かせる」
 

 メルギース歴531年6月。神族および元魔の襲来により、旧王都エントリアの街の時計台の針が止まった。重軽症者は二千を超え、死亡者は数百人にのぼる。しかし人々は、足を止めてはいられなかった。その街で生きた、死に果てた、多くの人々の命を背負っている。たとえまだ雨が降り続いていても、晴れ間を目指して歩くよりほかに涙を乾かす方法もないのだから。
 まだそれも教わっていない、小さな赤子だけが、母親を求めて泣いていた。

 
 歯車の動き出す音が、どこからともなく聞こえていた。
 
 
 *「時の止む都」編 終